団通信978号(3月11日)

追想 風の子学園事件

兵庫県支部  渡 部 吉 泰

 風の子学園事件を想うと、弁護士にとって事件とは何だろうと考える。
 一九九一年七月二八日、広島県三原市沖に浮かぶ小さな島、小佐木島にあった「風の子学園」という民間「教育」施設内に置かれたコンテナに監禁された少年と少女二名が、熱射病により死亡するという衝撃的な事件が起きた。これが風の子学園事件のはじまりであった。
 事件が起きた一年後、私たちは、死亡した少年の両親から委任を受けて、翌年八月四日姫路市を被告として国賠訴訟を提起した。私たちの主張の概要は、姫路市教育委員会及び少年が通っていた中学校が主導となって、少年を「風の子学園」に入園させたものであるが、同学園の実態は、教育施設とは名ばかりで、正に虐待施設であり、よって、姫路市は少年に死について法的責任を負うべきであるというものであった。
 一審神戸地方裁判所姫路支部は、一九九七年一一月一七日原告勝訴の判決を下し、続いて一九九八年一二月一一日控訴審大阪高等裁判所もこれを支持し、これに対し、被告姫路市が上告手続を取ったのに対し、一九九九年一〇月一日最高裁が、これを退ける判断を下し、原告勝訴の判決は確定した。  訴訟が終結した今、私は、事件について追想的に綴ってみたいという思いで筆を取った。
 事件が大きく報道された直後、私は、自分がこの事件に係わるということは夢想だにしていなかった。少年が姫路市内の中学生であるということをいち早く察知した日弁連子どもの権利委員会は、地元神戸(現兵庫県)弁護士会に事件の調査を依頼してきた。その経緯は詳しく知らないが、神戸弁護士会はこれを断ったとのことで、事件に強い関心を持っていた山田康子弁護士が、私に任意の調査への協力を依頼してきた。それに応じて調査に入ったのが、この事件に係わるきっかけであった。
 私たちは、何よりも先に両親に会おうと考えた。そして、地元市会議員の紹介で会うことができた両親は、子を失った深い悲しみとともに教育委員会、学校への不信について話した。事件直後、姫路市は、新聞紙上で、問題行動を繰り返す少年に悩んでいた両親に、教育委員会の指導主事が複数の民間施設を紹介したのに対し、両親が自ら調査して自発的に入園を決定したものとして、自己に全く責任が無いとの見解を表明していた。しかし、両親の実際の認識は違っていた。担当指導主事は、両親に対し「風の子学園」のパンフレットなどを示して、その優れた面を強調して入園を強く勧めた、というのであった。なお、その経緯は省略するが、少年は、中学校の生徒指導担当教諭の個別の勧誘で両親に先立って「風の子学園」への入園を決めていた。
 もちろん、両親は、自分たちが少年を入園させたことに対し深い自責の念に苛まれていた。しかし、そうした両親の心をさらに深く傷つけたのが、右のような姫路市の事件直後の対応であった。少年の入園の経緯からすれば、教育委員会や学校は、法的か道義的かは別として、少年の死に対する責任の一旦が自分たちにもあることを素直に認めなければならなかった。しかし、卑怯にも真相を隠して全ての責任を両親に帰そうと弁明を繰り返していたのであった。
 両親に面会した後、私たちは様々な関係者に会って事情を聴いた。少年の友人たち、教師たち、そして、遠くは香川県にある民間教育施設「喝破(かっぱ)道場」に出向いたりした。
 その過程で得た情報の一つ一つが私たちにとって驚きであった。問題視される生徒に対する学校現場における徹底した非教育的で治安維持的な態度、問題視する生徒に対する教育委員会・中学校の露骨な排斥的態度、教育委員会指導主事と風の子学園園長との「癒着」の関係、こうした中で深く悩みつつも誠実に子の成長を願っている親たちの必要な援助がなされないまま翻弄される姿。
 私は、この調査の過程で、この事件は日本の教育の縮図であると感じた。
 数ケ月かけて調査を行い一応の報告書としてまとめて、私たちは役割を終えたと考えた。ただ、私は心に傷を負い、抜け出しようの無い迷路に入って苦しんでいた少年の両親、家族のことが気掛かりだった。調査の過程で新しい情報が得られた都度両親にその内容を報せ、報告書も当然両親に送付した。
 実は、調査途上のある時期以後、両親から、事件の真相を社会に知らせたい、教育委員会・学校の責任を明らかにしたい、このままでは私たちは納得できないし、子どもも浮かばれない、という思いを伝えられるようになった。姫路市が責任回避的な態度に終始している以上、現状ではそれを実現する方法は裁判しかなかった。しかし、私はそのころ裁判には消極的であった。事件が学校外の遠隔の地で起きたということ、姫路市に「紹介」以上の事件への強い関与が認められたとしても、少年の死までの予見可能性が認められるのか、さらには世間から両親に対し責任転嫁との非難の矛先が向かうのではないか、など重要な問題点や課題が多くあったからだった。
 確か、事件発生の翌年早々であったと思うが、私は、むしろ訴訟提起を断念させればという思いで、少年の両親の家を訪れた。そして、裁判のたいへんさ特に世間の冷たい目、この事件の法律的な難しさをいろいろ説明し、負けた時のことなどについても話したと思う。私は、こうした説明を一通り行った後、再度訴訟提起の決意の有無を確認した。私は、その時の光景をはっきりと思い起こせるが、少年が祀られた仏壇がある部屋に、私、両親、祖母そして某マスコミ記者がいた。私の意思確認に対し、両親そして祖母の三人は、それでも訴訟を提起したいという気持ちを強く現した。私は、彼らの子を思う心とともにその傷ついた心が癒されるためには、事件に対する姫路市の責任が明らかにされることが必要だと感じた。そして、両親らはたとえ苦しくとも前進しようとしているのだと思われた。
 確かに、私はその時にそれでも受任を断ることができたかも知れない。今から思えばそれも責任ある態度であったかも知れない、と思う。しかし、傷つき、心理的に孤立してしまっているにもかかわらず、闘おうとしている両親をこのまま放置していいのか、という思いを押さえられなかった。たとえ展望が開かれていないとしても、訴訟という手段を通して彼らの闘いに付き合うというのも、弁護士の果たすべき役割ではないかとも考えた。そして、この事件が提起する重要な教育上の問題点を埋もれさせることなく社会にアピールしたいという思いもあった。
 当時、私は弁護士六年目のまだまだ経験の浅い弁護士であった。だからこそ怖さも知らずに引き受けようとしたのかも知れない。
 勿論、一人や二人でやっていける事件ではなく、私は大変な事件を引き受けたと内心戦きながら、弁護団の結成に向けて動き出した。批判覚悟で言うが、当時神戸には教育裁判に自信を持って挑める経験と理論を持った弁護士はいなかった。しかし、私は、亡くなった少年の人権の回復のために、訴訟をやる以上教育委員会等の責任を暴き、そして最終的にはどうしても勝ちたかった。そうした中で私は何人か核になれるだろう弁護士を思い浮かべた。そして、偶然宗藤泰而弁護士に出会った。
 当時、宗藤弁護士とは姫路支部に係属していたある民事事件で対立当事者の代理人をしていたくらいでそれほどの接点は無かった。ただ、同弁護士のことを、神戸地方裁判所での裁判修習中に一人の裁判官から聞かされていたことあって、私はいつのころからか弁護団の団長候補として考えていた。そして、右の事件の裁判期日の帰りの列車の中で、たまたま同弁護士と同席することとなり、私は決心して風の子学園事件の話をし、唐突にも事件を一緒にやってほしい旨依頼した(同弁護士によれば、私がこの話をしたのは西明石駅を東方面に少し過ぎた頃と明確に記憶しいてた。)。すると予期に反して、同弁護士は、これに敏感に感応して記録の送付を求めてきたのであった。私はすぐに手元の一切の記録を送付した。これを受け取った同弁護士はわざわざホテルに宿泊して一気に読んでくれた。そして、すぐに私に電話をしてきた同弁護士の言葉は、教育委員会等への怒りであり、事件をやる、との強い決意であった。
 以後、宗藤弁護士を中心に弁護団全員による訴訟活動が展開され、他方、学者、事件関係者、市民など様々な人々の支援を得て、冒頭書いたように裁判は勝訴に終わった。
 弁護士にとって記憶に残る事件があるとすれば、私はこの風の子学園事件を一番に挙げる。当事者の深刻で切実な思いを引き受けて訴訟を請けたのは、この事件が初めてであり、また、困難な事件を前にして、正義を根本に据えて訴訟に勝つために、弁護士が訴訟にどのような姿勢で臨まなければならないかについて学ばせてくれたのもこの事件であった。
 訴訟事件が一応の終局を迎えた後の昨年春、私たちは再度小佐木島を訪れた。事件直後には三原市と島との間にあった連絡船も既に廃止され、時の流れを感じた。幸いにも、私たちは、事件を通して親しく交流し、事件に尽力をいただいた花園大学(現在は立命館大学)の野田正人先生の尽力で島の区長さんの船で島に渡ることができた。船中、小佐木島を目前にした少年の父は涙した。
島に渡り訪れた学園跡は以前より一層荒れ果てていた。雑草をかき分けて辿りついたコンテナ前で、私たちは亡き少年に手を合わせ事件の報告をした。帰り際に船のお礼方々区長さん宅を訪れたが、思いもよらぬ御馳走になってしまった。その懇談の途中に、区長さんから意外な話が出てきた。風の子学園がまだ運営されていた時に、一人の少年が時々犬を連れて区長さんのお宅の前を通ったという。少年は礼儀正しく優しそうだったという。実はその少年が犠牲となった少年であった。そして、学園が閉鎖された後、区長さんは引きとり手のない犬を現在も飼っているというのであった。その犬の名前はポチと付けられ、小さな波が打ち寄せる堤防下の砂浜に繋がれていた。その話を聞いて懇談の席を外した少年の父は、その犬を撫でながら嗚咽したという。父の深い悲しみはずっと続いていたのだ。そして、それは今後も父の中に少年の面影とともに残るのだ。
 訴訟は終わった。しかし、事件は決して終わってはいない。少年の両親にとっても、そして、私たちにとっても。日本の教育の体質は何ら変わっていない。事件の教訓を教訓として生かすためには、私たちは新たな闘いの方法を見出さなければならない。そして、私はこうした活動にかかわることも弁護士の責務であると事件を通して学んだ。
 風の子学園事件は、この西播磨地域に貴重な遺産を残した。この事件の後、宗藤弁護士らとともに相次いで教育上重要な課題を抱えた訴訟を提起した。その一つは、学校事故の真相に対する親の知る権利を前面に掲げた事件で、それは勝訴的和解で終わり、もう一つは近時マスコミを通して大きく報道されたが、小六の児童が教師から言われなき暴行を受けた直後に自殺した事件の国賠訴訟で勝訴し、そして敗訴した被告の竜野市は控訴を断念した。こうした一連の訴訟活動の中で、多様な市民が傍聴に駆けつけ教育について語り始めた。また、学校事故によって心を踏みにじられた遺家族が集まって「兵庫県学校事故・事件遺族の会」が結成され、癒しの場の確保と教育の変革に向けて活動を始めた。
 少年の死は、悲惨な死であった。しかし、少年は、両親の闘いを通して見事な遺産を残した、と私は考えている。


「君が代」「日の丸」押し付けに反対する川崎の運動報告(その2)

神奈川支部  三 嶋  健

 前回団通信で二月八日に川崎市内の全公立高校を訪問し申入れ活動をしたことを報告したが、その後の活動を報告する。
二 記者会見(二月二三目)
 私達は「日の丸・君が代」問題を訴えるために、記者会見をした。
記者側から、時代が変わった、「君が代・日の丸」は受け入れられている。それにもかかわらず、学校現場だけ「君が代・日の丸」を排除するわけにはいかないのでぱないかとの質問が出て論争になる場面もあった。ただ、神奈川新聞、東京新聞は公正な記事を載せてくれた。新聞を見た人から報道されていた学習集会について問い合わせもあった。結論的には記者会見は成功と見てよい。
三 県教育委員会申入れ(二月二四日)
 翌二四日、神奈川県教育委員会に申入れをした。県側は校長を呼びつけて、国旗掲揚・国歌斉唱をするように指導したことを認めた。しかし指導は強制にはあたらないとした。私達は申入れ活動の際の校長先生からの間き取り調査から、校長側は強いプレッシャーを受けていること、このことはまさに「強制」であり、内心の自由の領域に踏み込んでいると指摘したところ県側は反論できなかった。なお県側は国民意識において、「君が代」に対する反発が強いことをみとめた。
四 市教育委員会申入れ(二月二五日)
 翌二五日は、川崎市教育委員会に申入れをした。市側は県のように個別に呼びだして締め付けを行うことはしていないが校長会を通じて指導していると言っていた。外国籍の子供に対する配慮の点も聞いたが、指導要領に従って対応するとし、特別な対策を考えていないことが明らかになった。
五 学習集会(二月二八日)
    ー右翼の妨害を乗り越えてー
 市民の反対の声をアピールするために石山久男先生を迎えて学習集会を開催した。前日、桜木町駅前で開かれた「日の丸・君が代強制反対」市民集会に右翼が多数押しかけ、予定されていたデモが中止に追い込まれた。私達に対しても右翼から「妨害してやる」という電話が入り、要請を受けた地元の警察が会館の内外で警戒にあたった。右翼は街宣車で押しかけたが会場周辺には近寄れず、また、四人の右翼が会館を訪れて館長に会場を貸すなという要求したが、館長は毅然としてこれを拒絶した。
 年度末の忙しい時期のうえ、右翼の妨害があったため人が集まるか危慎されたが、二二〇名を越える人が参加し、会場は満員となり熱気に包まれた。私達の集会としては数年来で最大であり市民がこの問題に対して関心をよせていることがわかった。
六 卒業式ウォッチング(三月一目)
 三月一日、川崎市内の全ての公立高校で卒業式が行われた。
 私は川崎区内の県立高校の卒業式に出席した。式が始まる寸前に「日の丸」が三脚で掲げられた。
 プログラムには国歌の斉唱は載せてなかったが、式の冒頭、「国歌を斉唱します。ご起立下さい」との声がかかった。私たちは起立しなかった。教職員の大半は起立しなかった。彼等は座ったままの私たちを見て意を強くしたようである。
 「君が代」のメロディーが流れたが、卒業生は全く歌わず、父兄、在校生の一部が後半でおずおずと歌いだした。式場の体育館を出たところに、「君が代・日の丸」押し付け反対を訴える教職員組合のビラがおいてあり、抗議する分会の立て看板が立てかけてあった。
 夕刊報道によれば、神奈川県内の大半の高校で「君が代」斉唱があったが、教職員や生徒が歌わなかった学校があった。川崎市立の高校の中にも、教職員の反対で「君が代」「日の丸」をもち込ませなかった学校があった。
 私達は、卒業式に参加して、折角の卒業式に「君が代」「日の丸」という特定の価値を押し付ける政治の横槍には心から怒りを感じた。思想良心の自由を侵害する「君が代、日の丸」の押し付けにはねばり強く反対していこうと決意を新たにした。


日産問題シンポの報告

京都支部  岩 佐 英 夫

一、日産車体京都工場の地元宇治市において「雇用と地域経済を守れ!%産の社会的責任を問うシンポジウム」が一月二八日開かれ、約二〇〇人が参加した。ルノーからもパネラーが出席し、テレビでも報道された。
 パネラーは、京都総評副議長薮田秀雄氏、JMIU日産自動車支部書記長境繁樹氏、CGTルノー労組中央代表フィリップ・マルチネーズ氏、ルノーヨーロッパグループCGT副書記アントニオ・デ・アルメーダー氏、日本共産党洛南地区日産などリストラ対策本部長浜田良之氏、それに小生の五人であった。
 薮田氏が日産車体京都工場のリストラ計画の概要を報告したあと、境氏が村山工場の闘いを報告した。
 境氏は、現地闘争本部が昨年一一月に発足以来、地域ビラ全戸配付とともに、村山工場門前ビラ配付を定例化し、労働者の受け取り数が当初二〇〇枚から一月に入ると九〇〇枚にふえ確実な手応えがあること、商工会加盟企業一二〇〇社中六〇〇社に電話をした結果、五二%がリストラの影響ありと答え、リストラに反対六一%、賛成は四%であったこと、村山工場の全従業員に資料を郵送して四〇〇人に電話をかけ、一人三〇分から一時間位も話し込み、ゴーンへの怒り、単身赴任で家族がバラバラになることの不安、住宅ローンなどさまざまな悩みが出されたことを報告した。そして第一次面談では、移動できない、検討中との回答が八〇〇人あったことから、会社側は、新手として @特別赴任手当、 A「転進支援制度」(退職金上のせ)を出してきたことを紹介した。そして境氏は、何よりも、広く世論に訴えていくこと、リストラをやめさせることこそ会社のイメージアップにもなること(リストラ発表後、日産車のシェアは二一%から一六%台に急落した)を訴えた。
  マルチネーズ氏は、ルノーでも一九八四年以来一六次にわたるリストラが行われ、国境を越えての配転を何回もされた労働者もあること、経営者のスローガンは「日本人のように働け」であったこと、しかし、リストラによる労働条件の悪化で生産能力が低下し、消費者から注文を受けても数ケ月も待たせるという事態が発生していることを紹介した。
 こうした中で、最も性能のいい工場であったベルギーのビルボード工場を、高コスト(労働条件がよい)ゆえに閉鎖しようとし、これに対して、EU諸国等国際連帯の闘いの中で、政治家の認識を変えさせ、大きな勝利をかちとったことを報告した。
  浜田氏は、宇治市会や国会での論戦を紹介し、小生は、労働者の権利保護の観点から日産リストラ計画の問題点を指摘した(この報告準備のため団本部作成のパンフを大いに活用し、日産問題プロジェクトの加藤団員から資料提供いただき、感謝しています)。
二、質疑では、同じくリストラが進められているユニチカ宇治工場の労働者が、退職金すらなしに転籍させられ、現場は人べらしのため昼休みすらまともにとれず仕事かけもちで食事をする、忘年会も会費が払えないのでなしになるといった深刻な状況が報告され、また市職労組合員から下請業者訪問の中で、仕事がない為に日程表が真っ白になっていたことや、地元行政は労働者や下請業者のくらしよりも、工場移転跡地利用の方に関心が向いているとの発言があった。
 日産の関連会社で働いているという女性労働者が、日産や下請けに働いている人達はあきらめムードが強い、何でもっと怒らないんだろうと発言し、ビルボールドの闘いの具体的内容を教えてほしいと質問した。
 この疑問に対しマルチネーズ氏は、私は「闘争の修士ではないが」と冗談をとばしつつ次のように答えた。
 @結局、労働者の要求を守る組合員の数がどれだけあるか、A親会社の労働者が、下請け労働者に対して自分達は経営者側でないということをいかに伝え連帯を強化するかが重要、B実態を世論に訴えること、C現場での闘いのやり方は、ヨーロッパでは上からの指令でなく、労働者が自分達で決定する。ビルボールドでは、工場占拠で古タイヤを燃やしたり、デモや集会も行われた。しかし「見える闘い」だけでなく、職場の仲間と話し励まし合うことが一番大切だ。
 マルチネーズ氏の指摘は、あたり前のことを言っているようで、実は極めて原則的で含蓄の深い内容と思う。特に本工意識の問題点はJMIUの労働者の中にすらあると境氏は実感を述べ、連合の労働者と話し合い、何故闘いに立ち上れないのかにまで遡ってともに考え、まわりの日産労働者に働きかけてほしいと訴えた。
 日産車体京都工場には残念ながらJMIUの組合員はおらず、このシンポで公然と発言できる状況にはない。しかし、地区労や民商などで「日産などのリストラに反対し、雇用地域経済を守る宇城久連絡会」が昨年一一月二六日結成され、街頭宣伝、下請業者訪問などの活動を続ける中で、このシンポに日産車体本体の労働者も数名参加し、先述のような下請けの女性労働者の発言がなされた。
 団支部としては日産の問題では取組は殆どできていない。しかし、京都では三菱自工でも大リストラが行われようとし、京都の地場産業(織物、伏見の酒等)と深いつながりのある信金が次々と経営破綻に陥って合併リストラが進められ、三月の支部例会では、リストラ問題にとり組む予定となっている。


ルノー労組幹部に突撃インタビューしました

事務局次長  財 前 昌 和

 私は一月二六日本部の事務局会議に出席したので、翌二七日は溜まった事件を処理するため朝から裁判所回りをしていた。そして昼事務所に電話を入れると、「団本部から朝FAXが来て、『ルノ一の労働組合の幹部が今日京都で宿泊し、明日二七日宇治で行われるシンポジウムに出ることになっている。ついては今日夕方か明日朝に会いに行ってインタビューをしてください。またシンポジウムにも出席して後日報告してください』との指示が来ています」とのこと。「何て人使いの荒いところだ。急に言われても無理だよ。」と思いながら訟廷日誌を見ると、いずれも調整可能な用件である。
 こういった訳で私はインタビューをする羽目になった。
 日産に資本参加したルノーから派遣されたゴーンが現在リバイバルプランと称して日本各地で工場閉鎖を進めようとしている。それとの闘いに参考にするため、同じルノーがベルギーのビルボルド工場を閉鎖しようとした時のルノー労組の闘いをインタビューするのが主な目的でした。なお、二八日のシンポジウムについては京都支部の岩佐英夫団員が詳しい報告を書いておられます。
 二七日午後六時に京都パークホテルで待ち合わせ。フィリップマルチネーズ氏、アントニオ・デ・アルメーダー氏、通訳の女性、全労連の方、NHKの記者の方、そして私の六人で、ホテルのフレンチレストランで食事をしながらのインタビューが始まった。
 開口一番私はフランス語であいさつをした。「ジュ マペール マサカズ サイゼン」。何を隠そう私は大学時代フランス語を選択していたのだ。最初にフランス語を使って相手をびっくりさせる、この作戦をあらかじめ練っていたのである。しかし悲しいかな、以下のインタビューはすべて通訳の方を通じてのものです。通訳の方から「日本の語学教育には問題がありますね」とからかわれる始末である。なお、以下の内容は、ワインを飲みかつ食事をしながらのものであり、内容の正確性は保証の限りではありません。
 フランスでは、四九人以上従業員がいる事業所では労使協議委員会を設置することが義務付けられ、労働条件に影響を与える経営計画を実施する場合あらかじめこの委員会にかけ、労働組合側委員に説明する義務がある。労働組合側委員は次回の委員会で意見を述べることができ、その際専門家の協力を得ることもできる。
 経営者が委員会で説明しない場合、労働組合は、説明することを命ずるよう裁判所に訴えることができる。ゴーンは労働組合に事前に説明しないまま突然工場閉鎖等を含むリバイバルプランを発表しているが、このやり方をフランスでやれば法律違反である。
 ルノーは、ベルギーのビルボルド工場閉鎖を発表した際も組合に事前に説明しなかった。ルノー労組はヨーロッパ全体の横断的な組織なので、ベルギーでの闘いを支援するためにフランスでも闘いを展開し、フランスの裁判所にも訴えた。
 フランスには労働裁判所などの専門裁判所があり、ルノーを訴えたのも労働裁判所である。労働裁判所の一審には二人の労働組合代表と二人の経営者代表の素人裁判官が参加している。素人裁判官は五年に一度の選挙で選ばれる(参審制)。四人で結論が出ない場合には職業裁判官が判断を下す。
 一審裁判所はルノ一に対して、工場閉鎖に関する情報を組合に提供するよう命じた。これに対してルノーは控訴したが、控訴審裁判所はさらに踏み込んで、工場閉鎖について労働組合と協議することまで命じた。これは画期的な判決ていフランスやベルギーの労働裁判の水準向上に貢献した。判決後シュバイツァ会長は経営会議で「毎日世界中で工場が閉鎖されているのにどうしてルノーが工場を一つ閉鎖しただけでこんなに騒がれるのか」と嘆いた話を聞いた。
 ルノーは第二次世界対戦中ナチスに協力した歴史があり、戦後没収され国営企業となった。その後は社会政策の実験室と呼ばれるほど様々な先進的な政策を取ってきた。
 ところが一九八○年代から民営化の動きがあり、ルノーは民営化を避けるため大リストラを始めた。一九九二年に工場閉鎖が行われ多くの労働者が遠距離配転をさせられた。しかしその二年後には再度転勤をさせられ、さらにその二年後にはその工場を閉鎖すると言い出した。この経験によって我々は、経営者は一度言いなりになったら何度でも同じことを繰り返してくる、従って最初に闘わなければならないということを学んだ。
 ルノーはその後結局民営化されたが、この時ルノーの経営者は、「民営化によってルノーは変わった」ということを社会や株主にアピールするため、そのイメージ作戦としてビルボルド工場閉鎖を打ち出した。ビルボルド工場は一九九三年、一九九四年にも設備投資をしており近代的な工場だったので、本来なら閉鎖の対象になるような工場ではない。
 このアピールは成功し、計画発表後ルノーの株価は上がった。従ちて今回の日産リバイバルフランも、株主にアピールし、株価引き上げを狙っていたのかもしれない。最近の経営者の傾向として、株主の顔色をうかがい、短期的な利益を追求する傾向がある。
 フランス国内では、ルノーによる日産への資本参加で、ルノーは立ち直った、これまで押されっぱなしだったフランス企業が日本金業に一矢報いたとして喜んでいる雰囲気がある。またルノー側もフランス国内では、ルノーの日産への資本参加を日産も日本の世論も歓迎していると宣伝している。
 しかし今回来日して、ルノーのやり方に反対の意見も強いことが分かった」これからは、フランス国内の世論に訴えてルノーのひどいやり方を暴露していく必要があるのではないか。そのためにも国際連帯を今後強めていく必要がある。ベルギーのビルボルド工場の闘いも労働者が国際的に連帯した結果勝利したものだ。
 インタビューの概要は以上の通りです。渋々引き受けたインタビューでしたが、始めてみると非常に面白い内容で、結局二時間以上話を聞きました。現在東京法律事務所を中心にEU労働法制調査団派遣の企画が進んでいますが、きっとおもしろい話を仕入れてきてくれるだろうと期待しています。


過労自殺で業務上認定かちとる

千葉支部  守 川 幸 男
  高 橋 高 子

一 経過
 株式会社銭高組東京支社の分譲マンション新築工事(三棟二三四戸、請負代金二八億円)で、現場所長のSさんは、ほぼ完成したマンションの下見会当日の一九九六年三月一〇日、現場事務所で自殺した。四五歳であった。
 遺族である妻は一九九八年一月五日、相模原労基署に労災申請をし、労基署は、昨年九月一四日の過労自殺に関する労働省の新しい認定基準に基づいて、本年二月一八日に業務上認定をした。私たちは、妻と、数日前に実は自殺だったと打ち明けられた三人の子どもらのうち長男、支援の人達とともに同月二四日、労基署で認定の理由を聞き、同日、遺族の居住地である千葉で記者会見をした。労働省によれば、新基準に基づいてこれまでに六件が過労死自殺で業務上認定されているようであるが、記者会見して新聞報道された例はこれが初めてのようである。
二 業務上認定の理由
 労基署の説明によれば、自殺の前年九月に現場で労災死亡事故があり、副所長が送検になったことから、Sさんば現場の最高責任者として責任を感じ、それ以来食欲がなくなったり不眠となった。これは国際疾病分類第一〇回修正(ICDー一〇)のF3のうつ病に罹患したものであり、「職場における心理的負荷評価表」の(1)「平均的な心理的負荷の強度」のうち、「会社でおきた事故(事件)について、責任を問われた」に該当する。その心理的負荷の強度はTからVのうちU程度であるとした。そして、(2)「心理的負荷の強度を修正する視点」や(3)「出来事に伴う変化等を検討する視点」の項で、本件に即して、工期の遅れ、大幅な赤字、下請の現場離れなどを総合判断し、その心理的負荷が「特に過重」であるとして、総合評価を「強」と認定した。
 そして、業務以外の心理的負荷や個体的要因については基本的に問題にならないとして、結局これを否定し、Sさんのうつ病は、業務による心理的負荷が有力原因で発症したと認定した。
三 業務上認定をかちとった要因
 自殺した夫の遺族が立ち上がることは精神的につらいものがある。当然のことながら、妻が認定闘争に立ち上がったことがまずあげられる。また、主治医のいない中で、妻の手帳につづられた夫の精神状態およびその変化に関する記載が、「精神障害」と認定された有力な証拠となった。労災申請後、精神安定剤の服用の事実も明らかとなった。
 次に会社に、契約書、工程表、組織図、マンションのパンフなどの資料の提供と、上司一名と部下三名から、かなり率直な陳述書の作成をそれぞれ求め、協力してもらったことがあげられる。この中で、Sさんの責任感の強さや真面目さ、土日しか帰れない過酷な労働環境と長時間労働、労災死亡事故、工期のきびしさと下請が集まらないこと、工事費のきびしさと赤字の発生、それらのもとでの二度にわたる退職申出などの事実が、「業務による心理的負荷」の強いことの有力な証拠となった。
 さらに、主治医のいないもとで、これらの資料をもとに、東葛病院の石田一弘医師に意見書を書いていただいた。
 労基署も会社などからの事情聴取や資料の収集を行い、妻の話をよく聞いてくれた。
 神奈川労連なども参加している「いのちと健康を守る神奈川センター」による支援の運動や労基署交渉も取り組まれた。
四 認定闘争に取り組んで
 過労死や過労自殺をめぐる優れた判例が続き、新基準が出されたこともあって、苦しい裁判闘争に至らずに認定をかち取れた。これは、これまでの遺族の立ち上がりや弁護団、支援団体などの長く苦しい闘いの成果に負うものである。
 妻が記者会見で、「子ども達にきちんと説明できるようになったことがうれしい。」「ようやく記者会見する決心がついた。同じような遺族の手助けになれば幸いです。」と語ったのが印象的だった。


裁判を考えるつどい

大阪支部  藤 井 光 男

 二月一四日、天王寺法律事務所主催で依頼者、地域の民主団体などに呼びかけて、「日独裁判官物語」のビデオ上映と田川和幸元裁判官の講演を聞く『裁判を考えるつどい』を開催し、約五〇名の参加者がありました。
 「日独裁判官物語」を見て、市民のための裁判あるいは開かれた裁判所という観点からして、法廷、裁判官の市民的自由など日独の間の大きな相違点があることが参加者におどろきを持って受け収められたことが、アンケートの回答からも十分にうかがわれた。
 田川氏は、現在の官僚裁判官が市民から見て削りやすい納得できる判決をするよりも、上級審で破棄されない判決をする傾向があることが問題であること、任地、昇給、昇格などの差別によって裁判宮の独立性・自主性が損なわれていること、事実認定が大切であるのに成績主義から一丁上がり式の粗雑な事実認定の判決が横行していることなど、みずからの裁判官としての実体験をまじえた話をされて参加者に好評でした。
 又、田川氏は日本では裁判官の選任に国民が関与していないこと、日弁連が提唱している法曹一元、陪・参審など諸外国の例なども説明しながら、司法改革の重要な柱として推進されるべき課題であることなども語られた。
 司法制度について、まだまだ民主団体を含めて市民に広く知られていないことが、このつどいを通じて再認識されたことから、今後はより一層司法改革・民主化に向けて広報活動を強化していくことが確認された。


山内忠吉先生を偲ぶ

神奈川支部  川 又  昭

 山内先生。ご返事のないのを知りながらこう呼びかけるのは、あまりにもつらく悲しいことです。
 思いおこせば、私が山内先生に初めてお目にかかったのは、東京地方裁判所労働部において書記官をしているときでした。一九五四五年ころです。
 先生は全駐労解雇事件の原告代理人として出廷されたのでした。
先生は、四〇歳半ば、私は二〇歳代後半に入ろうとしているときでした。
 次にお目にかかったのは、それから凡そ一〇年後一九六五年、私が司法修習生として横浜地裁に配属されたときです。同僚の柴田修習生が先生の許で弁護修習することになったこともあって、横浜駅東口の振興倶楽部ビル最上階にある先生の事務所に再々おたずねしては何かとお話を伺ったことが思い出されます。
 そうして一九六九年一月、先生の還暦直前、先生とご一緒に畑山弁護士が加わって、横浜合同法律事務所を創設し、仕事をすることになりました。
 山内先生との三度にわたる出会いは、私の人生にとってかけがえのないものとなっていることに今更ながら感慨を深くしている次第です。
 先生は、喜寿のお祝いのとき「真実一路」と揮毫された色紙を私たちに下さいました。
 真実一路、それはまさに先生がその一生を貫いて変わることなく進まれた道でありました。
 先生は軍国主義とファシズムの吹き荒れる時代の中にあって、どうすれば軍国主義の片棒をかつぐことなくやっていくことが出来るか、身をもって実践されたことを遠慮勝ちに話されたことがあります。
 一九四一年赤紙で召集されたときのことです。弁護士資格があるのだからとすすめられた司法官とか幹部候補生への志願を断り、一平卒の身分にとどまる道を選びそれを最後まで貫かれたということです。真実一路を身をもって実行されたのでした。
 一九九六年三月先生の米寿の祝いが催された際、駿尾に付いて私も古稀を祝っていただきました。そのとき先生は心境を示す言葉として「非核・平和」と揮毫されました。私は恥ずかし乍ら「日々是好日」でした。軍国主義の崩壊から平和憲法の時代となったにもかかわらず、先生が当初考えられていたものとは違った方向に動きつつある日本の現実を前にして、たまらないもどかしさを覚えられたのではないでしょうか。それが、先生をして「非核・平和」という象徴的文字を揮毫させるに至ったのだと思います。ここにも先生の真実一路は貫かれています。
 また、先生は広く深く心を慰める自然をこよなく愛されました。
山野をたずね野烏と遊び花をめでる先生は、そこに豊かな興趣を覚えるばかりでなく虚飾のない自然の姿に飽くことを知らなかったのだと思います。」
 かって先生と尾瀬に行を共にしたことが二度ほどあります。鮮やかな尾瀬の紅葉の中に体全体で融け込んで行かんばかりの風情であった先生の姿が今更ながらに彷彿として来る次第です。
 先生のこうした生き方は人間如何に在るべきかについて確固たる指針を無言のうちに私ども後輩に与えてくれるものでありました。
 三人で始めた横浜合同法律事務所は、いま一二人の弁護士を擁する事務所となり、この四月には更に二人の新人弁護士を迎え入れることになっています。
 無言のうちに示された先生の指針を私達なりに何とか大過なく歩んできたことの一つの成果であると思います。横浜合同法律事務所は、弁護士、事務局員一同先生が身をもって示された真実一路の道を心に戴して進んでいくことを今ここにお誓い申し上げますとともに、先生の安らかな和やかな、とこしなえのご冥福を心よりお祈り申し上げて弔辞と致します。(二月二六日・妙蓮寺にて)


弔辞

 団長  豊 田  誠

 山内忠吉先生、あなたの訃報に接し、私たち自由法曹団の全国の団員は大きな悲しみを禁じ得ません。
 あなたは、一九二八年東京大学経済学部に入学された後東大の社会科学研究団体の「新人会」に加入、「新人会」解散命令後は非合法の活動することを決め、直後に逮捕、勾留、停学処分と青春時代のはじめから困難な闘いを開始されました。一九三五年に高等文官試験に合格、弁護士として治安維持法違反の刑事事件等を担当し、戦後は岡崎一夫元団長の強いすすめで神奈川に本拠をおき、東神奈川駅で発生した人民電車事件、レッドパージ事件、など眼の回るような忙しさの中で常に労働者、国民の立場で、たゆまなき闘いを続けてきました。先生の活動は自由法曹団の歴史に深く刻み込まれているとともに、団神奈川支部の誕生・発展の歴史に輝かしい足跡を刻み込んでいます。元国民救援会神奈川県本部事務局長小倉勲さんの言葉で山内先生と岡崎先生のことに触れ、持ち味が違うがともに「温厚にして神のごとき人柄」と書いておられるのは全くお二人のお人柄を言い当てたものと思います。一九七二年には、立場の違いを越えて信頼を受け横浜弁護士会の会長となって活躍され、全国の団員の範となりました。
 会議には常に時間通りお見えになり、大声で意見を言うことはないけれど、皆の意見を静かに注意深く聞かれていた姿は私たち後輩にとって限りない励ましとなっていました。その一方で「ここぞと言うときに出て一言で決める。」と言われるように必要なときに鮮やかな切れ味を発揮されることもしばしばでした。
 私たち自由法曹団は、今でこそ一五〇〇名を超え、すべての都道府県に団員の事務所をもつに至りました。神奈川でも一九六三年に若い弁護士による共同事務所が生まれるなど次々に若い団員が活動た参加し、自由法曹団神奈川支部も一〇〇名に迫る団員を擁するところまで発展しました。このような発展は、山内先生をはじめとする先達の苦労と汗のたたかいの歴史があったからこそといってよいでしょう。
 山内先生、あなたが自由法曹団の闘い、とりわけ神奈川での国民共同の闘いにしるした功績は偉大です。
 あなたの後から続く団員、そして多くの民主的な団体・個人が、先生のご遺志と事業を受け継ぎ、あなたのめざした道をさらに発展させる決意です。  どうか、後に続く私たちのたたかいをしっかりと見守っていて下さい。自由法曹団全国一五〇〇名を代表しての心からの弔辞とさせていただきます。
二〇〇〇年二月二六日


湯の森を越えて出会った夏盛り(二)

東京支部  中 野 直 樹

 葛根田川源流域は、三ッ石山、小畚山、大深岳、関東森、八瀬森、曲崎山、大沢森、大白森、小白森山、乳頭山を連ねる稜線に囲まれた、十和田八幡平国立公園の一角である。ちょうど手指いっぱい広げたような形の枝沢から成っている。大深岳から乳頭山までの稜線が、玉川と葛根田川との分水界であり、同時に秋田県と岩手県との県境とされている。この源流域は林道開発をさせていないため、本流を下から遡行してくることも大変である。その分傷つかない原生のブナの森が息づいている。
 夕食のカレーを担う大森さんはしばらく残って仕込みをした後、右手に出合いを眺めてきた大石沢で釣るとのこと。三人は本流を釣り上がることにした。大森さんに「ビールをこっそり飲んだらだめだよ」と言えば、ジャガイモの皮を剥いていた大森さんは「仕込みをするんだから、ビールをどうぞと勧めるのが友だちではないか」と返した。正論に頷いた。
 本流は梅雨の雨を吸い込み弾けるようである。テン場からすぐ上が滑状の岩盤で幅が狭くなっており、岸近くを歩むが、膝上までの深みの流れの勢いに少し緊張した。海面もそうだが、渓流水の美しさを引き立たせるのも陽射しと天空の色である。峡谷にのぞく狭い空には暗雲がたれこめ光が乏しくなってきた。ブナの葉も沈み、川面も木暗くなった。日常生活には不自由しない視力の私もこうなるとだめである。毛鉤を振り込んでもどこを流れているか見えず、合わせもできない。数尾合わせ遅れた後、早々に餌釣りに撤退した。
 本流から離れて中ノ又沢に入るころからとうとう空が泣き始めた。手網を取りだし、文字での説明は的確にできないポイントを見定めて川底にセットして構える。手でその上手の川石をひっくり返したり、足でざざざと川底の小石をかきまぜる。しばしの間をおいて手網を持ちあげると、運良く通称オニチョロと呼ぶカワゲラの水生昆虫が網の中で右往左往している。これが岩魚の好物で、餌箱に納められる。逃げ足早いので、網の中にわんさといるときには、一つずつ捕まえて餌箱に入れるのに間に合わず、時折口内で一時預かりをする。舌の上をもぞもぞ歩かれる感触はなんとも表現しがたい。
 中ノ又沢は平瀬が続き落ち込みが少ない。落差のある落ち込みには淵が形成される。そこは流れが緩やかになり、隠れ穴もあることから魚が棲み家にしていることが多い。岩魚釣り人もこの落ち込みをポイントとして好み、釣果もあがる。もちろん、淵でもまずどこに投じるかにおいて個性と流儀があるし、上手い下手の差が出る。これといった落ち込みのない瀬の釣りになると得手不得手の力量差がより大きくなる。水の流れは、岩と石の大小・配置の組み合わせで千化万変する。複雑な起伏を繰り返す流脈のどこに岩魚が潜んでいるかを見当つける力がまず必要である。潜むというのは、上流から流れてくる餌を捕食する意思と態勢にあるという意味である。そして、その岩魚が誤信するように自然な状態で毛鉤・生餌を流す技がなくてはならない。闇雲に餌を投げ、流しても、岩魚の視界に入らなければ空振りだし、警戒されては徒のゴミ流しに終わる。雨粒が川面にたてる波紋が忙しくなってきた。雨具の上着を忘れたことの不安が現実化し始めていた。
 しかし、その現実化に気づかない境地にあった。環境破壊と釣り人の殺到からかろうじて逃れている渓は豊富な岩魚を育んでいる。川虫を投ずる毎に、待っていましたとばかりに仕掛けが止まり穂先がツンツンと曳かれる。合わせれば、二三〜四センチの岩魚が宙に舞う。時折、スコールのような雨がブナの森を騒がせる。このときは岸辺に聳えるブナの大樹を雨宿りの軒に借りて、空を見上げる。雲の塊が次々と押し寄せては急ぎ足で駆け去っていく。小雨になり時折陽射しも出ることに安心し、次の瀬にねらいを定める。こんなことを繰り返しているうちに全身ずぶぬれになった。
 午後三時半過ぎであろうか、驟雨は断続的な雨に替わり、川虫を採ろうと水中に腕を突っ込み、増水してきていることに気づいた。今いる中ノ又沢は退路を阻まれるほど急激に水かさが増すことはないと判断したが、問題は中ノ又沢が本流と合流した後の下降である。特に、テン場からすぐ上の川幅が狭くなった箇所は遡ぼり来るときにも流水の勢いを感じた。本流が思いのほか増水していたら通過できるか。本流を釣りのぼった清水さん、途中で姿を見失った岡村さんはどうしたか。考え始めたら不安が不安を呼ぶ。山中で予感する不安は大事にしなければならない。
 即断し、竿をたたみ、下降を開始した。気がせいても水に溢れた沢中は走れるわけではない。本流との出合いにつきともかく濁りがきていないことに安堵し、ブナの森の保水力に感謝した。あと二〇分ほどと踏んで、水量の変化に気を配りながらひたすら下った。心配した箇所はやはり股下を洗うほどに嵩を増した水が飛沫となってずぶぬれのTシャツをさらに濡らす。幸い倒木が横たわり、これをしっかり掴みながら難所を過ごした。
 皆も前後して思い思いの釣果を揃え、濡れネズミでテン場に戻ってきた。小雨となったので、焚火をするために手ごろな流木探しをしたが、当たり前として乾燥したものがない。持参の新聞紙を取り出して種火をつくり濡れた細木を折って独立燃焼させようとするがうまくいかない。あせり、手折っていた竹が跳ね、左眼に当たった。咄嗟に瞼を閉じたが、その瞼を強烈な一撃が襲い、痛さに眼を開けられない。焚火をあきらめ、ガスコンロで米を炊くことにし、大森さんはカレー作りを急ぐ。そのうち、雨が激しくなり、どんどん体温が奪われていく。耐え切れず私以外は、着替え、雨具を着込む。私は雨具がないのでそのまま濡れているしかない。体脂肪が少ない私はこのような局面ではとりわけ耐える力がなくなる。上の歯と下の歯が文字通りガチガチと震えて合わず、左眼は開かないし、泣きべそをかく様子だった。土砂降りのなかで、ご飯が炊き上がるのももどかしくカレーをかけて流し込み、水にさらわれないように道具を高みに移し、びしょぬれのままテントに転がり込み、身体に張りついた衣類を全部脱いで外に放り出し、替え衣類を着込み、清水さんと気付けにブランデーをあおった。たくさんのことを一文で表現するほど一気に成し遂げ、ようやく温もりを取り戻した。三〇分ほど経過すると雨があがり、余裕を回復したので、外に出て、濡れた衣類を木にかけたり、岩魚をビニール袋に入れて紐で縛って水につけたり、後始末を行った。暗がりでも水量がかなり増え、安全な溜まりにつけたはずのビール缶が逃げ出しそうな状態となっていた。さすがにテン場は浸水するおそれがない場所にあったが、さらに今日のような雨が続くとなると、帰路が塞がれ、孤立しています。
 しかも焚火をあてにし荷を軽くするために持参のガスボンベ数を減らしており、第一夜のカレーで早、残りガスが半分以下となった。実に心細い一夜となった。じんじんとうずく左眼から止めど無く涙が流れ、タオルで冷やしながらシュラフに入った。ときおり天幕を叩く雨音に、梅雨明けを告げる響きであってほしいと心から祈った。

(つづく)

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