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中野 直樹 二〇〇二年総会 岡山で開催
小海 範亮 東京大気汚染裁判判決ー弁護団の確信
川口 彩子 東京大気の判決日行動に参加して
加藤 啓二 総会雑感
山田  泰 新旧役員挨拶その2 退任のごあいさつ
平井 哲史 新任のご挨拶
渡辺登代美 生きて戻りたい
上山  勤 世界中の世論に反するイラクへの軍事侵攻に反対し、有事法制を阻止しよう
守川 幸男 有事法制をめぐる三題ー国民保護と修正論議と拉致問題とー
山本 真一 日朝国交正常化交渉に思う
沼田 敏明 深井昭二弁護士への追悼



二〇〇二年総会 岡山で開催


事務局長  中 野 直 樹

 一〇月二七〜二八日、岡山県・児島の「倉敷ファッションセンター」にて、自由法曹団二〇〇二年総会が開催された。参加者は四一四名(弁護士三〇七名、事務局員八六名、その他二一名)であった。岡山での全国会議は一九七三年の苫田温泉総会以来である。

 国際的にはアメリカのイラクに対する全面的な先制攻撃を許すかどうかが緊迫を深め、また北朝鮮との国交正常化交渉の開始・北朝鮮が拉致した被害者の帰国・北朝鮮の核開発計画をめぐる情勢の激動が起きた。臨時国会が開会し、小泉政権が「不良債権」処理を加速して疲弊している経済を追い打ち大量倒産・失業者を一層増加させる、継続審議となった有事関連三法案の「修正」をもちだして巻き返し策動を強めている、そのような情勢のもとで開催された。

 総会は、岡山支部・清水善朗団員、広島支部・林隆義団員、東京支部・島田修一団員が議長団となって進められた。
 宇賀神直団長から開会の挨拶、地元岡山支部の山?博幸支部長から歓迎の挨拶があった。来賓として岡山弁護士会から和田朝治会長、日本国民救援会から望月憲郎事務局長、全国労働組合総連合会から井筒百子常任幹事の挨拶があった。岡山弁護士会では前日の二六日、有事関連法案反対の市民集会を開催したとの報告がなされた。

 古稀団員一九名の表彰と出席された八名の団員に一人一人表彰状と記念品が贈られた。宇賀神団長が頭をひねって準備された表彰の言葉に会場が沸いた。出席された団員は、尾関闘士雄団員、於保睦団員、上条貞夫団員、近藤忠孝団員、坂本修団員、坂本福子団員、冨森啓児団員、野間友一団員であった。代表して一月一八日生まれの尾関闘士雄団員から、中学一年で敗戦を迎えてからの時代の移ろいと自らの生き方を振りかえり、個別の権利闘争とともに長年月にわたり法律扶助事業の充実・拡大に努力してきたことを紹介する挨拶がなされた。

 篠原義仁幹事長は、有事法制と改憲策動を軸に国内情勢が動いていること、「国民保護法制」という偽りの名で民主党をとり込もうとする策動が強まっていること、ブッシュ・ドクトリンに象徴されるアメリカのユニラテラリズムの強まりに対し世界から憂慮と批判の声が沸きあがっていること、拉致問題・核開発という重大な課題をかかえつつ、日朝国交正常化にむけた話し合いが始まったことに言及し、共同の力を強め、臨時国会でも有事法案廃案を求める積極的な取組みをしていく必要性を強調した。
 改憲策動と連動して教育基本法改悪の動きも速度をまし、中教審で中間報告をまとめる作業が強引に行われている情勢報告がされた。
 司法法問題では、検討会が設置されて以降の自由法曹団の取組みを振りかえりつつ、特に弁護士報酬敗訴者負担問題を取り上げた。これまでの全国連絡会などに加え、日弁連も明確に反対の立場にたち対策本部を設置し、各地の単位弁護士会で市民集会が開催されるようになっている情勢の進展をさらに強め、新仲裁制度の課題とともに改悪絶対阻止の構えと運動を飛躍的に強化しようと訴えた。
 最後に、本総会に間にあわせて出版した「自由法曹団物語 世紀をこえて」の普及をよびかけ、予算・決算の提案を文書に基づいて行った。
 会計監査から会計処理が適正に行われていることが報告された。

 分散会
 二六日の午後二時五〇分〜五時五〇分、二七日の午前九時〜一一時三〇分、三つの分散会に分かれて討論を行った。二六日はアメリカの戦争政策、有事法制、改憲策動・憲法運動、二七日は敗訴者負担をはじめとする司法民主化の課題と裁判闘争をテーマとした。
 参加者と発言者(二六日・二七日)は、第一が一六〇名(二〇名・一三名)、第二が一二三名(一三名・二九名)、第三が九五名(一九名・一九名)であった。

 二八日の午前一一時四〇分から全体会を再開した。
 冒頭、日本共産党岡山県委員会の中原猛委員長から来賓挨拶があった。 
 その後、八名の団員が発言した。アメリカ単独行動主義と有事法制、教育基本法見直しの情勢、国際人権規約をいかに実務で活用するか、憲法調査会の動向と改憲策動、司法民主化の取組み、地方で活動する団員を増やすことの緊急性、解雇自由化立法を含む労働法制改悪の動き、芝信用金庫事件の最高裁和解成立の報告であった。

 討論を踏まえ、総会議案、予算・決算それぞれが承認された。そして、次の決議が採択された。
 ? アメリカのイラク武力攻撃および日本政府のこれに対する支援、加担に断固反対する決議
 ? 有事法制関連三法案の廃案を求める決議
 ? 教育基本法「改正」に反対する決議
 ? 国民のための司法の実現を求める決議
 団長は無投票で、幹事は信任投票で選出されたことが報告された。新入団員二八名の入団を承認した。
 総会の場を一時中断にして拡大幹事会を開催し、常任幹事を選出し、規約にもとづき、幹事長、事務局長、事務局次長を選任した。新役員は次の通りである。
 団長    宇賀神 直(大阪支部  再任)
 幹事長   島田 修一(東京支部  新任)
 事務局長  中野 直樹(東京支部  再任)
 事務局次長 斉藤 園生(東京支部  再任)
   同   山崎  徹(埼玉支部  再任)
   同   馬屋原 潔(千葉支部  再任)
   同   杉島 幸生(大阪支部  新任)
   同   渡辺登代美(神奈川支部 新任)
   同   坂 勇一郎(東京支部  新任)
   同   村田 智子(東京支部  新任)
   同   平井 哲史(東京支部  新任)

 退任した役員は次のとおりで、退任の挨拶があった。
  幹事長   篠原 義仁(神奈川支部)
  事務局次長 山田  泰(神奈川支部)
    同   黒澤 計男(東京支部)
    同   大川原 栄(東京支部)
    同   伊藤 和子(東京支部)
    同   柿沼祐三郎(群馬支部 
    同   井上 洋子(大阪支部)

一〇 閉会にあたって二〇〇三年五月集会へのお誘いの発言が東北ブロックを代表して庄司捷彦団員からなされた。日程は五月二五日(日)〜二六日(月)(ただし、五月二四日にはプレ企画を検討中なので合わせて日程を確保いただきたい)である。最後に、岡山支部の石田正也団員からのあいさつをもって総会を閉じた。

一一 プレ企画
 前日二七日の午後には次の二つのプレ企画を行った。
? 新人交流会
 一〇月に登録したばかりの五五期新人を対象とした企画である。修習期間が一年半となり一〇月上旬登録となった関係で新人向けの企画をどうするか検討した結果、伝統的なスタイルの新人学習会は五月集会の企画とした上で、これとは別に総会プレ企画をもつことにした。
 五五期の修習修了間際の九月三〇日に和光市内で、自由法法曹団と修習生との交流企画をもった。このときは豊田誠団員の「法律家としての生きがいを考える」講演と八つの弁護団事件紹介を行った。本総会プレ企画はこれに連続するもので、団七五周年時に制作したビデオ上映と上田誠吉団員による「団員として生きる」との演題の講演で構成した。いずれもはじめての試みである。
 参加者は新人弁護士が三四名、その他一五名であった。
?「これからの自由法曹団を考える」
 三重五月集会、七月名古屋に続く第三弾の全国会議である。今回は、実りあるプレ研修の実践講座、修習生の就職実態調査報告、団員拡大の必要性と事務所の地域展開への挑戦、新司法試験と法科大学院をめぐる報告、アメリカのロースクールにおける学生の自主的活動の調査報告、中央大学と立教大学における人権ゼミの実践報告、以上の六つのテーマで基調報告と意見交換を行った。
 法科大学院のエクスターンシップ体制つくりへの積極的な取組みの意義が強調され、また法科大学院の開設される大学で、学部生のなかに自主的な人権ゼミ運動をつくり支援していく活動に各支部ごとに取り組んでいこうとの呼びかけがあった。
 参加者は一八都道府県から五六名であった。
一二 この岡山総会参加者数は一九九〇年熊本総会以来の四〇〇名台であった。弁護士参加者数も同総会以来の多数であった。
 私たちを迎えていただいた地元岡山支部の団員と事務局の皆さんに感謝申し上げます。
 岡山支部の団員は一四名。この一〇数年間で他支部からの転入と弁護団活動を通じての入団で四名増員しているが、三九期以降新人として入団した団員は皆無であるとの実情にある。
 地方は団員を待ち焦がれているとの切実な声が出されていた。



東京大気汚染裁判判決ー弁護団の確信


東京支部  小 海 範 亮

 東京大気汚染裁判の第一次原告九九名に対する判決が下された。国、東京都、首都高速道路公団に対して、昼間一二時間交通量四万台以上の都内幹線道路沿道五〇メートル以内に居住する気管支ぜん息原告七名への総額七九二〇万円の賠償が認められた。しかし、トヨタを始めとするディーゼル自動車メーカー七社に対する損害賠償は認められず、また国らに対しての汚染物質差止も認められなかった。

 簡単に判決内容を要約すると、?国、東京都、道路公団の責任は、従来の判決同様道路設置管理者の責任に限られ、規制責任に関しては争点であると認識しながら理由中で一言も触れられず無視された。?原告らは、東京は道路が網の目のように張り巡らされ面的汚染状態にあると主張した。しかし判決は、千葉大調査を重視しつつもその重要内容の一つ(都市部と田園部で有意差を示す疫学調査結果)には触れず、一六年も前の専門委員会報告を基に、尼崎判決同様道路影響は沿道五〇メートルまでであるとした。原告側が作成した都内汚染濃度シュミレーション自体の信用性を否定し、かつ東京都実施のシュミレーションまでも全く無視するという極めて非科学的な態度をとる。?この裁判では史上初めて自動車メーカーを被告とし、原告らは特にディーゼル車の製造販売責任を主張した。しかし、判決は、自動車排ガスと気管支ぜん息の発症、増悪との間の因果関係は存在しメーカーに排ガス低減の社会的責務があるものの、自動車の社会的有用性や国による単体規制の遵守、集中コントロール不能(幹線道路の自動車の集中集積に対して回避措置とれず)などを理由とし、メーカーの製造販売行為に結果(健康被害)の回避義務に違反した過失はない、として棄却した。予見可能性判断の段階から、健康被害とメーカーに有利な上記諸点との利益衡量論を展開するという、これまでの判例の集積した過失論の大枠自体を無視した手法となっている。?損害については、アトピー素因の斟酌をやめ、また公健法による認定を受けていない未認定患者一名の賠償も認めた。暴露期間、発症か増悪かなどの要因により、一人あたり三三〇万円〜二七五〇万円の賠償金額となっているが、従来の大気汚染判決よりは比較的高い水準である。?汚染物質(二酸化窒素、浮遊粒子状物質)差止については、千葉大調査によってはこれら汚染物質が気管支ぜん息の発症・増悪に関わる重要因子であるとまでは断定できず他に信頼すべき知見がないため、因果関係を肯認した原告についても汚染濃度の閾値を認めるに足りる証拠はない、として棄却した。これは、浮遊粒子状物質について、千葉大調査によっても健康被害を害する蓋然性が高いと判断できるとして排出差止を認めた尼崎判決及び名古屋南部判決から後退した判断である。

 総括すると、一年近くもかかってたいした新たな判断もない、面白くもない判決を書いたのかと思うと、腹立たしくて仕方ない。

 しかし、我々は他の人に残念だったねと言われたときに少々違和感を感じる。ある確信を抱いているからだ。それは何か。

 判決当日、原告や支援者を含めた一三〇〇人の交渉団が被告国、東京都、道路公団、そしてメーカー七社に集まった。特に各メーカーは交渉受け入れを一〇人程度に限ると固く門を閉ざし、中に入るだけでも困難を極めた。しかし、長いところでは数時間ねばり強い抗議、交渉を続けそれぞれ五〇人近くの交渉団受け入れを認めさせた。さらに、原告の被害の訴えを交えて判決が認めたメーカーの社会的責任を徹底的に追及し、メーカー全社から確認書をとることができた。その内容は、自動車排ガスが大気汚染の一因であることの真摯な受け止め、裁判の早期解決への期待、行政が被害者救済制度を制定した場合の対応(財源負担を意味する)の検討、継続協議などである。深夜一二時までかかったこの交渉は、寒い中エンドレスで抗議集会を続けた外の交渉団にとっても、頑なな態度をとるメーカーを攻め続ける中の交渉団にとっても非常に過酷であったが、その団結力と集中力により確認書を得たことは大きな成果であった。正直、私も翌日になって、あれ、そういえばメーカーには敗訴していたんだっけ、と初めて認識した。

 ご存じのように、東京都も判決当日に控訴断念を宣言し、のみならず国に対し被害者救済制度の創設を求めていく方針を明確にした。我々の最終目標の一つ、すなわち現在の公健法による援助を受けていない未認定患者を含めた大気汚染公害被害患者に対する被害者救済制度を創設する、そのための第一歩が踏み出された。これが我々の確信である。



東京大気の判決日行動に参加して


神奈川支部  川 口 彩 子

 一〇月二九日、東京大気裁判の判決日行動に参加した。

 午前九時半。なんとなくメーカーにも勝てる気がする。お祭り気分であった。しかしそんな中、酸素ボンベを持って吸入しつつ判決を待つ原告の方を見て、一気に身が引き締まる。原告にとってはまさに命がけの闘いであることを感じる。そしてたくさんの遺影。

 午前一〇時過ぎ。判決の第一報が入る。メーカーに勝てなかったことを知り落胆する。午後からのメーカー交渉はどうなってしまうんだろうと心配する。でも私の交渉先は国土交通省だから、相手は負けてる国だからちょっとはいい立場よね、なんて勝手に思う。

 午後〇時。メーカー交渉に先がけて、都庁の昼休みに合わせて行われた都庁前集会に参加する。ビル風でとにかく寒かった。

 午後二時過ぎ。バス二台で国土交通省に到着。国側の出席者は皆、課長補佐レベル。早々に豊田弁護士、近藤弁護士がけしからんと物申す。「千景さんに近藤忠孝が来たと伝えなさい。」「千景さんに原告の訴えを聞いてもらって泣いてもらわなきゃ始まらないんだ。」とのお言葉に笑みがもれつつも、かっこいい。国交省に一緒に行った原告の方は控えめだった。が、切々と訴える言葉には涙を禁じえない。役人も泣いていた。しかし国としては謝らない、答えない、はぐらかす。とんちんかんな対応しかできない。被害者救済制度については考えていない。継続交渉の約束しかできず、午後五時、交渉を終わる。直ちに三菱自動車の本社前に向かう。

 三菱自動車にて。三菱自動車では交渉団を入れる入れないの悶着があったとのことで、交渉は始まったばかりだった。外では、獅子舞、太鼓、歌、リレートーク。集団で座り込んで弁当を食べる。寒くなって毛布にくるまる。優に一〇〇人はいると思われる支援の人々。そしてシュプレヒコール。そうやって中の交渉団を応援する。楽しい。気分が高揚する。同じ五五期の松田団員がやはり毛布にくるまりながら「こういうことがやりたかったんだよね。」と言う。大きくうなずく。三菱自動車陥落は一一時過ぎ、文書を手にとって交渉団が帰ってきたのは一一時三〇分過ぎ、解散は一二時。でも、何かやり遂げたという充実感。

 翌日環境省にて。先輩の西村弁護士が「あなた、メーカーが、国が制度を創るなら、メーカーとしては財源負担に協力しますと、どのメーカーも、ここまで言ってるんですよ。それを国としては何と考えるんですか。」と迫る。あぁ、昨日がんばって、みんなでがんばって確認書を取ったのはこういうふうに生きるのか…、このために昨日あんなにがんばったんだなあとあらためて感慨を深くする。判決では勝てなかったけど、判決日行動では十分な成果があげられたことを確信する。原告の執念、運動の力、支援の方々の頼もしさ、そして闘う弁護士の力強さを存分に感じた二日間だった。弁護士になって間もないこの時期に、こんな貴重な体験ができたことをとても有難く思っている。



総会雑感


山梨県支部  加 藤 啓 二

 質はともかく、団員の数だけは多い三三期ですが、今年の総会の参加者はわずか六名、同期の一割でした。数が少ない分だけ密度の濃い話が出来ましたが、話題の中心は「腰の具合が悪い。」、「僕はエアロビクスに通っている。」、「俺はバーベルを上げている。」・・・という国政革新や運動の構築とは全く関係のないものか、あるいは「立て板に水のごとく流暢に語られる報告は、不思議に頭に残らないものだ。」、「そこにいくと上田先生の話の独特の間の取り方はたいしたものだ。」、「あれは一流の落語家の語りに通ずるものがある。」などという、およそ第三者的なかつ討論に加わっているとは思えないものばかりでした。

 分散会の議論は、それなりに聞いていました。有事立法の学習会で出される「日本が攻められたら、どうするか?」という質問に対する答えがいささか難しいという感想に対して、宇賀神団長が「日本は昔から外国に攻め込むことはあっても、蒙古の襲来を除いては、攻められたことはないということを確信を持って話しなさい。」と強調していました。
 小学校の児童を戒めている校長先生のようでしたが、内容的にはその通りだと思いました。
 有事立法については、私も学習会を何回か引き受けました。
 私なりにまとめた文章も書き、市議をやっている妻の後援会ニュースに毎週載せたりもしました。今年の五月三日の山梨憲法集会の講師として、わざわざおいでいただいた内藤先生が妻の後援会ニュースを見て「これに有事立法を書きなさい。」と言われたからです。
 学習会をやってみての感想ですが、あくまでも平和の問題を骨太に語るべきであるということです。有事立法は、消費税などとは違い、法律が仮に成立させられたとしても、次の日から迷彩服を着た自衛隊が鉄砲を持ってあちこちを動き始めるというものではなく、直ちに生活に影響がでるというものではないからです。

 私が団に入りたての頃、古稀を迎えて表彰される先輩団員は一〜二名だったはずです。「何故こんなことにあれほど時間を使うのか?」という意味のことをもっと過激な言葉で感想を述べたところ、事務所のボスの寺島さんをはじめ何人かの人から「何を言っているんだ。総会の中で最も大事な行事は、古稀団員表彰なのだ。俺はそれを聞くために総会に来ているのだ。」とたしなめられた記憶があります。現在では、全くもってこの言葉に同感です。司会の清水団員が「命を全うするまで頑張れ。」という旨のことを言っていましたが、表現はともかく、古稀を迎えた皆様への励ましの言葉と受けとめました。

 総会の準備に尽力をいただいた山崎支部長以下、岡山支部の皆さまには申し訳ないのですが、もう少し広い会場はなかったのでしょうか。イスを並べただけの会場では、メモも取れないし、弁当も食べづらいものです。



新旧役員挨拶 その2
退任のごあいさつ


神奈川支部  山 田  泰

 神奈川の篠原なにがしという御仁が口数で、また小賀坂さんが団通信の紙数でご迷惑をおかけしてきましたので、私は品よく手短に申し述べることにします。
 司法と警察を担当し、また労働のほんのちょこっとを手伝ったということになっていますが、本当はボランチ、守備的ミッドフィールダーというようですがこれを自分の仕事と考えていました。つまり五〇になるじじいは、まずもって攻撃陣の足手まといにならないこと、次いで多少なりともほかの次長の負担が軽くなればよい、最後のゴールは専従のお三方が守り切ってくれる、という想いでした。

小口前事務局長もまた中野現事務局長も気ばかり使う一方、仕事の面では使いづらいといった状況ではなかったかと拝察し、申し訳なく思っています。

 私が行った中で役に立ったことをあえて見つけだすとすれば、それは年寄りでも本部次長がなんとか務まるということです。これは申すまでもなく若手・中堅の次長の方々が困難な仕事を買って出て意欲的にこなしていってくれるからであり、また幹事長や事務局長が上手に尻を叩くからです。

 この間次から次へと課題が押し寄せてきました。先方はこちらの都合を聞かないまま、統一的な方針に基づき各分野で施策を実行してくるのですから困ったものです。しかし前次長として奮闘された小賀坂さん、財前さん、南さん、それにお連れ合いとともにイギリスに雄飛した井上さんを含む現在の事務局メンバーは、精一杯力を出したかと思われます。寝食を忘れ、しかし飲酒は忘れずに動き回っている姿が思い起こされるのです。井上さんは自宅とお連れ合いを忘れて、でも日弁連でデートしていたかもしれませんが、何度も東京に連泊しました。伊藤さんはアフガン調査のため、文字どおり命までかけて出掛けてしまったのに、お連れ合いは新仲裁法制の問題点を明らかにする幹事長インタビューを担当してくれました。

 私は本部次長に就く前、支部で役員を務めていました。支部役員は支部の皆の動きに注意を払うことを基本におきながら、本部方針を片目で眺めつつ、地域の他団体と付き合って運動を作り上げて行くことが仕事と思われます。いわば全方位スタンスともいえましょうか。本部資料も好き勝手に捨てる訳にもいかず往生します。しかし本部次長は、課題が特化できるのが魅力といえましょう。要するにやりたいことをやればいいということになります。

支部で役割を果たしたから本部次長はノーサンキューというのはうまくない。新たな道楽を自ら捨てることになってしまいます。何よりも若手・中堅の女性次長が、もとより専従の森脇さんや薄井さんも、敬老精神を遺憾なく発揮してくれますから、幸せな気分に浸ることができるのです。団がお年寄りを大切にする作風が強いことは、坂本修先生が田中邦衛を越える遺言を何度もしたためていることからも、試され済みの真実です。

 この間、各地の取組状況を知りたいと思い電話による取材や資料のFAXをお願いすると、各法律事務所の事務局や支部役員の方が迅速に対応して下さいました。とりわけ事務局の方々が一様にとても親切で、目に見えない団の絆といったものを感じ、再三感動を覚えたことは忘れられません。ありがとうございました。

 最後になりましたが、横浜合同法律の人々、本来前任役員としてフォローしないといけないのに何にもできなかった支部の方々、推進本部・委員会の諸先輩、それに阿部さんをはじめ専従の皆様方に感謝すること切なるものがあります。



新任のご挨拶


事務局次長  平 井 哲 史

 実は、「よもや」という程度の予感はありました。夏頃に、「団本部の次長が決まらない」という話が所内でされているのを耳にしていたので。そのときは本当に「跳躍上告」のような要請を受けるとは思ってませんでしたが。

弁護士になってわずか一年での事務局次長は、「かなり大変だ」という噂も耳にしますが、「やれば楽しい」という話も聞きます。「迷ったら前に進め」ということでやることになりました。「大変」か「楽しい」かどちらの比重が大きくなるかは自分次第ということで、あまり肩肘張らずに微力を尽くしたいと思います。

以下簡潔ながら自己紹介です。

 私が法律実務家になろうと思ったのは、遡ると中学生くらいの頃だったかと思います。両親ともに公務員だったので、民間に勤めるというイメージは全然持っておらず、ロッキードをはじめとする政治家や企業の不正を見聞きして育ったことから、そういう不正と対決しうる存在として弁護士もしくは検察官をイメージしていたようです。高校の終わり頃になると、社会経済の基盤をなす労働の分野に対する興味が強くなり、いわゆる労働弁護士になるか研究者になるかにしようと思うようになっていました。頭でいろいろ考えるよりも体を動かすことの方が好きなので、弁護士の道を選び、縁あって東京法律事務所で弁護士活動をすることになりました。そんなわけで、受任事件に占める労働事件の割合は約五割となっており、逆に、破産や債務整理はこれまでに一件しかやっていないというちょっと偏った仕事内容になってます。

 思ったことをそのまま言ってしまい、ときに刑事被告人と衝突したりする、良くも悪くも「直球勝負」の性格ですので、ときにご迷惑をおかけするかもしれませんが、二年間よろしくお願いします。

【付記】
家 族 妻(五六期で修習中)と長男(四ヶ月)
会 務 二弁人権擁護委員会幹事、日弁連憲法委員会幹事
弁護団(実働) NTT、中国残留孤児、メーデー会場
その他 団東京支部幹事(事務分担はない)、青法協修習生委員、受験生支援、学生支援(東京法律事務所:五四期)



生きて戻りたい


事務局次長  渡辺 登代美

 私は活動家ではない。団本部には一度も行ったことがないどころか、どこにあるのかさえ定かには知らない。東京には裁判所以外全く行かないので、小石川がどの辺なのかもわからない。こんな人間でも次長にしてしまうのだから、とても包容力のある鷹揚な団体なのかなあ、などと思っている。

 性格はそれほど悪くないと思うのだが、知力と体力に問題がある。

 一番の悩みは冷房。会議は、当然冷房の効いた部屋でやるに違いない。田舎育ちなもので、私は極端に冷房に弱い。家には前の住人が残していったクーラーが三台あるのだが、夏は一度もつけたことがない。冷房の効いた会議室に二時間も閉じ込められると、めまい・頭痛・吐気のオンパレードで、ほとんどヘロヘロ状態になる。夏場はただひたすら体調が悪く、普段の半分も仕事ができない。事務所では「暑い、暑い」と騒ぐ男性所員を尻目に、わがままにも窓を開け放ち、「人の迷惑より自分の健康」をモットーにかろうじてこの夏も乗り切ってきた。団本部ではこんなわがままはできなかろうと思うと、今から来年の夏を心配している。

 もうひとつの悩みは睡眠時間。最低八時間は必要で、できれば一〇時間欲しい。睡眠時間が足りないと、これまたヘロヘロになってしまう。地震だ、と思っても大抵は自分だけがめまいを起こして揺れている。とにかく体力がない。日常的に超低空飛行を続けている。だけど、決して墜落しない。篠原前幹事長に言わせれば、単なる酒呑みだそうやけど。

 専業主婦歴一五年。「司法試験ゆうのは難しいらしいから、受けてみんか。」という夫の一言に、「受験を口実にあと一〇年は遊べる」と思ったのが運のつき。実は、司法試験に受かると何になれるのか、当時は私も夫も知らなかったのである。それが何を間違ったのか弁護士になってしまい、しかも、こともあろうに川崎合同なんていう恐ろしいところに紛れ込んですっかりはまってしまった。その上今度は団本部。ほんまに人生というものは、どこでどうなるかわからないからおもしろい。

 自宅にはテレビも電話もなく、新聞は赤旗しかとっていない。次長の仕事をすることにより、もう少し世の中の動きに興味をもてるようになれば、また人生が変わるかな、と期待もしている。

 東京ではほとんど星が見えない。目標は、何とか二年間生き延びて川崎に戻ること。



世界中の世論に反するイラクへの
軍事侵攻に反対し、有事法制を阻止しよう


大阪支部  上 山  勤

一、 団の総会でイラクへの軍事侵攻に反対をする決議があげられた。

 有事法制に反対をする更なる取り組みに向けて議論が交わされた。
 私は、今進行している情勢を踏まえて、イラクの情勢を語りその上でここに爆弾を落とす行為に参加をする、応援をする行為が有事法制の企てなんです!と学習会では訴えている。毎日の新聞を追いかけるつど、バクダットにいって座り込みをしたい思いに駆られる。

二、 イラクをめぐる情勢

 イラクの国民の生活状態は悲惨極まりない状態に今ある。国連のユニセフの発表によれば一九九〇年から二〇〇〇年まで(湾岸戦争後の一〇年間)で五〇万人の 乳幼児が病死もしくは餓死している。経済制裁によって食料品は最低限の物しか入手できないし、多くの医薬品が輸入禁止となっているからである。たとえば消毒薬の「オキシフル」だって入手できない。化学兵器に転用される恐れがあるという理由で輸入禁止である。埼玉大学の暉峻淑子教授によれば(彼女はイラクの難民などのボランティアをやっている)子どもの時から栄養状態が悪いため五歳・六歳になっても足が立たない子供がいるし、この年齢の子どもたちに口をあけさせるとみんな歯が無い。乳歯が脱落してしまっているのである。
 今年の三月、世界中のNGOがヘラルドトリビューン紙に一面の意見広告を載せた。イラクの子どもの写真とともに、「イラクの人たちはもう十分に苦しんでいる。直ちに経済制裁を止めるべきだ」とあった。「これ以上の制裁は単にイラクの人たちに対する人権侵害であるのみならず人類に対する犯罪である」とあった。
 さらに放射能被害の問題が深刻な状態を作り出している。湾岸戦争で米国は初めて『劣化ウラン弾』を用いた。米陸軍環境政策局によれば湾岸戦争で米軍が使用した劣化ウランの総量は三百から八百トンに上る。琉球大学の矢ケ崎克馬教授は「広島におとされた原爆の一万四千倍から三万六千倍の放射能原子がペルシャ湾岸地方にばらまかれた」と計算している。結果は悲惨である。五本足の羊が生まれたり、無脳症の赤ちゃん、皮膚ガンの子ども、白血病の少年・少女が多発し、死んでいっている。子供専用の墓地が作られているのである。今現在も砂漠に転がっている劣化ウラン弾は通常の百倍以上の放射能が放出され続けていることをガイガーカウンターが示しているそうである。(ご承知のように知らずに従軍をした兵士たちにも放射能障害は発生しているし、イラクの土地そのものが汚染されてしまっている。ここでイラクの人々はトマトを作ったりして食べつないでいるのである。)
 経済が疲弊しているので、健康な子どもも生きていくのに必死である。学校などには行けなくて、道路でアイスクリームを売ったり、ひまわりの種を売って家計を助けたりしている十代前半の少年少女が多いし、町工場に働きに出る少年も多い。 
 こんな状態の人々の頭の上に爆弾をおとしてよいのか。日本がそんな残虐な行為に加担をしてよいのか。というのが、現在の私の切り口である。

、アメリカは世界中の世論に抗して、イラクへの軍事侵攻をやろうとしている。皆さんご存知のとおり、大量破壊兵器の有無についての査察をめぐる国連の安保理決議のあり方をめぐって一〇月三〇日時点では決着がついていない。本日、メキシコがフランス案を支持するとの報道があり、米国案は七ケ国、フランス案は残り八ケ国全部ということになりそうな気配もある。仏・露・中の三国は直ちに査察チームをイラクに送れという立場である。イラクが抵抗したり、ごまかしたり、邪魔をするようならその段階で再度安保理で協議をしようという二段階論。米・英は軍隊を随行した強力な査察チームを派遣し、現地で抵抗があれば直ちに武力の行使に及ぶという一段階論。但しこれは軍隊の指揮官は米国軍人であることという条件がついているし、生物・化学兵器査察チームの長(Mr.Blix)とパウエルは打合せを繰り返し、査察チームとして「安全と査察の実効性から」必要な軍隊とか、移動の為のミラージュ戦闘機などまでも要求し、このような要求が入れられた安保理決議があるまで事実上イラクには行かないとBlixに言わせている。ブッシュは「安保理はトークの場ではない。」「決断の時期が迫っている」と国連に圧力をかけている。どうにもならない状況をつくり出しておいて安保理がいつまでも決議ができないのなら自国と同盟国だけで行動を起こすといい、現実に軍隊をペルシャ湾岸に集結させている。米国が一方的に宣言をした期限は一一月九日とされている。

、衛星写真でみると破壊されていたはずの化学工場の屋根が修復されているというような根拠だけで再び劣化ウラン弾と放射能を撒き散らすのだろうか。先制攻撃反対の世界中の世論に対し、米国はイラクの状況について攻撃を根拠づける資料を一切明らかにしていない。口頭で「飛行機も所持しているから破壊兵器を運搬できるのだ」といった理由付けがなされるだけである。唯一イギリス政府が『イラクの大量破壊兵器について』という公式文書を開示したのみである。そこにはイギリス政府の評価というサブタイトルが付いている。しかし、これを読むと過去の湾岸戦争前のフセイン体制での行為が書き連ねられており、湾岸戦争後についてはイギリスの情報機関の連絡によると戦前に有していたガスや生物兵器が残存していたり、短期間で再度製造する能力があることなどが指摘してあるのみである。更に、衛星写真も掲示されていて湾岸戦争で破壊されたはずの化学工場の屋根が立派に修復されている、として生産再開を疑わせる根拠としている。要するに、推測が縷々述べられていて確たる証拠は何も提示されていない。こんな根拠で戦争を仕掛けるのか。なぜそんなに急ぐのか。
 テロが起きてからでは遅いという人がいるかも知れない。しかし、アルカイダとフセイン体制をつなぐ関連は米国の必死の努力にもかかわらず何も出てきていないし、むしろ上院・下院で決議をあげるかどうかの討論をしているさなか、CIA長官から議会に手紙が送られ、むしろ、いま手を出していないことによってイラクがテロ組織を使うという事態になっていないのであって、先制攻撃をすれば逆にテロを誘発する恐れが高いと警告をしている。自分の国の情報機関が述べていることである。
 自衛の必要などというセリフが口実に過ぎないことはますます明らかになりつつある。イラクに埋蔵されている石油資源こそが狙いであるとは広く指摘されている事柄である。最近、フセイン後の石油開発をめぐって世界約二〇ケ国の石油資本が集まって会合を持っている。誰がどこを開発するのかのまさに帝国主義的な会合である。念をいれて、フセイン後の民主的に選ばれた政府を通じてという条件付ではあったが露骨に分配構想が練られているし、ニューヨークタイムスには公然と、フセイン後はフランスが現状から退いてイギリスが最大の開発国になるべきだし多くの犠牲を払う国がそうなることは当然である・・・などといった読者の投稿が載せられたりしている。九月十四日付のワシントンポストによれば『戦争が終わったときに、誰が石油を手にするのか?』という見出しで、サウジアラビヤを除けば世界最大という一一二〇億万バレルと見込まれている埋蔵石油をめぐって外国の石油資本が分け前について会合を重ねている、とし、元CIA指揮官とされるR.James Woolseyの発言を紹介している。いわく、現状ではフランスやロシヤが利権を有しているものの彼らがフセインと一緒に行動するようであれば、新しくできるイラク政府に彼らの利権の保護も考えるように説得する事が難しくなると。そして、新しくできるイラクの政府が米国以外の石油資本とのみ関わりを持つような事態は、ほぼ間違いなく支配的な外国軍事力となるだろう米国によって排除されるだろう、とまで言わせているのである。
 露骨な意図をもう隠す必要も無いというところだろうか。

、私はフセインがどのような人なのか実はよく知らない。知らなくても前記のような実情にあるイラクに対し軍事攻撃をすることには反対である(フセインに毒ガスを提供し、イランや国内のクルド人に使用させたのが当のアメリカであったことは知っているが・・・)。まして、本当の狙いが米国と英国のエネルギー戦略にあり、根拠のないテロ支援国家への自衛的行動などという粉飾的な宣伝で多数の命を犠牲にすることは決して許されない蛮行である。

、私たちに何ができるだろうか。とにかく、いろんな立場から反対の意思を表示することからことは始まるのだろう。幸い、自由法曹団とはかかわりがあるジャーナリストの「江川紹子」さんがイラクをルポルタージュしている映像が毎日放送で報道された。団でお招きして学習会をしてはどうだろうか。精文堂から『イラク 湾岸戦争後の子どもたち』を出版された写真家「森住卓」さんに来ていただいてもいいだろう。そして、イラクの実情を学習しながら、私たちの国日本が有事法制を整えてこのような侵略を支援するなどということを阻止する運動を起こす必要がある。



有事法制をめぐる三題
ー国民保護と修正論議と拉致問題とー


千葉支部  守 川 幸 男

1 国民保護法制の本質をどう見るのか

 二〇〇条に及ぶ大型法案になる、との報道がされている。
 その本質は?(国民)動員、?(国民)統制、?(反対者やじゃま者の)排除の三点ではなかろうか。この観点から分析すればほぼ言い当てられると思われる。

2 修正論議をどう見るか

 修正しても、アメリカの戦争に日本が参加するというその本質が変わらないことは明らかだが、結局三類型を二類型に分類し直しただけである。
 この問題は本年九月に、「武力攻撃」「おそれ」「予測」の三類型のうち「おそれ」を削除して二類型とし、これに対応した対処措置を整備する案もあると報じられた。朝日新聞は、「では、自衛隊法にある『おそれ』はどうするのか?」と問題提起した。そこで私は学習会などで、そうすると「武力攻撃」と「予測」の中間の空白はどうするのか、という別の矛盾が出てくる。結局、「予測」と称して、かつての「おそれ」の事態をカバーする拡張解釈が行われてこの空白を埋めることにならざるを得ないと指摘してきた。
 ところが最近の報道では、結局この「おそれ」を、当時の政府見解の「武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態」と同じ表現に修正し、「武力攻撃が発生した事態」とあわせて「武力攻撃事態」とし、これと「武力攻撃予測事態」の二類型にする、というだけであることに確定したようだ。自衛隊法もこれに合わせて、「おそれ」の削除でなく修正すると言う。なんのことはない、結局空白など全くなく、対処措置などで多少違いが出るだけで本質は何も変わらないのである。

3 拉致問題をめぐる一部マスコミ、世論の動きと支配層のねらいとの関係は?

 日朝国交回復と平壌宣言は、小泉内閣がよいことをした唯一の例外だが、一部マスコミ、特に週刊誌の論調や世論がおかしい(一部政党の反対、疑問意見の動議は政治的になんとなく推測がつくので、ここでは省略する)。戦争中の日本による大規模な強制連行の事実を忘れ、国交正常化自体を批判したり、小泉首相は金正日にだまされた、などというものである。これは支配層のねらいとどのような関係にあるのであろうか。
 平壌宣言は、イラクの核査察無条件受け入れ方針とともに有事立法を強行する口実をなくすものだが、他方、拉致問題で、北朝鮮はこわい、有事立法が必要だ、という感情論に結びつく。したがってこれに訴える戦術の一つなのだろうか、よくわからない。でもそうなら、小泉訪朝は支配層の意向には反しないものだったのか、どんな計算のもとに行われたのかもよくわからない。この点解明できる方にぜひ教えてほしいところである。
 また、現在、拉致問題が許し難い国家テロであることは当然であるが、だからといって拉致問題の交渉は、五人を北朝鮮に戻す期限の約束を破ったり、日本に帰国したら五人や北朝鮮にいる家族の意向を無視したような永住帰国方針が前面に出てきている。これは一体なんなのか。原点は拉致という犯罪行為だから原状回復を、と言ってもそう単純ではないはずだ。また、北朝鮮が国際的犯罪行為をしたとしても、日本は信義を重んじ、正々堂々とした態度を取るべきだ。朝日新聞の声欄には連日、これに対する私と同様の疑問の声が掲載されているが、民主勢力からの発言やこれを批判する本格的な論調が少ないのはどうしたことだろうか。相手が北朝鮮であり、一定の強い対応が必要だとは思うがどうも変だ。私は、永住帰国や相互の自由往来の権利を確保しておくこと自体を重点に置くべきだと思うのだが…。
 ぜひ皆さんのお考えを聞かせてほしい。



日朝国交正常化交渉に思う


東京支部  山 本 真 一

 九月一七日の日朝平壌宣言、そして一〇月二九日と三〇日の再開第一回日朝国交正常化交渉。この流れがうまくゆき、朝鮮半島が平和のうちに統一されれば、日本は東北アジアと世界の平和と安定に大きな貢献ができる。二一世紀の日本の位置とあり方もはっきりと定まるだろう。私は祈るような気持ちで毎日の報道を見ている。

 しかし国際政治はなかなか簡単には私の希望を満たしてはくれないらしい。日朝間だけ見ても、「拉致問題」と「核開発問題」をうまく乗り越えることは至難の業のようだ。北朝鮮は「核開発問題等の安全保障問題」はアメリカとの協議で決めると明言している。しかしブッシュ政権は、少なくともイラク問題の解決方向が見えるまでは北朝鮮とは一切交渉するつもりはないらしい。当面は、「北朝鮮が一方的に核開発計画を放棄しろ」と迫るだけである。これでは来年春に予想されるアメリカのイラク攻撃の後まで正常化交渉も進まないことになる。さらにイラク問題の処理の仕方によっては、アメリカは北朝鮮攻撃を考える危険性も大きい。九月二〇日に発表された「ブッシュ・ドクトリン」の帰結である。そうなれば朝鮮半島で第二次朝鮮戦争が勃発する恐れも現実化する。

 また「拉致問題」に関する日本の交渉態度もおかしい。そもそも国交を正常化しようというのだから、交渉にも信義を大事にする態度が不可欠だと思う。拉致被害者五人の帰国は、それが実現した一〇月一六日時点ではどのマスコミも「一時帰国」としていたはずである。一〜二週間したら、五人は一度北朝鮮に帰って、家族と相談をして将来を決めるとなっていたはずである。それがいつの間にか「国家政策として五人は日本に永住させる。北朝鮮は五人の家族を直ちに返せ」となった。五人の意思も家族の意思もどうでもいい。国家が決めたことだと開き直っている。まさにケンカ腰である。従来北朝鮮が見せた態度と同じではないか。これで正常化交渉になるだろうか。

 「北朝鮮は最後は万歳突撃となる可能性がある。静かにおえていくという国ではないのかもしれない。相当思い詰めているようだ」というのは、交渉に当たった日本側の一人が漏らした言葉だという(一〇月三一日朝日新聞の船橋洋一名のコラム参照)。

 これらの事を思いながら、では私達一人一人の日本人にできることは何かと考えている。ここ一〇年の韓国の「民主化」の進展は著しい。南北の交流も(一時期、停滞したが)、現在は大きく進んでいる。一二月の韓国の大統領選挙の結果では、韓国の民主化の成果もどうなるか分からないという意見もあることは承知している。しかし誰がなっても、韓国はもう以前の軍事独裁の強権政治には戻れないはずである。

 朝鮮半島で再び戦火を燃え上がらせないこと、平和のうちに統一を達成することは、朝鮮半島に住む人々の最大の願いである。これらを実現するために、日本も含めた市民レベルの支援・交流の拡大強化は、現在の国家間の困難を乗り越える可能性のある一つの力ではないかと思うようになっている。この点に限ってでも、市民レベルの交流、できれば共同行動を考えてみたいというのが、最近の私の希望である。



深井昭二弁護士への追悼


秋田県支部  沼 田 敏 明

 深井昭二弁護士(一九期)は、二〇〇一年末にガンが見つかり、抗ガン剤による治療を続けましたが、本年九月二二日入院先の病院で急逝されました。

 先生は、秋田師範学校本科を卒業され、一九五〇年四月東北大学法学部に入学されました。当時、戦後民主主義の空気の中で、先生は反戦・平和運動の高揚する学生運動に身を投じ、また泰子夫人と学生結婚をされます。やがて、現代史に記録されるイールズ事件の渦中の一人となられ、さまざまな経緯から北海道稚内に移り住み、大学からは除籍されることになりました。先生は、当時の大学との団交を回想され、「高橋学長や中川法学部長に、生意気にも食ってかゝったりしていたとき、『君は法学部の学生と名乗ったのに、エルの襟章をつけている。にせ者でないか。』中川部長は私の胸ぐらを取った。私は学生服を持っていなかったので、このような場合、仲間の誰彼をかまわずに上着を借りて臨んでいたが、そのことをすっかり忘れ、不意を衝かれて気勢を削がれた私は、後退せざるをえなかった」などと話されていますが、当時の時代の空気が伝わってきます。

 北海道に移って二年程して、先生は、秋田市に帰られ、生計と勉強に大変な苦労をされ、本屋をされたり、子供に数学や英語を教えたりしながら、一九六四年、司法試験に合格されました。法学部入学といっても、法律学を勉強したことがなかったゝめ、「我妻さんの民法、あとは受験新報と法学セミナーの問題だけやった」と述べています。
 こうして、一九六七年四月、先生は弁護士になりました。まさに波瀾万丈の前半生でした。

 弁護士開業後、先生は旧秋田県労会議の顧問として、全司法秋田裁判書事件、大曲市農協就業規則不利益変更事件、秋木工業会社更生事件など多数の労働事件や首長のリコール裁判なども手掛けられ、労働者と市民の厚い信頼を得られました。また、先生は青年法律家協会秋田支部長、自由法曹団県支部長を長年つとめられたほか、平和憲法を守る活動に一貫して取り組まれました。
 そして、一九八五年一月には、革新勢力の統一候補として秋田市長選挙を戦われ、四万五、〇〇〇票余を獲得しましたが惜敗しました。この選挙戦では、たくさんの方のお世話になりましたが、深井先生も、応援した私どもゝ三〜四ヵ月にわたって法律事務所を投げ出し、選挙が終わってからも、さっぱりお客さんが来なかったという今となっては笑い話もありました。

 先生は、大変な読書家であり、文章家でもありました。また、先生は、かつて「森羅万象興味のないものはない」と述べたことがありますが、何事に対しても新鮮で柔軟な発想と果敢な行動とで立ち向かわれました。先生と論争すると、先生より若い私が守旧派の役割になっていることがたびたびで、いつも反省させられました。
 先生の興味は、五〇代後半から登山にもむかい、健脚ぶりを発揮されました。白神岳では、タケノコ採りの後についてしまい、私たちとはぐれて大騒ぎをしたり、由利の甑山では、急斜面で転倒して一回転するハプニングもありましたが、柔軟な身体で事なきを得たのも、なつかしい思い出です。

 先生にはまだまだ私ども後進の指導をお願いしなければならないのに、九八年一月の金野繁弁護士に続いて先生まで失い、本当に残念でなりません。しかし、私たちは悲しみを乗り越え、先生の何事に対しても、新鮮で柔軟な発想と果敢な行動とで対処された生き方を手本とし、平和と人権のために闘っていく決意です。