道徳の教科化に反対し、

学習権保障の観点から問題がある日本教科書の道徳教科書の採択に反対する

 

1 はじめに

 2015年3月、学校教育法施行規則と学習指導要領が一部改訂され、道徳が「特別の教科」との位置づけで教科化された。そして昨年は初めて道徳の小学校教科書の教科書採択が行われ、今年は中学校の道徳教科書の採択が予定されている。

 自由法曹団は、現在全国で約2100名を超える弁護士を擁する任意団体であり、これまでも法律家団体の立場から教育問題に取り組んできた。本意見書は、現在進められようとしている「特別の教科 道徳」には、子どもの権利の観点から看過することのできない問題点があるためこれを指摘するものである。

 

2 憲法が予定する教育の在り方

 そもそも、子どもを含めた国民一人ひとりには、それぞれが一個の人間として成長、発達し、自己の人格を完成、実現するために必要な学習をする固有の権利(学習権)がある。学校教育は、何よりもこの子どもの学習権を充足するための責務として実施されなければならない(1976年 旭川学力テスト事件最高裁判決)。

 そして、子どもの学習権を充足するための責務としての教育との見地からは、学校教育において、教育行政があるべき子ども像や人間像等の価値観を設定して、これを子どもに一方的に押し付けることは、子どもが自由かつ独立の人間として成長発達することを妨げるものであって、学習権侵害として許されない。 

 

3 道徳の教科化の誤り

(1)予定される道徳教育の内容

 昨年3月に改訂された現行の小中学校の各学習指導要領では、総則において「学校における道徳教育は、特別の教科である道徳(以下「道徳科」という)を要として学校の教育活動全体を通じて行うものであり,道徳科はもとより、各教科、外国語活動、総合的な学習の時間及び特別活動のそれぞれの特質に応じて、生徒の発達段階に応じて、適切な指導を行うこと」と記載され、道徳教育は学校生活のあらゆる場面で行われることが示されている。

 そして、中学校学習指導要領に記載された道徳科の教育内容を抜粋すると、以下のような項目が挙げられている。

 「主として自分自身に関すること」として、例えば「望ましい生活習慣を身に付け、心身の健康の増進を図り、節度を守り節制に心掛け調和のある生活をする」、「より高い目標を目指し、希望と勇気をもって着実にやり抜く強い意志を持つ」などとされている。

 「主として他の人とのかかわりあいに関すること」として、例えば「礼儀の意義を理解し、時と場に応じた適切な言動をとる」、「温かい人間愛の精神を深め、他の人々に対し思いやりの心をもつ」などとされている。

 「主として自然や崇高なものとのかかわりあいに関すること」は、例えば「自然を愛護し、美しいものに感動する豊かな心をもち、人間の力を超えた者に対する畏敬の念を深める」などとされている。

 「主として集団や社会とのかかわりに関すること」については、「法やきまりの意義を理解し、遵守するとともに、自他の権利を重んじ義務を確実に果たして、社会の秩序と規律を高めるように努める」、「自己が属する様々な集団の意義についての理解を深め、役割と責任を自覚し集団生活の向上に努める」、「勤労の尊さや意義を理解し、奉仕の精神をもって、公共の福祉と社会の発展に努める」、「父母、祖父母に敬愛の念を深め、家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築く」、「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家の発展に努めるとともに、優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献する」などとされている。 

 文科省が作成した中学校学習指導要領の解説では、道徳科の指導は学校ごとに校長が指導力を発揮して年間指導計画を作成して行うこととなっており、個々の教員の指導案はこの年間指導計画をよりどころに作成するよう求められている。そしてこの年間指導計画は、一度作成されたら変更するには校長の了解を得ることが必要とされる。

 そして、これら生徒たちになされる道徳教育については、数値による評価は行わないが、「生徒の道徳性については、常にその実態を把握して指導に生かすよう努める必要がある」とされ、記述式の評価がなされることになる。

 

(2)生徒の学習権、思想・良心の自由侵害

 学習指導要領が、道徳教育の内容として挙げる上記のような項目は、自己がどのような人格に成長発達すべきかという、まさに学習権の中核を左右する価値観に関わり、本来生徒一人ひとりが多様な可能性から自ら学び取るべきものである。このような身に着けるべき価値観を教育行政が設定することで教育現場から多様性が失われ、生徒に一律の価値観を押し付ける危険がある。とりわけ、愛国心について、学習指導要領は生徒に国を愛すること自体を求めている。何かを愛するということは専ら個人の心情にかかわることであり、何を愛する対象とするかも個人の自由である。道徳教育を通じて、愛国心が生徒に強制されることになる。さらに、中学校には様々な国籍の生徒が通学しているが、多様なルーツや考えを有する生徒が存在する中学校で、「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家の発展に務める」ことを一律に教えることが不適切であることは明らかである。

 前述したとおり、個々の教員の道徳科の指導については、学習指導要領に基づいた年間指導計画をよりどころして行うよう求められており、生徒一人ひとりの状況を踏まえて教育を行う教員の裁量権が狭められている。このことも、生徒一人ひとりの考えや、発達要求、生活環境などを考慮することなく、教育行政が設定した価値観を生徒に一方的に押し付けることにつながる。

 しかも、学習指導要領上、道徳教育は、道徳の授業だけではなく学校生活全体で行われるとされ、記述式の評価をすることを予定している。数値によるものではないとしても、教育行政が身に着けるべきと設定した価値観に基づいて評価が行われることは、生徒に重大な影響を及ぼす。生徒は、教員の評価にさらされることにより、学校で生活している間ずっと、いかなる評価がなされるのか、教員の目を気にせざるを得ない。中学生ともなれば、生徒は、道徳の授業や日々の学校生活において教員を含めた大人がどのような価値観を身に着けるよう求めているのかを敏感に感じ取ることができるのであって、成績評価や調査書(内申書)の記載において不利益が課されないように、結果として上記の学習指導要領に挙げられている価値観を身に着けることを強く求められることなる。道徳について評価が行われることにより、上記の教育行政が設定した価値観を生徒に一方的に押し付けることになる。

 このような価値観の一方的押し付けは、生徒が自由かつ独立の人間として成長発達することを妨げるものであって、学習権侵害として許されないし、生徒の思想・良心の自由を侵害するものである。

 したがって、そもそも道徳を教科化すること、すなわち、生徒が身に着けるべき価値観を教育行政が設定をして、その価値観を身に着けたかどうかを評価すること自体が極めて不適切である。  

 

4 中学校道徳教科書について

 本年3月に中学校道徳教科書検定が行われた。検定合格した教科書をみても、生徒への一方的価値観の押し付けになるという、道徳の教科化に対する上記の懸念が、より現実のものになっていると言わざるを得ない。後述するように多くの教科書に問題となる記述が存在するが、とりわけ、日本教科書の教科書は極めて問題である。

 以下、懸念される点の一部を指摘する。 

(1)日本教科書の教科書は中学校で使用されるべきではない

  ア 個人の希望より集団の利益を重視し、ルールに無批判に従うことを求める記述

 集団生活等において他者に迷惑をかけないとか、自己が属する集団の利益を図るとの要請を、個人の希望や自己実現と対立するものと設定をし、集団生活を円滑に行うために個人の希望や自己実現を控えるように誘導する内容が記載されている。いわば、個人の自己実現よりも、自制心をもったり、集団のために自己を犠牲にすることを賛美したり、ルールに無批判に従うことが「義務」であるかのように教える内容である。

 例えば、集団の利益を優先し、自己を犠牲にして集団に尽くすことを美化する記述(「明りの下の燭台」日本教科書3年)や、嘉納治五郎を題材に、自己の力を自分のためではなく社会や国のために使うことを賛美する教材(「嘉納治五郎先生との出会い」日本教科書1年)、入場券販売終了後に子どもを入場させために停職処分となり辞職せざるを得なくなった動物園職員を題材に、ルールを破れば厳しい処分がなされて当然かのように描く教材(「二つの手紙」日本教科書2年)などがこれにあたる。

 このような記述は、自己のやりたいことや希望すること、様々な自己実現など個人の望みよりも、集団の利益やルールに従うことを肯定的に評価する記述である。かかる教材は、様々な可能性や自己実現に向けた成長発達の途上にある生徒にとって、自らの希望に従ったり自己実現を図ることを躊躇させたり、自粛することにつながりかねず、生徒の成長発達や自己実現の機会を確保すべき学習権の見地から問題である。

 さらに、個人の希望よりも集団の利益を優先させる観点を生徒に押し付けることは、憲法が保障する基本的人権についても、個人の権利行使よりも社会の利益や「国益」を優先させる価値観を抱かせる危険がある。しかし、そもそも憲法上、人権が制限されるのは、個々の人権同士が衝突する場合を想定しており、「世の中」や「公益」、「国益」等の抽象的な利益によって人権の制限を正当化することはできない。したがって、集団の利益のために権利行使を我慢することが賛美されるような記載は、生徒に人権についての理解をも誤らせる危険がある。

 立憲民主主義を採用する憲法のもと、生徒が基本的人権を正確に理解することは極めて大切であり、重要な教育課題であるはずである。上記のような記載は、生徒たちに人権に対する誤った理解を抱かせる危険が大きく不適切である。

 また、あるルールについて、なぜそのルールが必要なのか、そのルールは公正なのか等、ルールの正当性や合理性を検討することなく、ルールに無批判に従うよう誘導する記載がみられるが、盲目的に法や「ルール」に従うことは、国民の主権者としての役割に合致しないものであってこれも適切でない。

  イ 歴史的な事柄について一面的な事柄を強調し生徒に誤解させる記述

 道徳の教科書といえども、歴史的な事柄を取り上げる際には、生徒に一面的な観念を抱かせたり、不正確な理解をさせないように、その記述の正確性に配慮されなければならないことは当然である。しかし、日本教科書には以下のように、日本の台湾の植民地支配について生徒の正確な理解を妨げかねない記載がある。

 例えば、日本が台湾を植民地として支配していた時に、台湾の上下水道の整備を担当した八田與一を取り上げた教材(日本教科書1年)や、台湾統治時の日本人教師による教育を取り上げた教材(日本教科書2年)があるが、背景となる日本の植民地支配の実情等については何も触れられていないため、単に日本人が台湾の人々に良いことをしたと生徒に誤解させる危険がある。日本の植民地支配について、生徒がこのような誤った理解を抱き成長した場合、アジア各国の人々と友好な関係を築くことが妨げられることが予想され不適切である。

  ウ 殊更に現政権を肯定的に評価するよう生徒を誘導する危険

 日本教科書2年では、新潟県長岡市がハワイ州のホノルル市と姉妹都市提携して真珠湾で花火を打ち上げたことを題材にした教材があるが、その最後に脈絡もなく安倍首相が2016年に真珠湾で行った演説が掲載されている。教科書に取り上げられる人物については、生徒が「立派な人」等の肯定的な印象を抱きやすいものである。必要性もなく現役の首相の演説を掲載することは、現政権への肯定的な評価を抱くよう生徒を誘導しかねないものであり、教科書を政治的に利用するものとの疑念すら抱かざるを得ず不適切である。 

  エ 数値による自己評価により価値観の押し付け

 日本教科書は、「身につけたい22の心」と称して、学習指導要領に記載された22の価値観について4レベルで生徒に自己評価をさせる。

 しかし、前述したように、道徳の教科で取り扱われることが予定されている学習内容は、絶対的な正解があるわけでもなく、個人が自ら選び取るべき価値観と深く結びついた事柄である。前述したとおり、記述方式であったとしても、評価されていること自体が生徒に、教育行政が望ましいと設定した価値観を押しつける結果となるおそれが大きいものであるが、ましてや数値で評価が行われてしまえばそれがさらに強まることになる。数値によって成績の優劣が目に見える形になれば、生徒は「良い成績」をとるために、要求されている価値観を身に付けるよう強く押し付けられることになる。文科省自身が、中学校学習指導要領の解説で「道徳科において養うべき道徳性は、極めて多様な生徒の人格の全体に関わるものであり、数値などによる評価を行うことは適切でない」としているところである。

 自己評価による数値評価であったとしても、それを教員が確認し評価をすることになる以上、生徒への圧力となり上記の価値観の押し付けが強まるという弊害が生じる危険は大きい。また、数値による自己評価を生徒に行わせることによって、多様性が認められるべき価値観について、数値で一律の評価ができるかのごとき誤った観念を生徒に抱かせることにつながる。

 したがって、自己評価であったとしても数値による評価を行うべきではない。

  オ 差別を助長する本を出版している会社と密接な関係にある

 今回の中学校道徳教科書採択から教科書の発行・供給事業に算入した日本教科書は、「マンガ嫌韓流」などの本を出版している株式会社晋遊舎と同じ住所に会社があり、晋遊舎の代表取締役が日本教科書の代表取締役にも就任するなど、両出版社は密接な関係にあるといえる。

「マンガ嫌韓流」は韓国政府や韓国国民を、日本政府や日本国民に敵対する存在であるかのように描いており、韓国・朝鮮人への差別を助長すると批判されている書籍である。日本教科書は、差別を助長する本を出版する会社と密接な関係にある会社が作成した教科書である。

  カ 小括〜日本教科書の教科書は採択されるべきではない

 以上のとおり、日本教科書の中学校道徳教科書はその記述内容について生徒の学習権を保障する観点からは問題が大きく、少なくとも同教科書は中学校の道徳で使用するべきではない。

 

(2)他の教科書にも問題のある記述が存在する

 日本教科書以外の教科書にも、問題のある記述は存在する。

 例えば、集団の利益を個人の希望よりも優先させるべきと誘導する記述としては以下のような教科書の記述がある。

 釣竿を買ってもらい、入院しているいとこの見舞いよりも釣りに熱中してしまい約束した時間に帰宅しなかったことで親に叱られる題材を扱った教材(学研教育みらい1年)。

 クラスの皆からリレー選手に選ばれたことと、リレーに出たくないとの個人の希望を「エゴ」と対比する教材(東京書籍1年)

 日本教科書に取り上げられていた自己犠牲を賛美する教材である「明りの下の燭台」は他の教科書にも記載されている(学研教育みらい1年、廣済堂あかつき2年)。

 また、愛国心を持つことを当然であるかのように述べたり、国旗掲揚の際に起立を示すことが国に対する礼儀であると記載された、外国籍を有する元野球選手の王貞治の文章を載せた教材(廣済堂あかつき2年)は、生徒に愛国心を持つことを押し付ける危険がある。

 さらに、道徳の学習内容等について生徒に数値による自己評価をさせる教科書も複数存在する。例えば、廣済堂あかつきは、生徒に各単元ごとに5段階の自己評価を求め、学期ごとに上記22の価値観について5段階の自己評価を行わせるものである。

 前述のように、生徒の学習権保障の見地から、日本教科書の道徳教科書は問題性が大きく、少なくとも同教科書は、中学校道徳の教科書として使用させるべきではない。しかし、日本教科書の教科書に限らず、他の教科書にも問題のある記述や教材がみられるのであって、道徳の授業で取り上げられる個人の価値観に関わる事柄について、教科書の記載に基づいて安易に生徒を評価すべきでないという点は改めて銘記されなければならない。

 

(3)小括

 以上、述べたとおり、検定合格した中学校道徳教科書には、生徒の学習権の保障の観点からみて問題のある記述が多々存在する。とりわけ、日本教科書の教科書は、権利の行使より義務を強調した内容が記載されていたり、生徒の歴史認識を誤らせたり、教科書の政治利用と言わざるを得ない記載があったり、数値による自己評価を求めるなど、他の教科書と比較してもその問題性は大きい。 

 このような教科書は、その記載によって子どもが身に着けるべき価値を誘導するものであって、子どもの学習権、思想・良心の自由を侵害するものである。かかる教科書の記載をみても、生徒への価値観の一方的押し付けになるという、前述した道徳教科化の問題点は、ますます深刻かつ現実の危険となっている。

 現在、各地で来年度から使用される予定の中学校道徳教科書の採択手続きが行われている。道徳の教科書として、日本教科書の教科書を採択すべきでないし、またどの教科書を採択したとしても、生徒の思想・良心の自由等の内心の自由にかかわる事項について、教科書に記載された価値観に基づいて安易に評価したり、評価を通じて、子どもに一方的な価値観を押し付けるようなことは許されない。 

 

5 改憲の先取りとしての道徳の教科化

 2015年、安倍政権は、中学生のいじめ自殺事件をきっかけにして、道徳を教科化する学校教育法施行規則及び学習指導要領の改訂を行った。現在進められている道徳の教科化はこれに基づくものである。

 しかし、いじめは事案ごとに個々の背景や要因は複雑であり、子どもに道徳心がないから起こるわけではない。道徳の教科化のきっかけとなったいじめ自殺事件が起こった中学校が、文科省の道徳教育の推進校に指定されていた事実からしても、道徳の教科化がいじめ問題に有効な対策となるとの政府の説明は疑問である。むしろ、第一次安倍政権時の2007年に教育再生会議が徳育の教科化を提言していたことにみられるとおり、道徳の教科化は、かねてより安倍政権が導入を企図していたものであり、いじめ自殺事件を口実にしてこれを強行したと言うべきである。

 安倍政権が、道徳の教科化を推進するねらいは、愛国心を持つことや権利よりも義務の重視、ルールに無批判に従うことを求めるなど、為政者に都合のよい価値観を子どもたちに植え付け、国民から政府を批判する力を奪うことにある。このことは、安倍政権が進めてきた一連の教育「改革」、すなわち、政府見解を教科書に記載するよう教科書検定基準を変更したり、学習指導要領で子どもたちに国を愛する心を持つことや、国土に対する愛情を持つことを求めたり、戦後失効・排除された教育勅語を、肯定的に評価し、教材として使用することを容認する等、国に都合のよい価値観を教育を通じて子どもに押し付ける政策にも明確に示されている。また、自民党改憲草案では、「国民は…自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し,常に公益及び公の秩序に反してはならない」(12条)と記載し、国民の権利よりも義務を強調し、「公益」や「公の秩序」などという抽象的な利益により人権を制限しうるよう憲法を変えるよう求めている。子どもの内心に踏み込み、政府の都合のよい価値観を植え付けようとする道徳の教科化はまさに、この自民党改憲草案の先取りと言える。

 前述した中学校道徳教科書においても、権利の行使より義務を重視する記載を行ったり、ルールに無批判に従うように子どもを誘導する内容が記載されていたりしていたことも、この方向と一致している。

 この教育「改革」が、安倍政権の戦争をする国づくりと軌を一にして進められていることも忘れられてはならない。教育の名を借りて政府に都合のよい価値観を国民に植え付け、国民から政府を批判する力を奪うことは、まさに戦前の日本の教育がそうであったように、戦争体制を支える国民を生み出すことにつながるものである。

 

6 まとめ

 以上述べたとおり、道徳を教科化し、教育行政が子どもが身に着けるべき価値観を設定すること、道徳教科書によって子どもを一定の価値観をもつよう誘導をし、かつこれを評価することによってその価値観を押し付けること、これらは子どもの学習権、思想・良心の自由に反するものである。よって、自由法曹団は道徳の教科化に断固として反対する。また、現在採択が行われている中学校道徳教科書のうち、とりわけ日本教科書の道徳教書は、生徒の学習権保障の観点から問題が大きく、同教科書は中学校道徳教科書として使用されるべきではなく、同教科書の採択に反対するものである。

 

2018年8月1日

自 由 法 曹 団

  団 長   船 尾   徹