過去のページ―自由法曹団通信:1099号        

<<目次へ 団通信1099号(7月21日)



坂 勇一郎 弁護士報酬敗訴者負担はいや!〜みんなでパブリック・コメントを書こう!
後藤富士子 国選弁護とモラルハザード
根本 孔衛 リレールポ憲法調査会(7) 憲法調査会(最高法規小委)傍聴記その二
山田 慶昭 原田香留夫先生追悼の辞
齊藤 園生 司法総行動の報告
小笠原彩子 教育基本法「改正」の動き



弁護士報酬敗訴者負担はいや!

〜みんなでパブリック・コメントを書こう!

担当事務局次長  坂  勇 一 郎

1 井上哲士議員(共産)が質問(参院法務委員会)
 井上哲士議員は、七月一〇日、参院法務委員会で弁護士報酬の敗訴者負担制度の取り扱いについて質問を行った。答弁の中で山崎潮司法制度改革推進本部事務局長は、裁判費用の公平な負担の必要をあげつつ、司法アクセスの拡充が敗訴者負担制度検討の大きな柱であることを確認した。また、敗訴者負担制度について、意見募集(パブリック・コメント)を行う意向であることを答弁した。

2 敗訴者負担を巡る論争点
 パブリック・コメントへの対応を準備することが重要となってきている。そこで、検討会における論争点の概要をここで確認しておきたい。敗訴者負担制度に関する主要な論点は次の五点である。(1)制度導入の根拠、(2)制度を導入する範囲、導入しない範囲、(3)導入する場合の金額の定め方、(4)法律扶助・権利保護保険・立証責任の問題等他の制度との関係、(5)導入にあたっての国民の理解についてどう考えるか、である。
 これらの論点のうち、導入の是非に直接関係するのは(1)と(2)である。導入論は、(1)弁護士費用は敗訴者に負担させるのが「公平」であるとの論拠から、(2)原則として敗訴者負担を導入すべきであり、当事者間に不平等がある場合には例外的に導入しないこととすべきという。導入論は何とかして導入しない範囲を狭めようと指向しており、導入論の中には、企業と労働組合の間には力の格差がない立前なので導入すべきであるとか、公害事件は原告が勝ってきているのだから導入すべきとかの意見も出されている。
 これに対して、反対論からは、(1)敗訴者負担制度検討の目的は「裁判所へのアクセスの拡充」であり、(2)敗訴者負担制度は「裁判所へのアクセス」を妨げるものであるから原則として導入されるべきでない。「裁判所へのアクセス」を促進する場合(少なくとも妨げない場合)に導入が認められる。日弁連意見書は、かかる観点から一定の範囲に片面的敗訴者負担制度導入を主張するとともに、大企業間の訴訟に導入の可能性を認めている。
 右のとおり、敗訴者負担問題は「司法アクセス」論と「公平」論の対立となっている。パブリック・コメントへの対応にあたっては、この基本的対立構造を踏まえ、「司法アクセス」の重要性を強調し、また敗訴者負担が「司法アクセス」にいかなる影響を与えるのかという観点から意見を述べるとともに、「公平」論に対して反論をすることが必要と思われる。

3 反対運動に取り組んでいる市民の声
 前号でも紹介したが、反対運動に取り組んでいる市民・市民団体からの声が寄せられている。

この制度の導入検討は一〇年早い

融資型変額保険被害者の会  西 原 良 治

 私たちは、バブル期に大銀行・大生保が提携して違法な勧誘をした「相続税対策のための融資一体型変額保険」に入ったために、莫大な被害を蒙りました。その数は家族数にして一万件近く、もし放っておけば一家族あたり1億数千万円の損害が発生したと推定されます。まさに大金融機関の暴走というほかありません。
 私たちは弱者の正義を認めてもらおうとして訴訟を起こしましたが、四〇〇件近い請求棄却の判決に、誰もが激しい怒りと絶望感を味わいました。
 裁判所は、大金融機関対一市民の専門性や情報量の格差に、なんの配慮もしてくれませんでした。「原告はたとえリスクの存在を説明されなくてもそれを見抜くべきであった」「リスクの説明がされなかったことを証明できないなら、金融機関側の『説明した』を信用する」等々、立証責任を背負わされた上で、被害者の自己責任が問われ続けられたのです。
 しかも裁判官が処理件数を上げるために、先輩裁判官の判決文を丸写ししたような判決が続出したことを思うと、法自体の不備や、裁判制度・裁判官制度の欠陥が真に改善され、国民がそれを実感できたとき、はじめてこの制度の導入を検討しても決して遅くはないはずです。あと一〇年待ちなさい!

弁護士報酬の敗訴者負担に反対

東京大気裁判原告  西  順 司

 私たちの東京大気汚染公害裁判は、一九九六年五月に第一次提訴を行い、第五次提訴まで行い、五九三名の原告で裁判を闘っています。
 昨年一〇月二九日、第一次訴訟の判決を受け国、都、首都高速道路公団には勝訴しましたが損害賠償の対象原告は九九名中七名のみが勝訴したことになります。
 一方、自動車メーカー七社には原告側全員が敗訴しました。
 私たちは、自動車メーカー七社には敗訴して、当然敗訴者負担の支払いは最終的に判決が確定してからと思いますが大変な金額(億の単位)の負担が強いられることになることが現実の問題となり、改めて弁護士報酬敗訴者負担制度を考え愕然としました。第一次訴訟は控訴審に移行しています。控訴して勝てるのか大きな議論となりました。弁護士報酬敗訴者負担制度は、私たちのような公害の裁判では、制度化されれば裁判起こすのも、控訴するにも障壁になります。司法改革は、国民がもっと気軽に裁判する権利を保証するものでなくてはならないと思います。弁護士報酬敗訴者負担制度はそれに逆行するもので、弁護士報酬敗訴者負担制度がなぜ今導入をされなければならないのか、この制度は庶民の裁判をする権利を事実上奪うことになります。検討会では、公害裁判は原告側が皆勝訴しているから敗訴者負担には賛成だろうなどと云う委員がいるそうですが、命を削り戦ってきた公害裁判の原告は、こんな委員発言は絶対に許さないでしょう。弁護士報酬敗訴者負担制度阻止のためにさらに結集強め戦っていきます。

4 パブリック・コメントへの準備を
 八月中にパブリック・コメントが行われる予定である。これまでの検討会での議論をみると、必ずしも裁判の実情や事件の実情が充分に検討会に反映されているとは言い難い。パブリック・コメントを契機として、検討会に裁判の実情や事件の実情を持ち込むことが重要である。全国連絡会と司法総行動実行委員会の共催によるシンポジウムが予定されている(七月二八日(月)午後六時三〇分〜午後八時、第一東京弁護士会講堂にて)。こうした機会も生かしつつ、全ての団員・弁護団においてパブリック・コメントへの準備を行うとともに、原告団・市民団体へ呼びかけてほしい。
 なお、敗訴者負担問題については、日本民主法律家協会のホームページの敗訴者負担問題のページに時々の動きがアップされているので、アップツーデートな情報は同ページのニュースボードの欄も参照されたい。



国選弁護とモラルハザード

東京支部  後 藤 富 士 子

1「依頼人」と「雇主」
 昨年二月二六日、札幌高裁は、被告人が否認しているのに弁護人が認めて全ての証拠採用に同意した一審の判決を破棄差戻した。新聞報道で知って私は驚いたが、上訴審で破棄されるかは別にしても、国選弁護事件では必ずしも稀なことではないようである。現に、私が控訴審で国選弁護人として担当した殺人未遂事件でも、一審で被告人は殺意を否認しているのに、国選弁護人は「未必の故意」の弁論をしている。
 この事件で、私は、控訴理由として、事実誤認・量刑不当のみならず「不適切弁護」を訴訟手続法令違反として争ったが、判決は、「証拠に照らし、無罪の弁護をせず情状として弁護することも弁護人の裁量」として「不適切弁護」を否定した。ちなみに、この事件では私の受任が遅かったこともあって、私が接見する前に被告人本人が殺意を否認する控訴趣意書を提出している。
 このように、被告人が否認しているのに弁護人が認めてしまうなどという弁護活動は、果たして私選弁護でも起きるのだろうか?
 実体的真実主義に毒され「依頼人を裁く」弁護士であれば、私選事件でも同じことをする余地があるが、私選の場合には、報酬という対価を伴う委任関係があるから、たとえ面従腹背であっても依頼人の意思から逸脱することには規制がかかる。しかし、国選の場合には、このような規制が働かない。それは、国選の場合、弁護士は被告人を「依頼人」とは思っていないからではなかろうか。国選弁護は、「公益活動」として慈善の対象なのであろう。しかし、国選弁護の場合でも、弁護報酬等は法律上「有罪被告人の負担」とされているから、報酬の面からみても、「依頼人」は被告人のはずである。そうすると、次に問題となるのは、その報酬の「安さ」であろうが、それは「依頼人」でなくなる理由にはなりえない。
 ところで、前述した事件で、判決謄本交付申請に裁判所へ行った際、エレベータの所で判決起案した右陪席裁判官と出遇い、「○○(被告人の名前)の事件では有難うございました」と声をかけられた。私は異常な違和感に捕われ、「裁判所にお礼を言われる筋合いはありません。当然のことをしたまでです。」と思わず言い返してしまったが、なるほど私は「裁判所に雇われた弁護人」だったことに思い至った。それは、もっと前に担当した一審否認事件のときも、報酬や謄写代の支給について、書記官から「先生、通常の五割増にしておきました」などと言われたときにも感じたことである。
 かように、弁護士も裁判所も、国選事件の被告人について、「裁判を受ける権利」の主体である当事者として、その法的地位を尊重する意識に欠けている。それは、裁判所が弁護人を選任する(雇う)システムが、被告人と弁護人との間で私選と同様の信頼関係を成立させることを妨げているからであろう。

2 「訴訟費用」という報酬回収システム
 現行の国選弁護制度をリーガルエイドの側面からみると、国が弁護人を雇って被告人に弁護を提供するという「現物給付」型であり、要した費用は「訴訟費用」として国が被告人に償還させるものである。民事法律扶助の場合に、本人償還であることは刑事と同じでも、扶助は当事者に対する「金銭給付」で行われ、当事者がその資金で弁護士を雇うという点で決定的な違いがある。
 一方、弁護報酬の支払を受ける側からみると、弁護報酬は「訴訟費用」として国が被告人から取り立ててくれるのだから、一種の「債権回収システム」である。しかも、国選の場合、被告人と信頼関係が成立すると否と、提供した弁護の質にかかわりなく、一定の金額が確実に国から支払われるのだから、考えようによっては、依頼人との信頼関係に神経を使い、報酬が支払われないかもしれないリスクを伴う私選よりも「うまみ」がある。むしろ、「報酬額に応じた弁護」と割り切れば、良心も咎めず、公益活動をしたという自負も生まれる。さらに、報酬の金額についても、本当に真面目にやれば「持ち出し」になるけれど、事前に接見にも行かず一回結審の弁護であれば、数をこなせることとも相俟って、「儲かる」仕事である。したがって、真面目にやろうとする弁護士は事務所経営を圧迫する国選弁護を敬遠するようになるから、国選弁護の質は益々低下することになろう。
 そして、このような制度であればこそ、被告人の意思に反する弁護活動がなされうるのであり、弁護士のモラルハザードは必然的結果であるが、これを回避できないのは、「依頼人」と「雇主」が分離しているからにほかならない。

3 国に雇われた弁護士が当事者主義を闘えるか?
 日本では、「当事者主義」は、裁判官の機能と検察官の機能とを分離するものととらえられているが、アメリカでは、意外なことに、裁判官の機能と弁護人の機能とを峻別する考え方ととらえられているようである。
 すなわち、事実認定の方法論としての「当事者主義」の意義について、ロン・L・フラーによれば、相対立する当事者が熱心に証拠を提出し弁論を行う構造のもとで初めて、全ての証拠調べと弁論が終るまでは裁判官が判断を下さないでいることが可能になり、早い段階で仮説を形成して仮説に一致するものに強い印象を受ける事態を防ぐことができるという。そこでの弁護人の任務は、依頼人を裁くことではなく、依頼人の立場から見たときにその事件はどのような様相を帯びているのかを、陪審と裁判官の前に提示することであり、例えていえば、ダイヤモンドを光の下でゆっくりくるくる回して全体像を見せるのではなく、依頼人に最も有利に見える一面を固定してそこだけを際立たせればいい、という。そして、このように客観的・中立的ではない被告人の立場に立った主張をすることが、当事者主義を支える柱であるというのである。
 そうすると、被告人が否認しているのに弁護人が認めてしまうなどということは、「当事者主義」を根本から否定するものと言わなければならない。しかるに、日本では、そのような認識に至らないのではなかろうか。というのは、日本の弁護士は、当事者主義の訴訟を「闘争」とは捉えておらず、法曹三者が一体となって実体的真実を究明することを前提に、裁判官を被告・弁護側の「味方につける」ことに苦心しているように見受けられるからである。すなわち、「裁判官の機能と弁護人の機能との峻別」など、思いもよらないことであろう。だからこそ、裁判所に選任されて(国に雇われて)弁護するときに、被告人から乖離して裁判所に親和性を示すのも自然である。
 弁護士が当事者主義を闘わないことの弊害は、弁護の質が向上しないこと、その結果として、裁判実務が改善されないことである。換言すると、闘わない弁護士集団には実務に変革を迫る力がないのである。そして、弁護士に当事者主義を貫徹させる弁護活動をさせるには、結局、「当事者である依頼人のための弁護」に徹しさせることであり、それには「雇主=依頼人」という制度にしなければならない。

4「現物給付」「償還制」は無花果の葉
 ところで、現行国選弁護制度のように「現物給付」型のリーガルエイドは、弁護士に身銭を切らせていることを隠蔽する。のみならず、「訴訟費用」として「被告負担」とされるのだから、法律上は経済的援助がないに等しいのに、そのことも隠蔽するのである。
 この現実は、私選弁護の場合を考えても、問題として認識される。刑事裁判の場合には、被告人は無罪になっても何ら経済的利益は得られない。それどころか、無罪を勝ち取るまで闘うことは、生活上も経済上も多大のコストを余儀なくされる。だから、通常の生活が一応自力でできている被告人でも、長期間「被告人の地位」に拘束され、裁判に要する莫大な費用(弁護人の報酬以上に交通費・謄写代・調査費等の実費がかかる)を考えると、否認しないで「執行猶予判決」で早期に終らせる道を選択するのも当然である。その場合には敢えて私選弁護人を依頼することはない。これが共犯事件で起きると、否認して無罪を争う被告人は、一層悲惨なことになる。自白して執行猶予判決をされた共犯が証人として法廷に出てくると「否認」の証言をするが、自己矛盾供述として自白検面調書が証拠とされる。こうして、争う被告人にとって、「費用対効果」は益々乖離していくのである。そして、幸いにも無罪判決が得られたとしても、「裁判に要した費用」(刑事訴訟法第一八八条の2)として補償されるものでは充分に補填されない。ちなみに、再審無罪となった松山事件の斎藤さんの母ヒデさんは、費用捻出のために家屋敷・田畑を売却したという。
 顧みれば、裁判で争うことは「権利のための闘争」であり、当事者には「裁判を受ける権利」が基本的人権として保障されている。
 しかるに、現実は、余りにも負担が大きいために「争う」ことができなくなっている。こうした現状は不正義を拡大再生産するばかりであり、これを解消するリーガルエイドが制度化されるべきである。



リレールポ憲法調査会(7)

憲法調査会(最高法規小委)傍聴記その二

神奈川支部  根 本 孔 衛

一、明治憲法に内在した矛盾とその縁由
 衆議院憲法調査会の最高法規小委員会は、去る五月八日、明治憲法と日本国憲法(明治憲法の制定過程)を議題とした。その日の参考人は坂野潤治東大名誉教授であった。この会設置の目的は現憲法の調査であるはずなのに、旧憲法の、しかもその制定過程について特に調査をする必要があるのか、この問題を取り上げる当事者の意図にはよく理解できないものがあった。坂野教授は政治史の研究者であって、憲法学者あるいは憲法史の専門家ではない。この人が何故参考人に選ばれたのか、その理由もよくわからないことであった。
 当日配布された坂野教授のレジメは「明治憲法の成立と展開」と題されていた。日本国憲法は、明治憲法の改正手続によって制定されたものであるし、天皇制の存続や大臣という名称など、およそ国民主権の憲法には似つかわしくないものが残されている。また内閣、議会、裁判所などの旧憲法の下でつくられた法制度があまり手も加えられずに新憲法下に引き継がれているのであるから、現在の国制を明治憲法の「展開」と見て見られないこともない。
 坂野教授の話は、明治憲法の特徴を、その重要条項の間に含まれている相互の矛盾とそこからおこってきた現実の政治現象の葛藤から話を始められた。ここであげられた矛盾の例としては、天皇の地位についての第四条は、その前段には天皇を国の元首とし統治権の総攬者としてあたかもオールマイティがあるかの如く表現するが、この後段では「此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」として、その権力の行使に制約を加えているが如くである。また天皇は立法権を有するが、その行使には議会の協賛が必要である。さらに天皇の執政についての五五条では、各国務大臣の輔弼を受け、国務大臣は国政について各自責任を負う、と読める。天皇の行政権力は各行政官省の長としての国務大臣が執行する。しかし、憲法公布の直後の一八八九(明治二二)年一二月二四日に勅令で制定された内閣官制では、大臣の責任は内閣を構成する国務大臣の連帯責任となっている。天皇には、これらの大権のほかに重要権限として外交大権、統帥大権、編成大権がある。統帥権者とは軍事力行使の最高の指揮者である。天皇のこの権力の行使には、国務大臣の輔弼は及ばないものとされ、陸軍の参謀本部と海軍軍令部が補弼するとされていた(統帥権の独立)。一方、編成権とは、陸海軍の編成、組織、兵額の常備を定める権限である。天皇がこれを決定行使するについて、内閣の輔弼責任がその範囲に及ぶのか、統帥権と同様に独立の大権なのか、必ずしも明らかではなかった。一九三〇(昭和五)年海軍軍縮条約締結について統帥権干犯問題がおこった所以である。
 坂野教授は、明治憲法の中にこのような矛盾が包含された理由を、明治維新とその後に起ってきたいくつかの政治的潮流の存在に求めた。その間の対立を「国会開設の勅諭」が発出された明治一四年の政変(一八八一年一〇月)の際の政治的動向とそこでの各派から出された憲法構想にもとづいて説明した。体制派側からは、天皇大権の擁立者であった岩倉具視の、大と小と二つの「綱領」(同年七月)を、自由民権派としては植木枝盛の「日本国国憲案」等をあげた。福沢諭吉門下が集った交詢社の私擬憲法をその中間の立場としてあげられた。これはむしろ、体制派の中の開明派あるいは立憲派といった方がよいであろう。
 体制派のリーダーとしての地位を引き継いだのが伊藤博文であった。彼が担当した憲法制定作業において、伊藤の「参謀長」の役割をしたのが井上毅であり、彼は明治憲法の起案者であった。明治憲法の半官的解説書である「憲法義解」は、井上が起草し、伊藤がこれに手を加えた、といわれている。伊藤は、憲法調査のために一八八二(明治一五)年三月からヨーロッパにおもむき、主としてスタインとグナイストについて西欧の憲法を学び、君権主義のプロイセン憲法に範をとった憲法構想をもって、約一年半後に帰朝した。その後五年余の研鑽を経て制定されたのが明治憲法である。その性格が、外見的立憲主義とか擬似立憲主義とかいわれるのは、このような経緯にもとづく。坂野教授の説かれるところによれば、交詢社案が明治憲法に及ぼした影響は大きく、伊藤らの仕事は、いわば岩倉の憲法綱領と交詢社案との調整、折衷作業としてなされたものであった。坂野教授が、冒頭に問題として指摘した明治憲法の矛盾は、このようなかたちでなされた作業過程の結果として生じてきたのだという。

二、政治による分立する権力の統合と運用
 坂野教授は、民衆的な自由民権運動の敗退とその指導層の体制への歩み寄り、商工業者の政治的進出等が見られた中での政治の様相が憲法学説に反映されたものとして、美濃部達吉の学説を紹介している。明治憲法では、その規定する行政、軍事、立法と三つの権力の分立は、天皇の大権によって統一される構造となっている。このような地位にある天皇が英明でなければ、現実には天皇の権力を動かしていく政権の中枢部分が有能、果断でなければ、明治憲法は有効に運用され作動していかない。明治維新をにない元勲といわれていた伊藤、松方、山縣有朋、井上馨らは、その経歴と政治的実力をもって、官僚を駆使し、軍部を掌握し、議会の政党を操縦し、殖産興業の目標を達成して、日清、日露の両戦役に勝利し、条約改正を実現させた。彼らはそのようにして所期の「近代化」をなしとげ、日本を世界の列強にならぶ地位に引き上げることに成功したのだ、といえるであろう。

三、明治憲法の解釈改憲としての美濃部学説
 坂野教授は、自らの考え方はリベラルであると言明し、「その立場からいいますと明治憲法というのは非常にひどい憲法」であるという。この評価は、明治憲法の遅れた側面である天皇大権主義とその下にある権力の分立の状態を指しているのであろう。明治の政治家たちは、上にあげられた憲法の条文の間にある矛盾にこだわらず、これを巧妙に使い分け、柔軟に運用して国政の統一を保ってきた。伊藤の「憲法義解」は、憲法解釈のかたちでこのような憲法の運用指針を予め示していたわけである。坂野教授は、「明治憲法というのは、制定時にも多様な解釈があったけれども、実際の運用の中で物すごく解釈改憲されているんだ。」と、この有様を表現している。このような解釈改憲を憲法学説として表明したのが、一九一二(明治四五)年に出版された美濃部達吉博士の著書「憲法講話」であったとして、その所説を引用される。そこでは憲法解釈として、議会内閣制と内閣の連帯責任、そして国政の主要事項について内閣のリーダーとしての首相の天皇輔弼責任が説かれている。
 一九〇九(明治四三)年には、穂積八束の「憲法提要」が出版されている。穂積は、永年東京帝国大学法科大学の憲法講座を担当してきた天皇大権中心主義の体制派憲法学の権威であった。坂野教授の説明の中で、この二つの憲法学説を比較するくだりは次のようになっている。「美濃部さんの本なんて読むと、こんなこと本当に憲法学者として成立するのというほどイカサマですよね。三段論法を使って、とてもこれは憲法学として成立するのかというぐらい、憲法学者としては保守的な穂積さんの方が筋が通っていることが多いんですけれども、それはやはり意図があってやっているわけですね。それを持ってくるために、いろいろなことを勉強してつくってくるわけです。美濃部さんたちの解釈改憲ということを物すごくやったんだというふうに私は思っています。だから明治憲法の場合に解釈改憲に反対したら、天皇は神聖にしておかすべからずになっていって、あと何もできない話になりますから、相当抜け道をつくって、僕の考えるいい方に美濃部さんたちは持っていったんだというふうに思います。ですから解釈改憲が是か非かという話でいえば是です。」と。
 何故明治憲法の成立とその展開の問題を、調査会が今何故取り上げようとするのか、しかもそのために政治史の専門家を参考人として呼び出したのか、という謎が、ここで解けたわけである。

四、憲法調査会における明文改憲と解釈改憲
 九条の改定について、国会内で三分の二の多数を確保することはとにかくとして、国民の二分の一の賛成をえることは、なお困難とみているのであろう。九条の明文改定反対という世論調査の結果は多年続いており、今も依然としてそうである。この状態からすれば、そのハードルを超えようとする改定の強行はこれらの勢力にとってなお政治的な賭である。ひとたび、これに失敗すれば、再びその機会をつかむことはむつかしくなる。改憲勢力は、この明文改憲のための運動を進め、その実現を期するとともに、その間は、大胆な解釈改憲の方法により、九条が機能する範囲を極力制限していこうとしているのである。その間隙は有事立法等によって埋めていって九条の土台を掘り崩していく手法が必要であり、それは九条保持の世論を風化させ、改正反対をあきらめさせていく上でもなお有効である、とするのが、今の改憲勢力の戦略ではないのであろうか。それがこの日の討議内容からうけた私の強い印象であった。憲法調査会の動きを明文改憲のためとのみ決めつけるのは危険である。その一方において、解釈改憲を著実に進めていこうとする意図と努力があることを見失ってはならない、と思う。
 坂野教授はつづいて、美濃部説といえども、統帥権の行使を内閣のコントロールの下におく憲法解釈にまでいたることができなかった、それが軍部の独走を許し、日本を一五年戦争に突入させることになった、と指摘する。教授はその事態をまねいた主要な責任は政治家にあるとするが、そこに憲法の有効性の限界をみるわけである。坂野教授は、美濃部憲法説の対比として、憲法に優越する政治の重要性を指摘して、立法による統帥権の制限を提唱した政治学者吉野作造の所説を援用していた。
 現在当面している問題は、政治が立法等の手段によって憲法秩序を食い破っていく状況である。それによって破壊されつつある現憲法の枠付である平和原則、国民主権と人権は、明治憲法における天皇大権主義、統帥権独立のように時代遅れなものであろうか。日本国民は過った戦争について反省を深め、将来の世界歴史の動向を洞察することによって、時代にさきがける憲法を制定したのではなかったのか。軍事国家化へと改憲勢力が目指す政治の方向は、日本国憲法の制定によってまさにその克服が期された当のものである。憲法はそのような政治の復活を抑止するためにこそ、特に厳格な条項を規定したのである。現状は九条の廃棄のほかにも、首相の権限の強化、天皇の権威の回復と「公的」行為の拡大など、明文改憲が困難であり、あるいはそこまでは要しないとする憲法問題も多々ある。この現実に思いをいたせば、坂野教授のいうような、かつての美濃部学説の役割を引き合いにしての解釈改憲是認論と憲法を超えるべき政治の優越説には、にわかに賛同することができないのである。憲法を尊重し、それを遵守する政治をおこなうとする立憲主義は、たとえそれが一時的には迂遠な策にみえようとも、これは人間の英知を結集された文明の法則である。それこそ近代主義の中核である。当今法学の部面においても、憲法変遷論を安易に受けいれようとする傾向がみられるのであるが、その危険性は決して看過されてはならない。それが歴史の教訓というものであろう。



原田香留夫先生追悼の辞

広島支部  山 田 慶 昭

 自由法曹団員、弁護士原田香留夫先生は、二〇〇三年六月二〇日、心不全にて逝去されました。享年八三歳。
 先生は徳島県のお生まれで、戦争末期に一時期、海軍法務官をなさいました。戦後、弁護士登録。いち早く自由法曹団に入団され、活動を開始されました。当初の十数年間は、県内で実質唯一の、中国地方でも数少ない団員の一人として自由法曹団の旗を掲げてたたかわれたのです。
 米軍の占領下で政令三二五号(占領目的阻害行為)違反として弾圧を受けましたが、之に屈することなく、八海事件をはじめ、松川事件、加藤老事件、川本老事件、徳島事件等、数多くの冤罪・再審事件、労働公安事件の弁護に取り組まれました。広く人民と団結し、有能な人材を結集し、又マスコミをも味方に取り込んで、トコトンたたかうというやり方で、数々の輝かしい成果を勝ち取られました。「広島の弁護士であって、広島の弁護士でない。」といわれるほど、活動の舞台は、広く県外各地に及びました。在野法曹の典型ともいうべき方でした。
 戦後、農地改革の時機に、広島県農民組合の結成に尽瘁せられ、初代の組合長を務められました。
 一九六二年、国民救援会広島県本部の結成に、中心的な役割を果たされ、結成以来十数年にわたって、会長として、その育成・発展のために尽くされました。
 公職の選挙にも、衆議院選挙、参議院選挙、県知事、市長の各選挙など、度々日本共産党公認の候補者として立候補、一九四九年の衆議院選挙では、惜しくも次点になるなど奮闘されました。
 後進の指導にも尽くされ、その門下から少なからぬ人材が出ています。昨夏、偶々お会いしたときに、まだまだ働くとの姿勢で意気軒昂たるものがありました。まだ当分活躍なさるのでないかと期待していましたが、秋には入院され、俄に幽明境を異にすることとなりました。まことに残念です。
 先生の教えを受けた我々は、その遺志をついで、邁進する決意です。



司法総行動の報告

担当事務局次長  齊 藤 園 生

 二〇〇三年の司法総行動が六月一二日に行われた。もともと争議団、労働組合など裁判を闘っている当事者を中心に、司法を現状から少しでも国民本位に変えたいという趣旨で始まったもので、今年で五回目である。例年着実に定着してきたのだが、残念ながら今年は朝から雨。そのせいか、出発式の参加者は七〇人から八〇人、延べ人数でも一四〇人ほどで少なかった。
 都労委、中労委、最高裁、地裁・高裁、法務省の五カ所で朝から宣伝をし、クレオで朝の集会。日弁連の本林会長からも挨拶を受け、その後各要請先に分散した。司法総行動では例年事前に要請書を作って要請先に配布して、当日はその回答を求めるようにしている。
 午前中は最高裁、法務省、中労委、司法制度改革推進本部の四カ所。最高裁は例年のことだが「伝えるだけで、回答は用意しない」という対応で、ここでも対応はいちばん堅い。法務省は対応に一〇人くらいでてきて、丁寧な回答をするもの「代用監獄は自白の温床になっているとは認識していない」とまで発言している。司法制度改革推進本部では、要請団から弁護士報酬敗訴者負担問題で、議事録を時間をおかないで公開せよ、「労働組合と使用者は力は対等」という発言の委員は問題だ、等の意見が続出した。
 午後は地裁・高裁、都労委、警察庁に要請。地裁・高裁は一般的要請だけでなく八つの事件の当事者からの各事件についての要請も行った。その中「法廷に絵画を入れてほしい」という要求には、「他からも同じ声があります」と回答。従前よりは前向きな反応があったということだった。警察庁では共産党に対する情報収集をし、堂々と警察白書に載せる問題について問いただした。
 四時からの集約集会は国会で行い、共産党の木島議員、井上議員も参加し挨拶いただいた。
 総じて要請先からの回答は、十分ではないが、五年目を迎え対応も徐々に変わってきていて、要請内容についても回答をするようになってきた。ただ、最高裁は、いまだに「回答はしない、聞き置くだけだ」という対応で、他と比べても対応の悪さは際だっている。最高裁については別個に、回答を要求する機会を設けるべきだという意見も出ている。
 来年は司法改革関連法案が多数国会に出てくることが予想される。おそらく来年の司法総行動の一つの焦点は国会になるだろう。
 木島議員も発言していたが、官僚は国民の目が届かなければ「司法に金はかけられない」と途端にさぼり出すそうである。いよいよ司法制度改革が進む中、国民からの監視の目が重要なのだと思う。



教育基本法「改正」の動き

東京支部  小 笠 原 彩 子

 秋田五月集会分科会終了以降、この原稿を書くまでの間に、教育基本法「改正」をめぐる情勢や運動には大きな変化がありました。
 第一は、六月一六日与党が、法案の今国会提出を見送ることとし、代わりに与党協議会を設け、その結論を踏まえて今後法案提出を考えることにした点です。与党は、この協議会の下に実務者レベルの検討会(座長・保利耕輔元文相)を設け、六月一七日を第一回とし、以後毎週水曜日ごとに定期的に開かれ、教基法の改正問題や教育現場の問題について議論を進めていくこととしました。したがって、法案の提出という当面の課題は先送りとなったものの、協議会・検討会を通じ着々と提出への準備を進めていると言えます。
 第二は、各地で様々な教基法「改正」問題を取り上げた集会や学習会が開かれたり、企画されたりしていることです。中央の動きとしては、全教、団、教基法全国ネット他子どもに関係する諸団体が共催した「教育基本法『改正』反対 守り生かそう 六・一三市民大集会」が一二〇〇人を集めて開かれ、参加者の「改正」反対への確信を強めるものとして成功裡に終わりました。また、七月一日、日弁連子どもの権利委員会主催で衆院議員会館内で「教育基本法『見直し』問題を考える」集会が野党各党の国会議員、弁護士、教育関係者、市民など約一〇〇名の参加を得て開かれました。この中で、国際基督教大学藤田英典教授は、中教審答申が日本社会の危機としてあげている「閉塞(へいそく)感のひろがり」「少子高齢化・社会活力の低下」「経済停滞・就職難」などは教育基本法に起因するものではないと指摘し、むしろ、「強者の論理による改革、政策が日本の教育を危機的状況に追い込んでいる」と話しました。
 そしてこれらの情報は速やかに各地から団に届けられ、それを各地の皆さんにお知らせできる体制ができ上がった事です。この問題が、急速に広がりつつあることの手ごたえを感じています。
 この動きに連動して、秋田五月集会にデビューした団のブックレット「変えてはいけない教育基本法」(唯学書房)は好評をもって迎えられ、既に二刷りに入っています。
 このような大きな情勢の動きの中で、特に前述した第二の運動の広がりに対し、団五月集会の当分科会は、二月一日の全国活動者会議とともに、大きな役割を持つものだったと思います。
 教育基本法分科会では、はじめに、教育基本法改悪阻止対策会議事務局長黒岩団員から(1)情勢報告がありました。(2)特に「心のノート」の問題について触れました。国家による子どもたちの心の管理が、「心のノート」という道徳補助教材の名目で、実質的には国定教科書として、教師に使用が義務付けられつつあることや、補助教材だから検定もなく配布できる事に法的問題がないのかを、考えてみる必要があるという指摘がありました。(3)更に愛国心三段階評価の通知表の使用は判明しただけでも、一一府県、二八市町で一七二校(五/三朝日)ある現状が報告されました。(4)資料として、教育基本法改悪案黒岩試案等も披露されました。
 続けて、本年三月まで秋田県高教組委員長であった渡部雅子氏から、秋田における教師の実情や取り組み、例えば有事法制がstep1、教基法がstep2、憲法がstep3、という視点で取り組んでいることや、秋田は中間答申から最終答申が発表されるまでの間に開催された「一日中教審」が開かれた場所であったので、一日中教審―一日中教審というが実態は二時間、傍聴への厳しい身分・手荷物検査、中教審委員の一人はたった二時間なのに居眠りしていたこと等も含めた―リアルな実態が語られました。
 続く討議の中で、福岡の団員から愛国心評価通知表のその後の動きについて報告がありました。この問題について県弁護士会に対し人権救済事件申立がなされ、同弁護士会は、今年に入り福岡市教委に対し、憲法一九条違反として評価項目を削除するよう警告を出したこと、しかし、三学期の通知表ではこの項目が削除されておらず、四月からの新学期通知表に注目しているとのことでした。
 また、他の団員から、「心のノート」は小学一年から始まり中学三年までの九年間を通して使い続けるよう四冊(『小学校低・中・高と中学校版』)一組のカラー刷りで、しかも自分で答えを書き込んでいくという、心理的手法をふんだんに取り入れられてつくられており、九年間この教材を使った子どもの「心」を考えると、主権者を育てる教育に程遠く、侮ってはならないという指摘がありました。
「心のノート」の監修者河合隼雄の足元である京都では、この点に関するアンケート活動をはじめていること。宮城からは、子どもたちに「心のノート」を読んでもらって感想を聞いたところ、こんなもの押し付けられて気持が悪い。何でこんなことを(大人に)言われなければならないのか・・・。という意見が出たこと。五年生が自分は学校では書き込み部分について嘘ばかり書いている、(しかし一年生から心のノートを利用していたら信じてしまわないか、嘘は悪いことというこの「ノート」のトーンにはまってしまうだろう)という意見が出たことが報告されました。
 一方で、現在のいじめ・不登校・学級崩壊等の問題を戦後五〇年間の教育が悪かった。特に礼儀や責任・義務を軽んずることが現状の問題を生んでいると教基法改正を好意的に受け止める市民も多くいるのではないか。その人達も納得する理論が必要ではないかという見解が出されました。
 これを受けて、教基法反対の運動は教職員のみの運動では狭い、子どもを学校に通わせ、現に目の前にある教育問題に直面し、悩んだり困ったりしている幅広い父母の関心に結びつけ、今の教育問題は教基法に原因があるのではなく(従って、改正によって、何も解決しないことを明らかにして)、戦後五〇余年、教基法を国がないがしろにし、無視してきたことに原因があることを十分に知ってもらうことが必要ではないかという意見も出ました。
 更に教基法「改正」の動きを含む教育改革の中には新自由主義からの要請と新国家主義的要請の二つの流れの中にあり、次々と出され実施されている―例えば公立中・高一貫教育、学区の自由化等―政策に対する分析とねらいを知ることも重要であることを指摘する意見もありました。
 そして有事法制化においては、戦争する国、戦争のできる国づくりの一環として、戦争に従順に協力する人づくりは必要不可欠であり、この点から教基法「改正」・「心のノート」・愛国心教育は欠かせず、今これが持ち込まれているということを知らせていくことも重要であり、有事法制や平和問題に関心のある人達が関与できる側面もあり、間口の広い運動が可能だという利点を持っていること等が話し合われました。
 最後に、やむを得ないのでしょうが、分科会時間をもう少したくさん欲しいと感じたのは私だけではないと思います。いつもいつもとはいいませんが、せめて目前に法案の提出が予定されている課題については、二コマ位の時間をかけることを考慮してほしいと思います。