団通信1005号(12月11日)
特集 NLG総会参加と陪審見学@

ボストンNLG総会と陪審裁判の旅の報告

 菅 野 昭 夫

 自由法曹団と国民救援会の合計一一人は、一〇月二九日から一一月六日まで。マサチューセッツ州ボストン市を訪問しました。同市で開催されるナショナル・ロイヤーズギルド(NLG)総会に参加して交流を深める事と、アメリカにおける司法制度、特に陪審裁判の現状を調査することが目的でした。
 私達の日程は以下のとおりですが、充実した内容の交流と調査を行うことができ、多くの成果をあげることができたと思います。
 一〇月二九日(日)夜ボストン市着。
 一〇月三〇日(月)午前一〇時から午後三時にかけて、ボストン市郊外のウエスト・ロックスベリー地方裁判所において、NLG会員のナンシー・キャプラン弁護士から、マサチューセッツ州における刑事裁判の管轄、アレインメント(罪状認否手続き)、保釈手続き、保護観察取り消し手続き、陪審裁判について説明を受け、同裁判所刑事法廷におけるそれらの各手続きを見学。同裁判所のカフィー裁判官と面会し、陪審裁判についての説明を聞く。午後四時よりキャプラン弁護士の所属する公設弁護人事務所で、マサチューセッツ州における公設弁護人の制度及び活動内容について四人の弁護士から説明を受け、質疑応答。
 一〇月三一日(火)午前九時から、ボストン市郊外のドルチェスター地方裁判所において、NLG会員のスーザン・チャーチ弁護士及び非会員のアンソニー・エリソン弁護士から、同裁判所のアレインメント専門部、ドメスティック・バイオレンス専門部、その他の刑事部の説明と案内を受け、それらの各法廷を見学。同裁判所のメイ裁判官と面会し、アメリカの陪審制度の起源と意義について格調高い説明を聞く。その後同裁判所の法廷のエリソン弁護士担当の保護観察取り消し手続きを傍聴。午後同裁判所首席裁判官でドメスティック・バイオレンス事件を担当しているウイリアム・G・ヤング裁判官から、同裁判所のドメスティック・バイオレンス防止対策について、説明を受ける。
 一一月一日(水)午前九時から午後二時まで、ボストン市内の連邦地方裁判所において、殺人及び麻薬取引の共同謀議で起訴された二人の被告人についての陪審裁判の審理(被告人と同じマフィアに属していた「目撃者」の証言、逃亡していた被告人を探し出した警察官の証言、審理終結に際しての弁護人からの公訴却下の申立の弁論と決定などの内容)を傍聴。その後、約二時間、審理を担当していたナンシー・ガートナー裁判官、セオドール・ハインリッヒ検事補及び、マサチューセッツ州公設弁護士のピーター・クロップ弁護士と懇談し、陪審裁判についての彼らの評価を質疑応答。終了後、ボストン美術館見学で一息つく。
 一一月二日(木)ボストン市内の上位裁判所において、陪審員の喚問及び陪審員選定手続きについて、マサチューセッツ州のジュアリー・コミッショナーのフランク・デイビス氏及びコート・アドミニストレーターのダナ・リービット氏から現場で説明を受ける。その後、同裁判所の裁判官から、同裁判所で最近陪審員による評決のあった刑事事件、民事事件について説明を受け懇談。午後から、ボストン市裁判所を訪問し、治安判事補佐官のダン・ホーガン氏から同補佐官の権限と制度について説明を聞き、その後、ハーバード・H・ハーシュファング陪席判事と懇談。夜七時からNLG大会のオープニング・セッションに参加し、マサチューセッツ州上院議員ウイルキン弁護士の歓迎演説及び、著名な刑事弁護士ビル・モッファー氏の基調講演などを聞く(テーマは刑事司法をいかに改革するかについて)。
 一一月三日(金)午前中、一隊はNLGのメジャーパネルのひとつである「選挙と政治」に参加。討論は、大統領選挙直前の状況を踏まえて、進歩的第三の政党をいかに糾合する政治運動を組織するかに集中。他の隊は、平和活動家のジョセフ・ガーソン氏を訪ね、アメリカの政治状況と大統領選挙について懇談。午後四時からピーター・アーリンダー前NLG議長による、アメリカの司法制度、特に陪審制度についての、総括的なセミナー開催。夜八時から外国代表団のためのインターナショナル・レセプションに参加し、開始直前に篠原団員(大阪支部)が沖縄の楽器の三琴を奏で、救援会の瑞慶覧事務局長が沖縄民謡をうたい喝采を受ける。レセプション冒頭に、八カ国代表団のスピーチが行われ、一番目に日本代表団から私が憲法九条をめぐる最近の状況と改悪の危機を訴えた。
 一一月四日(土)日中、独立戦争発端のレキシントンを訪れる。夕方、藤木団員と救援会の瑞慶覧、清水両氏がエドワード・ケネディ上院議員の屋外選挙集会に出かける。夜七時三〇分からNLGのバンケットに参加。団の懇親会とやや類似した内容と雰囲気だが、ドネーション(寄付)の部があって、寄付を行う人が一人一人発言するのが異なる。成り行きから、日本代表団も若干の寄付を行い、私が挨拶。
 一一月五日(日)日中自由行動、夜アーサー・キノイ弁護士夫妻と夕食会
 一一月六日(月)帰国
 今回の行動が右の様に強行日程になったことは、実は予想外のことで、直前まで殆ど日程が決まらず出発し、折衝に当たった私としては、大いに心配していたところでした。しかし、現地のNLG担当者の熱意でこのような日程となったことには感謝しなければなりません。また、日程をこなしながら、ボストン市及び近郊の美しい町並みと自然に触れ、安くて美味なシーフードを賞味できたことは、望外の喜びでした。それぞれの行動の成果は、各担当者の報告に譲りますが、裁判所等で会談したアメリカの裁判官、検察官、弁護士の全員が、陪審制度の意義と現状について、肯定的に評価し、一人または一握りの裁判官による判断よりも六人または一二人の「同輩」の判断の方が信頼できると述べていたことは、印象的でした。他方、ピーター・アーリンダーNLG前議長のみは、陪審制度の長所はアメリカの歴史と文化と結びつけてのみ評価されるべきことを強調しており、それも正しい指摘といわねばなりません。またNLG大会は「司法をどう改革するか」が主テーマでしたが、オープニングでの報告を聞く限りでは、この国の司法がマイノリテイーと貧困者に差別的に運用されている現状はよく分かりましたが、改革のビジョンは提示されなかったことが気がかりでした。さらに、NLG大会は、大統領選挙の直前に開かれましたが、八年前に訪米したときは、NLGのかなりの弁護士たちがクリントン支持を表明していたのに、今回はゴア支持の意見は全く聞かれず、緑の党のラルフ・ネーダーについては評価が二分していたのが印象的でした。ともあれ、今回の訪米は、近年にない意義のある内容で、今後の国際活動の励みとなるものと考えています。
 尚、今回の旅の報告集を現在準備中です。


ナショナル・ロイヤーズ・ギルド総会に参加して(訪米報告その1)

東京支部  鈴 木 亜 英

一、ボストンで開かれたギルド総会に参加した。菅野昭夫国際問題委員長を先頭に、北海道から篠田奈保子、大阪から上山勤、藤木邦顕、篠原俊一、東京から柳沢尚武、それに私の七名の団員、菅野夫人、本部専従の森脇圭子、これに国民救援会から二名の会員が合流し、総勢一一名の代表団であった。九一年団がギルド・シカゴ総会に正式に参加して九年の歳月が経つ。私自身も参加は六回目くらいにはなろう。
 ギルド会員は現在約六〇〇〇名、総会参加者はのべで五〇〇名くらいだろうか。何しろ丸四日間のロングランだから私たちにも実数がつかめない。東海岸開催のときは西海岸からの参加者が減り、西海岸開催のときは東海岸からの参加者が減るという。アメリカは広い。交通費や日程が半端じゃないから懐具合と相談という清貧会員も意外と多いと聞く。ならば中間のシカゴ、デトロイト、セントポールあたりではというと、これまた「場所の面白みに欠けるせいか参加者が増えない」と主催者側は嘆く。

二、ともあれ、今年も総会はにぎやかであった。顔に年輪の刻まれた諸氏に混じって若い人も結構多い。会員の二〇パーセント余りを占めるロースクールの学生たちである。回を重ねて参加しているせいか、私も廊下やエレベーター内で声をかけられることが多くなってきた。去年米子総会に参加してくれた四人も元気な顔をみせていた。ジェローム・ポーンは私を見るなり駆け寄り抱きついてきた。ピーター・アーリンダーの資金援助でやっと辿り着いた日本での感慨が沸々とよみがえったのか、自由法曹団の総会はすばらしかったと辺り構わず機関銃のように喋りまくっていた。

三、ギルド総会はプログラムはあるが「議案書」がない。ここが団総会との大きな違いだ。テーマに則したスピーカーを何人か選び、経験を喋らせることからすべてが始まる。情勢についての認識の共有は総括文書からではないのだ。メジャーパネルという比較的大きな集会、セミナー、ミーティング、ワークショップといった少し規模の小さい集会・分科会が四日間にわたりびっしりある。このイベントのために用意されたスピーカーは多数にのぼり、分厚い総会のプログラムの大部分をこの人物紹介が占める。どのプレゼンテーションもとても生き生きしたもので、話し手の語りかけにはしばしばジョークがはさまれ、その都度聴衆にわっとうける。語り手と聞き手は一方通行ではなく、そこには怒りや悲しみや喜びを共感する輪が広がってゆく感じだ。感動した話や尊敬できる活動にはスタンディングオベーションまでつく。ウトウトしているのは時差に悩まされている我が代表団の一部くらいなものである。
 だから、課題をみんなで確認して、一年間この線で頑張りましょうといった拘束はない。今総会のテーマは「リボリューショナイジング・ジャステス」。司法を大改革するという意味だが、すべての議論がそのことに集中しているわけではなく、執行部の提起する方針など全くないといった方がよい。一週間前にあの緊迫した団総会を経験した私には何やら物足りないところも感じられたが、状況はこうだ、あとは皆がどう考え、どう動くかだよといったやり方はうらやましくもあった。もともと一国一城の主をひとくくりにする方がいけないのかもしれない。

四、そんななかで私たちは三つのプログラムに参加した。
 第一日目のオープニングアドレスは午後七時から、地元のマサチューセッツ州の初の黒人女性上院議員とボストン弁護士協会の公民権委員会の幹部の女性弁護士の歓迎のあいさつで始まった。自分の活動を時間をかけてきちんと話すから聞く側も真剣である。基調演説はワシントンD・Cに本部を置く刑事弁護人協会の議長さん。プロレスラーと見紛う雲つくような黒人男性。しかも喋る内容はアメリカの刑事司法の厳しい現状。だが総会冒頭の基調演説者として、自分をこの壇上に上げてくれたのはアーサー・キノイのお陰だと会場のキノイを讃えたときの優しい眼差しは素敵であった。
 第二日目のインターナショナルプログラムは午後八時から始まった。会場のコーナーにあるドリンクを一杯ひっかけて参加するものである。IADLハバナ総会報告やアン・ファーガン・ジンジャー、レノックス・ハインズといった日本でも馴染みの弁護士の演説に先がけて、我が国を代表して菅野団員が挨拶した。ガイドライン法の通過、憲法調査会設置といった具体的な動きをあげて憲法の平和主義が危機に晒されていることを訴えたが、話がハーグ平和市民会議の話に及んだときドッと沸き、日米の民主勢力の連帯の呼びかけにスタンディング・オベーションが起きた。私たちもいつの間にか腰を浮かして拍手していた。
 第三日後の晩餐会は図らずも、ピーター・アーリンダー、デビッド・トーマスら来日組の招待というかたちで代表団全員が円卓についた。型どおりのギルド貢献者への表彰が続き、会の半ばからは本来の目的でもあるドウネイションに移った。ここでどれだけ寄付が集められるかが勝負らしい。ジェローム・ポーン財政部長は汗だくで記帳と計算にあたっていた。
 会員が会場中央にしつらえられたマイクの前に縦列に並び、次々と自分たちの活動を紹介しながら、寄付金額を明らかにしてゆく。自分たちの運動や活動を全員の前で述べる少ないチャンスでもある。だが、喋るにはお金の裏付けが必要な仕組みになっている。「あれはいいね。団でもやろうか。」「皆時間を気にして喋るよね。」などとテーブルでひそひそやっていると、どうやら私たちも例外ではない雰囲気となってきた。食事をごちそうになり知らんふりもできないのでは…。意を決して菅野団員が些かの日本円を懐にしてマイクの前に並んだ。金額は多くはなかったが、それでも拍手が起こったのである。権利と義務、利益と責任がこれほど裏腹のイベントも多彩な総会のなかではここだけであろう。
(後半は「本場アメリカで陪審制度を考える」です。次号掲載予定)


ボストン視察報告

大阪支部  上  山   勤

1、一〇月三〇日から九日間の日程で、米国の東部マサチューセッツ州の裁判制度の視察に行って来ました。詳細については別途報告書を作成するそうなので、ここでは特徴的であった事を二つだけ感想を交えて紹介します。
2、その一つ、裁判官・検察官・弁護士の同席のもとでマサチューセッツ州連邦地方裁判所を見学し、懇談をした際の話題。日本では、司法試験というかなり難しい試験を通れば二年間(現在は一年半)の研修を経て裁判官になっているという紹介をすると、彼らは一様に、incredible!!(信じられへん!)と言うのです。米国では、試験をパスして法律家になったあと20年か25年位の実務の経験を経てから裁判官になれるというのです(いろいろ案内と説明をしてくれたナンシー・ガートナー裁判官は『私は見た目程若くないのですよ』といいつつ、二三年の法律家経験を積んだ上で連邦地方裁判所の判事になった事を紹介された)。
 現在の日本の様に、若いときからすぐ裁判官になって、社会の様々な階層の人々の生活に触れることなく、最高裁の意向を気にしながら、人を裁くあるいは言い分を判断するという事はよくない事だと改めて思った事です。キャリヤーシステムをやめて、米国のように40代の半ば以降に裁判官になるようなシステムを追求すべきではないでしょうか(ちなみに、この連邦地裁には日本の最高裁からの派遣という事で、東京地裁の高橋・森枝、大阪地裁の吉川裁判官が研修に来たそうです。彼らの事をベリーヤングと言っていた地元の裁判官達はどんな思いで研修生に接したのだろう・・・などと余計な事に思いを巡らせてしまった)。
 連邦法に違反したり特殊な民事事件は連邦裁判所が扱い、裁判官は大統領が任命します。しかし、いずれも実務経験が最低でも20年は必要だとのことでした。 
 その二つめ。陪審法廷を見学しました。ご承知のように米国では、本人が希望すれば裁判官だけでなく、市民の中から選ばれた陪審員に裁判をしてもらう事ができます。私が見学した法廷では麻薬取締法違反と殺人の罪で起訴された事件が審理されていました。陪審審理は通常二日か三日で終わるそうです。裁判官が後でレクチャーしてくれたのですが、米国ではイギリスがお茶の輸出・入に対して税金をかけ、税法違反で市民を裁判に掛けようとしたのですが、自分達のことは自分達の周囲の身近で事情の良く分かっている人たちに裁いてもらうのだという思想に基づいて陪審裁判が発展し、実情を無視したイギリスの税法違反の攻撃を跳ね返したのだそうです(大陪審が不起訴を連発した事を述べているのか)。その意味で自分達の事は自分達で、という極めて民主的な思想を根拠にしています。 われわれが、『日本では最高裁判所が、普通の市民は判断を誤る場合もあって日本に陪審制度はなじまないといっている』というとその裁判官は『@事実があったかなかったかという判断は普通の市民が毎日の生活の中で十分にできており、裁判の中で事実の有無の判断をすることは十分に可能だ。現に、日本は歴史の中で、誤りを反省し克服して来ている歴史があるではないか。日本人は十分に判断力を持っている。Aそのような発想は傲慢である。』
 という意見を述べられました。私は、陪審制度は日本社会の民主主義全体の進化のためにも望ましい制度であると思いました。日本の裁判システムをどう変えるか。社会的な弱者の意見にもよく耳をかす身近な裁判所に変わって行って欲しいものです。
 連邦地方裁判所は港の傍の美しい場所に建てられていました。
 二階からの眺めは美しく、市民が自由に休憩できる様に設計されています(日本の裁判所の公衆待合室みたいな構造です)。
 首席裁判官は、『一番美しいこの場所こそ市民に解放されているエリヤにしたかった』とおっしゃいました。裁判所行政の責任者として、このような発想を誇りをもって語る姿勢に対し、強い尊敬の念を持つ事ができました。
 視察報告の番外編は、大阪支部ニュースへ投稿致します。


法曹一元と陪審制

─ボストンNLG大会と裁判所見学より─

大阪支部  藤 木 邦 顕

 一〇月二九日から一一月六日までのNLG総会と陪審裁判見学のツアーに参加した感想を述べたいと思いますが、これは、私個人の感想であって、参加者のみなさんとは少し異なったものかもしれないことを最初にお断りいたします。
私自身については陪審裁判は、一九八八年と九二年にも見学の機会がありましたが、今回は裁判官や地方検事補、公設弁護人との交流もでき、陪審に焦点をしぼったものとしては充実したものでした。そのなかで感じたのは、アメリカの裁判官と日本の裁判官の著しい感覚のちがいです。アメリカが法曹一元をとっているとはいえ、裁判官に指名されるのは、多くは地方検事事務所勤務の経験者や企業側弁護士であり、労働争議や公民権運動に関わった人が指名されることは異例です。しかし、たとえ建前であっても、私たちの会った裁判官は、陪審制の優れていること、優れていることの理由は、学識経験、法律の素養のある一人の裁判官の判断よりも一二人の市民の判断の方が信頼に値することをあげます。そしてドルチェスター州地方裁判所のメイ判事のように、司法の権威は人民に由来すると公然とのべる裁判官がいることに驚かされます。考えてみれば、日本も国民主権の憲法を持つ国家であり、三権の一翼である司法の権威も国民に由来するはずですが、日本の裁判官で公衆の面前で司法は国民のものであることを説く人がどれくらいいるでしょうか。この感覚の違いは、英国からの独立戦争を経て人民の手で憲法を確立した歴史を持つ国と敗戦を経ても天皇制軍国主義の信奉者を完全に一掃できなかった日本との差であるといえば、そのとおりでしょうが、やはりキャリア官僚として選抜されて養成されている日本の裁判官と経験を積んだ法律家から選抜されている裁判官の違いではないかと感じました。
 一方陪審制については、たしかに優れている面が大きいと感じましたが、日本で導入するためには、さらに国民的な論議が必要であると思います。ツアーから帰ってきて、ある高校の先生と話していますと、陪審員というのは民生委員のようにそれを引き受けた人たちがいて常に裁判に関与しているのかと思っていたと言われました。さらに普通の市民からすれば、陪審などという言葉を聞いたこともないという反応になるのではないでしょうか。陪審制度は陪審員を引き受けようという意欲のある人のみならず広く市民の協力を得なければなりません。ボストン市の上位裁判所では、一日七〇〇人の人に召喚状を出して約二〇〇人の陪審員候補者が出頭すると聞かされました。陪審員となったときは市民としての義務を果たしているので、一定日数は給与支払いを義務づける法律もあるようですが、一日召還されるのも苦痛であると感じる人も多いと思います。国民の理解なしに制度を作ってもたちまち苦情が殺到して、維持できなくなることも十分考えられます。
 私は、今回のツアーを経て、法曹一元をなんとか実現させ、陪審は圧倒的な弁護士出身裁判官ができた後に展望しなければならないのではないかと感じています。国民に影響を与える問題の判断は国民に委ねることこそが民主主義の根幹です。司法改革を進める視点として改めて考えるべきことではないでしょうか。
 ツアーから帰って、あらためて菅野昭夫先生のすばらしい英語力に感動し、きちんと勉強し直す必要性を感じましたし、アメリカ法とアメリカ史を改めて見直してみようという気になっています。ついでにいえば、レキシントンとならんで独立戦争の戦跡地のひとつであるコンコードはすばらしいところです。ボストンへ行かれる機会のある方は是非尋ねてみてください。


ボストン旅行記

大阪支部   篠 原 俊 一

飛行機で一四時間過去の世界に行くと、そこは陪審制度のある国アメリカ、ボストン市。初めて経験する時差惚けの頭で初日から結構ハードなスケジュールをこなし、帰国後報告書作成を担当することになる一一月二日(渡米四日目)の調査を迎えた。
 前の晩、宿泊先のホテルのバーで、沖縄出身の瑞慶覧氏と北海道出身の篠田氏という何だか良くわからない取り合わせの三人で午前三時までジンをあおっていたせいで、時差惚け×酒惚け状態で、ボストン市内の上位裁判所で陪審員の喚問と陪審員選定手続の説明を受け、その後、同裁判所の裁判官から最近陪審員による評決のあった事件の説明を受けた。この日まで、いくつかの裁判所で陪審制度の説明を受けてきたが、いずれによっても陪審制度は極めて民主的な制度であるとの評価であり、この上位裁判所での説明、評価も同じものであった。その根っこには、「選び抜かれたエリートによってではなく同輩によって裁かれることが重要」という価値判断があるようだ。裁判官が「確かに裁判官による判断は感情にとらわれることなく、聡明で、分析的で、冷静かも知れない。しかし、一群の同輩の市民がむしろ合理的で公平な判断をするのである」(「しかし」以下が、もっと長い文章で感動的だったという記憶があるが、メモがとられていないため、再現不能…情けない)という表現をしておられた。そして、文化が多様なアメリカよりも日本の方が陪審制度を受け入れる基盤があるのではないかとの意見を持っておられた。この時文化の統一性からはそのように言えても、日本人の場合、「何で隣のおっちゃんに裁かれなあかんねん!」ということになって「同輩に裁かれることがよいことだ」という価値観はなかなか受け入れられへんかもなと思ったのは私だけではなかったようだ。
 さて、午後からボストン市裁判所でハーバード・H・ハーシュファング裁判官らと懇談した。同氏からは陪審制度について今までとは少し違った話を聞けたような気がした。というのは、これまでは陪審制度はたいへん良いという語調で格調高く話される方が多かったのに対して、同氏は裁判官の役割は、全体の時間を短くすることであり、数多くの事件がある中、本当に重要な事件だけに陪審審理で時間をかけられるよう、そうでない事件はできるだけ陪審審理をしないで処理するようにすると述べておられたからである。陪審制度について、もちろん否定的評価はしておられなかったが、全体の雰囲気からは、陪審制度は時間がかかってあんまり歓迎できないと言いたかったのかなあなどと思ったりもした(とは言っても、氏の話される英語は私には理解不可能なので全く的外れな受け取り方かも知れない…)。
 訪問が終わってホテルに帰る途中、現職裁判官が現行制度を消極的に評価するのは難しいから、とりあえず教科書に書いてあるように褒めておこうという人も中にはいるのかな等とちょっとひねくれたことを考えたりなんかもした。


「法科大学院構想」の問題点について

東京支部  萩 尾 健 太

 前の団通信に、中西一裕団員の私の文章を批判する文章が掲載されましたが、私の方は都合により文章掲載を辞退したので、団員の皆さんには、いまいちよく分からない点もあったかと思います。
 私は、情勢の進展に伴い、書き換えたものを再度投稿しようと考えていたのですが、その余裕もないので、前に書いたものに若干の修正を施して、投稿することとしました。現在の情勢のもとでの私の分析については、「法と民主主義」(日本民主法律家協会)への投稿および青年法律家協会弁学合同部会の意見書「司法改革のゆくえ」に反映されておりますので、そちらもごらん頂ければ幸いです。

第一 総論
一 私は、大学五年間の学生運動、そして、現在も東大駒場寮訴訟をつうじて、大学問題に関わってきました。その立場からは、去る九月二九日に文部省の法科大学院構想に関する検討会議がまとめ、前の司法改革審議会中間報告が承認した「法科大学院構想」は認めることができません。
 文部省・大学審議会路線追随、大学自治・学生生活破壊の本質をもち、自由法曹団の皆さんのような民衆の弁護士を根絶やしにすることを意図する「法科大学院構想」を、教職員、学生などの大学人とともに、大衆的な運動で阻止する、或いは民主的な構想に変革することを訴えて、この問題に関する団内の討論に参加します。
二 この「法科大学院構想」の問題点は、大きく四つあります。
 第一に、大学間格差・学部間格差・学部教育の空洞化、第二に、大学自治破壊の第三者評価機関の設置、第三に、学生の成績及びその他の活動の管理による統制と抑圧、最後に教育の機会均等の破壊です。
 これらの四点は、従来、大学審議会による大学全体の改革の問題点として広範な大学人が反対運動を行ってきたものです。

第二 それぞれの問題点について
一 第一の点は、法科大学院が設置できる法学部とできない法学部の間で格差が広がるとともに、法学部だけ優遇すると言うことになれば、学部間の格差を拡大します。さらに、今日ただですら法学部はマスプロ授業を行っているのに、教員を大学院にとられることになれば、学部教育は空洞化します。「法科大学院」推進論者は、これを法学部のリベラルアーツ化と言ってごまかしていますが、実際には、後述の「法科大学院」入試における学業成績評価と結びついて、学生をいっそうの受験競争に駆り立てるものとなるでしょう。
 検討会議の「検討のまとめ」も、もちろん教員は大学外から補充すると言ってますが、その対象として挙げられているのは、実務法曹の外、企業法務担当者と行政官僚です。これが、産官学共同をもたらし、大学自治を掘り崩すとともに、後述する厳格な成績管理による学生統制と結びついて法科大学院生、ひいては弁護士の変質をもたらすことは明らかです。
二 「法科大学院には、特に国費を助成するから他の大学や学部にしわ寄せは行かない」との意見もありましょう。そこで、第二の、第三者評価機関についてですが、この第三者評価機関はそこでの評価により助成金を割り振り、更には法科大学院の認可取消をする権限まで有しています。
 今、大学の貧困と言われるほどの低文教政策の圧力、そして国立大学独立行政法人化の脅しのもとに、大学は文部省による財政誘導に極めて弱くなっています。さらに認可取消の脅しまで加われば、大学がこの第三者評価機関の管理統制下に置かれてしまうことは想像に難くありません。
 日弁連は、この第三者評価機関に弁護士会の影響力を及ぼせるようにする、と主張しています。しかし、この第三者評価機関を構成するのは、「検討のまとめ」によれば大学関係者と法曹三者、学識経験者、そして文部省関係者とされています。三者協議会でも十分影響力を行使し得なかった日弁連がこの構成の第三者評価機関で影響力を及ぼせるとはとても思えません。
 第三者評価機関の設置は、大学審議会が学部を問わず全ての国立大学に押しつけようとしているものです。心ある大学人はこれを大学の管理統制、大学自治破壊として反対しています。現在の「法科大学院構想」を認めることは、こうした大学審路線の突破口を法学部から切り開くことであり、大学自治破壊への荷担、心ある大学人への裏切りに他なりません。
 さらに、ここでの評価は法科大学院相互の序列化をもたらし、一部の大学に任官志望者が集中するようになり、事実上の分離修習に道を開きます。
三 第三に、成績その他の活動評価による、学生への管理統制ですが、今述べたように文部省に管理統制された大学のもとで、学業成績以外の活動まで評価されることになったら恐ろしい事態が生じます。
 学生は萎縮してしまい、社会の問題に批判的に取り組むような活動は出来なくなるでしょう。それのみならず「学業以外の評価」は、教育基本法改定と関連して議論されている一八歳以上の奉仕活動の義務付けと結びつく危険すらあります。法科大学院生は予備自衛官ばかり、と言う事態が現実のものとなりかねません。
 また、これまで司法研修所の問題点ということが言われてきました。研修所当局の成績評価権限、裁判官検察官任用権限の前に、任官、任検志望者が過度に萎縮し、上の方ばかり見るヒラメ裁判官、ヒラメ検察官が生み出されるというものでした。
 「検討のまとめ」が示す法科大学院は、一年目で所定の単位を取れなければその後の過程の履修が認められないという司法研修所以上に成績管理の厳しいものであり、しかもそれが全ての弁護士志望者にも及ぼされるのです。
 主体性のある自主的活動の中からこそ民衆の弁護士が生み出されるというのが、これまでの青法協活動の教訓です。それに逆行する管理統制の法科大学院のもとでは、主体性を喪失したヒラメ法曹ばかりが生み出されます。そのもとでは、日弁連も弁護士自身も、社会正義と人権擁護の使命を負った存在から変質してしまうことは必至です。
四 第四の教育の機会均等の破壊ですが、今、国立大学は独立行政法人化の動きの前に揺れています。独立行政法人化すれば、学費は現在の年間七五万円から三倍に跳ね上がると言われています。さらに学部間格差、受益者負担主義が導入されれば、いっそう跳ね上がります。
 「検討のまとめ」が示す法科大学院では、こうした独立行政法人化の問題が全く省みられておりません。奨学金、教育ローンを導入するとしていますが、現在既に奨学金は利子付きのものとなっています。さらにこうした経済的援助措置が法科大学院生統制の手段となることも十分考えられます。
 結局法科大学院から生み出されるのは、金持ち弁護士と多額の借金を背負った弁護士であり、金にならない人権活動を行う弁護士は生み出されないでしょう。

第三 結論
一 以上述べたように、法科大学院は、「入口は大学自治破壊、出口は弁護士の変質」というとんでもない構想です。
 それをねらいとした財界・文部省の策略に引っかかったとしか思えません。
 このような構想を推進することは、弁護士の「利益」のために大学自治、学生自治を文部省に売り渡すことであり、ギルド的エゴのそしりを免れないと思います。
二 今、この大学自治破壊の「法科大学院構想」について、民科法律部会、日本科学者会議、全大教をはじめとする大学人の間で急速に反対の声が起きてきています。この声に応え、多くの大学人とともに「法科大学院構想」を阻止する、それが出来なくとも、第三者評価機関設置と国立大学独立行政法人化を阻止し民主的法科大学院を実現するべく運動する決意を込めて、私の論稿を終わらせていただきます。  


富山総会参加の感想B

総会に参加してのいくつかの感想

――特に司法改革をめぐって

大阪支部  谷  英 樹

 編集部から団総会の感想を投稿してほしいとの求めがありました。私は所要のため一日目しか出席していませんので、感想といっても一日目の議論についての感想にとどまりますが、その限りでいくつか感じた点を述べます。
 今回の総会のテーマの一つは、司法改革についての議論と動きの評価と、今後の運動方針についての意思統一でした。この問題に関する議論に関しては一日目の分散会に参加しましたが、そのなかで感じたことは、審議会の審議内容を具体的にふまえないで評価をしてしまうという議論が目に付いたことです。たとえば、審議会の議論では法曹一元は葬り去られたというようなマスコミの誤った報道を鵜呑みにした議論や、審議会ではもっぱら財界の要求に添うような議論がなされているといった議論です。しかし、実際の審議会の議論では、たとえば、これまでいわば聖域だった裁判官の人事評価の方法について最高裁に具体的に報告させることに成功し、その結果、審議会では人事の透明性を確保することをはじめ、キャリアシステムの問題点として三点を指摘して具体的な改善が必要であるとの取りまとめがなされるなど、私たちの主張に添った重要な前進面が見られます。
 このような審議経過を充分にふまえないで議論する傾向は弁護士会のなかにもあり、団の議論はそれを反映したものでしょう。しかし、現在の情勢を正しく評価するためには、今後審議内容をふまえた具体的な議論が必要だと考えます。
 その点で、今回の総会に提案され採択された「司法改革審議会に対する意見――国民のための司法改革の実現のために」は、審議会の議事録を読み込み、審議の到達点と問題点を具体的に検討した結果到達した見地であり、団の意思統一にとってきわめて貴重な成果でした。これを作成された事務局は大変な苦労をされたと聞きますが、この「意見」と、同時に採択された「司法改革に関する団の当面の行動方針」は、団と団員の今後の活動方針として貴重な指針になるものと思われます
 日弁連の総会決議案に対する評価は、あえて論点からはずし、実際にも議論されませんでした。この時点でのこの運営方針は正しかったと考えますが、その内容である法曹人口とロースクールをめぐる問題は、今後の司法改革の方向を定めるうえで避けて通れないものです。したがって、これから集中的に議論を深めて、団内で意思統一を図っていく必要があるものと思います。
 総会ではこれらの点に関してもいくつかの発言があり、これまで同様、強い反対意見も出されました。しかし、そのような議論を聞いていていつも思うのは、私たちが人権擁護の活動をしようとするとき、いつも悩みの種となるのは、ともにたたかう仲間が少なく、充分に旺盛な活動ができないということではないかということです。今や団員をはじめとする多くの自覚的弁護士の人権活動は、非常に幅広く、多くの分野で成果をあげています。しかし、このような活動を担う弁護士がもっと多ければ、さらに活動の質が深まり、幅は広がるでしょう。私たち弁護士が担うべき人権活動の分野がまだまだ多く取り残されているという点では異論はないでしょう。
 また、多重債務を抱えた人が弁護士にたどり着かずに法的救済を受けられないまま放置されていたり、理不尽なリストラによって解雇されても法的手続きをとる手段を知らないまま泣き寝入りするといった事態はおそらく枚挙に暇はないでしょう。私自身の意見としては、そのような現状で、法曹人口の増員に反対することが、本当に国民の側に立つ弁護士のすることだろうかと疑問を感じます。
 たしかに、弁護士の数が増えれば、企業法務を担う弁護士が増えることも間違いありません。しかし、これからの社会ではそれも必要なことでしょうし、新たに法曹となる人の数が増えると、そのなかに一定の割合で人権活動に意欲を持つ弁護士がいることは間違いないでしょう。
 一九九八年の総会で採択された「二一世紀の司法の民主化のための提言案」でも、抜本的な制度改革を支える法曹人口の大幅な増大の必要性が指摘されています。こうした点について十分な議論を積み上げ、正しい方針を早急に勝ち取っていきたいものです。


自由法曹団総会に参加して

東京支部  伊 藤 克 之

 はじめまして。一〇月から弁護士登録した伊藤と申します。
 去る一〇月二一日、私たち新規登録弁護士にとってははじめての自由法曹団総会に参加いたしました。司法試験の民法で初めて学ぶ宇奈月温泉事件(権利濫用法理)でおなじみの宇奈月温泉が、自由法曹団の弁護士としてはじめての総会の場だということに、因縁めいたものを感じてなりません。
 私は、今回の総会において、司法改革の議論が大詰めを迎えている最中、自分は法曹界の一員としてどのような態度を取るべきか、じっくりと考えようと思っておりました。
 分科会における議論は、ただ反対を叫ぶだけでは到底対処できず、団員の間でも意見が分かれる問題であるにも関わらず、大変充実しかつ紳士的なもので、後日行われた日弁連総会にはぜひ見習って欲しいとさえ思いました。特に、現行の司法試験は、指導教官の差別や恣意的評価がまかり通る他の分野から見れば羨ましいほど公平な制度で、ロースクール構想がその公平さを損なってしまうのではないかというご指摘は、司法試験の過酷さばかり目に言っていた私には大変印象的なもので、ロースクール構想の何たるかについての十分に考えてこなかったことを大いに反省させられました。
 ただ、例年にない重大問題ですから、いつもより議論の時間を多くとるか、あるいは分科会の規模を小さくして発言しやすくするといった工夫があると、より議論が充実したものになるのではないか、と思い、それと同時に、結局発言できなかった私の至らなさを反省しております。
 また、新人学習会の松波団員のご講演は、理科が好きで、医療訴訟や環境訴訟など、理科系の裁判をやりたいと思っている(といっても、身に付くのはいつになるかわかりませんが)私にとって、松波団員に憧れを感じるものでした。それに加えて、証人尋問に苦手意識をもっている自分を、早く克服し、相手方の証人を屈服させられるような優れた証人尋問を身に付けなければいけない、とここでも痛感いたしました。
 今後の総会においては、自分も一団員として、議論や企画に主体的、積極的に参加し、議論をリードしていかなければいけない、と決意を新たにして帰路につきました。


「聞きしに勝る国」コスタリカ

─コスタリカ訪問記 その1─

東京支部  盛 岡 暉 道

国法協からの「コスタリカに寄ってからキューバの国際民主法律家協会の総会に参加しよう!」という誘いを見て、飛行機は大嫌いでも、ここ三、四年ほど前からのにわかコスタリカ・ファンで、四〇年も前のキューバ大好き人間の血を抑えきれず、一〇月一一日から二一日まで、一行三〇人ばかりの訪問団に加わって、コスタリカとキューバに行ってきました。
 出発の三週間前に、四谷の「国法協」事務所で、駿河台大学の竹村卓先生を講師とするコスタリカについての学習会があり、そこで竹村先生の「国際内戦―一九四八年のコスタリカ―」・「戦時と戦後の狭間に―チャプルテペック議定書の成立をめぐる史的考察」・「コスタリカ・ニカラグア紛争(一九五五年)をめぐる国際環境とアイゼンハワー政権の対応―グァテマラ危機(一九五四年)との比較において―」という論文もいただいてきました。
また、私たちのコスタリカ行きのすぐ前に、日本反核法律家協会の呼びかけで、九月二四日から三日間、弁護士六名市民一〇名がコスタリカを訪問しており、その一員の池田真規団員がお書きになった「コスタリカに学ぶ‐憲法と政治‐」という報告文も、こちらに帰ってきてから読ませていただきました。
更に、最近、「昭島・憲法を学ぶ会」がコスタリカ憲法の和訳全文を国会図書館から取り寄せたことを知った竹村先生から、同先生の他の論文、「非武装中立の再検討‐コスタ・リカの事例を中心として」・「集団的自衛権の歴史的位相」も贈っていただきました。
だから、このコスタリカ訪問記は、帰国後に読んだこれらのレポートも参考にしています。
 さて、一体何時間飛行機に乗っていたのか、とにかくその間、私はほとんどまったく眠れなかったために、フラフラになってやっとこさ辿り着いたのに、滞在したのは実質たった三日だったけれど、やっぱりコスタリカに行って大いによかったと思っています。
 そのコスタリカで、私たちは、アリアス平和財団の事務局長ヘルナンドさん、弁護士で国際反核法律家協会副会長のバルガスさん、リンコングランデ小学校の平和文化教育担当の女の先生たちや生徒さんたち、動植物学に詳しい通訳のマルモ・マルチネスさん、二年前からコスタリカに留学してアルバイトに通訳をしている足立さん(この足立さんからコスタリカ友好議員連盟の会長は森喜朗首相であるという嘘のような本当の話を聞かされました。)などからお話を聞いてきました。 
池田団員一行の方は、私たちと同じ、リンコングランデ小学校訪問、バルガス弁護士からのレクチャーの他に、フィゲレス元大統領夫人カレン女史、自然保護の生物多様性研究所、米州人権裁判所、に会ったり、行ったりしたとのことです。
 私たちの印象では、コスタリカの人たちが自分たちの国について自慢していることは
  軍隊を持っていない
  自然環境を保護している
  民主主義を徹底させている
の三つのように思いました。
以下にそのあらましを書いてみます。
一〇月一二日一日目
 コスタリカでの私たちの最初の訪問先は、例の早乙女勝元さんの「軍隊のないコスタリカ」でおなじみの、首都サンホセにある昔の陸軍司令部のあった要塞跡の国立博物館でした(二日目にトゥールゲイロ国立公園の熱帯雨林へ行った以外は、私たちの訪問先はすべてサンホセの中です)。
 ここは館内での写真は禁止されていたので、屋外の古い大砲や世界の七不思議の一つの大きな丸い石や見学に来ていた小学生たちの写真だけとってきましたが、館内で通訳の足立さんが私たちに説明をしているのを聞いて、引率の小学校の女の先生が「生徒達は日本語を初めて聞くので、一緒に聞いていてよいか」と話しかけて来たりしました。
 ここには、せっかくコスタリカの歴史を知る上で貴重な出来事や人物の写真や遺品などが沢山ならべてあったのに、どうしてそれらをちゃんとメモしてこなかったのか、もったいないことをしたとは思うのですが、何しろこの時はまだ一〇数時間の飛行の疲れと時差ボケの最中だったので、館内の写真をまったく撮っていなかったためもあり、今になっては、早乙女さんの「軍隊のないコスタリカ」に出てくるファン・サンタマリアというアメリカの軍閥ウィリアム・ウォーカー軍と闘った愛国者の男性の鼓笛手の話以外は、あんまりよく思い出せないのです。申し訳ない限りです。
また、訪問の順序も記憶がおぼろげになっていますが、たしかコスタリカの先住民の人たちの作った金の宝物(主に装飾品)が展示されている国立銀行と同じ建物にある博物館に行った(この時、私たち一行のなかでは多分最高齢の根本孔衛団員たちは、別行動で米州人権裁判所に出掛けていきましたが、私はコスタリカが国際人権規約B規約・米州人権規約の「批准書寄託」一番乗りを果たしたために、サン・ホセにこの米州人権裁判所があるのだということはまったく知らなかったため、根本さん達もご苦労さんなことだぐらいに思っただけでした。もらっていた資料を良く読んでいなかったのです。もったいないことをしました。)後に、サンホセの貧民層居住区にあるリンコングランデ小学校に案内してもらいました。
 この地区はあまり治安が良くないので小学校から外へは出ないようにと注意されていましたが、子供達は概して人なつっこく、私が「ヴェノス・タールデス」(今日は)と挨拶すると、「ヴェノス」とか「タールデス」とか返事をしてくれました。
 彼らは、私たちのことを「チーノ、チーノ」というので、私は自分を指さして「ハポン」と言い返したものの、後で知ったことですが、「チーノ」は狭い意味の「中国人」だけではなく、広くアジア人全体を指す言葉だったようです(私達がアメリカ人もフランス人もドイツ人も区別できず「欧米人」といってしまうのと同じでしょう)。【しばらく連載します】


追悼植木敬夫団員

弔   辞

団 長  宇 賀 神  直

 植木敬夫先生、あなたの訃報に接し、私たち自由法曹団の全国の団員は大きな悲しみを禁じ得ません。
 あなたは、陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て戦後復員後の一九四六年東京帝国大学法学部に入学された後全国の学生自治会を統合する全国学生自治会総連合の結成に尽力され、戦後初期の学生運動に重要な役割を果たされました。卒業後、日本共産党本部に勤務、自由法曹団事務局員をしたあと、弁護士への道を進まれました。
 司法修習五期の修習生として、修習を終えた後、一九五三年東京合同法律事務所に所属されました。戦後、自由法曹団の団員がまだまだ少数で、困難なたたかいを強いられる中、松川事件、辰野事件、青梅事件、砂川事件など自由法曹団の団員が参加して輝かしい成果をあげたいくつもの事件でその中心的役割を担われ、戦後の大衆的裁判闘争の中で、たゆまないたたかいを続けられました。
 一方で、借地借間借家人組合や住宅生協で会長、理事長などの役員を務められ、利用者、消費者が主体となる運動の先駆けとも言える活動を築いてこられました。
 植木敬夫先生の真骨頂は、自分の頭で考え抜き、記録を読み込み、その鋭い分析力で事案の真相と、権力犯罪の実態をあばいていくことであり、より多くの国民のなかに真相を広げ、国民的たたかいを創っていく方向を示し続けたことでした。こうした姿勢は、大衆的裁判闘争という名で今では自由法曹団のたたかいかたの基本になっていますが、こうしたたたかいを創ってきたのが植木先生たちであり、こうしたたたかいは多くの団員の範となり、大きな励ましとなりました。
 私たち自由法曹団は、今でこそ一五〇〇名を超え、すべての都道府県に団員の事務所をもつに至りました。そしてさまざまな分野で多くの団員が幅広く活躍しています。このような発展は、植木団員をはじめとする先達の苦労と汗のたたかいの歴史があったからこそといってよいでしょう。
 植木先生、あなたが自由法曹団の闘い、国民共同の闘いにしるした功績は偉大です。
 あなたの後から続く団員、そして多くの民主的な団体・個人が、先生のご遺志と事業を受け継ぎ、あなたのめざした道をさらに発展させる決意です。
 どうか、後に続く私たちのたたかいをしっかりと見守っていて下さい。自由法曹団全国一五〇〇名を代表しての心からの弔辞とさせていただきます。
二〇〇〇年一一月一七日

弔   辞

東京支部  上 田 誠 吉

いまから五十年前、私が弁護士になって琴平町の自由法曹団を訪ねたとき、植木さん、あなたは既に本部事務局員として仕事をしていました。やがてあなたは司法試験の受験を志し、自由法曹団をやめ、その年の試験に合格し、翌年司法修習生として仙台にいきました。仙台では松川事件の旧二審の裁判が始まり、あなたはその法廷を傍聴し、よるの街の私たちの酒の席には、どこからともなく現れて同席していました。戦災からの復興が遅れた仙台の街には、砂埃がふきあれておりました。
 植木さんは修習を終えて、東京合同法律事務所に加わり、それから今日まで同じ事務所で働いてまいりました。あなたとの交友はなんと五十年に及びました。二十世紀後半の半世紀、あなたは私のもっとも身近な友人でした。いま、その別れを告げるのは悲しい。
 あなたが慧子夫人と大久保で所帯をもたれた頃、私たち事務所の若者たちが食材を持ちよって、あなたのアパートですきやきパーティをやりましたね。保谷にいまのお宅を建てたあと、私と妻とお伺いしてご馳走になったこともありました。私の家の飼犬に子が生まれ、その子犬を植木家にゆずった、その犬が新築の家のなかを走り回っていました。八年前、慧子夫人がなくなったときのお通夜の晩は、冬の月が中空に輝き、寒風が吹きすさぶ寒い夜でした。植木さんのお宅の前でたきびをして暖をとっておりました。その席にあなたが現れて、大きな声で友人や近所の方々に挨拶をされました。私の記憶に誤りなくば、慧子夫人は天使の愛情の持ち主であった、と述べました。私はあなたの亡夫人に対する愛惜に打たれました。
 あなたは沢山の仕事をなさいましたが、とりわけ青梅事件と辰野事件のお仕事は立派なものでした。これらのお仕事では松川事件の経験を踏まえながら、新しい刑事弁護の途を切り開いたものといえましょう。自由法曹団の機関誌「人権のために」一五号に、あなたは「デッチ上げ事件と科学の役割ー主として青梅事件の経験から」と題する論文を載せています。あなたはそこで「証拠の弁証法的批判」を論じていますが、私はこの論文は抜群のもので、この主題にかかわる随一のものだと思います。
 晩年のあなたは病気がちで、一九九六年の古稀のお祝いでは、「この十四年間に十二年もおなじ症状で入院」したと述べております。あなたは自制と節制に努めて「静かに病気に消えていこう」とも述べ、「案外長生きするかも知れませんね」とものべていましたが、遂に幽明境を異にすることになりました。
 同年の生まれで、おなじ半世紀をともにした私は、あなたが格好をつけないで、自分流に生き抜いた生涯の豊かさに心から敬意を表します。ながい間、ご苦労さまでした。>Br? 慧子夫人とともに、静かにお休み下さい。
二〇〇〇年十一月十七日

弔   辞

元辰野事件被告団長  神 戸 今 朝 人

 植木先生。辰野事件元被告団長の神戸です。この九月、二年後の辰野事件五〇年、無罪判決三〇年の記念事業の計画を相談した折り、「その計画とてもいいから進めてよ、俺は、仕事やめたから、そのうちに信州にも出掛けるよ」「是非来てや」と話し合ったばかりでしたのに、突然、あなたの訃報を聞き、哀しみにくれています。  辰野事件を無罪にするうえで、弁護団責任者としての先生の役割は決定的でした。ともに裁判を苦しみ闘いとったものとして、胸がいっぱいです。本日の葬儀にあたり、ご遺族の皆様に心からお悔やみ申し上げるとともに、辰野事件元被告団と家族会を代表して植木先生に最後のお別れをのべさせていただきます。  思えば、辰野事件は、一九五二年、何者かが警察署・派出所など五カ所をダイナマイトで爆破、火炎瓶で放火したという事件です。そして、被告一三名が、第一審では懲役五五年という重い判決を受けていました。捏造した自白をもとに、証拠がしっかり作られていたことから、「まあ、難しい事件で勝つ見込みがないな」と私などは、裁判には消極的でした。  ところが、第二審の後半から事態は一変しました。植木先生はじめ十三名の常任弁護団がつくられ、合宿に次ぐ合宿でデッチ上げの事態を鮮やかに解明し、「中間弁論」を展開したことです。この闘いは、私にとって、正に晴天の霹靂で、敗北的固定観念ががらがらと音を立てて崩れ去りました。以来、被告の大半が常駐体制をとり弁護士とともに命懸けで闘い、遂に全員無罪の勝利を勝ち取ったのです。植木先生、本当にありがとうございました。 植木先生は痩せ身で弁論は訥々としていました。しかし、非常に科学的で証拠の捏造を暴く点では、天才的でした。警官が火炎瓶を取り落とした時、身体中に火が回りぱたぱたとたたいて消したと、火で穴が明いたズボンが法廷に提出されていましたが、法廷でこのズボンをはいて見せ、この穴の位置の違いと、穴はズボンをぬいでから硫酸をかけて明けたものと解明したときの弁論と雄姿は生涯忘れるこのできない圧巻として目に焼きついています。  辰野事件は、当時の国民の民主的動向を抑えるために制定した「破壊活動防止法」の国会通過を図るための一連の謀略デッチ上げ事件の一つであったことがあきらかになりました。この辰野事件の勝利は、二十年の苦難を経ましたが、日本の民主主義の歴史に燦然と光り輝いています。  植木先生。あなたの物事にたいして科学的できちんとした解明のための努力、そして法廷での真摯な仕事ぶり、社会変革への誠実な一生、人間植木と呼ばれた滲みでるような暖かい生きざまは、私たちの鏡です。私たちはこのあなたの遺志を受け継ぎ、明るい民主日本のため力を尽くすことを誓います。  植木先生。良い仕事をして下しました。ご苦労さまでした。どうか、安らかにお眠り下さい。元辰野事件被告団体・家族会を代表して


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