団通信985号(5月21日)

ルノー闘争調査団報告

大阪支部  杉 島 幸 生

1、三月二五日から、四月一日までベルギー・フランスへと旅をした。旅の目的は、現在、日産で大リストラを強行しているルノー社がおこなったベルギーのビルボルド工場閉鎖の方針に反対して闘い、大きな成果を勝ち取ったベルギー労働者の経験に学ぶことだ。
 三一〇〇名の労働者が働くビルボルド工場は、ルノーのモデル工場ともいわれていたところで、九七年二月二七日にルノー社が突然に閉鎖を発表するまでは、誰もこの工場が閉鎖されるなど想像もしていなかったという。
 まさに、晴天の霹靂の閉鎖発表に対して、ビルボルド工場の労働者たちは、その日のうちに工場を占拠するとともに、すべての生産・出荷を停止する。そして、ビルボルド工場に存在する三つの労働組合はただちに共同の闘争本部を確立、以後、七月二三日の争議終了まで、自らの手で工場管理を続けたのである(その間に、七万五〇〇〇人の大集会を開催、ベルギーで二つ、フランスで一つの裁判が提起されいずれも労働者側が勝利している)。
 五ヶ月にわたる工場占拠と三つの裁判での勝利、全ヨーロッパ規模での世論の盛り上がりのなかで、工場閉鎖そのもののは阻止できなかったもののビルボルドの労働者たちはルノー社の責任においてほぼすべての雇用を確保させることに成功したのである。
 これがルノー闘争の概略である。詳細は報告集の作成を予定しているので、ぜひともそれを読んでいただきたい。

2、この調査旅行の日程は、次のとおりである。
25日フランス・パリ到着
26日ローラン・ベーユ弁護士訪問(フランス)
27日CGT労組訪問(フランス)
28日レオナルド弁護士・ドルスモンド助教授訪問(ベルギー)
29日FGTB労組訪問(ベルギー)
ビルボルド市長訪問
30日ブルージュ観光(ベルギー)
31日ペエール・リヨン・カーン司法官訪問(フランス)
法律家グループとの会食
1日帰日

 それぞれ、一時間から二時間程度の短い時間であったが、突然の訪問にもかかわらず、われわれを快く迎えてくれた。とくにローラン・ベーユ弁護士は春休みのバカンスをずらしてまで、奥様ともども、われわれのためにフランスの法律家たち(弁護士・裁判官)との会食を設定してくださり、感謝に堪えない。

3、ベーユ弁護士は、大変に広い視野の持ち主で、EUはヨーロッパ総資本の搾取の手段であり幻想をもってはならない。労働者にとって有利な側面ばかりでなく、フランスではEU基準が労働条件引き下げの口実なっているとあつい口調で熱弁されていた。
 CGT労組では法律顧問のパスカル氏からフランスでの解雇規制に関する裁判例・企業取引委員会の仕組みなどを、ベルギーのレオナルド弁護士、ドルスモンド助教授からはベルギーでの裁判(急速審理)の内容や法制度などについてご教授いただいた。レオナルド弁護士からは裁判に先立つ労働者の闘いこそが勝利を導かれたことを特に強調されていた。
 ベルギーのFGTB労組では現場で指導にあたった書記のガコムスさんが対応してくださり、ルノー労働者がどのようにして闘ったのかを詳細に話してくださった。労働者の団結を維持するために膨大な努力と工夫をなされていたという話が大変に印象的であった。いつもながら現場の人間の迫力ある話には圧倒されてしまう。
 ルノー工場があるビルボルド市では工場閉鎖に反対する市議会決議があげられということであり、その市長とも会談することができた。保守系の市長ということだが、FGTBのガコムス書記をルノー事件を通じて得ることができた友人と言い切っていた。保守政治家も含めたこのような世論の支持が組合勝利の大きな要因であったことは間違いないだろう。
 この調査旅行の最後に、フランス司法官労働組合の創設者メンバーであり、現在、破毀院(最高裁)の司法官をしているペエール・リヨン・カーン氏にお会いすることができた。現在、氏は社会法法廷に勤務しているということで、フランス労働法における「大量解雇」、「(解雇の)やむをえない経済的理由」の定義・フランスの判例水準などについて詳細な講義をしてくださり、最新判例のコピーも多数くださった。

4、突然の企画で十分な準備ができなかったにもかかわらず、当初予定していたすべての方にお会いすることができたことは、私たちにとっては幸運であった。しかし、その分、先方には多大なご迷惑をおかけしたのではないかと危惧している。本当に感謝するばかりである。欲を言えば、ベルギー・フランスの労働者たちとも直接の交流などができればよかったのであるが、これはないものねだりというものであろう。
 今回の旅では、調査活動以外の時間も比較的ありパリやブリュッセルの町をひとりでぶらぶら散歩する余裕もあった。公園で遊ぶ家族やご老人、市場での庶民の買い物風景、教会に向かう家族連れなどをみているとなんとはなくほっとした、なつかしいような気分になるのはどうしてだろうか。
 また、かねてからの念願であったルーブルやオルセー、ピカソ美術館にいくことができたのも私個人としてはうれしいことであった。行政がこれだけの芸術を安価な料金で開放し、市民の日常生活にそれが位置づけられている。そんな市民生活のあり方がフランスの労働事情にも反映しているのではないだろうか。
 他方、観光地や大通りを少し離れると廃墟化しつつある建物やホームレスが目に付くようになり、一〇%を越えるというフランスの失業率の高さが実感される。地下鉄の路線や地域ごとに住民の色合い(人種や着ているものなど)が明らかに違う(ベルギーはそれほどでもなかったが)。他民族国家化しているというフランス社会の複雑さが頭にうかぶ。私たちは、こうした影の部分にも目をそそがなければならないのだろう。

※ 調査団参加者は、次の八名です。鈴木亜英、小林譲二、滝沢香、中野和子、斎藤園生、富永由紀子、片岡文子、杉島幸生(この調査には、リーダイ争議団基金から多大な費用援助をうけました。本当にありごうとうございます。後日の調査報告がみなさまのお役に立つことがあれば幸いです)。

プラン・ソシアル(雇用調整計画)と解雇回避

─ルノー・ビルボルド工場(ベルギー)閉鎖の場合
東京支部  中 野 和 子

1 EU調査団は、三月二五日に成田を発ち、パリ、ブリュッセル、ビルボルドを訪問し、九日間の日程を終えて四月二日成田に帰ってきた。
 訪問の目的は、大量解雇指令をもつEU労働法制が具体的にどのようにEU各国の国内で生かされているか、ルノー・ビルボルド工場閉鎖問題で解雇を停止させた勝利判決を得た理由などを調査するところにあった。フランスでは解雇を争うときには、解雇無効を求めるのではなく、損害賠償請求をする(判決までの賃金全額など)しかなく現職復帰は求められないが、近年、事前情報開示義務や事前協議義務を果たしていない手続違反の場合は解雇無効とする判断が出ていることが事前の調査でわかっていた。
2 ルノー・ビルボルド工場では、一九九七年二月二七日、閉鎖発表が突然行われてから、二年半、一人の解雇者も出さず有効なプラン・ソシアル(雇用調整計画)を実行させて一部雇用を継続と、その他再就職と年金生活までの生活を保証させた。一九九七年七月二四日のプラン・ソシアルの調印式まで組合は出荷阻止を継続し、その間ベルギーとフランスで裁判に参加し勝利した。
 一九九七年二月二七日、一九九五年に新しい組立ラインを八〇億ベルギーフラン(約二四〇億円)で作ったばかりのルノー・ビルボルド工場閉鎖の発表が突然行われた。労働協約では、従業員への情報提供が決定を下す前に行われなければならないと規定しているが、ルノーはこれを無視した。
 労働組合は、二月二七日当日から組合主催の集会を行い、三月二日、一六日とヨーロッパレベルのでの集会を開催、労働組合の方針として、第一に工場閉鎖反対、第二にヨーロッパレベルでの行動、第三にフランス、スペインでの生産調整を受け入れない闘いを貫いた。五ヵ月間争議を続けられた理由は、組合に戦闘性があったからであるが、大きな支えとなったのは、@裁判闘争、Aフランスの総選挙であった。そして、EU全体でこの闘いを支援する行動が行われた。ヨーロッパの国を越えての連帯が作られた。
2 ベルギーの裁判は、組合の闘争方針とは無関係に、一人のホワイトカラー労働者が提起した訴訟がきっかけだったが、組合が訴訟参加をして闘った。ルノー判決は、民事ではルノーの工場閉鎖の決定を覆し再協議を命じており、刑事ではルノー会長の軽犯罪を認めた(シェバイツアー氏に一ベルギーフラン《約二・五円》の慰謝料支払いを命じた)ものであり、ベルギー国内の集団解雇の法制度を見直すきっかけとなった。
3 労働組合は、閉鎖撤回を求めた闘いから再雇用ないし生活補償の闘いに切り替え、有効なプラン・ソシアルを作らせる闘いを行った。プラン・ソシアルの内容は第一に、退職手当の上乗せ、第二に、雇用の継続である。ルノーには再就職させる責任及び再教育を十分に行う責任がある。ルノー社は、再雇用のために「セル」という雇用斡旋室を開設して、本社から五〇人の担当者を送り込んで、再就職に向けた聴き取り、再教育などに取り組んだ。九七年二月二七日現在三〇九七名の労働者が働いていた。調印をした七月二二日には、二九二五名となっていた(一七二名が辞めた)。三八八名がルノー社にとどまった。六三三名が早期退職制度を利用して年金生活に入った。一七六六名が再就職した。九九年八月二五日には、一三八名が解雇された。五二名は再教育を受け、八六名が再就職先を断り自分で探すこととなった。
4 フランスでも急速審理手続(レフェレ)を利用して、CGTが闘い、ルノー・ビルボルド工場の闘いに寄与したが、これについては、字数の関係で別稿に譲る。

冨森啓児団員の詩集出版記念会に出席して

幹事長  鈴 木 亜 英

 三月一五日、浅春のさわやかな空気が頬を突く長野市で冨森啓児団員の詩集出版記念会が開かれた。会場には一五〇名の参加者があり、用意された円卓はどれもいっぱいであった。
 詩集「大いなる日に」は作者である冨森団員のいわば闘いの記録でもある。過ぎし日、共に闘ったと思われる年輩の方々の参加が目立った。
 作者は安保闘争直後の一九六一年春、弁護士として意気高く全国に散り、粒々辛苦、各地に団の旗を高く掲げた者のひとりである。無縁の地に蛮勇を奮って舞下りた者も多く、このとき豊田誠団長も金沢を選んでいる。この頃から団の地方組織は飛躍的に充実していったのである。
 作者は「自由法曹団物語・戦後編」で紹介された長野電鉄労組少数派の賃金差別闘争や被差別部落住民の二睦入会権確認事件など弁護士として幅広い分野で数々の勝利を得ながら、次第に信州にその根を広げていった。そして弁護士歴三九年となる作者も日本共産党の長野一区の衆議院議員候補者となり、一九六九年から一四年間六回の選挙に挑戦することになる。一時は当選までもう少しと迫りながら、保守層の厚い壁に阻まれて目的を遂げなかった。しかし作者はこの間日本の変革を夢みて政治家として、紛れもなく情熱を傾け続けたのである。
 ところが、一九八八年末、それまでのがむしゃらな迄の日常が祟ってか作者は脳溢血で倒れてしまう。懸命な療養の結果、右半身に麻痺を残しながら、なんとか一年足らずで現役に復帰したものの、由子夫人が「口の運動神経がマヒしているから、声を出して話し言葉で表現することがむずかしい。それで彼はじれて、自分の話を理解してくれない相手に怒りっぽくなるのだった」(この書の「雑感」)というように、立ち上がったあとも苦闘の連続であった。こんな作者に再びファイティング・ポーズをとらせたのは詩作なのである。だが作者の詩作歴は意外に古い。京大文学部時代、文学研究会に所属し高橋和巳や小松實(左京)らと同人誌を発行し、詩を投稿している。修習時代同期の渡辺脩団員から「感性の豊かな詩人としての素地」あり(出版記念会メッセージ)といわれたくらいであるから、もう半世紀も詩人をやってきたことになる。とはいえ、「大いなる日に」は病に倒れた日以後の作品が主である。
 作品はすでに、団のもうひとりの詩人、みちのく赤鬼人こと庄司捷彦団員によって紹介され(団通信三・二一号)、事務局森脇圭子さんのすいせん文(同二・一一号)もある。
 一般に詩は難解なものが多く、それだけに敬遠されがちであるが、作者の生き様に共感したり、体験を共有すればこれ程心に染み込む媒体も少ない。塵外に超然として詩作に励むのとは違い、作者のそれは闘いのなかから生まれてくるので、私にも解る。全編を支配する暗黒を貪る権力者たちへの妥協を知らない敵対とこれと懸命に闘う者への時間と空間を超えた連帯はまさに私たちのものでもある。とりわけ闘い半ばに逝ってしまった友への惜別の詩はどれも出色である。
 「『暗黒をむさぼる権力者たちをむかえ討つ』というのが弁護士としての私の主題」と作者はいうが、詩集の題名となった「大いなる日」は聖書では「神の怒りが悪を討ち、虐げられたものが日の目をみる日」とされている。作者の父は同志社大学神学部教授を長くつとめられたクリスチャンである。作者は「神もキリストもなく使徒でもない/私なのに父の影は日々見えてくる」「父が遙か夢見た道歩き続けた道が/私の前には茫々とし広がっている」(「神を信じない使徒として」)と感じる。「浪花節を使ってキリスト教の伝道をしようと考えていた、一種の夢想家であった」(あとがき)という作者の父は生涯イエス・キリストと共に歩みながら侵略と暴力の嵐の吹きすさむ時代によって、その志を十分遂げることはできなかった。いま作者にとっての「大いなる日」は、時代と思想を異にしながらも、父のそれに重ね合わされようとしているに違いない。
 常に虐げられた側に立つ反骨と不屈は、この作品の背骨のようなものであるが、作品に迸る情熱とはうらはらの、いかなる状況にも決して左右されない作者の冷徹な心眼を感じ取ったのは私だけではないだろう。
 病に倒れた作者が詩への情熱を杖代わりに立ち上がり、生への執着をこれだけ示しながら、その詩のなかで「最後の瞬間まで闇と闘い/骨は広野に晒すだけである」といい切る死生観は見事である。
 会場で詩の朗読を聴きながら、経済的には報われることはないが、それぞれの「大いなる日」を求めて、ひたむきにその営みを続ける団員が全国に確実にいることを実感し、私は改めてその一員であることを誇らしく思ったのである。

自由法曹団で大型海外司法視察団の派遣を!

静岡県支部  大 多 和  暁

一、日弁連司法改革推進センターは、本年二月二七日から三月三日まで、「百聞は一見に如かず」ハワイツアーと称して米国ハワイ州に陪審・法曹一元に関する司法制度視察団を派遣した。一〇〇名近い大型調査団をという目標で、実際にも三三単位会から八五名が参加し、マスコミからも参加が得られた。
 視察団の視察内容も充実していてほとんどスケジュールの空きがなく、ハワイの青い空と海がかえって恨めしく感じた参加者も沢山いたのではないか(私もその一人である)。
 それでは何故ハワイだったのか。人口の二割近い日系アメリカ人やその他アジア系アメリカ人も多数おり、東洋的な雰囲気もある所だからである。「陪審制は日本の国民性に合わない」といった実際には何の根拠もないが、何となく「そうなのかな」とも思ってしまう点を、ハワイの司法制度の視察の中で考えたいということだったのだと思う。
二、静岡県弁護士会からは、この視察団に一四名が参加した。単位会の参加者人数としては、ダントツではなかったかと思う。一時は静岡県からの参加予定者が一八名になり、日弁連事務局より他会からの参加者が参加できなくなる可能性があるのでこれ以上の追加参加者は御遠慮いただきたい旨を伝えられたほどである(後に病気や身内の御不幸などで四名がキャンセル)。参加一四名のうち、登録五年以内の若手弁護士は半数の七名であった。このような多数の視察団への参加には、次のような背景があった。
 静岡県弁護士会は、昨年七月六日、司法改革実現静岡県本部を発足させた。従来の司法改革委員会のメンバーも入った組織だが、会長を本部長とし委員数は約六〇名と県弁会員の四分の一以上を擁し、司法改革問題に対する県弁の体制を抜本的に強化させたものである。また、会員一人一万円のカンパを募り(本年度は、一人三万円)、財政基盤も強化した。そして、昨年度は、二回の司法改革全員集会、法曹人口・法曹養成・七二条問題についての会内合意をめざした研究会の開催、日弁連司法改革推進センターへの若手弁護士のオブザーバー派遣、司法制度改革審議会大阪公聴会への傍聴者派遣などに取り組んできた。
 その中で、県弁として海外司法調査団を派遣する事も検討されてきたが、その実現性については意見が分かれていた。そこへ、日弁連の今回のハワイ司法制度視察団の企画が出てきたのである。早速、県弁としてこの視察団参加を積極的に推し進める事を確認し、参加者を募るとともに、県弁実現本部において若手弁護士には参加費用について補助金を出す事を決定した。その結果、多数の会員が参加することができたのである。しかし、参加した若手弁護士の多くはイソ弁であり、いくら補助金を出しても八日間も事務所を離れるのは大変な事であり、所属事務所の理解と援助なしには到底できなかった事である。参加した弁護士の今後の活躍に期待をしている。
三、ハワイ司法制度視察団は、陪審調査グループ、法曹一元調査グループ、法曹教育調査グループと三つのグループに分かれていたが、どのグループも陪審裁判は傍聴している。私は、法曹一元調査グループに属し、ハワイ大学でのパネル討論、ハワイ州弁護士協会・アメリカ司法協会・裁判官選任委員会との各懇談、ハワイ州最高裁視察、ファミリーコートのマッケナ判事との懇談、法律事務所訪問、連邦公設弁護人事務所の視察、州や連邦地裁の陪審の傍聴といった多彩な企画に参加した。
 その中で、もっとも感じたのは、アメリカにおける陪審制度・陪審団(特に刑事陪審)に対する驚くべきほどの信頼であった。アメリカ司法協会の調査によると、陪審に対する信頼は国民の八割に及ぶ(ちなみに、裁判官に対する信頼は三割台、弁護士に対する信頼は一割台とのことである)。傍聴した事件の陪審員も、最終弁論と裁判官の説示だけで二時間以上にも及ぶ内容を本当に熱心に聞いていた。マッケナ判事も、「陪審員は、その時あたかも政府の一員として重要な決定に参加する」という趣旨の事を述べていたが、陪審制度に対する強い誇りを感じたのは私だけではないだろう。
 またハワイ州では裁判官の選任を選挙でなくセレクションと呼ばれる裁判官選任制度で選任するシステムを採用しているが、これに対しても強い誇りを持っていることを感じた。いかにして公平な裁判官を選任するかについて非常に心を砕いている姿を実感できた。
 さらに、アメリカでは、弁護士の数が多く、かつ刑事事件の多くを公設弁護人事務所が担っているため(公設弁護人はいわば公務員である)、一方で弁護士のビジネスローヤー化が進み、法曹間における意識の大きな分裂があるのではないかとも感じられた。
 私は、陪審について、これまで導入に賛成ではあったが、熱心な陪審論者だということもなかった。しかし、今回の視察団に参加して、陪審の導入の必要を痛感している。「百聞は一見に如かず」ツアーとは、まさにその名の通りであり、一人でも多くの弁護士が実際に現地に行くことは本当に大事な事である。
 団通信九八二号に、桐山剛団員が「陪審・一元アメリカ大型視察のススメ」と題する一文を載せているが、私も全く同感である。自由法曹団でも、大型視察団の派遣を是非実現させて欲しい。明日の司法の運命がかかっているのである。

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