<<目次へ 団通信1041号(12月11日)


  平井 哲史 パキスタン視察の報告会レポート
渕脇 みどり

世田谷区での司法改革集会の取り組みについて

  橋本 佳子 国際人権(社会権)規約委員会の画期的最終意見
八〇周年行事・総会の感想2
赤沼 康弘 団八〇周年行事の雑感
大森 浩一 あと一〇年は頑張ろう?!と思った八〇周年記念企画
金 竜介             なぜ原爆から始めるのか〜八〇周年記念のつどい
小笠原 基也 八〇周年記念行事・二〇〇一年総会
坂 勇一郎 団総会の感想〜司法改革二題+一
新旧役員交代【退任編】
財前 昌和 二年前の決意の行方 ー次長を退任して
南 典男 「団」の中に入ってみて
小賀 坂徹 今日までそして明日から
山田 泰               大川原 栄
趣味と道楽(「活動」でもよいけれど) としての情報公開請求
守川 幸男 松島団員の「つぶやき」についての補論
平 和元 ホームページ掲載についてのお知らせ
黒澤 計男 『新くらしの法律相談ハンドブック』ご利用のお願い
松島 暁 「凜」とした女性 大石芳野さんのこと
石田 享 名著を紹介します
高野孝治団員(島根県支部)著 「蘇る弥生」ドキュメント田和山遺跡訴訟

パキスタン視察の報告会レポート


東京支部  平 井 哲 史


 一一月二九日。この日は、まだ仕事は残っていたが、せっかく現地の報告が聞けるのだし、今日・明日に仕上げなければならない仕事ではないからと、団本部に行ってみた。

 報告者の赤嶺政賢衆議院議員(日本共産党)は、まず、与党が質問時間を放棄してわずか一週間で衆議院安全保障委員会を通過させたPKO法「改正」問題について怒りを込めて報告された。先のテロ対策措置法でさえ成立まで二一日間であったが、今度はそれよりもさらに早いペースである。赤嶺議員の報告によれば、与党内では、政治が決断すればすぐに実行できるよう法案準備をすでにいくつも指示しており、法案が出た後は速攻で採決まで至らせる構えであるとのことで、法案が出る前の構想の段階から世論を強める運動をつくる必要性を感じさせた。

 次に、今回の「改正」法の問題点の指摘をした後、現地の状況に話を進めた赤嶺議員は、イスラム原理主義者の家を訪問した経験も紹介しながら、日本はかの地域を一度も侵略したことはないことから「ブラザー」と思われていること(*1)、現地の人々は、とにかく戦争に支援して欲しくないと思っていること、イスラム原理主義は国民からやや浮いた存在ではあるが、反米英という国民感情に原理主義を受け入れる土壌があって、空爆はその土壌を広げる役割を果たしており、テロを包囲する世論に深い亀裂が生じていること等々を報告した。そして、現地のNGOや国連機関から聞いた話を紹介しながら、必要なのは食料・衣料・医療であって、役に立たない軍隊(*2)は攻撃の的になる(*3)だけであるから来なくてよい、自衛隊を出すのではなく金を出せ(*4)という話をされた。さらに、ショッキングなことに、空爆によってそれまでユニセフが五〇〇万世帯に届けることができていた医薬品が三〇〇万世帯にしか供給できなくなっており、すでに一〇万人の子ども達の命は絶望視されていること、難民キャンプにまでたどり着ける人たちはまだいいほうで、身動きさえとれずに国内に取り残されている難民がかなりいることなどが報告された。現地で難民支援にあたっている国連機関やNGOのやり場のない怒りが伝わってくるようであった。

 翻って日本は何をやったかに話が移り、与党三党の代表がマスコミをチャーター機に乗せてイスラマバードの最高級ホテルに行き、現地はおろか他国のマスコミを排して連れて行った日本のマスコミにだけ記者会見をしてパキスタン政府は自衛隊の派遣を歓迎しているかのような発表をして、それが日本で報道されたが、現地ではそのような報道は一切なく、かえってパキスタン政府の記者会見において、質問に答えて政府高官が軍隊が来るという話は聞いていないと述べたことを紹介して、自衛隊派兵の実績作りのために人道支援物資をわざわざ自衛隊に運ばせて(*5)、大本営発表よろしく金をはたいて連れて行った記者に記事を書かせるという作業の結果であったことが生々しく語られた。
 その他にも活字にできないようなことが多々語られ、こうした話が全国津々浦々に広がれば、きっとマスコミに扇動された単純な世論の動向も変えていけるのではないかと思った。

*1 自分たち日本人は危険性を感じなかったが、ロイター通信の記者は軍隊に守られながら取材活動をしていたそうである。

*2 地雷撤去をしているNGOは、退役軍人がボランティアできているということで、にわか仕込みの自衛隊よりもはるかに技術が上であり、現地の担当者は自衛隊が来るという話を聞いて冷笑しながら「競争させてみればいい」と言ったそうである。

*3 難民キャンプの近くでシャワーを浴びたり手紙を書くためにランプをつけていたりすれば、キャンプとしては極めて不自然な光景であり、格好の標的になるというのが現地のスタッフの言。

*4 日本は自衛隊を出す金はあっても、この二年は地雷撤去のための分担費用をUNHCRに拠出していなかったそうである。自衛隊を出すという段になって慌てて「金も」出すようになったとか。

*5 パキスタンとしては物資を運んでくれるのならば、どんな乗り物で持ってこようがかまわないという姿勢であることにつけ入って、物資輸送の名目で自衛艦を派遣したのである。


世田谷区での司法改革集会の取り組みについて


東京支部  渕 脇 み ど り


 私たち渋谷共同事務所は、地域によびかけて、世田谷区北沢の北沢タウンホールにて「一〇・三どうなってるの?日本の裁判ー『日独裁判官物語』上映と講演の夕べー」を開きました。当日は約二三〇名の参加を得て、幅広い方々と司法を考える機会を持つことが出来ました。この紙面をお借りして、ご報告いたします。

2 旗開きの会話から
今春、世田谷区内の労働組合の旗開きに出席した当事務所の柴田弁護士は、世田谷区在住のある学者の方から「日独裁判官物語というのはいい映画ですね。世田谷区内でも観られるといいですね。」と声をかけられそれを受けて事務所内に提起しました。映画の上映会といえば当然ある程度人数が集められなければなりません。弁護士の力量だけでは難しい。地域の民主団体にも呼び掛けて、幅広く運動を作らなければむりでしょう、果たしてできるのか?「司法」というテーマで本当にひとを集められるのか?最初は不安でした。

3 団の四・四集会のオルグを機に
ちょうどそのころ、団は審議会の中間報告に対する意見書をまとめ、四・四の司法集会を準備していました。松井弁護士が世田谷のオルグに参加されることとなり、これを機に私たちも、世田谷司法改革集会(仮称)の実行委員会準備会を呼び掛けることにしました。

 四月一一日第一回の準備会を開催しました。地区労、民商、土建組合、芝信労組、東大駒場寮生などの参加を受け、私たちから司法改革の問題を話しました。そのときの率直な感想は「司法といっても、裁判の実状がわからない。実際に裁判をやった人達の話を聞けるようなプレ企画を持ったらどうか?」と言う希望が出されました。

4 五・二三プレ集会
 そこで五月二三日プレ企画として、ケンウッドの柳原さん、痴漢冤罪事件の長崎さん、元裁判官の秋山弁護士をお招きして、皆様から実際の裁判の実状や裁判官の生活ぶりなどについて、いろいろとお話しを伺うことにいたしました。当日の参加者は約三三名でしたが、三名の方々のお話はそれぞれに体験にもとづき、とても印象深いものでした。事件の依頼者に対してもチラシや事務所ニュース等でお誘いしました。

5 実行委員会結成
六月六日世田谷土建の組合事務所をお借りして、第一回の実行委員会を結成いたしました。呼び掛け人を区内在住者在勤者に広く募り、呼び掛けていただくことにしました。世田谷の司法書士会も代表者が呼び掛け人となり会として応援してくれました。最終的には三〇名の方々に呼び掛け人になっていただきました。
七月、八月の実行委員会を経てプログラムが決まり、地域にオルグを開始しました。

 区議会議員団にも党派を越えて参加を要請しました。団体に動員を要請するだけでなく一般の方にも広く知って欲しいと思い、世田谷区の区報、新聞の催しもの欄掲載、新聞の折り込み、FM世田谷のラジオ放送などいろいろなメデイアでの宣伝に努めました。

6 一〇・三集会当日
集会は「日独裁判官物語」上映、米倉弁護士による「司法改革の現状と情勢報告」、ジャーナリスト増田れい子さんによる講演「司法を身近かなものにするために」、会場発言「布川再審事件」元被告桜井氏 、芝信用金庫原告団田村氏、アピール採択とプログラムは盛りだくさんでした。集まった参加者は約二三〇名で、ほぼ満席になりました。映画がおわっても途中退席者も少なく、最後まで熱気の溢れた集会となりました。集会では最後に一〇月二五日に裁判傍聴をして、傍聴のあとで、採択したアピールをもって司法改革準備室に要請しに行きましょうと呼び掛けました。
集会終了後、参加者から多数のアンケートをいただきました。アンケートの中には、増田れい子さんのお話を聞いて、「エリートでひよわな、しかし良心的な裁判官を私たち市民が守ってやらなければならない、私たちの力で司法を民主的に強くしていこうという話が印象的だった」との感想が複数ありました。

 「この映画の噂はきいておりましたが、、実際に観て日独司法事情のあまりの隔絶に唖然としました。裁判官にこそ観てもらいたい映画だと思いました。」「裁判を見に行くことが大事だということ。また司法改革は私たちによって変わるという指摘に同感です。」「弁護士費用の敗訴者負担制度は特に、提訴出来なくなると思うしこれは絶対反対する。」等それぞれに感想をぎっちり書き込んで下さり、勇気が出ました。

7 一〇・二五裁判傍聴、司法改革準備室要請行動
警察官による公務執行妨害でっち上げを争っている堤事件の刑事法廷を傍聴し、その後、五名で司法改革準備室に集会アピールと団の意見書をもって要請に行きました。集会の状況を説明し「国民の声を聞いて、より国民の立場に立った司法改革を実現して欲しい。」と要請しました。準備室側から対応した参事官補佐の菊池氏、彦坂氏は「今後は大変忙しいスケジュールで立法作業を進めることになりそうです。国民のみなさんの声を聞くことについては、ドアはいつでも開いています。」との話があり懇談しました。

8 最後に
私たちが、地域の中に積極的に入っていき「司法改革」について知ってもらおう、考えてもらおう、とする働きかけをすることこそ「国民のための司法改革」の第一歩であるということが良くわかりました。今迄私達の事務所は地域への取り組みが充分出来ていたとはいえませんでしたが、これを機に今後の司法改革の立法についても情報交換しながら取り組んでいく事にし、集会の実行委員会は解散しないこととしました。さらに憲法問題や平和問題などについてもどんどん地域のみなさんと議論していきましょう、とテーマも発展して行きそうです。実際世田谷の「テロ・報復戦争反対」の集会・デモ行進には所員九人が参加しました。手探りではじめた取り組みでしたが、とても楽しい成果が得られて、所員一同喜んでいます。


国際人権(社会権)規約委員会の画期的最終意見


東京支部  橋 本 佳 子


1 有効な委員会への要請活動
 国際人権(社会権)規約の第二回日本政府報告書の審査が、今年八月二三日に国連社会権規約委員会において開催され、同月三一日に最終意見が出された。

 日本政府の報告書は、法律と制度の紹介と統計数字の羅列にとどまっており、わが国の国民生活の実情を反映していない。そのため、有効な審査のためには、各分野のNGOからの生の情報提供が不可欠である。この間、団も参加している争議団中心の国際人権活動日本委員会では、労働の分野だけでなくさらにひろく社会権に深くかかわる団体に呼びかけ懇談会を発足させ、カウンターレポートを作成し、ジュネーブに代表を送り審査委員への要請活動を行ってきた。

 審査委員は実によくNGOの話を聞いてくれ、実際の審査において「私が得ている情報によれば」と言って日本政府代表者に質問してくれた。

2 NGOの情報をふまえた具体的で適格な最終意見
最終意見は、男女平等、労働権、社会保障、教育などわが国の国民の生活に直結する社会権の実情に対して、NGOが提供した情報をふまえて、例えば規約について直接適用可能との解釈を促し、裁判官・検察官の人権教育の必要性を強調し、具体的な「懸念」を指摘し、適格な「提言・勧告」がなされた。具体的な権利について一部を紹介すると次のとおりである。

 (1)男女平等については、懸念事項として、「職業上の立場および意思決定に関与する立場に関して日本社会に事実上の男女の不平等が存在すること」、「同一価値労働に対する賃金に関して事実上の男女格差が存在し、女性を主として事務職として雇用し、専門職に昇格する機会をほとんどまたは全く与えないという慣行が多くの企業で根強く行われ」と指摘し、さらに「コース別雇用管理に関する指針のような関連の行政上その他のプログラムおよび政策をいっそう積極的に実施すること・・を強く勧告する」として、男女格差を是正するために政府の適切な措置を求めている。

 (2)男女差別以外の労働の関しては、特に、わが国の長時間労働について「公共部門および民間部門のいずれにおいても過度な長時間労働を容認している」ことに「重大な懸念」を表明し、公務員のストライキ禁止については「政府の必須業務に携わっていないすべての公務員のストライキが全面的に禁止されている、人事院、人事委員会という代替措置を講じていても規約8条2項(締約国は本条項を留保している)および結社の自由、団結権の保護に関するILO八七号条約に違反するもの」と明確に条約違反であると指摘している。その他、ILOの雇用及び職業における差別禁止条約(111号)など重要な条約について批准していないこと、特に中高年をターゲットにした賃金切り下げ、リストラについても懸念を指摘し、それぞれに対して、日本政府が適切な措置をとるよう具体的に勧告している。

 (3)社会保障については、現在小泉内閣の下で大幅切り下げが押し進められているが、例えば年金について「最低年金額が定められていないこと」「年金制度に事実上の男女格差」、「受給年齢を六五歳に段階的に引き上げるという最近の公的年金制度改革がもたらす影響」などに懸念を表明し、「六五歳未満で退職する人々を対象として社会保障手当を確保するための措置」など具体的な勧告をしている。

 (4)阪神淡路大震災については、一人暮らしの高齢者や家族を失った者、住宅ローンの支払いが困難な人々の実情にふれ、政府の適切な措置を求めている。

 (5)従軍慰安婦については、アジア女性基金が「当事者の女性から受け入れ可能な措置と見なされていない」として、政府に「手遅れになる前に」適切な措置をとるよう勧告している。

3 大いに活用したい最終意見
国際人権規約に関するこのような国連の委員会の意見、勧告については、今後の国内の運動にどう活用するかが問題であり、それそこが国際活動の目的である。特に、今回の最終意見は国民の生活に密着した広範囲にわたって懸念が表明され、政府の国際的義務としてさまざまな「措置」が勧告されており、各分野の運動に大きな武器となる。短い資料なので是非手元において大いに活用していただきたい。


八〇周年行事・総会の感想2

団八〇周年行事の雑感


東京支部  赤 沼 康 弘


 構成劇はわかりやすくてなかなか良かった。団の長年にわたる、またまことに多岐にわたる闘いを、特徴をとらえて見事に整理していた。自分自身がこの活動の一端でも担うことができているのかという自問をしつつ、普段、演劇など見ることもない日常であるため、専門家のせりふまわしを興味をもって、聴いた。ロックは、新しい感覚でということをあらわしたかったのであろうが、残念ながら私には音が大きすぎて性に合わなかった。と、まあ、まずは一般的な感想をいだきました。

 リレートークでは、国宗さんの発言が、団内集会ではこれまでにない語り口で非常に良かったと思ったのは、身びいきでしょうか(同じハンセンの闘いに参加した者であるための)。

 団八〇周年行事がハンセンの闘いに相当の重点を置いたことは、団のこの問題についてのメッセージとしても意味があると感じました。

 実は、ハンセン病隔離政策による人権侵害被害の事実は、終戦後まもなくの時期から、団の活動の片隅をかすめるようにして伝わってきていました。団の四五周年でもハンセン病元患者から報告がされていました。それにもかかわらず私たちはこの重大な人権侵害の事実を見過していたのです。

 団の活動は、古くは弾圧・労働が中心だったようですが、次第に公害裁判闘争も重要な柱となり、各地で団員が献身的にかかわってきました。「もともと弁護士は依頼人から事件を受けて仕事をするということになっているため、そうした習性にならされ過ぎてきたが、公害裁判は、被害のあまりの悲惨さに、弁護士の方から手弁当で被害者のなかに飛び込んで被害者を組織して裁判にうって出た」ものでした(ハンセン東京弁護団の団長でもある豊田誠団員の言葉です)。しかし、残念ながら、ハンセン病隔離政策の被害については、弁護士が被害者の中に飛び込んだのは九六年のらい予防法廃止後になってからでした。あまりに遅かったといわざるを得ません。

 本年五月一一日の熊本判決による全面勝利と控訴阻止は、遅まきながらも、弁護士、団員の責任を果たすものでもあったと感じています(もっとも判決は裁判所の責任を果たすものでもありました)。そして、このハンセンの闘いは、団が長い間やり残していた仕事をこの八〇周年という節目の時期にやり遂げたという意味で、団の歴史にも確かに区切りをつけるものだということができるでしょう。


あと一〇年は頑張ろう?!と思った八〇周年記念企画


東京支部  大 森 浩 一


 忘れがたい年となった二〇〇一年。同時多発テロと報復戦争がもたらす衝撃波が日本全国を覆う中で自由法曹団は八〇周年を迎えた。もし、自分が団に入っていなかったら現在の事態をどのように受け止めていただろうか。総会にも稀にしか参加しないなど余り熱心といえない団員である私にしても、「団」という存在は自身の世界観・価値観に相当な影響力を行使していることがわかる。アメリカが軍事力にものをいわせるとか、自衛隊がその活動範囲を広げようとすることについて生理的な拒否反応が生まれるのである。しかも、そのことに関していささかの心地良さすら感じている私。

 八〇周年諸行事は、そんな団の「吸引力の由来」を再確認できた企画だったように思う。中でも強く印象に残ったのは谺さん(業務の関係で川田さん以下のお話は聞けなかったのは残念)。こんな素晴らしい人と苦楽を共にされ、人権闘争の新しい地平を築かれた団員の方々に心から敬意を表したく思うと同時に、こんな感動を味わいたいがために引き続き団の最後尾で頑張っていこうと改めて思うわけです。

 驚いたのが海外派兵等に反対するデモに参加された人の数と皆意気盛んだったこと。国会審議が儀式と化し、法案可決が秒読み段階に入っていたにもかかわらず。この敢闘精神も個人的に強く団らしさを感じるところ。

 同時多発的に押し寄せてくる課題を切り回しながら、一〇年に一度のイベントを準備し成功させた担当者の方々のご苦労は並大抵ではなかったはず。

 地元東京支部の事務局を担当していながらさして汗を流す役割を果たせなかったことに多少とも自責の念を抱きながらも、一団員であることの喜びを実感することのできた有意義な二日間であった。


なぜ原爆から始めるのか〜八〇周年記念のつどい


東京支部  金  竜 介


一 八〇周年記念のつどいは、松川事件などなど諸先輩方がこれまでやってきた活動を改めて知る機会となり、自由法曹団というのは大したもんだとの思いを新たにし、まだ八年目の弁護士ですが、私自身団員であることを誇らしく思いました。充分とはいえない準備期間の中であれだけの構成劇を作り上げたことは大変だったろうと思います。同期の弁護士などをもっと積極的に誘えばよかったと反省しています。
 ただ、その内容については少なからぬ疑問を感じてしまいました。なぜ原爆からなのかということです。

二 私が知る限り、どこの平和集会でも、戦争の悲惨さ、平和の尊さを語る時、日本の侵略によるアジア人の死以上に(少なくとも同等に)日本人の悲惨な死を強調します。しかし、私は、このような視点でいつも訴えが行われることに違和感を感じてなりません。確かに、原爆は大勢の日本人が死んだ悲劇です。しかし、それは、日本人の加害行為の結果ではないのですか。その点をとばして日本人の悲劇が語られることが多いように思うのです(念の為にいいますが、私は、米国の原爆投下が許されるとは全く思っておりません)。

 自由法曹団八〇周年という記念行事でもやはり冒頭に語られたのは広島の原爆であり、日本人の少女の死でした(原爆の被害者が日本人だけではないことにも触れられてはいましたが)。

 歴史的時系列からみても原爆から始めるのは順序が逆だと思います。あえて原爆から始めた主催者の意図は何なのでしょうか。

三 「戦時末期、日本軍は済州島を朝鮮半島の最前線とすべく軍隊を配置して米軍を待ち構えていました。しかし、原爆が日本に落とされたことで済州島は沖縄のような悲惨な戦地にはならずにすみました。済州島に住む多くの韓国人の命が救われたのです。」

 今年の三月に済州島で行われた日韓法律家交流集会で現地を案内してくれた韓国人のことばです。彼は日本人の前で全く躊躇することなくさらりとこのように述べました。彼が原爆の悲惨さをどこまでリアルに認識しているのか、疑問がないわけではない言葉です。しかし、彼にとってはごくあたりまえの言葉なのでしょう。

四 ドイツで、民主的な法律家団体の記念行事が行われたと想像してみます。彼らがどのようなやり方をするか。
 「私たちはかつての戦争で大変悲惨な目にあいました。ベルリンやドレスデンの大空襲では罪のないドイツの子どもや老人が何万人と亡くなりました。ドイツ人の尊い命が奪われたのです。戦争というのはそういう残酷なものなのです。二度と繰り返してはいけません。」とのメッセージ。そして、ドレスデン大空襲で悲惨な死を迎えたかわいそうなドイツ人(ゲルマン系)の少女の話。

 おそらくそのようなことはしないのではないでしょうか。大空襲の被害を強調した後にアウシュビッツの話をするという集会をドイツの民主的法律家団体が行うとは私には考えられません。

 今回のつどいには韓国の弁護士も招かれていたはずです。ドイツで、かつての被害国(民族)の来賓を招きながら、冒頭からドイツ人の悲劇的な死を訴えるというやり方をするのでしょうか。

五 被爆者の権利獲得、あるいは、核廃絶のために闘っている団員には心より敬意を表します。そのような活動を揶揄するつもりは毛頭ありません。戦後補償問題に奔走しているたくさんの団員も知っています。しかし、それだけに自由法曹団でさえも、まずは「原爆」から、まずは「日本人が殺した」ではなく「日本人が殺された」から始めるというその構成には正直なところ「またか。」の感を免れませんでした。


八〇周年記念行事・二〇〇一年総会


  岩手支部  小 笠 原 基 也


 私は、五四期で、当然弁護士に成り立てである。そのような私が、弁護士登録して一ヶ月もたたないうちに自由法曹団の八〇周年記念行事という晴れの行事に臨席できたことは非常に幸運なことである。また、新米弁護士としては、総会に参加して、全国の諸先輩方の活動報告を聞くことで、今後の活動指針とすることができ、また、知己を広めることができたという点でも大変有意義であった。

1 八〇周年記念行事について
 まず驚いたのが、クレオに鳴り響くバンドの楽器音。クレオというと、先日の退屈な新人研修のイメージが強く、また、退屈な講演を聴かされるのかと思っていたところに、不意を突かれてしまった。

 それに続いて、ビデオ、スライド、呼びかけ、関係者の談話と、様々なメディアを駆使した趣向に、いっこうに退屈さなど覚えなかった。

 取り扱った題材も、松川事件、ハンセン病訴訟など、著名事件ばかり。自由法曹団八〇年の歴史が、まさに自由と人権のための闘いであったことを実感した。

 リレートークも、皆ユーモアを交えたトークで、しかしながら中身の充実したもので、大変勉強になった。

 夜のパーティーで、まず驚いたのは、人の多さ。これほど多くの先輩たちが全国にいるのだと思うと心強い気がした。また、同じ五四期の団員との交流ができたことも重大な収穫であろう。岩手では一人でも、全国には二〇人を超える同期の団員がいることも知った。 これから、様々な事件を通じて、ともに活動していくことがあろうが、その上での大きな支えになり、また自分自身も支えになりたいものである。

2 二〇〇一年総会
 午前の部はもっぱら平和についての報告、特にアメリカ軍の報復戦争についての活動・研究の報告が相次いだ。私自身も、この戦争には、法的正当性が全くないものではないかとの疑問を抱いていたものであったが、全国の団員の意見もそれと同じであると知り、また、理論的な面でも整理がついたことは、大きな収穫であったと思う。

 記念行事・総会を通じて感じたことは、先輩団員の多くは、深刻な事件においても、ユーモアを忘れないような余裕持っているとの印象を受けた。私自身もいい仕事をするために、常に余裕を持っていきたいと思う。


団総会の感想〜司法改革二題+一


東京支部  坂  勇 一 郎

1 パンフレット「司法改革」
 私の今回の団総会参加の第一の目的は、事務所が発行したパンフレット「司法改革」の普及の呼びかけでした。このパンフレットは、総会で(押しつけがましく)紹介したとおり、市民向けに司法改革の問題を訴えようとしたものです。
 総会での発言の際には、参加者のみなさんにお配りしたパンフレットを開いていただきながら宣伝をさせていただきましたが、是非ご活用いただければと思います(ご注文は東京合同事務所まで。頒価二〇〇円、五部以上一五〇円でおろします。電話〇三ー三五八六ー三六五一・ファックス〇三ー三五〇五ー三九七六)。

 私はパンフレットの原稿を書いた者の一人でありますが、個人的にはパンフレットで伝えたいと思っていた点は二つありました。
 一つは、証拠の偏在と証拠を提出させる制度の充実の必要性、もう一つは陪審制の意義についてです。この二点は、おそらく市民の側と政財界の側との利害が鋭く対立するところであり、これらの点の問題意識を広めていくことが重要ではないかと思います。
 パンフレットを作成するにあたって苦労したのは、「司法改革」というわかりにくい問題をいかに一般向けに「翻訳」するかでした。この「翻訳」にどの程度成功しているのかいないのか、ご意見ご感想もお寄せいただければ幸いです。

2 もう一つの「司法改革」
 「司法改革」に関連してもう一つ述べておきたいのは、総会であまり語られていない点についてです。
 この間の規制緩和と司法改革の流れの中で、司法業界内外の様子は大きく変わろうとしているのだろうと思います。こうした変化の中で団の法律事務所の組織・業務、自由法曹団の組織・業務について広い意味での業務対策的な対応が必要ではないかと、個人的には考えているのですがいかがでしょうか。

3 インターネットやメールの利用
 今回の総会での先生方の発言の中で、印象に残ったのはインターネットやメールの利用です。テロ・報復戦争問題ではネットで署名を集めているとか、教科書問題ではメールで情報の集中・流通をはかったとか。
 最近お聞きしたところでは、現在では、大学生のインターネット普及率は一〇〇パーセントであるとのことです。緩やかなネットワークを作る一つの手段として、重要なツールであると認識を新たにしました。


新旧役員交代【退任編】

二年前の決意の行方 ー次長を退任して


大阪支部  財 前 昌 和

 二年前の九月の大阪支部総会に鈴木亜英前幹事長が次長就任の「説得」に来られました。たいした「説得」を受けた記憶はありませんが、団本部には面白そうな人がいるんだなと思ったことが決意を促したようです。しかし次長になると決意したものの、新しいことにチャレンジしてみようという期待と事務所が大阪なので距離的・時間的ハンディを克服できるかという不安とが半々でした。総会直前に急に決まったためかなりの数の事件を抱えたまま次長になり、どうやって東京に行く日程を確保するかが大問題でした。

 最初の事務局会議の時に担当分野の希望を聞かれ、司法改革と労働問題を選びました。司法改革を選んだのは、どうせやるなら大変でも手ごたえのあるテーマをやりたいと思いました。また、それまで個人的に関心を持っていながら並みいる"専門家"に恐れをなして関わってこなかったのでこの機会に勉強してみようという気持ちもありました。労働問題の方は、それまで積極的に取り組んできた分野でしたし、東京と大阪の作風の違いがよく言われていたのでこの機会に両方の交流を図ってみようという期待もありました。

 その後二年間自分なりに努力してきたつもりでしたが、今振り返ると、やり残したことや力不足だったことがいろいろと思い浮かびます。今だから告白しますが、二年目に入って司法改革が内部討議の季節から外に向けた運動の季節にかわったこと、そしてバイタリティ溢れる篠原義仁幹事長が運動をぐいぐい引っ張ったことなどから、もう一年やってもいいかなと思った時期がありました。せっかくこれまでやってきたんだから最後まで見届けたいという気持ちでした。その気持ちは異例の三年間次長をされた小賀坂さんも同じだったと思います。しかし、残って小姑臭くなるのもいやだと思い直し、次長を降りて一団員として関わっていくことにしました。

 この二年間の活動については、苦労話しをしたいことや自画自賛したいことはいろいろありますが長くなるので止めておきます。一つだけ言いたいことは、思い切って次長をやって大正解だったということです。この二年間、政治や社会の様々な問題に積極的に関わっていく団と団員の姿を知り、また、各地で献身的に頑張っている団員の姿に少しだけですが触れ、自分が団に所属していることに誇りを感じるようになりました。自分も負けずに頑張ろうと励まされました。また、多くの優れた先輩や仲間と出会うこともでき、僕にとって大きな財産となりました。本当に貴重な経験をさせていただきました。これからも司法改革関連の会議や常幹にはできるだけ参加するつもりですので、今後ともよろしくお願いします。


「団」の中に入ってみて


東京支部  南  典 男

 団の事務局次長を約二年やってみて、団のイメージは大きく様変わりした。

 ひとつは、結構、自分の好きなことができるということだ。僕は、戦後補償裁判や支援運動にずっと関わってきた関係もあるのだろうが、アジアとの交流・共同行動と歴史の真実を否定するネオ・ナショナリズムの台頭に大きな関心があった。これらのテーマを団の中でやってみたいと思っていたが、そんなに簡単にできるわけがないと決め込んでいた。しかし、国際問題委員会ではアジアとの交流を大きなテーマにして頂いたし、本部では、教科書問題の緊急プロジェクトをつくり、ネオ・ナショナリズムとの闘いが展開された。団の懐の深さと進取の気性を痛感した。

 ふたつは、情勢の変化に関心を持てることだ。団に入るまでは、自分の事件と関わることについては関心があっても、日本の国家と国民の権利侵害の状況について情勢の変化を敏感に感じ取っていたわけではない。しかし、団には、絶えず情勢の変化と国民の権利状況に関心を払い、これを分析して運動する姿勢がある。なぜ、自分が「人権派」弁護士になったのか、原点を感じ取ることができる。

 こうやって、二年近くを振り返ってみると、苦労もしたし、大変だったが、楽しかったし、それなりの充実感を味わえた。中国訪問での先輩団員との交流、韓国訪問での民弁の弁護士のひたむきさ、教育「改革」対策本部のアットホームな闘い、教科書問題での草の根の闘い、沖縄・改憲対策本部のテロ問題での連日の意見書等の作成など、多くの方々の奮闘ぶりや姿から教えられたことは多い。

 そして、団長、幹事長、事務局長、事務局次長のみなさんと団の執行部を支える専従事務局の方々にも感謝したい。少し(ではないかな)、酒を飲み過ぎて迷惑を掛けたこともあったが、それもいい思い出(そうして下さいね)だ。また、戦後補償という自分のライフワークに戻るつもりだが、団との関わりはずっと持ち続けていきたい。


今日までそして明日から

  極私的自由法曹団物語〈序章〉ーその1


神奈川支部  小 賀 坂  徹

1、苦難の上山田総会
私が本部事務局次長に選出されたのは、一九九八年一〇月の長野上山田総会だった。実は、それまで総会や五月集会にまじめに参加したことはなく、したがって団の大きな会合で印象に残っていたのは、弁護士一年目に函館で開かれた五月集会のことだった。この時は、函館空港を降り立ち会場へバスで移動する途々に「歓迎自由法曹団」という昇り旗がズラッと立ち並んでいるのをみて驚いたことをよく覚えている。「自由法曹団って、すげーんだな」という強烈な印象だったのだ。だから総会会場までこのような昇り旗が立ち並び、街中歓迎ムード一色になっているものとばかり思い込んでいた。詳しい会場の地図など持たなくても、総会の会場はすぐに分かると思っていたし、迷っても人に聞けば、街中の人々が教えてくれるものだと信じ込んでいた。だから、上山田総会に大幅に遅刻して参加したことも、会場の名前も場所もまったく把握していなかったことも、全然意に介していなかったのだ。

 ところが上田で新幹線を乗り換えて、戸倉駅に降り立つと、何もないのである。ホントになーんにもないのである。林立する昇り旗はおろか人影もタクシーも見当たらない。一〇月下旬の長野は肌寒く、加えてこの日はどんよりとした天気だったので、何だか急激に寒気がおそってきた。でもまだこの時には、きっと誰かに聞けばすぐに分かるだろうとタカをくくっていた。そこでまず、駅員に聞いてみた。「あのー、自由法曹団の総会はどこでやってるんでしょうか。ホントは歓迎自由法曹団なんていう昇り旗がいっぱい立っていて、街中が皆知ってると思うんですが、どういう訳かそういうのがどこにも見当たらないものですから、ちょっととまどっちゃいまして・・」しかし、駅員さんは「何ですか、それ」と答えるだけで、怪訝そうな顔でこちらを向いてきた。「いや、その、自由法曹団なんですけどねぇ」なんて言ってみたのだが、いかにも怪しげな目線で私を見つつ、さっさと話しを切り上げたそうなそぶりがありありだったので、「じゃあ、いいです。へへっ。」なんて言いながらその場を離れた。

 駅前といっても、たくさんの店が建ち並んでいるというわけではなく、日曜日ということもあってか、開いている店も少なかった。仕方なく、駅前の八百屋のような店に入った。「あのー、自由法曹団の総会はどこでやってるんでしょうか。」「へっ・・・自由・・、何ですか?」どうも、全然歓迎されてないどころか、自由法曹団なんてものをまったく知らないようだ。ここに至って事態の深刻さに漸く気がついてきた。もはや肌寒いなんてものでなく、凍えるような気分だ。「これはどうもえらいことになってきたぞ」と思いながらも、目下の事態を打開する傾向と対策というものはまったく頭に浮かんで来ない。日曜日だから誰もいないだろうと思いながら、藁をもつかむ思いで駅前の公衆電話から事務所に電話してみたが、やっぱり誰も出ない。寒い、寒い、寒いよお。俺、どうなっちゃうのかなあ。一〇月の戸倉駅前に静かに流れている冷たい空気の中で、私の心は激しく動揺し、心細さだけがふくれあがっていくのであった。

 とりあえず、この時事なきを得たのは、それから四、五〇分後であろうか、私よりさらに遅刻してきた神奈川支部の面々(我が事務所の星野弁護士、川崎合同の渡辺弁護士)がやってきたからである。持つべきものは事務所の先輩、支部の同僚である。こうして、やっとの思いで総会会場の公民館のような場所にたどりつけたのであった。何とも前途多難を思わせる事務局次長としてのスタートだった。

 前途多難といえば、この文章である。もともと事務局次長退任の挨拶を書くよう求められたもので、「三年間もの間、皆様お世話になりました。十分に役割を果たせたについては甚だ自信はありませんが、多少なりとも運動に貢献できたとすれば望外の喜びであります。とりわけ、陰に陽に私を支えていただいた事務所の皆さんには感謝の言葉もございません。この貴重な経験を活かして、今後は事務所での役割を担っていく所存でございます。」などと美しくまとめようと思って書き始めたのである。そして、これから事務局次長になっていく若い団員(若くなくても全然構わないけど)に、多少なりとも本部のおもしろさが伝わればいいかなと思っていたのだ。ところが、何の計画もないまま書き始めたら、こんなことになってしまった。この調子でヨタ話が続いていくと、「2、団本部への道のりは遠かった」「3、本当の第一回事務局会議の夜」「4、秋保温泉五月集会への行き方」・・・などということが延々と続き、全然本題が始まらないまま力尽きてしまいそうな気配になってきたので、ここまでを「その1」にして、思い切ってこれで終わりにしてしまうのである。「その2」がいつ始まるかは分からない。もしかしたら始まらないのかもしれない。あるいは、「その3」「その4」へと大河小説的ヨタ話シリーズというものになってしまうかもしれない。予定は全然未定なのだ。という訳で、皆さんさようなら。また会いましょう。 (この項終わり)


趣味と道楽(「活動」でもよいけれど)
としての情報公開請求ー公安委員会の巻


担当事務局次長  山 田 泰   大 川 原 栄

 団には警察問題委員会というのがあって、昨年「緊急提言」を発表した。ここでは、当面のかつ効果的な方法として情報公開請求に
取り組むことを呼びかけている。弾圧に立ち向かうとか、警察権力と闘うとかいうのは団のオハコなんだと思っているけれど、警察委員会が情報公開請求の視点から切り込んで行くとなると、なんだか戸惑うところもある。大体情報公開請求なんて手法のことであり、どの分野にも通ずる汎用性があるはずと思っているからだ。

 とはいえ今年の四月からこの委員会のお手伝いをすることになって感ずるのは警察問題にしても情報公開請求にしても、結構オタッキーな世界なんだということ(田中隆団員もそう言っておられた)。
一一月一七日救援会からも来てもらって委員会を開き(ちゃんとやっているんだゾ)情報公開を各地で進めて行くための相談をした。

 四月から情報公開法が施行され、一〇月からは各地で公安委員会や警察本部の情報についても公開が実施される運びのはずだったが、救援会の調査では現時点で実施されているのは半分にも満たないようだ(一四年四月からというのも相当あるし、規則一任というのも結構ある)。
田中隆団員が公安委員会のホームページの有無や会議録の公表の程度を、持ち前の馬力で調査して採点された。これによると一〇月一九日現在で、独立したものにせよ、道府県庁の間借りにせよ数府県を除きホームページを設けている。そして会議録の内容の程度をチェックしたところ、相当のバラツキがあることがわかった。優等生(といっても添付資料は掲載がない)は国家公安委員会と滋賀県公安委員会(「地方公安委員会で出色」とのこと)で詳細な掲載という。次いで一応合格と言えるグループが秋田、神奈川、埼玉、三重、和歌山、岡山、島根、徳島、鹿児島といったところ。

 警察委員会では、せめてどこの地方公安委員会も国家公安委員会並には掲載せよと要求しよう、また条例や規則を集めるとともに今後公安委員会を中心に議事録や不祥事案等を追ってみようと相成った。議事録等を中心におくのは、意義もさることながらオタク集めのためにはとりあえずの材料として適切ではないかと考えたからだ。各地で救援会等と連携をとっていただけるとウレシ。委員会の口車に乗せられて自分でやったろと考える団員が出てくればもっとウレシ。

 神奈川では一〇月一日に請求した会議録が先日公開された。スミ塗り部分も結構ある。特にムカツクのは、委員の発言において委員名が消されている(国家公安委員会では表示)ことや不祥事案(懲戒処分)につき所属や氏名がスミ塗りされていることなど。オモロそうだから行訴でも出したろかと思っている(なお地方公安委員会では、運転免許の行政処分関連の審査請求や風俗営業者に対する行政処分関連の議事も相当ある)。
平成一一年九月といえば神奈川では一連の「不祥事」暴露が始まる記念月だが、会議録では余り緊張感が見られない。
一一月二四日の会議録には、一一月一九日開催の全公連の結果説明が行われた(神奈川の公安委員が恥をかいたなどとグチッたのだろう)後、県警本部長が「一連の不祥事に関して公安委員の先生にご迷惑をおかけして、申し訳ありません」などと謝ったのち、「警察の常識は世間の非常識との指弾があるが、県民の常識は尊重すべきであるが、すべてを世間の常識に合わせるというのいかがなものか」と開き直りともとれる発言が載っている。
第二弾としてこのへんの時期の資料をもっと公開請求してやろ。
マナジリ決して闘おうなんて全然思わないけれど、時々自分とこの公安委員会のホームページを覗いたり、これはというのがあれば公開請求してみたら新しい発見があるかもしれない。請求手続きが面倒であれば救援会などに頼んじゃうという手もないではない。
 請求を受けるほうは結構プレッシャーとなるみたいだ。

 こちらは所詮趣味と道楽。ゴルフに飽きた(あるいはゴルフは思想的な堕落だと考える)人、疲れた肝臓を愛しく感ずる人、強いモンにギャフンと言わせるのを楽しみにしている人、ジョギングなんて辛気臭いこと誰ができるかと思っている人、そうそう真正面からヤッタロと思っている人、公安委員会や警察の情報公開請求で遊んでみませんか(なお「活動」と言っても私は異論ありまへん)。  (文責 山田泰・監修 大川原栄)


松島団員の「つぶやき」についての補論


千葉支部  守 川 幸 男

 私は団通信一〇三九(二〇〇一年一一月二一日)号で、千葉のアピール運動の中での、あまりにひどいテロに対する怒りからの、アメリカの軍事報復をやむなしとする危険な雰囲気とともに、松島団員の「一集会参加者のつぶやき」についても触れ、これを「二方向の反応」だとして感想を述べた。

 ただ、松島団員のつぶやきに対する感想は少し分析不足もあったように思うし、他方、少し遠慮がちだったようにも思う。

 彼の、テロに対する怒りがわいてこないというつぶやきを分析すれば、要するに、アメリカの身勝手さに対する感覚的な反発、批判の裏返しであり、理論的、理性的には決してテロを糾弾していないわけではないのだろうと思う。それを彼一流の表現でつぶやくから誤解され、物議をかもす。

 ここまでは彼に対する一応の擁護論である。しかし、「アメリカ」と言ってもアメリカ政府や財界、軍需産業もあれば、犠牲となった一般大衆としてのアメリカ人たち(直接殺された人々だけでなくその家族、知人、そしてその悪影響を受けた人々も含む。もちろんアメリカ以外の多数の国々の人たちもいるが)もいるのに、彼のつぶやきはこれらを区別していない。彼にそれがわからないはずはなく、やはり誤解されるもの言いだ。

 テロに対しては理性だけでなく、感覚的、感情的にもきびしく糾弾することが求められている。


ホームページ掲載についてのお知らせ


 団通信投稿記事は「明示のお断り」なき限り、原則として団ホームページに掲載


ホームページ広報委員会委員長  平  和 元

 八〇周年レセプションにあわせて一〇月二六日から団ホームページが新しくなったことはご存じでしょうか。憲法や司法、教育、環境など関連する記事が分野別に検索できるようになりました。意見書なども活用してください。

 さて団通信に掲載されてきました記事については、これまで、広報委員会で検討のうえ、団の組織内事項に関するものや団結上配慮すべきものを除き、原則として団ホームページにそのまま掲載されてきました。団員名を含めて掲載されていますので、パソコンの検索機能を利用すると今では団員の名前だけで団通信に投稿した記事の検索が可能にもなっています。あらゆる人が団員の投稿記事を目にすることができるようになっているのです。逆にそれでは困ると言われる方もいらっしゃるでしょう。また団員間の通信にとどめたいと考えていらっしゃる方もおられるでしょう。

 そこでお願いです。団通信に寄稿はするが、ホームページへの掲載は控えたいと思われる場合は、寄稿の際に「ホームページ掲載禁止」の趣旨の添え書きを一言お願いします。右趣旨の添え書きのない場合は、原則として自動的に団ホームページにも掲載されるとお考えください。
 今後も団通信への積極的な寄稿をお願いします。


『新くらしの法律相談ハンドブック』ご利用のお願い


担当事務局次長  黒 澤 計 男

 既にご承知のこととは思いますが、先日、『新くらしの法律相談ハンドブック』が刊行されました。団八〇周年記念行事の直前という絶好の時機であり、この点申し分ありません。ところで、これをどう普及するかです。せっかくの団編集ですから、是非とも多くの読者の手元に届けたいものです。

 普及ルートとしては、第一に一般書店での店頭販売があります。これは団員としては係わりようもない分野ですので、旬報社の販売努力におまかせするより他ありません。第二に、商工団体や消費者団体あるいは生活相談などをおこなっている地方議員等への直接的な働きかけというルートです。これも旬報社が取り組んでいることです。

 そこで、普及について団員自身がどのように係わることができるか、です。次のようにまとめてみました。

(1) 団員自身が買って読む。とにかく「くらしの」法律相談の名前に恥じず、日常生活で直面する可能性のある法律問題はおよそ網羅されています。ですから、全部読めば「くらし」の法律問題に関して博識になること疑いありません。また、昨今法改正がおこなわれた分野は広範囲にわたりますから、誤りのない最新の法律情報が簡単に手に入ります。

(2) 事務所の接客スペース近くの書籍展示コーナーに複数冊置いて依頼者に勧める。事務所収入が期待できるというものの、これだけでたとえば一〇冊普及するのは経験的に言ってたいへんだと思います。

(3) 団員が関与している法律相談所の常置図書にしてもらう。商工団体その他の依頼によって法律相談を担当している場合、その窓口の担当者自身が相談者の相談内容をある程度聴取できないといけない場合があります。そのためのガイドブックに本書が役立つことは疑いありません。窓口担当者が本書だけで全て解決する、というのはもともと無理としても、その名前が示すとおり、担当者がある程度の展望をもつことができるガイドブックの役は十分に果たします。そこで、本書を窓口に一冊常置する意味が出てきます。

(4) 以上三点は、本書の書籍としての内容に着目する普及方法です。それ以外に、本書をとりあえず「物」として扱うやりかたがあります(と言い切ってしまうと語弊がありますが)。たとえば記念品等のように「贈り物」として普及する方法です。この点、本書は実に体裁がいいし値段も手頃。「物」としての性質に着目すれば、とても綺麗でカッコいい。既に、密接な関係のある諸団体への贈答品として、争議団の勝利記念品として、不義理をしている顧問先へのご挨拶として、法事の風がわりなお返しとして、何となく親戚へ、といった利用事例が報告されています。

 これ以外にも、私の長男が中学校の図書館にリクエストしたとか長女が大学の図書館にリクエストしたとか、いささか些事になるとはいえ、家族の絆を強めることもできるようですから、効用はさらに拡がります。それはともかく、最初にも書きましたように団編集の大切な書籍です。普及した団員や事務所にも若干の経済的メリットがあります。事件依頼のきっかけになる可能性もあります。
 『新くらしの法律相談ハンドブック』の普及にご協力ください。


「凜」とした女性 大石芳野さんのこと


東京支部  松 島   暁

 私の所属する東京合同法律事務所では、事務所ニュースを年に二、三回発行している。タブロイド版四面建で、多くの事務所がカラー化している中で、愚直にもモノクロ印刷を守り続けている。

 見開きの二〜三面は、ゲストを招いての対談・鼎談形式で、今回(二〇〇二年新年号)は、写真家の大石芳野さんだ。

 偶然見かけた大石さんの写真集『ベトナム凜(りん)と』(講談社、二〇〇一年)に魅せられて、編集長の桜木和代弁護士にお願いしたところ、さっそく連絡をとってくれて対談が実現した。

 沖縄のこと、ベトナム戦争のこと、同時多発テロこと、風景写真や人物写真のことなどあっという間の二時間だった。

 大石さんはとても美しい日本語を話す人だ。一つ一つの言葉を慎重に選びながら話す話しぶりは、自分の考えをどうしたら相手に適確に伝えられるのか、最も適切な言葉を選びながらのそれである。桜木編集長によれば、「松島さんの話をおこすとぐちゃぐちゃで、何を言っているのかさっぱりわからないのだけれど、大石さんの話はそのままちゃんと文章になっている」のだそうだ。

 大石さんは、「惚れるというか、いいなと思うのはやはり地に足のついている生き方」に惹かれるという。また「輝く瞳と凛と背筋を伸ばして生きていたベトナムの人々の姿勢に私自身励まされ、のんびりとしているようで隙のない後ろ姿に」何度も唸らせられたという。「貧しさこそ人間を生き生きとさせるという人もいますが、私は決してそうは思っていません。例えばヨーロッパなどの先進国へ行っても子どもたちや若者が日本人のようにトロンとはしていません。非常にしっかりした目をしている。日本人というのは元々背筋を伸ばし、自然を大事にし、人と人とのお付き合いに礼儀を重んずる民族だった」「なぜかこの三〇年くらいのなかで薄れてしまった」と。『ベトナム凛と』は、そんな「この国」に対する大石さんのメッセージだ。

 「凜」という字は、冷たい氷に触れて心身の引き締まることを意味し、転じて、りりしいさま、きっぱりとしているさまを意味するが、「凜」という字が、最も相応しい女性が大石芳野さんである。
 大石さんはこの『ベトナム凛と』で第二〇回の土門拳賞を受賞した。ぜひ書店で見かけたらお買い求め下さい。東京合同法律事務所ニュースもぜひお読み下さい。こちらは無料です。


名著を紹介します

高野孝治団員(島根県支部)著
「蘇る弥生」ドキュメント田和山遺跡訴訟


静岡県支部  石 田  享

 本年八月高野さんは松江の田和山遺跡の保存運動と裁判をめぐる標記の本を出版された。

 かつて一九七〇年代から私も浜松の伊場遺跡保存運動・裁判に関係したことがあり、その頃、高野さんは米子の青木遺跡保存訴訟などにかかわっていたという記憶があったので送本していただいた。

 全文一二〇頁程でコンパクトにまとめられており、文化財保護法と裁判の部分は優れた内容として圧巻である。遺跡の内容も、運動上の困難と裁判での多分、悪戦苦闘したであろうことも滑らかに、子どもでも理解できるように描かれている。

 考古学なり遺跡保存運動に関心がある団員の方々には是非とも一読されるよう紹介します。
 高野さんは、この本を出した目的を以下のように述べています。
 『松江市乃白町に田和山という小さな山があります。これは特別な山です。どうして特別なのか、これはそのお話しです。
 田和山は遺跡の山です。山そのものが遺跡なのです。不思議な遺跡です。珍しい遺跡です。最古の戦場遺跡とも最古の神社遺跡とも考えられます。

 この山を壊すか保存するかをめぐって、裁判が起こされました。壊そうとしたのが松江市。保存しようと訴えたのが松江市民でした。裁判は八〇〇日ほどかかりました。これはその裁判のお話しです。
 田和山は保存されることになりました。多くの人がこれから来る君たちのために保存しておかなければと思ったからです。これから君たちが新しい社会をつくるために、この山がきっと何かの役に立つと多くの人が考えたからです。

 この物語はそういう人々がいたということを君たちに伝えるお話しです』
 ご希望の方は高野団員の事務所へ。【価格一〇〇〇円】