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吉田 健一 道路行政の暴走に歯止め
圏央道・収用裁決による代執行に停止決定!
四位 直毅 今と過去と未来と ー韓国を訪問してー
早瀬  薫 森住卓氏ご講演のご報告
東島 浩幸 第二回教育基本法改悪阻止全国活動者会議に参加して
城塚 健之 古川景一・坂本修両団員への返書
ー引き続き労働法制改悪の評価について
齊藤 園生 発作的映画評論Vol.5 「フリーダ」を観る




道路行政の暴走に歯止め

圏央道・収用裁決による代執行に停止決定!

東京支部  吉 田 健 一

 圏央道(首都圏中央連絡自動車道ー国道四六八号)建設予定地に居住している住民について、「居住の利益は、自己の居住する場所を自ら決定するという憲法上保障された居住の自由(憲法二二条一項)に由来して発生するものであって、人格権の基盤をなす重要な利益であり」、「終の栖として居住しているものの利益は、その立場に置かれたものには共通してきわめて重要」で「非代替的な性質を有する」。他方、「建設される道路に瑕疵があって本件事業認定及び収用裁決が違法である可能性があるにもかかわらず、その可能性の有無を十分みきわめないままに、あえて建設を強行することを正当化するものとは到底いえない」。
 去る一〇月三日、東京地方裁判所民事第三部(藤山雅行裁判長)は、こう判断して、東京都あきる野市牛沼地域で建設が進められている圏央道の工事に待ったをかけたのです。居宅を撤去して土地を取り上げることを命じた東京都収用委員会の収用裁決(昨年九月三〇日)にもとづき、石原都知事は、すでに行政代執行の手続きを進めていますが、代執行令書の一歩手前で執行停止決定を勝ち取る快挙となりました。
 圏央道については、その建設目的とされた地域開発がすでに破綻していること、混雑緩和に役立たないこと、道路公害による健康被害等を激化させる欠陥事業であることなどから、地権者をはじめ住民らの反対運動が二〇年にわたって続けられてきました。住民らは事業認定及び収用裁決の取消を求める訴訟を提起していますが、その審理は最終段階となっており、来年二月には結審が予定されています。数ヶ月に迫った本案の判決までは、執行を停止せよというのが今回の決定です。
 また、今回の決定は、環境破壊・住民無視の公共事業のあり方に重大な疑問を提示し、これに歯止めをかけたものです。無駄な公共事業に対する国民の批判を反映したものといえるでしょう。
 しかし、石原都知事は、即時抗告することを表明しています。執行停止をめぐる争いは、東京高裁に持ち込まれることとなります。私たち弁護団と地権者・住民らは、執行停止を死守するとともに、来春に迫った本案訴訟判決で事業認定及び収用裁決の取消を実現するべく、さらに奮闘する決意です。皆さんのご支援をよろしくお願いします。


今と過去と未来と ー韓国を訪問してー

東京支部  四 位 直 毅

 韓国訪問(〇三・七・二二〜二六)の初日は、あいにくの雨だった。が、翌日から天候は回復。熱気にあふれる旅の日々であった。

〈今〉
 ハイライトの一つは、参与連帯や民弁の人びととの交流懇談だった。とくに参与連帯との懇談は短時間であったが、内容が充実していた。
 北朝鮮の核について、体制維持のための交渉カードの面がつよく、アメリカや日本などの「過剰反応」の方がかえって危険、との見方が示された。民主化の現状について、保守層の力もつよく行動化している、デモがあると翌日には同じ場所で保守層がデモを行うなど、いわば一つの声から二つの声へ、と民主化の過程が推移している、と紹介された。民族統一運動の歴史は長いが、平和運動はこれからの課題だ、とも率直に語られた。
 日韓両国の民衆の共同行動、共同課題について、まずは(有事法制や海外派兵など)自国の課題に自国の民衆がいっそうとりくむこと、あわせて相互の交流を広げることではないか、などと述べられた。
 問題により相互の多少の温度差や力点の違いもみられたものの、総じて若々しく発展しつつある民主主義の担い手としてのエネルギーと自負とが実感された。

〈爪あと〉
 二日めの朝に訪れた景福宮内の閔妃虐殺の地や朝鮮総督府跡地、三日めに足を運んだタプゴル(パコダ)公園のレリーフに描かれた三・一独立運動と弾圧、西大門刑務所跡、記念館での拷問の記録の数々など、戦前日本支配下での残虐の爪あとが、ソウル市内の随所に深く刻みこまれていた。声に出すか否か以前の根本問題として、戦前日本の侵略にたいする謝罪と反省を求める思いが根深く存在するのは当然、との認識を新たにした。伊藤博文を射殺して死刑に処された安重根を義士とも殉国者ともする人びとの心情の一端にふれる思い、であった。

〈あすへ〉
 四日め。オドゥ山統一展望台から臨津江(イムジンガン)ごしに北の地を望み、京義線の南側最北端都羅山駅を往復するみちみち、緊張と共に南北平和統一への希望の具体化を肌で感じた。
 帰路、議政府に足を延ばして米軍車両による二人の女子中学生轢殺現場をこの眼で確かめ、同夕、ソウル市街でのキャンドル集会に参加した。米軍被害根絶まで毎夜開催する、とのこと。ここにも、この国の今とあすへの民衆の知恵と力がしたたかに示されていた。

〈カムサハムニダ(ありがとう)〉
 好企画で熱心に案内してくれた宮垣光雄さん、ベテラン日本語ガイド洪仁鎬さん、そして参与連帯と民弁の皆さん、ありがとうございました(カムサハムニダ)。またお会いしましょう。


森住卓氏ご講演のご報告

東京支部  早 瀬  薫

 イラクの武装解除、イラク国民の解放を大義名分としたイラク攻撃・イラク戦争から早くも半年。今でこそ、大量破壊兵器の存在をめぐる疑惑などの様々な報道がなされていますが、ご存知の通り、戦争当時は、一方では米英軍に同行するマスメディアのカメラから、他方では米英軍の進軍をいまかいまかと待ちかまえるバグダッドのカメラから、なんとも奇妙なかつ一面的な報道がなされていました。
 そんなメディアが捉えなかったイラクを見たい。それだけではないのですが、とにもかくにも事務所として学習会を企画し、戦争下のイラクを取材されたフォトジャーナリストの森住卓さんにご講演をお願い致しました。
 企画者(事務所)としては、この春のイラク攻撃・イラク戦争から半年程経っていることや、すでに数ヶ月前に同じ大田で森住さんがご講演をされていることもあって、あれこれと「集客」の心配を致しましたが、定員八〇名の会場に約一四〇人もの大勢の方にご参加頂ける企画となりましたので、少しばかりご報告させて頂きます。
 講演の内容は九一年の湾岸戦争後の取材写真と今年のイラク攻撃・イラク戦争の取材写真の二本立てです。森住さんは、イラクの人々にとっては、「今回の戦争」というより湾岸戦争の時からずっと戦争が続いているという感覚です、と語ります。経済制裁により医薬品すら輸入できないということの意味を考えさせられました。また、森住さんが一貫してテーマとされているのが「核」の問題です。湾岸戦争でも今回のイラク攻撃・イラク戦争でも、「劣化ウラン弾」(強い毒性をもつ放射線廃棄物を利用した放射線兵器)が大量に使用されました。すでに、九一年の湾岸戦争でまき散らされた劣化ウラン弾の影響により、イラクでは特に子どもたちに白血病や癌などが異常発生し、先天性異常の赤ちゃんも多く出生しているとの説明がありました。森住さんのカメラは、白血病で髪が抜けてしまった少女、無脳症の赤ちゃん、空爆で傷ついた少年、ツワイサのイラク原子力施設より略奪されたドラム缶に付着したイエローケーキ(天然ウラン)など、九一年からずっと続いている「戦争」の状況を淡々と捉えています。
 森住さんの写真や講演内容については、企画者があれこれ書くよりも、むしろ、参加者のアンケートの声を一部ご紹介したいと思います。

 等々。他にも沢山のお声を頂戴致しましたが(参加者約一四〇名のなか、九二名の方にアンケートのご協力頂きました)、ご紹介しきれないのが残念です。
 この企画を通じて改めて、写真や映像の訴える力の大きさを痛感しました。この講演に先だって約四日間、蒲田駅ビル連絡通路に森住さんの写真数点を展示するというミニ写真展も開催致しましたが、予想していた以上に多くの方々が足を止め、一点一点写真を見て下さっていたのが印象的でした。
 何時の時代でも、どんな場所であろうと、どんな大義名分があろうと、「戦争」・「武力攻撃」は、人が人を殺すことであり、しかも高度の技術を駆使して何ら罪のない子どもたちを殺すという現実を、当たり前過ぎますが様々な議論で忘れ去られてしまうこの現実を、参加者とともに共有できた企画であったように思います。

以上


第二回教育基本法改悪阻止

全国活動者会議に参加して

佐賀支部  東 島 浩 幸

1、私は、日弁連子どもの権利委員会教育改革小委員会で教育基本法「改正」問題を扱ってきましたが、この問題に関する自由法曹団の会議の参加は九月二七日の上記会議(「政府財界の『人づくり』政策に抗して〜労働者政策と教育基本法改悪」)が初めてでした。
 今村幸次郎団員からの「教育基本法改悪と労働法制の行き着く先について」や杉島幸生団員の「教育基本法改悪阻止の闘いに向けて」は問題の捉え方やこれからの運動の進め方に非常に参考になるものでした。教育基本法の改悪が、グローバル化の中での大企業の収益を目指したエリートの育成、それ以外の教育予算の節約・縮小、その結果国民の人権の制限・縮小、平等・平和の価値が重視されず、階層社会、貧富容認社会が作られ強化されていくという「行き着く先」や、労働法制の改悪と教育基本法の改悪は根っこはひとつであることなど、総合的に理解できました。

2、また、運動論としては、(1)今の公立学校に対する不信感から「公立の学校選択制」をはじめ、保護者から教育基本法改悪の方向性が好意的に受けとめられている側面をどう打破するのか? (2)上級サラリーマン等の階層が競争的価値観を受容している感覚にどう訴えられるか? (3)教職員労組以外の労組での関心を今一つ呼べていないなどの課題があることも明らかにされました。
 また、復古主義的な改悪推進派だけに気を取られた反対運動ではスマートな「改正」案が出てきた時に運動が終息してしまうとの指摘にはその通りだと思いました(例えば、愛国心等の位置付けとして“「日本人のアイデンティティ」論”から、すでに中教審の最終答申では“国際化のため”にシフトしています)。
 ただ、当日の会議では課題に対してどうするのかについては、まだ議論が深まらず(時間が足りず)積み残しとなったと思います。

3、私自身は地元で教職員組合、地区労、保育園等で講演依頼があると、教育基本法「改正」問題について講演していますが、最後にこう言います。「教育基本法改悪を許すと、みなさんの子どもはほぼ確実に落ちこぼれになります。また、『自分の子どもだけは』と思って激しい競争をさせ、勝ち残っても息苦しさは変わりません。もっと人間を大切にする社会を目指す方がよいのではないでしょうか」と。
 今後は、団の支部の活動という位置付けも含めて地元での反対運動を盛り上げるのにがんばっていこうと思います。


古川景一・坂本修両団員への返書

ー引き続き労働法制改悪の評価について

大阪支部  城 塚 健 之

一 はじめに

 私が「労働法制改悪の評価について」(団通信九月一一日号)なる小論において、今回の労働法制改悪は「勝利」どころか「惨敗」であると述べたところ、古川景一団員と坂本修団員から意見が寄せられた(団通信一〇月一日号)。古川団員は解雇自由化条項を阻止したのは「大勝利」であるとされ、坂本団員は「反論を目的としたものではない」とされつつ、「多い一致点と若干の疑問」として、「惨敗」という評価には疑問があるとされる。
 もとより、私は両団員と求めるものに違いはない。ただどうしても気になるところがあって、問題提起をしておきたいと考えたのである。袋叩きになっても無視されても一回きりというつもりだった。しかし、尊敬する先輩方からこのように意見を寄せられれば、さらに意見を述べる必要があるだろう。もちろん、私は自説に固執するものではなく、両団員も言われているように議論の活性化を求めているだけである(なお、坂本団員からは、お電話でもご意見いただき、シンポジウムでの発言を収録した『労働運動』一〇月号までご送付いただいた。この場でお礼を申しあげたい)。

二 解雇原則自由条項削除は「勝利」

 まず、最初に述べておくべきは、解雇原則自由条項をはずさせたこと自体を「勝利」と見ることに異論はないということである。したがって、この点で両団員の評価との不一致はおそらくない。
 しかし、解雇についての財界の要求の捉え方には違いがある。また、今回の労働法制改悪のテーマはほかにも有期雇用・派遣の拡大、裁量労働制の要件緩和があった。そこで私は、「それだけではいけないだろう」として、総合すれば「惨敗」と述べたのである。言葉足らずの面があったかもしれないと反省する次第である。

三 「惨敗」というのは財界の主目的が雇用流動化にあるとみるから

 私は、この数年、雇用流動化にどう向き合うかが労働問題の中心課題であると考えてきた。これは特段目新しい見解ではない。そして雇用流動化を促進するのは言うまでもなく「雇用形態の多様化」であり、非正規雇用の拡大である。有期雇用、派遣労働の拡大はこれに決定的な影響力を発揮する。
 しかし、正社員が自動的に不安定雇用に切り替えられるわけではない。少なくとも大企業では、企業の将来への不安をあおられた労働者が、多数、希望退職に殺到しているのが現状である。それは「解雇」ではなく、少なくとも形式的には自由意思による「退職」である。もっとも、その後の再就職はたいてい不安定雇用しかなく、常用代替が進むことになる。
 確かに大企業があまり乱暴な解雇をしないのは、坂本団員の指摘するように、「労働者のたたかいの成果が歯止めになっているから」である。私たちは先人のたたかいの成果をいかに当然の顔をして享受していることか。
 しかし、そういう現状だからこそ、今、財界が欲しくてたまらなかったのは主として有期雇用・派遣の拡大(さらに残る少数精鋭正社員の徹底した労働強化としての労働時間規制除外)にあったのではないかと考えたわけである。しかも、今回の改悪は、前の闘争の際にもうけられた防波堤(たとえば三年以内の有期契約が許される専門職の範囲とか、裁量労働制の要件とか)があっさりと決壊させられたという意味で「惨敗」ではないかと感じたわけである。

四 解雇についての財界の要求

 これに対し、坂本団員は、「解雇をよりやりやすくする法制にすることは、財界・大企業のもともと一貫した要求である」とされる。
 私は、財界が「解雇をよりやりやすくする法制」を求めているという一般論には賛同する。ただし、その主たる対象は非エリートだと思うのである(法の適用はエリートと非エリートで違うはずもないが)。私は将来、少数だけ残ったエリート正社員を想定して先の小論を書いたので、ずれていた部分はあるかもしれない。
 また、「解雇をよりやりやすくする法制」として、「原則解雇自由」と法律に書くのは確かに手っ取り早い方法である。私は財界にそのような欲求がなかったといっているわけではない。古川団員が「こんな条文が国会を通過していたら、中小企業だけでなく大企業も含めて解雇をしやすくなります」と言われるのはまったく正当である。
 しかし、やはり主眼は金銭解決ルールにあったと思うのである。そのほうが解雇コストの事前予測可能性を高めるのに資するからである。また、そう考えないと政府が比較的容易に譲歩した理由が説明困難だからである。
 古川団員は原則解雇自由条項を阻止したのは「厚生労働省の法案の作り方とその内容が、あまりにも杜撰でお粗末すぎたため」であり、勝因は「運動の側の理論的な力量の向上」であるとされる。労弁きっての理論家である古川団員をはじめ、論戦を支えた方々の理論水準の高さと果たされた役割の大きさは私も十分認識しているつもりである。しかし、論戦だけで、はたして政府がそう簡単に原案を引っ込めるであろうか。
 それでは、なぜ、金銭解決ルールが法案段階から落ちたのか。確かにこれに対する労働組合や弁護士団体の反応は素早かったし、それは間違いなく影響を与えたことだろう。だけど一般紙で大きく報道されたわけではない。にもかかわらず、これが落とされたのは政府、財界、そして最高裁の意思統一が不十分であったことが主たる原因ではないのか。ということは、多少の手直しを経て意思統一が出来次第復活するということでもある。現に総合規制改革会議はこの制度の実現を求めている。

五 “三重の視点”での評価について

 坂本団員は、(1)「危険をリアルに見ること」、(2)「勝ちとった成果を重視すること」、(3)「今後どう道を切り開くか」という「“三重の視点”での評価」を強調されている。坂本団員のこの指摘にはまったく異論はない。これはあらゆる運動を評価するときには必ず必要となる視点だと思う。
 そういう目で私の小論をふり返ると、(1)はともかく、(2)(3)については確かに弱かったと思う。やや評論家的になっていたのではないかと反省もする。
 もっとも、私の疑問は、(2)について、解雇について判例法理を明記させたのが「運動で勝ちとった成果」と言い切れるかという点にある。運動の果たした役割を否定するわけではない。しかし、解雇ルール明示が政治課題となったのは、団や労弁が長年にわたって求めてきたからというよりは、小泉構造改革の中で突然出てきたのではなかったか。判例法理による解雇制限という規制手法が曖昧であり、アメリカ資本の参入障壁となるから明示したかったのではなかったのか。
 また、判例法理それ自体は相当に抽象的であり、その具体化は下級審判例に委ねられている。東京地裁で労働事件が連敗したときも、あの若手裁判官たちは最高裁の判例法理そのものを崩そうとしたわけではなかったのではないか。彼らの論理はあくまで判例法理の枠内にあると思っていたのではないのか。そういう裁判官たちに対して、今回の明文化が歯止めを与えることになるのだろうか(附帯決議の意義は確かに大きいが、裁判官はしばしばこれを無視することを忘れてはならない)。
 西谷敏教授は、ある経営法曹が今回の労働法制改悪を「三勝一分」と表現していたと書かれているが(「季刊自治と分権」一三号 二〇〇三年一〇月)、これは私の実感とさほど変わらないのである。

六 今後どう切り開くか

 坂本団員は、(有期雇用拡大等は)「法構造的には消費税アップなどと違って、…労働者、労働組合自身のたたかいで、職場流入を阻止することができる」とされる。そのとおりである。しかし、これまで阻止してこなったため、今や非正規雇用が三割を超える事態となったのである。また、坂本団員は「“せめぎ合い”によって、いくつもの歯止めを残し、あるいは勝ちとっている」とされる。これもそのとおり。たとえば附帯決議があるのとないのとでは状況は全然違う。特に証明責任の分配については。しかし、不当なことに裁判所は必ずしもこれを尊重してくれない。
 そこで、「『惨敗』といって、それでどうするのか」と、坂本団員からも指摘された。確かに不十分であった。特に運動を論ずる場合には。もっとも言い訳を言えば、私の先の小論の目的は、雇用流動化や裁量労働制への注意を喚起することにあった。労働組合の学習会で、どう展望を見出すかと聞かれれば、坂本団員の足下にも及ばないが、私なりに一生懸命考えて答えようと試みている。もちろん、一介の弁護士に明快な回答が用意できるはずもないが、均等待遇と、最低賃金の底上げ(下支え)が制度課題として提起されるべきであろう。もっとも、これはそれを実現する社会的主体としての労働運動の組織拡大と発展が前提となる。
 坂本団員は、未組織(文脈から見て非正規だろう)の組織化という課題を提起される。私に異論があろうはずがない。大阪の民法協でも、二〇〇二年夏に私が責任者となってパート問題研究会を立ち上げた。民法協では、何年も前から脇田滋教授を中心に派遣労働研究会が地道な活動を続けていて、社会的にも認知され、成果も上げている。これに対し、パートについては、少なくとも雇用流動化に対応する観点では取り組みがなされていなかったので、遅蒔きながら、大阪労連と緊密に連携してスタートさせたものである。まだ、何ができるのか、正直言って試行錯誤状態であるが、労政審答申批判やパート指針へのパブリックコメント応募など、少しずつ進めているところである。
 私は労働運動の再興の方向性は、企業別組合を超えた「地域」と「非正規」にあると思っている。だから、最近各地で取り組みが進んでいる地域労組はできる限り応援したいと思っているし、また、自治体一般労組などの取り組みにも大いに注目している。小林雅之「第五二回東京労働争議研究会報告 個人別組合と企業別組合」(労旬一五四一 二〇〇二年一二月下旬号)や、名取学「若年非正規労働者の権利と雇用の確保ー首都圏青年ユニオンの活動から」(労旬一五五七 二〇〇三年八月上旬号)などはすぐれた実践に裏付けられた貴重な報告である。
 また、一〇月三日付朝日新聞によれば、連合会長選で、高木剛氏と笹森清氏のどちらが非正規の問題により取り組んできたかが大きな争点とされたようであり、興味深い。
 坂本団員は、パートの組織化までは何とかなっても、派遣労働者はたいへんだと言われる。原子のレベルにまで分解されているかに見える派遣労働者の組織化は確かに大変な事業である。この点は正直いって私にもよく分からない。

七 トータルな視点での取り組みの重要性

 私は、実のところ、新自由主義イデオロギーの根本と互角に対決できなければ、本当の対抗軸というものは出てこないのかもしれないと思っている。今は「弱肉強食」を批判しても「負け犬のたわごと」と受け止める風潮が強い。人間観、世界観からして違うのである。ちなみに東京地裁の「若手」裁判官は、実は三〇代後半から四〇代前半の中堅の裁判官たちで、各分野で新自由主義の先頭に立っている層と世代的には重なる。
 しかし、だからこそ、私はことあるごとにトータルな視点での取り組みを強調するのである。
 話が変わるが、有事法制は、なぜ昨年はいったん出直しとなり、今年は一気に成立させられてしまったのだろうか。この点、渡辺治教授は、「シンポジウム 有事法制と地方自治体」(五月二四日)において、昨年は連合・全労連がともにたたかった健保改悪反対運動の盛り上がりが民主党の修正協議を許さなかったという分析を示されていた。そして「有事法制と構造改革とを結合せよとは言わない、ただ一緒にやるだけでもよい」とも語っておられた。
 最近になって私は同僚の谷智恵子団員に勧められてエリック・シュローサー「ファストフードが世界を食いつくす」(二〇〇一年、草思社)を読んだ。そこでは、マクドナルドをはじめとするファストフード業界のもたらす問題点が、雇用流動化、組合潰し、フランチャイズ、地域破壊、教育の商業化、Oー157やBSE等の食品汚染、環境破壊等々、あらゆる角度から検討されている。アメリカのジャーナリストの凄さを見る思いであった。そこには新自由主義という用語こそ出てこないが、内容は全面的な新自由主義批判である。まさにトータルに捉えるとはこういうことをいうのだろう。


●発作的映画評論 Vol.5●

「フリーダ」を観る

東京支部  齊 藤 園 生

 その昔、私がまだ絵を描いていた頃、「フリーダ・カーロ」といえば、ちょっと変わった画家という印象しかなかった。壁画のような妙に立体感のない絵、しかもモチーフは死んだ子どもとか傷ついた体とか、ちょっと不気味。実際にはフリーダ・カーロは、シュールレアリズムの女流画家として、すでに生前から高い評価を受けていたのだから、この評価は全く私の浅学、無知を示すもの。お恥ずかしい。
 今回の映画は、このフリーダ・カーロの半生を描いた「フリーダ」。フリーダは学生の頃の交通事故で、瀕死の重傷を負う。これがフリーダの人生一つ目の苦難。生涯彼女はこの事故の後遺症に苦しむ。失意の中で独学で絵を勉強し、当時すでに壁画画家かつ社会主義者として著名だったディエゴ・リベラに師事。二人は芸術だけでなく政治的にも共鳴し、メキシコ共産党にも参加。そして結婚。しかし、このディエゴが二つ目の苦難。彼の浮気に苦しみ、二度も流産を経験し、とうとう離婚。しかし離婚後も二人は交流を続け、再婚し最後はデイエゴに看取られてフリーダは死ぬ。
 すごい忍耐力、信念である。事故の後遺症の苦しさも流産の悲しさも、すべて絵にぶつけ、ただじっと耐えているのである。ディエゴとの確執があっても最終的にフリーダがもっとも信頼したのはディエゴであり、その信頼は生涯揺るがない。二〇世紀半ば、一人の女性が様々な苦難を乗り越え、自分の生き方を貫ぬくなんて、難しかったに違いない。とても真似できるものではないと私は思います。
 一方ちょっとおもしろいと思うのは、フリーダのこの揺るがない強烈な生き方と対照的に、男性陣のだらしなさがちらちらとでているところ。ディエゴは社会主義者として著名で、政治力もある。ロックフェラーセンターの壁画にレーニンの顔を描いてロックフェラーと衝突するほど芸術でもその思想性を表現し、表向きは立派なのだが、私生活はめちゃめちゃで、単なる酒飲みの女好き。また二人がかくまったロシアの革命家トロツキーは、フリーダと関係したものの、妻に浮気が発覚し、妻に怒られすごすごと引っ越しをしていく。まあ、古今東西男なんてこんなもの・・・いえいえ、そんなことはないですよね。もう一つおもしろいのは、ちょっとした役に「おお、あの俳優が・・・」と思うような人がでていることでしょうか。映画好きの方は探してみてください。
 日々の疲れた生活を反省し、ちょっと人生を考え直して、一途に生きてみたい、と思う方は是非ご覧ください。