<<目次へ 団通信1026号(07月11日)

「つくる会」公民教科書 団意見書発表

−あきれた記者会見−

教科書問題緊急プロジェクト責任者  松 井 繁 明

 「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」といいます)が、中学校の歴史教科書と、公民教科書をつくりました。教科書検定では、多くの「検定意見」が出たのですが、これを全部受け入れ教科書採択の段階に入っています。「つくる会」では、それでも自分たちの主張は通ったと言っています。
 この教科書を批判するために、六月一六日の常任幹事会討議を経て、このたび団の意見書をつくって、各支部に発送しました。
 マスコミに向けては、六月二七日文部科学省記者クラブで記者会見を行いました。
 これまで、歴史教科書に注目が集まっていたのですが、公民教科書もこれに劣らず、ある意味ではこれ以上に子どもにとって危険な教科書であることを強調しました。記者会見では、「つくる会」が思想的な目標を持って、これを教科書に託していること、それが戦後民主主義の否定と憲法改悪に子どもを導くことであることをのべ、具体的に問題箇所の指摘をしました。
 法律家団体の責務として「つくる会」公民教科書についての見解を手短にまとめたのですが、これを直ちに運用し、教育委員会に届け、また、「つくる会」教科書不採択に取り組んでいる多くの団体個人に広めることが重要になっています。各地、各支部、各事務所での活用を呼びかけます。また、団のホームページに掲載しました。自由にダウンロードして活用してください。支部用に編集し直していただいても構いません。
 ところで、記者会見会場で困った問題がありました。日の丸が堂々と掲揚してあるのです。これをどうするかで大激論、幹事社は「ルールだから守ってください。」こちらは、「マスコミは文部省から押しつけられたルールに服従するのか。」といった具合です。結局場所を移して記者休憩室で会見続行という「示談」になりましたが、あまりに弱腰な記者クラブのあり方に「さむい思い」を禁じ得ませんでした。逆に言えば文部科学省のなみなみならぬ姿勢がこんなところに表れているということなのでしょうか。「気持ちの引き締まる」記者会見でありました。


聖パウロ学園事件の完全勝利和解

滋賀支部  玉 木 昌 美

一、事件の概要

 聖パウロ学園は、キリスト教精神に基づく中・高一貫教育等を目的とする光泉中学・高校を経営しており、平成五年三月三一日付で暮石先生(専任講師)に対し解雇を通告したのをきっかけに三年間で合計五名の先生(一名は教諭、四名は専任講師)の解雇事件が発生した。これまで一六回の司法判断がなされ、いずれも申立てや請求が認容されたが、最高裁で勝訴が確定しても再度の解雇等があり、職場復帰ができないまま最初の解雇事件から八年余りが経過した。
 この事件では訴訟で勝っても勝っても職場復帰ができずいっこうに解決しないという点で労働事件における司法の紛争解決機能が大きく問われていた。本年の五月集会の特別報告集で「一六戦一六勝の聖パウロ学園事件」として報告した事件である。
このほど、原告団・弁護団の奮闘、守る会等の支援運動が大きく盛り上がる中、本年六月二六日付で和解が成立し、四名全員の職場復帰を認める完全勝利和解を勝ち取った。

二、和解内容

 その和解内容は以下のとおりである。  まず、第一に学園側は四名全員の職場復帰を認めたことである。それに当たり、学園は協定書第一条において「組合と組合員に対して、心身両面に甚大な被害を及ぼしたことを深く謝罪」した。そして、学園はこれまで一六回にわたり司法判断を無視してきたことについても「大津地裁、大阪高裁、最高裁の判断を尊重し、組合と組合員について行った解雇を含む処分を全て撤回して取り消す。」とした。ここにおいては、学園側がこれまでの誤りを全面的に認めるという本件和解解決の基本的な性格が端的に示されている。
 尚、具体的には先生たちは本年七月から職場復帰する予定であり、一定の研修を経て、遅くとも九月には教壇に復帰することになっている。
 次に、学園は、各組合員について、「組合員各人の解雇日に遡及してそれぞれの地位を回復し、現在に至るまでの給料・期末手当について支給額との差額を支払う。」とした。ここにおいて特徴的であるのは、四名中三名の専任講師の給料計算については、専任講師の等級ではなく、教諭と同一の条件の給料表二級を適用することにしたことである。これも画期的なことである。
 第三に、学園は、組合に対して、慰謝料・訴訟費用等の解決金を支払うこととなった。その金額は前記給料等の差額調整金とあわせ合計七〇〇〇万円である。
 第四に、学園は組合活動敵視の姿勢を改め、「学園の組合の正常な組合活動については、これを保障する。」とし、「学園と組合は、組合活動に関する組合の要望事項については、相互の信頼関係を深める中で協議して決める。」とした。その中で、具体的な活動についても別途確認がなされることになった。

三、闘いを振り返って

 これまでの八年余りにわたる闘いを振り返れば、次々と裁判に勝訴し、それが確定してもなお職場復帰ができず、さらなる闘いを強いられた。そうした中、学園の労務担当職員による組合弾圧が横行し、訴訟の当事者以外の組合員たちが次々とつぶされ、組合を脱退する、あるいは学校を退職するという事態も発生した。また、五名の先生のうち一名(専任講師、女性)は、再度の解雇を受けた後、これ以上闘いを継続することはできないとの理由でその解雇を撤回させたうえで依願退職した。
 こうした困難がある中で、当事者、弁護団、守る会が私教連等の支援も得て「学園のこのような人権侵害を断じて許すことはできない。」と団結し粘り強く闘ってきたことが今回のすばらしい解決に結びついた。聖パウロ学園の建学の精神は「愛と正義と責任ある自由」である。今後、聖パウロ学園がその精神にふさわしい学校として、また、そこで学ぶ生徒たち、教職員たちが本当に大切にされる学校として再出発するのを見守りたい。


NLGアリゾナ総会とロー・スクール調査の旅

         幹事長  篠 原 義 仁
国際問題委員会委員長 菅 野 昭 夫

一 自由法曹団は、本年もアメリカの進歩的法律家の団体であるナショナル・ロイヤーズ・ギルド(NLG)の総会に代表団を派遣する事にしています。
 本年の総会では、えひめ丸事件についての分科会をセットする準備が、弁護団、ピーター・アーリンダー教授、NLG間の協議により行われています。
 総会は、アリゾナ州ツーソン市で開催されますが、メキシコ国境近くの雄大な大サボテンの砂漠と西部劇でおなじみの白い建物の町並みが、私たちを待っています。近くのサグアロ国立公園でこの大自然を満喫する予定です。
 また、この機会に、ロー・スクール調査を実施します。調査の目的は、アメリカにおいて、NLGなどの進歩的法律家が「民衆の弁護士」を育成するためにどのような取り組みを行っているか、社会的弱者のための活動の重要性を認識させるためにロー・スクールのカリキュラムや教育内容にどのような工夫が施されているかなどを、NLGの会員が教官をしている複数のロー・スクールを訪問して調査するとともに、毎年総会に沢山集まってくる全米のロー・スクールの学生と教官のNLG会員とセミナーを持ち、どのように「民衆の弁護士」を育成するかを討論します。

二 日程は以下のとおりです。

一〇月 八日 成田及び関西空港から出発
       同日ロス・アンゼルス着
一〇月 九日 ロス・アンゼルスでロー・スクール( 二校を折衝中)訪問
一〇月一〇日 ロス・アンゼルスからツーソンへ移動
一〇月一一日〜一三日 ツーソン滞在
      1 アリゾナ大学ロー・スクール訪問
      2 NLG総会で、ロー・スクールの学生と教官の総会参加者とセミナー
      3 NLG総会でえひめ丸事件についての集会参加
      4 サグアロ国立公園観光(一日)
一〇月一四日 ツーソンからロス・アンゼルス経由で帰国
一〇月一五日 成田及び関西空港着
 なお、参加費用は例年どおり、きわめて経済的な水準になると思います。

三 以上の企画を前提に、多数の団員、事務局員、家族の方々の参加を呼びかけます。
 総会会場のホテルの予約締め切りが九月一〇日と指定されているため、参加ご希望の方は、八月三一日までに団本部にフアックスなどにより申し込まれるようお願いします。


第二回米国司法調査の旅のお誘い

−ナショナル・ロイヤーズ・ギルド総会の参加を兼ねて−

国際問題委員会  鈴 木 亜 英

 司法審の最終報告が出され、ロースクール制度の導入が現実のものとなってきました。どんなロースクールが作られるのか、法曹関係者の関心と興味のひとつがいまここにあります。私たち団員にとっても、この制度の下で、民衆の弁護士≠いかに育てるかは切実でしかも重要な問題です。団員が新しく作られるロースクールに様々なかたちで関与してゆくことが求められている今日、その関わり方を探る必要があります。
 今年の一〇月一〇日〜一五日、ナショナル・ロイヤーズ・ギルド(NLG)の総会がアリゾナ州ツーソンで開かれるのを機会に、私たちはこの総会に参加しながら、同時にロースクールの先輩国であるアメリカの司法制度を法曹養成の面から調査してみようということになりました。
 昨年はマサチューセッツ州ボストンで陪審法廷を見ながら、陪審制度の話を関係者から伺い、なかなか良い調査ができました。今年はその第二弾ということになります。
 日程は一〇月八日(月曜日・休日)から同月一五日(月曜日)の八日間とし、ロサンゼルス・サンディエゴ経由でツーソンに入ります。(1)ロサンゼルス・サンディエゴでNLGの会員が教授として活躍しているロースクールを訪ね、学生たちとも交流する、(2)NLGの総会に参加したロースクールの教授や学生たちとセミナーを持ち、いかにして民衆の弁護士≠スらんとするかを語り合う、そんな企画です。
 NLG総会のオープニングセレモニーに出席し、メジャーパネルやワークショップにも顔を出して見ませんか。今年は「国境を越えてー不法な権力への挑戦」がテーマです。えひめ丸事件の六・八東京集会で確認されたアメリカの世論にも訴えようという方針を具体化するうえでも、えひめ丸事件の真相究明とそのための国際連帯を求める呼びかけは是非必要です。私たちはこの問題をNLG総会に持ち込み、訴えてこようと考えています。
 アリゾナといえば、砂漠に生えた大きなサボテンの間をカウボーイを乗せた馬がゆく、そんな絵柄を想像します。観光の日も入れます。なかなか行けないところなので、是非そんな光景を目の当たりにしたいと思われる方もこの旅に参加してみませんか。
 費用や日程はいま調整中ですが、格安切符を利用しますので、あっと驚く安さにしたいと心がけています。
 スケジュール及び内容についての詳細が具体化してから再度団通信にておしらせしますが、ご参加いただける方は、いますぐ「アリゾナに行きます」と書いて団本部にFAXしてください。


高知五月集会の感想

寄稿 教育分科会に講師で参加して

伊野商業高校  井 上 圭 介

 開かれた学校作りーこの言葉からいろいろなイメージが生まれ様々なことが取り組まれました。そのような中で私たちはこの取り組みは、「生徒に開く」ことだと最初から考えました。では、「具体的には何をすることなのか」といろいろ議論しその結論としてシンプルに考え何を学習したいのかは、学習する本人に尋ねることが一番良いだろう、ということになりました。少々心配な点もありましたが、案ずるよりということで生徒たちは次々と自分たちの希望を語りました。なんだか教育の原点を思い起こさせてもらったような気持ちです。そんな生徒たちの熱い思いを皆様に伝えたいと思ってお話させていただきました。どのくらいお伝えできたか心配でしたが参加された皆様に感謝しています。確かに会場で出されたご意見のように小学校の校区の自由化について、公教育という観点と我が子の教育ということの葛藤など困難なことはたくさんありますが、生徒、保護者やこの集会に参加された自由法曹団の皆様さらに教育改革に思いを寄せる人々と力を合わせて頑張りたい思っています。


五月集会に参加して

福岡支部  安 部 千 春

1、あれは何年前のことだったろうか。日栄の被害者の依頼を受け、日栄に対して取引明細を明らかにするようにという内容証明郵便を出した直後だった。日栄の担当者から「借りたものは返せ。」という電話がかかってきた。私は、「借りたものは返すが、あなたの所は高利を取っている。利息制限法によって計算をし直し、残額を返します。」と回答するが、日栄は「借りたものは返せ。」と怒鳴るだけである。何度も同じ話を繰り返すだけなので「来客中なので電話を切ります。」と、電話を切ると、「何で話の途中で電話を切るのか。」と電話をかけてくる。日栄からの電話は直ちに切るように事務局に指示をするが、日栄はしつこく電話をかけてくる。これでは普通の市民は到底持ちこたえることはできないであろうと想像できる。日栄は「あんたみたいに話の分からない弁護士はいない。」というので「あんたんとこみたいにしつこい金融はいない。」と怒鳴り返す。

2、日栄・商工弁護団の奮闘により、やっとマスコミが取り上げ、「腎臓を売れ」の話が話題になった。
 ある日、日本信用保証の課長がやって来て、「先生には大変失礼なことをしました。今後は資料は出します。利息制限法で計算をし、残額について一五%の利息はつけますが、六〇回までなら和解に応じます。先生は七件ありますので、今日は資料を持ってきました。」その後、何回かの交渉で全部和解し解決した。

3、田舎では高名な私を頼って県内外からも被害者がやって来た。その地域の自由法曹団の事務所に行くように指導するも、既に行ったけど依頼を受けてはもらえなかったという。私は、「裁判所は庶民の味方ではありません。庶民の気持ちは分かりません。限度額が四〇〇万円という書類に印鑑を押した以上、形式的に判断してしまうのです。けれども、全国的にはあなたのように納得できない人と闘う弁護士がいて、今いくつかの裁判所で、日栄や商工ファンドを負けさせた判決が出ています。大変難しい事件ですが、一緒に闘いましょう。」と受任をする。
 日栄に取引明細を出せと内容証明を出す。すると、日栄から資料を送付してきた。その上で、限度額に固執しない和解書を提出してくる。あの話にならない日栄の担当者は会社を辞め、話の分かる担当者に変わっていた。何回かの交渉で示談が成立した。

4、平成一一年秋、日栄は突然これまでの手形の切り替えをやめ、手形を満額支払うように言ってきた。これまではすでに手形は不渡りになったケースであったが、今度は手形が生きていた。直ちに取引明細書を出せと内容証明郵便を送るが、私が何をしようとしているかわかっているので、日栄は明細書をなかなか出さない。近畿財務局や日栄の本社に激しく電話をしてやっと資料を出させる。サラ金計算でやってみると過払いである。日栄に過払いと電話をするも、こっちの計算だと二七〇万円だと譲らない。一〇〇万円出すから和解しようというが応じない。ここはもはや仮処分しかない。日弁の消費者ニュースで読んだ静岡の弁護士に電話をする。すぐに仮処分申請書を送ってきてくれた。直ちに仮処分申立をし、仮処分決定を得た。次は強制執行である。日栄・商工ファンド弁護団の牧野聡事務局長に電話をする。快く京都本社の強制執行を引き受けてくれた。

5、サンマロが倒産した。平成一三年四月、手形が生きている人が五二期の東敦子弁護士に相談に来た。私は東弁護士に仮処分申立書を渡したが、東弁護士は日本信用保証に電話をして交渉し、一〇万円を支払うことで二件示談を成立させた。当初、日本信用保証は五〇万円といってきたので、私が応じたら、とアドバイスをしていた。東弁護士は「五〇万円は高い。」と頑張って一〇万円で和解した。私が「すごいね。」と激励すると、「私の力じゃなくて、これまで闘ってきた日栄・商工弁護団のおかげです。」と笑った。
 私のところにも二件依頼があった。手形の満期まで一週間しかなかった。ファックスで取引明細書を要求すると翌日には送ってきた。そして、日本信用保証は二〇万円というので直ちに私は応じた。あの「仮処分決定は出るだろうか。」「保証金はこっちのいうことを裁判所は聞いてくれるだろうか。」「手形は日栄本社になく、すでに銀行に渡っている。仮処分は執行不能なのに本当に手形の不渡りはまぬがれるのだろうか。」と心配していた時のことを思うと、解決金二〇万円は安かった。
 最高裁判所の判決は予断を許さない。しかし、全国の依頼人と弁護士が闘う中で、大きく日栄・商工ファンドを譲歩させてきた。私は、五月集会では日栄・商工ファンドの分科会に出た。私たちは忙しい。けれども団員はこの闘いでも先頭に立たなければならない。


花岡事件とクラス・アクション

わが国の司法制度改革を考える(1)

東京支部  高 橋  融

 今日(六月二七日)のニュースは、花岡事件について東京高裁で行われた和解に対し不服な中国人被害者が、アメリカで鹿島建設を相手に訴訟提起を決めたことを伝えている。懸念したことが、現実のものになるのを見て、司法改革の動きの中で、このまま放置されそうなクラス・アクション(集団代表訴訟)の問題として取り上げて書く気になった。
 花岡事件の和解の特徴は、被害者について原告一一名の枠を越えて、一〇〇〇名弱に上る被害者全体の救済を図った点である。事件当時、被害者が五〇〇弱の死亡者を出した同事件については、五五年の歳月の間に中国に生還した人々も多くは亡くなるという時期を迎え、早急な解決が求められる中で、当事者双方の努力により被害者全体の救済を目指して妥結したものと報じられていた。私もこの点を、これまでの戦後補償運動にはなかった前進として評価していた。
 しかし、もともとこの事件は、クラス・アクションの制度がない日本での妥結であるから、今日のような事態は当然予想された。だがそれでも、和解条項上で、これが花岡事件の全体の解決を目指すものであり、控訴人以外の被害者が賠償を求めたときには、当事者がこの解決の責任を負うと定められていた。これは、他の被害者の裁判を受ける権利や訴権までを制限できないから、言ってみれば気休めにすぎなかったことも確かである。しかし、全体の解決を言う以上、被害者側も被害者側全体についての解決を目指したいと考えたに違いない。また、鹿島側も和解金の範囲で全体が解決し、二度と訴えられないという法的安定性への期待から、これを和解の重要な要素として求めていたという。このような状況は、被害者多数の事件の場合しばしば生じる問題であり、これがクラス・アクション制度を生み出し、またこれが最重点の一つである。
 このたびの司法改革では、この問題も取り上げられながら、意見書ではその理由は、「新民事訴訟法において、選定当事者の制度を拡充し、クラス・アクションに類似する機能を果たしうるように改めたところであり、選定当事者制度の運用状況を見定めつつ、将来の課題として引き続き検討とする」とされた。
 しかし、選定当事者制度には、公告の制度も集団中にありながら参加しない人への効果の拡大についての規定もないのであるから、類似とは到底言えないのである。すでに中国民事訴訟法もクラス・アクション類似の制度を導入しているのを見、わが国の司法制度を考えると、暗澹たる思いである(花岡事件の東京高裁での和解については、中国人の強制連行・強制労働事件に取り組んできた一員として、北京で論じたこともあるが、ここでは紙数の関係もありこの点について触れない)。

 東京高裁和解条項

 第5項   本件和解はいわゆる花岡事件についてすべての懸案の解決を図るものであり、控訴人らを含む受難者及びその遺族が花岡事件について全ての懸案が解決したことを確認し、今後日本国内はもとより他の国及び地域において一切の請求権を放棄することを含むものである。
 利害関係人及び控訴人らは、今後控訴人ら以外の者から被控訴人に対する補償等の請求が会った場合、第4項第5号の書面(基金より支払いを受ける際提出を求められる和解承認文書 筆者注)を提出した者であると否とを問わず、利害関係人及び控訴人らにおいて責任をもってこれを解決し、被控訴人に何らの負担をさせないことを約する。


司法は分かりやすくなるか(下)

−審議会最終意見によせて−

東京支部  坂 井 興 一

【改革を見るスタンス】

1、弁護士会内での公然たる対立として、略称司法審派と、改革審派がある。その分岐点は、国鉄改革時とも幾らか似ていて、主要打撃が弁護士・弁護士会に向けられていると見るかどうかにあることは言う迄もない。司法審派の人達は、政財官のこの国の支配的な立場の人達が、主として庶民大衆の一層の幸せを願ったり、そのために自分の身を切る筈がないと云う唯物論的仮説を前提としている。 改革審派の人達は様々で、元々が権力との緊張関係と縁がなかった人もいれば、理念・当為論を重視して、弁護士・弁護士会自体が特権・オーソリティなのだから自己規制が必要だと強調する人もいる。これはよくある、まずは隗より始めよ論であろうか。
 弁護士会内には体制・反体制、親官・反官の両方があり、然しそうは言ってもその存在価値・面目は弁護士法一条にあるのが建前だから、どちらかに一方的に軍配が上がるものでもない。今次改革の総論的なあたりについては、様々な経緯、背景事情、司馬史観批判を持ち出す迄もなく、対立すべくして対立したのであろう。私の理解する限りの自由法曹団は、元の根っこは一条派と近い筈であるが、捻れ対立し、むしろ弁護士会主流派に近いものになっている。このあたり、かっての新旧左翼、東弁期成・水曜会の対立とも似ている。尤も、従来と違って、かって新左翼・反法連が好んで口にした自己否定論らしきものを、今は主流の人達が幾らかニュアンスを変えて主張していることだろうか。私の属する東弁は日弁連を支える与党第一党であり、その東弁も総主流傾向が強まっていて、日弁連には総主流でスタッフを送り出しているから、自然に改革審派になっている。が、ことは司法全体の問題であり、会内対応はその一部でしかないから、立場の割り切りは難しくて、在籍のまま批判派に合流する人も出て来る。そうした相違も執行の権限・責任と絡んで繰り返されてしまうと、次第に刺々しさを帯びて来るのも知られる通りである。そんな紛議を減らすには、今少し理事会の構成・性格が変わった方が良さそうである。理事は殆ど小選挙区制で選ばれて来るから、恒常的に何割かある少数・批判意見を代弁する人が選ばれない。理事と云っても七一人もいれば実態は議員であり、限定された理事による会務執行用の常務理事会もある。だから各ブロックに比例区的自由議席を与えたって良さそうなものだし、それが無理なら「代議員」集会の活用や、時宜に適った会員集会の開催位はして貰いたいものだ。それは兎も角、対立的論議の中で、どっちかと言えばどっち付かずで来た私などは、議論の段階が終って実行過程に入ることにホッとしている。主張段階が終わって立証段階に入ったようなもので、議論の余地が減って、結果・結論・達成度と云った明確・具体的な指標勝負になるからである。今のところ、引っ張って来た者はその責任を、足を引っ張って来た者はそのお荷物であった責任を問われそうな緊張の中にあるが、中立派はそのどちらからも味方でなかった責任を問われるのだろう。

2、さてそこで、消耗な三様の責任論を棚上げして、事態の見方・スタンスに係わる私の指標・私観を述べると、
 今次改革は「見やすい、分かりやすいもの」になったか否かである。最終意見はその言葉を法令や判決書きの読み易さあたりの意味で記述しているが、私のはそういうものではない。人を煙に巻くようなことは勿論いけないが、専ら、問題と責任の所在が分かりやすくなるシステムかどうかと云うところにある。

イ、その視点から、私は大きな司法を是とする議論は採らない。ドカーン!と増やして、そのあとの混乱、被害はどうするの?と云う疑問があるうえ、様々なデメリットの克服責任をトコトン負うのが弁護士会であり、それをわれわれが指摘しなくて他に誰がするの?と思うからである。不利益責任当事者が何も言わずに歓迎すれば、物事はバタバタと決まるが、それではブレーキがないようなものだから、後のリアクションが大変である。

ロ、大きな司法とは過剰の司法であり、ボーダレスの司法である。小さい今で何を言うかとなりそうだが、大きさ願望はライセンス志向と利用者の選択権の問題なのであって、需要の大きさと連動するものではない。多ければ多い程結構なコンビニでさえ、色々問題が起こる。法務業の過剰被害は、売り手よりも買い手側で大きくなる。最終意見発表時のマスコミ報道を見ていると、新しい・広い・使い手も良さそうと云った塩梅で、ニューモデルハウスに見入った時の気分にさせられる。さりながら、ローン支払担当者・バブル崩壊の失われた一〇年の付添人としては、その負担・裏事情・曲折するアレコレに無頓着にはなれない。

ハ、そんな訳で、使い勝手のいい司法論も採らない。それは競争の司法であり、選り取り見取の司法であり、トヨタのカンバン方式の司法である。企業法務として組織に取り込まれ、付加価値を求めてリスク業務にのめり込む危険な司法である。弁護士業の本質が紛争解決業であり、容易く準当事者に変化してしまうものであることを軽視する訳には行かないのである。

ニ、国民・市民参加が進んだから良しとすると云うのも採らない。アリバイ証明に使われ、責任を押し付けられやすくなったただけのことが多いからである。近頃、「市民」と云う言葉も対立軸になってしまい、困ったものだと思うが、テレビや中流意識で総市民化してしまって、この言葉には以前程のキレがなくなっている。さりとて「民衆」・「勤労市民」・「働く人達」と置き換えての通用力も今ひとつである。それは措くとして、無作為市民、限定市民のいずれでもそれぞれに悩ましい問題が生じるのは、裁判員問題を見れば見当が付くところである。

3、些かくどくなってしまうが、全く次元の違うこととして、

イ、訴訟費用で幾らか押し返したからいいとの論も採らない。最終段階でせめぎ合いの焦点になったとはいえ、これで全体評価迄が違ってしまうのはどんなものか。そこでの努力は多とするが、元々それは、これなら議論で余り混乱しないで済むと云うのでクローズアップされて来たもので、目玉でも何でもなく然も単なる阻止課題である。他はまずまずだったがこれだけが、、などと言うのは如何なものかと思うのである。

ロ、そして私は、権力性悪説を強調する一条の会、或いは民衆の利益論でスパッと裁断される坂本修氏のようにスカッとしたタイプでもない。ホントは坂本氏のスカッとした議論に魅力を感じるが、弁護士会でこの手の議論を展開すると、「お説として、ご高説として承って置きます。」とかわされてしまう。裁判所用語で言う「独自の見解」であり、それは何となく口惜しいものだから、なるべくそんな風には思わない習慣になっている。

ハ、それ故、(仕方ない、こうなったら国民主権主義で判断するしかあるまい)、と思うのである。改革の善悪、当否はあなた方が判断して下さい。私が加勢出来ることは、主権者の判断を仰ぎやすくするため、事態が今迄より(見やすく分かりやすい)ものになることです。そうなったら主権者は賢明に判断して呉れるでしょう。そのためには、「見易く、話し易く、分かり易く、それ故取り上げ易く、ついでに直し易い」ものになって呉れれば、取り敢えずそれで引き下がろうと云うことになります。

ニ、と、そう云うことだと、何となく現下の小泉政権の評価ともオーバーラップして来る。ワイドショウで面白がって見ているうち、とんでもないところに連れて行かれる危険があることはその通りなのだが、その程度の観客民主主義のレベルかも知れないのではあるのだが、それでも騙されたら騙されたで、そこからの復元力を信じたいのである。

ホ、そして騙されるなら、なるべく被害の少ない平時に被害体験を済まして置きたいのである。戦前、あの奈落時に、内大臣木戸幸一は毒をもって毒を制するとばかりにとんでもない時に東条を指名した。人気の近衛とその後がファッショの東条でこの国は大変なことになったのだが、そんなことになっては後の祭りなのだが、今は軍閥興亡・大戦参戦前夜のあの頃ではない。どの途、二割司法の傍流世界のことである。私一個人としてはポストを離れての気楽な贅言であり、今更大勢には何の影響もない駄弁と知りつつ、付かず離れず、冷静に仮説・検証しながら歩き続けるしかあるまいと思うのである。(完)


《書評》

大川真郎著「豊島産業廃棄物不法投棄事件
−巨大な壁に挑んだ二五年のたたかい」

大阪支部  城 塚 健 之

 大川真郎先生が初めて本を出された。書名だけを見ると、漢字だらけで難しそうだし、公害環境問題に関心のある人ならともかく、労働争議などに関わる人には関係がないように思うかもしれないが、そんなことは決してない。
 なぜなら、これはいわば「壮大なケンカの指南書」だからである。
 ありとあらゆる争議・運動に関わる弁護士や活動家にとって、本書は、「たたかい方のヒント」が満載された、いわば「宝の山」なのである。
 大川先生は豊島事件弁護団の副団長を務めた。大阪からはるばる豊島に駆けつけた弁護団は、香川県、行政の担当者、廃棄物業者、排出事業者など、多数の関係者を相手取り(後には国も含めて)、公害調停という手続をとった。節目節目ですばやく情勢を分析し、的確な方針提起をし、次々と効果的な手を打つ弁護団と住民たち。押さえた筆致ながら、スピード感あふれるアクション映画を見ているかのような観がある。しかし相手のしぶといこと。一つ一つの山を越えても、これでもか、これでもかと、住民の苦悩は続く。
 彼らが、情勢を切り開くためにどのような切り込み方をしたか、相手方(調停委員や香川県など)の発言や対応に含まれる問題点をどのように的確に捉え、どのように反撃したか、本書では克明に記されている。
 「そこには住民に寄せる熱い連帯感と尊敬の気持ちがあり、これが長い年月の献身的な弁護活動を支えたといえよう」(本書一九五頁)。
 労働事件ではたしてここまで情勢をシビアに分析し、的確な方針を出せたことがあったろうかと私などは反省させられる。
 最後の最後まで弁護団の緊張は続く。そしてようやく迎えた感動的な大団円。しかし、ここに至るまでの六年あまりのたたかいの中で六九名の住民が亡くなっていた。さらにたたかいを支えた安枝住民会議議長との永久の別れも…。
 豊島事件というと、いつも中坊公平弁護士だけがクローズアップされる。マスコミはいつだってヒーローやカリスマを作り、持ち上げる。しかし、当たり前のことであるが、こんな壮大なたたかいが一弁護士の力でなんとかなるものではない。これはあくまで運動の勝利であり、それは多数の人々の、実に地味な、地を這うような努力の成果であり、彼らの生きた証なのである。そしてこれをまとめあげた魅力的なリーダー群がいて、法的にこれを支えた弁護団員一人一人がいた。
 大川先生はスタンドプレーはしない。もともと大川先生は、あまり自分をひけらかすようなことはしない人である。だからこの本には大川先生を主語とする記載がほとんど見あたらない。また決して他人の活躍を自分の成果であるかのような言い方はしない。他方で住民や若手弁護士の頑張る姿を紹介するのには筆を惜しまない。どのような場面で誰がどのような発言をしたか、どのような役割を果たしたかも、正確に記述してある。
 あらゆるたたかいに身を置く団員や活動家にお勧めしたい、貴重な歴史的記録である。

*日本評論社刊 一八〇〇円(税別)。書店でお求めいただくのが一番であるが、大川真郎法律事務所に直接注文も可。
 電話     (〇六)六三六一・〇三〇九
 ファクシミリ (〇六)六三六一・〇五二〇


自由法曹団創立記念日の周辺 そのF

赤旗社会部  阿 部 芳 郎

 周知のように、政府の司法制度改革審議会(会長・佐藤幸治近畿大教授)の最終意見書が今年六月一二日、内閣に提出された。一九九九年七月二七日にスタートした審議は、六三回に及んだ。世論が強く求めていた国民の司法参加は陪審制ではなく、「裁判員」制度にとどまった。
 ところで、布施辰治氏は戦前の陪審制度にタッチしている。一九三一年、思想犯取締の刑事を殺害した容疑で起訴された二人の朝鮮人青年の事件の弁護だった。『布施辰治外伝』では、布施氏の陪審制度に寄せる期待を次のように書いている。
 「世に誤判の多い官僚裁判官の判決ほど恐ろしいものはない。官僚裁判官の独断認定に骨抜き陪審法が止めをさそうとしたところで誤判が一掃されるわけではない。そもそも人間が人間を裁くことには誤判の危険がつきまとうのである。しかしその危険を避けて、陪審員諸君はぜひ陪審員としての使命を全うし無実の被告を救ってもらいたい」
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 これまで調べた文献から判明してきたことは、自由法曹団創立に至るまでに、一年八ヶ月から一〇ヶ月程度の準備期間があり、一九二一年八月の発起人会(弁護士会館)を経て、発会式(日比谷松本楼)という運びのようだ。
 確かに、一九二一年秋以降になると、「法律新聞」や大原社会問題研究所が発行した「日本労働年鑑」に、団の名前が散見されるようになる。最初に「自由法曹団決議文」として「法律新聞」(一九二一年一一月一八日付)に掲載されているのが石川島造船争議に関する決議である(そのCで紹介)。
 大原社研の「日本労働年鑑」はどうだろう。大正十二年版には、次のような記録がある。一九二二年三月八日に、横浜船渠争議で組合事務所が数百人の警官に襲われ四〇人余が検挙された。これをめぐって、自由法曹団を中心とした弁護士が実地検分し県当局、警察を追及、同夜、演説会を開いた。
 千葉の野田醤油の争議にも団の名前が見える。一九二二年七月二八日、「東京自由法曹団から、片山哲氏等来町して収監者に対する善後策を講じた」。
 同年鑑大正十三年版には、京都の奥村電機争議に関して、大阪から自由法曹団が調査に訪れたことを伝えている。この争議は一九二三年、賃金カットに抗議してストライキに立ち上がったもので、七月一六日のデモ行進に加わった労働者中、八〇人が検束されたという。自由法曹団の弁護士は翌一七日、労働者が警官の刀で乱打・負傷させられたことについて現地調査を行っている。これらを総合すると、遅くとも一九二一年秋口から団としての活動を公然と展開していたといえる。(つづく)