<<目次へ 【意見書】自由法曹団


日本国憲法を否定し、
 国民の人権や国民運動を敵視する
 「つくる会」公民教科書採択に反対する

―「つくる会」公民教科書に対する自由法曹団の見解―



2001年6月
自 由 法 曹 団

1 はじめに ―「つくる会」歴史・公民教科書双方に反対―

 「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」と言います)が作成した歴史教科書(扶桑社)については、その危険性が強く指摘され、採択に反対する声が日ごとに高まっています。自由法曹団としても採択反対の意思を表明します。しかし、同じ「つくる会」作成の教科書でも「公民」の教科書(同じく扶桑社)も「歴史」の教科書とは違った意味で危険な内容になっています。一言でいえば、憲法を否定し、子どもを「改憲」に誘導するものです。このことは同時に、国民の基本的人権を軽視し、制限して描き出し、国民の運動を敵視して「おとなしい国民」をつくろうとするもので憲法の大原則である国民主権にそぐわないものです。これに対する危険性の指摘はまだまだ十分ではありません。
 自由法曹団は全国の弁護士の1割に当たる1600名の弁護士で構成する法律家団体で、憲法の諸原則を擁護し民主主義のために活動するとともに、それぞれの地域で住民の権利を守るために活動してきました。法律家の団体である自由法曹団は、憲法を否定し国民の人権や運動を敵視する「つくる会」教科書を容認することはできません。「つくる会」歴史教科書と共に公民教科書採択されることは絶対に避けなければならないと考え、私たちに課せられた責務として「つくる会」公民教科書の問題点を簡潔に指摘した意見書を作成しました。ぜひご一読いただきたいと考えます。

2 この教科書を貫く思想

 「つくる会」の公民教科書の問題箇所はあとでその一部を列挙して紹介しますが、この教科書を一貫して流れる危険な思想について述べておきたいと思います。見本本にはありませんが、この教科書の市販本前書きには、「『公民』と『歴史』について良き教科書が採択されることは、アプレーゲルつまり『戦後派』の押しつけてきたいくつもの誤謬と迷妄から、わが国の将来を解き放つのに必須な手段の一つである。」として、「つくる会」がイデオロギー的なはっきりとした目標を持っていることを隠していません。その「目標」の有りようを検討します。

(1)天皇神格化 ―国民主権と相容れない内容―

 まず挙げなければならないのは、天皇神格化と国民主権の軽視です。「天皇は、古くから国家の平穏と国民の幸福を祈る民族の祭り主として、国民の敬愛の対象とされてきた。……わが国の歴史には、天皇を精神的な中心として国民が一致団結して、国家的な危機を乗りこえた時期が何度もあった。明治維新や第2次世界大戦で焦土と化した状態からの復興は、その代表例である。」に見られるように、天皇の立場についての神格化があり、大日本帝国憲法下において、「天皇が元首であった」としてその地位は、「国民主権のもとで伝統的な天皇制度を維持することを確認している。」としています。あたかも実際の政治には関与しないにしても引き続き天皇に主権者ないし主権の源があるかのように記載しています。他方で、「国民主権」は言葉として出てくるだけで日本国憲法の重要な内容であることについてはまったく説明されていないのです。教師による解説があるにせよ、国民主権の説明が絶無であり、その重要性が述べられていないのでは憲法理念をきちんと子どもたちに教えることになりません。天皇の神格化の記載が何行にも亘って続いているのとは対照的です。こうした対比を考えれば国民主権を実際には軽視するものになっていることは明白です。

(2)国益優先、人権制限・民主主義軽視の論理

 「公民教科書」で重大なのは、国家全体の利益、国家や社会全体の利益という観点」などの表現が随所に登場し、福沢諭吉に関するまるまる1頁に及ぶ記事を掲載し、「人はその『分限』を知らなければならない」(16頁)などとしてしきりに人権の制限を強調していることです。
 そして、法により人権が守られるとして「人権の尊重は、現実には法の尊重を前提として実現される。」と記載しています。これではあたかも法によって容易に人権が制限されるかのように受け取れます(34頁)。中学生のとっては法律の制限内でしか人権が認められないと理解するしかない難解な表現です。「公共の福祉により制限される人権」との表題の一覧表もあります(61頁)が、公共の福祉という理由での安易な人権制限は認められないというのが憲法学上の常識で、国際的な到達点でもあります。どちら記載も誤解を誘導しているとしか考えられません。この教科書の基本は国益のためには人権が制限されることを我慢するよう子どもに教え、人権がゆたかに花開くことを敵視するものといって過言ではありません。
「住民投票」を批判的に紹介していることも憲法の地方自治の精神に反するものであるだけになく、民主主義をも否定する「愚民思想」といわなければなりません。
 改めて言うまでもなく、大規模公共事業の弊害も指摘され、公共事業の見直し、環境保護、「脱ダム宣言」など、多くの国民の要求に応えて市民運動が発展しています。住民投票敵視の内容は、こうした切実で進歩的、少なくとも有力で新しい動きを敵視するものです。市民運動・国民要求敵視で権力者の判断を一方的に擁護する結果ともなります。

(3)女性の権利、男女平等への逆行

 人権制限の中で両性の平等についても見過ごすことのできない問題があります。「つくる会」公民教科書は、家族というコミュニティの重要性を強調しています。そして、コミュニティ維持のために家事労働の重要性を説き、合わせて個人が家族より優先されては「家族の一体感は失われていく」としています。「男は仕事に出、女は家庭を守る」というあり方を推奨するものです。国家、社会では公益、国益のための人権制限、家庭というコミュニティではその維持のために女性に犠牲を求めるという図式です。生理的・肉体的な差違をその差異を越えて社会的「役割分担」の根拠にまで拡大しています。両性の平等という憲法の理念とは相容れないものです。
 子ども達には、戦後女性差別を撤廃するためにねばり強い努力が続けられ、着実な前進を遂げてきたことこそが伝えられなければなりません。

(4)子どもを戦争へ駆り立てる ―平和主義の否定―

 「つくる会」公民教科書の考える「国益」「国家全体の利益」を見てみるとその危険性はいっそう重大です。
 「国境は決然と守っていくもの」「北朝鮮拉致事件」「21世紀の日本は不安定なものになる」「海外での日本人の命という問題を突きつけた」など、ことさらに危機意識を煽り、他の国では「崇高な義務として国防の義務が定められている」としています。どのようにして世界平和を実現するかという日本国憲法の理念と真っ向から反し、国連も「その機能の限界を浮きぼりにした」などとし、「大国日本の役割」として公的な国益から考えるとしてPKO活動などを紹介しています。このように、戦争の危機感をことさら煽り平和のための努力ではなく、軍事的な対処中心に子どもを誘導するのがこの教科書の正体です。

(5)子どもを憲法改悪に誘導するもの

 そしてこの教科書は、憲法改悪をして自衛隊を合憲とする方向に誘導するものです。日本国憲法については、アメリカに押しつけられた憲法であるという立場をとっています。そして「自衛隊はわが国の防衛には不可欠」などとして積極評価をしています。その一方自衛隊の実体と憲法の理念にはずれがあることを認めたうえで、これを増強してきたのは政府の「現実的」対応であったとして肯定的に評価し、さらには、他の国では憲法で「崇高な義務として国防義務」を定めているとまで持ち上げているのです。この教科書で学んだ子ども達は憲法の理念を学ぶどころか憲法の理念と真っ向から反する危険な考えをもつことになることが憂慮されます。
 また、「諸外国の中には憲法改正をひんぱんに行っている国もあるが、日本国憲法は公布・施行後、いちども改正されていない。」(59頁)とわざわざ述べています。「ひんぱんに」行われているのは憲法の性格や国ごとに状況の違いによるのです。憲法をすこしでも知っている人の常識です。その違いを述べないまま紹介するのでは「改正しない方が異例」と理解させようとするものです。「つくる会」教科書の子ども達を憲法改正に意図的に誘導しようという意図が見て取れます。
 このように、扶桑社の「公民教科書」は、憲法理念に反する思想に貫かれ、未来を託す子どもたちの教科書として失格といわねばなりません。

3 「公民教科書」の問題箇所

 この「公民教科書」の問題箇所をいくつかに絞ってあげておきます。

(1) 阪神淡路大震災 グラビア写真4頁

 「そんななか、懸命の救助作業にあたり、多くの被災者の力になったのは、まぎれもなく自衛隊員だった。」何枚もの写真入りでの紹介しています。

 阪神大震災では、住民同士が協力し、警察・消防の献身的活動などすべてをさしおいて自衛隊だけ大きく取り上げるのは事実に反し、自衛隊を子どもに無理矢理認めさせようとするねらいが見えています。

(2) 国境と周辺有事 グラビア写真5頁

 「国境は決然と守っていくものなのである。」として、「日本領海に入った不審船」などの紹介があります。

 国境をめぐる愚かなあらそいの歴史を学ぶのでなく、その愚を繰り返させる記載になっています。

(3) 国家主権と日本人 グラビア写真6頁など

 「北朝鮮拉致問題で救出支援を訴える肉親たち」「日本人救出用に準備された自衛隊輸送機」「1966年のペルー大使館人質事件は、海外での日本人の命という問題を突きつけた。」「北朝鮮による日本人拉致問題 これが事実だとすれば、わが国に対する明白な主権侵犯行為であるとともに、野蛮な人権じゅうりんでもある。」(119頁)としています。

 政府の調査としても証拠に乏しくて外交問題にできない拉致問題までをも取り上げ危機を煽っています。平和のための外交努力をさておいて北朝鮮などを仮想敵国としてこれに対する軍事的な対抗意識を無理矢理にでも育てようとする意図を感じさせます。

(4) 国連の混乱と限界 グラビア写真7頁

 「冷戦後の民族紛争激化の果てに、国連はその機能の限界を浮きぼりにした。NATO軍によるコソボ空爆(1999年)は 、21世紀の世界が不安定なものになることを暗示している。」

 国際関係の発展の中で平和を希求する日本国憲法の精神を教えるのではなく、アメリカの一方的空爆との批判さえあるコソボ空爆を持ち出して国際緊張を印象づけ、しかも国連を引き合いに出して国際協調の努力を蔑む記載は好戦的なものと感じられます。

(5) 大日本帝国憲法 56頁

 「国民には法律の範囲内のおいて権利と自由が保障され、その制限には議会の制定する法律を必要とするとされた。この憲法は、アジアで初の近代憲法として内外ともに高く評価された」
 「昭和に入り、国際情勢の変化によって危機感を強めた軍部が、憲法に記された天皇の統帥権(軍全体を指揮する権限)を理由に政治に介入し、国家総動員法をはじめ、戦時体制が整えられるなど、立憲政治の理想に反した運用が行われた。」

 アジアで初の近代憲法というのは誤りです。問題は大日本帝国憲法の消極面として、法律によって簡単に人権が制限されてしまうこと、軍部の台頭を許す構造になっていたこと、国民主権がなかったことなどまともな指摘がまったくないことです。これでは子どもは日本国憲法で多大な犠牲の上に成立したものであること、そしてどこが進歩したのか理解できません。天皇主権に無批判、人権の制限が当たり前という「人権感覚」が育ってしまうでしょう。

(6) 日本国憲法の制定    57頁

 「連合国最高司令官マッカーサーが、憲法の改正を政府に示唆したため、政府は大日本帝国憲法をもとに改正案を作成した。だが連合国軍総司令部(GHQ)はこれを受け入れず、みずから1週間で憲法草案を作成した後、日本政府に受け入れるようきびしく迫った。」

 日本国政府側の松本蒸治の案が明治憲法と変わらない非民主的な内容であったことには一言も触れていません。また、当時の国民に広く支持され、歓迎されたことを抜きにした「押しつけ憲法論」で反感を持たせようとしています。また、「諸外国の中には憲法改正をひんぱんに行っている国もあるが、日本国憲法は公布・施行後、いちども改正されていない。」(59頁)とわざわざ述べています。この点は前述の通り。

(7) 天皇と政治   59頁、60頁

 「天皇は、古くから国家の平穏と国民の幸福を祈る民族の祭り主として、国民の敬愛の対象とされてきた。……わが国の歴史には、天皇を精神的な中心として国民が一致団結して、国家的な危機を乗りこえた時期が何度もあった。明治維新や第二次世界大戦で焦土と化した状態からの復興は、その代表例である。」

 天皇神格化はすでに述べたとおり。これだけの字数を使いながら国民主権の意味内容・重要性については記載がありません。

(8) 少年法 66頁

 「この少年法の未成年者に対する寛容な姿勢が、少年犯罪や非行を助長させていることが指摘されてきた。」「一部の少年の中には『20歳までは何をやっても平気』と、暴走族に加わったり、暴行や恐喝を働く心ない者もいる。」

 こうした記述は、少年の可塑性に信頼を置き多数の少年を更生させてきた少年法の積極的で有効な役割と実績を故意に無視するものです。ひたすら治安強化を進めようとする意見に立脚したもので、確たる根拠もなく、少年法の運用にもそぐわない考えを「指摘されてきた」などの言葉で公正を装って紹介するのは教科書として問題です。

(9) 各国の憲法に記載された国防の義務 73頁

 「これらの国の憲法では国民の崇高な義務として国防の義務が定められている。」欄外枠囲み特別記事。

 教科書検定で本文からは削除されたものの欄外に紹介するというかたちが残ったものです。この紹介は、国防義務を憲法で明示することを肯定的に評価しています。日本国憲法に反する内容です。

(10) 住民投票について考える 79頁

 「これらの施設は広域的な、さらには国家全体の利益にかかわるものでもあり、特定地域の住民の意思のみによって左右されるものではないといえる。また、住民投票の直接民主主義的手法は日本国憲法や地方自治法が原則としている間接民主主義の意義や議会の存在を軽視するものであるとも言え、住民の意思自体がマスコミや市民運動団体の考えに煽動されやすいともいえる。さらに、行政の責任が決断をさけ、住民の判断をみずからの責任のがれの口実にしているとの指摘もある。」

 あからさまな愚民思想です。そして、民主主義自体の敵視、軽視です。「弊害の除去や克服すべき課題」の提起という記載ではなく、住民投票の否定です。これでは子ども達の中に健全な民主主義は育ちません。

(11) 憲法と自衛隊 113頁など

 「自衛隊はわが国の防衛には不可欠な存在」(113頁)、「憲法が想定した国際政治の理想と現実の国際政治とが異なっていることから、自衛隊を増強するなど、現実的な対応をしてきた。」(114頁)、(日米安全保障条約は)「わが国と極東の平和と安全の維持にも役立っている。」

 これは、グラビア写真4頁の災害救助など多数の写真、記載ともあいまって、自衛隊を積極的に肯定するものです。実際には自衛隊は米軍に協力し、国際緊張を高めている存在です。世界有数の軍隊の危険性を隠したまま、自衛隊を憲法上も認めるように子ども達の意識を誘導しようとするものです。

(12)平等権 63頁、64頁 家族と社会 177頁など

 「(憲法14条)は国民の法の下の平等を保障したもの(平等権)だが、すべての違いをとりはらった絶対的な平等を保障するものではない。」(63頁)
 「男女の生理的・肉体的な差違などに基づく役割の違いにも配慮しなければならない。」(64頁)
 「いわゆる性別役割分業は、『男は仕事に出、女は家庭を守る』という役割分担の仕方をさす。女性の社会進出が進むにつれ、そのような分担は批判されるようになった。だが、育児・家事に専念する専業主婦という形も、家族の協力の一つのあり方である。」(177頁)
 「家事は無償の労働か」という女性の家事労働の価値を高く認める趣旨の記載に1頁を費やしている(178頁)。
 「家族がたんに、個人の集まりでしかないと考えられたり、個人が家族より優先されるべきだとみなされるようになると、家族の一体感は失なれていくおそれがある。」(180頁)
 「この夫婦同姓も家族の一体性を保つ働きをしてきた。」(180頁)

これらの記載は、実際には「家族の共同体」の維持を重視し女性がその中で従属的役割を果たすことでよいとして、性別役割分業の考えに子ども達を誘導しています。子どもからすれば、平等権の限界ばかりが印象づけられる記載と言わねばなりません。
 また、夫婦同姓も女性を家制度の中で権利を制限したり社会進出に伴い現実には男女平等を妨げるものとの批判がされ、少なくともそうした批判の中で議論され、女性たちの中から夫婦別姓が提案されてきたのです。夫婦同姓を無条件に良いものとして教科書で紹介するのも問題です。

(13) 核兵器廃絶という理想を考える 215頁

 「核兵器は大量殺戮を可能とする兵器である。そこで、多くの人々が、国際平和の見地から、核兵器廃絶を強く望んでいる。」(中略)
 「しかし一方で別の見方がある。もし核兵器廃絶が表面的に合意されたとしたら、そのときが、世界にとってももっとも危険な瞬間だともいえるのではないだろうかというものである。」「核兵器廃絶の禁を破るものが世界を支配するかもしれないのである。」「危険な技術の使用を禁止することが理念として『絶対の正義』だとしても、それが現実においても絶対の正義であるためには、全世界の人々が信頼を裏切らない、核兵器廃絶に違反するものがいないという前提がなければ、どんな理想も空論に終わってしまう。」( 215頁)

これは、核兵器廃絶についてことさら不安感を煽り、核廃絶を否定するものと言わなければなりません。困難な課題にどう取り組むかが全世界の課題であり、悲願です。平和のために努力するというのが日本国憲法の理念です。これについて、教科書がはっきりと冷淡な姿勢を示し、こともあろうに「空論」などということは許されません。

4 大人達の責務  まとめに代えて

 以上の通り、「つくる会」の「公民教科書」(扶桑社)は、「歴史教科書」とは別の意味で子ども達の教育に有害な内容となっています。上記に指摘した以外にも指摘すべき部分が多くあります。しかし、上記の部分だけでもすでにこの「公民教科書」の危険な内容が明らかになっているのではないでしょうか。最後にもう一点だけ述べておきます。
 「国旗・国歌に対する意識と態度」(106頁、107頁)は、上記に指摘したのとは別の意味で重大です。この部分では、国会審議でも「強制してはならない」とされた国旗・国歌を特別に尊重すべきことを強調し、その中で2つのエピソードを紹介しています。
 一つは「ラモスの黙示録」(サッカー選手の手記)です。「日の丸をつけて、君が代を聞く。最高だ。武者震いがするもの。体中にパワーがみなぎってくる。」「日の丸をつけるって、国を代表することだよ。」という言葉が連ねられています。今ひとつは「青年海外協力隊でケニアに派遣された青年」の手記です。
 「事件が起こったのは、夕方の6時ちょうどでした。どこかで笛の音がピーッとなるのを聞きました……笛の音は、子供の笛ではなく、国旗降納の合図だったのです。ケニアの国民は直立不動の姿勢をとらねばならず、また外国人とておなじです。(しかし)私は起立もせずに下を向いて仕事を続けていました。すると、三方よりライフル銃。頭から血が下がって行くのが自分でも分かりました。……役場へ連行されましたが、言葉なんて出るわけがありません。……″気をつけよう、朝夕6時の笛の音″」(106頁)
 これを読んだら子ども達はどう感じるでしょうか。恐ろしい体験談として「恐怖」が一生胸に深く刻み込まれるのではないでしょうか。この教科書の問題は個別の箇所が事実に反するか、論理的でないか、学説から見てどうかだけではないのです。「つくる会」は教科書全体を通じて強烈なメッセージを送り続けています。それは、論理ではないのです。感性に直接訴えかけるのです。理性のフィルターを難なく通り抜け子ども達の感性を直接支配する。これが真に恐ろしい。だからこそ「つくる会」は、検定意見を全部採り入れても自分たちの主張は通ったと考えているのです。子ども達へのメッセージは「権威への服従と忠誠」です。これを「脅し」とも言える文章も躊躇なく入れ込んで子どもの「感性」に直接踏み込んできています。
 日本国憲法は、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」(前文)と高らかに宣言していますが、「つくる会」教科書は、まさに子ども達に「権威への服従と忠誠」そして「隷属」を強いるものです。自立した個人、誇りある主権者、理性と良識の民主主義者を育てるものでは断じてありません。憲法の理念に真っ向から反し、これに挑戦するものです。
 こうした教科書を採択しないことが未来を担う子ども達に対する大人の義務と確信します。同時に、誇るべき日本国憲法をもちながらこうした教科書を採択するのは国際社会にも顔向けできない恥辱と言って差し支えないでしょう。扶桑社「公民教科書」が採択されることのないよう声を大にして訴えます。また、教育委員各位におかれてはこれを採択しないという賢明な判断をされるよう強く求めるものです。