<<目次へ 団通信1042号(12月21日)


  伊藤 幹郎 「黄金の釘」一本  全税関横浜事件最高裁判決
渥美 雅康

憲法調査会名古屋公聴会に対する取り組み

  宇賀 神直 司法改革の団の意見書を読みましょう
齊藤 園生 本当に読んだの?司法改革団の意見書
石田 吉夫 「生徒会誌裁判」にご支援を
長尾 詩子                 自由法曹団の先輩を訪ねて
河内 謙策 アメリカのイラクなどへの戦争拡大阻止のために、自由法曹団員は全力をつくそう!
小賀坂 徹 今日までそして明日からその2
盛岡 暉道 緑色韓国連合、クンサン米空軍基地そしてハノイで「アンニョンハシュムニカ(こんにちは)、韓国米軍基地反対運動」(二)

「黄金の釘」一本  全税関横浜事件最高裁判決


神奈川支部  伊 藤 幹 郎

、横浜地裁に提訴して一六年目、最終盤の一九八九年五月二三日、私は横浜関内ホールを埋めつくした全税関横浜・東京支部の組合員や支援者ら一四〇〇名を前にして次のようなことを話した。

 「この全税関労組と原告組合員の闘いは、国による団結権侵害と組合間賃金差別の違法性を断罪する日本で初めての裁判であります。この闘いを通して、日本の労働者階級の権利闘争という『黄金の殿堂』に我々もまた『黄金の釘』を一本でも打ち込もうではありませんか」と。

、それから一二年半後の二〇〇一年一〇月二五日、ついに我々は一本の「黄金の釘」を打ち込むことに成功した。最高裁が、国による公務員労働組合に対する団結権侵害を認め、国家賠償を命ずるという日本で最初の判決を言い渡したのである。全税関組合員と家族の長年に渡る苦しみや涙は四半世紀を超えてようやく少し癒されようとしている。すなわちこの最高裁判決は「労働判例」として確実に残り全国の公務員労働者の闘いを励まし続けることになるであろうから。その意味で私はこの闘いを共にした人々と素直におめでとうと喜び合いたい。ただ和久野初代原告団長をはじめとする亡くなられた九名の組合員とこの喜びを分かち合えなかったことが悔しくて残念である。それほどこの裁判闘争は長い苦しい闘いでもあった。

、その主な原因は、一九七四年六月の提訴当時から司法の反動化が深まっていったことと、裁判所がもっている行政への追従姿勢によるものであった。とりわけ一審横浜地裁(小林裁判長)は、原告側で不当労働行為と主張した事実をほとんど全て認定し、かつ原告組合員と非組合員との間に賃金差別のあることも原告主張通り認め、これらの行為は関税局の指導のもとに統一的に行われたものと認定したにもかかわらず、原告組合を安保闘争等を通じて「政治闘争化」「実力闘争化」し、違法行為を繰り返す暴力集団かの如くに決めつけて、そういう組合から脱退するよう当局が働きかけたり、組合員を差別しても良いのだ、違法とはいえないという前代未聞の判決であった。この大蔵省に屈服した反憲法・反労働法・反国公法の論理に私はしばし呆然とした。

、しかしこのような法解釈が日本の裁判所で通るはずがないと思い返し、東京高裁では上条弁護士にも入ってもらい、原告団ともども力を合わせて巻き返しをはかった。東京高裁では幸い裁判長(上谷・荒井裁判長)に恵まれたこともあり、見事逆転に成功することができた。一九九九年二月二四日のことである。この判決こそ、今回の最高裁判決のもとになったもので、関税局・横浜税関当局が脱退勧奨や第二組合への支援をした行為等をとらえ、全税関横浜支部への団結権侵害行為と断罪し、国に対し二五〇万円(内五〇万円は弁護士費用)の国家賠償を命じたものである。ただ、原告の組合員に対する昇給昇格差別については格差の存在と差別意思を明確に認め、かつ能力においても非組合員に劣らないと認定しながらも、違法な組合活動があるためその差別が「著しく不当であって裁量権の範囲を逸脱しているとまで認めるには足りない」と退けた。

 このように、判断内容は原告側のほぼ全面的勝訴と言えるものであった。そしてその二年八ヶ月後、最高裁はこの高裁判決をほぼそのまま認めて、国及び個人原告双方の上告を棄却して、国の賠償責任を確定させたものである。

、この最高裁判決はいわゆる三行半の上告棄却判決ではなく、国の言い分についても吟味した上で下されており、国の団結権侵害は明確に判断されている。ただ個人原告らの慰謝料請求については憲法違反とは言えないとして棄却した。しかし高裁の認定した個人原告への差別の事実はそのまま維持されていることと、これについて深澤裁判官の次のような少数意見がある
ことは注目すべきである。

 「私は、多数意見の説示に大筋において賛成するものであるが、関税局文書及び東京税関文書の理解の仕方に関する説示中には、賛成することができない部分がある。すなわち、私は、これらの文書から横浜税関当局の原告組合ないし原告組合員に対する差別意思を認めることができると考えるものである」と。

、とまれ、私はこの闘いにおいても、「正義はそれを求めて闘い続けていれば、いつかは必ず勝つ」ということを実感させられた。

 全税関労組とその組合員の闘いはこれで終わったわけではないが、残された課題については、この最高裁判決を武器にして自信をもって解決に向かって行ってほしいと思うし、何よりも公務員労働組合は当局の支配介入に対して断固として闘ってほしいと思う。なお、弁護団は、私の他に岡田尚、小島周一、木村和夫、武井共夫、岡村三穂、杉本朗(以上神奈川支部)、上条貞夫(東京)の各弁護士である。


憲法調査会名古屋公聴会に対する取り組み


愛知支部  渥 美 雅 康

 衆議院憲法調査会の地方公聴会が、仙台・神戸に続いて、一一月二六日名古屋で開催された。今回は「国際社会における日本の役割」のテーマで意見陳述者六名を全て公募で選ぶということなので支部としてはとりあえず団員に意見陳述や傍聴の申し込みを呼びかけ当日の夕方から憲法会議が予定している集会に参加することにした。申し込みについて団本部からも督促を頂いたが、結果として五六名から意見陳述の申し込みがあり、その九割が憲法の平和主義の理念に基づく国際貢献を主張するもので、改憲意見は全く少数であった。

 当日の公聴会は午後一時からキャッスルホテルで行なわれた。二〇〇ほどの傍聴席に多少空席が目立ったのが残念であった。

 護憲論の立場からは、田口富久治さん(名大名誉教授)が、アメリカのアフガン報復攻撃の国際法違反や、日本国憲法が戦争非合法化の国際法の発展を踏まえたものであることなどを述べ、西英子さん(主婦)は、世界の貧困の問題の解決の重要性を強調し、川端博昭さん(大学院生)は外務省ペルー大使館の勤務経験をふまえて武力に安易に頼ることの危険性を訴えた。改憲論は、国を守るのは崇高な義務であると述べる岐阜の教員と、人的貢献や国益を重視すべきとする愛知の予定候補者、それと世界平和の実現に日本がリーダーシップを発揮するためには強いリーダーが必要という論理で首相公選制に賛成する大学生の三名だった。

 護憲三に対し改憲三というのは、申し込みの意見分布からすれば偏ったものであったが、会場から発言を求める声もあり、予定外に時間が余ったこともあって、会場からも六〜七名が発言を認められた。そのほとんどが護憲の立場からのものであって、中には改憲論の意見陳述者に対する痛烈な反論も述べられるなど、会場の雰囲気は護憲派が圧倒していた。私も幸い当てられたので、戦争責任をめぐる政府の対応や軍備増強こそが近隣諸国の不信を招き、国際社会において日本が名誉ある地位を占めていない原因と訴えた。このような発言が会場から相次いだので、中山会長は午後五時までの予定だったのを四時半で打ち切ってしまったが、今回の公聴会を象徴していたように思う。公聴会が終わったあと、午後六時から「検証 憲法調査会は名古屋で何を調査したか」報告集会が八〇名ほどの参加で行なわれた。共産党と社民党の議員も出席し、現在の衆参の憲法調査会の状況や国民投票法案の動きなどが報告された。公聴会では改憲論を吹き飛ばしたという感想が多かったが、まだまだ運動の盛り上がりが小さいとの意見も多く出され、改憲の動きを広く継続的に訴えていく取り組みの重要性があらためて確認された。


司法改革の団の意見書を読みましょう


団長  宇 賀 神 直

 一二月一日、政府の司法制度改革推進本部が内閣のもとに設置され、司法改革の正念場を迎えた。三年以内に立法化され、具体的な制度改革が行なわれる機会が到来したわけである。わが団が掲げてきた市民のための司法、民主的な司法の方向に制度化されるのか、それとも大筋において財界、自民党や最高裁判所などが考えている方向に進むのか、それが問題である。司法制度改革審議会の審議をめぐる「せめぎ合い」はこれからも続くし、その「せめぎ合い」は審議会の場面よりは困難を伴うと見てよい。勿論、国会の審議という政治の場面はありこれに我々の意見を反映することが出来る。でも、国会の審議にかかる前の段階での政府の「制度改革案」の中に我々の意見を反映させることが必要である。その運動に当たっては常に原点に立ち返って方向を見定める視点を忘れてはならない。それは「せめぎ合い」のそれぞれの段階で原則一点張りを貫くことを意味しない。弁護士費用の敗訴者負担のような譲れないものもあり、又、一見改善のように見えても抱き合わせに弁護権を規制するものが出てくるかも知れない。更に、政府は審議会の改善部分を後退させることもある。その場合、後退は許せない、せめて審議会意見書の線を護れということになるかも知れない。そんな場合に原点に立ち返って論議する必要がある。私がここで強調したいのは世論を盛り上げることで「せめぎ合い」に勝つ、であるが、それには宣伝をしなければならない。何を宣伝するのか。宣伝の武器が必要であるが、団の意見書は最良の武器とはいえないまでも、大いに活用できる。団員の皆さん、「国民のための司法改革を―司法制度改革審最終意見とわたしたちの見解―」を読みましょう。団は一九九八年総会で「司法民主化提言案」を採択し、二〇〇〇年五月討論集会の後、団内討論を押し進め、一〇月に「司法制度改革審議会に対する意見」一二月に「国民のための司法制度を―審議会の中間報告への意見」を作成した。そして「最終意見書に対する意見書」と発展していくのである。出来ればこの三つの文書を読んで欲しいのですが、取りあえず最終意見書を読んで欲しい。

 いつも団の意見書が出るたびに団員は読んでくれるかと考える。お金と労力がかけられている。宝の持ち腐れにしたくない。宝と思わない団員は是非読んで意見を寄せて下さい。読むと団員誰でも二つ、三つぐらいは得意なものがあると思う。それを学習会などで活用することである。支部や事務所での読み合わせや意見交換会などを企画して、是非本部に意見を寄せて欲しい。団員の皆さん、悔いのない闘いをしましょう。


本当に読んだの?司法改革団の意見書


事務局次長  齊 藤 園 生

 一一月の常幹で、団長の宇賀神先生は言いました。「司法改革の運動をしようというけど、だいたい団の意見書はみんな読んだのかねえ、この中で皆さん読みましたか?」。鋭い指摘!、さすが団長。そうそう、改革審の最終意見書が出て、みんな司法改革が重要なことはわかっているんですよ、ほとんどすべての団員が、どっかの論点で私はこういいたい!という点があるのもわかっているんですよ、国民的な運動が必要なのもそのとおりです・・・・。でもね、やっぱり読んでないんですよね。司法改革「命」の方、超ひま人の方、自由法曹団の意見書はとにかくすべて読む主義の方以外の、ごく普通のまじめな団員(?)は、ほとんどあの分厚い意見書全部読んでいないんじゃないかなあ、というのが私の感想です。かくいう私も実は読んでませんでした。すいません。

 団長に鋭く指摘され、事務局会議で読んでいないことを的確に見透かされ「お前が文章を書け」といわれて、しょうがなく、いえ、ようやく勉強を始めようと、私も読んで見ました。

 団の意見書はきわめて網羅的です。最終意見書は多くの点で不十分ですが、このようなところは厳しく批判しています。しかし、批判ばかりしていないで、建設的に改革案を出しているところが、えらいところです。しかし、この意見書だけを一人で読んで「私は司法改革わかったもんね」といえる人はあんまりいないでしょう。私は坂本修団員の「司法改革を考える」を並列して読むと、この意見書の言いたいこともより理解できると思います。そして、この意見書をもとにぜひ、複数で、大いに議論をすべきと思います。団の意見書の中にも個人的には、「ちょっと違うんじゃない」とか、「まったく同感」とか感じる点がありました。いろんな異論・反論・賛成論があるとおもうからです。

 そして声を大にしていいたいのは、弁護士だけの議論にとどめず、可能な限り、事務局も含めた事務所全体での議論をしてほしいということです。司法改革は、団員や団の事務所のあり方も鋭く問うものだと思います。坂本団員は「志を持ってルビコン川を渡るべきだ」と書いておられます。私的に言えば「本気でやる気あるの?」ということを、団員、団事務所が腹を固めないと、到底これはお題目に終わるのではないか、と思うからです。


「生徒会誌裁判」にご支援を


群馬支部  石 田 吉 夫

 一〇月一一日の夕方、地元の新聞社から電話があった。今日、出された生徒会誌裁判の判決につき原告弁護団としてコメントをお願いしたいという趣旨であった。原告の請求が棄却されたという中身の問題以前に、私は、判決が原告らの立ち会いもなく抜き打ち的に出されたことにつき、先ずは驚いたが、段々、怒りがわいてきた。最高裁ではなく、前橋地裁高崎支部(井上薫裁判長)でこのようなことが行われるとは…。

 抜き打ち的判決が言い渡されるまでの経過は以下のとおりである。原告申請の証人の大多数につき却下した裁判官らに対して原告弁護団はただちに裁判官らの忌避を申し立てた。約一年半前のことである。その後、井上薫裁判官につき別の理由で忌避申立をしたが、忌避が最終的に認められず、裁判所から期日照会のFAXが届いたのが、九月一八日の事で、九月二八日までに返事をもらいたい旨、記載されていた。原告弁護団員が多数いることや全員が多忙であることなどもあり、九月二八日(金)までに返事をしなかった。

 すると、裁判所は一〇月一日(月)には一方的に期日を一〇月一一日午後一時三〇分と指定し、期日呼出状を特別送達で郵送してきた。それを受領したのが一〇月四日で、これはただごとではないと思い、原告弁護団はただちに追加書証の提出と新たな証人申請をするとともに、内容証明郵便で一〇月一一日は出廷が不可能であり、期日を変更してもらいたい旨、連絡した。従って、原告弁護団としては当然、期日は変更されるものと思っていた。

 ところが、当日、裁判所は原告の期日変更申立を却下し、直ちに弁論を終結し、一五分後に原告の請求を却下するという判決を原本に基づき言い渡した。今後の訴訟進行についての協議も全くなく、勿論、最終準備書面の作成・提出の機会も奪われ、原告の言い分を一切聞こうとしない不当極まりないものであった。弁論終結後、一五分経ったら判決を下すのであるから、夏頃からは判決の準備を始めていたとしか考えられない。このような裁判所の対応は、約二〇年間の弁護士生活で初めてである。だから、先ずは予想外の対応に驚き、次には原告の言い分に一切、耳を貸さない裁判官らのやり方に怒りがわいてきたのである。

 「生徒会誌裁判」とは、次のようなものである。

 一九九六年の二月、群馬県内の高校教師が生徒会誌に寄稿した原稿が、校長の一方的な決定により不掲載とされた。その決定を不服として翌三月に群馬県を被告として慰謝料を請求する訴えを提起した。なお、右教師は一九九五年夏に「戦後五〇年を考えるマレーシア・シンガポールの旅」に参加し、生徒会誌編集委員会の顧問から依頼されて、現地での見聞を元に書いた「マレーシア・シンガポールの旅」と題する紀行文を寄稿した。紀行文では日本企業がマレーシアで引き起こした公害問題と第二次世界大戦中の日本軍による住民虐殺の事実に言及していた。裁判では表現の自由、教育の自由が、又、校長の権限が、更には不掲載の理由になった右公害問題や住民虐殺の事実などが争点になった。

 一〇月一九日、原告弁護団は控訴し、東京高裁第二〇民事部で審理されることになった。第一回期日は来年二月一三日午後一時一〇分である。第一審で争点になった憲法論や生徒会誌の法的位置づけ、校長の権限論だけでなく、今後、第一審の訴訟指揮についても何らかの形で争点にしていきたいと原告弁護団は考えている。なお、第一審判決は前述の通りの経過の中で作成されたもので、短期に充分な検討もなされないままに出されたものと推測され、中身はお粗末であるといわざるを得ない。
 今後、全国の団員の様々な形での支援をお願いしたい。とりわけ、東京の団員には是非とも弁護団に加わっていただきたいと心から願う次第である。
追記

 井上薫裁判官に対しては、その訴訟指揮の不当性につき今年の三月に慰謝料を請求する「第二の裁判」を提起したが、今回の抜き打ち判決につき「第三の裁判」を準備中であり、これらの裁判は司法改革の一環としても重要であると少なくとも私は考えている。

 原告弁護団は今後とも意気高く、明るく頑張っていくつもりであるが、井上薫裁判官に関しどんな情報でもお寄せいただければ幸いである。なお、同裁判官の前橋地裁高崎支部の前任地は水戸地裁下妻支部である。


自由法曹団の先輩を訪ねて


東京支部  長 尾 詩 子

 私たち五四期は、修習後期である二〇〇一年夏に、自由法曹団の先輩を訪ねて話を聞くという企画をたてました。

 なぜこのような企画をたてたかというと、団の事務所に就職が決まった同期の修習生から「事務所から弁護士になったら団に入るようにと言われたけれど、自由法曹団とはどんな団体かよくわからないし、政党と関係があると他の修習生にいわれて、不安。」との声を聞いたことがきっかけでした。そのような不安を持っている人も誘って、こちらからの疑問をぶつけるとともに団員の先輩方に弁護士人生の中での自由法曹団の意味を聞いてみようと思ったのです。

 松井繁明先生に「教科書問題の闘いについて」、坂本修先生に「自由法曹団について」、豊田誠先生に「水俣病訴訟について」、そして上田誠吉先生には「千代田丸事件をはじめとして先生が関わられた多くの事件について」の話を聞きました(参加者の感想は、後述の「座談会風まとめ」に委ねます)。

 企画意図が修習生の要求に合致していたこと及び四人の先輩方の興味深い活動をされていて修習生としても一度話を聞いてみたいと思ったこともあってか、各回一〇人前後の修習生が参加しました。この数字は、研修所では二回試験対策が盛んで研修所外活動にかかわる人が少なくなる後期においては、多いほうだと思います。

 まずお伝えしたいのは、修習生の多くにとっては団員の話がとても新鮮で魅力的に聞こえたということです。

 坂本先生の話を聞いて、「カルチャーショックを受けました。」と言った友人がいました。まさにその日、研修所の全体講義で、現在のグローバリズム化を考えるならば弁護士が社会的正義を守るというのは時代遅れの議論だという話を聞いたことや、それだけに限らず現在の研修所の講義では一貫して新自由主義に基づいた発想の司法改革の議論や法曹の役割が語られていることからは当然の感想だと思います。なお、坂本先生は、「そんなこといわれると僕のほうがカルチャーショックを受けちゃうよー。」と言ってました(笑)。
 その他にも、色々な感想がありましたが、それらは後述の感想をみてください。

 次に、今回の企画を通じて多くの人が感じとったことは、自由法曹団とはこの国の変革を目指す唯一の法律家団体であるということと多くの先輩はその団の目的を本当に真剣に考えて活動してきたことだと思います。どの先生の話からも、一つ一つの事件を誠実にこなすだけではなく変革の視点で闘うことがどんなに意義深いことなのかが伝わってきました。「ああいう風なスピリットを持ち続ける弁護士になりたい。」「豊田先生の一連の公害訴訟を戦略的につなげて考えているというお話は興味深かった。この国をどう変革するかという視点にたったら、全国の力をどう結集するかというのはとても大事な視点だと思う。」という感想にも現れていると思います。また、松井先生の話の中で、教科書ネット21等様々な団体と協力し人間の鎖やFAX攻撃といった工夫や「教科書に反対」だけではなく「教科書に不安」という一致点だった等、本質を明らかにしつつも柔軟に運動した経緯が紹介され、組織嫌いの友人も、団での闘いはおもしろそうだという感想を言っていました。

 政党との関係についても、松井・坂本両先生から率直な回答がなされ、参加した人は納得したことと思います。

 最後に、今回の企画でお話してくださった先生方にお礼を申し上げるとともに、修習生から団員弁護士への架け橋として(一〇三八号の団通信にパブリックがギルドにつながるには階級的な視点をもった意識的な接触が必要だという話がありましたが(鈴木亜英団員稿)、それと同じ意味で)今回の企画がそれなりに有意義であったことをお伝えしたいと思います。

 以下で、各回の様子を座談会風にまとめてみました。(座談会出席者は、千葉支部の宮腰直子、東京支部の松本恵美子、と東京支部の長尾詩子です)

【松井先生のお話】
「取り組みのスタートは遅かったが、他団体との連携により、一気に運動が盛り上がり、「作る会」教科書の採用をほぼくい止めることができたっておっしゃってたね。それは、教科書ネット21などのいろいろな団体と協力しあい、人間の鎖やFAX攻撃をやったり、いろいろな方法をとったからだってね。取り組みが色々工夫されていて、興味深かった。」
「印象的だったのは、取り組みの方針として、教科書の問題ではなく憲法の問題としたという点と「教科書に反対」だけではなく「教科書に不安」という一致点で運動したという点。本質を明らかにしつつ、柔軟に運動するということで、迅速・広範に運動が広がったのかなあと思った。それにしても、今回お話を聞かせていただいた四人の先生方は、想像以上に、柔軟な考え方をするなあと思った。私たちの世代って、組織嫌いの人が多いけれど、お話を聞いて「組織」のイメージが変わったんじゃないかな。」

【坂本先生のお話
「二〇〇一年総会の時にも少しお話になっていたけれど、先生の弁護士になるまでの人生のすごさが衝撃的だった。それから、研修所の講義ばかり聞いていたから、それと全く正反対の視点から話す坂本先生の話を聞いて、「カルチャーショックを受けました」と言ったら、「僕は当たり前のことをいってるよ。そんなこといわれると僕のほうがカルチャーショックを受けちゃうよー。」といわれちゃった(笑)。」

「労働組合が大衆運動の基礎になる理由がわからなかったけれど、国民のほとんどが労働者なんだからという先生の説明にはなるほどと思った。」

「特に二一世紀初の弁護士登録ということで、「二一世紀は人間らしく生きるということで連帯できる時代に入った。こういう時代に弁護士になるってことは人権を守る弁護士としてはやりがいがあるよ。」といわれたね。この国をどのように変革したらいいのかなんて大きな話だけれど、そういうことを考えながら人権を守る活動をするというのは、悩むことも多そうだけど、ちょっとわくわくした。」

【豊田先生のお話】
「先生が水俣やハンセンの原告の人に「あなたが、かわいそうだからやるんじゃない。あなたが人間として必死に頑張っている姿に感動するから僕はやるんだ。」と言ったという話には心をうたれた。それから、一連の公害訴訟を戦略的につなげて考えているというお話は興味深かった。この国をどう変革するかという視点にたったら、全国の力をどう結集するかというのはとても大事な視点だと思う。」

「豊田先生って、本当に精力的に弁護活動をなさっているなあと思った。スモン、水俣、そして引退したって言いながら、ハンセン、えひめ丸をなさっているのはすごいと思う。こういう弁護活動を可能にしたのは、きっと家族の強力なサポートがあったからに違いないと思ったよ。」

【上田先生のお話】
「戦前の満州国の司法官だった人が、戦後、なんら戦争責任を問われずに、司法研修所の所長になったこと、日本の司法のトップになっていったことに驚いた。今の研修所の体質って、設立当時から一貫しているんだなあとわかった。」

「上田先生が『人は、真実がどこにあるのかに興味をもつものです。それを考えて、立証活動をしなければいけない。疑わしくは罰せずという法理に頼ってはいけない。』といわれたのが、印象的だった。」  以上


アメリカのイラクなどへの戦争拡大阻止のために、自由法曹団員は全力をつくそう!


  東京支部  河 内 謙 策

 私は、現在、アメリカのボストンに住んでいます。外から見ると、日本の平和運動は、何か大きな欠陥を有しているようです。それで左記の文書を作成し、私の友人などにメールしています。紙数の関係で添付文書は割愛しました。添付文書が必要な方や、ご意見がおありの方は、私にメールにて連絡していただければ幸いです(kawauchi@fas.harvard.edu)。 日本の平和活動家への手紙  日本とアジア、世界の平和のためのご奮闘に敬意を表します。突然の手紙にての失礼を、お許しください。

 私は、河内謙策という五五歳の弁護士です。私は、従来沖縄問題などを取り組んできましたが、今年の四月に渡米し、現在、ハーバード大学の客員研究員として活動しています。

 私は、九月一一日以降、主として海外のNGOにむけてPEACE LETTERS FROM JAPANESE FRIENDSを、主として日本の友人に向けてBOSTON PEACE NEWSを発行し、アメリカの報復戦争反対、国際テロ根絶、アフガン難民・人民の生活支援の運動に参加してきました。

 このような私から見て日本の平和運動にひとつの疑問があります。
 それは、アメリカのイラクなどへの戦争拡大の動きに対して、これに反対する大きな運動が日本でつくられようとしていないのではないか、という疑問です。ブッシュが公然と戦争拡大を言い始めたのは、一一月二一日からです。とくに注意しなければいけないのは、戦争拡大の検討対象国として五〇カ国がリストアップされていること(チェニー副大統領の言明、一一月一七日付け『ガーディアン』)と、問題は大量破壊兵器を持っているかどうかだと言いはじめ、北朝鮮が名指しになったことです(一一月二七日付け『ワシントン・ポスト』)。また、ブッシュ政権は最終決定をしていないことに注意してください。日本の新聞は、この問題をあまりとりあげていないようですが、日本とアメリカの支配層は、平和運動が最も影響を受けるマスコミを操作することをつうじて平和運動に混乱をもたらすという戦術を取り始めたようですから気をつけてください(九月一五日の『ニューヨーク・タイムズ』の転換と、一〇月九日の『朝日』の転換の軌跡は、同じでした。)

 アメリカの戦争拡大については、これは第三次世界大戦だ、という声が出るほど大変な問題だと思います。今度の戦争拡大は、著しい国連憲章・国際法違反です。アメリカは自分に異を唱えるものをすべて圧殺し、アメリカの一極支配、アメリカ主導のグローバリズム・エネルギー支配を確立しようとしているのです。今度の戦争に核、生物兵器、化学兵器の危険があることは言うまでもありません。今度の戦争で新たに生み出される犠牲者のことを考えると、気が遠くなります。アメリカでは、テロリズム対策の美名の下に、人民の権利の制限が進んでいますが、警察国家は絶対にごめんです。

 具体的な運動の進め方については、外国にいる私に発言する資格はありません。ただ私が外国との比較で思うのは、まず隗(かい)より始めよ、ということです。日本の平和運動は、上部の方針待ちや団体の決定待ちが多すぎるようです。アメリカでは、平和運動に参加している個人がもっといきいきとしています。それから、平和運動を進める勢力は意見の違いを乗り越えてもっと統一して運動を進めるべきではないでしょうか。アメリカの戦争拡大には、今のところアナン国連事務総長やドイツのシュレーダー外相も反対しています。だからブッシュ政権の最終決定が出ないよう、最終決定が出てもそれを実施に移さないよう運動を急ぐ必要があります。

 私の住んでいるボストンは、キリスト教の一グループであるクウェーカーの影響が強いところです。クウェーカーは、一七世紀以来弾圧に耐えて、非暴力絶対平和主義を貫いてきました。そのクウェーカーら約五〇〇名が一二月七、八日に会議を開き、アメリカの戦争拡大阻止のために全力を挙げることを決めました。

 日本の平和運動も世界の平和運動と連帯して大きく前進する時期が来ているようです。もし貴方が私の意見を検討にあたいするものとお考えであれば、私のメールをできるだけたくさんの貴方の友人に転送していただければ幸いです。またミニコミなどへの転載も自由です。 貴方の御健闘を心から期待しています。おたがいに頑張りましょう。


今日までそして明日から
 極私的自由法曹団物語〈序章〉ーその2

神奈川支部  小 賀 坂  徹

2、事務局会議の課題
 
本部の事務局次長になると、担当の分野が割り当てられることになる。一年目の私の担当は、子どもの権利、労働問題、司法問題、それから「自由法曹団への招待」の改訂ということだった。全部一人で担当していた訳ではなく、労働問題は則武次長と司法問題は工藤次長と一緒に担当した。

 社会が複雑化してくればくるほど、団の果たすべき役割とその分野は広がっていき、しかもそれぞれが専門化してくる。したがって、本部にいても自分の担当以外の分野については、ややもするとよく分からないまま推移してしまうということになりがちだ。そういった問題を解消するのが、事務局会議の役割だと思うのだが、それぞれが忙しく、かつ諸分野の内容が複雑になってくると、事務局会議においても各次長が担当分野について報告して終わりということになってしまったりする。本来、本部での集団討議をへて運動方針が決まるものであるのに、そうならず報告に終始していることに私は強い不満をもった。当時の小部事務局長にそのことを話し、それらしき話し合いの場を持ってもらったこともあったのだが、なかなか改善は難しい。それぞれの次長が諸分野についての問題関心を常に持ち続けると同時に勉強もして、運動のアイデアを考えていかなければならないのだろうが、これまた至難の業だろう。ただ、皆がそう意識することで各自の負担を減らすことにもつながるとも思うのだけれど「言うは易し」ということなのかもしれない。

3、自動食器洗い機のこと  
 子どもの権利委員会の当時の最大の課題は、少年審判への検察官関与、観護措置期間の延長、合議制の導入等を柱とする少年法改正案に対する対応であり、意見書作りや国会要請などの対応に追われていた。委員長は千葉一美団員で、千葉さんはこの年、事務局次長を退任すると同時に子どもの権利委員会の委員長になった偉い人なのだ。千葉委員長は実に個性的で、何かというとすぐ口を尖らせながら、独特の口調で「そぉだよねぇ、そんなことできるわけないよねぇ。ばかたれ。」を連発していた。

 子どもの委員会の会議は、委員の都合の関係で、団本部ではなく弁護士会の会議室で行われることが多かった。年が明けて九九年の一月に委員会の会議を弁護士会でやった後、地下のレストランで新年会をした。参加したのは、千葉委員長と私のほかに小笠原彩子団員、杉井静子団員、村山裕団員だった。どういう話しの流れだったのかは覚えていないが、そこで千葉委員長が、最近購入したらしい自動食器洗い機が如何に便利なものであるか、これを購入したことによって家事の負担がどれ程大幅に減ったのか、電気代なんかは全然たいしたことはない、とにかく自動食器洗い機は偉いのであるということについて、とうとうと語り出したのである。小笠原団員宅にも自動食器洗い機があるようで、彼女も千葉委員長の言い分に激しく賛同し、自動食器洗い機の効用の素晴らしさについてひとしきり語り合われたのだった。私がやや懐疑的な話をすると「あんたなんか食器洗いの厳しさ、辛さなどしらないだろう。そこのところをじっくりと反省しなさい。」というような妙な話の展開になってしまったのだ。家に帰って妻にこのことを話すと、「それはその通り。そうに決まっている。そんなことはあらためて言われなくたって、ずーっと前から分かりきっている。何を今さらいっているのか。」と何だか反撃されてしまい、結局、私も自動食器洗い器を購入するはめになってしまったのである。

4、懺悔
 労働問題については、前年に労働法制の大改革がなされ、私が担当した当時は労働者派遣法の改正等が問題となっていた。ここには、菊池紘、坂本修、滝沢香、松井繁明、船尾徹の各団員が集まっていた。まあ何というか実に「重い」面々である。則武次長はこのメンバーの中で一年間揉まれてきたこともあってか、実に堂々と振る舞っていたが、私なぞははっきり言ってビビッてしまっていた。そもそもなかなか話についていけないのである。坂本さんから「小賀坂君、神奈川はここんとこどうなっておるかね」なんて言われて、「いや、その、何というか、まあ、あまりよく分かりません。」というような受け答えになってしまっていた。ただ坂本さんの熱情と勤勉さには圧倒されるものがあった。このことは後に司法問題でさらに再認識させられることになる。

 そんな中で則武次長は実によく働いており、かつまた優秀だった。彼の地元の蒲田で夜中まで飲んだことがあったが、「今日は蒲田のディープなところではなく、静かなところで飲もう」といわれて、ほっとしたような残念なような複雑な気持ちではあったのだけれど、小綺麗な居酒屋風の店のカウンターで静かに語り合った。彼はどこか学校の先生のような生真面目さで、団の現状と課題を語っていた。私は黙って聞いていることが多かったが、彼の団に対する深い思いが静かに伝わってきて、気持ちのいい時間を過ごした。それにしても「蒲田のディープな場所」というのは一体どのようなところなのだろう。激しくも怪しく、そしてねっとりとしてもの凄くエロティックなところなのであろうか。今、彼は岡山に帰ってしまっているが、是非機会があれば「これが蒲田のディープな場所なのである」というところに案内して欲しいものである。

 話はそれてしまったけれど、労働問題についてはほとんど則武次長に任せきりで、私は派遣法の意見書作成にたずさわった以外、ほとんどこれといった仕事はできないままだった。一度、会議の日程が合わなくて参加できなかったために、そのままずるずるといってしまったのである。則武次長には実にすまなかったと思う。
委員会の場であったかどうかは定かでないが、東京の労働事件の受任の仕方というか、事件の配転というのか、そうしたことが何度か話題になったことがある。東京というところは何だか実に不思議なことになっているのだなあと強く思った。

5、酒とカラオケの日々
 一緒に本部に来た工藤次長とは、同期ということもあってよく飲んだ。彼が無類のカラオケ好きであることは、私の就任挨拶の原稿「第一回事務局会議の夜」に詳しく書いたから、覚えている奇特な人もいるかもしれない。とにかく彼はどこに行ってもカラオケを歌いたがった。彼は何でもよく歌ったが、どういう訳か森高千里やZARDといった女性ボーカルの曲がとりわけ好みのようだった。

 私たちがよく出かけていったのは池袋の「和」という工藤さんの行きつけの店だった。この店はとにかく広い店で、席が全部埋まれば五〜六〇人くらいは入れるのではないかという広さで、いつも混んでいた。ここにはちゃんとステージのような場所があってそこでカラオケを歌うのだが、一段高いところから数十人の客を目の当たりにして歌を歌うのは、気恥ずかしいことこの上ない。でも工藤さんはこういうところも気に入っているようだった。ここには、事務局会議の終わった後などに、事務局の面々やその時々に団本部に来ていた人たちと一緒に出かけていった。松島さんは意外にきれいな声で「高原列車はラララいくよー」という歌を歌った。また、ここに城北事務所の小沢さんがひょっこり現れて合流することも何度かあった。小沢さんは三田弁護士の話をよくしていた。工藤さんは普段どちらかと言えばぶっきらぼうで、ともすると愚痴ばかりこぼしているような印象をもたれる人もいるかもしれないが、こういうガヤガヤしたところでも驚くほどまじめな話をしたりして、こっちがたじろいでしまうこともしばしばだった。彼は盗聴法反対運動について獅子奮迅の活躍もしていた。

 しかし池袋は私の住んでいる横浜からは何とも遠かった。飲んでいるうちに終電がなくなってしまうことも、大きな声ではいえないが何度かあった。ある時、終電がなくなり、工藤さんたち埼玉勢も帰ってしまった後、心優しき本部専従事務局の阿部さんが始発までつき合ってくれたことがあった。池袋駅近くのショットバーで始発電車を待ちながら、あれこれ団のことを話した。完全に酔いがまわっていたので、何を話したのか今となってはよく思い出せないが、後に阿部さんから「先生は純粋なんですね。」と言われ、「そうなのだ、俺は純粋なのだ。」と力強く言ったのだが、ほかに言いようがなかった。私にとっては自由法曹団というものの実態がよく分からないまま本部に来てしまったのだが、こうしていろんな人たちが団についてまじめに考えていることを知ることで、妙に嬉しい気分になれた。

 阿部さんと朝まで過ごした後、早朝四時過ぎに池袋始発の山手線に乗り込むと、思いのほか多くの人が乗っていた。品川まで行って乗り換えるつもりだったのだが、いつしか気を失ってしまい、神田で目が覚めて時計を見たら七時半をまわっていた。言うまでもなく、七時台の山手線はぎっしり人が詰まっている。私はその中で座席にだらしなく寝そべっていたのである。その姿の恥ずかしさと七時半まで寝過ごしてしまったことへの自己嫌悪の思いで、一気に目が覚めてしまった。多くは語れないが、その後はたいへんだった。

 さて、このヨタ話がどのように展開し、どう収束していくのかということについて、心配に思う方々はたくさんいるだろう。もうすでに「いい加減にしろ」と思っている人も少なくないに違いない。しかし、ここでは私がいた自由法曹団本部の三年間の中で、本部事務局の面々やその周辺で様々に活動していた愛すべき人たちの姿を、順不同に全部実名で赤裸々に語っていくということにしようと、書きながら思ってきているのである。言ってみれば、そうした人々の人間模様や青春群像というものを描いていこうということである。そうなのだ。この文章は、自分を含めたそうした人々のヒューマンドキュメントなのだ。だから、本部の編集権の許す限り、書き続けるのだ。(つづく)


緑色韓国連合、クンサン米空軍基地
そしてハノイで 「アンニョンハシュムニカ(こんにちは)
韓国米軍基地反対運動」(二)

東京支部   盛 岡 暉 道

このグリーンコリア事務所での打ち合わせの後、即ち、二日目の一〇月九日の午後四時から六時まで、私たちは文化会館での日本側と韓国側との米軍基地訴訟の情報の交流会に参加しました。

 ところで、グリーンコリア事務所にお別れをする際、出口のドア付近に、子どもが飛行機の爆音に耳を覆っている写真をあしらった、新横田基地訴訟団がニューヨークタイムズに出した意見広告に図柄がよく似たポスターが二枚貼ってあるのが目にとまったので、私たちは「これ欲しいなあ」と図々しく一枚頂いてきました。
 松浦団員に読んでもらったところでは

「メヒャンニ(梅香里)平和のための国際文化祭 
  日時 二〇〇一年一〇月一三日(土)午後五時
 場所 ヨンサン戦争記念館平和の広場(予定)
 爆撃が始まり、子どもは耳をおさえる/終わらない戦争/
 メヒャンニでは、今も昼夜を問わず/爆撃機の轟音と火薬の臭  いで満ち満ちている/米軍の生体実験の対象になることを拒む/ 唯一の叫びはメヒャンニに平和を! 
  主催 メヒャンニ平和のための国際文化祭準備委員会
  主管 メヒャンニ住民対策委員会
     メヒャンニ米軍国際射爆場撤廃汎国民対策委」
と書いてあるのだそうです。

 さて、グリーンコリア事務所のあるキリスト教会館から会場の文化会館までは車で一〇分もかからなかったと思いましたが、途中、いかにも由緒のありそうな堂々たる韓国風の大きな城門のそばを通りました。私たちの車に同乗していた通訳兼務のキムさんが、せっかく「あれが…」とこの由緒ある城門の名前を教えてくれていたのに、私は明日か明後日ゆっくり見物すればよいからと思っていて、それが南大門だか東大門だか聞き逃してしまいました。実は、これはとんだ思い違いで、わずか三泊四日の訪問では、そんなのんきな名所見物の時間などまったくなかったのです。

文化会館での「韓国と日本の米軍基地訴訟の現状」交流会
交流会の会場には、正面に、ハングル文字だけで大きく「韓国と日本の米軍基地訴訟の現状」と書かれており(あとで松浦団員からそう教わったのですが)、各参加者の座席の前にはやはりハングル文字のプレートとマイクが置かれているという予想外に本格的なしつらえでした。韓国側の参加者は、司会役で環境問題専門のパク・オスン弁護士、環境訴訟センター担当のウー・キョンソン弁護士、キンポ(金浦)空港騒音訴訟担当のチョイ・ヨンドン弁護士、クンサン(郡山)米空軍基地の騒音訴訟を準備しているキリスト教会の牧師さん(この方には色々お世話になったのに名前をメモしそこないました。なんとも申し訳ない限りです。)、「クンサン基地の土地を私たちに返せ市民の会」のキム・ミンアさん(女性)、それにグリーンコリア環境訴訟センターのリー事務局長、同パク幹事、通訳兼務のヨンサン基地返還運動センターのキム・テヒョンさん(女性)、その他若い関係者達など全部で一五人ばかりでした。

 私たち訪韓団の団長格の松浦弁護士は、キム・テヒョンさんと交替で、韓国語を日本語に、日本語を韓国語に通訳するのに専念せねばならず、日本側の主報告は私が担当して、一九六八年に始まった大阪国際空港公害訴訟から今年の七月に結審した新横田基地公害訴訟までの約三二年間の空港・基地騒音訴訟のあらましを二〇分ばかりで報告しましたが、実は、こういう訴訟の現状の説明は、あとで報告するとおり、あまり必要のないことでした。
 韓国側からの報告は、

○キンポ(金浦)民間空港騒音訴訟
九〇年代に空港公団を被告として訴訟を起こしたが、空港公団には「管理権」しかなくと言う理由で敗訴した。
二〇〇〇年一月に一〇〇人の原告で公団と国を被告に再訴した。
 三〇〇〇人の原告を目標にして開いた説明会には大勢の住民が参加した。

○メヒャンニ(梅香里)米軍射爆場騒音訴訟
 韓国で初めての米軍基地訴訟。九八年に原告八名で提訴し、一日あたり一〇〇〇ウオン(一〇〇円弱)の賠償金を請求。
 被告側は「騒音がWECPNL値(航空機騒音評価単位の一種)で測定されていない」「公共性」「危険への接近」などを主張。

 二〇〇一年四月に裁判所は「W値が不明でも騒音被害の存在は明らか」「国は何らの被害救済も行ってこなかった」などとして原告一人当たり一〇〇萬ウオン(一〇万円弱)の賠償金支払を命じた。国は控訴。
 二〇〇〇人の原告による第二次訴訟を準備中。

○クンサン(郡山)米軍基地騒音訴訟(準備中・後述)
○テグ(大邱)米軍基地騒音訴訟(二〇〇三年提訴予定)
などというものでした。これらの韓国の対米軍基地訴訟運動には、グリーンコリアなどの市民団体と一緒に取り組まれているものと区長(部落長)を中心としたものとがあるようです。

 私たちの感覚では、この後者の取り組みこそが本流になるべきだと思いがちですが、韓国の場合、地元ないしは地方自治体中心となると、我々の思い到らない特殊な困難があるようです。

 つまり、韓国では、ついこの間まで、米軍は、北朝鮮の脅威から自分たちを守ってくれる友軍であるという多数の意識と、反共法による米軍基地反対運動への厳しい抑圧が存在していた。そして地方自治体の力はまだまだ弱い。

 だから、現在の韓国の米軍基地反対運動は、軍事政権に対する市民団体などの激しい闘争の結果獲得された市民的・政治的自由の成果によって、はじめて可能になっているという事実です。
韓国側から、私たちに質問が出たとき、私と原告の大野さんは、こもごも、焦らないで地元住民とともにじっくり訴訟に取り組む態勢を作り上げることが大切だと思うと答えたのですが、松浦団員は閉会にあたっての挨拶で、わざわざ、「日本側の発言が、韓国のみなさんよりも米軍基地訴訟では先輩なのだといっているように聞こえたかも知れませんが、私たちはかつて日本がみなさんの国に大きな損害を与えその上で現在の経済的な地位を得ていることを充分に認識しており、その罪を償う意味でも私たちの経験を参考にしていただきたいのでこのような報告をしたのです。」という意味の言葉を付け加えておいたのだそうです。

 あとで、松浦団員からそのことを知らされ、私も大野さんも「お互いに反省しなければいかんなあ」と言い合ったものでした。

 しかし、交流会が終わって、みなさんとお別れの挨拶をしあっているときに、一人の学生風の青年が、私に握手を求めながら、大変流暢な英語で「貴方の話は非常に参考になりましたよ」と言ってくれたときは、心から嬉しく思いました。

 深夜の西海岸高速国道をクンサンへ
 交流会の後、文化会館の近くの食堂で夕食をとったのですが、これがまったくのアルコール抜きだったので、まあまあご苦労さんでしたと懇親会にでもなるのだろうに、ちょっと変だなあと思っていたら、このあと直ぐに、環境訴訟センターのリー事務局長やパクさんが車を運転して、私たち五人を米軍飛行場のあるクンサン(郡山)まで運ぶことになっていたのでした。こうして、私たちは夜八時頃から、ソウルの片側だけで五車線はありそうな高速道路いっぱいに車のひしめき合う超渋滞の中を、折からの大雨をついて、クンサンまでの二五〇キロ余のドライブに出発したのでした。

 しかし、それにしても、このソウル周辺の車の渋滞のひどさは、これでよくみんな我慢強く運転しているものだなと呆れてしまいます。何年前から、こういう車、車の洪水になっているのかは知りませんが、道路政策の不在のまま車の乗り入れを野放しした結果、もうこれはどうにも手の打ちようが無くなってしまっているのではないかなと思うほどです。そういう車の大群の中を、乗せて貰っている我々がてんでに眠り始めたのに、徴兵の時に戦車に乗っていたという(それがまた、別に周りの車を蹴散らかすわけではないのに、この超渋滞を乗り切るのにとても頼もしく思えました)リー事務局長さんだけが黙々と運転し続け、二時間ほどたって一度だけ、名前はわかりませんが○○サービスエリアで休憩しました。驚いたことに、この○○サービスエリアで、あの交流会に参加していたクンサンの牧師さんやキム・テヒョンさんたち、それに最若手弁護士のウー・キョンソンさんも姿を見せたので、私は、彼らも車で、私たちに同行していたことを初めて知りました。どおりで、あの夕食が全員完全ノン・アルコールだったわけです。そして、私たちが乗せて貰っている六人乗りの外車は、このウー・キョンソン弁護士が彼のボスから借りてくれたものであることも知りました。

 さて、それからのクンサンまでを、またリー事務局長さんだけが交替なしで運転して、私一人はどうにも眠れず、暗い窓の外を眺め続けていると、五、六分おき位に、赤い電灯で照らし出された十字架が、次から次と目に入ってきて、この国のキリスト教会の数の多さを再認識させられました。こうして約四時間後、何だか漁港らしい街に入り、ちょっとどうかと思うくらい堂々と温泉マークを頂いた安モーテルが並んでいる一郭に車が入っていったので、やっと目的のクンサンについたことがわかりました。

 リー事務局長さんたちがそのうちの一軒に宿泊を申し込みましたがここは断られ、でも、次の一軒はなんとかOKしてくれたようなので、ようやく真夜中の一二時過ぎ、気のよい宿主のお陰で、いかにも宿賃の安そうなモーテルに泊めて頂くことが出来ました。
ところがこのモーテルの暖房は、韓国特有のオンドルで、最初はこりゃ暖かくていいわと喜んだのですが、いざ寝てみると熱くて熱くて、なかなか寝つかれずえらい目にあいましたが、今となってそれも悪い思い出ではありません。  (続く)