人を苦しめる日の丸・君が代法

兵庫県支部  本 上 博 丈

一、個人的体験
 約二年前の四月、長女の小学校入学式に出たとき、日の丸が壇上隅に掲げられ挨拶する人は一様にその日の丸に一礼し、また列席者全員が起立して君が代を斉唱するという場面があった。僕は君が代を歌いはしなかったが、少し間をおいて起立はし、あの意味不明瞭な間延びした歌を不愉快な思いで聞かされた。その間、起立しなかった人には気づかなかった。ふだん自分の良心に反することを事実上であれ強いられることのない日常を送っている僕にとっては、とても珍しい体験で、これからも子どもたちのこのような学校行事に参加するたびに同じ体験を味わうのかと思うと憂鬱な気分にならざるを得なかった。
 こんな愚痴めいたことを言うのなら、実力で起立させられるわけではないから、起立しなければいいではないかとお叱りを受けるかもしれない。そのお叱りはもっともで、単に僕が不甲斐ないだけと言われれば返す言葉はないが、事は少しばかり複雑だ。つまり、起立しないことが僕一人の問題で済むのであれば、好奇の目で見られることと良心を曲げることのいずれがより苦痛なのかを自分の責任で判断し、その判断に基づく行動をできるだけの勇気を僕が持ち合わせているかどうかということに行き着くけれど、現実はおそらくそうではなく、好奇の目は僕の家族にも注がれることが必定で、しかも僕よりも妻や子どもたちの方が圧倒的に長い時間地域で生活し地域での人間関係が重要なものであるから、僕が責任を負えない妻や子どもたちの地域での生活を僕が危険にさらしていいのかということまでも考えないわけにはいかない。これが意識過剰や杞憂であればいいのだけれど、そうとも言い切れないのは、あの須磨事件で僕が少年の弁護人・付添人になったときの経験があるから。

二、日の丸・君が代をめぐる対立の本質
 こんなふうに日の丸・君が代は、単に法で定められた国旗・国歌というだけでなく、個人の内心や家族関係、人間関係にまで入り込んでくる。それは、日の丸・君が代が単に好き嫌いの問題というだけではなく、人の思想・良心にかかわるものだからだ。例えば、「さくらさくら」を大勢で歌う場があったとして、それを歌わないからといって好奇の目で見られることはないだろうが、それは「さくらさくら」を歌う歌わないは好き嫌いの問題にすぎないからである。
 君が代はもともと明治憲法下において主権者であった天皇による治世の永遠を祈念する歌であったし、現在の政府の説明によっても、主権者天皇が象徴天皇に変わったにすぎず、歌詞の意味における戦前との断絶が曖昧だから、国民が主権者であることにこそ重要な価値があると考える立場からは、論理的に言って、不合理な歌詞という帰結にならざるを得ず、そのような立場とその論理的帰結は一つの思想であることに疑いはない。

三、憲法における国民と天皇の関係
 日本国憲法第一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と規定している。ここで重要なのは、天皇が象徴たりうるのは「国民の総意」があるとされているからであって、まず象徴天皇たる地位があって、故に「国民の総意」もそれを尊重しなければならないということではない、ことである。順序は、「国民の総意」がまずあって、その結果として象徴天皇たる地位があるにすぎない。憲法の第一人者である芦部信喜東大名誉教授の教科書では、第一条の規定から「天皇制は絶対的なもの、不可変更的なものではなく、国民の総意により可変的なものとなった」と説明されている。
 そして、「国民の総意」は実際に確認されたものではなく、また客観的な事実としては象徴天皇たる地位は廃止すべきであるとの考え方をする国民が存在することは明らかだから、憲法がいう「国民の総意」はあくまでも法的なフィクションであり、それはもともと織り込み済みだったと言える。
 以上からすると、日本国憲法において天皇は象徴たる地位にあるとされているから日本国民たる者それを承認するのは当然だという言い分は主客転倒した論理であり、また象徴天皇制は日本国民の総意に基づくとされているから日本国民である以上その総意と異なる考え方をすることはあり得ないという言い分は、法的なフィクションにすぎない「国民の総意」と実在する人間である個々の国民がどのような考え方をするかということとを混同して、フィクションに実在を従わせようとする非人間的な論理である。
 というわけで、君が代を国歌とすることに積極的であった人たちはそれを正当化する根拠の一つに日本国憲法第一条を挙げていたけれども、僕は、むしろ日本国憲法第一条が宣明した国民と天皇との関係ゆえに、君が代を国歌とすることは憲法の趣旨に反すると考える。

四、君が代国歌化と思想・良心の自由
 また君が代が国家のあり方に関する重大な思想的対立を孕んでいることが明らかであるにもかかわらず、それを国歌と定めたということは、国がある思想を公認し他の思想を否認したことにほかならないから、思想・良心の自由の保障を国に課した憲法第一九条への配慮を欠き、それを危うくさせる不適切な立法である。国旗・国歌法の全文は後掲のとおり極めて簡単なもので尊重義務は定められていないが、仮にそれが定められていれば、憲法第一九条違反の問題を生じていただろう。逆に言えば、重大な思想的対立を孕んだ君が代をあえて国歌とした側は、思想・良心の自由の侵害ではないかと疑わせるようなことがおよそないようにする重い責任を負ったはずである。これは君が代の是非に関する立場にはかかわらない問題で、そのことは君が代を是とする立場の人にとって、おそらくは「インターナショナル」を国歌とすることが受け入れがたいであろうことと同じ性質の問題なのである。思想・良心の自由の保障との関係で君が代を国歌とすることは適切でないというのと同じ論理で、「インターナショナル」を国歌とすることも適切でない。その意味では、今回の君が代国歌化に際して、君が代そのものの是非とそれを国家化することの是非という二つの異なる問題が区別して論じられず、君が代を是とする立場であってもそれを国家化するのは非であるという考え方が出てこなかったのは、残念であるし、今後の思想・良心の自由の保障について危惧を感じずにはいられない。
 そしてその危惧は、国会で政府(野中広務官房長官)が「各人の内心に立ち入っては強制しない」と明言したにもかかわらず、文部省や各地教育委員会は国旗・国歌となったことを理由にこれまで以上に教員や児童・生徒に君が代・日の丸の尊重を強制し、岐阜県知事が「日の丸・君が代に反対する人は、日本国籍を返上していただきたい」旨、秋田市中学校総合体育大会開会式で市体育協会長が「国旗掲揚、国歌斉唱をしないような人は出ていった方がいい」旨それぞれ発言するなど、既に現実化している。
 日の丸については論じる紙数がなくなったが、それ自体は単なるデザインにすぎないにもかかわらず君が代の国歌化と同じ性格の問題であることは、日本国が東南アジア諸国を侵略した一五年戦争の歴史と切り離せない存在であるという日の丸の歴史的意味を考えるとともに、仮にドイツがハーケンクロイツ(ナチスの鈎十字)を国旗とする場面を考えてみれば、おのずと明らかになると思う。
 しかし、僕が一市民として、あるいは一弁護士として、何をすることが思想・良心の自由の確保に役立つことになるのか、最初に述べた個人的体験のように難しい。

(中神戸法律事務所ニュースより転載)


日野・君が代伴奏拒否処分事件と向き合って

東京支部  窪 田 之 喜

1 日の丸・君が代の法制化が強行されたが、法律には義務づけ規定はない。政府は、当然のことながら、国民に何ら強制するものではないと国会で明確に答弁した。にもかかわらず、この法案強行成立後、様々な場で強要の動きが目立つ。「教師と児童、生徒には君が代を歌わない自由はない」(九九・九・一六高松市教育長発言)、「国旗国歌を尊敬できない人は日本国籍の返上を」(九九・九・三〇梶原岐阜県知事発言)、大相撲秋場所優勝の武蔵丸にNHKアナウンサーがインタビューで「君が代を歌うように」と要請した等々。
東京でも、都教委は、日の丸掲揚・君が代斉唱について、都立高校に指導改善通達を出すなど教育現場に圧力を加えている。八王子市の小中学校で既に二件訓告処分が出ている。
2 日野市では、法案強行の直前、昨年六月一一日に、四月の入学式で君が代伴奏を断った市内の小学校音楽教師に対して戒告処分がなされた。七月二一日、法案が衆院内閣委で強行可決された日の東京新聞トップ記事に始まり、全国的大ニュースとされた。この教師は転任してきたばかりで、他市の前任校では君が代の伴奏をしたことがなかった。職員会議では、校長のみが君が代伴奏を主張し他の教師は全員反対であったのに。「職務命令」を出し、従わないからと処分。
3 日野市内在住の山本、平、中川、窪田の団員ら四弁護士は、事件直後、検討会をもった。杉原泰雄駿河台大教授(憲法)の意見もうかがった。既に言い尽くされているようにも思うが、検討してみるとなかなか重い課題である。表明することも表明しないことも問われないはずの内心の自由の問題、人間性の根源にかかわる問題である。現代の踏み絵を教師と子どもたちに強要し、教師を手だてとして子どもたちに国家意識を注入する教化策である。文部省が自ら配布している資料によっても、先進資本主義国のどこでも行っていない乱暴きわまる国家の教育介入である。
教育法について学習する機会ともなっている。教育基本法制定時の文部大臣田中耕太郎は、戦前日本の教育が「或いは政治的に或いは行政的に不当な干渉の下に呻吟し、教育者はその結果卑屈になり、教育全体が萎微し歪曲せられ、その結果軍国主義及び極端な国家主義の跳梁を招来するにいたった」という反省に立つ。「官公吏たる教員と雖も、・・上級下級の行政官庁の命令系統の中に編入せらるべきものではない。・・かような趣旨からして教育基本法十条は、教育行政の根本方針を規定している。教育は・・不当な行政的権力的支配に服せしめられるべきでない」と主張している。
この、教育基本法一〇条と学校教育法二八条B号(校長は校務をつかさどり・・)、E号(教諭は児童の教育をつかさどる)の関係など、実に新鮮に学んでいる。
4 昨年夏以来、日の丸・君が代強制問題をどう考えるか、私の学習報告のような講演活動を行い、教組、高教組など一〇カ所を越えるようになった。パンフレットにして学習材料に使用してくれるところも現れたりしている。
5 先日、ある小学校の先生方の相談を受けた。校長から春の移動をしつこく勧められ、断ればくびにするとまでいわれたという。校長権限を逸脱したでたらめさである。「やりすぎを許すな。」「但し、優しくせめよう。校長先生のいかなる権限によるお言葉でしょうか。」と。直ちに行動開始。校長は、口頭ながらその教師らにお詫びしたそうである。数日後、苦悩に満ちた顔つきだった教師たちがニコニコと報告してくれた。
三年前の市長選挙後、日野市政の中で最も顕著な変化を見せているのが教育分野である。O157問題の時、理想的と評された日野の学校給食も民間委託されようとし、市教委の決定さえ無いのに学校自由選択制実施の記者会見が為される。その教育行政の特徴は、乱暴で民主主義がなく、時には無法であるといえる。教師たちは、父母とともにたたかいにたちあがり、近く、二つの教組と市民の合同の大きな集会も予定されている。しかし、他方では萎縮し情熱を失いかねない学校現場の様子もうかがえる。今が、踏ん張り時である。


君が代・日の丸押し付けに反対する

神奈川支部  三 嶋   健

一、国旗・国家法の成立
 今年は国旗・国歌法が成立して初めての入学式、卒業式を迎える。
 県教育委員会は、現在、国旗・国歌法の成立を機に一挙に、君が代の斉唱、日の丸の式場持ち込みを強行しようとしている。
 教職員、また良心的な校長・管理職は現場で抵抗しているが、教育委員会は強硬であり、地域で広く市民が反対の声をあげないと、「君が代・日の丸」の押し付けにとても抵抗できない状況にある。

二、一斉申し入れ活動
 二月八日、私たちは、右認識にたって川崎市内の新婦人、母親連絡会、民主商工会、建設組合、川崎労連、父母、弁護士など二三名が市内の全部の公立高校(二一校)の管理職、組合の分会に対し、来る入学式、卒業式に日の丸、君が代の押しつけをしないように申し入れをした。
 同時に市内の約二〇〇校を越える全公立小学校・公立中学校に、要請書を郵送した。

三、これまでの状況
 川崎市内の高校では、これまで、自主的組織である教職員連絡会、フォーマルの教職員組合の反対もあり、「日の丸」は外のポールに掲げるだけ、「君が代」は外でテープでながすだけという学校が多数であった。
 なかには、生徒が来る前に管理職が玄関に「日の丸」を掲揚し、その際居合わせた管理職数人で君が代を合唱するだけということですませた学校もあったようである。

四、校長らの例年にない強い姿勢
 申し入れの際校長、教頭と懇談したが、その大半が今年こそ壇上に「日の丸」を持ち込みたい、「君が代」も式に先立って斉唱したいといっていた。反対する教職員の声は尊重するが、決定権は校長にあるから、最終的には自分の責任で決断する(実施する)と言い切る校長もいた。
 組合分会長とも話合いをしたが、今年は強行されるかもしれないと顔を曇らせていた。

五、背景事情(法律の成立、県議会決議)
 今年の学校当局の強気の姿勢の背景には国旗・国歌法の成立をふまえた県の積極的な姿勢がある。神奈川県では「日の丸」を掲揚し「君が代」を斉唱するように県議会が決議し、県教育委員会が校長先生を一人一人呼び出して「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱をするように指示し、また卒業式、入学式の詳細な報告を求めるなど管理職にプレッシャーをかけるという実態がある。また県PTA連合会が管理職を訪問して圧力をかけていることがわかった。
そのため、管理職も、今までどおり形式的に「君が代」を斉唱をし、「日の丸」を掲揚したとしてつくろうことはできない状況に追い込まれている。中には「君が代」斉唱、「日の丸」掲揚ができなければ、辞職するという校長さえいた。
 個人の信条として、必ずしも「君が代」斉唱、「日の丸」掲揚に積極的でないが今年は従来どおりにはゆかないかも知れないと述べる管理職もいた。

六、今後の闘い
 私たちは、要請行動を通じて、思想・信条・良心の自由を掲げて闘う教職員を孤立させないため、強制に反対する市民の声を大きく広げる必要を強く感じた。  今後は街頭宣伝活動を強化し、また教職員と共同して学習集会(二月二八日、一五〇人規模)を企画している。
 残された時間は短いが最後まで頑張りたい。


【シリーズ】改憲策動粉砕 (第五回)

戦争法制定後九ヵ月の経過と今後の展望

東京支部  内 藤   功

一 日米共同宣言路線と平和の潮流
 沖縄県名護市に「耐用四〇年以上」の半永久的な最新鋭の軍事基地を構築する計画が、いかに時代錯誤・時代逆行であるか、二月一四日予算委員会で志位和夫議員が提示した日米作業グループの海上基地についての非公表の報告書が端的に示しています。
 戦争法制定以後相次ぐ共同演習は、米軍大部隊が戦闘命令を受けて戦闘の装備をもって沖縄・本土に展開する事態を想定しています。とくに二月一六日からの日米共同指揮所演習は周辺事態にさいしての対応を想定した大規模かつハイレベルの演習とみられます。
 しかし、昨秋以降、米朝会談、超党派国会議員団の北朝鮮訪問をはじめ国際紛争を平和的に解決しようとするアジアでの一連の流れは、北朝鮮脅威論、軍事力強化論等九六年の日米共同宣言路線を足元からゆるがしはじめています。

二 自治体・民間の戦争協力体制を許すかどうかが焦点
 九九年七月六日、周辺事態法九条(地方自治体、民間への協力要請・依頼)についての政府の解説書と自治体関係者への説明がなされ、自治体の危惧、批判、反対の動きがひろがっています。日本が「戦争する国」になるかどうかは、ここにかかっています。
 この背景は、ガイドラインに基づく日米両政府・両軍による、共同作戦計画の策定と見直しの作業が今進行していることです。策定作業を通して、中央省庁や地方自治体に軍の作戦上の要求(例えば九四年朝鮮事態のとき米軍が要求してきた一〇五九項目の要求)を提起してくるのを許さない構えが大事です。中央省庁や地方自治体が、憲法施行五三年にわたり、きずきあげてきた憲法に基づく法制体系を守りぬく姿勢を確認することが急務です。自治体、国公、航空、海運、運輸、港湾、医療などの職場での憲法遵守宣言は大切な第一歩です。また当該労働組合を孤立させず常にみんなで包み守る体制が大事です。これは六〇年安保闘争時の労働運動の教訓でもあります。
 昨年通常国会で成立した「地方分権一括法」は、@米軍用地特別措置法改悪による総理の裁決権限の強化、A地自法二四五の四ないし八による各大臣の是正要求、是正指示、代執行権限の強化を含んだものです。団は昨年の五月集会で同法を討議し、全体会議で反対決議しました。本年四月一日から同法が施行されるに先立ち、各県でそれに伴う条例制定問題が起きています。調査と解明が急務です。

三 憲法調査会を改憲の足場とさせるな
 今国会で発足した「憲法調査会」を世論醸成と改憲推進派の隊列調整の足場にするための策動は軽視できません。中曽根元総理は、一月二〇日「三年ぐらい論憲をやって憲法調査会で論議して四年目ぐらいに各党が案を出す。五年目ぐらいから国民投票法の制定、改正の行動に入ったらどうか。それから三年ぐらいかけて完成したらどうか」と述べました(一・二一「産経」)。村上正邦参院調査会長は「平成二〇年というひとつの区切りが考えられるのではないか。調査会で五年間議論を重ね、三年で一つのまとまりが書ければ、そこで新しい憲法の制定をしたい」(一・一八「産経」)。中山太郎衆院調査会長は「まあ五年。調査活動を三年ぐらいやって、あとの二年のうち一年は各党党内でまとめた考えをそれぞれの政党が出して調査会で議論することが必要だ」(一・一九「産経」)と述べました。改憲推進派の政治日程の思惑が出てきました。八年間かけての大仕掛なたくらみです。並行して「西尾幹二・国民の歴史」とか「小林よしのり・戦争論」を広めるのは、国民投票で過半数を得るための策動です。しかし、八年の間に、参院選が三回、総選挙も三〜四回あります。六〜七回の国政選挙で、改憲推進派が両院に三分の二の議席維持は難事です。逆にこれだけ選挙がつづけば、改憲推進派を叩き落とし、護憲の政権を作ることだってできるはずです。

四 政局の特徴
 政局は、昨年臨時国会から急速に変化しています。公明党が野党から出ていって、野党は結束しやすくなりました。野党共闘の支えに、日本共産党があり、同党は政策でも、「政局」でも、原則的で柔軟な対処をしています。本予算、同関連法案の通過後の解散か、サミット後の選挙か、いずれにせよ時間の問題です。比例代表削減と参政権、財政破綻、社会保障と公共事業、沖縄基地、日本の進路をめぐる全面的政治決戦です。主権者国民の審判こそが、改憲策動、本格的有事法制、その他諸々の悪法を阻止できる最大の保障です。


阪神淡路大震災五周年メモリアルに参加して

兵庫県支部  松 山 秀 樹

 一九九五年一月一七日に発生した阪神淡路大震災から既に五年が経過した。被災地に暮らしている私も普段はほとんど震災のことを忘れている。まして被災地以外の人達にとって震災は遠い過去の話であろう。このような中で仮設住宅の入居者もゼロとなり、復興基本法は、二〇〇〇年二月に期限切れとなる。しかし、現実にはまだまだ復興ができていないことを実際の調査で検証する運動が被災地では進められている。被災者の視点からこの五年間の施策を検証する運動の報告集会とシンポジウムが、一月一六日に復興県民会議と災対連の主催で被災地神戸で開催され、全国から約五〇〇名の参加があった。
 基調報告では、インフラのめざましい整備、大企業の復興の一方で仮設住宅から復興住宅へと転々として住み慣れた土地、知人と別れて孤独な生活を余儀なくされている被災者の現状や商店・市場のさびれた状態など復興格差が広がってきている現状が報告された。折からの不況も相まって自力再建層にも二重ローンが重くのしかかっている。
 報告では、最近の台湾大地震と比較してもいかに阪神大震災で被災者への支援が遅かったかが説明がされていたが、それによると、台湾では震災後一週間で生活再建支援が行われたということで、初期の対応の遅れが再建を遅らせたことを象徴する話である。
 兵商連が実際に市場や商店街の復興状況を調査した報告では、住宅再建が遅れているため住民が戻らず、商店街によっては震災前の半分の店舗しか再開されていない現状、再開しても売り上げが伸びずに閉店を余儀なくされている現状が報告された。
 復興住宅での生活の現状は生活保護の受給率が軒並み二〇%を越えており、場所によっては五〇%を超過している現状も報告された。 このような数字からも被災者間での復興格差の広がりが明白である。
 集会では、震災五年を経ての新提言として@被害実態と現状を正確に把握するための国・自治体による調査の実施とその情報公開、A住宅再建への公的支援を実現して居住の権利を保障すること、B被災者自立支援金の支給要件を緩和し生活再建の施策の充分な実施、C雇用の保障と中小企業、自営業者の営業の安定の確保、D安全・安心な都市づくりを行うこと、が提案された。ここまで再建が遅れた最大の理由は自治体・国が震災直後に正確な実態調査をしなかったことと、資金の配分の誤りに尽きる。パネリストの発言で、被災者は怒っていることをもっと明らかにするべきだという発言が印象的であった。


一周忌追悼・弁護士藤本正さん

東京支部  岡 村 親 宜

 私の労働弁護士の師匠であった弁護士藤本正さんは昨年の三月四日に享年六七歳で急逝され、もうすぐ一周忌がやってきます。藤本さんは、長年総評弁護団↓日本労働弁護団で活躍され同弁護団の幹事長を、そしてその後亡くなられるまで長年同弁護団の副会長を歴任されました。が、藤本さんは一九五八年四月に弁護士登録して自由法曹団に入団され、お亡くなりになるまで四五年間団員でしたから、古参の団員です。この度、藤本さんの奥さんの幹子さんから彼を青山墓地の「解放運動無名戦死墓」に葬りたいとの申し出があり、自由法曹団の推薦により来る三月一八日の「解放運動無名戦死合葬追悼会」の式典と墓前祭で藤本さんが同墓に合葬されることとなりました。編集部からこれを機会に、不肖の弟子の一人である私に藤本さんの追悼文を執筆するよう連絡ありました。そこで以下のとおり彼の小伝を記し、追悼させていただくこととしました。

◇   ◇   ◇

 藤本は一九三三年一月東京で生まれた。が、敗戦までの四ケ月間、学徒勤労動員により、天理市近郊の大和航空隊の基地建設作業に従事させられた。少年の身で命を捧げようとしていた軍国少年藤本は、四五年八月一五日正午、ラジオから流れる現人神天皇の終戦の詔勅を、その人の声は頼りなく、涙あふるる目に赤々と燃える「さるすべり」の花が大きくゆれるのを見て聞いた。藤本は、敗戦後の学制改革後の一九四八年四月、新制度の奈良県の大淀高校に入学した。高校時代、キリスト教の教えとマルクス主義の共通性を説く「赤い牧師」赤岩栄の著作を愛読した。赤岩の著書『キリスト教とマルクス主義』の読書感想文を書き、奈良県高校生徒読書コンクールに応募したところ一位となったことがある。「一粒の麦落ちなば‥‥」のキリストの教えは、藤本の生涯の心の支えとなった。
 藤本は、一九五一年四月、中央大学法学部に入学して上京。学生時代は、政治学研究会に所属するとともに司法試験の受験団体「中桜会」に入会し、同会の先輩の横井芳弘教授から労働法を学び、労働弁護士を志すようになった。そして五五年三月、同大学を卒業。
 同年九月司法試験に合格。五六年四月から司法研修所に入所し、大阪で実務修習をして五八年三月研修を終了。
 藤本は、一九五八年四月、東京弁護士会に弁護士登録し、戦後初期の再建自由法曹団からの古参団員であり総評弁護団の重鎮であった佐伯静治法律事務所に入所するとともに、自由法曹団と総評弁護団に入団した。藤本は、弁護士となったその日から高揚する労働運動の中で闘う労働者へ加えられた弾圧に対決して全国をかけずり回った。都教組弁護団の一員として勤評反対闘争への刑事弾圧には黙秘権を行使させ勾留請求却下を獲ち取った。
 六〇年安保闘争とともに闘われた戦後最大の争議三井三池争議では、炭労の顧問弁護士佐伯静治を団長とする大弁護団が編成されこれを支援したが、藤本は現地に常駐して弾圧対策等に活躍し、争議敗北後も長年その中心的メンバーとして刑事、解雇、労災の裁判を闘った。
 アメリカ占領軍の指令により争議権をはく奪された公務員の争議行為全面一律禁止規定の合憲・違憲が争点となった都教組勤評事件につき、最高裁大法廷は一九六八年九月口頭弁論を開いたが、藤本は「公務員の争議行為禁止・処罰規定の違憲性」という核心的部分の弁論を行い、公務員の争議権を原則的に承認した翌六九年の最高裁大法廷「四・二判決」の判例を出させることに貢献した。藤本は数多くの労働事件を手がけ、多くの労働弁護士を育成した。労働運動の再編により日教組から分離した全日本教職員組合協議会(全教)結成後は全教弁護団団長に就任した。
 また藤本は、一九六八年秋、総評弁護団労災研究会を組織して、「労働災害の絶滅のために、今こそ労災訴訟の提起を・・全国の労働者のみなさんへのアツピール」を発表し、わが国労災職業病裁判推進のパイオニアであった。晩年には、わが国の大手広告代理店・電通を相手にたった一人で過労自殺損害賠償裁判を闘い、わが国裁判史上初めて自殺過労死の企業責任を認めさせたのみならず、裁判史上初めて一人の労働者の損害額としては一億円を超える東京地裁判決を獲ち取り(高裁判決でも約八、九〇〇万円の判決を獲ち取った)、一九九八年には第二回日本労働弁護団賞を受賞した。
 さらに藤本は、妻幹子さんとともにモンゴルとの友好に尽力し、その功績により同国より「国際友好文化勲章」を授与された。
 主な著書として『労働組合結成運営の法律実務』、『自殺過労死裁判』、『時短革命』、『労働基準法入門』、『労働条件・実務・実践と法理』等があり、死後『労働契約・就業規則・労働協約』(学習の友社)が発行された。
 妻幹子さんは、市川の「總武霊園」に鎮魂の墓碑を建立されたが、その碑文には藤本の次の言葉が刻まれている。

 「弁護士とは人権と正義という神に仕える使徒である
  悪い判例はかえればいい
  判例がなければつくればいい
  そのために弁護士はある
  何よりもこの国を道理の通る国にするために
                            藤 本  正 」


風害訴訟の提起

大阪支部  蒲 田 豊 彦

堺市に住むAさんとBさん一家は、施主である大手の商事会社Mと請負業者である同じく大手の建設業者T(以下加害企業という)が平成八年三月に建てた二〇階建のマンションによる風害によって平穏な生活を脅かされ、建物も傷つけられるという被害にあっています。
季節風のシーズンを中心に一七・二メートル以上の強風(台風とは一七・二メートル以上の風が吹く場合をいいます)が二年間で平均して三一回も吹き、本当の台風のときはその強風がさらに増幅されて吹き荒れます。
風の強い日は外出時に自転車に乗れない、洗濯物は吹き飛ばされる、屋根の瓦が飛散する、玄関ドアのガラスが風圧で割れる、家がドドーンとかメキメキと音を立てて揺れる、庭木の枝が折れる、風がゴーゴーと鳴ってこわくて眠れない夜が続くなどといった被害が続出しています。
高層マンションの計画が発表された段階から、Aさん、Bさんや近所の人たちは自治会を通じて日頃の風向きなどから高い建物による風害が発生するおそれがあるので、マンション建設を中止するか、階数を減らすように加害企業に申し入れ、交渉してきましたが、加害企業は大学の教授の風害は発生しないという意見書を盾に住民らの要求を拒否し、強引に高層マンションを建設してしまったのです。
ところが、加害企業側の説明とは裏腹に、右に述べたような被害が発生しているのです。
AさんとBさんは加害企業に対し、防風のための植栽や防風壁を設けてほしいなどと、その改善を求めました。しかし、加害企業は防風壁は景観等の問題があると難色を示し、植栽は高層マンションを敷地一杯に建てたこともあって、空地がないとして防風をやわらげる方法はないとの回答でした。
そこで、AさんとBさんは加害企業を被告として、裁判としては珍しい風害を理由とする慰藉料や土地・建物に生じた損害(もうそこには住むことができず、土地・建物は無価値になった)の支払いを求めて訴訟を提起することになりました。
風害訴訟は全国でもあまり例がなく、裁判のゆくえが注目されます。

(あべの総合法律事務所ニュースより転載)


弁護士法一条改正に反対する

─なぜ「安寧」なのか─

愛知支部  岩 月 浩 二

一 日弁連業務対策委員長会議で配布された「弁護士・弁護士会の自己改革プログラム(案)」で以下の弁護士法一条の改正案が示されたと伝えられている(「弁護士法一条の会ニュース」三〇号による)。
「1 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを 使命とするとともに、公益的職務に従事する努力を行い、もって国民の利益に資することを目的とする。
 2 弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務(を行い)及び社会的責務を履践し、公衆の安寧の増進、社会秩序の維持及び法制度の改善に努力しなければならない。」(傍線部改正)
 私は、基本的人権や社会正義とは区別された「公益」を提起する改正案には、基本的に反対だ。人権とは区別された「公益」なるものは、「人権派」を糾弾してやまない小林よしのり氏を初めとする自由主義史観グループの中から唱えられている「公」の復活と通底するものと言わざるを得ない。
 しかし、正直言ってこの改正案において「安寧」なる概念まで飛び出したことは、想像を超えている。改正案がどこまで熟したものであるかは、筆者には不明であるが、事態の急速な展開に照らして、注意を喚起したく投稿する次第である。
二 わざわざ言うまでもないことだが、「安寧」は、戦前の絶対主義的天皇制が、人民を弾圧するために用いた強力な超個人的イデオロギーだ。だから戦後憲法によって、葬り去られた歴史がある。
 多くを説明する必要はないだろう。しかし、いわざるを得ない。帝国憲法九条の「安寧」は天皇大権の一つである警察命令の根拠となり、帝国憲法の二八条に使われた「安寧」は宗教弾圧の道具だった。同じく五九条の「安寧」は裁判の対審の公開停止の理由で、数々の弾圧事件で暗黒裁判を可能にした。出版法、新聞紙法等で用いられた「安寧」は言論弾圧の道具だった。行政警察は「安寧」のために人民を抑圧し、刑法の「安寧」の罪は、戦争体制を支える弾圧の道具だった。「安寧」は「弁士中止」の理由としても活躍した。
 だから、基本的人権に究極的な価値を置く戦後憲法の施行とともに「安寧」は絶滅した。詳しく確認してはいないが、「安寧」なる言葉は戦後の法律には登場しないのではないか。僅かに公安条例には「安寧」が復活したが、これが人民の運動を如何に弾圧したかは、団の歴史のよく知るところである(以上、主として平凡社「世界大百科事典」の検索結果による。殆ど司法試験レベルの知識でもあるから案がこの歴史を意識していないとは考えられない)。
 改正案は、この「安寧」を率先して弁護士法に復活させようとするものである。
三 この「安寧」を「公益」と並べた弁護士法一条の改正案の性格は明らかである。「安寧」と並べて使用される「公益」なる概念は「安寧」と同じく人権の敵対物以外の何物でもあり得ないからだ。弁護士法一条の改正は、権力に対する弁護士の武装解除を強いる以外の何物でもない。
 有事法制が検討されようとし、憲法改正が現実的日程に上った今、弁護士を変質させようとする弁護士法改正には断固反対である。


「団」と私─事務局次長就任に当たって

東京支部  南  典 男

一 私は、今年、弁護士になってちょうど一〇年目である。今まで、あまり「団」との関わりはなく、戦後補償運動を通じて、市民運動や住民運動といったものに関わりを持つ、ということに精一杯で、それで満足していた。だから「団」については、横から眺めている感じだった。ただ、「団」が法律家運動を引っ張る存在という意味で敬意は払っていたし「団」は元気でいてほしい、と思っていた。
 私が横から眺めていた「団」のイメージは、「団」の活動は大変だろうな、ということと「酒飲み」が多い、ということだった。
二 そんな「団」に関わりを持たなかった私が事務局次長を引き受けようと思ったのは、ひとつは、横からだけではなく、一度は中に入ってみなければ、という思い、言い換えれば、恐いもの見たさがあり、また、引き受けるとすれば、弁護士になって一〇年というのが一つのタイムリミットと感じたからである。
 また「酒飲み」が多いというイメージは、私にこの上ない居心地の良さを感じさせてくれる。楽しくやっていけるのではないかと思ったことも引き受けた理由の一つだ。
国際問題委員会に出させてもらって、さっそくこの点は実証された。
三 ただ、酒を飲んでばかりもいられないだろう。憲法調査会の設置、戦争法の制定の動きなど、この国と人々にとって、本当に大事な時期だ。「団」には、多くのことが求めれているし、求められるだろう。ささやかなものになってしまうだろうが、役に立つことが少しでもできればと思っている。
 いずれにしろ、酒を飲むことも、「団」の活動も、楽しくやっていきたい。


湯の森を越えて出会った夏盛り(一)

東京支部  中 野 直 樹

一 新幹線の車窓に北上川の流れが映り始めた辺りから、遥けき山々が重々しい雲を背負い出した。北東北はまだ梅雨明けを待たされている。盛岡から田沢湖に向けた峠道で、すっぽりと霧雨に包まれた。田沢湖はわが国最深の四二五メートルを誇る陥没カルデラ湖。
 私はまだ湖上を遊覧したことはないが、透明度が高いとガイドブックに記されている。昨夏遊んだ大深沢を源流とする玉川が湖を迂回している。玉川は源流部からまなしに南八幡平に出ずる強酸性の温泉水の注入を受け、生き物の生存を不可能とする悪水の流れとなる。先人はこの玉川の水を田沢湖に引く公共事業を為した。そのため田沢湖の水生動植物が全滅し、死湖と化した。後年、この愚かな注水路は閉じられ、浄化の努力がなされているが、もともと注ぎ込む大川がないことから、生態系の復活までにはまだまだ膨大な時を要する。
 パジェロは湖畔をはずれ、先達川を遡る。秋田駒ケ岳の西面に展開する田沢湖スキー場のリフト乗場を右に見ながら、乳頭温泉郷を目指す。こぬか雨にそぼ濡れるブナ樹林を抜ける道沿いに鄙びた湯治宿が見え始めた。岩手県名烏帽子岳、秋田県名乳頭山の一四七七メートルの頂へ向かう山道の右左に、鶴の湯、大釜、妙の湯、蟹場温泉、孫六湯、黒湯、一本松の七つの秘湯が連なる。乳頭山は体を連想する呼称だが、地図を見ると玉川の支流である小和瀬川の上流にも烏帽子岳(乳頭山)があり、これで対になるらしい。ふっくらとした姿は残念ながら霧衣におおわれ、想像の世界に押し込まれた。
二 今晩は孫六湯に逗留する。車止めからぬかるんだ細道を七〜八分歩くと、萱葺き屋根の宿についた。渓岸辺の木立のなかに、露天の湯溜まりが何の飾りけもなく点在する。野趣に溢れている。男女分けがない。昨夏、藤七温泉の湯船で女性の姿を垣間見、はしたない目になりかけたことを思い出した。余所を向くのもわざとらしいし、正視するのも気がひけるし、目の片隅に映すのも姑息だし、文字通り眼のやり場に困るのである。気早く対策を考えていたところ、大森鋼三郎団員が目ざとく、「露天風呂は七時から八時三〇分まで女性専用です」とつれなく記した注意書きを見つけた。客を寄せようとするとこのような配慮が必要なのだろう。
 標高八〇〇メートル近いところに位置する山宿である。廊下に張り出してあった宿泊七か条(テレビなどの電気利便器を求むなかれ、食事は華美を求むなかれ、どんちゃん騒ぎをしないように等)からその雰囲気がわかろう。日本の話題・松坂大輔投手が先発するオールスター戦と無縁の時を過ごすことになる。
 岡村親宜団員がアルバイトの女子高校生に叩く軽口を魚に食事をする。関西からきた女性が、秋田駒をめざしたが強風のため断念したと残念がっていた。前夜は雷も荒れたという。山神様が梅雨明けを許してくれていないらしい。ビールにほろ酔ったが、禁をおかさず、八時三〇分を過ごして露天風呂に向かった。その前に入れば覗き見犯となるが、解禁日を待つ訓練のできた釣師はルールに誠実である。
 石の湯、鹿ノ子湯などと名づけられた露天湯は足場がヌルヌル滑り、深酔いをしていると危ない。イオウ分が少なく、下半身が素通される透明な温ま湯である。湯壷の底が湯元となっている。わずか五メートルほどの間隔で別の泉源があり、しかも両湯の成分が異なる。これには驚いた。
 清水善朗団員とともに打たせ湯で脱力しあがりかけると、岡村さんが女性と話し込んでる。ときめいて耳をすませると、食事の準備をされていた宿のおばあちゃんのようだ。高まりかけた鼓動がしぼみ、のんびりとしたほほえましい光景が目に浮かんだ。
 夜は渓の音に加えて、雨音が激しかった。そしてそれにも負けじと断続的ないびきが湯の森のしじまを破っていた。
三 釣人の朝は早い。五時に起床し、宿を出て駐車場に戻った。ここで恒例の荷分けの儀式を行う。昨夏酔っているうちに勝手に荷を作られ道中苦労した岡村さんは、今朝は頑なに自分のザックの紐を握り、余人の開封を許さない。大森さんは率先してかさばる野菜を分担する。気前のよい清水さんのザックは二ダース近いビール缶に過積載となる。素直でない私も洋酒三本、日本酒一本、ビール数本を詰め、七〇リットルザックの上部が頭より優に高くなった。四人の山岳釣りも三回目となると実績が重きをなし、押し付け合い・駆け引きの余地が少なくなった。
 雨上がりの空を見上げながら、私は雨具入れからズボンの方を取りだし車に残していくことにする。ここで大失敗をしてしまったことに気づいたのは後戻りのできない後刻であった。
 六時四〇分、稜線に向かって登り始め、元気よく五〇分くらいで標高千メートルの稜線に出た。ここから縦走し、ピークをめざすためにきたわけではない。直ちに、稜線の反対側の葛根田川に注ぐ戸繋沢の源頭を探索する。注意深く登山道端に目を配りながら歩くと、まなしに溝の始まりが目についた。地図と照らしてもここで間違いがなさそうである。
 笹がかぶさっているが、昨夏の大深沢への立ち入りをはばむブッシュを経験している私たちには幾ばくかの障害でもない。重たげな雲が頭上を覆い、遠景の視界は閉ざされていた。
四 水の流れができたところで宿で握ってもらったお握りをほおばった。大森さんと清水さんは、復路のご苦労さんビールをビニール袋に入れ、沢中の石下にデポしていた。盗まれることを心配するわけだが、自らも発見できない笑い話をつくらないために慎重に目印をつけている様子であった。下る戸繋沢は、豊かなブナの森を母としているが、魚が棲まない。なるほど、ところどころ、イオウが剥き出しとなった岸壁を水が洗っている。赤茶けて水苔もない川底を流れる水は澄んでいるが、飲する気にはなれない。うまい具合に三〇分ごとに左岸、右岸から小沢が注ぎ込む。小沢はいかにも魚が棲めそうな表情をし、現にほとばしる水は喉心地よい。途中一ヶ所、右岸から落ちる滝際を、腰までつかって渡渉しなければならないところがあったほかはだらだらの平川で川通しに危険はないが、変化のなさに倦んできた。一一時三〇分、大石沢との合流を過ぎてから、岩魚の走る姿が見え始めた。大石沢の清水が悪水を希釈している。
 出発から五時間、ようやく本流との出合いに到着。磯辺のような岩がせり出しており、草付きがない様子から増水時には洗われているのだろう。その少し上の笹薮の中に猫の額ほどのスペースがあり、無理遣りテント二張りを据えた。軽いだけが取柄の味気のないインスタントラーメンで昼飯をすます。釣りの用意をし、ブナ林も暗くしている不機嫌な空をみて雨具を取りだしたところ、車に置いてきたはずのズボンであった。数時間後にその不注意の散々な結果が待っていた。


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