<<目次へ 団通信1024号(06月21日)

労働協約の破棄は不当労働行為により無効

−井阪運輸事件−

大阪支部  谷  英 樹

一 はじめに

 運送会社が労働組合を嫌悪し、組合員らには仕事(タンクローリーの運転業務)をさせないことによって、賃金を大幅にダウンさせ、さらに賃金の最低保障額を定める労使協定の破棄を行ったという不当労働行為の事件について、大阪地裁堺支部(裁判官 中路義彦、品川英基、上杉英司)は、二〇〇一年五月一六日、会社による労使協定の破棄(労働協約の解約)は不当労働行為により無効であるとして、協約の効力がなお存続していることを認め、これに基づく賃金の支払いを命ずる判決を言い渡した。

二 事案の概要

 井阪運輸株式会社阪南営業所には、以前から運輸一般(全労連)のほか、交通労連(連合)傘下の井阪運輸労組があったが、一九九五年ころ以降の会社の労働条件切り下げの提案に対して、井阪運輸労組の組合員であった者らが多数運輸一般に加入した。この加入に危機感を抱いた会社は、他社で労務対策を行った経験を有する者を阪南営業所長に採用して、一連の不当労働行為を開始した。
 まず、一九九六年五月二七日以降組合員には全く乗務に従事させないようになり、事務所への待機を命じてきた。その結果、乗務に伴う諸手当や時間外手当を全て失い、給与が半分から三分の一にまで減ってしまった。その後、七月一八日以降徐々に組合員に乗務させるようになったが、その配車(乗務の指示)の仕方は、まず組合員以外の運転手に配車し、その後に残った分を組合員に配車するというものであり、しかも組合員の乗務は近距離中心であるから、組合員以外の運転手との賃金格差は残ったままである。このような配車差別は現在まで五年にわたって続いている。
 また、組合休暇、有給休暇、定時退社を申し入れた組合員に対しては翌日から数日間は配車せずに待機を命じたり、物損事故等を起こした組合員に対しても同じく数日から一〇日間くらいにわたって仕事をさせない状態が続いている。
 さらに、一時金においても組合員にはことさらに低額の回答を行い、そのため、一九九六年の年末一時金については、なお全額の支給がなされていない。その後の一時金においても、組合員に対してだけ、組合休暇の取得や事故などを理由に、査定と称して減額して支給している。
 このような会社の不当労働行為に対して、組合は、最低月収保障協定(一ヶ月の賃金総額が金四〇万円に満たない場合は、その差額を支給するという会社と組合の労働協約)に基づく差額賃金の支払いを求める本訴を提起した。訴訟のなかで会社は協定は合意解約されたなどと主張したが、一九九八年五月二二日会杜に賃金差額の支払いを命じる判決が言い渡された。そこで、その後の七月六日、会社はこの最低月収保障協定の破棄通告を行ってきた。これに対して、組合は、一九九九年五月、最低月収保障協定の破棄通告が不当労働行為により無効であり、仮に無効でないとしてもいわゆる余後効があると主張して、差額賃金の支払いを求めて新たな訴訟を提起した。

三 争点と判決の内容

 訴訟のなかで、会社側は、組合員への配車が少ないのは、差別ではなく、組合がスト通告を行ったり、組合員は有給休暇や組合休暇の取得が多く、そのために配車が少なくなっているのであって、不当労働行為にあたらないと主張した。そして、最低月収保障協定の解約は有効で、これに基づく差額を支払う根拠はないと主張した。
 判決は、会社のこれらの主張を明確に排斥して、配車差別が組合に対する不当労働行為意思に基づくものであり、また、最低月収保障協定の破棄通告についても、配車差別による収入の減少をもたらすことを目的に行ったものであって、この破棄通告自体も不当労働行為にあたると認定した。
 そして、会社による労働協約の解約が不当労行為にあたる場合には、その解約は無効であると判示して、協約はなお有効に存在するものと認めた。  また、余後効の主張に対しては、いわゆる余後効は認めら
れないとしながら、「労働協約の成立によって個別的労働契約の内容として強行法的に変更され承認された状態ないし関係は、協約失効後における労働契約の解決に際しても、できる限り尊重されることが継続的労働契約の本旨に沿うから、特段の事由がある場合を除き、個別的労働契約は協約終了時における労働契約の内容と同一の内容を持続するものであり、使用者において一方的に労働協約を改訂・変更することは許されない」と判示した。
 そのうえで、最低保障協定の有効ないし協定によって定められた労働契約の内容がなお効力を有することを前提に、最低保障額と実支給額との差額の支払いを命じるとともに、不当労働行為による慰謝料および弁護士費用の支払いを命じた。慰謝料の額は原告組合員一人あたり一五〜三五万円を認めた。また、弁護士費用は原告組合員一人あたり六〜二五万円を認めたが、これは慰謝料額だけてなく、差額賃金額をも合算した金額の約一割である。実質的に片面的敗訴者負担を認めたものとも評しうる。

四 判決の意義

 本件では、会社は組合に対して経済的打撃を与える目的で、配車差別を行い、組合員らの給与を低く押さえ込もうとしたが、そのためには最低月収保障協定をなんとしても無効化させる必要があった。その意味で、この協定の破棄は不当労働行為の重要な要素であった。そして、期間の定めのない労働協約の解約権は当事者に留保されており、たとえ不当労働行為のために解約権を行使したとしても、解約の効果により協定は無効になってしまうのではないかということが本件の最大の問題であった。
 解雇が不当労働行為にあたる場合にそれが私法上も無効になるかという点については学説上争いがあったが、現在では私法上も無幼であるとする扱いが実務上定着している。しかし、本件のように、労働協約の解約が不当労働行為にあたる場合の私法上の効力については、必ずしも十分な議論はなされていないようであった。また、労働協約解約後のいわゆる余後効の間題についても判例は統一されていない。
 判決はこれらの点について明確な判断を示したもので、その先例的意義は大きい。とりわけ、労働協約解約後も個別的労働契約は協約終了時における労働契約の内容と同一の内容を持続し、使用者において一方的に労働協約を改訂・変更することは許されないとの判断は、今日、会社の業績悪化を理由とする労働条件の切り下げが頻発し、それに根拠を与える法律論が台頭してきているなかで、大いに活用できる法理である。
 本件争議にとっては、組合員に経済的打撃を与えるという会社の意図は、この判決によってその手段を奪われてしまったも同然である。争議の解決に大きな前進を与えるものとなったのであり、全面的解決を勝ち取る大きな武器としたい。
 (弁護団は、大阪支部の上山勤、長野真一郎、谷英樹である)


港区の教科書展示に行きました

東京支部  中 野 和 子

 六月一二日から始まった教科書展示に行ってきました。教科書展示会は「教科書の発行に関する臨時措置法施行規則(昭和二三年文部省令第一五号)第五条第二項の規定に基づき行われており、六月二二日から一四日間という告示が出されています。教科書展示では、まだ市販されていない展示用教科書が展示されていますので、「つくる会」の「公民」「歴史」以外の教科書と比較しながら、「つくる会」の異常さを実感できます。また、区の教育長あての意見を書く用紙があり、その場で意見を書くと封書に入れられて直接届く仕組みになっています。検定意見書もあります。「つくる会」だけ六三ページの膨大な量です。これは、文部科学省のホームページでまもなく検索可能になります(現在準備中となっています)。
 私が行ったときは、もう一人見に来ている人がいて、教員のようでした。私は、東京書籍の公民と歴史とを比較本に選びました。
 中学校では世界史はなく日本史だけです。日本史に必要な範囲で世界史が出てきます。それを前提にして、これまでの教科書は作られています。ところが、「つくる会」はおかまいなしに、前提知識を説明することなく評価のみ述べています。
 「公民」で最も問題だと思ったのは、国民主権が憲法一条の文言としてしか出てこないということです。しかも一回だけ。国民主権とはいかなるものか説明がないのです。確かに民主主義という項目があります。しかし、文脈の結論は、民主主義は自己規律なので難しいということになっています。これに対し東京書籍では、国民主権が見開きにわたって説明されています。人権はどうかというと、確かにジョン・ロック、モンテスキュー、ルソー、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言という言葉はでてきます。しかし、キリスト教思想にもとづく神の前の平等だとか(アメリカ独立宣言)フランス革命はその後混乱を極めたなど、およそ人権思想の発展と歴史的成果を見えなくする記述に囲まれています。文脈の中からは、人権尊重の精神が出てこないのです。自由権はどうかというと、戦前の人権侵害の歴史に触れていません。逆に、自由権は公共の福祉によって制限され得るのだと表をつけています。通信の秘密に対し通信傍受法、表現の自由に団体規制法、公安条例など、労働基本権に対しては国公法、地公法が挙げられています。人権は公共の福祉によって制限されるのだと、制限を強調した記述になっているのです。
 憲法に対する姿勢が敵対的であることは天皇の取扱い、自衛隊の扱い、住民自治に対する批判などたくさんあります。しかし、なんといっても、女性の地位向上を無視した点は際立っています。東京書籍では、資料として女子差別撤廃条約、男女共同参画社会基本法、均等法、国際人権規約などが載っています。ところが、「つくる会」は、一切無視しています。また、男女平等の記述があるものの、肉体的差異に基づく役割の違いがあると釘をさしているのです。出産以外の何かを指していることは明らかです。保護の観点からでないことも確かです。
 「つくる会」の「歴史」は、日本は神の国であり、日本人は優秀だと叫んでいるようなものです。中学で学ぶ歴史は、歴史の発展の事実を幹の部分で押さえていなければならないと思います。ところが、枝葉末節な事実を針小棒大に描き、押さえるべき転換点を見えなくさせています。まず、神話に関して八ページを割き、文学を展開しています。近代史では、「優秀な」日本人を強調しています。ロシア、共産主義に対して敵意を見せています。なぜ日英同盟なのか、見開き二ページにわたって論じており、結論は「日英同盟を選択したので二〇年間安泰だった」というものです。ヒトラーとスターリンとを写真で並べ、ナチズムと共産主義(スターリン主義ではない)の比較をしています。この時期比較すべきは、民族浄化の独裁政治と自由主義とであり、侵略戦争と国内抵抗組織とではないかと思うのですが。これに対し、日中戦争では、日本は悪くない、軍隊万歳のトーンで戦争を美化しています。好戦的な記述が多く何ら戦争に対する反省がありません。朝鮮、台湾、中国などに対する侵略の事実も虐殺の事実も隠されています。
 これに対し、東京書籍の歴史は、極めてオーソドックスです。教科書の大きさもA版です。「つくる会」だけB版なのです。もちろん、従軍慰安婦の記述が消えているなど、不満な点は多々ありますが、少なくとも好戦的ではないし、神話も出て来ません。現代史も「つくる会」よりはましです。
 二時間くらいしか見ていないので、ざっと気の付いたところだけですが、もっと多くの人が比較検討して意見を述べるべきではないでしょうか。


教科書の展示会へ行って来ました

〜教科書展示会リポート〜

東京南部法律事務所事務局 中 野 明 日 香

 六月一日から東京都大田区内三カ所でも平成一四年度使用中学校用教科書図書の展示会が始まりました。早速、展示会場である蒲田中学校へ行って来ました。
 学校の正門に「教科書の展示をしている」という看板・ポスターがあるわけでもないので、区報を見て知っている人しか来ないということになります。もし看板でもあれば、通りがかりの人が気づいてふらっと立ち寄ることもできるのにな、、、と思います。
 まずは学校の正面玄関で「教科書の展示をしているということですが、、、」と事務室に声をかけました。一一時頃行ったのですが、私が展示会へは初めての訪問者のようでした。事務室で名前・住所を書いて受け付けをすませた後、名札をもらい、展示会場へ案内されました。会場は玄関からすぐの第一相談室でしたが、会場に至るまで「展示会場はこちら」といったような案内表示があるわけでもなく、用務員の方に案内されなければ、会場まで行き着けないといった感じです。
 会場には誰もいなく、机の上に各教科毎に各社の教科書がおいてあります。入り口付近には区民意見票とその投函箱があり、教科書を閲覧した人は自由に意見を書くことできます。どんな雰囲気で展示がされているのかを多くの人に伝えたいと思い、案内をしてくれた方に「会場の様子をカメラにとっていいですか」と尋ねると、「撮影がいいのか悪いのかもわかりません」という返事なので断念しました。お知らせできなくて残念です。
 私は今回、特に問題となっている扶桑社発行の「新しい歴史教科書」「新しい公民教科書」を読んできました。手にして思ったのは、となりにある他社の社会科の教科書は歴史、公民、地理と三点セットになっており、社会科全般を教えることできるのに扶桑社の教科書は歴史、公民しかありません。このあたりに著作者の意図が垣間見えます。教科書を閲覧して、意見票を書き終わるまで約四〇分間会場にいましたが、最後まで誰も会場を訪れる人はいませんでした。初日ということで仕方がないのかもしれませんが、この閑散とした雰囲気は、子供たちが使う教科書がその親や地域の人たちに読まれることなく決められてしまうかもしれないという不安をかき立てます。
 必ず受付をしてからでないと会場へ行けない構造になっているので、お昼休みは果たして閲覧できるのかと思い、用務員の方に尋ねると「一二時から一時半は受付できません」との答え。なぬ?それではお昼休みにちょっと職場を抜けて見に行こうと考えていた仕事をしている人は見られないではないか、教育委員会の区民に知らせよう、情報公開しようという姿勢が全く見られないことに非常に腹が立ちました。
 また、この「つくる会の教科書」の市販本が書店でも販売されているという話を聞いたので、観察に行って来ました。蒲田駅の駅ビルの書店ではなんと平積みにしてあり、本の帯には「国民に判断してもらいたい、話題の教科書だ!!」などという言葉が並んでいます。隣には改憲を唱える本も陳列され、まるで改憲コーナーといった感じです。
 この市販本は、行政指導が入り、出版はないだろうといわれていたものです。それにもかかわらず、書店に並んだのは、何が何でもこの教科書を採択させるという「つくる会」の姿勢が伺われ、さらに腹が立ちました。
 皆さん、展示会・書店で「つくる会の教科書」を目にすることができます。まず手にとってこの教科書の中身を知ってください。そして、この教科書にNO!の声を一緒にあげましょう。
(東京支部「ぶっとばせ!憲法改悪」83号より転載)
*各地の状況や運動を団本部教科書問題緊急プロジェクトまでFAXかメールでお知らせください。


高知五月集会感想特集

憲法と民主主義をめぐるたたかいのために

−五月集会の感想−

大阪支部  藤 木 邦 顕

 五月集会には、ほぼ毎年参加してきましたが、改憲策動、有事立法、教科書問題など「民主主義の全般的危機」を目の前にしての重大な時期の集会はなかったのではないでしょうか。私は、プレ企画のピーター・アーリンダー氏の講演から参加し、分科会は教育問題と司法問題を選びました。それぞれを網羅的にのべるわけにはいきませんが、一日ごとの分科会は、多様な団員の活動が反映できるという長所と、テーマによっては議論が不足するという短所があるように思います。
 教育問題の分科会では、高知の小学校、中学校、高校と現場でがんばっておられる先生方からの貴重な報告をお聞きしました。「新しい教科書をつくる会」のいかがわしい戦争賛美と憲法否定の策動に抗して、現場の教職員としっかりと連携し、こどもたちを二度と戦場に送らない運動を広げる大切さを感じた参加者は多かったと思います。教職員のみなさんと思いを共通にした後、各地で起こっている政治的な動きや教職員組合との関わりの中で感じたこと、親の立場からの学校への願いなどをもっと出し合った方がよかったのではないでしょうか。この分科会については、一日(実質半日です)は短かったと思います。
 一方、司法問題の分科会は、今回の方式でなければ参加できなかった分科会で、かつ、適切な量と感じました。もっとも中心的メンバーのなかでは前夜から弁論準備的論議があったようですので、分科会の場ではすでにアクが抜けていたのかもしれません。
 五月集会の一日目に渡辺治教授の講演というのも異例の運営ですが、大変よかったと思います。渡辺教授の講演についての感想は、活字をじっくり読んでからすべきですが、教授の著書の講座現代日本第一巻「現代日本の帝国主義化 形成と構造」三三九頁以下には、新たな帝国主義イデオロギーとして、@日本帝国主義の侵略戦争との峻別A天皇制イデオロギーの放棄B「国際貢献」イデオロギーへの純化があげられています。しかし、今の教科書問題の方向は、これらと異なるきわめて復古調の強いもので、しかも「つくる会」には、NTT、ゼネコン、味の素など有力企業の経営者が多数賛同しています。二一世紀に入ってこのような逆流がでてきたことについて、さらに分析が必要と感じました。


二〇〇一年五月集会の感想

東京支部  笹 山 尚 人

 五三期の私は、五月集会に初めて参加した。事前企画も含め、二泊三日の参加であった。感想としては、同期に多く会えてうれしかったというのもあるし、私が積極的に担っている(つもりの)青法協に比べると、何と多くの、事務局のみなさんも含めたたくさんの参加を、少しばかりうらやましく思ったというのもある。しかし、やはり感じたのは、団の、たたかう団体としての強固な結集と、その頼もしさである。
 私は、分科会には、初日は憲法に、二日目は労働に参加した。憲法では、全体会で講演された渡辺治氏の、第三の道、「新しい福祉国家」についての氏の詳しい見解を聞くことができて、望外の喜びであった。大体、全体会、分科会を通じて渡辺氏のかような見解を聞き学ぶというのは、日本の資本が規制緩和と対米協調路線を一層強めながら、民衆に対する支配を貫徹しようとしているという危機認識に厳しく立ちながら、現状の詳しい解明と、対抗軸を共につかんで、そこに結集して立ち上がろうという共通の土台があればこそであろう。そこに私は感じ入り、自分が入団して挨拶文を寄稿したとき「団の戦列に加われてうれしい」と書いたことの正しさを再確認したのである。そして、かかる土台に基づいて、憲法の分科会では、今までつながってこなかった多くの市民に運動を広げることの必要性、そのための具体策等が多く報告され、また労働の分科会では、各地の事件と運動の報告、教訓や展望についての熱い議論がたたかわされたのだと思う。私も、労働の分科会で、第一火災事件についての報告の機会を与えられ、かような場の主体的一員となれたのは、まことに誇らしいことだった。とても緊張したけど。
 今までは、状況がわからないと言うのもあり、団の活動に参加してもなかなか主体的な発言など行うことができなかったが、そろそろそうも言ってられない。現状の団を、より質高く、層厚いものにしていくのが私たちの責任であろう。更なる努力をせねばと身が引き締まる思いと元気をもらった五月集会だった。
 蛇足であるが高知の酒はうまかった。あまりたしなまない私がつい深酒をして、五月二二日の火曜日は終日二日酔いであった。よかった、予定をあまりいれないでおいて。


五月集会で考えたこと

ー「えひめ丸」の闘いとの連帯についてー

宮城県支部  庄 司 捷 彦

 もう三週間が過ぎてしまったのだが、今年の五月集会での新鮮な感動は、今も胸に熱く残っている。最後の全体集会で、ハンセン病弁護団からの「控訴して和解で決定したかの報道はガサネタである。控訴させない闘いはこれから」との訴えは十分に説得的であったし、その後の事態は、この弁護団の言葉どおりに展開した。判決後の集中的、精力的な原告団・弁護団の行動には、心から敬服した。これから纏められるであろう訴訟記録・運動記録が今から楽しみである。
 もう一つの涙は、「えひめ丸」の行方不明者寺田君の両親との交流から生まれた。宇和島在住の井上団員が事件の経過と問題点を的確に纏められた。印象深かったのは、彼が取った最初の方法が、精神科医師との連携であったことである。家族や被害者たちの心的ストレスへの着眼は流石と感じ入った。
 私の住む町にも、宮城水産高校があるし、県内にはもう一校(気仙沼市)ある。あの事故の当時、宮城水産の練習船「みやぎ丸」も事故現場近くの洋上にいたのだという。あの海域は比較的穏やかな海であること、近くに寄港地があること、漁獲も期待できることなどから、多くの練習船の訓練海域となっていた。地元の新聞にはこんな記事も載っている。決して他人事ではなく、数多くの水産高校にとって、明日は我が身の事件だったのである。この事件の真相究明と公正な解決について、多くの国民が強い関心を抱いているが、その中には、水産高校の関係者や漁業への従事者など、これまで基地問題や安保問題にさほど関心を持っていなかった階層も含まれているのである。
 安保の壁に一穴を開ける闘いが始まろうとしている。新しい担い手によって、新しい形の闘いが。私は、石巻・気仙沼の町になんとか支援組織を立ち上げたいと考えている。「洪水のような輸入水産物」によって危機に晒されている沿岸漁業にとっても、諸悪の根元は安保なのである。航海の安全を求める運動が、沿岸漁業の再生を求める運動にまで発展することを望みながら、「えひめ丸」の運動との、地域からの連帯の道を追求する覚悟である。

(二〇〇一・六・一四)


えひめ丸事件

〜寺田祐介さんのご両親の訴えにふれて〜

都民中央法律事務所事務局 渡 邊 ゆ き

 高知は行ったことないから、と参加した五月集会。まさか帰ってから自分がえひめ丸事件で行動を起こすことになるとは、その時は想像もつきませんでした。
 二日目夜の交流会終了後、行方不明の実習生、寺田祐介さんのご両親を囲む会が開かれました。お酒の入った後でもあり、最初は「まあ聞きに行ってみよう」と興味半分な気持ちでした。しかしご両親の訴えを聞くにつれ、いても立ってもいられない気持ちに変わりました。
 父親の亮介さんは「ワドル前艦長には多額の恩給が与えられる上、ビジネスの話も来ているという。彼は宇和島に謝罪に来たいと言ったらしいが、私はワドルを家に呼んで、祐介がどんな風に育ってきたか聞かせてやりたい。」と怒りをあらわにしました。母親真澄さんは、祐介さんから電話があった日などをカレンダーに書き込んで、毎日無事を祈っていたそうです。「捨て犬の世話をしたり、平和を願う優しい子でした。その優しさからか、衝突の後一度は甲板に出たのに、お世話になった先生がいないから探してくる、と言って、船に戻ったらしいんです。」そして私が一番胸を打たれたのは「海の中で、祐くんが、『死にたくないよー、お母さん、助けてー!』と叫んだんじゃないか、と思うとたまらなくなるんです」という叫びでした。全体の終了後も私たちは残って、祐介さんの赤ちゃんからの写真を見せてもらいました。まっすぐな瞳の子でした。この子はもっと生きたかったろう、何でこんなことに、と思うと涙が止まりませんでした。最後に真澄さんに「よろしくお願いします」と頭を下げられましたが、私は「できることがあれば」と答えるのが精一杯でした。
 翌日は、「できること」って何だろう、ということで頭が一杯でした。考えた末、勇気を持って声をあげられた被害者の方々へ、心のこもったメッセージをカードに書いて贈ろう、と思いたちました。気持ちが冷めないうちにと速攻、囲む会に参加していたメンバーに声をかけたところ、「私も何かしなくちゃと思っていた」と応じてくれました。こういう活動をするのは初めての人が多く、戸惑ったけれど、一枚でも多く集めようと、みんな短期間でがんばりました。そして、六月八日に東京でおこなわれた集会「えひめ丸事件の真相を究明しよう」では、寺田さん夫妻と、行方不明船員のご家族古谷さんへ、約九〇枚を手渡しすることができました。また当日会場でも六〇枚程集まりました。ご協力頂いたみなさん、どうもありがとうございました。これからもメッセージは、被害者の方へ送っていきます。

 カードのお問い合わせは  〒160-0005 東京都新宿区愛住町一九番一六号(富士ビル四階)
   TEL 〇三・三三五五・三三四一 事務局渡辺ゆきまで。
 一刻も早く、事件の真相が明らかになるよう、被害者の方の支えになっていこうと思っています。


高知で元気をもらいました!

−二〇〇一年五月集会に参加して

三多摩法律事務所事務局  南 里 禎 司

 今回久しぶりに五月集会に参加させていただきました。今回参加しましたのは、開催地が私が国内で最も行きたい県のひとつである土佐であったからで…(す)…は決してありません。
 事務局員交流集会では、高知法律事務所の谷脇和仁先生が講演されました。机の上に、地域弁護士活動七つ道具?(リュック、トレッキングシューズ、双眼鏡など)を並べられてのお話しで、大変面白く、話に引き込まれました。
 印象に残ったお話では、弁護士のいない地域に相談に入ったら相談者が多く、しかも熱心で、夜一一時過ぎまでかかることもあるということでした。そんな相談活動の中で、先生は、出産時の医療過誤により子どもさんが重度の脳性マヒになってしまったという夫婦に出会いました。相談をかさね、証拠保全手続を経て、かなり高額の和解金を支払わせて解決したとのことです。先生も話しておられましたが、弁護士過疎の地域で、もし弁護士が入っていくことがなかったら、あきらめられたかもしれない事案でした。その他にも、年休を取って組合活動したら、無断欠勤扱いされて一日分の賃金カットされた事案で、その返還を求めて徹底抗戦の姿勢で臨んだら、第一回の裁判当日にお金を返すといってきたという話もありました。
 地域に根づいて活躍されている団員の先生の姿に触れ、大変感銘を受けました。
 二〇日は全体会のあと、分科会が開かれ、私は教育改革分科会に参加しました。
 これがまた私にとって大変有意義なものでした。
 法案等の難しい話が多いのかと若干不安でしたが、「どんな学校づくりをしていくか」という、子をもつ自分自身にはとても身近な切り口だったので、大変勉強になり、また面白かったです。
 団がこのたび教育改革対策本部を設置したということで、杉井静子先生が基調報告をされたのち、高知の教育実践ということで、小・中・高の三人の先生方が話をされました。
 小学校の先生は、高学年を受け持ったときに大変荒れており、何かやらねばということで「地域新聞づくり」をはじめたということです。生徒に地域の話題を取材してもらい、新聞をつくり、生徒が手分けしてそれを地域に配る。十何年も、学校のある日は一日も休むことなく続けたとの話に驚きました。子どもにやりがいを持たせることの大切さ、地域が子どもと結びつくことの大切さを教えていただきました。
 また、学校の先生方がただでさえ大変なご苦労をされているのに、それに加えていま教育委員会や管理職の理不尽な攻撃とたたかわなければならないという状況がよくわかりました。そういう点で、いま学校の先生と弁護士が密に連携することがとても求められているような気がしましたし、それは子どもや社会の未来にとってとても重要なことだと思いました。
 以上私の印象に残ったことを簡単に述べさせていただきました。
印象に残ったといえば、桂浜のビリジアンブルーの海の色と、カツオのたたき。後者についてはすっかりトリコになってしまいました
。  高知のみなさん、また行くキニ、お世話になりありがとうございました。


司法は分かりやすくなるか(上)

−審議会最終意見によせて

東京支部  坂 井 興 一

 「改革審」か、それとも「司法審」なのか、呼称が分かれるところであるが、兎にも角にも審議に区切りがついて、これから実行段階に入る。連合会執行部は六月一二日即日会長声明を発表し、最終意見を概ね積極的に評価して敬意を表し、引き続いての自己改革努力を誓約した。これ迄の流れからはそうした対応になるのであろうが、弁護士一般にとっては審議会をどう略称していたかで最終意見への評価が違って来るだろうし、その両派の中間にも様々なバリエイションがある。弁護士会的な立場もセンタースタッフか執行部か、理事・常議員かで違う。自由法曹団でならどうかとなると、勿論これも違って来るだろう。生きている人間に係わることでは、取り敢えずの真実が人とその立場や団体の数だけあるものだと想定して当たるに越したことはない。私が言えるのもだから私的次元以上のものにはならない。そのことを自認し、明日のわれわれを考える上で、以前から気になっていたことの幾つかに触れてみたい。

【弁護士業の私益化】

 今次改革の最大のものは、人口・養成に係わるものである。これについては二〇〇〇年一一月臨時総会で既に決着済みの気分らしく、実行過程での節目時迄は新たな議論が湧き出すものではなさそうだ。それ故、当今の私の関心は何故これが受け容れられたのか、法曹界がこれからどう変わるのかになってしまう。

1、三〇〇〇人、五万人規模での弁護士は明らかに所謂ソリシタである。重装備の研修所は要らないし、設計中のロースクールさえ大袈裟な気がする。ロースクールは大学の生き残りと地方の再生を賭けてこれから一波乱も二波乱もあろうし、教官派遣の重要性を否定する積もりもない。然し、ロースクールはどうしても全体及び個々の想定合格者数がその内容・程度も決めてしまうものであり、スクール生の立場も見習いの更に前の学生である。お勉強気分のスクール生よりバイパスの真剣社会人の方が意気込みが上だろうし、七二条の大幅緩和で力とグレイドのアップした他士業との境界も曖昧になる。司法試験での差別化が大きな意味を持たず、どのロースクールを出たのか、どの法律事務所乃至はそのグレイド・傾向別連合に就職したかの方が肝心、と云うのもホントのことだろう。法曹界や法律事務所も既に偏差値・人気ランキング的就職気分で彩られて来ていて、例えば凋落の東弁と揶揄されるなど東京三会の入会者数に反映され始めているが、それが次第にハッキリして行くだろう。

 そうした構造変化が曲がりなりにも何故受け容れられたのか、改めて不思議な気がする。昔々の大学紛争では、後から来る学生の授業料値上げでも大騒動になった。給費生の後輩達はこれから給与どころか、高額の授業料を負担して決められた時間と過程を踏まなければならない。猛烈勉強でショートカットすることも出来ない。先輩諸氏は後輩に対するこれだけの不利益を何故に黙過するのか。この疑問に対しては、研修所とロースクールとは違う、資格は本人の為にあるのではない、特権ではないのだからとか言い返されることになる。然し、迂闊にそんなことを言うと、だったら先輩諸氏は給与を返せと言われかねないのだが、いずれにしてもそれらは根幹的なことではあるまい。根本は、弁護士資格が最早、或いは既に給費で二年〜一年半も掛ける公益性を失い私益に転化することの自認になることにあるのであろう。資格が私益に転化し、どころか、多額の私費負担をしてでも易しく且つ見通しが立つなら予備校より尚良い、と云う受験生本人と、父母・大学のPTAサイドの歓迎気分がなければ、すんなりそうはならなかったであろう。元々合格者より志願者の方が圧倒的に多かったのだから、綱引きの勢いに任せれば勝敗は始めからハッキリしていたことでもある。そんな訳でこれから先は、入り口より出口とそれ以降の、規模を大きくしての騒動に直面することになる。

2、然し、弁護士資格がそう迄して尚欲しいようなものであり続けれるかどうか、間もなく疑わしくなって来る。業内競争の激化に加え、他士業の参入あり、企業化ありだからである。それでも尚ライセンス志向が止まらないというのは、社会全体での少子化高学歴個人主義の浸透、安定社会での資格世襲期待、企業・組織はこれから先アテにならないと云う気分、そして就職差別の悩みが解消しない女性志願者の増加と云った事情があるからだろう。少子化した何処の家庭でも、子女にはライセンス武装をさせてあげたいという願望があり、またそれを可能とするバックアップ態勢がある。殊に女子の場合、公務員・教職に続き、医師や諸士業は進出分野として狙い目になっている。私の通暁している棋士業でも、ウィンブルドン化している賞金プロでなくともインストラクターで十分、それなら女子プロの方が有利と云うのでそっちの志願者が増えている。然し、一般的な弁護士業務は欲念・情念が絡んでドロドロした葛藤紛争事を避けて通れず、そうした場面に彼等がどの程度適合出来るかは問題なのであるが、送り出す側は取り敢えずそうした事情には関知しない。そんな成り行きもあって世襲・女性化が進んだ業界が、総体として魅力ある分野であり続けれるかどうかは分からない。概して収入が低下するだろうし、昇進と云うことのない自営・自由業界では、従来型のサラリーマンの方が気が利いてもいるからである。

 また、人口増に対する歯止めのなさについて公然とは言いにくいことであるが、難易度の高いライセンス業全般に対する一般の人達の屈折した反発もある。そこから来る野次馬気分は、水増し士族の脱線による利用者被害が顕在化する迄続いてしまうであろう。医師界を見ているとそう思える。加えて社会生活上の医師とされるこちらは、あちらと違い請求書を書きまくるだけでなく、同時に用心棒先生として加害的立場でも行動してしまう。アメリカや戦前のわが国での通弊であったこの傾向が顕在化するのは、業界人口がどれ位になる頃からであろうか。

【法曹一元への道】

1、その未来は明るいと折に触れて私が強調するのは、大増員による弁護士資格の有り難味の低下と、従来型直接方式による任官者の極端なエリート化の歪みが耐え難いものになろうからである。上澄みエリート扱いの若年判事補の弊害が顕在化し、他方で弁護士の方にもソリシタ程度では不満で、一級弁護士の存在証明としてのバリスタ願望が強まる。かくして弁護士の事実上の二元化の進行の中で、上層バリスタ弁護士中心の法曹一元が達成されるのである。今現在は弁護士任官の一層の推進が大きな問題になっている。だけれどもそれは当面の策としての意義しかなくて、そのうちグレイドアップを求める任官希望者の交通整理に苦労するようになろう。その時、先発キャリア諸君が何処迄「敗者復活戦」を許容するかは一個の問題なのだが、事態はそんなことを言ってる場合ではないものになるだろう。今はまだ、評判の良くない判検交流と、ヤメ判・ヤメ検の概ね官から弁への一方通行の交流は、早晩、ブーメラン型の交流になるだろう。その限りで、弁護士大増員から斬り込んだ中坊氏や審議会の目論見は当たっていたのである。この達成のため中坊氏は公共への奉仕義務を強調していたが、私益的性格を強めるこれからの弁護士にそれを強調するとは妙なものである。また、希望者発掘に四苦八苦している今は、任官期待・就任権を認めたくないと云う自民党筋の指摘も当面ミスマッチではある。然しそれも、今とこれからでは弁護士が別のものになると考えれば、何となく符節が合ってしまう。

2、そんな訳でこの分野の問題は、流れが変わる迄の繋ぎをどうするかと云うことになる。裁判官の定年を延長し、役職止めをして、前・元の所長・総括に支部や簡裁の名物・OBサミット型判事になって貰うのもいいし、事情で退官したヤメ判の方々に、熟年期入りして家族や昇進のプレッシャーから解放されて気分的に身軽になった今頃、もう一遍戻ってキャリア諸君をシュンとさせて貰うのもいい。弁護士会の元役員諸君には特例名簿で優先志願義務を課すのでもいいし、殊に会長経験者には今更派閥の選対本部長なんて言わないで、ミニ大岡越前になったら如何ですかと言いたいところである。また、どの途繋ぎなのだから、〇年後を期しての判事補採用の打ち止め宣言のためなら、ある期間の駆け込み余分新任採用も有り得る手法だと思っている。ともあれこの分野では、「役所に強い○○弁護士団・○○事務所」などと、先行き新たな「判弁癒着」などとならないよう、様々な事務所・弁護士の任官、そして判事補預かりの実績を作りたいところである。この取り組みは勿論、結構の難物である。意見書によれば出向程度かも知れない他職経験の判事補諸君に何処まで開放的になれるか、開放してわれわれ自身が何処まで体制化してしまうのか。さりとてそれを受容出来なければ制度の未来が開けないとか、そもそもそれ位の器量のない事務所への社会的評価・信用度はどうなるのか、これも悩ましい。そうした悩ましさは棚上げして取り組むしかなさそうな情勢ではある。ちなみに弁護士二元化現象の変移にも色々ある。経済的には旺盛な現実家であるソリシタに裕福な人が多いというし、仕事をくれるソリシタの支持がなければ法廷弁護士は立ち行かないとも言われている。また欧州ではこちらとは位相がずれていて、概して資格の統合一本化が進んでいる。然しこの国の弁護士二元化のことは、人口とレベル維持の二兎を追う限り最初から避け難い問題ではあったのである。

(上・中・下に分けて掲載致します)


三光作戦・北坦村事件についての
研究調査活動の呼びかけ

東京支部  田 中   隆
        南   典 男

【三光作戦と北坦村事件】

 一九四二年五月二七日、北京市西南およそ二〇〇キロにある河北省定県(現在の定州市)北坦(ホクタン)村で、日本軍が毒ガスを使ってひとつの村ごと住民を虐殺した事件が発生した。
 華北一円の根拠地に拠った抗日勢力の反抗に業を煮やした日本軍が展開した掃蕩作戦の一環であり、日本側戦史では、「急襲的包囲作戦を実施してその根拠を覆滅する」ことを方針とする冀中作戦として記録されている(戦史業書「北支那治安戦(2)」)。作戦命令を受けた第一一〇師団第一六三連隊が北坦村を急襲し、地下壕に逃げ込んだ村人に携行した毒ガス兵器(「赤筒」「緑筒」)を用いて殲滅を図った。かくして虐殺された村人は約一、〇〇〇名、老若男女を問わず乳幼児も例外ではなかった。生き残った村人は連行されて強制労働に従事させられ、村の家屋は焼き払われた。
 これが北坦村事件の概要であり、まさしく三光作戦(焼光・殺光・掠光)そのものである。
 終戦後、瀋陽で軍事裁判を受けた当時の第一六三連隊長は、毒ガスを用いた虐殺の事実を認め、禁錮一八年の刑を受けている。また、中国では、北坦村事件は日本の侵略と三光作戦の典型的な事件として理解され、毎年四月五日の清明節には青少年三〇〇〇人が参加する追悼集会が行われている。
 他方、北坦村事件に関係した部隊の戦史には、「発煙筒の投下を下命した」こと、「ことごとく殲滅し多数の鹵獲品を得た」ことなどが生々しく記載され、掃蕩・殲滅が華々しい「戦果」であるかのように表現されている。侵略戦争に抵抗する住民の殲滅をはかった三光作戦への真摯な反省は、ここには全く見ることができない。

【戦争責任とネオナショナリズムと】

 「北京郊外の盧溝橋で演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝には、中国の国民党軍との間で戦闘状態になった。現地解決がはかられたが、やがて日本側も大規模な派兵を命じ、国民党政府もただちに動員令を発した。以後、八年にわたって日中戦争が継続した」(二七〇頁)
 「中国大陸での戦争は泥沼化し、いつ果てるとも知れなかった。国民党と手を結んだ中国共産党は、政権を奪う戦略として、日本との戦争の長期化を方針にしていた。日本も戦争目的を見失い、和平よりも戦争継続の方針が優位を占めて、際限のない戦争に入っていった」(二七一頁)
 これが「新しい歴史教科書」(市販本)が描く日中戦争であり、ここには中国全土に戦争の惨禍をおよぼした侵略戦争への責任の自覚など片鱗もない。これが村そのものを殲滅したことを「戦果」と描く部隊戦史と同質の歴史認識・戦争認識であることは言うまでもない。
 ネオ・ナショナリズムが台頭し、この国を再び「戦争をする国」に向かわせようとする策動が強まるいま、侵略戦争の事実を白日のもとに明らかにし、事実と良識によって検証することは、喫緊の課題と言えるだろう。

【研究調査活動へのご参加を】

 戦後補償弁護団の活動のなかから、三光作戦・北坦村事件についての調査・告発の課題が提起され、研究調査活動を行おうということになりました。三光作戦については「毒ガス研究会」等の貴重な研究成果が蓄積されていますが、法律家や歴史家などの調査・研究はこれからという状況です。
 よって、「三光作戦・北坦村事件調査団準備会」(仮称)を立ち上げ、研究と訪中調査を行うことにしました。

 さしあたり以下の方向を考えています。

 九月二八日から一〇月二日まで  訪中調査  北坦村事件生存者からの聞き取りや中国研究者との懇談等
 〇二年の清明節までに調査報告書をまとめて発表し、あわせて政府要請等を行う。

 研究調査は団内外の弁護士と研究者の共同で行うことになります。つい先日訪中した戦後補償弁護団の小野寺利孝弁護士が中国側と協議し、北坦村事件の訪中調査について中国側で積極的な受け入れ体制が取られることが確認されています。
 「つくる会」教科書などによる歴史の歪曲を許さず、憲法改悪をねらうネオ・ナショナリズムを克服するためにも重要な意味を持つ活動と思いますので、団員各位のご参加とご協力をお願いします。
 準備会の打合せ会合を以下の日程で行いますので、ご出席下さい。
  六月二六日 午後一時〜三時 於・弁護士会館(東弁508C)。
 連絡・問い合わせ先(団関係)

田中 隆  北千住法律事務所
南 典男  都民中央法律事務所
(二〇〇一年 六月八日脱稿)


書 評

安倍晴彦著「犬になれなかった裁判官」

−司法の病理を知る絶好の本として推奨する−

東京支部  鶴 見 祐 策

 ある地方選挙で七軒の戸別訪問をした候補者が起訴された。「貧乏人はどうやって選挙をするのか」と反問した被告人に、裁判官は無罪を言い渡した。これが、日本で最初の公選法違憲判決となった。戸別訪問の一律禁止が憲法(表現の自由)に違反するとの見解が、学界の通説であったと言ってよい。ところが最高裁は昭和二五年大法廷判決以来これを合憲としてきた。これに異議を唱えたこの簡裁判決は高い評価を得たが、このリアクションは尋常ではなかった。ある最高裁判事は「簡裁が最高裁の判断を覆すとは」と激怒したと伝えられる(私自身も七二年ごろ、ある記者から聞いたことだが、当時の最高裁長官が非公式に各社の記者を集めた席で「オフレコ」と断りながら判決文を示して「こういう判決をする者がいる」と非難したことがあったという。おそらくこの違憲判決と思われる。ただし報道されなかった)。
 当の安倍裁判官は、憲法の平和と民主主義の擁護発展を願って結成された青法協の会員でもあった。そのころ多数の裁判官がその趣旨に共鳴して加盟していた。折しも財界・自民党筋から「裁判所が偏向」との攻撃が始まった。これに即応して最高裁当局が、各裁判官に青法協の脱会を執拗に迫り、いわゆる「司法反動」の嵐が吹き荒れる事態となった。多くの裁判官が難を恐れて脱会した。しかし良心と憲法に忠実な裁判官は残った。当局は再任拒否(事実上のクビ)でこれに応報した。七一年の「宮本裁判官再任拒否」である。 翌七二年、安倍さんに矛先が向けられることが不可避と見られたが、圧倒的な世論の批判を前に当局はこれの断念を余儀なくされた。 その渦中にあった裁判官による貴重な証言がこの本である。筆致は淡々としていながら、理不尽極まる青法協攻撃と権力による裁判官統制の凄まじさが犇々と伝わってくる。とりわけおぞましいのは再任後に安倍さんを襲った陰湿で報復的な処遇であろう。職務、任地、給与など人事権を介した徹底的な差別を受けるのである。並の神経ではもたない。これに三六年間を耐え得たのは、強固な意志と信念の裏打があったからに相違ない。希望の職務はすべて外された。もっぱら家裁と支部とを転々とした。給与は据え置かれて同期と比べて大きな格差を強いられた。若い裁判官や修習性との接触の機会を絶たれた。差別は誰の目にも不合理だった。そうであればあるほど威嚇力は増すのである。他の者はそれを見ている。彼らは上の意向には絶対に逆らえないと思い知らされる。それまでの親密な関係を絶とうとする。会えば避けるようになる。近づくと迷惑そうにする。やがて存在すら無視する。自分は違うと立場を誇示する。そして奴隷に身を落とす。これによって権力者の支配が組織全体を貫徹するのである。裁判官に対する統制もこれと変わらない。企業内の思想差別が問題にされるが、それと同類の手法が裁判所でも行われていることに慄然たらざるを得ない。具体的な事件を前にして自己の見識を試そうとせず、ひたすら最高裁に類似の先例を探して、それから一歩も出ない論理の組み立てに汲々とする裁判官像が浮かびあがる。こんな環境で違憲判決がうまれるはずがない。それとあわせて他人に対する不当な身近な差別を見て見ぬふりをする裁判官が、はたして現代の差別裁判を公正に裁けるのだろうかと思わざるを得ないのである。
 この本は、筆者の資質と能力を評価して陰ながら支援してくれた先輩や同僚の裁判官たちの存在にも触れている。さらに最近の裁判官ネットワークのような新たな動きにも温かい期待の目を向けている。裁判の実務を通じて体得した教訓や工夫による提言なども貴重である。部外者には裁判の実情を知るうえで興味つきない。その点でも様々なことを教えてくれる。自らの体験をふまえて「判事補制度」によって培われる「官僚裁判官」の弊害と限界、弁護士経験者から登用する「法曹一元」の徹底を強く提唱している点は、司法改革をめぐって熱い論議が交わされている現段階において、とりわけ重要な指摘であろう。裁判官統制の要となっている最高裁事務総局の解体なしに日本の司法の「改革」はあり得ない。法曹一元の土壌は育たない。そのことを痛感させられる。
 安倍さんは各地の「国民のための司法改革」の運動に積極的に取組んでおられる。東京の「裁判所を変えよう4・4集会」パネルディスカッションで裁判官統制の実態を報告されたことは記憶に新しい。
 経済界や国際資本の要求に基づく「改革」か、権利の救済を求める国民のための「司法」の構築かが問われているこの時期に、まさに日本の裁判の実相を知るに適した本として広く読まれることを願わずにいられない。

(NHK出版社、頒価一五〇〇円)


自由法曹団創立記念日の周辺 そのD

赤旗社会部  阿 部 芳 郎

 自由法曹団の創立前後に定期発行されていた小冊子「法治國」に、興味深いコラムが掲載されていることを知った。この冊子は、団の創立時、メンバーに加わった主だった弁護士が所属する東京法律事務所(現在、四谷にある東京法律事務所とは無関係)が刊行していたものだ。かつて同事務所に所属した田坂貞雄弁護士の遺族から数年前、団に寄贈されたものだという。
 コラムは団創立に加わった吉田三市郎弁護士が執筆したもので、「玉石同架」という題の一三〇〇字余の文章だ。
 それによると、「一九二一年九月の初め」、東京の弁護士が神戸の造船所の労働争議に行った。吉田氏は、旅行から帰って神戸行き勧誘のはがきを見たけれど、その時はもう間に合わなかったという。
 それから、神戸や東京でこの問題での演説会が開かれ、新聞に大きな見出しで盛んに書かれた。「この勢いに乗じてというわけでもあるまいが、東京の弁護士が集まって、主として労働争議の人権問題などを取り扱うための団体を拵えようというので、弁護士会館に発起人会が開かれた」と述べている。
 「玉石同架」という四字熟語は、古語辞典にも見当たらないが、「玉石混淆」と同じと考えていいだろう。よいものと、くだらないものが同じ棚(同架)に入り混じっているーという意味だ。つまり吉田氏は、当初、この「団体」をつくろうと集まった弁護士の考え方、思想はさまざまであることを述べた上で、最後に「うまく行けばいいが」と期待の言葉で結んでいる。冊子の発行日は「大正一〇年一〇月一日」、文の末尾に「二一・九・二五」と執筆した日付がある。この人は、当時から年号を西暦で書いていたことが想像される。
 文中に「団体を拵えよう」とはあるが、何の団体か肝心の名称を具体的にしていない。だが前後の文章から見て、おそらく自由法曹団のことだろう。そこで、上田誠吉弁護士を訪ね、判断を求めることにした。上田さんは持参したコピーに目を通すと、「これは自由法曹団のことを書いたものに間違いないです。神戸の川崎、三菱両造船所の労働争議に触れていること、その時期などから見て、団以外に考えられません」と断言した。「ただし、文の冒頭にある『九月の初め』というのは、神戸の争議に調査に行った時期から判断しておかしい。『八月の初め』の間違いでしょう」と上田さんは語った。
 上田さんは、団創立六〇周年記念の時、雑誌「前衛」(一九八一年一二月号)に論文を寄稿、団発行のブックレット「自由と人権のために」に再録されている。その中で上田さんは、「少壮弁護士」グループが参加者を募り、一九二一年八月一〇日に一四人が神戸に出かけ、現地調査、演説会などを行い、八月一五日に帰京、「神戸人権蹂躙調査報告書」を発表。「これから頻発するであろう労働者、農民にたいする人権じゅうりん事件に対処するための弁護士側の態勢をととのえるために、自由法曹団を結成した」ことを紹介している。(つづく)