<<目次へ 団通信1027号(07月21日)

統一協会の伝道は思想信条の自由を侵害する

−いわゆる「青春を返せ訴訟」札幌地裁判決

北海道支部  郷 路 征 記

 統一協会の伝道が憲法の保障した思想信条の自由を侵害した違法行為であることを追及していた札幌の訴訟(いわゆる、青春を返せ訴訟)で札幌地方裁判所は、六月二九日、画期的な判決を言渡した。
 判決の特徴は以下の点にある。

憲法の思想信条の自由について

 宗教団体等の勧誘者側の権利について、被勧誘者である国民の思想信条の自由などによる内在的制約を認め、統一協会の勧誘行為が原告の思想信条の自由を侵害するおそれのある行為であったことを認めた。

統一協会の勧誘行為の手段方法について

 それが極めて組織的・体系的・目的的なものであり、その過程の一つ一つの行為の違法性については、その行為を勧誘行為全体の中に位置づけて、その違法性を判断することの必要性を強調し、原告各個人への個別的な勧誘過程において、原告らが「任意」の承諾を与えているとしても、統一協会の勧誘目的などについて知っていた場合にも承諾したであろうと認められる特段の事情のない限り、統一協会の行為の違法性を阻却することにはならないとした。

手段方法の違法性の一つ、統一協会のように勧誘に際して、宗教団体であることを隠すことの重大性について

 宗教的確信を懐くということの意味を深く分析して、素晴らしい判断をおこなった。
 「即ち、宗教的確信は、非合理的、超自然的事柄への信仰を中核とした確信であるから、後日、事実の相違等を指摘されても、自然科学的な事柄と違って、一旦真理として受け入れてしまった以上、その思想からの離脱が困難であるばかりか、被告協会のそれのように、宗教教義からの離脱を図ること自体が罪悪であるとの教義を内包している場合には、その教義そのものがそれからの離脱を阻止する心理的に強度なくびきとなって、より一層、その教義への傾倒を断ち切り難い場合が生じるものと考えられる。」 したがって、統一協会が宗教団体であることを秘匿して勧誘することは、「その者の信仰の自由に対する重大な脅威と評価すべきものということができる。」
 また、宗教上の信仰の選択など内心の自由に対して不当な影響力を与えようとすることが、強度の違法性を持つことについて、次のように判断した。
 「宗教上の信仰の選択は、単なる一時的単発的な商品の購入、サービスの享受とは異なり、その者の人生そのものに決定的かつ不可逆的な影響力を及ぼす可能性を秘めた誠に重大なものであって、そのような内心の自由に関わる重大な意思決定に不当な影響力を行使しようとする行為は、自らの生き方を主体的に追求し決定する自由を妨げるものとして、許されないといわなければならない。」
 私はこの部分を読んで、オウム事件の「加害者」達のことを思い起こさざるを得なかった。まさしく、オウムへの信仰の選択は、その人の人生に「決定的かつ不可逆的な影響力を」及ぼしたのである。
 また、私たちが、この訴訟で最も力を入れて解明してきたことは、統一協会の教育過程の具体的内容であったのだが、その目的は統一協会の教育過程が「内心の自由に関わる重大な意思決定に不当な影響力を行使しよう」として、組織的・体系的・目的的に作り上げられていることを証明することにあった。私たちがマインド・コントロールという言葉で説明しようとしたことは、この「不当な影響力」の体系のことだったのである。

勧誘目的について

 統一協会の勧誘目的について、対象者の財産の収奪と無償の労役の享受及び原告らと同種の被害者となるべき協会員の再生産という不当な目的であると断じた。
 これも重要な判示である。統一協会の活動や内容は、本件の原告らが勧誘された当時と何も変わっていないのであるが、そのことの立証に成功すれば、統一協会が現在においても、国民の財産権の侵害をひたすら目的としている違法集団であることを論証することができることになり、統一協会の商行為を防止する手だてを新しく講ずる可能性が開かれる。

統一協会が訴訟対策上、原告らへの勧誘行為の行為主体として主張した全国しあわせサークル連絡協議会について

 原告らが所属し活動していた部署について、それが、その存在自体が極めて疑わしい全国しあわせサークル連絡協議会なる任意団体であったと解することはできず、それは、副島嘉和のいう「経済局」であるか否かはさておき、統一協会の非公式な一部門に属していたか、或いは少なくともその活動が統一協会のものとして明示或いは黙示的に許容され、その実質的指揮監督の下におかれていたと認定した。このことによって、統一協会は今後その商行為や正体を隠した伝道について、信者団体がおこなっているのだと言い抜けることができなくなった。
 この裁判は、提訴以来一審の判決までに一四年の年月を要した。一四年間かけなければ勝つことは到底不可能な訴訟であった。
 社会的強者によってその人権を侵害された社会的弱者が、その権利を回復する唯一の場が司法である。その司法の場で、社会的強者の不法を社会的弱者が暴くためには、共に闘う弁護士を見いだすことと時間をかけてでも事実関係の解明を進めることの双方が必要である。
 この事件は特に、入信過程で統一協会が原告らのいろいろな意味での弱点を把握しており、入信後は違法行為に荷担させていたということが事実解明にとって重荷になった。それらの問題を原告らが総括することができていないと、その内容を原告代理人にさえ告げてくれないのである。公開の法廷で証言することにはより強い心理的抵抗があった。心を開いてもらい、信じてもらって、内心を語ってもらうためには、誰かが関わっている時間が必要だったのである。
 統一協会の教育過程について、最初に提訴したときには、「洗脳」というとらえ方だった。
 統一協会の教育過程に社会心理学でその影響力が確認されている技術が多用されていることを知り、原告らに集まってもらって勉強会を継続的に開催し、その成果をこの事件の準備書面として提出し始めたのが、平成四年の秋からである。そのようなことができるようになるには、統一協会から脱会させる取り組みが進んで、脱会者が自らの体験を語ってくれるようになったことと、私たちが統一協会の教育過程の解明のために、さまざまな学問分野を探索して、社会心理学にたどり着いたことが、結びついたからなのである。
 といっても、脱会者一人一人から個別に話を聞くのでは統一協会の教育過程を分析することはできなかった。統一協会の複雑狡知な教育過程のすべてについて一人の人が記憶をしていることはない。一人一人が自分にとって影響力があった部分を記憶しているだけなのである。したがって、統一協会の教育過程を全体として分析するには、その教育過程の一つ一つについて、たくさんの人たちの意見を聞くことが必須であった。
 この一四年間に社会環境も激変した。
 マインド・コントロールという言葉がマスコミ用語となったのは平成五年三月である(山崎浩子さんの救出と「マインド・コントロールの恐怖」の出版)。その後、統一協会の元信者がマスコミに実名で登場して統一協会の犯罪行為を具体的に暴露するようになった。オウムの諸事件が平成七年であった。これらのことで国民感情が大きく変わったのであり、それは裁判所の姿勢にも大きな影響を及ぼしていると推測される。

司法改革とこの訴訟

 現在の裁判長になった平成一一年四月からの訴訟進行は凄まじいものであった。平成一二年一年間で二三人の原告本人・証人調べを「強要」された。統一協会の側はこの裁判長の事件についての判断が統一協会にとって有利と考えた(私も当然そのように考えた)からであろう、その訴訟指揮を積極的に支持した。そのため、当方がいかに反対しても、審理スケジュールを変えさせることはできなかった。しかし、二年間の証拠調べは裁判官の認識を大きく変化させたと思うし、我々の側が審理スケジュールを一〇〇%完全にやりあげたことで、裁判官との間の信頼感を形成することもできたと思う。
 証拠調べが終わった後、三ヶ月と二〇日後に最終弁論であった。三月末に左陪席が転勤だということであり、その期日に積極的に対応した。
 一四年間の訴訟の最終準備書面作りは大変であった。ようやくのことで、約五〇万字、B五縦書きで九九九頁の最終準備書面を完成して提出した そこまでやりあげて、私の身体はバラバラになった。左肩、左腰、左膝の痛さ、重さ、易疲労性、全身的疲れ、倦怠感で仕事に集中できない状態が続いた。ストレッチなどの努力を継続した結果、最近少し良くなっているが、まだまだ回復とは言えない。
 もう一年同じペースで審理が続いていたら、絶対に病気になったろう。そして、事務所は破産したと思う。
 判決はA四横書きで、なんと五二一頁であった。判決の作成も本当に大変であったろうし、短い時間でよくぞ作り上げたものと感心している。
 司法改革審の最終意見書によれば、民事訴訟の審理期間を概ね半減することを目指して、審理計画の協議を義務づけ、審理の終期を見通した審理計画を定め、それに従って審理を実施することにするのだという。この訴訟では当初から審理の終期を見通した審理計画を立てられたなら、原告側には対応のしょうがなかったであろう。
 訴訟提起後一二年経って、一年間に二三人を調べることになったのも審理計画の「協議」の結果であった。
 これに、弁護士報酬の敗訴者負担制度が導入されていれば、この訴訟は提訴されなかったか、ごくごく低額の和解で終息させられていたことであろう。

追伸
 なお、判決要旨、最終準備書面全文は
    http://www.voicenet.co.jp/~gouro/で見ることができる。


税金裁判、高松高裁で逆転勝訴判決を得る

大阪支部  関 戸 一 考

1、はじめに

 平成一三年四月一七日、高松高裁は一審の徳島地裁判決を全面的にひっくりかえし、所得金額で総計四四〇〇万円以上の取消し、違法調査による損害賠償として一一万円の支払い国側に命ずる判決を下した。
 判決は高松国税局資料調査課の違法な調査を断罪するとともに、ずさんで誤った仕入率に基づく推計課税を全面的に取り消した点において画期的な判決といってよい。

2、事件の経過

 事件は一九八八年八月三一日まで遡る。この日、高松国税局資料調査課(略して料調という)の実査官(二名)が突然納税者宅を税務調査に訪れた。対応した奥さんの「主人のいるときに(調査を)して下さい」というのを無視して、倉庫内を調べ、さらに二度目の調査では「長期出張から早朝に帰ったばかりで体調が悪いから、期日を変更してほしい」という納税者の要望を無視して、納税者の承諾を得ないで事務室に侵入して調査を強行した。「料調」は、必要なことだけ調べると勝手に反面調査をして、間違った仕入金額による推計で三年分(一九八五〜八七年)、合計で五一〇〇万円以上の更正処分を乱発したのだった。

3、一審判決の全面的な取消を命ずる判決

 一審の徳島地裁では原告側の全面敗訴の判決が下された。税金事件の何たるかを知らない判決だった。しかし二審の高松高裁の判決は所得額で総額にして四四〇〇万余(主張の九九%)を取り消すもので、原告側のほぼ完全勝利の判決といってよい。後年度の本人比率に基づく逆推計による原告側の主張を全面的に採用し、国側の、基準年度以後の資料による推計は許されないという主張を退けたものだった。
 さらに注目すべきは、国家賠償請求事件で「料調」が原告の意思に反して二階の事務室に立ち入ったことは違法であるとし、一一万円の損害賠償を命じたことである。

4、急がれる行政事件改革

 私にとって税金裁判の久々の勝利判決であった。国は上告できず、この判決は五月二日確定した。その結果、納税者には還付加算金を含めて、四二〇〇万円以上が返還された。裁判提起から一〇年、調査から数えると一三年目の春だった。
 司法改革が叫ばれる中、やっと陽の目を見た税金裁判だ。一審判決は国税局の主張に引きずられたレベルの低い判決だったが、高裁ではある程度税金裁判の経験のある裁判官が担当したため、国税局側の論理の組立に無理があることを看取して納税者を勝たせたのだ。
 こんな苦労を強いられる税金裁判の現状を考えると、行政事件改革も急がねばならないと思う。


自由法曹団韓国訪問団報告@

 七月四日〜七日

自由法曹団韓国公式訪問について

事務局長  小 口 克 巳

1 自由法曹団は、七月四日から七日にかけて大韓民国を訪問した。訪問団団長には、石川元也団員がこれにあたり、梅田章二団員が訪問団事務局長を務めた。訪問団には菅野昭夫国際問題委員長、小口克巳事務局長を含め、総勢一八名が参加した。

2 大韓民国訪問の第一の目的は、民主社会のための弁護士集団(民弁)と交流であった。七月五日、ソウル市内において労働問題のシンポジュウムを開催し、日本と大韓民国の双方で同じように進んでいるグローバリゼーションとそのなかでの激しいリストラ攻撃について状況を交流し、今後連携してたたかう必要を確認しあった。シンポジュウムのあと懇親会、二次会とさらに懇親が深まった。

3 労働問題のほか教科書問題に話題が広がり、扶桑社の歴史、公民両教科書についてこれが日本で採択されるべきでないとの認識の一致を見たことから、共同声明を準備する作業にはいることにした。

4 訪問団は、ほかに民主労組、参与連帯(市民運動組織)との交流、板門店、日本帝国主義がつくった刑務所など精力的に訪問、視察し、大韓民国の歴史と人権闘争の現状についての理解を深めて帰国した。

5 訪問の内容については報告集で詳しい報告をする予定である。


韓国中労委訪問記

大阪支部  松 丸   正

1、中労委会長の話

 丘の上のビルの七、八階にある中央労働委員会で、五〇代とお見受けできる温厚そうな中労委会長の話を聞く。廊下には「労使共栄」の額が掲げてある。紹介してくださった民主労総の労働者側参与の方も同席する。
 韓国の労働委員会は日本と同様、不当労働行為に対する救済命令・調停等の手続をする。しかし、日本との相違点は一九八六年より個人的解雇事件もその対象にしており、九〇%(年間全国で五千件)がこの種の事件とのこと。
 中労委の公益委員の任命については、労組(民主労総、韓国労総)の組織人数の比例配分で選出されており、中労委の公益委員の選任権限は、四年前から政府から労使に移行する法改正が行われた。
 中労委の審理については、労使とも五%位の事件にしか弁護士が代理人となることはない。しかし、一〇年位前から国の資格制度として公認労務士の制度があり、使用者側は九〇%、労働者側は五〇〜六〇%が公認労務士が代理人となっている。
 審理期間は地労委が二〜三ケ月、中労委は三〜四ケ月で、中労委の審問は原則一回一時間(事前に当事者からの調査は行う)、和解率は地労委五〇〜五五%、中労委三〇%で、中労委での労働側の勝率は四〇%である。
 以上の会長の話の合間に、石川団員より日本の国労の決定・判決を説明したのち、労働問題の専門性を有する労働委員会の決定が、訴訟で取消されること(韓国でも一三%が取消されるとのことである)は、労委命令の威信にかかわることではないかとの質問(というより反対尋問に近い厳しいもの)がなされたが、法解釈の問題や事案ごとの問題・・との答弁に終わった。
 最後に訪問団の一員である菅野団員の兄弟の日本の中労委・菅野会長の話に及び、同会長も日本訪問時に会ったことがあるとのこと、短時間ながらも打ち解けた和やかな雰囲気であった。

2、中労委の審問傍聴記

 中労委は三人の公益委員並びに労使の参与各一人、並びに審査課長、審査官が立ち会い、速記には付されていない。
 事案は、マンション(韓国ではアパート)の管理組合から委託(雇用)されその補修営繕に従事していた電気工の解雇事件である(既述のとおり労働委員会の事件の多くは個人の解雇事件)。管理組合が管理会社に管理を委託するにあたり、管理会社が電気工を管理組合から承継して雇用しようとしたが、労働条件について合意に至らず、管理組合が解雇した事件。地労委は労働者側の勝利決定(勿論通訳者からの事後的説明で、審問中はさっぱりわからず)。議長の公益委員が出頭当事者を確認して、机上を槌で叩き、当事者・傍聴者を起立させたうえ、審理上の注意事項(嘘を言わない、静粛にするなど)を述べる。
 以下、発言等の内容は全く不明のため様子のみの記載となる。まずヤワラちゃんを五〇代にした感じの女性委員が一五分前後、申請人(管理組合長)と証人(管理会社社員)に尋問。真面目そうな六〇代の管理組合長は困惑した自信のない様子で必死に答弁し、これに口をはさむようにして管理会社の証人が発言する。時折、机の下では証人が申請人の発言を牽制するように膝をどついているのが見える。
 その後、鼻メガネの男性公益委員が申請人に質問するというより糾弾するような尋問。その後労使の参与から尋問。この間、殆ど二〇才台の若い電気工である被申請人側への質問は少ない。尋問は全て委員が行い、職権的に審問が行われていたが、労働者側には代理人がつくことが少ないこと、また短期に決定を下すメリットを考えるなら、これも良しと言えようか。
 最後に議長の公益委員が尋問したうえ、当事者の最終陳述を求めて予定の時刻を一五分遅れて審問終了。
 なお、審問にあたっての議長の注意のなかには、傍聴人は居眠りしないこととの事項はなかったが、しかし傍聴者のなかには「考える人」の如く固まった者もあり、議長からなぜか再三「シンチャン・スミダ・オキロ」との発問がなされた。なお、シンチャンとは訪問した団員名とは無関係であり、申請人の意味であることを注記しておく。


「JSA板門店」印象記

東京支部  鈴 木 亜 英

 「そんなぁ。私のこれサンダルじゃないよ。サンダルっていうのはつっかけのこというでしょ。これでちゃんと裁判所にも行っているんだから。今更そんなこといったって。」頬を膨らませて抗議しているのは団員の藤原真由美さん。私に向かって、「ねぇ、ミュールって知っている?つっかけサンダルのこと。あれはダメかもしれないけど、これはいいのよ。」とすがる眼差しで同意を求める。私にはサンダルとミュールの区別がわからない。服装チェックで藤原さんの紐式サンダルシューズにダメが入ったのである。結局そんな身勝手な解釈は許されず、同行の庄司捷彦さんの奥様のまじめな靴を拝借することでOKとなった。
 日韓法律家シンポ翌日の七月六日、訪韓団一行のうち、山本真一、藤原真由美、城塚健之、私の四人の団員が板門店(パンムンジョム)を訪ねることになった。外国人にしか参加させない、この板門店「観光」はこれまでこのツアーを考えついた大韓旅行社の独占事業だったらしいが、いまはほかに二社が参入し、毎年七万五千人を板門店に送り込んでいるという。しかし、なかなか面倒なツアーのようだ。旅行者に対する服装チェックは特に厳しい。Tシャツ、ジーパン、サンダル、半ズボンは不可と日本出国前にわざわざ注意があった。冒頭のシーンは出発直前のひと悶着である。
 バスのなかで、「ミニスカートや袖なしシャツは、北朝鮮側から、南は生地が足りないから、こんな短いものを着ているんだと悪宣伝されるから禁止しているんです」との説明があった。どうも眉にツバをしなくてはならないこともありそうだと心に決める。  ロッテホテルのゲストフロアーには何組もの旅行グループが合流し、大韓旅行社の大型バス二台に乗り込む。座席は指定されている。ソウル市から一路北へ向けて統一路を突っ走る。車中板門店をめぐる歴史の説明がある。一九五〇年六月二五日にはじまった朝鮮戦争の三八度線をめぐる攻防は、小学生から中学生の時期にあった私にとって、連日の新聞報道やニュース映画から、強い印象となって残っている。しかし日露戦争のとき、この板門店が攻防の要衝だったことは迂闊にも知らなかった。
 一時間半ほどでアドヴァンス基地に着く。後に述べる「板門店おの殺人事件」で犠牲者となった大尉の名をとって、いまはキャンプ「ボニファス」と呼ばれている。休戦ラインの共同警備区域(JSA)のための駐屯基地であり、南北軍事会議の準備をするらしいが、いまは仕事の半分が観光客受け入れだという。ここで、バスを降り、基地側の準備したバスに乗り換えた。韓国軍兵士が乗り込んできて、入念なパスポートチェックを受けた。  バスが動き出すとガイドさんが、これまで以上に口酸っぱく「写真撮影は絶対ダメ」と何度も念を押す。もし違反があるとガイドごとKGBの厳しい追及に遭うという。歩哨のMPや遮断機が否応なしに目に飛び込んでくる。
 いよいよ到着。小さな建物内で板門店解説のスライドを見せられ、誓約書に署名させられる。どんなことが起こっても国連軍には責任がないことを認める文書だ。国連軍の威厳を損なう服装はダメとの一行もあった。「平和の家」という建物内で整列させられ、「自由の家」という塔の上から北側の「板門閣」とそこに立つ歩哨兵をながめる。指をさすなという。この日は珍しく向こう側にも観光客が多いとガイドさんが驚く。写真でお馴染みの軍事停戦委員会の平屋の建物内に入る。外には南北の歩哨兵が不動の姿勢で立っている。この歩哨兵、どちらも自国社会に不満を持ちがちな貧しい階層からは採用しないという。その気になれば一歩で「亡命」できるからだ。そっちに行ってはいけないと注意を受ける。部屋の中央に休戦ラインが入っているからだ。北側に足を踏み込むことはできても長居はできないことになっているのだ。
 一九七六年八月一六日この共同警備区域内でひとつの事件が起きた。哨戒に邪魔だからとポプラの枝を剪定しようとしていた国連軍監視兵らに北朝鮮側兵士集団が襲いかかり、二人の米兵が斧で殺害されたのだ。しかし、これが最後の悲劇だった。この時からさえすでに四半世紀が経っている。冷戦はひとまず終結した。しかも昨年六月にはキムデジュンとキムジョンイルが順安空港で固い握手を交わし、南北和解の道が開けつつあるように見える。こんな情勢からか、旅行者の私たちには本当の緊迫感は何故か伝わってこない。あれもダメ、これもダメの様々な「禁止」や「制約」も緊迫感をうまく演出する雰囲気作りのようにさえ見える。そもそもそれ程緊張関係があるなら観光客など受け入れないであろう。観光の対象ともなっている軍事区域、この奇妙なエリアを頭の中で整理することは結構難しい。アメリカ人好みの一大テーマパークではないのだろうか。時間が確実に何かを融合させているのだ。
 展望台から遠くに北朝鮮の「宣伝村」をながめる。その間に豊かな緑と澄んだ空で構成される原野がひろがる。このあたりが激戦地だったと到底思えない。時が経ち多くのことが変わったのだ。南側非武装地帯内に大成洞という村があり、農民がそこで農業を営んでいる。韓国農家の平均耕作面積の五倍余りの面積を持てるという。産業公害のないこの地の米や高麗人参は韓国内でも人気が高いのだそうだ。この広大な原野には熊、山猫、鹿、のろなど各種野生動物が棲みつき、その隠れ家となっている。満州産の丹頂鶴が舞い降り、韓国内では珍しい各種の野禽類もここでは豊富だという。人間たちの軍事的な対峙と緊張が皮肉なことに動物たちのサンクチュアリを作っていることになる。
 休戦協定の後捕虜交換があった。両側の捕虜が橋を渡ってそれぞれ送還された。どちらにとっても戻ることのない橋であったことから「帰らざる橋」と名付けられた。その木造の橋が目の前にあった。この橋の上をアカネトンボ(茜蜻蛉)の一群がスイスイと往来している。アカシア、ヤナギ、マツなど樹層は単純に見えるが、虫影は濃いとみた。ここが朝鮮半島最大の、サンダルでも自由に歩ける自然公園になる日を夢見て私は眼前に飛来した一匹のカメムシを掌中に収め生きたままそっと鞄の中にしまい込んだ。


書評「豊島産業廃棄物不法投棄事件」
       大川真郎著・に寄せて

大阪支部  福 山 孔 市 良

1、はじめに

 今年の六月三日、豊島では「豊島産業廃棄物不法投棄事件解決一周年」の記念行事と集会が開催された。
 僕も大川さんに、「一度機会があったら豊島の現場に連れて行ってほしい。」「島の人たちにも会わせてほしい」と依頼していた。丁度いいチャンスということで、大川さんと一緒に前夜、岡山のホテルで一緒に泊まって、六月三日(日)早朝、宇野港からフェリーで豊島に向かった。この日は晴天で、つり舟も沢山海に浮かんでいた。豊島には四〇〇メートルたらずの山があり、島の名前のとおり緑豊かな島であった。
 この日、大川さんに同行した理由は、事件現場を見るだけではなく、ほかにも理由があった。それは「豊島産業廃棄物不法投棄事件」の本が一般発売日より一〇日程はやく、この豊島に二〇〇冊だけ限定で送り届けられ、発売されることになっていた。常々大川さんは、まだこの本の原稿を書いていたときから「僕は豊島の住民に捧げるために書いているつもりや、本が出されたら第一番に豊島にもっていって、住民に届けようと思っている」と語っていた。
 六月三日、ついにその日がやってきた。波止場のすぐ近くにテントが建てられ、その中におかれた机の上に、二〇〇冊の本が積まれていた。大川さんのにこにこ顔を見てやろうと思ったのも、もう一つの理由であった。

2、住民を泣かせた本

 大川さんは、ゲラの段階で豊島の安岐正三さんに目を通してもらうために、ゲラ刷りを送った。 安岐正三さんが電話をしてきて「読んでいる途中で涙があふれ出てきて、さきが読めなくなった」と言っていたと、僕にいったことがあった。僕は安岐さんを知らないし、勿論、どの部分かも知らなかったし、聞いてはいなかった。しかし、僕はこの本を読んで安岐が泣いたのは、八〇頁から八三頁のところだなとすぐわかった。
 安岐さんの長男健三君の「ぼくのお父さん」は、それはいい作文だと僕も思う。人を泣かせる文章を書くなどそうできるものではない。この事件に取り組み、そしてこの本を書いて、大川さんは一廻りもふた廻りも大きくなったと、心から思う。

3、この本の特徴

 (1)この本は、二五年間にわたる豊島の住民や弁護団、支援者のたたかいが、事実の経過に基づき書かれている。彼の感情は抑制されており、誇張がない。そのことがよけいに迫力となっている。
 城塚弁護士が、団本部通信にも書評を書いているし、僕らにも述べていたが、「この本はたたかいの局面、局面でのケンカの仕方を教えている」ということである。
 大川さんはこの事件の中で、時々に書いたものをまとめたのではなく、始めから終わりまで書き下ろした。
 事件解決後、毎日この本の執筆に全力を注いだ。山のような資料や、新聞記事をかかえて奮闘した。大川さんは、奥さんの四年にわたる看病、そして死を体験し、一時はすべての活動から退こうと考えたこともある。よくそんなことを話していた時期もあった。
 しかし、この本を仕上げる経過の中で、肉体的には疲労しただろうが、精神的には力強くなり、変化していった。この本を書き上げることによって、自らをすくい上げたのではないかという感想を持っている。
 一周年の集会で、今後一五年以上をかけて香川県の責任で廃棄物を撤去させ、これを監視していくこと、美しい島を子孫に残すこと、そして、島そのものを復活させて島と住民のくらしを豊かにしていくたたかいを、これからも引き続き継続していこうと訴える大川さんのあいさつも、明るい確信のあるものであった。集会に参加していた住民や他県からの支援者四〇〇人の人もすべてが本当に笑顔で聞いていた。
 豊島のたたかいが勝利し、この本が出版されてよかったと心から思った。


峪間の運そして決断のゆくえ(二)

東京支部  中 野 直 樹

一 逃した岩魚の重量感の感触を土産に、野営地となった車止めの広場に戻ると、刈り取られた草のいきれが満ちていた。夏の暮色はゆっくりと時間をかけ、手元から濃さを増し、峪間の空がなすび色を深めていった。どっさり買い込んだ食材の仕込みに余念のない二人に一尾きりの岩魚を届け、ひとしきり、仕掛けと竿先を引きずって沈んだ岩魚のゆく末について興奮しながら実況報告をした。かの岩魚は顎に刺さった鉤をうまくはずせてほしいものだ。
 周囲から枯れた木切れを拾い集め、焚き火つくり。乾いた粗朶は難なく炎をあげ、やがて忍び来る孤独の闇に備える安心の場をつくりだした。湧き水の溜りで冷えたビールが心地よく、たちまち空き缶の山ができた。一年前、岡村さんと大森さんは、埼玉を拠点とする源流釣り師集団「根がかりクラブ」のメンバーとこの谷を訪れ、ビールを川の流れに浸して、釣りあがろうとした。まもなく豪雨となりビールを回収するいとまもなく撤退したそうである。今回、大森さんはビール缶をデポしたところに降りて、ビール缶が当然流れ去っているのをこの目で確かめていた。越年の未練は絶ちきれたであろうか。
 予定が狂いオートキャンプになったために、三時間の歩行を免れた皆は元気である。予定されていたはずの、一日めと二日めの酒の割当ての境はなくなり、岡村さんは、しきりに「なかのくん・・・」と言いながら(二〇回は優に超えていると記憶している)、談論風発盛んである。
 風もなく、煙がゆらゆらと闇に消えていく。月の光も星の輝きもない夜であった。酒語りから意識を解放すると、遠ざかっていた沢音が耳近く迫っていた。蛙の合唱や虫の声、瀬音などは初めて接したときに感じる音の大きさをいつの間にか気にしなくなり、音自体を感じなくなってしまう。そしてひょいと意識を戻すと、ああこんな大きな音の中にいたのかと驚かされてしまうことがあるものだ。
 誰かが蛍だと声をあげた。上流から一匹の蛍がふわりふわり、光の線を引いて飛んできた。いかにもかよわく映る姿だが、草間に身を隠すメスを探しての求愛の遊泳だという。  尾に燈る火は卵や幼虫時代から点している光だそうだ。見慣れぬ焚き火と笑い声に関心を引かれるように近づいてきたが、くるっと方向を変えて下流の叢に向かっていった。酒の臭いにあてられたようにあわてた様子はユーモラスであった。

二 山の朝。露がしっとりと草木を濡らし、幽かに川靄がたなびいていた。すぐ近くの木に鶯がやってきてさえずりはじめた。二〇分ほど、これが手本だとばかりに喉自慢を披露していた。
 晴れあがった空に光が増し、五時半、山の頭から陽射しが差し込んだ。最初の一筋がみるみる幅を広げた。無数に舞い始めた赤トンボの羽がきらめく。
 ヒバとブナが混じる樹林の両際が次第にそそり立ち、深い峪底となった。稜線を隔てて流れる葛根田川や大深沢とは渓相がずいぶん違う。
 川底はどこまでも岩盤に覆われ、流れる水がうずくまるような、岩魚が安心して棲息できるポイントが少ない。それでも滑滝をいくつか超えるうちに、毛鉤の大森さん、餌釣りの岡村さんの竿が時折しなり、型のよい岩魚が魚篭に納められている。私はいつもの決意による毛鉤挑戦だが、これもいつもどおり不漁で、やがて倦怠気分に攻められ始めた。
 珍しく、大きな淵が青くよどむ箇所にさしかかった。私は期待を胸に右岸の縁に立ち、真下の流れに毛鉤を流し始めた。大森さんが左岸に構えた。嫌な人がきたものだ。これまで幾度も目の前で見事な釣りを見せつけられた。こちらも釣果があがっているときには心からの賞賛を送れるが、そうでない心境のときもあることをわかって配慮してほしいとの回りくどい視線を投げることもある。勝負好きな大森さんにはこの嫉妬心が見えない。このときもそうであった。三度目に流し直したそのとき、白泡の底から岩魚が浮上し私の毛鉤に食いついた。これは餌釣りでは出会えない瞬間シーンである。私は、ここぞとばかり竿先を立てたが、岩魚が口を閉じるわずか前、早合わせすぎた。仕掛けが舞いあがり、力なく落ちた。大森さんはしっかり見ていた。そして彼の毛鉤がゆっくり、岩魚の沈んだあたりを旋回した。私もあわてて再アタック。すぐ大森さんの竿が跳ね、その毛鉤を咥えた岩魚がくねった。実に悔しい。私の支配下に入っていたわけではないので、横取りされた、とは言いづらい。でも、横取りされたに等しい落胆があった。

三 切り立った岩場が稜線まで伸びる険峪となった。一〇時三〇分、二又になるところで飲んだビールのほろ苦さに欲求不満がいや増し、餌釣りへの転向を決めた。一二時に戻ってきて昼食という約束で、左の沢に入った。魚を釣るためにもうひとつの生命を奪わなければならないことに心が痛むが、赤トンボを捕まえては流した。水かさの半減した浅瀬のあちこちから岩魚が食いついてくる、型が小さく、多くは流れに戻された。一一時五〇分、そろそろ引き返さなければならない時刻に気づいたとき、眼前の光景に息を飲んだ。沢の幅が三メートル弱、手前左の尻に苔むした一本の倒木が堰となり、そこから上手の落ち込み口までの奥行四メートルほどであろうか、流れがよどみ、プールのようになっていた。樹葉が川面に姿を落としてうす緑色に染め、木洩れたうす陽がわずかに揺れていた。
 倒木際の水の流出し口に幾尾もの岩魚が水上を向いてゆらめいていた。さらに眼が慣れてくると、溜まりの中央に、一〇数尾の岩魚が群れていた。縄張りをもって孤独に棲息しているように見える岩魚がこんなに多数寄り添っているのを目撃することは珍しい。ぬくもりある団欒のような風景を前に、釣りの気分が失せた。だいたいこのような場所は岩魚の警戒心に触れないで鉤を振り込むこと自体が困難で、まずは釣れない。竿をたたみながら、ふと、どのくらいの岩魚がいるものやら確かめてみたくなった。小礫を拾って、中央部に投げ入れた。飛沫がはね、波紋が生じた途端に、遊泳していた岩魚はもちろん、岸辺に潜んでいた岩魚も一目散に上流の落ち込み口と下流の倒木の下に走った。三〇尾近くいたろうか。川面から森に眼を移すと、風が強まり、巨木のブナの原生林がざわめいていた。

四 一〇分遅れで二又に戻った。岡村さん、大森さんはすでに昼食の準備をしていた。蕗の葉に並べたソーメンを食べていると俄かに大粒の雨が落ちてきた。天を見上げれば青空も残っており、通り雨とふんで、なお暢気に、おにぎりと味噌汁を味わっているうちに本降りとなった。川中である。このままではまずいと判断し、あわてて荷物をまとめ、午後一時、川を下り始めた。遡上するとき右岸に山道を見つけていたが、そこまで三〇分ほど川下りをしなければならない。ここでの決断の遅れがわずかにとどまったことが、退路を残してくれた。


自由法曹団創立記念日の周辺 そのG

赤旗社会部  阿 部 芳 郎

 一つの組織を結成するときには通常、規約を決め、初代の委員長を選び、創立宣言を採択するといったことが行われるものだ。自由法曹団の場合も例に漏れないだろうと思っていた。それがどうやら私の錯覚≠セったらしい。団創立に際しては、その種の「証拠」といえるようなものが見つからないのだ。
 団八〇年史編纂の責任者である豊田誠前団長に、こんな話をすると、「いや、当時は今のように、きちんとしたものなんて、なかったかもしれないよ」とあっさり言われた。確かに「自由法曹団物語」に出ている座談会でも、団の名称についてもさまざまな議論があったことが明らかにされている。
 山崎今朝弥弁護士は同座談会でこう語っている。
 「自由法曹団というのではとても名称にならぬので、労働問題研究会とか、そのくらいのことならいいという意見が多勢だったけれども、なくなった牧野充安君と宮崎竜介君がしきりに自由法曹団という名称を主張して、それで自由法曹団ということにきまった」  いま考えると、当時の時代背景や、団結成の趣旨に賛同して集まった弁護士も、革新的な人々から、自由主義的な人々までそれこそ「玉石同架」だった。そのくらいだから、堅苦しい決め事もしなかったのだろう。しかし、団の名前は「名称にならぬ」どころか、八〇年を経た現代にも立派に通用している。先人たちの先見の明というべきだろう。
 結成時の団員は六〇〜七〇人とされている。第一法規が刊行した「日本政治裁判史録」(大正)の「弁護士制度」の節に団結成が紹介されている。それによると、「神戸三菱、川崎両造船労働争議弾圧事件を契機として大正十年八月二〇日、自由法曹団が結成され、亀戸事件、大杉栄殺害事件、京都学連事件、伏石事件、第一次共産党事件などの弁護に活躍した」とある。そして主要なメンバー二二人を挙げている。
 どのような弁護士が初期の団員だったか、最もはっきり分かるのが、「無産者新聞」一九二六(大正一五)年一月二日付に掲載された祝賀広告である。「謹賀新年」「祝無産者新聞週刊発展」として、一面の広告欄に二段、弁護士六四人がいろは順に名前を連ねている。創立時に中心的な役割を果たした面々がそこに見えるが、これが全団員であったかどうかは分からない。しかしこの中に、後に最高裁判事になった弁護士がいたことからみても、有力な弁護士団体であったことが想像される(名刺広告を掲載した全員の氏名は、上田誠吉氏の著書「人々とともに」に紹介されている)。 (つづく)