団通信987号(6月11日)

国民とともに司法改革運動の一層の前進を

─五月集会の二日目の司法問題についてのまとめから─
幹事長  鈴 木 亜 英

─五月集会の全体会及び司法民主化分科会は司法改革を団としてどう進めていくか、積極的な討論が行われました。当面六月から今秋総会まで、国民とともに司法改革運動を一層強力に進めていくうえで何をすべきか。私が二日目の終わりにまとめの報告をしましたので、ここに加筆訂正のうえ再録して集会に参加されなかった団員にも呼びかけたいと思います。─
 昨日の司法問題討議ですが、全体会・分科会を通じて大変熱心な討議を頂きました。
 司法改革審議会は、そこそこの改善を施すことで現行の官僚司法制度を堅持しようという最高裁を中心とするいわゆる守旧勢力と、グローバリゼイションを規定の路線としながら、そこから生まれる事後救済型社会の実現を司法に求める財界を中心とするいわゆる規制緩和勢力、そして国民の司法参加を求め裁判所に人権救済機能の回復を求める改革勢力のせめぎ合いの中で、私たちはどう前進するのか。苦闘のなかでの先進的な例が紹介されました。
 議論は見解の違いを乗り越えて運動を作っていく、意見の違いはあっても闘いの中で克服していくという観点を確認しながら進められたと思います。
 さて全体会・分科会でも指摘された運動上の課題を二点確認しながら、行動の提起をしたいと思います。
 ひとつはいま自由法曹団が進める運動の核となる視点は何かという点です。それは裁判の実態の暴露、徹底した裁判批判をおいてないということです。まさに改革の出発点はここにあるということであります。「論点整理の如き」批判なしの改革などあり得ないと云わなければなりません。これは昨日一日目の議論で改めて確認されたと思います。徹底した裁判批判を国民とともに語り、これをさらに大衆化していくこと、こうしてはじめて守旧勢力、規制緩和勢力のあれこれの「改革」に明確に対置できる国民の、国民による、国民のための司法を展望できるのだということをやはり肝に銘じ、これを運動の中心に据えようではありませんか。
 そして、この裁判批判とこれによって当然に生まれる抜本的改革要求は時をおかず一層多くの国民に知らせ、国民との共同の認識と共感を間断なく、しかも全国各地から司法審に送り続けることだろうと思います。東京・大阪支部の先進的な取り組みを是非早急に全国に押し広げたいと思います。「どうなってるの裁判官」(東京支部発行)・「ちょっとおかしい裁判所」(大阪支部発行)の各地バージョンをたくさん作って国民の中に持ち込もうではありませんか。
 さてもうひとつは弁護士自治に対する攻撃の問題であります。数日前に出されました自民党司法制度調査会報告は「法曹一元」を先送りしながら改めて「条件整備」を打ち出し、整備されるべき条件のひとつに
@弁護士に対する国民の信頼度の向上
A弁護士倫理の高揚や弁護士会の体質改善等の弁護士の公共的性 格の強化
などを打ち出しています。
 こうした云い方は決して新しいものではありません。
 云い方はいろいろあるものの、弁護士に対する国民の不満や注文をうまく利用しながら、弁護士自治を邪魔なものとし、弁護士自治に譲歩を迫ったり、開城を求めたりする考え方に警戒すべきであります。私たちはこの考え方や主張を到底受け容れることはできません。当然迎え撃たなくてはなりません。この際大切なことは弁護士や弁護士会がそれぞれの活動の中で自己改革を積極的に進め、国民の共感を得ながら、同時に官僚裁判批判、国民の要求する抜本的司法改革要求を決して手放してはならないということであります。弁護士の自治と独立は国民とともに司法改革を積極的に進めるなかでこそ、守られるべきであって、決してそれだけのための守りに入ってはならないということであります。
 さて、行動提起です。
 特別報告集の一〇頁に四点を揚げました。お読みいただきたいと思いますが柱は次のとおりです。
(1)司法総行動の全国展開
(2)「日独裁判官物語」上映会などを中心とする大小のシンポ・集会
(3)日弁連一〇〇万人署名の取組み
(4)単位弁護士会での旺盛な改革運動
これに、
(5)最高裁国民審査の重視
を加えたいと思います。
 最後に自民党「司法制度調査会」報告に対する徹底した批判の必要であります。
 国民の「自由な討議を」といいながら、内閣に設置された司法審に政権与党が横から注文を付けて、この自由に枠をはめるもので、いわば運転が心許ないから俺がハンドルを取ると言い出したようなものであります。直接ハンドルを取って自分の行きたい方向に運転したいと言い出した自民党に厳しい批判を集中したい。全国常幹で声明か決議文を団として採択したい。ご了承ください。
 この討議の到達点と行動提起を全団員のものとするために団通信の特集など何らかの方法で早急に今度の五月集会に参加されていない団員にも届けたいとかんがえています。
 最後のお願いは、団通信で司法改革の闘いをもっともっと全国に紹介したい。団からの問い合わせに積極的にお応えいただきたいのと、様々な活動を情報として団にお寄せくださるようお願い申し上げて、まとめといたします。〈二〇〇〇年静岡五月集会にて〉

あなたはこれで刑事弁護ができますか

事務局次長  中 野 和 子

 刑事弁護ガイドラインが日弁連刑事弁護センターで準備されています。六月八日、九日で刑事弁護センターの合宿があり、そこでも議論されたようです。詳細は資料を同封していますので、ご覧ください。
 刑事弁護ガイドラインの第一次案がでたときに、刑事弁護人に対する詳細な義務を定めていることもあり、また、国費による被疑者弁護制度を実現する条件として法務省から提出を求められたという噂を聞いていたので、急遽内容を検討して、四月二七日、私は、鈴木幹事長、小口事務局長とともに、日弁連の加藤文也事務次長を訪問しました。その際、小口意見書を提出して、法務省に対してなぜ弁護士会が約束しなければならないのか、適切な刑事裁判を妨げているのは捜査・訴追側ではないか、検察官の接見禁止指定を尊重せよなどとこれまでの日弁連の立場にも反する義務規定がなぜ入っているのかなど、意見を述べました。すると、加藤文也事務次長は、これは第一次案であり、五月には第二次案が出るのでまってほしいとのことでした。五月一一日に第二次案が出たわけですが、そもそも、このような刑事弁護ガイドラインをつくることが必要なのか、これまでの刑事弁護の成果を失わせることにならないのか、多くの団員の皆さんに検討していただきたく思います。
 刑事弁護ガイドラインは、そもそも、刑事弁護センターが、刑事弁護の中の問題弁護事例に対処するため、作成を考えていたものだそうです。それが、自民党から刑事弁護のガイドラインのようなものはないのかという質問に対して答える形で、案文化されたということだそうです。日弁連の会議に提出されている資料の中には、ガイドライン作成の必要性も以下のように指摘されています。まず、これまでの「弁護権」を「弁護人固有の権利」と「弁護享受権」とに分けて考察し、被疑者・被告人の弁護享受権を完全に保障するために弁護人に義務を課すという考え方をしています。そして、弁護人固有の権利は、被疑者・被告人の行きすぎた要求を拒絶する理由になるというのです〔「被疑者・被告人の意向に反した弁護活動ができるか否かのメルクマールになる」と表現している〕。また、「依頼者と一体化して、それに従属することがあってはならない」という弁護士倫理一八条が、被疑者・被告人と弁護人との間にも妥当するということも、述べています。そして、刑事弁護ガイドラインの策定と総則の位置付けは、刑事弁護人の責務とその限界を確定する、むしろ、「弁護享受権の制約」を定めるところにあると述べられています。すなわち、日弁連が自ら弁護人の活動に制約を加えようと考えているということです。
 刑事弁護センターが、問題のある弁護事例に苦慮していると聞いていますし、対策を考えようとすることは制度の管理者・指導者の立場に立てばよく理解できます。しかし、現に画策されている刑事弁護ガイドラインは、麻原裁判を念頭においた被告人の権利を制限するために弁護人の活動に制約を加えようとするところに目的があるのであって、対国家権力の横暴を制限するために当番弁護士制度を積極的に支え、ほとんど無償奉仕をしてきた純粋な正義感に燃える弁護士としては、全く納得がいかないものだと思います。
 私は、細々と刑事手続を忘れない程度に国選弁護や定期的に回ってくる当番弁護士をやっている程度です。しかし、刑事弁護人は、弁護士にしか認められていない国家権力に対する防波堤だと考えています。オウム事件という特別な事件に目を奪われて、制度全体の仕組みを根本的に揺るがすことが合ってはならないと考えますが、いかがでしょうか。
 刑事弁護ガイドラインの二次案には、黙秘権の行使は弁護人が伝えることが責務とされています(第三条)が、黙秘権の行使を説明した弁護人に対して、警察権力が「おかしな弁護士」として思想調査をしている実態を放置したままにするならば、思想調査などプライバシーを侵されたくない弁護士は、刑事弁護から手をひくことにはならないでしょうか。弁護士会の自治能力を示すということであれば、別の方法もあるのではないでしょうか。
 刑事弁護ガイドラインが懲戒の基準になることも「担保する仕組み」として説明されています。検察官や裁判官が、不適切な弁護を理由として懲戒を申し立ててくることもよいという考えでしょうか。

第一八回最高裁国民審査に当って

─最高裁の姿勢を正す×印運動の意義
東京支部  鷲 野 忠 雄

一、来る六月二五日の総選挙と同時に、第一八回最高裁裁判官国民審査が実施され、山口茂長官や任命程ない町田顕判事ら合計九人もの裁判官が審査を受ける。
 前回の九六年一〇月の第一七回国民審査からこれまで合計一二四人の裁判官が審査にふされたが、罷免されたものは皆無である。「罷免を可とする」×点票の最高は、第九回のときの一五・一七%(下田武三氏)、平均×点比の最高は第一三回の一四・三七%(対象者四人、衆参同日選)である。大衆的審査運動の展開を反映して第九回から×点比平均が一〇%台にのったものの、九三年七月の第一六回からは、それが一桁台に落ち込み、いまや、国民審査は、審査対象者にとってはもちろんのこと、最高裁にとっても「痛くも痒くもない」、いいかえれば、国民審査本来の役割を果たし得ない機能不全状態に陥っている。このような機能不全は、後述する最高裁裁判官任命権の政府独占とその運用における秘密主義と野放図さ、そして国民審査における制度上運用上の欠陥に起因する。かねてから、この機能不全や欠陥を改めるどころか、これを既成事実に、国民審査制度の無用・廃止論さえ唱えられ、民主勢力の中でも、関心が薄れ、ここ数年の官民あげての「司法改革」大合唱にもかかわらず、この制度の活性化=最高裁人事任命民主化の声が殆ど聞こえないのは悲しむべきことではないか。
 私は、今回の国民審査に当り、立法上運用上の様々な欠陥や問題性にもかかわらず、国民審査における×点集中こそが、最高裁の反憲法・反人権的姿勢を正すまたとない機会と位置づけてこれに真摯に取組むとともに、改めて、国民審査の欠陥是正と最高裁人事の民主化の課題を重視するよう訴えたい。
二、いうまでもなく、国民審査は、任命権独占の政府による最高裁裁判官(長官、判事)の任命行為を、事後とはいえ主権者国民が監視・批判・是正することを制度目的とする。この趣旨からすれば、国民審査は、最高裁裁判官の任命手続の民主化と審査における主権者意思の公正な反映を不可分一体のものとして把えることによってはじめてその役割が生きてくる。
 ところが、右任命民主化についていえば、@任命諮問委員会(戦後一回だけで廃止)、A候補者の国会公聴会などの制度要求は政府与党側の抵抗で実現せず、B弁護士、裁判官、その他(学者二、検察官二、その他一)各五の出身枠も、七〇年代に入って崩されてしまい、現在は、裁判官出身六、検事出身二、内閣法制局長官枠一(この結果、弁護士出身四、学者出身一)になり、官出身で合計九名が多数派(実態上右九名がタカ派)を形成し、C女性出身者は、高橋久子氏(細川内閣任命)が最高裁発足以来初めて起用されたものの一代限りで終わってしまい、Dしかも、裁判官の任命過程は、すべて秘密にされ、国民には「なぜその人物が任命されたのか」一切不透明である、といった欠陥や問題性を強調せざるをえない。
 せめて、@弁護士出身枠四を五に復元すること、A女性出身枠を少なくとも一〜二名確保すること(全裁判官中に占める女性比率を見よ)、B任命過程における基本情報の公示などについて、積極的に問題提起し、改善させていく必要がある。
三、また、最高裁裁判官国民審査法とその運用実態が、主権者の意思を公正に反映しえない仕組みになっている欠陥の是正が急務である。
 第一に、「罷免を可とする裁判官」には×印をつけ、「○や△」などの余事記載は全て無効と定めている。○×式でないために、「罷免を可とする裁判官」かどうか判断資料が決定的に欠けているため有権者の多くは、罷免の可否を判断しえないまま無記載投票するか、全部棄権するか、面倒だから、投票用紙に適当に余事記載して無効票を投ずるかの選択しかない。しかし、これら無記載票は全て信任票扱いにされるのである。
 いってみれば、「寄らしむべし、知らしむべからず」の発想に立つ立法というほかなく、しかも、毎回四〇〇万票もの無効票を放置しているのだから、これほど有権者を愚弄した投票方法はない。
 投票方法を「○×式」に改めることが急務であることは明らかではないか。「司法反動」をめぐる全国的大衆運動が展開された七〇年代に、司法の独立と民主主義を守る国民連絡会議の呼びかけで四〇万を超える立法改正の請願署名が集約され、社共公三党による改正案が国会へ提出されたことを忘れてはならない。
 第二に、「棄権の自由」も保障されていない。対象裁判官九人をクジ引き順位で列記した一枚の投票用紙を用いるため、一部の棄権は認められず、全部棄権したい場合でも、選管係員が「分からなかったらそのまま投票して下さい」とか、棄権したい者が、投票用紙の受取りを断ったり、いったん受け取った投票用紙を係員に返還したりすると、その氏名を記帳したりするため、棄権しようとしてもできない実態がある。一部棄権の自由確保(法改正)と全部棄権の実質保障(選挙実務の改善)は欠かせないのである。
 第三に、長官任命と判事任命が憲法上その性質を異にする。このことは、学会の多数説といってよいが、政府・選管当局は、これを認めず、判事時点の審査でたりるとの見解をゴリ押ししてきた。この点の日弁連や国民連絡会議等による再三の申入れも、無視され続けているが、早急に改善すべき課題である。
 第四に、審査公報が一人千字以内、一回限りという立法上の欠陥は、任命過程の秘密、不透明さとあいまって、主権者の公正な判断を妨げる重大要因をなす。最高裁人事をふくむ司法の実態を広く国民に訴える私たちの不断の努力が必要であるし、同時に、運動の自由が幅広く認められる条件下で、独自の審査運動を展開し、国民審査の機能不全を克服していくことは、最高裁人事の民主化をふくむ「市民のための司法改革」を実現する上で欠かせない課題である。
五、今回の国民審査に向け、連絡会議は日民協とタイアップして、次の宣伝ポスターとチラシを作成頒布中である。広く活用されることをお勧めしたい。

法曹一元の旗は高く掲げるべき

─五月集会における松島氏意見に対する反論を中心に─
和歌山支部  小 野 原  聡 史

一、特別報告集松島氏意見の要旨
 東京支部の松島暁団員は、五月集会特別報告集一二八ページ以下で司法制度改革審議会「論点整理」についての鋭い分析をされている。
 松島氏は、論点整理が示す特徴的問題点を帝国憲法の美化など五点であるとし、これこそ自由法曹団員が長年闘い続けてきた相手そのものと結論づけた上で、司法制度改革審議会に対しては「妥協の余地はない、仮借なき批判こそが求められている」という。
 その上で、「今、自由法曹団は何をなすべきか」として、一、審議会に対する徹底した批判、二、裁判の現状のひどさの暴露、三、我々の目指す国家像、司法像を作り上げることの三点を指摘している。
二、分科会意見書の要旨
 また、松島氏は、司法民主化分科会に出席できないとして分科会に文書報告をしているが、そこでは「法曹一元が全てか、法曹一元で国民の信頼が得られるか」という表題のもとに、現在意見が一致しない理由として、改革審を評価すべき点があると見るのか危険性を前面に押し出すか、現在の司法の病根を官僚司法にあると見るか、官僚司法だけではなくそれ以上に日本の国家構造や法文化にあると考えるのかであるとして、いずれも後者が正当と結論づける。
 そして、「法曹一元の実現によって司法の問題性の多くが解決するかのごとき論調には同意できない」、「『この国』の大国主義化と規制緩和社会化は避けられないとして受入れ、その上でせめて司法、その一部だけでも改革(例えば法曹一元の実現)する」というのは大国主義化され、規制緩和が支配的な法曹一元であるとしてこれを否定して、日本の司法がまともな判決を出す条件は憲法九条の理想をあくまでも掲げて闘う主体と運動であって法曹一元制度の存在ではないという。
三、松島氏意見の議論の立て方の誤り
 私は、松島氏意見でいう審議会の分析、今日の司法の病根の分析については基本的に正当であり鋭いものがあると考えるが、それでは何をなすべきかという点については大いなる異論がある。
 松島氏は、法曹一元を闘いの旗印にすることについては誤りだとした上で、それでは何をすべきかについては、批判、暴露だけを言い、あるべき国家像、司法像の提起という点については何も語っていない。
 これでは闘いが組めないというのが私の率直な感想である。
 すなわち、松島氏は、今、自由法曹団や日弁連、あるいは国民救援会の提言などで法曹一元が闘いの共通の旗印となっているときに、司法の病根は官僚司法だけではない、日本の司法がまともな判決を出す条件は法曹一元の実現ではないという理由でこの旗印を間違いだというようであるが、すでに闘いが開始され、松島氏のいうように政府財界が社会構造を根本的に変容し出しているこの時期に闘いの共通の旗印を変更するだけの理由としては弱いばかりか、その理由もまた筋違いと言わざるを得ない。
 松島氏は、「日本司法がまともな判決を出す条件」ということを根底に据えているようであるが、まともな判決を出す条件というのは、当事者の主張立証、その時々の世論の動向や運動にも左右されるものであり、それと共に実体法の内容、手続法の内容、裁判官のものの考え方、その置かれた地位、弁護士の置かれた地位などがからまるものである。
 その点から考えれば、そもそも司法「制度」改革である以上、当事者の主張立証、世論の動向や運動については対象外であり、実体法、手続法についても一部は関係があるかも知れないが直接の対象とは言えない、裁判官のものの考え方についてもその性格上制度では定められない、結局のところ、裁判官の置かれた地位、弁護士の置かれた地位など限られた分野についての改革ということが当然の前提になっているのであるから、「まともな判決を出す条件」を目的とすること自体が誤りである。
 次に、司法の病根が官僚司法だけではなく、それ以上に日本の国家構造や法文化にあるという前提が正しいとしても、日本の国家構造の問題を論じるのはまさに国会(さらに言えば主権者たる国民)の責務であり、法文化についてはさまざまな制度の結果であって、直接の改革の対象ではないのである。
 こうしてみると、裁判官の置かれた地位を改革する、それも松島氏自身現在の司法の病根の一つとしては認める官僚司法を根本から改める法曹一元は、それだけで不十分という議論はなり立つとしても、誤りという性格のものではない。
四、法曹一元には責任はない
 松島氏は、「国際貢献に邁進する国家、規制が緩和され優勝劣敗が社会のルールとなった国家」における法曹一元では意味がない、あるいは有害だというのであろうが、そうであればどんな国家を作るのかを「日本の国家構造の問題」として国会、国民が大いに議論して、「国際貢献に邁進する国家、規制が緩和され優勝劣敗が社会のルールとなった国家」を作らせないような運動をすべきことで、その運動をしながら、併せて官僚司法を抜本的に改革する法曹一元を実現する運動をすればいいのではないか。
 また、「時の政権党にすり寄り、手練手管で『法曹一元』が実現したとしても、その『法曹一元』を多くの弁護士や民衆が支持しないであろう。」というが、仮にそのような形でできた制度でも制度自体が優れたものであれば弁護士や民衆の支持を得るであろうが、何よりも「時の政権党にすり寄り、手練手管」でない方策で、すなわち、大いなる国民運動の力で法曹一元を実現すればいいのである。
 さらに、日弁連執行部の現在の姿勢が「時の政権党にすり寄り、手練手管で『法曹一元』」を実現しようとしていると言うのであれば、日弁連執行部の姿勢そのものを批判すればいいのである。
 司法制度改革審議会やその「論点整理」のめざすものが危険というのであれば、それを大いに訴えて運動をすればよいのであって、法曹一元の主張との矛盾はないのである。
 これらの責任をあげて、単なる裁判官採用制度にすぎない法曹一元に押しつけるのは冤罪であり、法曹一元がかわいそうである。
五、松島氏以外の消極意見に対する反論
 私が議論した法曹一元に消極的な人のいう理由として、改革要求である法曹一元を大きく述べることは、逆に弁護士自治の破壊などの改悪に対する備えがおろそかになるのではないかと言うものがある。
 なるほど、改悪に対する備えは必要であるが、それは法曹一元を主張するなという理由にはならないばかりか、むしろ共通の旗印である法曹一元を高く掲げて国民的な運動を広げることが、これらの改悪を阻止する大きな力となるのである。
 また、法曹一元をいうとその前提として弁護士人口増が論じられ、最終的には法曹一元が採用されずに弁護士人口増だけが取り込まれてしまうという危険性を指摘する人もいる。
 しかし、弁護士人口増それ自体が直ちに悪だと言えないことは事実であり、国民からの要求としても正当なものがあること、心配されるような危険性が全くないとは言えないにしても、法曹一元を共通の旗印として運動を広げることでかかる危険性をより少なくすることもできるという面もあるのである。
 そうして見ると、結局はどこに重点をおいて運動するかという判断の問題であって、その意味では、自由法曹団、日弁連、国民救援会など多くの団体が法曹一元を重視しているという事実の重みを重視すべきではなかろうか。
六、司法改革にどう取り組むか
 私は、法曹一元の実現が我々の側から見た今回の司法改革の一つの大きな柱だと考えているが、それ以外のいろいろな制度改革についても大いに議論すべきであると共に、法曹一元についても国民にとって役に立つ制度として実現すべきと考えており、とにかく形だけの法曹一元さえできればよいなどとは考えていない。
 そして、法曹一元のイメージを何よりも私自身ができるだけ具体的なものとして捉えるため、併せて国民により正しく理解してもらうためにも、法曹一元の意義や内容について大いに議論することが必要だと考えて、その議論のたたき台という意味で五月集会特別報告集一二六ページ以下で「法曹一元はなぜ必要か」という文章を載せている。
 この文章では裁判官任用だけの問題を論じたが、その後、裁判官統制を許さない条件づくりとして昇給、昇進、転勤のないものとすること、憲法の文言どおりに再任を例外的とすることなども必要だと考えている。
 私としては、法曹一元の意義、内容についても当然のこととするのではなく、運動を進めながらも大いに議論を深めることによって、法曹一元を単なるスローガンではなく現実にかちとる課題とし、足元をすくわれる危険性をより少なくしていけると考えている。

「陰謀史観」にみえる高山さんの意見

東京支部  松 井 繁 明

1、高山俊吉弁護士が、司法改革について団通信に投稿されている(団通信九八四号「今こそ司法審路線との対決を!」)。団外からわざわざ、かなりの長文の論稿を寄せてくれたことに感謝したい。
 高山さんの熱心な活動ぶりには敬意をはらってきたし、相変わらずの「高山節」も懐かしい。だが読んでみて「なにか違うぞ」という感覚があった。
 なにが「違う…」のか、を書いてみたいが、その前にいくつかの前提事実を確認しておこう。
2、まず、アメリカや日本の財界、自民党などが司法改革にかける狙いはなにか。第一に、アメリカや日本の財界にとって「使いやすい司法」に改造すること。第二に、彼らなりの「司法機能の強化」であろう。かれらが強力に押しすすめている「規制緩和」によって事前規制の多くが撤廃されると、社会の混乱は避けられない。そこで事後的規制によって社会秩序の回復をはかる機能を司法に求めるのである。ーこの点では高山さんが、司法改革にかけるアメリカや日本の財界、自民党などの狙いについて警鐘を鳴らしていることに、私も賛成である。
3、だが、そうだからといって、いまの司法の現状を放置したり、小幅な「改修」にとどめてよいのだろうか。そうは、いえないだろう。ケンウッド・柳原事件や国民生活金融公庫事件では私自身、手痛い目にあっている。このほかにも、最近の全動労事件、芝信事件の判決や整理解雇の四要件をふみにじる東京地裁労働部の多数の決定などは、まさに司法官僚制度の悪らつさをまさに示したものといえよう。日弁連が「国民のための司法」をめざした「司法改革」を提唱したのは、その意味で適切であった。
 司法改革を実現しようとすればしかし、多くの部分で立法闘争、すなわち政治闘争に直面する。政治闘争の場では、様々な階級、勢力の利害が激しく衝突することは避けられない。「国民のための司法」を掲げた日弁連にたいし財界や政府が、さきにみたような狙いをもって殴りかかり、旧来の司法制度を守ろうとする最高裁・法務省の勢力をもまきこんだ、三つどもえの争いが展開している。
ーこれが現在の司法改革をめぐる状況とみるが、どうだろうか。
 日弁連は(自由法曹団も)、リングに上がったボクサーのようなもので、相手が強そうだからといって、逃げ回ったり、リングをおりたりすることはできない。闘うほかはないのだ。
 ざっとこんなところを前提として、高山さんの論稿をみてゆこう。
4、まず、高山さんは弁護士の増員そのものを「悪」として、立論をしているように見える。だが、人口比でフランスの四分の一という日本の弁護士人口は明らかに少なすぎるし、それが国民を法的サービスから遠ざける一つの要因となっていることも否定できないのではあるまいか。どのようなスパンをとるかはともかく、せめて「フランス並み」の法曹人口を求めるのは、国民の通常の要求であろう。
 もちろん改革である以上、その過程で少なからぬ混乱も生じるだろう。既存の弁護士の利害に反し、法曹の「能力低下」もうまれるかもしれない。だが、混乱をおそれて改革をやめることは許されない。戦後の農地改革は、没落地主の悲劇をも生みだしたが、全体としてはわが国のシンポに役立った。
 高山さんの論議は、没落地主の悲劇を言いたくて農地改革に反対した、旧地主階層の論議に似ていないだろうか。高山さんが法曹人口の増大を「悪」とするなら、改革過程の混乱(の予測)をあれこれ並べたてるのではなく、その根源的な理由を提示してもらいたいものである。
5、次に気になるのは、「陰謀史観」めいた高山さんの情勢認識の手法である。
 政治闘争が激烈になればなるほど、状況や局面は急速かつ大きく変化する。この場合、事態を全面的に把握し、変化と連関をいかに正しく認識するか、が大切だろう。
 中坊氏の個々の言動には、批判されてやむを得ないところがある。だからといって、司法審における中坊氏の役割を政府と一体のものであるかのように速断する理由は乏しい、と私は思う。また、中坊氏の全ての言動が日弁連執行部との「連係プレイ」というのも言い過ぎだろう。これまでの経過から、日弁連執行部が中坊氏に期待するのは当然だし、だが、審議会メンバーとして中坊氏が日弁連執行部とは相対的に独立していることも、また明らかだからである。
 高山さんの認識論は、全ての事態は陰謀家の陰謀を実現する方向に進み、われわれの認識はその陰謀を明らかにする方向で発展する、という「陰謀史観」にとらわれているようにみえて仕方がない。
6、さいごに高山さんは、自由法曹団(員)に対し「立ち上が」ることを訴えているが、具体的には何をせよ、というのか、よくわからない。
 自由法曹団は過日の五月集会で、団員のあいだにある認識や意見の違いを超えて「国民のための司法」を実現するために国民的運動を組織し、発展させることで、意思を集約したところである。
 高山さんのご意見が、この団の意思集約と同じなら幸いだし、遅ればせながら団も「立ち上が」りつつあることを報告したい。これとは異なる方向で「立ち上が」ることを訴えるというなら、その具体的内容と理由を示してもらえるとありがたい。
 ー高山さんと違って、司法問題は私の専門外なので、この私の意見には、思わぬ誤解にもとづくところがあるかもしれない。そのことをあらかじめお断りするとともに、議論の前進的発展を願うものである。

五月集会参加の感想@

五月集会への思い

ー司法改革と団員との出会い
大阪支部   宇 賀 神  直

〔司法改革〕
 司法改革(司法の民主化)は今回の五月集会の主なテーマである。
 自民党の司法制度調査会が具体的な提言を発表したこともあり、団員は政府の司法改革審議会の審議の行方に危険を感じて五月集会に参加していると思う。司法改革審議会が佐藤会長の論点整理を確認したことで司法改革審議会の進む方向を明らかにした。そして今回の政権党の自民党の提言である。「司法改革」は容易ならざる事態に来ていることは確実である。もともと、政府の司法改革審議会の発足が財界、自民党の自分らに奉仕する司法制度をつくろうとする狙いがあったのであり、さらにアメリカの規制緩和の要求が背景にあり、この事態は予想されたことである。では、司法改革審議会は何の役にも立たないし、悪い存在と決めつけてよいか、と言うとそうではない。政府の審議会と言えども国民の意思、世論を無視することは出来ない。国民の立場に立つ司法をつくるように司法改革審議会に働きかけることが大切であり、それには司法改革審議会の動きと共に司法(裁判)の実態を国民に知らせ、世論を喚起する運動が必要である。この問題についての日弁連の活動につき意見が有るかも知れないが、法曹三者の一つである日弁連の意向と運動は極めて大切である。日弁連の方針が司法の民主化の妨げになると言うのなら話は別であるが、そんなことは無い。だから、日弁連の一〇〇万名署名は是非ともやり遂げなければならない、私たちの任務である。
 この司法の民主化の問題は司法改革審議会の答申が出た後も運動を続けなければならない息の長い闘いであり、私たち自由法曹団は政治の民主化、国民の自由と人権、平和、憲法改悪阻止の課題と合わせて取り組む問題でもある。私はこの集いに参加してその感を強くした。
〔団員との出会い〕
 全国から団員と事務局員が総勢五〇〇名集まった。会場の顔を見ると、見知らぬ人が多くなった。全体会議、分科会で発言した団員はその内の一割に満たないと思う。彼らは静かに各地の団員の報告、訴えを聞いている。夜の懇親会は同期ごとに並んで座り、食べ、飲み、喋り、二時間ほどの時間を過ごす。寝る部屋も同期か近い期の団員が狭い部屋に集められている。部屋でも何かの話がなされる。自分の部屋よりは他の部屋に行ってお喋りをする団員もいる。こうして一泊二日の五月の集いは終わるのであるが、私は全体会議、分科会で団員の顔を眺めまわし、それぞれの団員の人と活動のことを思う。発言するわけでもないのに遠くからお金をかけて出てくるその思いは何であろうか。
 私は温泉の中、廊下(ロビー)で出会う団員と少ない言葉であるが、何かを話す。同期の坂本修君とは福子さんの健康のことを話した。同じ部屋の中田直人さんとは来年は定年で大学を辞めるが、弁護士をするのかどうか、を尋ね、弁護士の年をとった後の生活のことも話題になった。
 長野県支部の冨森啓児団員の詩集のことが団通信に載っていた。私は是非とも読みたいと思い、集いで手に入れようと思っていた。早速に買い求めて「大いなる日に」と書かれている表紙を見つめ、そしてページをめくった。お終いに載っている詩、「大いなる日」は奥さんに捧げたものである。何を捧げたのであろうか。勿論この詩であるが、それは冨森さんが奥さんと共に歩んで来た人生、これからの人生を捧げたのだと私は読んだ。冨森さんは「私たちは貪る如く/時代を汲み尽くし/心の命ずるままに/自分の道を歩いた」と詩句を綴っている。
 この詩は八言二句が一五、連なっている、歯切れのよい力強い詩である冨森さんに頼んで署名をして頂いた。
 自宅の書斎で「大いなる日」の詩集を読む。「一斉に白い/幾百、幾千の蝶が−舞い上がり/大きな弧を描いて/空を埋めたかと思うと/死に瀕し/静かに開いた本の上で/息をたえていた」という三好逹治の詩と思わせる「蝶」。世を去った友を憶う詩には、親しかった宮沢前長野市議の突然の死をうたった「秋の一日」には「限りないものに思えた人生も/今では一夜に過ぎてゆく夢か」の言葉がある。父と母を偲ぶ詩は冨森さんの人情が伺われる。「母に捧げる」の詩の結びに「貴女の大きな愛の延長にこそ、今の私があるとあらためて思う」の言葉がある。末娘を思う詩は父の愛情が一杯。「遠い日を彷徨いながらも−汲めども尽きぬ日々を思う」と結んだ「帰ってきた春」は蕪村の「おそき日や/つもりて遠き/むかしかな」のイメージをひろげた趣がある。
 詩集の多くは漢詩のリズムで語られ、綴られている。冨森さんの詩は現代詩のように難しくなく分かりやすい。冨森さんにはこの詩集に編まれた外に沢山の詩がある。弁護士、政治家、そして詩人の冨森啓児と言われるのも至言であると思う。そんな彼の生き方のなせることかも知れませんが、「大いなる日」の詩を読んで、私は彼の時空をつらぬく人間・冨森の心をを思う。そしてこれらの詩は私に彼の抒情の心を伝える。詩集「大いなる日」は今度の五月集会の私の嬉しい出会いになった。

今年も五月集会に参加して

兵庫県支部  吉 田 竜 一

 弁護士になって一一年目、従って一一回目の五月集会でしたが、今年も神戸の同期の増田さんとそろって参加しました。五月集会は今年まで皆勤。同期でも皆勤なのは二人だけではないかと思います。
 それほど真面目な団員でもないのに、五月集会にはかかさず参加している理由は、やはり全国の同期に会える数少ない機会だからです。地方で弁護士をやっているとどうしても日常事件の処理に忙殺されて、団的な課題に取り組むことにおろそかになりがちですが、五月集会で全国で頑張っている同期の活動の様子を聞くことによって、その都度「自分も頑張らなければ」という気持ちになり、これまで何とかやってこれたような気がします。その意味で五月集会はまさに私にとってカンフル剤です。
 もっともこれまで昼間は観光にうつつをぬかすことも少なくなかったのですが、今年は心機一転、分科会にも真面目に参加しました。
 特に解雇の原則自由まで標榜する東京地裁の高世コートの逆流ぶりを労働弁護団のニュース等で読んで、労働問題分科会は絶対に出ておかなければと思っていたのですが、多くの逆流判決の内容を聞いてそのひどさに改めて驚愕しました。姫路では新日鉄広畑の共産党員に対する賃金差別訴訟の事務局を担当しているところ、東電、中電、関電における一連の勝利、新日鉄堺の大阪地裁における勝訴判決で、正直、新日鉄広畑の裁判も少し楽観しかけていたのですが、国民生活金融公庫事件の高世判決のように「悪魔の証明」を求める判決が、賃金差別訴訟において一般的に妥当するようなことにでもなればそれこそ大変です。分科会で、神奈川の伊藤先生は「こういう不当判決は、あらゆる場所で徹底的に批判しておくことが大事」と言われておりましたが、まさにそのとおりだと思います。
 ただ、新日鉄広畑の訴訟では、主事に昇格していないのは昇格試験を受験していないからという会社側の主張をどう崩すかが一つの争点となっているところ(実は原告らは受験していないのではなく、受験させてもらえなかったのですが)、この点については、九八年一〇月の提訴直後に東京地裁が芝信用金庫組合差別事件において、昇格試験不合格を理由として昇任させないことは不当労働行為とならない旨の中労委命令を取り消しており、新日鉄広畑の訴訟でもこの判決をフル活用しているのですが、この東京地裁判決を書いたのも高世コートです。
 芝信用金庫事件のような判決を書いた同じ裁判所が、なぜ、JR採用差別事件や国民生活金融公庫事件であのような判決を書くのか、この点についての分析があれば(人任せの話ですが)、もっと興味深くなったのではと思います。

自己紹介と五月集会の感想

千葉支部  左 近 允  寛 久

 この四月から、千葉県松戸市の東葛総合法律事務所で弁護士をすることになりました左近允です。鹿児島の出身で、大学時代は京都で過ごし、実務修習は東京、弁護士は千葉の松戸と、だんだんと東へと流れております。
 自由法曹団の存在は、受験時代指導をしてくれた先輩が、団に入って活躍される方が多かったことから、受験生時代から何となく知っていました。
 修習生になってからは、実際に団の弁護士の方々との交流も多くなり、また、団主催の講演会なども参加させていただいており、これを通して、弁護士になったら団に入ろうと思うようになりました。
 団に入ろうと思ったのは、団の活動が社会正義を守り人権を擁護するという、自分の法曹としての目標に合致していたことが最大の理由ではありますが、このほかにも、団が人権のパイオニアとして新たな法の極地を築いてきた歴史を持っていることを知り、ロマンを感じたこと、団の弁護士の方々との交流を通じて、皆さんの仕事の水準が大変高く、自分にとって勉強になると思われたことが理由です。
 今回、団に加入させていただき、先日の五月集会にも参加しました。分科会では、フランチャイズ問題と、商工ローン問題の分科会に参加しましたが、日々、新たな法的課題に対し、解決の方向を見出している団のみなさんの姿を拝見することができましたし、全体会や懇親会では、その人数の多さに、団の熱いパワーを感じ取ることができました。また、久しぶりに同期や懐かしい先輩とお会いすることができたのもうれしいことでした。今回の五月集会は、自分が事前に抱いていた期待を全く裏切らないもので、団に参加して本当によかったと思いました。
 今後は、これまでのように、ただ、団の皆さんの活躍を見て感心しているだけでなく、自分自身が新しい分野でパイオニアになれるよう、頑張っていきたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

五月集会に参加して

天王寺法律事務所
事務局  森  志 緒 理

 私は、今年の春から当事務所に勤務し初め、五月集会には初めて参加させて頂きました。
 私は事務局交流会で新人研修の分科会に出ましたが、各事務所によって体制が違い驚きました。当事務所は完全ペア制ですがグループ制の所も多く、弁護士一人に事務局二人がつき一人は破産のみ担当という所もあれば、弁護士四人に事務局一人が担当するなんていう所もあり、そんな所はどうやりくりするのか私には想像もつきませんが、本当に多種多様でした。しかし、どの事務所も働きやすい職場作りに工夫しているようで感心しました。出席者は比較的関西の人が多かったようですが、北海道や東京の人ともお話しできてよかったです。
 司法改革の分科会ははっきり言って自分にはわからないと思っていました。しかし、今まで知らなかった裁判所の非常識な判決の話にショックを受けました。最もショックを受けたのは冤罪の問題です。裁判官が下した誤審のために、一人の人生を大きく変えてしまいます。だから、そんな事は決してあってはいけないと思います。私は真実を知れば知るほど悲しくなり、それと同時に腹が立ちました。
 特に草加事件については、少年法改悪の分科会で裁判の背景を詳しく聞きました。その事件は、警察の脅しによっての自白のみで当時十四才前後だった少年ら六人が十四才の少女を強姦した、との有罪判決を受け、その後裁判をくりかえし十四年後に無罪を証明されました。
 真実を解かってもらおうと、十四年間もあきらめず闘った少年らや弁護士に感動しました。しかし、彼らがその半生を送ってきた気持ちが全て晴れるとは思えません。彼らの心に残った傷は誰が責任とるのでしょう。私は警察と裁判所に対しての不信感が強まりました。
 これは一例に過ぎませんが、一日でも早く誤審をなくすために陪審制度、もしくは法曹一元の制度が導入されることを願います。
 今回の集会に参加して、今まで知らなかった事や自由法曹団の活動なども聞け、いい勉強になりました。
 同じ部屋になった奈良から来られた二人と同事務所の先輩とでオルゴール館や鍾乳洞をまわり、旅のいい思い出もできました。おいしい鰻をご馳走になり、温泉までいただき贅沢な旅をありがとうございました。

愛知東陶じん肺事件

愛知支部  渥 美 玲 子

1、じん肺というとトンネルじん肺とか炭坑じん肺とかの集団訴訟が有名ですが、愛知県にもじん肺の事件はあります。ただ、瀬戸物や常滑焼きなどの地場産業では労働者が地域社会で生活しているし、東陶や伊奈製陶、日本碍子などの大企業はじん肺協定があるなどの事情があって、なかなか裁判まで進展しないのが多いのです。
 今回報告する事件は、一九九五年四月に常滑市にある愛知東陶の従業員二人が会社を相手に損害賠償を請求していたもので、今年二〇〇〇年三月二八日に名古屋地方裁判所にて和解で解決したというものです。
2、事件の意義といったら大げさですが、一つは消滅時効の点です。
原告のうち一人は、一九七八年に管理三のロになり、一九八八年四月に続発性気管支炎に合併症を併発したので、療養生活に入りました。会社は提訴した一九九五年四月には管理三のロになってすでに一〇年以上経過しているので消滅時効にかかっていると主張しました。しかし提訴後、細倉じん肺訴訟では一九九六年三月に仙台地裁にて「合併症の認定を受けたときから進行する」との判断があり、さらに一九九九年五月に北海道石炭じん肺札幌地裁判決も同様の判断をしたため、時効の問題をクリアーすることができました。もう一つは、慰謝料の点で他の水準からみて遜色のない金額を勝ち取ったことです。じん肺協定でかなりの補償があるという事情の下でも慰謝料が請求できるということは大きな前進だと思いました。
3、当初の相代理人が綱紀懲戒委員会にかけられたりして、二年間ほど私一人で代理人活動をしたのですが、経験主義に陥ってしまい同種の事件について判例の動向をチェックするのを怠っていました。そんなとき東京の同期の長谷川壽一弁護士や長谷川史美弁護士に全国じん肺弁護団の立場から応援して貰いました。同期の弁護士が、しかも同じ自由法曹団で活躍していることのありがたさをしみじみ感じた次第です。紙面をお借りして、改めて感謝します。

総選挙で反核議員を選ぼう

東京支部  池 田 眞 規

 さる五月一九日、ニューヨーク国連本部では、NPT再検討会議が終了しました。核保有国が、NPT第六条に関する「核廃絶の約束」を速やかにかつ確実に実施するように、非核保有国も諸国民も今後一層監視していかなければなりません。
 他方日本では、来る六月下旬には、総選挙が実施されると報道されています。上記の趣旨を活かし、しかも「被爆国」日本の政府を真に非核の政府に変えるために、今回の総選挙は極めて重要であります。非核の政府に変える原動力は、もちろん有権者です。有権者たちが知る権利を活用して、候補者を厳しく選別する情報を得ることが必要であります。
 そこでこの機会に、各選挙区または一定の地域の立候補者またはその意思を有すると思われる人々に、事前アンケート調査をし、各候補者の核兵器についての見解を、マスコミその他の機関を通じて公表し、投票の際の選択の参考資料にしてもらうのです。
 どうぞ、各地におきまして、創意・工夫をして、この事前アンケート調査を進め、公表する運動を広げてくださいますよう呼びかけます。

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