<<目次へ 【意見書】自由法曹団



労災保険の民営化に反対する意見書

2003年12月26日

自由法曹団

1 はじめに

 長時間過密労働労働による労働者の健康破壊と「過労死」が社会問題化して久しいわが国において、労災保険(労働者災害補償保険)制度は、今日、その重要性をいっそう増している。労災保険制度は、業務に起因して病に倒れ、さらには命を落とすにまでいたった労働者とその家族に対する迅速かつ公正な保護のための保険給付制度として、その充実が求められているところである。
 ところが、総合規制改革会議は、予め厚生労働省労働政策審議会労働条件分科会労災保険部会が「民営化によって生ずる問題点が明らかでなく労働者保護に与える影響も大きいと思われることから、民営化という結論を性急に出すことについては、反対である」との消極的な意見を提出していたにもかかわらず、労災保険の民営化の検討を要求することを盛り込んだ最終答申を12月22日に内閣総理大臣に提出した。
 しかし、以下に述べるとおり、労災保険の民営化によって生ずる問題点は現在でも明らかであって、労災保険の民営化は制度の根幹を揺るがすものであって断じて許されないものである。

2 政府管掌の強制加入保険制度の重要性

 労災保険制度は、被災労働者に対して「迅速かつ公正な保護をするため、必要な保険給付を行い」「もって労働者の福祉の増進に寄与することを目的とする」制度として(労災保険法1条)、政府がこれを管掌することとされている(同法2条)。その制度目的から、原則として労働者を使用するすべての事業(国の直営事業、官公署の事業、船員保険の適用事業を除く)を適用事業とする強制保険とされ(同法3条の2)、保険事故に対しては事業主が加入手続を行っていなくとも、さらには保険料を納付していなくとも労働者への保険給付が行われる(保険料未納の事業主に対しては「労働保険の保険料の徴収等に関する法律」もとづく強制徴収権がある)。
 その基本理念は、憲法25条が保障する生存権及び憲法27条による勤労権の保障と労働条件法定主義に由来するもので、労働基準法第8章が定める使用者の災害補償責任を実効あらしめるための制度として、国の責任において実施されるべきものである。民営化推進論者である総合規制改革会議の稲葉清毅専門委員(群馬大学名誉教授)は、去る11月10日に開催された厚生労働省との公開討論(11月10日)の席上「市場原理に任せるべき」と発言したと伝えられるが、利潤追求を旨とする民間企業に委ねることは、制度の基本理念と制度趣旨に反するばかりか、以下のような重大な弊害をもたらし、ひいては制度の崩壊にすらつながりかねない。

3 未加入・未納事業者の増大による労働者の被害

 第1に、未加入・未納事業者が増大し、労働者が補償を受けられないケースが増える。
 規制改革会議は、「労災保険は民間の自賠責保険と多くの共通点があり、使用者の強制加入の原則と保険者の引き受け義務を維持しつつ、民間保険会社に運営を委ねる方式が可能だ」としている。しかし、自賠責保険には車検制度とセットで加入を担保する仕組みがあるが、労災保険には加入を担保するこのような仕組みはない。
 しかも、民営化推進論者が、現行制度のもとでは「料率が業種別リスクを反映していない」として「民営化による企業間の競争で、保険料率の値下げや業種ごとに異なるリスクに基づいた保険料の算定が行われることとなる」旨を指摘していることにも示されるように、民営化により民間保険会社に委ねられることとなれば、保険料は業種・職種さらには事業場毎でさえ異なるものとなろう。これにより、事故発生リスクが高い業種等については保険料率が引き上げられることは必定であり、現行よりも負担が高くなる産業分野等では未加入が増大し、危険業種ではかえって未加入事業者が増加するという本末転倒の結果をも招来する。
 また、民営化されたもとで労災保険に加入している事業者であっても、保険料を滞納すれば民間保険会社であれば保険契約を解除することは必至であろう(「保険者の引き受け義務を維持しつつ」と言ってみても、保険料の滞納による契約解除を禁止することを予定しているものとはとうてい考えられない。)。その結果、保険による労災補償給付を受けられない労働者が増大する。
 現行制度のもとでは、加入手続きの有無さらには保険料納入の有無にかかわらず被災者に対する給付が行われるが、民営化されたもとで、民間保険会社が未加入事業者あるいは保険料未納事業者のもとでの保険事故に対して保険給付を行うことはあり得ない。
 このように労災保険を民営化することになれば、事業者が保険に加入しているかどうかによって保険給付の有無が左右されることとなるのであって、生存権にもとづき全労働者を対象とする現行の労災補償制度は崩壊するのである。

4 公正な認定にもとづく補償給付の大幅な後退

 第2に、営利を旨とする民間保険会社が自ら労災認定を行うこととなれば、適正・公平な保障給付を期待することはできない。
 現行制度上、労災認定は労働基準監督官による調査にもとづき、厚生労働省が設けた認定基準に従って行われており、全国一律の仕組みにもとづいて運用されている。この現在の制度のもとでも、労災と認定されずに不支給とされた決定が行政訴訟によって取り消される事例が後を絶たないが、それらの取り消し判決の多くは、認定基準の数次にわたる見直しにもかかわらず、その狭さを厳しく批判しているところである。
 このように現在でさえも狭すぎる認定基準とこれに従った厳しい認定結果という問題点は、民営化により劇的に増大するであろう。
 民営化論者は、認定基準は国が定めることとすれば問題がないかのようにいうが、国が認定基準を定めてもその具体的運用を各民間会社に行わせる以上、保険会社毎に実際の認定結果が区々になることは避け難い。推進論者は、労災保険の収支が大幅黒字になっていることを指摘して民営化をはかるべきだとしているが、そこには、民営化によるビジネスチャンスの拡大という狙いがありありと窺われる。民間保険会社は、企業間競争のなかで保険金の支払を可能な限り抑制するために実際の給付認定を厳しく行うこととなり、また、同様にして給付内容も保険会社毎に区々となり、これを低下させる方向での競争となることも十分予測される。そのことは、民営化論者が「モデル」として挙げる自賠責保険の実態が示している。すなわち、自賠責保険においては交通事故による傷害保険金の上限は120万円とされているところ、自賠責保険の窓口となっている損害保険各社は、損害額がこの上限枠の中に収まるようにと、事故による負傷に必要な治療あるいは必要な休業期間を争い、被害者に対する補償を切り下げようと試みる例が数多く存在するのである。労災保険が民営化された場合には、同様にして療養給付の対象となるべき治療あるいは休業補償給付の対象となるべき休業期間を争い、補償額を引き下げることによって利益を拡大し企業間競争を勝ち抜こうとするであろうことは容易に推察できよう。
 こうして、国家による一律かつ平等の認定という制度のもとにおける現状よりも、現実の認定が後退することになり、被災労働者が正当な給付を受け得ない事態が増大するのである。

5 事実調査の困難と監督行政の後退を招く 

 第3に、民営化は適正な事実調査を困難にするとともに、労働監督行政の後退にもつながる。
 公正な補償を行うためには、正確かつ客観的な事実の把握が前提となる。現在の労災保険制度は、前述したとおり労働条件の最低基準を定める労働基準法にもとづく事業主の災害補償責任を実効性あるものとするためのものである。この災害補償責任は刑事罰を伴うもので(労働基準法119条)、そのことからも労災認定は労働基準監督官による強制権限を伴った調査にもとづいて行われる。
 ところが、民間保険会社にそのような調査権限はない。民営化により労災認定が民間保険会社に委ねられることとなった場合、保険会社は、顧客である契約先事業主の説明を尊重しつつ被災労働者の申し出を軽視するであろうことは容易に想定できるところであり、その結果、侵害されるのは被災労働者の権利である。
 また、上記の労働基準監督官による調査は、労働基準法違反等の事実を把握する機会となるとともに、労働条件や安全衛生面での問題が把握された場合に的確な指導を行うことによって、労働災害を防止し保険事故の発生を抑制することにも繋がっている。労災保険の民営化は、保険業務と監督・指導とを分離してしまうもので、労災保険の適正な運営を阻害するとともに、労働基準監督行政及び安全衛生行政の適正な運営にも大きな支障を生じさせ、この点からも労働者保護の後退につながるのである。

6 保険会社の経営破綻による補償喪失

 さらには、民営化により保険制度を担うこととされるのが民間保険会社である以上、今日問題とされている金融機関の例を引くまでもなく、その経営破綻リスクは避けられない。
 事業主が契約している保険会社が倒産してしまえば、政府による特別な補償制度が新たに設けられない限り、労働者は、労災保険による補償を受けられないこととなる。そして、もしそのような場合に備えて政府による特別な補償制度を新設するのであれば、現行の労災保険制度をあえて民営化すべき必要はないのである。

7 結論

 以上のとおり、民営化により重大な弊害が生じることは明白であり、その被害はもっぱら労働者側に及ぶ。そもそも労災は、各事業者において、労働者の安全や健康に配慮し、十分な安全・健康確保措置を講じていれば、いまほど多くは生じてこないものである。そして、労災保険制度は、不幸にして労働災害により被害を被った労働者とその家族が、事業主の資力等により救済を受けられなくならないようにするために設けられたものである。その労災保険制度を民営化することによって、被害者となった労働者とその家族が補償を受けられない危険がわずかでも生じることは絶対に認められるべきでない。
 いま政府がやるべきことは、労災事故が起こらないよう、各事業主に対し、労働者の安全・健康確保のための十分な措置をとるようあまねく指導を徹底することであり、民営化するなどは国の責任の放棄である。
 われわれ自由法曹団は、労災保険の民営化に断固反対するとともに、現行制度の充実・強化をはかるよう強く求めるものである。

以 上