第1669号 / 5 / 21

カテゴリ:お知らせ,団通信

●20190407神奈川県知事選挙とは何だったのか  岡 田  尚

●「物語」の危険性と憲法の普遍的原理  小 林 徹 也

●秋田市のイージス・アショア配備予定地の現地調査をしました  緒 方  蘭

 


20190407神奈川県知事選挙とは何だったのか  神奈川支部  岡 田   尚

 春の一斉地方選挙・神奈川県知事選挙を、「九条の会」や「市民連合」で活動されてきた無党派・無名の岸牧子さんを候補者に「初の女性知事を!」で闘いました。以下、選挙確認団体「かながわReBorn」の代表として参加した私のメモランダムです。
1 私たちは、この選挙で何をやろうとしたのか
 出発にあたって、岸さんと確認したのは以下の三点である。
①一斉地方選挙における県・市会議員選挙では、野党は相互に競い合うしかない。市民の共同・野党の共闘というメッセージを出し、幅広く闘えるのは「一人区」である県知事選挙しかない。一斉地方選挙のなかで、市民の共同・野党の共闘を掲げることで、夏の参議院選挙に繋げる観点で意義がある。
②「地方自治体の首長の役割は何か」を明確にする。国の言いなりなら県はいらない。神奈川は第二の基地県なのに、黒岩現知事は「安全保障は国の専権事項だから」として何も言わない、何もやらない。カジノや中学校給食についても「それは市町村がやること」といって、何もやらない。これに比して沖縄県知事は、翁長さんもデニーさんも、国家権力総がかりで県民を苦しめていることに対して、自らが「盾」となって頑張っている。
  地方自治は、この国の民主主義の実現・確立のために、憲法で「内閣」「国会」「司法」と並んで独立の章で規定されている。憲法上それだけの位置づけと権限を与えられている。首長選挙は、地方における権力を取りにいく闘いなのだ。この権力を誰のために、何のために使うのか、それを問おう。
③無党派・無名候補者は、闘い方(方法論)もそれにふさわしいものにしなければならない。この神奈川でこれまで経験したことのなかった市民選挙をやろう。
2 この選挙で何を勝ちとり、何が課題として残されたのか
(1)市民の共同・野党の共闘について
 政党については、残念ながら共産党の推薦、緑の党の支持に留まった。県議会での「(共産党を除いての)オール与党体制」の一角を崩すことはできなかった。黒岩さんに推薦要請を撤回された立憲民主党、国民民主党との合流問題で動きがとれなかった自由党、自主投票となった社民党及び新社会党との関係をどう考え、どのような取り組みをなすべきだったのか、が宿題として残る。それらの政党を支持する人たちは、今回どういう投票行動をしたのだろうか。現知事に一票を投じたとは到底思えない。棄権したのだろうか。
 一方、市民の共同という点では、「平和で明るい神奈川県政をつくる会」、市民連合の幅広い有志の人たち、岸さんの地元横須賀の女性グループとの連帯の和は大きく広がった。一緒に闘ったこの経験に基づく信頼は、必ずや次のステップへの何よりの保証となる、と確信する。
(2)県知事の役割について
 岸さんの「国から県民・市民を守る『盾』になる」というメッセージは、コトの本質を捉えると同時に、シンプルでとても分かりやすいものであった。「誰一人とりのこさない」「誰の子どももころさせない」という誰もが共感できる心地よい二つの基本スローガン、そしてこれに則って政策を具体的に提示したことが、多くの人々の共鳴・共感を呼び、支持を急激に拡げていったことは間違いない。
 神奈川県が、一人あたりの住民税全国三位なのに、一人あたりの教育費は最下位・老人福祉は四五位という実態についても、岸さんの訴えで初めて知ったという人も多かった。
(3)これまで経験したことのない市民選挙について
 最初の記者会見から様相を異にした。「(どこかの政党や組織が)岸さんを候補者に決めました。応援して下さい」ではなく、岸さん一人で「私は、こんな想いで、こんなことをやるために立候補したのです。賛同してくれる人みんな集まれ!この指とまれ!」という「呼びかけ記者会見」でスタートした。
 その呼びかけに賛同する形で、「かながわReBorn」が結成された。そして「かながわReBorn」の呼びかけによって、各地域で「○○ReBorn」が結成され、従来から「県民要求実現」のために闘ってきた各団体(中野晃一上智大教授のいう「敷き布団」)も、岸さんと政策協定を結び、戦列に加わってくれた。高田健さん、広渡清吾さん、池田香代子さん、永山茂樹さんは応援にかけつけてくれ、西郷南海子さんも京都からメッセージを送ってくれた。
 選挙のプロ共産党は、あらゆる場面でその力を十分に発揮してくれた。政党と市民運動が共闘するというお互い初めてのこと故ときにはギクシャクすることもあったが、これを引きずらずその場での忌憚ない意見交換によって、両者の間の溝は徐々になくなっていった。選挙において、圧倒的な経験と力を有する共産党が、選挙の素人である市民と、それこそ対等に対応してくれたことに感謝する。
 岸さんが獲得した七〇万〇〇九一票は、共産党が神奈川県知事選挙で推薦、応援した候補者のなかで、革新県政を実現した長洲選挙を除けば過去最高の得票数であった。そして、緑の党が支持してくれたことは、共産党一党ではない証として意義あるものであった。
3 この闘いを、どこにどう繋げるか
 今回の県知事選挙は、それだけ・そこだけの独立した闘いではなかった。反原発・戦争法反対等の運動のなかで、「県民・市民が主権者として目覚め、自立し、自分たちの共同の力で政治を変える」という闘いの延長線上にあった。正に民主主義の成熟に向けた「夢の途中」の闘いであった。
 そして、選挙運動のなかで、従来交じりあうことのなかった人たち、支持する政党政派も違う人たちが、その違いをお互い認め合い、尊重し合いながら、共通の目標実現に向けて地域・現場から闘う、という新しい挑戦・体験であった。
 もちろん「SNSの活用」「支持者間の人間や運動の見える化」等実務上反省すべき点も多い。しかし、七〇万〇〇九一票をとった。一ケタ台の「一」について、ある人が「この最後の一票は自分が入れたのだと思うと嬉しかった」と結果判明の直後私にメールで伝えてきた。勝負には負けたが、得たものはとてつもなく大きい。これを次なる闘い、まずは迫り来る参議院選挙に繋げよう。現に連休明け、参議院神奈川選挙区(定数四)で、「かながわReBorn」で闘った市民グループを中心に、「立憲野党二議席確保」(具体的には立憲民主党牧山ひろえ・日本共産党あさか由香当選)を目的とする新しいレイヤー「WakeUpかながわ(あさまきサポーターズ)」が結成された。
 歴史はいつか真実に至る。

 

「物語」の危険性と憲法の普遍的原理  大阪支部 小 林 徹 也

 もう一年も前になるのですが、五月三日付けの朝日新聞に駒村圭吾氏(慶応大教授)の以下のような趣旨の論考が掲載されました(抜粋)。
 「プラトンも認めるように『物語』は人をぐっと引きつける力をもつ。暴走すれば国民に『死の意味』も与える。日本国憲法は、『普遍的原理』によってこの『物語』の力を押さえ込もうとするプロジェクトだ」
(安倍政権は)「改憲を『物語』創造のひとつとみているから、改憲が自己目的化する」
「普遍的原理は理論や検証に開かれているが、『物語』は受け入れるか否かしかない」
 久しぶりに、自分の頭の中でもやもやしていた考えが、まとめられた気分であり、それに基づいた僕なりの考えを団員諸氏に提起したく投稿します。
 結論から言えば、言葉によって語られる「物語」の怖さを最も意識し慎重にならなければならない法律家である僕ら自身、「物語」を無批判に用いていることの危険性を喚起したいのです。
 この記事で言うまでもなく、「物語」はとても強い力を持ちます。
 戦前、天皇を神格化し、そのために命を賭すことを厭わないような教育が行われることにより、多くの国民の中に、「万世一系の天皇」という「虚構の物語」が形作られ、これが悲劇の戦争遂行の大きな原動力となったのは周知のとおりです。
 現代においても、例えば、二〇二〇年の東京オリンピックは、政権がマスコミを巻き込み「感動」を演出し、これを国民統合の象徴(=「物語」)として、その美名のもとに政権への矛先をかわし、様々な不当な政策を実現する手段としようとしていることも団員諸氏はご存知のとおりです(「世界」二〇一九年一月号「大衆動員の社会実験としての東京五輪」等参照)。
 そして、日本国憲法が、このような虚構の「物語」との決別を図っていることも言うまでもありません。ただ、僕は、ここでいう「物語」は、「理想」「正義」「信念」などという言葉にも置き換えられると考えます。
 伊藤真氏が、(僕が予備校で講義を聴いていた一九八〇年代から)よく強調しておられたことですが、憲法は、「個人の尊厳」以外の価値を、慎重に回避しています。
 ご存知のように憲法本文には、九条一項以外に「正義」という言葉はありません。「物語」と同様「理想」「正義」「信念」などは個々人によって異なる価値観であり、論証や検証の対象とならないことから、これらが政治や法律を動かす基準となることを、日本国憲法は慎重に回避しようとしていると思います。
 今さらですが、憲法は、「個人の尊厳」という特定の価値を実現すべき「装置」、「仕組み」に過ぎません。僕は極めて精巧で合理的な「装置」だと思いますが、それ以上に憲法自身が「物語」の総体であってはならないと思うのです。
 多かれ少なかれつらい人生を送る多くの人間にとって、希望を持って生きていくには、その人なりの「物語」が必要です。例えば、不治の病にある人が希望を持って生きていくには、同じ境遇にある人たちが頑張って生き抜いた、という「物語」が大変有用だと思います。
 僕自身、これまでの経験から様々な要素を抽出し、自分なりの「物語」を構築し、その中に自分の人生を位置づけることにより、これを原動力として、様々な壁を乗り越えようとしています。
 すべての団員がそのような自分なりの「物語」をお持ちでしょう。
 このように、まさに個々人の中に、自分なりの自由な「物語」を形作り、これに支えられ生きていくことが「個人」を形作り、これを尊重することこそが「個人の尊厳」(一三条)の重要な要素であることは言うまでもありません
 しかし、他方で、そのような個々人の「物語」「信念」「理想」などは、この「個人の尊厳」という価値に押し込められるべきものであり、ここから出て、憲法の解釈と結びつきそれを動かすものとなってはいけないと思うのです。
 ところが、僕ら自身、十分にこの「物語」(理想、正義、信念)の力、そしてそれと表裏にある危険性を十分に意識していないのではないでしょうか。
 つまり、上記でいう「憲法が普遍的原理によって押さえ込もうとする」「物語」は、権力側のみが用いているわけではなく、僕らもこれを無批判によく使っていると思うのです。
 分かりやすい例としては、例えば憲法の学習会では、話者固有の「物語」が語られ、これが、憲法の素晴らしさを表現するパターンが多いでしょう。僕自身、両親の戦争体験や自らの人生経験など、多用な「物語」を用います。
 さらに、権力を「ライオン」や「王様」に例えたりすることもよくもちいられるでしょう。
 しかし、現代社会において、「権力」の実態は決して「ライオン」でも、「王様」でもありません。事実たる日々の複雑な人間関係の営みの総体です。これらの事実を抽象化して「物語」とすることには、分かりやすさというメリットと引き換えに実態を見誤りかねない、という危険があることにも配慮すべきだと思うのです。
 「権力とは恐ろしいライオンのようなものだ、私たちはこれを閉じ込めねばならないのだ」という「物語」は、これが暴走した時、権力の担い手たる恐ろしい「ライオン」を抹殺する意味すら与えかねない。
 また、街宣で、「わかりやすいキーワードを用いよう」とよく言われます。
 しかし、このようなキーワードは、当然のことながら、それが背景とする様々な具体的事実の多くをそぎ落とし、抽象化し、理念化することで生まれ、力を持ちます。それはまさに「物語」の誕生と同じメカニズムです。
 さらには、僕の周囲には、「他国から攻め入られたら何も抵抗せずに死ぬ。それが九条を信じる私の信念だ」という団員が何人もいます。まさに、「物語」が暴走して、その人に「死の意味」を与えているのです。この「物語」は検証や論証を許しません。「何も抵抗せずに死ぬ」という人にいくら論証を求めようとも、「だけどそれが私の信念だ」と言われてしまうとそこで終わりであり、法律家同士の合理的な意見交換ができない。ところが、これが時折合理的に意見交換すべき解釈論や運動論と混同して用いられてしまう。そして、このような「信念」に「感動」してしまう団員も多いのではないでしょうか。
 このように、権力側が用いる「物語」のロジックに対し、僕ら自身もあまり意識することなく、「物語」によって対抗しようとしていると思うのです。極論すれば「毒をもって毒を制」そうとしているような場面があると思うのです。
 すると結局のところ、いかにドラマチックで刺激的な「物語」であるかで勝負をしてしまうことになる。
 つまり、「物語」と憲法の「普遍的原理」を区別することなく、「物語」の力に依拠しすぎることは、「毒をもって毒を制す」ことを続けることであり、それは結局のところ、反対勢力よりもいかに刺激的な「毒」(=「物語」)を作れるかの不毛な競争に陥りかねないと思うのです。
 一方で、僕らは、法律家として、具体的な事実を分析的に検討し、言葉により、事実それ自体を冷静に伝えることにより、政権を批判している。
 もちろん多くの団員は、「それは車の両輪だ」と言うのでしょう。
 ただ、言葉がいかに力を持つかは、法律家以外でも知っていますが、言葉による事実の抽象化がいかに不正確なものであり、信用できないものであるかは、日々言葉による説得を商売としている法律家のみが最も知るところであると思うのです。
 従って、僕ら法律家が、常にその危険性を認識し、その使用に慎重にならなければならないと提起したいのです。
 具体的には、少なくとも法律家同士で法律論を議論している際に、「信念」、「理念」、「正義」などという用語の使用を避けることです。そう言われてしまうと、検証ができず、その「信念」「理念」の力のみしか問題とならないからです。
 ところが、近時の投稿などを見ていると、「正義」、「理想」、「信念」などといった、論証や検証を許さない用語を、安易に使う団員が多いように思うのです。緻密な論証や具体的事実を挙げながら、つまるところ、それが「正義」である、あるいは、それが「信念」「憲法の理想」であるなどと締めくくられてしまうと、とたんに説得力も失われ、また検証も不可能となると思います。僕はそのことを危惧します。
 言葉はとても便利なものですが、他方で、言葉による事実の抽象化は、本来「人」というレベルですら抽象化を許さない、「個人の尊厳」の理念に反する危険性があると思うのです。

 

秋田市のイージス・アショア配備予定地の現地調査をしました  事務局次長 緒 方   蘭

1 イージス・アショア配備の問題点
 日本政府は、二〇一七年一二月、イージス・アショアを二基導入することを閣議決定し、防衛省は、二〇一八年五月、秋田市の陸自新屋演習場と山口県萩市の陸自むつみ演習場を配備候補地に決定したことを公表しました。イージス・アショアには、中国・ロシアまで届く長距離識別レーダーや、射程距離二〇〇〇Kmといわれるミサイルが搭載される予定です。防衛省は、二つの配備予定地について適地調査を行い、本年の早い段階で結論を出すとされています。
 日本政府は、北朝鮮の弾道ミサイル攻撃のためにイージス・アショアを配備すると説明していますが、秋田市と山口県萩市は、それぞれ北朝鮮からアメリカの重要な軍事基地のあるハワイとグアムに向けてミサイルを発射した場合の飛翔ルートの上にあり、アメリカの弾道ミサイル防衛の体制の強化のためであることは明らかです。イージス・アショアは、日本のどの場所であっても配備されるべきではありません。むしろ、配備されることで、東アジアの軍事的緊張が高められることに繋がります。
 また、秋田市特有の問題として、配備予定地である陸自新屋演習場は住宅密集地に近接し、隣接する勝平地区には一万三〇〇〇人が居住し、演習場から約三〇〇mの地点に住宅地があるなど、住民の生活圏のすぐ側にあります。
 しかし、秋田県と秋田市は配備につき明確に反対していません。
2 要請と現地調査の内容
 団改憲阻止対策本部は、四月二六日、県と市に対して配備に反対するよう要請し、現地視察をして地元住民の意見を聞きました。
 まず、県と市に要請し、県庁で記者会見をしました。要請では、県知事、市長は多忙のため、県と市の総務部長が応対しました。記者会見では、一三名ものマスコミの方々が集まり、テレビ報道もされるなど、関心の高さがうかがわれました。
 それから、現地で住民運動をしている方の案内で新屋演習場周辺を視察しました。半径一km圏内には住居だけでなく、小学校、高校があり、三Km圏内には中学校、県庁、市役所、野球場、総合病院など市民の生活と密接な施設があります。イージス・アショアは電磁波による健康被害が懸念されるほか、有事には攻撃目標とされ、平時においても破壊活動の対象とされるおそれがあります。また、搭載される迎撃用ミサイルは、ブースターエンジンでほぼ垂直に打ち上げられるため、一段目のブースターが発射地点の近くに落下し、住民に被害が及ぶ危険性があります。
 現地視察の後、「イージス・アショアを考える勝平の会」、「イージス・アショアを考える県民の会」を中心とする住民の方々と懇談しました。住民の中には配備に反対だが、声を上げられない方も多いという話がありました。秋田魁新報社が社をあげて反対し、統一地方選の前後に、市議(候補)全員にアンケートを複数回実施したこともあって、候補者の中で反対派が増え、当選者も反対派の方が多かったという話がありました。また、多くの町内会が反対にまわるなど、運動が広がりつつあります。団の要請が運動の後押しになるという感想もいただきました。
 準備していただいた秋田県支部の皆様、住民の皆様に感謝を申し上げるとともに、アメリカから独立した基地のない日本にし、東アジアの平和を実現するために、今後も皆様と連帯してたたかっていきたいと思いました。

 

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