過去のページ―自由法曹団通信:1108号        

<<目次へ 団通信1108号(10月21日)



山崎  徹 企業再編型リストラと闘う(ボッシュ事件)
足立 定夫 教育基本法改悪と先取り攻勢
ー自由法曹団の第二回全国活動者会議に参加してー
吉村  悟 八十島幹二先生を偲ぶ
笹本  潤 国際シンポ「東北アジアの平和の展望」の報告
松島  暁 追悼・サイード
坂本  修 労働法制の到達点とこれからの課題について
ーそして、これから、なにを
齊藤 園生 ●発作的映画評論 Vol.6●
「デブラ・ウインガーを探して」を観る
坂 勇一郎 中小事業者の訴訟・個人間訴訟へ導入圧力強まる
ー日弁連シンポ(一〇・二三)・本部前宣伝行動(一〇・三〇)にご参加を〜敗訴者負担問題
石川 元也 「自由人 近藤綸二」 復刻版出版される
今こそ、読み返そう




企業再編型リストラと闘う(ボッシュ事件)

埼玉支部  山 崎  徹

 企業再編型リストラに対する闘いにおいて、職場と地域を基礎にした運動に団員として関与し、それが一定の成果に結びついたケースがあるので紹介したい。
 会社は(株)ボッシュオートモーティブシステムという自動車部品製造メーカー。連結売上高二八二○億円、グループ全体の従業員一万二七○○人の国内有数、外資系としては最大手の会社である。
 埼玉県東松山市周辺にある滑川工場(従業員約四○○名)と武蔵工場(従業員約一○○名)が今回のリストラ対象だったが、この二つの工場は、すでに二○○一年七月、ユニシアジェックス(株)という日産系の会社に営業譲渡されており、ボッシュの従業員は全員が出向扱いとされていた。
 リストラ計画(二○○二年四月)は、ユニシアが滑川工場の業務を縮小するとともに武蔵工場を閉鎖し、当該業務をユニシア秋田工場(秋田県横手市)へ移転することに伴って、出向中の従業員について、滑川工場の約四○○名のうち約一○○名を秋田工場へ、武蔵工場の約一○○名については全員を秋田工場へ出向させ、同時に、両工場の約五○○名全員についてユニシアへの転籍を強要し、それにより労働者の賃金を二割前後ダウンさせるというものだった。ボッシュとユニシアが結託して推進したリストラである。

 私のところに本件の相談があったのは、二○○二年一一月に入ってからのことだった。会社のリストラに対して労働者が悔いのない選択ができるように「遠隔地配転、玉突き配転、転籍、退職強要、復職を考える会」(通称・愚痴る会)を作ったので、学習会の講師を引き受けて欲しいとの依頼だった。「愚痴る会」の運動は、NTTリストラに対する通信労組の闘いに学んだものだという。会社に連合系の労働組合はあるが、会社のリストラ計画にはほぼ同意をしており、本気で闘う姿勢がない。「愚痴る会」を結成するにあたっては、三名の自覚的な労働者が、従業員の家庭をできる限り訪問してその要求を汲み上げていた。
 直面していた課題は、会社が、二○○三年一月一五日という期限を切って労働者に提出を求めていた「転籍同意書兼退職願」についての「愚痴る会」としての対応だった。
 転籍に同意するかどうかが労働者の自由意思に委ねられることは弁護士にとっては自明であるが、その時点での社内の雰囲気はそうはなっていなかった。会社は、配転の問題と転籍の問題を意図的に混同させ、従業員に対して、同居の家族の介護が必要で、しかも本人しか介護者がいない、本人が病身で転勤先では治療が受けられないなど判例から見た「やむ得ない相当な理由」がない限り、転籍も拒否できないかのような説明をして、転籍を強要していた。違法・脱法もここまで露骨だと開いた口が塞がらない。

 こうした状況を踏まえ、学習会では、「配転」「出向」「転籍」の違いを分かりやすく説明すること、「転籍」には本人同意が必要であり、拒否できることを徹底することに重点をおいた。学習会は年内に三回(一一月二四日、一二月一五日、一二月二九日)連続的に行い、各回とも、説明に一時間、質疑に二時間を充てた。私の外にも、埼玉の団員(杉村、野本、伊須)が参加した。学習会の参加者は、それぞれ二○〜三○名程度だったが、学習会での説明をA三版のビラにして、繰り返し両工場の労働者に配布した。同時に、「愚痴る会」として、連合系労組に対しても、これまでの姿勢を改めるように働きかけた。
 学習会活動と平行して、比企労連(全労連・埼労連加盟)や東松山民商などが加わった「ボッシュ問題と東松山の地域経済を考える会」が結成され、会社や東松山市に対する要請行動も始まった。
 一二月中旬には、連合系労組も転籍は義務ではないことを言明するようになり、労働者の間で「転籍同意書」は無理して出さなくてもいいのだという認識が急速に拡がっていった。
 結果として、一月一五日の期限に「転籍同意書」を提出した労働者は、対象者五○○人のうち二三名に止まった。そして、このことが会社にリストラ計画の見直しを迫る決定的な要因となった。
 その後、会社は当初の計画を変更し、秋田工場へ出向する二○○名については転籍を求めず、期間を三年とすること、滑川工場に残る三○○名については転籍を求めるが、退職金の積み増しにより六○歳までの生涯賃金格差をほぼ解消すること、仮にユニシアが倒産した場合には、ボッシュが引き取って職場を確保することなど大幅な譲歩を示すようになった。短期であるが集中した労働者の取り組みが会社を動かしたのである。

 しかし、会社の譲歩によっても、埼玉から秋田へ出向させられる二○○名については、出向命令を拒否できるのかどうかの問題が残った。したがって、年明けの学習会は、この点に焦点をあわせていった。「従業員は現地採用の技術労働者で、生活の本拠は採用場所に固定していること」「採用時には、秋田工場などなくそのような場所への出向は全く予想できないこと」「出向先が埼玉からあまりにも遠く、豪雪地帯であって気象条件も違いすぎること」など、労働契約における勤務地限定に違反することを指摘するとともに、異議を留めて出向し、裁判で争う方法もあることを何度も説明した。
 けれども、この問題については、「秋田に行ってもらう以外、あなたの仕事はありません。」「秋田に行けないのであれば退職してもらうしかありません。」「退職できないのであれば、会社は整理解雇も視野にいれています。」との会社の説明に対する反撃が十分なものにはならなかった。労働者は、やむなく出向に同意する者と、どうしても秋田には行けないということから退職する者に分かれた。残念ながら、異議を留めて、裁判で争う者は生まれなかった。
 ボッシュのリストラに対する取り組みは、前述のとおり会社の譲歩を引き出して、一定の成果を収めることができた。だが、秋田への出向については「三年」の限定をかけたとはいえ、弁護士としてやりきれない思いが残ったことも事実である。この借りはNTTリストラ裁判で返すこととしたい。



教育基本法改悪と先取り攻勢

ー自由法曹団の第二回全国活動者会議に参加してー

新潟支部  足 立 定 夫

 帰宅した娘が「反対だと思って署名したけど、改正を求める署名だったので取り消してもらった」「ほら、へんなチラシが配られていたのヨ」と見せてくれた。チラシには『ひどい!小学生に授業でコンドーム装着の練習をさせているんですって』とか『過激教師たちは教育基本法を楯にいうことを聞かない』などのマンガで、教育基本法改正を訴えている。
 活動者会議の中で、このチラシの意味が判った。
 東京都立七生養護学校の性教育(積極的な取り組みとして、何回か研究発表されている)に対する、外部からの乱暴な攻撃が報告された。民主党や自民党都議らが「最近の性教育は、口に出し、文字にするのもはばかられる」などと攻撃し、これに呼応した形で三〇人もの指導主事が一斉に教員から事情聴取を行い、性教育の全教材を提出させて、都庁内に展示した。校長を含め一一六名の教職員が処分を受けたという。
 子どもの愛国心を通知表で評価したり、君が代、日の丸を通じての教員攻撃が各地で行われ、最近では教育委員会による「教員の思想偏向教員調査」さえ強行される自治体が現れた。また女性の社会的平等を求める教育実践に対する攻撃も指摘された。
 教育基本法改正の背景には、このような復古主義的な流れがある。 今回の全活は、もう一つの流れ、新自由主義的改革といわれる財界の人づくり政策の解明がテーマとなった。「選択の自由」「能力に応じた教育」とか「費用対効果」などとのスローガンのもと、安上がりな教育(一部エリート教育に集中的に予算配分し、その他大勢には金をかけない)を定着させようとしている。
 また裁判上も認められてきた「教育の自由」や「教育を受ける権利」に対して「国家教育権」ともいうべき考え方(国家は一定の資質を国民に求めることができる)が公然と唱えられ、教員管理の強化と相俟って、国家統制的な教育への危険が指摘された。
 団としての教育基本法改正問題に対する組織的な取り組みは、まだまだ緒についたばかりである。しかしながら教員関係労組の取り組みが弱く(特に地方では)教育問題が一般の労働者の課題になかなかなりにくい状況下にあって、団及び団員の意識的で地道な取り組みは、幅広い運動を発展させる上で、一定の役割を果たしてきたと思う。
 全活では「教育問題はよく分からないが」と断って発言される方も増えてきた。団の活動の少しずつの広がりを感ずる。
 戦争のための人づくりという危機感も必要ではあるが、なによりも「自由で自立した人づくり」「愛情と勇気あふれる人づくり」「平和を愛する人づくり」という、楽しくて、国民誰もが身近な課題として取りくめる「子育て、教育」問題として、教育基本法改正問題に関わりたい。



八十島幹二先生を偲ぶ

北陸支部(福井)  吉 村  悟

 福井市在住の八十島幹二先生は平成一五年八月一七日肺がんのために逝去されました。享年七三才でした。
 八十島先生は昭和四二年四月に金沢市の梨木法律事務所に入所された後、同四六年四月に福井市に移って八十島法律事務所を開設し、翌四七年に故吉川嘉和先生を迎えるとともに事務所の名称を福井共同法律事務所と改めました。私は同五二年四月に弁護士登録をして同事務所に入所し、先生が昭和六一年に独立されるまでの約一〇年間、先生のご指導を受けることができました。
 私事にわたりますが、八十島先生からは多くのことを教わりました。法律問題については、教科書や判例を調査することも大事だが、まずその前に法律の条文を丹念に調べることが何より重要であるといった、弁護士にとって「イ、ロ、ハ」ともいうべきことも、八十島先生から教えられた事柄の一つです。また、どうしても執行猶予を得たい国選事件の弁護方針が思うように立たずに悩んでいたところ、罪を憎み、それでいて罪を犯した人の人生は慈しむという姿勢で弁護に当たるよう助言され、その意味がよく理解できないまま、刑責を厳しく追及したいと思う余り被告人を怒鳴りまくるだけの被告人質問に終始したところ、裁判官が「弁護人からあれだけ叱責されたのだから今回に限り執行猶予を付ける」と言ってくれたという、駆け出しの頃の懐かしい思い出もあります。
 一言、一言の言葉に重みがある、八十島先生には、そんなカリスマ性がありました。
 しかし、八十島先生の功績は、何と言っても、この福井の地で、社会的弱者の依頼に応えることを正面から掲げて弁護士事務所を築かれたことにあります。
 昭和四七年に起きた北陸トンネル列車火災事件で呼吸器疾患に苦しみ当時の国鉄に対する損害賠償を求めて提訴に踏み切った多くの被災者の方々、病院の理事者から、政党所属や組合結成を理由にいじめ抜かれた末に解雇処分を受け、その理不尽を訴え、赤ちゃんをオブって助けを求めてきた若いお母さん、首を切られて路頭に迷ったコンクリート会社のおんちゃん(福井弁で「おじちゃん」の意味)やおばちゃん、サラ金地獄のために東尋坊で飛び込み自殺をしようかと悩みながら事務所に電話を架けてきた中小企業の親父さん、そんな市民が八十島先生の依頼者の中心でした。
 なかでも、昭和四八年に福井市で起きた老女殺人事件で妻殺しの濡れ衣を着せられ、一審で有罪判決を受けながらも、昭和五五年三月二五日に名古屋高裁金沢支部で逆転無罪判決を得た松本秀義老人の公判期日において、無罪判決の言渡しを受けるや、法廷に立ち尽くし、とめどなく涙を流し続ける松本老人を、主任弁護人として温かく見守っていた八十島先生の姿は今も忘れられません。
 私と八十島先生の間には、二〇才の年齢差がありました。したがって、私が入所した昭和五二年には先生はすでに五〇才近く、独立された昭和六一年には六〇才近くになっておられたことになりますが、先生は、毎日土石流のごとく押し寄せる庶民の依頼事件を、当時二〇代ないし三〇代の若い私と同等、あるいはそれ以上にこなしながら悠然としておられました。思慮浅い私は、当時、それを当然のことと受け止めていましたが、自分がその頃の先生の年齢層になってみて、それが体力面、気力面で大変なことだったことにようやく気付くことができた昨今です。
 権力、社会的地位、金銭などというものから、一貫して、最も遠いところに身を置き、困難な事件に進んで立ち向かい、それでいて飄々と人生を送り、そして仕事をやり遂げるや忽然と旅立たれた、八十島先生はそんなピープルズロイヤーでした。
 平成一五年一〇月八日、十三夜の月が澄み渡った夜空で見守る中、富山の木澤進、金沢の手取屋三千夫、福井の石本理の各弁護士はじめ、先生と親しく交わってこられた百数十名の人々が参集して偲ぶ会が開かれ、八十島先生との思い出を語り合いました。それが、北陸の地で市民の法律家としての生涯を貫いた八十島先生に最もふさわしいはなむけとなったことを、最後にご報告させて頂きます。



国際シンポ

「東北アジアの平和の展望」の報告

東京支部  笹 本  潤

 一〇月四日に法律家五団体主催国際シンポジウム「東北アジアの平和の展望」が東京・四谷のプラザエフで開催された。東北アジアは、北朝鮮核問題を中心とする六カ国協議が開かれその後の進展がない状況の下で、今の東北アジア情勢をどのようにみればいいのか、私たちに何ができるのかをテーマに開催された。
 パネリストは中国社会科学院の金煕徳教授、韓国・民弁の沈載桓弁護士、朝鮮大学校教授の高演義教授、関西大学教授の豊下楢彦教授、とそうそうたる顔ぶれであり、最近の東北アジア関連のシンポとしてはかなり中身の濃い質の高いものであった。主な発言の要旨を紹介して報告とすることにする。

2 朝鮮半島の平和状況の認識について

 今の朝鮮半島の状況をどう見るかについては、アメリカの先制攻撃論が北朝鮮を追いつめており、朝鮮半島に危機的状況を作り出しているとの認識がかなり共通のものになってきているようであった。
金教授「朝鮮半島にはまだ冷戦が残っており、関与する四カ国の将来の平和構想が異なり、各国にハト派とタカ派がいるため、複雑な様相を呈している。しかし、朝鮮半島の非核化は中国も望んでおり、平和的解決を目指している。」
沈弁護士「朝鮮半島に核戦争の危険をもたらしているのは、アメリカの北朝鮮圧殺政策にあるとし、特にブッシュ政権になってからはより強硬になっている、と指摘。しかし、アメリカは一方では平和的解決の声に配慮して時間稼ぎをし、その間に北朝鮮を危険国家と見るように諸国を導くという戦略なのではないか。」
高教授「アメリカは北朝鮮敵視政策をとっているが、まだ対北朝鮮政策がはっきりと決まっていないのではないか、ケリー国務次官補は話を聞くだけの姿勢を三年間繰り返している。一方アメリカは九二年の朝鮮半島非核化宣言が気に入らず一〇年間民族の悲願である朝鮮半島非核化を妨げてきた。抑圧を受ける側から世界を見ると、北朝鮮は、朝鮮戦争以来五〇年間いつも脅威にさらされてきたと言える。日本も潜在的な核保有国だとすれば、ロ、中、米、日と核大国に包囲されてきた。アメリカはその中で南を支配し、北を敵視し、統一を妨げる戦略をとってきた。北朝鮮は座して死を待つわけにも行かず、軍事的抑止力に傾いてきた。」
豊下教授「アメリカは、昨年の日本の日朝平壌宣言、盧武鉉政権の誕生、シュレーダー政権の誕生などの反乱に危機感を持ち、小泉訪朝の後、ケリーを訪朝させたり、ブッシュ・ドクトリンを発表してきたりしてきた。金大中の太陽政策は、北朝鮮と周辺四カ国との関係を変え、ロシア、韓国、中国のサポートがあったから進展があった。しかし、今回の六カ国協議ではロ、中のサポートが少なかった。」

3 危機の克服の展望について

豊下教授「北朝鮮を国際社会に組み込む必要がある。太陽政策の文化的アプローチも成果がでてきており、太陽政策は北朝鮮を外部的援助がないと存立し得ない国にしたと言える。仮に物資の横流しがあったとしても経済援助をしていく路線がいい。市民運動の目的として日本と朝鮮半島の非核地帯化としたらいいのではないか。日本も核保有の危険がある。」
高教授「アメリカがアフガン、イラクのように朝鮮半島で戦争を起こせないのは、東北アジアでは国際金融資本は平和でないと利益を得られないからだ。また、一〇年前と違って日朝平壌宣言や、二〇〇〇年六月一五日の南北共同宣言の威力がある。六・一五宣言はアジアの冷戦の崩壊の始まりであり、アメリカの政策が破綻しつつある。現在アメリカは中国に役割の肩代わりをさせようとしている。今必要なのはアメリカの高度の心理戦にまどわされずに、不可侵条約の締結、休戦協定を平和協定にすることをめざすこと。」
沈弁護士「六カ国協議のアメリカの提案は、核を不可逆的方法で廃棄してから対話と言い、北朝鮮が受け入れられるはずがない案を出している。妥協可能な案を出さないと対話により解決しない。北朝鮮は、公正な対案を出したと評価されている。ブッシュが政策を転換さえすれば、北は受け入れられるはず。
 これからは反戦平和の世論が重要になる。韓国の反戦平和運動は、かつては駐韓米軍反対の運動にとどまっていたが、現在は米朝不可侵条約を締結し、アメリカの核戦争計画の狙いを暴露していく運動に発展してきており、アメリカの横暴は韓国市民には通じない状況になってきている。
 そして日本との国際連帯は特に重要である。戦争が起こった場合、日本は米の後方基地になる。そして北に対する敵対政策で、日本は米に協力している。北のミサイル危機を理由に周辺事態法、有事立法を進めてきた。拉致問題を利用して北を悪魔のように見、対立を激化させ、軍拡を進めている。この道はかつての日本軍事国家の道と同じで国際的理解は得られない。これを阻止する力は韓日の連帯。韓日の反戦平和勢力がその先頭にたって日本の支配層を是正する運動をし、アメリカの政策を阻止していかなければ。」
金教授「六者協議にこだわらず二国間対話も進めていくべき。また四大国が南北統一を支持することも重要。将来的な安全保障のメカニズムとしてアセアン一〇+三(四)ヶ国のシステムにするように。日本外交については、朝鮮との戦後処理をしていくのに、拉致問題を利用するのには反対である。中国は発展している。対米従属の日本はこのままでは置いていかれる。」

4 質疑応答

 その他、いくつかの気になる点について会場から質問があり、パネラーが答えた。
金教授「(中国の対北政策について)中国の対北政策は内政不干渉の原則であり、同盟の論理ではない。朝鮮戦争もアメリカが朝鮮に攻めてきたから北朝鮮を支持したのであって、北朝鮮が東側だからではない。
 (日本の政策について)日本は経済力と平和政策のソフトパワーを持っている国だから期待はしている。しかし、日本には、外交力、戦略力がない。歴史問題も解決しないでアメリカに追随していると北朝鮮から見れば危ない国になる。日本はただ待つだけの姿勢ではいけない。現在は国力は日本の方があるから早く解決すれば日本は有利であろう。しかし一五年後の解決では日本は遅れること必至。」
高教授「(北朝鮮報道について)北朝鮮の正しい姿は、ブッシュの言動に惑わされないように。普通の人間が住んでいる国だということを出発点にしてほしい。
 (在日問題について)日朝平壌宣言には在日朝鮮人問題も入っている。小平市で指紋押捺の調査が発覚した、爆弾が仕掛けられたり。今のテロは朝鮮人に対するもの。これに対しては日本政府は検挙しない。このようでは朝鮮人の次は中国人、日本人となっていく危険がある。
 (拉致問題について)拉致問題を日本は解決するつもりがあるのか。また、マスメディアや救う会、拉致議連も戦う姿だけで本当に解決する気があるのか疑問。従軍慰安婦に同情示せないのもおかしい。
 (朝鮮危機全般について)南アフリカの真実和解委員会、北アイルランド紛争、ARFの動き、パレスチナでも和解があった。そのような動きに学んでいきたい。相手の立場に立って考えること、相手への思いやりが重要。理解が生まれ、それが自然なものになる。一番いけないのが、ブッシュ、ネオコンの考えである二分法。中間の人もいる。政治文化の違い、同じ人間の立場に立つ態度が必要。」
沈弁護士「(韓国の対北世論について)六・一五南北共同宣言以前の韓国の世論に、今の日本の世論はよく似ている。以前の韓国はもっとすごかった。六・一五共同宣言を境目に世論が変わったのは、過去の北朝鮮に対する情報がほとんど嘘だったことがわかったから。
(対北世論が変わった理由)軍事政権の基礎が反北朝鮮政策だった。軍事政権の共通点は独裁政権であり、自国の人権を蹂躙していたこと。六・一五南北共同宣言以降、金正日ショックが起こり、かつては最も悪い人間だと思っていたのだが、認識が間違っていたことがわかった。かつてはマスコミの情報操作をそのまま受け取っていた。軍事政権は、北の南進を防ぐためという理由で国民に我慢を強いてきた。また北の南進は米軍の駐留の根拠にもなっていた。そこではアメリカは保護者とされていた。反対すると監獄に入れられ、今の日本と比べようもないほどひどかった。
  韓国の世論の変化については、韓国KBSが行った七月二四日の調査が象徴的である。「北に核兵器があるか、核戦争があるか」、という質問があった。世論調査の結果は過去と全く反対になっていた。かつては、北の核保有については六三%が保有していると答え、二八%はまもなく保有と答えていた。理由は南を侵略するためと考えられていた。ところが現在は北の核保有は四〇%は話し合いのため、三六%は防衛のため、二一%だけは先制攻撃用となっている。そして六〇%はアメリカの先制攻撃による戦争の可能性が高いと答えている。このような韓国の世論の変化は日本に対する教訓となるのではないでしょうか。」
豊下教授「(北朝鮮が核を持つ理由)九四年の時はブラフ、今は抑止力としての核を痛感したのでは。アメリカに対する防衛のため。かつてはパキスタンの核に対して国連安全保障理事会は制裁措置をした。しかし、九・一一後には解除した。アメリカの核政策は恣意的。それを見た北は開き直る。しかしブッシュは今は朝鮮で戦争を起こす余裕はないのではないか。統一はしたくないというのが米朝の一致点か。圧力が強いほど、北の体制も硬くなる。アメリカだけに原因を見いだすのではなく、北朝鮮の民主主義の問題もある。
(日本の外交について)日米安保が日本にとって不利益になってきている。イラク戦争で一兆円、ミサイル防衛も一兆円ほどかかる。
 日本なしでもアジアはやっていける、アセアンと中韓だけでメコン川開発する動きもあった。日本はアジアの新しい動きについていけていない。日米安保と過去の清算が足かせになっている。有事の時、在韓邦人を守るのが米軍というのが過去の日米関係のあり方だが、今のアメリカはそれをしない。今は在韓邦人はソウル市民と一緒になって守っていくしかなくなっている。中韓関係は親密になってきている。韓国の留学生はアメリカより中国の方が多い。日中間の毒ガス問題、買春問題は過去ではなく、現在の問題として解決が必要な問題。」

5 会場からの発言

 これらの発言を受けて、会場からもいくつかの意見があがった。
・日本の平和運動は過去の問題を克服できなかった。ナショナリズムの問題が内部にあったのではないか。
・イラク派兵反対運動は新しい日韓連帯のテーマになりうる。
・アメリカ下院議員クシーニッチという平和の大統領候補が、アメリカが核兵器をなくすべき、と言っており、ようやくアメリカから新しい声が出てきた。
・日米同盟、戦後問題は早急に変わらない、このままでは日本はアジアの三流国になってしまう。
・北朝鮮脅威論を克服しないと。鳥取県では国民保護法制に基づく住民避難マニュアルが作られた。シナリオの前提が、北朝鮮の弾道ミサイルが着弾、艦船が集結したなど、ありえないシナリオで住民を避難させようとしている。日本政府は北朝鮮脅威論を国民の末端まで徹底しようとしている。



追悼・サイード

東京支部  松 島  暁

 エドワード・サイードが、さる九月二五日、ニューヨーク市内の病院で白血病のため亡くなった(六七歳)。
 サイードは比較文学の研究者でありながら、パレスチナ解放運動に深くかかわり、アラブに対する偏見を鋭く批判しつつ、パレスチナ解放運動のもっとも強力な代弁者として発言してきた。また、九・一一以降のアメリカについて、N・チョムスキーとともに最もラディカル(根源的)な批判を加えてきたのもサイードだった。

 ここ一〇年で私自身が最も影響を受けた思想家は誰かと問われれば、それはサイードである。
 サイードの『オリエンタリズム』(平凡社)や『文化と帝国主義』(みすず)の与えた影響ははかりしれない。それらの存在なくして、姜尚中氏や小森陽一氏の近時の業績は考えられないと思う。サイードのオリエンタリズムの視覚から明治維新以降の「この国」を、西欧とアジアのはざまでの二重の「オリエンタリズム」と捉え直す姜尚中氏の「二つの戦後」論、一九三一年から四五年までの 「一五年戦争」の前後、明治維新以降の近代国家形成期と平和憲法のもとでの戦後にこそ問題の根があると考え、植民地主義の生成と克服の問題を提起した小森陽一氏の「ポストコロニアル」論のいずれもサイードの業績を踏まえてのものであった。
 戦後補償裁判においていくつかの大きな成果が上がってきているが、いわゆる植民地支配の克服に関連する裁判が意識的に取り上げられるようになったのはごく最近のことである。我々よりも上の世代が自覚的に追求せず、現在、若い世代が中心的に担うこととなったのは何故かという問題はひとまずおくとして、戦争責任・戦後責任の課題も、サイードの提起した脱植民地化の流れのなかに大きくは位置付けられるのであり、サイードは、私たち団員の活動と無縁ではない。

 サイードは、帝国主義や植民地主義によって、ある国が他国を、ある民族が他民族を支配する、その内実が、単なる政治的・軍事的・経済的支配のみならず文化的支配にあることを実証した。また、非抑圧民族が植民地主義者の眼差しと感性を内面化していくプロセスを解明した。
 近時の北朝鮮バッシングを見るにつけ、文化的支配の克服がいかに困難かを実感する。そして植民地主義者の眼差しや感性は私たち自身の中に深く根をおろしているのだ。

 ある集まりで「平和憲法の思想を北東アジアに広めよう」という趣旨の発言が、先輩弁護士からなされた。もちろん善意でなされた発言であることをじゅうぶん理解しつつも、どうしてもその意見には同調できない。
 憲法の平和思想を広めることのどこが悪いといわれるかもしれない。しかし、私は、ブッシュ/ネオコンの自由と民主主義の拡張戦略との類似性を考えてしまう。ブッシュらは自由と民主主義の価値に確信を持っているのであり、その思想とどこが違うのか私には理解できない。
 少なくとも植民地支配を清算しその克服の課題を成し遂げていない「この国」の活動家が、平和憲法の拡張戦略を口にすることは、アジアの国々との関係では軽率と言わざるをえない。
 アジアの国々が納得して受け入れれば問題ないじゃないかと言う意見があるかもしれない。しかし、サイードにいわせれば、合意と納得による支配こそが、文化的支配の核心なのである。



労働法制の到達点とこれからの課題について

ーそして、これから、なにを

東京支部  坂 本  修

 団通信一〇月一日号掲載の私の意見(以下小論(1)と略称)に対して城塚健之団員のさらなる意見をと願っていました。幸いにして超多忙の同団員から早速、詳細な意見を寄せられました。心から感謝しています。
 私と古川景一団員、そして城塚団員の今回の労働法制問題についての意見が基本的には違っていないことは、当初から明らかでしたが、今回の城塚団員の意見(以下、城塚意見(2)と略称)でいっそうはっきりしたと思っています。もちろん、細部での意見の違い(ニュアンスの差を含めて)は、三者三様にまだ残っています。しかし、そのことは、これからの運動にともに力を合わせて参加していく上で、なんの障害にもならないことです。以上を前提として、城塚意見(2)の五「“三重の視点”での評価について」、同六「今後どう切り開くか」に「触発」されて、「蛇足」かも知れませんが、思うところ(あるいは、思いの残るところ)を書かせてもらいます。

(1)解雇規制条項の実効性についての当然の疑問

 「解雇原則自由条項削除が『勝利』(「カネで首切り」阻止を含めて)」であることは、三者(城塚、古川、坂本)は一致しました。もうひとつの「解雇規制の法文化」(労基法一八条の二)についても城塚団員はおそらく成果(「勝利」)とみているのだと思います。
 しかし、城塚団員はその実際の効果について、東京地裁の労働部の裁判官たちの一連の労働者敗訴判決は、彼らの考えでは、整理解雇の四要件の判例の枠内での判決だったのであり、「今回の明文化が歯止めになるであろうか」と疑問を呈しています。さらに「附帯決議があるのとないのでは状況は全然違う。特に証明責任の分配については。しかし、不当なことに裁判所は必ずしもこれを尊重してくれない」とも述べています。要約すれば、城塚団員は、一定の成果として評価しつつも、実効性についてかなりの疑問をもち、鋭く警告しているのだと思います。(注1)
 私は、もし、私たちが「勝利」だと口で言うだけで、座視しているならば、同団員の警告どおりの結果になる、つまり、解雇規制条項は、「絵に描いた餅」になってしまう危険があることを認めます。その意味では異論はありません。

注1 古川団員の意見はこの点について直接ふれていませんが、かつて参議院で同じく参考人として私が同氏の参考人意見を聞いた経験からいっても、「不充分な点はあるが、積極的に評価する」ということだと思います(ちなみに、同じ参考人の宮里邦雄団員・日本労働弁護団会長も古川団員と同旨でした)。

(2)運動で「勝利」(成果)の“現実化”を

 解雇規制条項がどの程度にあてになる「勝利」(成果)かを抽象的に論ずるつもりはありません。私が言いたいのは、この条項を攻勢的に活用して、たたかいを組織し、現実に成果をあげること(“『勝利』の現実化”)をこそ、今は強調すべきだということです。
 では、なにが“『勝利』の現実化”を可能にするのか?それは成果を労働者の確信とし、武器としての攻勢的な運動だと思います。たとえば、自由法曹団の責任で(1)法文と両院の附帯決議、そしてこの間の国会での政府と各党の論戦、とりわけそのなかでの、おそらく野党質問に強いられたものではありますが、政府の「積極答弁」をコンパクトにまとめる。(2)それを資料にして、整理解雇の四要件、証明責任使用者負担原則のルールが今回の改正で確定したことを論証した文書をつくる、(3)これを全国の裁判所(合理的に的を絞った一審民事裁判官など)に配布する。その上で(4)個別の解雇事件では同文書を甲第一号証として提出し、訴状、準備書面でも徹底して活用する、(5)同文書を労働組合に提供し、職場でこの文書を活用し、経営者に事前協議協定締結を迫り、あるいは整理解雇を阻止するために役立ててもらうーそんな活動はできないものでしょうか?もし、こうした活動が成功すれば、それは労働者の確信をつよめ、法文の中身を力あるものとして確定することになるはずです。財界、大企業、政府、そしておそらく一部の裁判官も労基法一八条の二は、今までとなんら違いもない条項で、さして意味がないものだとしようとする(“『勝利』の空文化”に努力する)に違いありません。「先んずれば人を制す」「鉄は熱いうちに打て」と言います。一つの手がかり、一歩の足がかりも重視し、たたかいによってより具体的な成果に転化・成長させるという“したたかな運動”を夢みるのです。“三重の視点”の(2)(3)の現実の適用として、私はそう考えるのですが、無理な(あるいは誤っている)ことなのでしょうか?(注2)

注2 すでに意見書作成時の蓄積がありますから、実務作業としては、さして困難だとは思いません。しかし、団の労働法制、労働問題両委員会で提起してみたのですが、「反対はないけれども賛成もない」というのが現状です。

(3) 「一点」の「得点」を重視する

 (1)(2)でのべたことと重なる問題意識ですが、「三勝一分」論ではなく、勝ちとった「一点」を重視すべきだと思っています。城塚団員は、「西谷敏教授は、ある経営法曹が今回の労働法制改悪を、『三勝一分』と表現していたと書かれているが、(中略)これは私の実感とさほど変わらない」と述べています。その「実感」はよく分かります。でも、それでは、せっかくかちとった成果に照らして、「もったいない」ような気がしてならないのです。
 あくまでもこれまたたとえ話ですが、今回の攻防の「表」「裏」の得失点をみれば、スコアカードは財界・大企業、政府の側の大量得点だと私も思います。しかし、解雇のルールの問題で、くり返し述べてきたように、私たちは、(1)「カネで首切り」を法案前に阻止し、(2)解雇原則自由条項を法案から修正削除させ、(3)史上初めての解雇規制条項を法文化させたのです。大事なことは、労働法制をめぐっての約二〇年のたたかいのなかで、はじめて得点をかちとったことをどうみるかです。いままでにないこの得点は「敵失」によって与えられたものではないと私は考えます。あるいは「敵失」が影響したとしても、とにもかくにも、労働者・国民の側のかつてない共同プレーがなければ、得点はあげられなかったはずです。では、aなぜ、今回は得点できたのか? bそこに、これからより大きな得点を勝ちとる上でどんな法則が見出されるのか?cまだ弱体だった運動でも、得点ができたのなら、これから、私たちの側が連続得点し、大量得点する運動をどうやってつくったらいいのか?そのことをこそ、この瞬間にかたり、労働者や国民のそして私たち団員の確信にしていく。そのために「評価」についての活発な討議をしたいのです。ただし、座して討議をするだけでは深い合意にはならないでしょう。すでに、全くの試論として(2)でのべた私見なども検討して、やれる活動にどう足を踏み出すかが、今、問われているように思われてなりません。(注3)

注3 かちとった解雇規制条項は、古川、宮里、そして城塚各団員が指摘しているように、不充分なものです。より具体的なルールの立法化(立法闘争)が必要なことは確かです。だがそのことは、不充分ではあれ、かちとった成果の徹底活用の必要性を否定(あるいは軽視)することではないはずです。

(4)「雇用の劣化」とのたたかいへの参加を

 雇用のルールの活用(それへの参加)以上に、重大で切迫している難問は、城塚団員の指摘している「雇用の劣化」への取り組み(未組織の組織化、不安定雇用労働者の権利擁護への参加)です。私たち団員になにができるのでしょうか?この点について、私は城塚意見書(2)六「今後どう切り開くか」に多くを学びました。同団員がこの課題に先進的にとりくんでおられることに敬意を表します。一〇月八日の団労働問題委員会で大阪支部の杉島幸生団員(事務局次長)から、大阪民法協と大阪労連の共同しての三年にわたる取りくみも聞きました。ここにも、団員のなすべきことが示されているように思います。全労連も連合も特別基金を設定しました。全労連は全国的に「仲間をふやし、明日を開く」ために、前述の基金をも活用して、未組織の組織化と結びつけての相談センターを設置して活動を始めます。団員がこの活動に参加し、寄与すること、そのことを通じて新たな労働運動を形成するために立ち上がった多くの労働者・労働組合との間に、血のかよった柔軟なネットワークを作り上げること、そこから、団の活力がさらにつよまることを願って、思い残すことなく筆を置きます。



●発作的映画評論 Vol.6●

「デブラ・ウインガーを探して」を観る

東京支部  齊 藤 園 生

 とうとう観たぞ、噂の映画「デブラ・ウインガーを探して」。やっぱりいい。実に興味深い映画です。ヒットしたのはわかります。
 監督は女優のロザンナ・アークウィット。ハリウッド女優として活躍してきたが、年齢を重ねる不安、家族生活との両立、仕事の内容の変化、男社会である映画界への不満、等々。彼女自身が、このような悩みを他の女優たちはどう考え、どう乗り越えたのかをインタビューして回るという内容である。この映画には三四人の著名な女優がインタビューに答え、実に正直に答えている。
 やっぱりみんな苦労しているんだなあ、と思うのは家族のこと。子どもとの時間を考えるなら仕事は犠牲にせざるを得ない、しかし、「表現しないこと」が女優にとって何ともつらいこと、「仕事がしたいのよ!」と多くの女優が語っている。また、愚劣な男も多いハリウッドの映画界にたいして、複数の有名女優が痛烈な批判をしている。いやあ、古今東西男なんてこんなものだ、と私なんぞは思ってしまうが(以前どっかに書いたような・・・)。さらに、男優は年を取って容姿が衰えても「性格俳優」として生き残れるのに、女優は年を取ると仕事がない。普通の女性にとっても、年を取ることと折り合いをつけるのは難しいのに、まして仕事に直結する女優にとって悩みは深い。容姿は衰え、整形に走る人も多い。「若いだけがいいことじゃない」という声に、おばさんの私は妙に共感してしまうのでした。他にもあのシャロン・ストーンが「(他の人の演技を見て)私にはできないわって、おち込むわよ」と言っていたり、有名な女優さんも悩んで、一生懸命生きているのだなあ、と感心しおおいに共感してしまいます。
 表題にもなったデブラ・ウインガーは、リチャード・ギアと共演した「愛と青春の旅立ち」で記憶の方も多いはず。その後アカデミーに何回もノミネートされるほどの実力派だったのに、ある日突然映画界を引退。そのデブラのインタビューがまたいい。広大な自宅の庭で、インタビューを受ける彼女は驚くほどきれいなままで、自然体だ。子育てをし、日常の普通の生活を楽しみ、きっと充実した生活をしているからだろう。凛とした強さを感じさせる。こういう年の取り方をしたいものだと思う。
 家族や仕事等々、何で自分の人生はこんなにうまくいかないのか、と悩んでいる人(おぉ、まさに私だ!)にはおすすめ。これは女性に対する応援映画。自分だけじゃなくみんなやっぱり悩んで、一生懸命生きているんだと勇気づけられる映画です。



中小事業者の訴訟・個人間訴訟へ導入圧力強まる

ー日弁連シンポ(一〇・二三)・本部前宣伝行動(一〇・三〇)にご参加を

〜敗訴者負担問題

担当事務局次長  坂  勇 一 郎

 夏のパブリック・コメントを経て、司法アクセス検討会における議論は第二巡目の議論に入っている。九月一九日の検討会では行政訴訟・労働訴訟・人事訴訟等について意見交換が行われ、一〇月一〇日の検討会では不法行為訴訟(人身損害)・消費者訴訟等について意見交換が行われた。これらの訴訟類型においては敗訴者負担制度を導入すべきでないという意見が強まってきており、こうした議論状況はこれまでの運動の成果というべきである。
 他方、一〇月一〇日の検討会では、(中小事業者も含めて)事業者間の訴訟については敗訴者負担を導入すべきという意見が多く出された。事業者は敗訴者負担のコストやリスクを価格に転嫁することができるという点が、導入の根拠としてあげられている。議論の中では、小規模事業者に敗訴者負担を課すのは適当でない、訴額が低いものは適用しないとすべきとの意見も出されたが、多数の意見となるには至っていない。
 また、一〇月一〇日の議論で特徴的であったのは、西川委員(経済界出身)等から、合意により敗訴者負担を認める制度、消費者訴訟において消費者に敗訴者負担と各自負担の選択権を与える制度の導入案が提示され、これらの制度について活発な意見交換が行われた点である。飛田委員(東京地婦連)からは、このような制度案には「時期尚早」等と疑問の意見が出された。
一〇月一〇日の議論の終盤で、亀井委員(弁護士)から片面的敗訴者負担について意見が出されたが、これに対して山本委員(京大)を中心に反対意見が述べられた。
次回検討会(一〇月三〇日)では、事業者間の訴訟・個人間の訴訟について意見交換が行われることになろう。この分野は、推進派・事務局において導入意見の強いところであり、いよいよ最も意見の対立する分野について議論が行われることになる。
 事業者間訴訟に広く敗訴者負担制度が導入されれば、商工ローン関係訴訟・フランチャイズ訴訟・下請訴訟等に広く敗訴者負担制度が導入されることとなる。この分野への導入を許さない構えを示していくことが極めて重要となってきている。また、消費者訴訟は従前より事務局及び推進派が導入に意欲を燃やしていた分野であり、労働訴訟に関しても一〇月一〇日の検討会で高橋座長が企業対組合間の訴訟については決着がついていないとの発言が行われる等、注意を要する状況にかわりはない。
 検討会の日程は一〇月三〇日、一一月二一日と予定されているが、大詰めを迎えている検討会の議論に対して力を集めるときである。一〇月一〇日の推進本部前宣伝行動には約七〇名が参加した。次回検討会(一〇月三〇日)の宣伝行動には、是非これを上回る多数をもって推進本部を包囲したい。また、一〇月二三日(団総会のプレシンポの日ではあるが)当日在京のみなさんは是非日弁連シンポへのご参加をお願いしたい。

(1)日弁連シンポジウムへのご参加を
「市民を裁判からしめだす弁護士報酬の(両面的)敗訴者負担に反対し、市民の利用しやすい裁判制度を求めるシンポジウム」
 と き 一〇月二三日(木)午後六時〇〇分〜午後八時三〇分
 場 所 科学技術館サイエンスホール(千代田区北の丸公園内)
      TEL 〇三(三二一二)八四八五
 主 催 日本弁護士連合会・東京三弁護士会

(2)次回検討会当日の宣伝行動に多数ご参加を
 と き 一〇月三〇日(木)午後〇時三〇分集合、午後一時三〇分まで
 場 所 司法制度改革推進本部前
     (東京都千代田区永田町1-11-39 永田町合同庁舎)



「自由人 近藤綸二」 復刻版出版される

今こそ、読み返そう

大阪支部   石 川 元 也

 今年(二〇〇三年)七月、日本評論社から表題の本の復刻版(アンコール出版)が刊行された。第一版が一九八六年四月であるから、一七年ぶりの出版である。
 この復刻にいたるエピソードを紹介しよう。
 今年三月、大阪で、国際法律家協会の理事会が開かれた。その席上、東海支部の石川智太郎さんから、「自由法曹団員の竹内浩史さんが弁護士任官され、四月から東京高裁の判事になる。自由法曹団や労働弁護団は退団することになる」と、団員としての活動の実績なども紹介された。
 しばらくすると、団通信四月一日号に、竹内さんの退団のご挨拶が載った。すばらしい活動をしてこられた竹内さんの今後のよいお仕事を期待し、その参考になればと思い出したのが、この「自由人 近藤綸二」である。早速、著者の小田成光さんに余部がないか問い合わせたがないという。それで、竹内さんには図書館ででも読んでほしいと手紙を出した。ところが、五月集会で落ち合った高知の土田嘉平さんに話をすると、俺が持っているよと、竹内さんに直接送ってくれた。今、司法改革やその中での弁護士任官の意義が改めて問われている。小田さんはこうした経過の中で、この本の復刻版出版の意義を感じ、日評の大石会長に持ちかけて七月の出版にこぎつけたというわけである。
 さて、この本については団通信四八二号(一九八六・六・一)に中田直人団員の紹介がある。それを見ろといっても無理なことで、若干の紹介をさせていただく。
 この本には、小田さんの評伝のほか、内藤頼博、川島武宣、森川金寿、森田宗一、羽生雅則らがそれぞれ、「回想の近藤綸二」を語っているが、なんといっても小田さんの筆になる「自由人昭和史を往く(近藤綸二の人と論稿)」が圧巻である。
 近藤は、戦後、海野晋吉らとともに、自由人権協会の結成に携わる。一九五一年、松川事件の弁護人になる。その翌年、請われて東京家裁所長となる。以後六年五ヶ月、家裁の理念追求に情熱を傾ける。その間、一九五五年、インド・カルカッタでひらかれたアジア法律家会議に副団長として参加する。やがて設立された日本国際法律家連絡協会の副会長に就任し、終生その地を守った。広島高裁長官、名古屋高裁長官、東京高裁長官を歴任しながら。最高裁判事の声も高かったが、果たせなかった。
 一九六四年、退官し、再び弁護士となる。「司法の反動化に直面し、近藤も懸命に発言する。思いつめた表情で、「僕は若い諸君に期待してるんだ」と呟きかけてきた近藤をわすれることができないと中田さんは言う。
 いま、改めてこの本を多くの団員や司法を考える人たちに読んでもらうことを期待している。