<<目次へ 団通信1020号(05月11日)

衆院憲法調査会仙台地方公聴会を市民集会で迎え撃ち

宮城支部  草 場 裕 之

一 四月一六日の地方公聴会

 衆院の憲法調査会が初めての地方公聴会を仙台市で開催し、党派を超えた市民集会でこれを迎え撃った運動について簡単に報告します。
 地方公聴会は、政党推薦の七名と一般公募の三名が一〇分ずつ意見陳述を行った。公明党推薦の学者、民主党推薦の鹿島台町長は護憲の立場で意見を述べ、改憲、護憲の意見分布は四対六で護憲派が多く、改憲派の意見は遠慮がちだったとのこと。調査会委員の改憲派議員の質問は護憲の意見を述べた陳述人に対して改憲を迫るようなものであったそうである。マスコミ記者会見において、国会で開かれる公聴会が改憲一色なのに比べて、地方では随分と雰囲気が違うのは何故かという質問が出たようである。
 地方公聴会の持ち方として、一般公募の陳述人、傍聴人の選出方法が不透明なこと、地方公聴会そのものの広報が不十分であること、陳述人の意見陳述時間が一〇分と短いことなどが参加者の不満として語られていた。

二 市民が開く憲法公聴会実行委員会結成

 地方公聴会は昼過ぎに始まり夕方に終了した。その後、市民の立場から憲法を論じる集会を開催した。この集会に至る経過は次のようなものです。
 昨年一二月、県内の憲法擁護運動三団体(団が参加する宮城憲法会議、憲法を守る市民委員会、護憲平和センター)をはじめとする幅広いネットワーク作りに向けて準備に入った。まず、本年二月三日、憲法調査会の動向をめぐるシンポジウムを実行委員会形式で開催した。このシンポジウムの三団体共同開催については、宮城憲法会議のみが機関決定し、他の二団体は賛同の方向を示しつつも機関決定が間に合わず、宮城憲法会議の主要メンバーとYWCAなどいくつかの市民運動家個人名の呼びかけで開催した。二月末には、幅広いネットワークづくりのために三団体の懇談を本格的に開始。五月の憲法行事は三団体が互いに連帯のメーッセージを送りあい、一一月三日に統一市民集会開催を目指す方向で議論が始まった。幅広い市民の結集を実現するためには、焦らずに議論を積み重ねていこうという共通認識であった。
 しかし、三月に入り、四月一六日の仙台公聴会開催の情報を入手、急遽市民集会の開催に向けた議論を開始した。仙台公聴会を改憲世論づくりの一環であり憲法調査会の報告書作成日程の繰り上げのための手続ととらえ、このような動きに反対する市民の世論があることを示すための集会とすることを決定した。また、憲法調査会の地方公聴会そのものに対する取り組みとして、憲法擁護、憲法の諸原則を現実の社会生活に生かしていくことの重要性を訴える意見陳述、あるいは憲法調査会が「論憲」の名の下に本来の役割に背いて改憲ムード作りを行っていることに対する批判的意見陳述を増やして、会見派を圧倒するために、意見陳述人として選定された人との繋がりを活かして懇談などを行った。
 「市民が開く憲法公聴会」実行委員会の呼びかけ人には、三団体のメンバーの数のバランスをとり、三団体に所属しない著名な弁護士、市民運動家が個人として呼びかける実行委員会の形式をとった。財政はカンパと、三団体の分担とした。地元マスコミは、党派を越えて結集した実行委員会の共同記者会見と共同街頭宣伝を驚きをもって大きく取り上げ、護憲派に勇気と確信を与えた。衆院憲法調査会委員の全員には「市民が開く憲法公聴会」への招待を行った。

三 「市民が開く憲法公聴会」の内容

 地方公聴会で意見陳述した小田中教授(共産党推薦)、志村教授(公明党推薦)による地方公聴会の報告が行われ、鹿島台町長(民主党推薦)からの届けられた集会へのメッセージが読み上げられた。
 衆議院憲法調査会委員の共産党議員一名、社民党議員一名、及び公聴会に出席した宮城県選出社民党国会議員一名からの挨拶と決意も述べられた。
 集会参加者から、憲法に対する想いについて発言が行われた。個人、組合活動家などから、多彩な切り口、語り口で発言が相次ぎ、用意した一時間の枠の中では希望者全員が発言できないほどであった。
 最後に、呼びかけ人の一人が集会の熱気を踏まえて即興で書いた「日本国憲法からの手紙」が朗読され、集会アピールを採択した。
集会は、全体で二時間、一八〇人の会場が満席になり、立ち見が出る盛況だった。

四 今後の運動のイメージと日程

 これまでの、三団体のネットワークに向けた懇談の中で出された意見はほぼ次のようなものである。

 ・一一月三日の市役所前広場での数千名規模の大集会の準備。
 ・三団体の共闘ではなく、個人の参加する幅広い市民運動ネットワークを目指す。
 ・改憲派の狙いは、九条でありこれに対抗していく。しかし、九条を支える思想である「個人の尊厳」と基本的人権保障体系の破壊が改憲派の狙いであるとことを把握し、「個人の尊厳」、基本的人権思想に対する攻撃にも対抗していく。運動の切り口としては、むしろ後者を重視する。平和反戦、反安保運動だけのネットワークにはしない。
 ・ネットワークには、常設の研究会を数班設け、継続的な勉強会を続けていく。改憲派に対する理論的な武器も準備する。
 ・一一月三日は、一日中憲法の日にする。研究会の発表の場、音楽、ダンスを通じて憲法を語りたい若者にも発表の場を提供する。憲法を空気のように感じて憲法を語ることのなかった人は全部集まれ、という呼びかけをする。

五 幅広い連帯の可能性

 「市民が開く憲法公聴会」参加者のアンケートには、三団体が共同したことに対する感激、小規模の「市民が開く憲法公聴会」を何度も開催すべきことなど、熱い想いが記載されてあった。私たちとは別に四月一五日に、地方公聴会を批判する市民集会が開かれている。私たちとのつながりのないところで、改憲の動きに不安を募らせている人たちが無数にいるように思える。現在も進められている憲法の諸原則の破壊、明文改憲によって不利益を受ける人々はすべて連帯の対象である。護憲派の運動も、党派を越えて組織されるはずと確信します。
 四月一六日の後に開かれた衆院憲法調査会の議論を見る限り、改憲派には一定の動揺が見られるようです(四月常任幹事会資料)。しかし、次の神戸公聴会では改憲派も体制を立て直してくるでしょう。関西の団員の皆様にたすきをお渡しします。


ブッシュ大統領の台湾防衛発言について

広島支部  井 上 正 信

1、四月二五日ブッシュはABCTVのモーニングショウのインタビューに答えて、台湾防衛のために武力行使をすると発言した。この発言をめぐり、米国国内はもとより、国際的にも大きな波紋が広がり、米軍スパイ機問題と台湾への武器売却決定の直後だけにさまざまな憶測を呼んでいる。その後のCNNのインタビュー対して、ブッシュは先の発言の趣旨を薄め、一つの中国政策を支持し従来の政策の変更ではないと釈明している。ホワイトハウスや国務省もブッシュ発言を薄めるため躍起となっている。
 この発言は単に口を滑らせたものなのか、それともブッシュ政権下での今後の中国政策の変更を示唆しているものなのか。発言の意味が文字通りとすれば、台湾関係法を踏み越えるものであることは明らかである。ここで一度米国の対中国台湾政策を振り返ってみる必要がある。

2、米国はニクソン政権時代にソ連を包囲する為中国を利用しようとして、中国との国交回復を図った。カーター政権下での一九七八年米中国交回復を果たした。その見返りに米国は台湾との外交関係を断絶し、米華相互防衛条約を廃棄し、台湾へ駐留していた米軍を段階的に撤退した。また七四年には核兵器も撤去した。台湾との軍事同盟を廃棄する見返りに提起されたのが台湾関係法である。提案された法案の趣旨は当初は民間の交流を継続するためのものであったが、議会側から台湾防衛の趣旨を入れた修正がなされ現在の台湾関係法になった。台湾関係法の核心部分は以下のとおりである。

@ 台湾地域における平和及び安定は米国の政治、安全、経済上の利益であり、かつ国際的関心事項であることを宣言
A ボイコット、通商停止を含め、非平和的手段によって台湾の将来を決しようとするいかなる試みも、西太平洋地域の平和及び安全に対する脅威であると見なし、米国にとって重大な関心事であると考える。
B 台湾に防御的性質の武器を供給する。
C 米国は台湾住民の安全または社会・経済体制を危うくするいかなる武力行使または他の形式による強制をも阻止する能力を維持する。(以上第2条b)
D 大統領は、台湾住民の安全、または社会・経済体制に対するいかなる脅威、及びそれから生ずる米国の利益に対するいかなる危険についても、速やかに議会に通報するものとする。大統領と議会は、憲法上の手続きに従い、そのような危険に対処して米国がとる適切な行動を決定する。(以上第3条)
 台湾問題を西太平洋の安全に結びつけたのは、一つの理由に一九六九年一〇月の佐藤ニクソン共同声明(沖縄施政権返還を合意した)において、「台湾地域の平和と安全の維持も日本の安全にとって、極めて重要」と位置付けたことを指摘できる。
 台湾関係法は決して台湾防衛のために米国が武力行使をするとは明言していない。また、同法は米国の国内法であり、台湾に対する防衛の誓約といっても一方的なもので、条約のように双務的ではない。米国の対台湾政策は曖昧戦略とよく言われるがそのルーツはここにある。この戦略の目的は、西太平洋の戦略拠点である台湾を米国の勢力圏に留めて中国を牽制し、台湾に対する中国の武力行使を抑止し、併せて台湾が独立へ動かないようすることにあるといわれている。米国は中国政策の基本として「一つの中国政策」をとっている。然し、この政策は台湾が中国の領土の不可分の一部であるということの承認ではない。台湾の国際法上の地位は未定である(台湾未定論)という立場である。この点は日本も同じ立場にたっている。日本と中国との間には日中共同声明と日中平和友好条約があり、二つは一体となっている。日中共同声明は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるという中国の立場を、日本が十分理解し尊重するとしているに過ぎない。
 クリントンは九八年に訪中し、江沢民との首脳会談で、「台湾の独立を支持しない、台湾が国連に加盟することを支持しない、『二つの中国』『一つの中国一つの台湾』を作り出そうとする主張を支持しない」といういわゆる三不政策を表明した。これは従来の台湾未結論を超えて一歩中国の立場に近づくものであった。

3、ブッシュ発言は台湾関係法と歴代政権がとってきた台湾政策を踏み越えるものである。ABCTVにインタビューの核心部分はこうである。
Q・あなたはご自身の考えでは、もし台湾が中国に攻撃されたら、米国は台湾人を防衛する義務があるとお思いか?
A・イエス、そのとおり。中国はこのことを理解しなければならないであろう。そうだ、わたしはそうする。
Q・米国のすべての軍事力を使ってでもか(With the full force of Am- erica)?
A・台湾防衛に必要なすべてだ。
 台湾関係法は「適切な行動を決定する」「阻止する能力を維持する」とだけしか述べていない。ここでブッシュは米軍事力を持って介入することを表明したのである。それだけではない。軍事力は「full f-orce」「Whatever it took」と言っているように核兵器を含むのである。
 この発言を単にブッシュの勇み足(もっと言えば失言)と捉えることが出来るか。確かに米海軍スパイ機事件の当初のブッシュ政権の対応は混乱していた。この発言も政権の対外戦略が確立するまでの混乱と考えることも出来るであろう。ブッシュ政権にはクリントン政権時代のような中国専門家がいないと指摘されている。アーミテージレポートの共同執筆者の一人であるカート・キャンベルは自身の昨秋のレポート「米日安全保障パートナーシップの活性化」(アーミテージレポートと双子の関係)の中で、クリントン政権は日本をおろそかにして中国を重視しすぎた。政策立案集団の中で日本重視派と中国重視派との分裂をもたらした。と反省し、次期政権は日米パートナーシップを重視すべきであると提言した。
 このような提言からブッシュ政権には中国問題専門家がいないといわれるようなことになったのかもしれない。またブッシュ政権の中心には、従来の伝統的な米国の台湾政策である「曖昧戦略」に批判的な人物が座っていることも注目すべきであろう。彼らは大統領選挙期間中から、「曖昧戦略」を批判していた。ウォルフウィッツ(現国防副長官)は「曖昧戦略」は中国に誤解を与え戦争に導く、と批判した。ニューヨークタイムスの記事(四月二六日)によると、ブッシュ発言は、クリントン政権時代に台湾から中国よりになっていた政策を、台湾よりにバランスを変える政策の一環であり、また彼が大統領候補時代の発言と同じと受け止められているとのこと。ワシントンポスト(四月二五日)によると、ブッシュ政権に入った多くの人物は過去「曖昧戦略」を破棄することを支持していたことから、このブッシュ発言は北京へ警告を発したのであろうと、何人かの政策研究者が述べているとのこと。
 ブッシュは、クリントンの対中国政策とは異なり、封じ込め政策により傾く可能性がある。先ごろ決定した台湾への武器売却では、イージス駆逐艦とパトリオットミサイルシステム(PACV ミサイル防衛能力があるとされている)を見送った。イージス駆逐艦は、売却決定しても台湾防衛には即効性がなく象徴的意味があるだけであり、むしろ中国の反発を強める結果が残るだけなので、見送ったのは現実的な選択であった。然し今回の決定には、ディーゼル推進潜水艦が含まれている。これは台湾海峡の制海権を台湾が握る上で重要な武器になる。既にブッシュ政権(父親)下でF-16戦闘爆撃機を一六〇機売却決定しており、台湾海峡の制空権は台湾側が握っている。今回潜水艦を売却リストに含めたことは、ブッシュ政権の台湾よりの姿勢を鮮明にしたのである。これらのことから考えると、四月二五日のブッシュ発言は決して政権初期の政策の揺れとか、勇み足などといった評価は当てはまらない

4、ブッシュ政権は中国政策だけではなく、北朝鮮政策についても枠組み合意の修正も視野に入れた政策の変更を検討しているといわれる。我が国の新政権はどのような対外政策をとろうとするのか未定である。閣僚になった政治家の発言から推測すると、国民的人気を背景に、化けの皮がはがれる前に改革と称して、集団的自衛権の合憲化、憲法九条の改悪、有事立法の制定など一気に反動路線を推進する可能性が高い。先ころ発表された自民党国防部会のレポートは、アーミテージレポートのリライトである。日米の中国政策・北朝鮮政策が封じ込め強硬路線に転換することは危険である。北東アジアに芽生えた平和構築の兆しを進める上で、日本の果たす役割がいまこそ重要なときはない。


坂本修『司法改革』サカナに大いに論じよう

東京支部  松 井 繁 明

 坂本修『司法改革』(学習の友社)をおすすめしたい。読んだうえで論争をしてほしい。坂本意見に賛成の者にとっても、反対の者にとっても、かなり刺激的なはずである。
 研究者は個別テーマについて独創的論文をまとめることも大切だが、それ以上に体系的なテキストを仕上げることが重要だ、と学生時代に聞いたことがある。
 司法改革についておおくの論者が、各テーマについて論述している。しかし一人の論者による体系的な著作は、まだほとんど見られないのではあるまいか。本書は坂本さんの、司法改革についての体系的なテキストである。
 坂本さんがすぐれた法律家であることに異論はないだろうが、行政訴訟についてそれほどの経験・知識があることは私も知らないので、行政訴訟に関する部分など危惧をもたないわけではない(もっとも、私の経験・知己は坂本さん以下なので、判断がつかない)。しかしそういうことも含めて、本書のいちじるしい特徴は、すべてについて論争的なことである。そこが並みのテキストとは異なる。
 これまで自由法曹団の内外でおこなわれたほとんどすべての論争を念頭におきながら、それぞれについて坂本さんの意見を明確に突き出している。問題を回避したり、ごまかしたりすることがない。それが刺激的である。
 本書のもうひとつの特徴は、議論のしかたが重層性をもっていることである。
 情勢を正確に認識すること、支配層のねらいを正しく見極めること、そして国民の要求を握って放さず国民のための司法改革の道を切り開くことを強調しながら、状況によってはその要求が容易には実現しない場合であっても、あきらめたり、問題が存在しないフリをしたり、「司法審粉砕」と短絡的に走ったりしないで、一歩でも二歩でも前進しようとする。
 こうした議論にたいしては、二つの立場からの異論がありえよう。ひとつは、理想を高くかかげて譲歩を拒む立場。もうひとつは、司法改革の落着点を見通して現実的な手法をとろうとする立場である。前者からは、坂本意見が「折衷説」にみえるかもしれない。後者からは、無用な論争をまきおこしていると思われるかもしれない。
 私は、本書を材料=サカナにして、大いなる論争がまきおこることを期待するものだが、このサカナは十分に活きがよく、私の期待は裏切られないであろう。また、そうした論争をつうじて共同行動がひろがることを確信する。だが、そのためにはまず、おおくの団員が本書を購入し、読み、みずからの論点をかためることである。本書をおすすめするゆえんである。


石川元也著

「ともに世界を頒かつ―たたかう刑事弁護」のおすすめ

大阪支部  鈴 木 康 隆

 このたび大阪支部の石川元也団員が「ともに世界を頒かつーたたかう刑事弁護」を出版された。この本は、石川さんが一九五七年、大阪で弁護士登録をして以来、四〇数年に亘る弁護士の活動、その中でもとくに刑事弁護を中心とした活動を綴ったものである。いうまでもなく、ここに刑事弁護というのは一般の刑事事件のそれではなく、本の副題にもあるとおり「たたかう刑事弁護」である。
 本の内容は、第一部「私の刑事弁護四〇年」、第二部「刑事弾圧とたたかう」、第三部「刑事弁護の理論」、第四部「石川さんのこと」、という構成になっている。第四部の「石川さんのこと」という部分は、上田誠吉、小田成光、下村幸雄の三氏がそれぞれに石川さんのことを書いた文章を寄せている。
 第一部の「私の刑事弁護四〇年」は、石川さんが大阪で弁護士登録して以来、今日に至るまで取組んできた、刑事弾圧事件、労働公安事件、さらには八鹿高校事件など解同幹部の暴力に対する告訴等被害者側の弁護人として取組んだ事件、などのことが書かれている。とりわけ、弁護士になってすぐに取組んだ吹田事件、宮操事件、それから松川事件の差戻審、その後の徴税トラの巻事件、一九六〇年の日教組の勤評反対闘争での大教組弾圧事件、などなどは、いずれも戦後の混乱のなかでおこったものであり、それ故に、それらは、いずれも戦後の日本の世相を色濃く映し出しているものであった。
 私は、事件そのものと共にそうしたことにも興味を引かれた。さらに、私が一層興味深く思ったのが、石川さんなど弁護団がこれらの事件の弁護活動をすすめる中では、事件を担当する裁判官と弁護人との間に強い信頼関係が結ばれていたことである。それは、石川さんなどの弁護団が刑事訴訟法に定められている権利を最大限主張し、被告人、被疑者の権利を擁護してきたその姿勢を裁判官が真摯に受けとめたからに他ならない。本書の題名「ともに世界を頒かつ」は、本書に寄せられた下村氏の文の表題である。それを石川さんが借用したのであるが、下村さんによればこれは、石川さんが終生師と仰いだ故毛利与一先生の言葉で、その意味は、弁護人と裁判官とが世界を共通にし、共通の認識を感得することだ、とのことである。
 石川さんのこの部分の叙述には、そのような域に達した結果、無罪をかちとった様子が生き生きと語られている。
 石川さんは、一九五二年五月、東大の学生だった頃メーデーに参加し、あのメーデー事件に巻き込まれて逮捕され、丸の内署に留置された。面会にきた弁護士が上田誠吉氏であった。二人は丸の内署の留置場の金網越しの最初の対面をした、そのことも語られている。この二人が、片やメーデー事件の主任弁護人に、そしてもう一人の石川さんが時を同じくして起った大阪の吹田事件の主任弁護人に、そしてさらに年月を経て、二人が共に自由法曹団の団長になるとは、当時の二人にとっては思いもよらぬことであっただろう。
 第三部「刑事弁護の理論」の中ではとくに「刑事弁護と弁護士自治」という論稿は圧巻である。これは、一九八〇年に沖縄地区で行われた日弁連の夏期研修で行った講演をまとめたものである。当時、連合赤軍事件とか連続企業爆破事件等の裁判で被告人らが出廷拒否を繰り返したり、あるいは、出廷した弁護士や被告人に対し、裁判所が退廷命令を頻発するなどの事態が続いた。政府はこれを好機としていわゆる「弁護人抜き法案」を制定しようとした。これは、日弁連にとっても、「弁護のあり方」「弁護士自治のあり方」を鋭く問われる契機となった。弁護士のもっている世界観と複雑にからみ合う問題であっただけに、日弁連の中での合意形成をつくり上げてゆくことはきわめて難しいことであった。石川さんは、その中にあって実際に日弁連としての態度決定をするために努力した、その経験をもとに話をされていることから、その内容は実に説得力をもっている。弁護士自治は何のためにあるのか、それは今もなお私たちに問いかけられている問題である。
 最後に若干の個人的感想を書かせてもらうと、私は一九六七年に弁護士登録をし、石川さんのいた東中事務所に入った。そこで一年半ほど指導を受けた。その後私は、正森さんが衆議院の候補者になったことからそちらに移り、事務所が別になった、それでもたびたび事件は一緒にさせていただいた。
 本書の「あとがき」にもあるように、今から数年前にも出版の計画が立てられた。そのとき石川さんが、いろいろな機会に書いたものを集めたところ、それこそ膨大なものとなり、一冊や二冊にはとうてい納まるというようなものではなかった。また、それをそのまま出しても、なかなか一般の人にゼニを出して買ってもらうのは至難のことだと思われた。それやこれやで一時ストップしたのであるが、このたび、石川さんが多くを書き下ろし、改めて出版するはこびになったことはたいへん喜ばしいことである。ここに書かれていることは、石川さんにとってもそうかもしれないが、私たち団員にとっても貴重な財産である。
 いろいろと思い悩んだとき、必ずや解決のヒントを与えてくれる本であることは間違いない。多くの団員に一読をおすすめしたい。


韓国の民主的法律家団体との交流に参加しよう

大阪支部  梅 田 章 二

 ソウルの街を歩いていて、行き交う人の顔つきはまったく日本にいるのと変わらず、建物の風景も東京や大阪の雰囲気とまったく変わらない。しかし、目にはいるハングル語表記の街の看板や表示板のため、第一印象としてはむしろ異国感の強い印象をもつ。少しはハングル語の読み方は勉強しておきたいものだ。
 法律家団体として対応してくれるのは、「民弁」である(ミンビョンと読み「民主社会をめざす弁護士達」の略)。日本にはさまざまな法律家団体が錯綜しているが、韓国では民弁が代表的な民主的法律家団体で、組織的にはすっきりしている。民弁の起源は、国家保安法のもとでの人権活動に従事していた一九七〇年代の弁護士のグループに遡るが、一九八八年に正式に「民主社会をめざす弁護士達」として発足したとのことである。一九八〇年代の民主化闘争の中で、学生運動に参加し逮捕投獄された経歴をもつ学生運動の活動家が現在の民弁の中核である。したがって、年齢的にはみんな若くて元気のある人たちばかりである。もちろん、古参の弁護士もおられるが、年齢的には、三〇代から四〇代が主力といえるだろう。自由法曹団の訪韓団には是非若手弁護士が多く参加してほしい。
 労働関係では、日本では規制緩和・リストラ、韓国でもIMF主導の構造調整というリストラや解雇問題では共通した状況にある。また、派遣労働問題なども共通している。しかし、労働者派遣法などは、むしろ韓国の方が日本よりも労働者保護が進んでいる。
 韓国でも、急速に弁護士の数を増やしているが、ソウルの法律事務所の見学もしよう。共同事務所でも、各弁護士には立派な個室がある。共同事務所のほとんどは法人化されている。また、裁判所の裁判傍聴や労働委員会の傍聴も、非常に刺激的である。
 ソウル市内には、日本が侵略していた当時の記念館もいくつかある。例えば、日本の支配に抵抗した政治犯を収容していた西大門刑務所は博物館として保存されており、独居房や地下拷問室、取調室、死刑執行室などが保存されている。伊藤博文を「暗殺」した安重根記念館なども訪れたいところだ。わが国では、「日韓併合は合法的に行われた」とする社会科教科書が検定を受けるという事態となっているが、現代史に対する韓国側の認識を具体的に知ることは重要なことだと思う。可能であれば「板門店」も行きたいところである。軍事境界線をまたぐように建っている建物の中から、共和国軍の兵士と韓国軍の兵士が目に入る緊張した場面が見える。
 亡くなられた藤本正弁護士の精力的な努力により二年に一回交替で韓国と日本で交流するという日韓法律家の交流が定着しているが、自由法曹団と民弁との公式な交流は初めてのことである。戦前から闘ってきた伝統をもつ自由法曹団には、韓国メディアでも最近日本人シンドラーとして報道された布施辰治弁護士のような先輩もいる。このような自由法曹団と民主化闘争のなかで生れた韓国の法律家団体との交流は、ともに社会の民主化をめざして闘うという団体であるだけに、個別のテーマでの交流もさることながら、ともに民主社会をめざす法律家団体として、これまでのそれぞれの団体の活動や、これからの社会運動や市民運動などさまざまな分野における法律家団体の役割について交流できるいい機会であると思う。
 多くの団員が参加されるよう呼びかけます。


「震災対策のあり方を契機とした官(鳥取県片山知事)と民(長野県田中知事)からの住民本位の「行政改革」

―兵庫県震災研究センター・記念シンポジウムの報告

兵庫県支部  山 内 康 雄

一 私も加入する兵庫県震災復興研究センター(菊本義治神戸商科大学教授・西川栄一神戸商船大学教授共同代表)の会員制移行・活動継続を記念するシンポジウムが、四月三〇日神戸で開催された。ゴールデンウイークの真っ只中にもかかわらず、会場の兵庫県農業会館は四〇〇人を超える超満員となり、涙と熱気のあふれる集会となった。最近の地震被災地の広島県や鳥取県、それに東京等からも参加があった。
 その記念講演をお願いしたのは、昨年秋の鳥取県西部地震で中央官庁の反対や圧力を押し切っていち早く住宅再建に三〇〇万円の公的支援を実施した片山義博鳥取県知事である。集会では、神戸市の震災後の被災者支援や神戸空港住民投票運動でお馴染みの田中康夫現長野県知事からのビデオメッセージ(約五分)も披露された。

二 震災被災地の住宅再建への公的支援は、団の震災対策本部や兵庫県震災救援復興県民会議が阪神大震災後に神戸市・兵庫県・政府に強く要請し続けたが、遂にこれまで実現しなかった課題である。
 鳥取県西部地震における片山知事の震災支援策は、被災住宅の全壊、半壊、一部損壊などの被害認定に関係なく、被災者が同じ自治体内で住宅を再建する場合は、一律三〇〇万円の補助金を支給する、補修についても五〇万円未満は全額、最高一〇〇万円を支給するというものである。
 片山知事は自治省中央官僚の出身、阪神大震災当時は、自治省で震災対策にも関わっていたようである。一九九八年自治省府県税課長の時に退職、翌年の県知事選に立候補して当選、その後、公約どおり県警予算執行関連文書の公開などの情報公開を進め、また長年進展のなかったダム建設の中止も決定している。その流れの中で、私たちとまったく同様の考え方から、個人財産への公的支援は憲法違反であるとか、資本主義国では個人補償はできないという出身母体である自治省を含む中央官庁・政府の反対や圧力を撥ね退けながら、震災後わずか二週間足らずの間に、この支援策を決断し発表した。
 後で取り壊さなければならない仮設住宅建設に三〇〇万円(取壊しまでの費用を含めると四〇〇万円)以上掛けるのにずっと残る住宅再建の支援ができないのは割り切れない、住宅が全壊した民有地にその住民用の仮設住宅が建てられないのはおかしい、このままでは住民の大半が転出を余儀なくされ、地域共同体が壊滅してしまう、そのような流れが出ないうちに住民を支援し、地域共同体を守ることが必要不可欠で公的支援の理由があるとして、すばやく住宅支援策を発表した。しかも、どのくらいの対象者になるのか、正確な調査をしてからでは遅すぎるとして、対象数や必要予算額も確認しない段階での決断であった。ダム建設中止で浮いた予算を回す気になれば何とかなるだろうという気持ちもあったということで、中央には、支援はしてくれなくともよいから、妨害はせずに理解して欲しいと要請したそうある。過疎地における住民流出予防策という従来からの自治体の政策課題との共通性があり、多くの自治体の協力がえられたということもあるだろう。阪神大震災で、住民は入れ替わっても都市人口さえ増えればいいとして、徹底した都市再開発などを住民の反対を押し切って進めてきた兵庫県知事や神戸市長とは大違いである。
 集会後の片山知事も参加した懇親会では、片山県政の唯一の野党である県会議員が、日本で一番小さな県が日本で一番進んだ県になった、と評価していた。
 官からの地方自治体における「行政改革」に臨んでいる片山鳥取県知事と、民から選ばれて「行政改革」に挑んでいる田中長野県知事、その共通点は、徹底した情報公開、脱ダム政策(不要な公共事業の削減)、中央志向でない住民本位の自治体政策、そして地域の震災復興のあり方といえそうだ。
 片山知事は、神戸市が神戸空港に固執するのは政策の優先順位を間違っているという考えを持っている。片山知事は集会で、徹底した情報公開は役所の役人が住民にうそを言わなくてもすむようになり、本音で仕事が出来るから役人にとってもよい、議会などへの根回しも必要なく、職員が余分な気遣いをせずに職務に専念できるから、職員の能力を真に職務に向けることが出来る、それぞれの地域で何が求められ、何が必要なのかを優先することが「地方分権」だ、と説明した。県職員や幹部には、中央を向かずに現場を見て仕事をするように指示しているという。長野の田中知事は「しなやか」だが、鳥取の片山知事はなかなか「したたか」な感じがする。田中知事が、片山知事は今一番会ってみたい知事だというのもうなずける。

三 今神戸では、震災被災者支援運動をはじめとする多種多様の住民運動団体が大同団結して今秋に予定されている神戸市長選挙の「住民側の候補者選び」の動きが活発化しつつある。その一環として、片山知事と田中知事の対談を神戸で実現する計画もある。
 神戸市では、今なお震災被災者への支援策が緊要の課題であり、神戸空港見直し問題、震災後の都市再開発問題、それに神戸製鋼による時代錯誤的な石炭火力大発電所の操業問題など、多くの課題が山積している。そうしたなかで、この集会の参加者は、新たな気持ちと勇気をもって、神戸市の「行政改革」に立ち向かおうとしている。


弁護士の在り方、その二、三のこと(上)

東京支部  坂 井 興 一

 日弁連理事任期が明けて、しばらく黙っていようかと思っていたが、定時総会決議についての賛同勧誘が来るものだから、自分の考えを整理方々、首題関連で気になっていた二、三のことを纏めてみた。

「自治堅持決議のこと」

 今や確かな存在となった「憲法と人権の日弁連をめざす会(面倒なので高山さん達の会と略します。)」が、いつまでも少数に甘んじては居られないと云う思いもあってか、際どい決議を日弁連五月定時総会に上程して来た。その標榜する弁護士自治が大切なこと、自主懲戒権によって使命を全うすることに異議を言うなどとは、少し前迄の弁護士会論議では凡そ考えにくいことだったからである。
 連合会執行部の自主城明渡し的とも取られかねない提案(一/二三)については、確かに各地の理事から異議や批判が寄せられたことは事実である。推進センター全体会議に諮らない、そこで約束した理事会(一/一九)にも諮らない。なのにそれがあたかも連合会の正規意見であるかのような表示で審議会に提出する。しかもその懲戒審査会は、時あたかも拘束力のないことが問題視されていた検察審査会的なもので不用意だったし、慌てて補充したものが「拘束力がないから良いじゃないか」とばかりの、如何にも弁解的な印象のものだった。三月理事会では、その具体化したプランについて「執行部責任」で提出することについての了解を求めて来たが、幾つかの質疑であっさり引っ込めてしまい、何となく羮に懲りて膾を吹くの感さえあって、私らの理事任期が終わった。そしてこの案は三月末に執行部の自己責任に拠るものとして審議会に提出されたが、そうした一連の経過が高山さん達を強く刺激したであろうことは想像に難くない。

(一致点は、、)

 こうしたものを執行部が独断専行するのは勿論いけないことなのだが、然し、懲戒手続き改定の内容・対策等が駄目かとなると、自ずと話は別のことになる。大増員・広告・法人・ビジネス法曹等のこれからを思えば、余程しっかりしたシステムを構築しないととてもやって行けるものではない。今でさえ、巧みに再犯を繰り返えす問題弁護士を排除するのに一〇年近くも掛かる困った現実がある。
 だいいち我々が、国民参加・陪審・専門家の独断排除・検察審査会の意見について拘束力を!などと問題提起していることとの整合性はどうなんだと突かれれば、それとこれとは問題が違うからと云う議論では容易に納得して貰えるものではない。懲戒手続きでは弁護士委員の方が処分意見が厳しいとか、これ以上外部からの参加を求めねばならない立法事実はあるのかとか、時あたかも福岡の事件があったが、そんなら判検事の処分手続きの現状はどうなんだと云った問題点については適正に折り合いを付けるべしとは思うが、こんな辺りについて高山さんらはどう受け止めているのか。
 何でもどこぞの国では弁護士の処分をするのは裁判所なのだそうだが、その裁判員は皆弁護士がなっているとかの話も聞く。外の人達をもっと関与させた方がいっそ制度が適正に運用されていることのアリバイ証明が楽でいいとか、否々、関与されることそれ自体が不羈独立心を失わせるものだとか、緒論も様々である。今年度連合会執行部はこの案に対して、外部からの批判を一切撥ね付けるが如き姿勢と取られる、また、会長不信任を意味する下りをそのまま座視出来ないと云うこともあってか、急遽対抗的決議を提案して来た。執行部が替わったせいか、その案は前年度とはトーンが異なり(そのように見える)、審査会の件は先送りし、外部委員の過半数化と懲戒請求者への司法審査権付与に反対することを強調したものになっている。発議者側がその動機的事情でしかないことに迄拘束されていることから見ると、これは幾らか後出しジャンケン的なところもあるが、その変化自体は首肯しうるもののように受け止められる。
 さてそうとなると、両当事者が言うように二つの決議は必然的に相容れぬ背反的なものなのか、決議合戦は調整不能なのかとの疑問も生まれる。それは兎も角、こうした議論を通して外部権力の不当な侵犯を排除できるシステムと運用を確立する一致点が見出されるなら嬉しいのだが、公的被疑者弁護論争のような様相も呈して居て、日弁連の団結を図る上で何となく鬱陶しい日々が続いている。

「坂本 修氏のスタンス」

 ミスター自由法曹団(と言う人もある。)の坂本団員が「司法改革、、現場からの検証」を緊急出版した。一二八頁のものだが、ビッシリ三段で、随所に細かい囲みの(補論・争論)・(情報)が挿入されているから、かなりのボリュームなっている。しばらく前、宛先のない手紙を延々と書いていると聞いていて、まさか坂本さんが今頃片想いのラブレターなど書く筈もなかろうとは思っていたが、その結晶がこれであったか。実に大部の、改革問題全面追求の書である。
 この間の様々な改革論議現場での臨場感溢れる証言・陳述と、長年のキャリアの中で見聞・体験された史的なものを盛り込んであって、さしたる抵抗感もなく通しで読めた。「遅れてきた斥候兵」と揶揄されながら、いつもながらご自身の立脚するものに誠実・献身的、且つ持ち前の情熱的態度で、短期間にこれほどの見聞と取り纏めをされたのである。然もそれが、事情通であると思っている私が一目も二目も置く気分のものとして出されたことに、私自身の怠惰への反省と併せて率直に敬意を表したい。

(、、と言っても)、

 坂本さんの講演や書くものに、私はいつもそんな風に反応して来た。私の地元、東京大田区での何かの講演の際の紹介でも、「坂本先生は語り部、情熱的な伝道師です。先生の話を聞いてしまうと、取り組みを一段と強めねばならない羽目になるから、実はホントのところ、私は耳を塞いでいたいのです、、。」と言っていた。
 坂本さんの課題や事件の取り組みの熱意については定評がある。然しそれ位なら私だってそう遜色がある訳ではない(と自負している)。が、その先が違っている。私に当初の情熱や好奇心が薄れて、些か惰性気味になっても、もっと前から走っている彼の姿勢は変わらないのである。私には持続的情熱、取り分けて陣営的・当事者的なそれの強さを我が身の内に感じることがなくて、その為、事件や任期が終われば何となく熱が冷めて第三者的になってしまうのだが、彼にはそういうことがない。これほど長く、強い情熱を持って走り続けている人に、この業界であまりお目に掛かったことがない。そうした彼我の距離を置いて眺める坂本さんの目とスタンスは、階級愛や陣営愛というものがあるならば、そうしたものが現実態となって常在している如くである。しばしばそれは汗となって周りに飛び散り、食事も呑み会も遊びも、どんな時でも運動や課題をつまみや肴にして過ごす彼を、然し私は「もそっとテキトーにやりましょうよ。」と云った風に、何となく敬して遠ざけて来た。そんなにいつもいつも力が入っていては話が一面的になる、一方通行ですよ。たまには囲碁の小林光一のように碁盤を反対側・相手側からご覧になったら如何ですか、と言いたくなったりしていた。

(この本に)、

 そうした彼の一方向流がないとは言えないのに、私には違和感なく呑み込むことが出来た。テキトー人種ながら、長年曲がりなりにも弁護士会活動に携わって来た私にも、弁護士自治や、民衆のための司法を確保・追求したいという彼の気分が良く伝わって来たからである。そうした場合の彼の対象に対する情熱はしばしば一点・一元に集中し、巌をも貫こうとするものになる。その作風の結果として、司法改革の一方の主役である日弁連の中枢や、そことの接点を持つ団の然るべき人達の姿勢や意見への疑問・批判(?)も又、滲み出たりもするようである。そうした指摘は、戦いの重大な「せめぎ合い」の局面での、無視し得ない「揺れ」として、克服の願望を込めて慎重に触れられている。そうした下りを、団体運営の中枢を担わざるを得ない人・日弁連に対する激励と連携を重視せねばならないと思っている人々が、心穏やかに、虚心に聞き届けて呉れるものかどうかは分からない。組織・行政責任を負う立場のしんどさを少しは理解する積もりの私は、自分が中枢に居たらどうだったろうかと思ってみたりする。が、坂本さんは幕末維新時なら、ある種志士とも隊士とでも云うタイプの人で、中枢より前線・野戦・艦隊勤務が似合っている。この際どうでもいいことだが、私の方は、はぐれカラスのように中枢からお呼びでないタイプであり、比べるのは失礼と思うが、ある種詰まらぬところで共通している。
 その詰まらぬ共通性の故に彼は赴く全ての戦線でいつも前線の先駆的志士として振る舞い、私の方はどこか意固地になって誇りや武士の論理の如きを強調してしまっていた。そんな私に昨今の事態は、弁護士会が己の非力を軽視し、ついつい器用に合格点の答案を書いては、外部権力との接点・共通語を求めてあれもこれも人身御供にして来たように映ってしまう。そしてその結果の大したことがないことがハッキリし出すと、何時迄も噛み合わない議論ではなどと、アッサリ現実論を言い出す。そんな君子諸君の話を聞いていると、「オイ、オイ、あの時の決議修正は只の方便だったの!?」と言いたくなったりするのだが、坂本さんはそんな感情的議論を言う人ではないから、安心して読んで貰いたい。
 自分が一兵卒として生死の懸かる戦場に出される時、そういう時こそ、私は私のような将の下でありたい。今迄、戦記・人物ものを随分と読んだが、自分の生き方としては、そう思えるようでありたい。坂本さんは多分そういう人のようには思えるが、今迄、氏とは密接距離で持続する仕事や活動の機会がなかったので、東京事務所の諸君に聞いてみないとそれは判らない。(つづく。次号は「法人化問題その後」と「サービサー法改正」についてです。)


自由法曹団創立八〇周年記念特別寄稿

自由法曹団創立記念日の周辺 その2

赤旗社会部 阿 部 芳 郎

 四月中旬のある午後、前団長の豊田誠弁護士の事務所を訪ねた。司法改革の焦点となっている弁護士費用の敗訴者負担問題で、意見をうかがうのが目的だった。インタビューが終わると、「自由法曹団の歴史を調べているそうだね。『誕生日に疑義あり』ってわけ?」と水を向けられた。いうまでもなく、豊田さんは八十年史編纂の責任者だ。
 「とんでもない。何か発見されていないことを探すというのは、職業柄、興味をそそられるんですよ」と、きわめて単純な私の動機を説明した。「どこまで調べたか、ぜひ書いておいてよ。後で調べる上で手間が省けるから」と豊田さんに頼まれた。
 この種の取材は、ジグソーパズルに似ている。全体の絵柄はわかっているのだが、なかなか見つからないピースがいくつか残って空白がある。だからのめり込んでしまう。
 前回触れたように、「松本楼ルート」からの接近では「ピース」が埋まらない。「出版物ルート」から消去法で迫るしかない。手近なところからと、まず党本部の党史資料室に私の意図を説明すると、いくつかの書物を当たった上で、ヒントも授かった。
 「出版物ルート」をたどるに際し、とりあえず自由法曹団以外の新聞、雑誌、書籍の記述から迫ってみることにした。森長英三郎弁護士は著書『山崎今朝弥』の「初期自由法曹団時代」の章で、次のように書いている。
 「神戸労働争議における調査が機縁となって同年(注・一九二一年)秋(山崎は「日刊社会運動通信」昭和八年一月九日号の記載にしたがって、団の創立を八月二〇日といい、それが定説になったが、私の調査ではその根拠は薄弱である)、自由法曹団が結成された」
 神戸労働争議とは、一九二一年の六月末から七月にかけて発生した神戸の川崎、三菱両造船所での大規模な労働争議を指している。デモをした労働者が、サーベルを抜いた警官に刺し殺されるなど、人権蹂躙、弾圧が激しかった。そこで東京の弁護士を中心に人権蹂躙調査団を結成し、八月一一日に神戸に到着した、と森長氏は述べている。その調査団の中に自由法曹団創立当時、名前を連ねた弁護士が多数含まれていた。
 森長氏が、「その根拠は薄弱」と指摘している「日刊社会運動通信」昭和八年一月九日号には、どのように書かれているのだろう。

(つづく)