自由法曹団通信:1154号        

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中村 欧介 葛飾マンションビラ配布弾圧事件報告
渥美 玲子 岡谷鋼機女性差別事件
山内 康雄 木下元二団員を追悼する
齋田  求 刑事司法研究会報告
坂 勇一郎 「敗訴者負担」反対運動を振り返る(総括に替えて)
神田  高 「三鷹九条の会」発足す




葛飾マンションビラ配布弾圧事件報告

東京支部  中 村 欧 介

1 事件の概要と経過

 すでに報道その他でご存知の方も多いかと思うので事案説明は簡略にとどめる。

 昨年一二月二三日、日本共産党発行の区議団だより等を七階建て分譲マンションの各戸玄関ドアポストに配布していた男性が住居侵入罪で逮捕された。住民の通報によりパトカー二台が駆けつけ、亀有署に連行された後で、男性は住民である「私人による現行犯逮捕」がなされたと聞かされた。

 逮捕翌日に東京東部法律事務所から私を含む三名が接見して弁選を得て、他の弁護士も交代で接見に赴ける体制を取った。ただ、勾留及び勾留延長の末、本年一月一一日男性は住居侵入罪で公判請求された。弁護団は手を尽くしたものの、即時釈放・不起訴獲得という起訴前弁護の成果をあげることは出来なかった。なお、同月一四日保釈決定がなされた。

2 地検・地裁の対応

 勾留請求日は土曜であったが、宿直ではなく当初から公安部検事が担当した。この検事は、自衛隊官舎ビラ事件・板橋高校事件をすべて担当したいわく付きの人物である。検察側の構えは推して知るべしである。

 勾留裁判官は「二度」にわたり男性を呼んで勾留質問をした結果、一〇日間の勾留決定をした。その際、検察官の請求した接見禁止処分は退け、勾留理由も罪証隠滅のおそれ(二号)のみに限定された。二度の勾留質問の間に如何なるの力学・匙加減が加わったにせよ、小才子とも評すべき裁判官の決定である。

 検察官面会・裁判官面会・勾留理由開示公判・準抗告棄却決定から明らかとなった本件での、当局による身柄拘束正当化の理屈は以下のようなものであった。

 すなわち、まず(1)本件が組織的に敢行された事案であることが窺える、にもかかわらず、(2)立ち入りそのものは認めつつそれに至る経緯や政治活動上の関係者等の背景事情については供述を拒否していることからすれば、(3)釈放すれば関係者に働きかける等して組織性に関して罪証隠滅を図るおそれがある、というものであった。端的に言えば、公の政党発行のビラ配布行為に対し、「組織的犯罪」との烙印を押したわけである。

3 今後の対応

 裁判では、住居侵入罪の構成要件論から違法性論、男性の政治的表現の自由に議員活動に対する不当な制約(ビラ発行には区から政務調査費が支出されている)といった憲法論まで、多岐にわたる論点が想定される。当然のことながら学者との連携を含む弁護団拡充が必要である。同時に、言論の自由の重要性という、憲法を学んだ者にとってはあまりに当たり前のことを、改めて広く市民に訴えていく努力も欠かせないと考えている。

 「住民のプライバシーへの配慮」や「見知らぬ人間の立ち入りを知った住民の不安感」。これらは公判請求を受けて行った司法記者クラブでの会見での質問中も出された反対利益の代表である。しかし、居住者との面談や居住者情報の探索を伴わない単なる配布行為にどれほどのプライバシー侵害があるか疑問であるし、不安感は事後的に払拭可能である。

 官憲による身柄拘束と刑罰の威嚇を以て言論を規制することに伴う萎縮効果が回復困難なものであることに思いをいたせば、いずれを優先すべきかは明らかであろう。

いずれにせよ、「住居侵入罪での私人による現行犯逮捕」という新手が用いられることに十分警戒しつつも、「物言えば唇寒し」のレベルでは済まない言論弾圧の暗黒が迫りつつある現実に警鐘を鳴らし、怯むことなく言論の自由の尊さを真剣に訴えなければならないと考える。


岡谷鋼機女性差別事件

愛知支部  渥 美 玲 子

1、事件の概要

 昨年一二月二二日名古屋地方裁判所にて女性差別事件の判決がでた。とは言っても住友電工や野村證券、兼松などの全国的大企業とは異なり、「岡谷鋼機」の知名度がないため、他の女性差別事件とは違ってこの判決はあまり注目されていない。

 岡谷鋼機は「岡谷市にある鉄鋼製造会社」ではなく、寛文九年(一六六九年)に「岡谷家」が創立した超老舗で、名古屋市に本社をおく鉄鋼関係の専門商社だ。トヨタ自動車など鉄関連の製造業が主となっている愛知県において、同社の販売先・仕入先いずれも一流企業ばかりで非常に安定した取引状況である。旧東海銀行や松坂屋、中部電力などとも深い関係があって名古屋経済界の重鎮であり、日経連の常任幹事等の役職も引き受けていた。質実剛健を旨とし、不況にもかかわらず一九九五年一二月に上場した。また社風は保守的で「鉄は男の世界」という風潮が強く、男性役員は「岡谷鋼機で働けて男冥利に尽きる」と宣伝パンフレットで書いている。ちなみに原告の女性は「だから女は下女なの」と自嘲気味に言う。ちなみに岡谷鋼機では女性の役職は創立以来現在まで全くのゼロであり、一九八八年以降、職掌転換できた女性は現在までわずか二人である(しかもこの二人は原告側証人である)。

 事件は、一九九五年一二月二二日に在職中の光岡(昭和四二年入社)と退職した藤沢(昭和三七入社)の女性二人がコース別雇用制度など女性差別政策の違法性を主張し、賃金差額請求、退職金差額請求、弁護士費用、総合職への地位確認(提訴時・総合職管理職二級、結審時・総合職S四等級マネージメントコース認定者の地位)などを求めて名古屋地方裁判所に提訴したことに始まる。

 証人尋問など事実審理は提訴後五年ほどで終了したが、担当裁判官の度重なる交代(裁判長は四人目)、和解交渉、論点整理などで約三年以上費やした末、二〇〇四年四月一四日に結審し、八ヶ月後の同年一二月二二日判決がでた。奇しくも提訴の日であった。原被告とも控訴し、現在名古屋高等裁判所に係属している。なお、弁護団は、坂本福子(東京)、原山惠子、西尾弘美、渥美玲子(主任)の四名。

2、判決について

 原告らの主張は、「一九八八年六月に会社は労働組合の反対を押し切ってコース別雇用制度を導入し、男女とも同じ労働契約(名称・一般職)でありながら、女性に対しては「事務職」に全員配置し、他方男性に対しては全員「総合職」に配置した。このことで昇進昇格賃金退職金などあらゆる分野において女性は差別された。この差別は労基法四条、憲法一四条、民法九〇条、差別撤廃条約などに違反しており、無効である」というもの。

 これに対し、被告会社は「原告女性が採用された昭和三七年から昭和四〇年代は、女性と男性とは、当時に社会通念上、もともと異なる職種「女子一般職」「男子一般職」として区別して採用していたのであって、コース別雇用制度導入によって呼称を変更したに 過ぎない」と反論していた。

 これらの主張に対して判決は、すでに退職した藤沢については請求を全部棄却し、在職中の光岡についてのみ平成一一年四月以降の慰謝料として金五〇〇万円(これに弁護士費用五〇万円が加算されるが)のみ認め、その余はすべて棄却するというものである。

 その論旨にはなんら目新しい点はなく、もっぱら住友電工事件、野村證券事件、兼松事件の各判決で書かれている論理展開がそのまま採用されており、あたかも他の判決そのものがコピーされて印刷されていると間違うばかりであった。

3、問題点

 憲法一四条や民法一条の二、民法九〇条、均等法などの法律的な問題点については他の女性差別事件においてすでに詳細に紹介されているので、ここでは割愛する。私が一番問題視したのは、本判決は事実に基づかない判決であり、証拠を無視したものとして司法の自殺であるということである。

 本件原告はもっとも主要な争点として、男女での労働契約の同一性を主張してきた。つまり、原告らが入社した当時から女性も男性と同様の「一般職」つまり非現業職として採用されたのであって、「一般職以外の特務職・運転職・保安職」つまり現業職ではなかったと主張して、多くの証拠を提出した。

 原告らが入社した当時の就業規則(と同様な文書)や社員名簿など公にされた文書にはすべて「一般職」「一般職以外」という規定しかなく、男女別の規定は存在しない。また転勤規定も全社員に適用されるものしかなかった。このように男女別での労働契約内容の違いを明示するような文書は一切なかった。また、採用方法も四大卒と高卒の相違はあるものの、大卒男性は全員面接のみ、時には縁故採用もしていたこと、採用の担当者も同じ人物であったと突き止めた。労働組合執行部を経験した元社員の男性は、労働組合としては賃金の女性差別を問題としていたが、それが労働契約上の違いであるとの認識はなかったことを証言してくれてたし、さらに、元社員の男性は営業部門においても女性と男性とでは業務の実態に違いはなかったと証言した。このように証拠上は男女で同一の労働契約であることは明かであった。

 ところが裁判所はこれらの原告側の出した証拠をほとんど無視して、入社当時から男性と女性とは別個の労働契約を締結したと認定した。その証拠として主に会社側の陳述書、丸秘とされた男女別賃金表などをあげた。会社側の陳述書は、一つは、原告らの入社当時の採用手続を延々と書いたものであるが、書いた人物は昭和三八年に入社した男性で営業部門で働いており、昭和三七年、昭和四二年当時の採用手続の実態など知る立場にはなかったし、その陳述書にはそれを裏付ける資料は何一つ引用されていない。また、もう一つの陳述書は営業部門における取引の流れと男女の業務の違いを書いたものであるが、書いた人物は入社以降主に管理部門で働き営業に従事した経験はなく、営業部門の実態を知る立場にはなかったのである。また裁判所が引用した賃金規定内規には確かに「男子一般職」と「女子一般職」の用語が書かれており男女賃金格差が書かれてあるが、この文書には丸秘の印が押してあり、鍵のついた書庫に厳重に保管してあって、社員は見ることができない仕組みになっていた。現にだれも知らなかった文書であって、おそらく裁判を起こしていなければ社員の目に触れるものではなかった。

 このように裁判所は、虚偽の作文ともいうべき会社の陳述書と社員に隠していた男女別賃金表を理由に、一番重要な事実、つまり当初から労働契約の内容が男女で異なっていたことを認定してしまった。一体、労働条件明示義務はどこに行ってしまったのだろう。労働契約は合意によって成立するという基本はどこにあるのか。そのうえ、原告が女性差別として主張した新入社員研修の差別を、むしろ男女での労働契約の違いの認定に利用した。本当に許し難いことである。

 法律の解釈にはいろいろあろうが、それはきちんとした事実認定を前提にするべきである。事実認定の段階から証拠を無視し、一方に片寄った認定をしているようでは、もはや司法の自殺としか言えないと思う。まして本件においては「労働契約の内容を確定する」という労働事件の出発ないし根幹にかかわる問題であって、こんないい加減な認定がなされるようでは本当に不安だ。

 原告二人そして弁護団も引き続き頑張りますので、ご支援下さい。


木下元二団員を追悼する

兵庫県支部  山 内 康 雄

 木下元二(もとに)団員が、昨年一二月三日、七五歳になられたばかりで急逝された。木下さんは、一一月二一日の日曜日の昼間、県庁近くの事務所で事件準備中にくも膜下出血で倒れた。帰宅が遅いのを心配した奥様があちこちに問い合わせたうえ、夜遅く念のため事務所まで見に行かれ倒れているのを発見された。救急車で神戸市立中央市民病院に運ばれたが、既に意識は全くなく手術も手遅れの状態であった。ご家族全員が交替で看護を続ける中、そのまま帰らぬ人となった。木下さんの遺志とご家族の意向で、葬儀は親族身内のみで無宗教でなされ、訃報のお知らせもご家族のご希望で葬儀後とさせていただいた。私を含め数人の親しい団員だけは、病院にお見舞いに行き、奥様から事件処理の相談もいただいていたが、葬儀出席はご遠慮させていただいた。

 木下さんは、兵庫県における戦後の団員第一号であった。一九二九年神戸市で生まれ、私立六甲中学を経て立命館大学専門部法政科を卒業、二年間神戸市立中学の教員を勤めた後、司法試験に合格し第八期司法修習生となり、一九五六年四月に神戸弁護士会(当時)に登録した。当初は、主として海事関係の仕事をされておられた父木下敬和弁護士の事務所で一緒に仕事をされておられた。しかし、いわゆる市民派事件だけでは納得せず、働く人々の権利擁護をめざして一九五八年に独立、木下元二法律事務所を開設された。戦前からの先輩団員である井藤譽志雄、竹内信一両団員とともに、労働事件、公安事件などに全力で取り組み、一九六七年四月兵庫県における「労弁」の中核となる中神戸法律事務所を創設した。

 木下さんは弁護士会でも活躍された。一九六九年度には、神戸弁護士会の副会長も務めた。北山六郎会長(元日弁連会長)のもと、元原利文副会長(元最高裁判事)らとともに会務も立派にこなされた。木下さんは、「弁護士会が憲法秩序と人権を擁護する観点から、より強力、実効的名社会的発言をし、国の施策や立法に対して批判もしくは要求をする諸活動を行うことの重要性」を会員に訴え続け、多くの支持を得た。

 こんな木下さんは、各方面から押されて政治活動に転身することになった。そのため兵庫県総評の中核的事務所となっていた中神戸法律事務所を離れ、再び木下元二法律事務所を開設した。その後、尼崎市の阪神合同法律事務所(現)に籍を移して、ついに一九七二年の総選挙で兵庫二区(当時、尼崎・西宮・芦屋・宝塚・三田などの阪神間と淡路島)から日本共産党の候補者として初当選している。このときは現兵庫県弁護士会の党派を超えた多くの支持が集まった。ちなみに私は、木下さんが抜けた後の木下元二法律事務所に翌一九七三年に入所している。

 木下さんの選挙区は、あの土井たか子(現社民党)と同じであり、また公明党も盤若に強く全国有数の激戦区であったので、選挙は当選落選の繰り返しで苦労をされていた。そして、一九七九年の二回目の当選後の議員活動を経て政界から退いた。

 その後木下さんは、三宮で個人事務所を開いて市民事件を熱心に処理しておられたが、あの阪神淡路大震災で事務所のビルも被災し退去を余儀なくされ、県庁近くに事務所を移した。しかし、持ち前の性格が表に出て、華僑の家主がこっちも被災者だとして高額の敷金をまったく返還しようとしないことに立腹、ビルのテナント賃借人の中心となって交渉したが、らちが明かないとして、数人の賃借人とともに私に敷金返還請求訴訟の代理人を依頼してこられた。

 そんな次第で、木下さんの団員としての活動歴は必ずしも長かったとはいえないが、私の記憶に残るもっとも団員らしい活動は、あの「八鹿高校事件」のきっかけとなるその一月前に発生した朝来暴力事件における活躍である。

 一九七四年の一〇月、「解同」朝田・丸尾派による南但馬の各学校に対する確認糾弾闘争を不当な教育介入で人権侵害だと批判していた兵庫県教職員組合朝来支部支部長の橋本哲朗氏が、解放教育を妨害する差別教師だとして、自宅で親子三代の家族もろとも一週間にわたって数百人の同盟員に包囲監禁された事件で、木下さんは国会議員として日本共産党の調査団を組み、県会議員や町会議員とともに橋本宅に調査に赴いた。ところが、調査団もろとも橋本宅に監禁されてしまったという事件である(木下代議士監禁・業務妨害事件)。このとき、あわてた県警の現地対策本部長であった地元の和田山警察署長が、木下さんだけは解放すると「解同」と話がついたので退出してほしいと申し入れてきたが、木下さんは、「解同」が橋本宅全体の包囲監禁を解くまでは私は出ないと押し問答をして頑張っていた。しかし結局、国会議員としての活動を優先するために橋本宅を後にせざるをえないという出来事があった。このため起訴された木下さんの事件の監禁被害時間はその分短縮されてしまっていたのである。

 木下さんは、政界引退後は、市民派個人事務所で頑張っておられたが、いろんな事情があって、久しく団の会合や催しなどからは遠ざかっておられた。私が、木下さんが亡くなられる半月ほど前にお会いしたとき、そろそろ団の会合にも出て下さいとお願いしたところ、それでは新年会には出てみよう快く言われていたばかりの逝去である。そんなこともあって、個人的にも極めて残念である。謹んでご冥福をお祈りしたい。


刑事司法研究会報告

事務局次長  齋 田  求

 先の司法制度改革の一環として刑事訴訟法が改正され、本年一一月から改正法が施行されることから、各弁護士会においても勉強会が行われるようになってきていますが、これに先立ち、団本部においても、二〇〇四年一一月五日に団本部及び司法民主化推進本部主催の刑事司法研究会(第一回)が開催されたので報告します。なお、参加者は国民救援会等を含め二〇名でした。

 この研究会は、改正法のポイントである公判前整理手続や証拠開示、開示証拠の目的外使用禁止等について、実際の運用を前提とした留意点、問題点等を確認することを目的としたものですが、実際の運用という点からは日弁連で刑事司法を担当する団員の報告が非常に興味深いものであり、これをもとに様々な意見交換がなされました。

 上記報告で最も参考になったのは、改正法施行後の刑事弁護においては、証拠開示が非常に有効であるということでした。すなわち、これまでに認められていた証拠開示(争点関連証拠開示。改正法三一六条の二〇)が要件の点で一歩前進しただけでなく、これに加え新設された「類型証拠開示」(類型に当てはまればほぼ無条件で証拠開示が認められる証拠開示。改正法三一六条の一五)は、被告人側の主張提示前に証拠開示を認める点で非常に有効な防御方法であるということです。そして、この類型証拠開示が認められるのは、客観的証拠、証人予定者(供述調書が不同意とされたものも含む)の供述録取書等、被告人の供述録取書等、取調状況記録書面にであり、これらが被告人側の主張提示「前」に開示されることにより、被告人側は適切な弁護方針を立てることに役立てることができます。

 また、上記報告の中には、開示証拠の目的外使用禁止違反について、弁護人(弁護人であった者)に関しては「利益を得る目的」がない限り刑罰の対象とならないし、法令違反(二八一条の四第一項)に基づく懲戒の点については、二八一条の四第二項の解釈で対応できるとの指摘もなされました。

 この点、上記に対しては、国民救援会の立場から、改正刑訴法(及び裁判員法)二法(案)はあるべき刑事司法改革をめざすものではなく、国民の裁判批判を犯罪視するもの、法廷での弁護活動そのものを無力化させようとするもの、との意見が出されたました。また、ある程度法律論としては克服できたとしても、これまでの刑事裁判では多数の支援者が傍聴している状況で証拠の採否が決められるからこそ不当な証拠決定が抑制されてきたという面もあるのではないか、という運動論として重要な指摘もなされました。

 また、実際に改正刑訴法の前倒しとして公判前整理手続、証拠開示命令がなされている堀越国公法弾圧事件弁護団員から、これまでの経過、証拠開示の方法、内容について説明がなされました。

 研究会では、これらの報告等を前提に、(1)裁判員裁判以外の事件での公判前整理手続きの採否、(2)開示証拠の目的外使用禁止の限界、(3)公判前整理手続きにおける任意性判断、(4)捜査の可視化等の積み残し問題等について議論がなされ、参加者は改正法につき理解を深めることができました。

 確かに、裁判員法、改正刑訴法については、手放しで喜べない部分も多々ありますが、事態が現実の運用段階に進んでいく以上、我々も十分に研鑽し、被告人の利益を損なうことのないよう努力すべきであると思われます。司法民主化推進本部としては、このような観点から今後も研究会等を企画していく予定ですので、上記研究会の報告をさせて頂くとともに、今後の企画への各団員の積極的参加を呼びかけさせて頂きます。


「敗訴者負担」反対運動を振り返る(総括に替えて)

司法民主化推進本部  坂  勇 一 郎

 昨年一二月三日、敗訴者負担法案が廃案となった。二〇〇〇年一一月二〇日に司法制度改革審議会の中間報告において制度の提言が盛り込まれて以来、約四年にも及ぶ闘いであった。私自身は、主として司法制度改革推進本部設置以降の後半二年間、この問題に取り組んできた。総括に替えて、この後半二年間を振り返りたい。

 後半二年間の取り組みの特徴は、何といっても日弁連と市民運動が連携して運動を展開してきた点にある。敗訴者負担に反対する全国連絡会は二〇〇一年一月より活動を開始し、継続的に運動に取り組んできていたが、二〇〇二年九月日弁連に敗訴者負担問題対策本部が設置されて以降、日弁連も本格的かつ積極的に反対運動に取り組んできた。

 後半二年間の運動はさらに司法制度改革推進本部司法アクセス検討会を主たる闘いの場とした二〇〇三年一二月までと、その後の国会を主たる闘いの場とした廃案までの期間に分けられる。この二つの時期は合意論登場までの期間と合意論反対の期間にほぼ対応する。

 この間、日弁連と市民団体は、基本的方向性は一致しつつも異なる方針を掲げて運動を展開してきた。すなわち、合意論登場以前の時期においては、日弁連は「市民の司法アクセスを訴害する敗訴者負担」に反対し、市民団体は敗訴者負担制度の導入に全面的に反対してきた。合意論登場後は、日弁連は「事前合意を無効とする修正」を求め、市民団体は「法案の廃案」を求めてきた。日弁連の方針は、その運動をさまざまな意見に配慮しつつ進める必要があり、また、法律専門家の立場から論戦を展開しなくてはならなかったということによるものであり、他方、市民団体の方針は運動を広げる観点から解りやすさ、広げやすさが求められたことによるものであったと思われる。

 こうした日弁連の運動と市民団体の運動の結節点として、二〇〇三年一月より三二回の開催を重ねた「司法アクセスを阻害する弁護士報酬の敗訴者負担に反対する各会懇談会」は、極めて重要であった。この各界懇で、日弁連・市民団体がお互いの情報と経験を交換し合ったことにより、それぞれが補い合いつつ有機的に運動を展開することができたと思う。

 この間の首都圏における主な活動経過を振り返れば、次のとおりである。

二〇〇二年 九月一〇日 全国連絡会市民集会(約二五〇名)。

二〇〇二年一一月二二日 日弁連集会(約八〇〇名の参加)。

二〇〇三年 一月二九日 全国連絡会デモ行進(約二五〇名+三〇名)、国会内集会(約一五〇名)。

二〇〇三年 三月 八日 全国連絡会市民集会(約三〇〇名)。

二〇〇三年 五月三〇日 日弁連一〇〇〇名パレード(弁護士・市民約一三〇〇名)。

二〇〇三年 七月二八日 全国連絡会・司法総行動共催シンポジウム(各団体から約八〇名)。

(司法制度改革推進本部パブリックコメント)

二〇〇三年一〇月二三日 日弁連シンポジウム(約一〇〇名)

二〇〇四年 二月二四日 全国連絡会主催、国会内集会(市民・国会議員約一四〇名)。

二〇〇四年 五月二〇日 日弁連市民集会(市民・弁護士・国会議員約三〇〇名)。

二〇〇四年 七月二一日 全国連絡会・風の会・司法総行動共催、決起集会(約五〇団体が参加)。

(日弁連パブリックコメント)

二〇〇四年 九月二八日 日弁連市民集会(約七〇〇名)

二〇〇四年一〇月一二日 全国連絡会国会内集会(約六〇団体)

 上記の他にも各地で、さまざまな集会等が取り組まれた。

 こうした時々の集会・パレード等の活動の下地となったのが、日弁連・市民団体がそれぞれ取り組んだ署名(一一四万筆)、推進本部パブリックコメントへの取り組み(五〇〇〇件超)、日弁連パブリックコメントへの取り組み(一万二六〇〇通超)、国会請願署名(四万六〇〇〇筆)等であり、また、司法制度改革推進本部前の毎回の検討会当日の宣伝行動、推進本部への申し入れ、国会要請行動等であった。この間、市民団体の運動は全国連絡会の運動が先行し、これに司法問題全般の課題に取り組んできた、風の会・司法総行動の運動が合流する形で展開してきた。消費者団体が多数参加する全国連絡会、公害環境団体が多数参加する風の会、労働団体が多数参加する司法総行動等、各市民団体もまたそれぞれの特性を生かして取り組みを行ってきた。こうした市民団体はまたさまざまな団体により構成されていたが、なかでも、特に、毎回の司法アクセス検討会前の宣伝行動に多数参加した東京大気汚染公害訴訟原告団のみなさんは、今回の運動をもっとも根底のところで支えた力であったと思う。私は、主として首都圏近辺の運動を目の当たりにしてきたが、日弁連の呼びかけにより、全国でさまざまな運動が展開された。このことは、各地の集会等の開催や全弁護士会で敗訴者負担反対の決議があげられたことにも表現されている。

 振り返って、合意論が登場したあたりがもっとも難しい時期であったかと思う。この時期に、日弁連会長をはじめとして日弁連執行部が各界懇談会に出席し、そこで市民団体と日弁連との間で率直な意見交換ができたこと、そこにおいて日弁連と市民団体がそれぞれの立場に応じた方針を認め合えたこと、双方の方向性の一致を確認し合えたことが、その後の展開を決したのではないかと思う。

 ともあれ、今回の法案廃案の成果は、率直に喜びたい。

 運動に取り組んできたみなさん、ご苦労様でした。そして、ありがとうございました。


「三鷹九条の会」発足す

東京支部  神 田  高

 −沖縄総会の壇上から「三鷹市で九条の会を立ち上げる」と豪語しましたが、その顛末を報告していなかったので、遅ればせながら通信を送ります−

 昨年一一月二〇日、三鷹市公会堂で四〇〇名余の参加を得て「三鷹九条の会」が発足した。当日は、市民運動のリーダーの一人である女性のよびかけ人挨拶のあと、アニメ監督の高畑勲氏、パントマイミストの松井朝子さんのメッセージ紹介、新婦人の有志を含め沖縄の踊り、高校生による「やさしいことばで日本国憲法」の前文朗読、掛けあいの「お郷ことばで憲法九条」とつづき、ちひろ美術館の松本由理子さんの記念講演がおこなわれた。松本さんは、いわさきちひろの絵をスライドで上映しながら、ちひろの平和への願いを語ったが、ちひろが語っているかのようなリアリティにとみ、大変好評であった。全体として、改憲攻勢の中で憲法擁護の思いを共有し、連帯を求める気持ちが一つなった充実した集会となった。その成果は、当日のカンパが約一三万円も集まったことにも表れている。「三鷹九条の会」結成に向けた取り組みは、井上ひさしさんらの「九条の会アピール」が発表された後の七月下旬から準備がはじまり、九月以降五回の実行委員会をもち、よびかけ人をつのり、賛同者を募集し、発足講演会の参加の取り組みを全市的におこなった。会結成の目的・方針は、「九条の会アピール」への賛同を三鷹市全市民を対象によびかける、そのために幅広いよびかけ人をつのり、参加は個人とすることにした。会結成の意義などについては、地域新聞の取材にこたえたインタビュー記事があるので、以下に転載し、紹介したい。

 日本を「戦争をする国」にするため憲法九条を変えようという動きが強まるなかで、三鷹に「九条の会」が発足しました。一一月二〇日にひらかれた発足講演会が四〇〇名余の参加者で大きく成功した要因は何か。「三鷹九条の会」事務局の神田さんに聞きました。

 三鷹に「九条の会」が発足したことの意義をどう評価していますか?

 神田 まず四〇〇名余りの人々が「発足講演会」に参加してくれたことに感謝したいと思います。憲法九条を守る運動というのは、問題の性格からみて六〇年安保以上のたたかいにしなければいけないと思うんです。大江健三郎さんや井上ひさしさんら九人のよびかけ人の方々が全国各地で講演会をひらき数千人が集まり大成功しています。これは素晴らしいんですが、いずれも一〇〇万人以上の大都市です。ほんとに草の根の運動にするには人口一〇万人規模の都市で九条の会ができ、全国にひろがることが必要だと思うんです。その意味で人口一七万人の三鷹市で九条の会ができたことは誇ってもいいかなと思っています。

 集会の内容については?

 神田 内容の評価は参加者がすることですから、寄せられた感想文(後記)をよんでください

 主催者はどんな人たちですか?

 神田 三鷹市は無党派の人の割合が多く、著名な文化人・知識人など人材も豊富でさまざまな市民運動の歴史があります。革新市政の伝統もあって、五月には市の公会堂で憲法集会が開催され、市民が企画運営に参加しています。今回の「九条の会」の発足はそうした土壌と切りはなしては考えられません。実行委員会の参加者の顔ぶれにもそれが反映しています。特徴的なことは、政党レベルで無所属議員や共産党など超党派の参加が得られたこと、市民運動のリーダーや著名な文化人・知識人が参加してくれたこと、イラク反戦運動で活躍した青年が参加したことなどですね。じつは、缶バッチの発案はその青年(女性)なんです。

 集会にはどんな思いでとりくみましたか?

 神田 私たちは集会準備のなかで二つの観点をつらぬきました。一つは、集会そのものを成功させることです。内容的に良いものにしたい。規模も会場がガラガラでは意気が上がりませんので人集めも必死でした。もう一つは、改憲のうごきが強まるなかで憲法九条を守る運動の存在 を全市民に知らせることです。マスコミが運動を無視し報道しないので、そのことをとくに重視しました。

 準備活動としてどんなとりくみをしましたか?

 神田 まず宣伝です。発足講演会への参加をよびかけるチラシを約三万枚作り配りました。ポスターは二〇〇枚張りだしました。賛同署名もよびかけ、三〇〇人近い人が賛同してくれました。チケットを作りこれで参加者を組織しました。一一月三日には三鷹駅南口で二〇人以上が参加して宣伝活動をしました。約一時間半で七五〇枚ものビラをまいたんです。用意した五〇〇枚が足りなくなって慌てて予備のビラを取りに行くハプニングがあったほどです。駅頭ビラというのはふつう一時間で二〇〇〜三〇〇枚ですから、この反応はケタちがいに良かった。賛同署名もその場で一五名もありました。私たちは、やれば反応があると確信をもちました。」

 今度の課題は?

 神田 賛同者が現在約三〇〇名になりました。これをもっと増やすこと。私の住む市内の井の頭地域などでも「九条の会」をつくる動きがあると聞いているので、その活動と連帯し協力していきたい。缶バッチやポスターも普及したい。缶バッチは胸につけてると「それ何ですか?」と聞かれて会話がはずむそうです。先日は二〇ヶまとめて注文がありました。学習会の講師の依頼があれば講師を紹介します。一月二日には三鷹駅南口で一時から正月宣伝をします。この行動にもぜひ参加していただきたいと思っています。

★発足講演会の感想文から★全て、大変素晴らしく、心打たれる内容の集いでした。そして、幅広い層の方々が参加(出演者も含めて)して今日の会が持たれたことも、憲法を守らねばという強い危機感を持った方々が集える場が計画されたことを、待ってましたの思いで駆けつけたからだとしみじみ思いました。自分もそうです。松本由理子さんのお話、大変よかったです。ちひろの絵についても知ることができて、よかったです。新婦人の皆さんの琉舞楽しく見せていただきました。/憲法第九条、平和憲法のあることを実感し、当会の必要性を感じました。/九条と九九条を!/会場に若い人が少ない。

 発足講演会の後、会では講演会の様子や感想文などを記事にしたニュース第一号を賛同者、全参加者に配布し、寒中の一月二日には約二〇名で駅頭宣伝をおこなった。今年は、国民投票法など改憲にむけた具体的な攻防がなされる大事な年。会は「三鷹九条の会」の名を文字通り全市民に知らせ、九条をもつ日本国憲法擁護の深く、幅広い「憲法と平和の地下水脈」を組織化するために力を尽くしたいと考えている。

 因みに、会が発足した同じ一一月に「三鷹市防衛協会」なる自衛隊を激励支援し、防衛意識高揚をはかることを目的とする団体が設立されたことが最近判明した。役員には、自民党の都議、市議、商工会会長、元市長までも加わり、市内各町毎に役員を置いている。三鷹市だけの取り組みではなさそうだ。「いよいよ白兵戦がはじまる」ーそんな思いがする。