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板井 俊介 アイレディース宮殿黒川温泉ホテル
解雇無効事件の報告
元倉 美智子 平和憲法を瞳のように大切に
―息子の君が代抵抗運動顛末記
小部 正治 共同行動を発展させた司法総行動
小林 保夫 父の軍歴
小林 保夫 「銃後」の母 ―母の日記から―




アイレディース宮殿黒川温泉ホテル

解雇無効事件の報告

熊本支部  板 井 俊 介

1、事案の概要

 熊本県と大分県の県境付近に、黒川温泉という秘湯がある。最近では、多くの温泉ファンが訪れるほどになった。

 本件は、平成一五年秋、元ハンセン病患者の宿泊拒否問題を起こした株式会社アイスターの経営する標記ホテルが、平成一六年五月六日に引責廃業するに際し、従業員三七名のうち三二名を解雇したが、そのうち、職場復帰を望む八名が原告となって解雇権濫用を主張し、株式会社アイスターを相手どり、平成一六年一一月一一日、熊本地方裁判所に提訴した事件である。

 被告に解雇された三二名のうち、二一名がホテル廃業直前の平成一六年五月初旬に全日本建設交運一般労働組合熊本支部に加入し、本件の原告八名を含む組合員は、金銭賠償を要求する一三名とともに、現在もアイスター社と団体交渉を継続中である。

 本件の特殊性は、ホテル廃業後、被告が本件ホテルを取り壊したため、職場復帰を望む場合、転勤することが前提となる点である。原告のうち、多くが熊本阿蘇地方出身者であり、本件は、それでも職場復帰を望む者たちの戦いである。

2、七名の弁護団

 板井優弁護士を団長とする本件原告弁護団は、熊本の弁護士六名と大分の徳田靖之弁護士の七名から構成される。徳田弁護士は、ハンセン病全国弁護団の団長を務める方であり、今回の解雇無効事件を、決して他人ごととは思えないとのご意見から弁護団に加入して頂いた。

3、被告の対応

 (1)答弁書より

 ハンセン病患者の宿泊拒否問題は、平成一三年のハンセン病国賠訴訟熊本判決後、未だハンセン病に対する根強い差別意識が残っていることを示す事件として、全国的に大きく報道された。

ア 経営上の解雇の必要性

 このため被告は、社会的イメージを大きくダウンさせ、結果的に「元ハンセン病患者に対する最善かつ最大のお詫び」を理由に引責廃業するに至った。したがって、本件ホテルの解雇理由は、経営上の必要性という点にはない。

 しかし、被告の主張によれば、宿泊拒否事件を契機に同ホテルの宿泊客は減少し、経営は極めて逼迫した状況に陥った、とあり、被告はこの点を正面から争う構えである。

イ 解雇回避努力義務

 また、原告らによれば、ホテルが廃業を決定した平成一六年二月から四月までの間に、原告の転勤等について具体的な話は殆ど無かった。

 しかし、被告は様々な努力を行ったと主張しており、この点も争点になる。

 (2)訴訟告知書より

 ところが、本件では、本年一月二一日の第一回口頭弁論期日において、被告は「熊本県」を被告知人とする訴訟告知書を提出している。

 そもそも、この宿泊拒否問題は、熊本県がその事業の一環として元ハンセン病患者の皆さんを黒川温泉に招くに際し、本件ホテルとの間で起こったものである。その意味で、被告アイスターは、本件事件は、熊本県の行為により引き起こされたものであるから、仮に被告が敗訴した後には、被告は熊本県に対し、国家賠償を提起するとの理由で、県に補助参加を告知したものである。

 被告は、宿泊拒否問題だけではなく、今回の解雇事件も熊本県の責任で発生したものであるとの姿勢を、訴訟手続上も示したことになる。

 現在、熊本県は、被告から出された同告知書に対して、何らのコメントも発表していない。

 このような「論点ぼかし」に対しては、組合は即日、労働者を軽視する不誠実な対応であるとの抗議声明を発表した。

3、団体交渉

 次に、本件では、訴え提起以前から被告と組合(建交労)との間で、団体交渉が続けられてきたが、一向に進展を見ないために、八名の原告は提訴に踏み切ったものである。

 今回被告は、今後、この団体交渉に双方の代理人が介入し、交渉を進めるべきではないかとの提案を行った。これについては、組合側の次回までの検討事項となった。一方、組合側は被告側に対し、原告らの職場復帰が本当にあり得るのか、を検討することになった。

4、今後の対応

 (1)訴訟について

 被告アイスターは、本件訴訟に熊本県との関係を持ち出す予定と見られるが、この「論点ぼかし」は、マスコミの食いつくところとなることが予想される。また、裁判所も慎重に審理し手続が長期化することが予想される。

 そこで、弁護団としては、早急に賃金仮払いの仮処分を獲得するよう活動する方針である。

 (2)団体交渉について

 職場復帰には転勤が前提となるという今回の事件の特殊性からも、事案の最終的な解決は、いずれにせよ団体交渉等による話合いによるべきものとなる。そこで、基本的には、今後も団交を継続する方針である。

5、運動

 現在、被告により原告らが解雇されて八か月が経過しようとしている。原告らの失業保険も打ち切りが間近である。

 そこで、原告ら支援のためのカンパ等の支援運動が不可欠である。弁護団としても、これに協力する方針である。

 また、本件訴訟期日には、毎回、ハンセン病療養所である熊本菊池恵楓園から、入所者の皆さんが集会や傍聴に駆けつけてくれる。また、熊本大学の学生との連携も忘れてはいけない。

 今後は、全国の療養所の皆さんにも働きかけ、また、現在進行中のソロクト裁判とも連携し、結局、被告は今現在もハンセン病に対する差別を続けているのだ、という世論を作る必要がある。

6、まとめ

 私は、この事件に関わり「アイスターの対応も無理もない」「県も悪い」という意見を聞くにつれ、依然としてハンセン病に対する差別偏見がなくなっていないことを実感するに至った。熊本の弁護士として、この状況を放置することはできない。

 本件訴訟は、熊本でなければ発生しなかった事件である。我々は、ハンセン病裁判で戦い抜き勝訴を掴み取ったここ熊本で、早期に本件を解決すると決意している。


平和憲法を瞳のように大切に

―息子の君が代抵抗運動顛末記

東京支部  元 倉 美 智 子

★「おいら…学校に行きたくない。」★

―この三月のとある夕食どき、息子がポツリとつぶやいた。

 すわ一大事、我が家に登校拒否児童発生か?!どうしたというのだ、学校大好き少年…と動揺する思いをぐっと押しとどめ、沈着冷静、穏やかに、その理由を聞いてみた。

 このところ、連日卒業式の練習―息子たち小学五年生は、在校生を代表して、六年生の卒業式に列席する。―で、「君が代」を何度も何度も歌わされるのが嫌だという。

 歌いたくないので歌わないでいると、担任の先生が注意する。「おいら、この歌きらいだ。」と言っても、先生は、「皆歌っているんだから歌いなさい。」と言うのだと。でも歌わない。だから、先生とのこんなやり取りが、毎日の卒業式の練習のたびに繰り返されているとのこと。更には、こんなことのために、お楽しみの体育や図工も潰れちゃって学校がつまらないのだそうだ(算数や国語が潰れることには何の不満もないらしい。)。

 何時の間にそんな抵抗運動を始めたんだ?

 「君が代の歌の意味を知ってるの?」と聞くと、「知らん。」とのこと。ちょっと気が抜けた。だいぶ前、息子に意味を聞かれて夫が説明していたことがあったのだが、ずいぶん前のことだから忘れたのだな。

 ところが、後日談。懇意にしている息子の学校の教師と話す機会があり、音楽の授業で、「君が代」斉唱の練習をする時、息子がこんな天皇のための歌は歌いたくないと言い出し、「君が代」の歌詞の意味をクラスの皆に説明したことがきっかけになって、クラスでディスカッションしたとのこと。

 なんだ覚えていたんじゃないか、素直じゃないお年頃だな。

 とにもかくにも、「学校行きたくない」坊やに、親としては何とアドバイスしたものか?一瞬悩んだが、「憲太朗が、歌っていいと思ったら歌えばいいけど、歌いたくないのなら、それを通しなさい。お母さんたちは応援するよ。」と話し、こんな親の体験談を話した。

 息子の入学式の時、私たち夫婦は、「君が代」は歌わない、起立しないと方針で臨んだ。入学式場で、口パク組はいたのかも知れないが、起立しなかったのは、私たち夫婦二人だけであった。

 一年後の娘の小学校入学式でも、私たち夫婦は同じ方針で望んだ。同行することになった義母には、事前には何も話さなかった。あの雰囲気の中で座り続けるのは、ちょっと度胸ものだからだ。ところが、七五歳のこのおばあちゃん、涼しい顔で起立しなかった。あっぱれ。この年、「君が代」斉唱拒否組は、三人になった。

★「平和憲法を瞳のように大切に」★の思いを込めて名前に「憲」の一字を入れたんだよ―息子には、幼い頃から何度も話して聞かせた。

 大好きな先生が勧めてくれたアフガニスタンの写真展で、写真の中の子どもたちとじーっと見詰め合っていた。

 進学塾に通っているので、小学校より一足お先に、社会科の歴史で「現代史」を終え、公民の「日本国憲法」を学んだばかりであった。

 バラバラの場面での両親の話が、自身の体験が、学んだ事柄が、息子の「良心」の中でひとつになったのかも知れない。

★卒業式で、この坊やはどうしたか?★

 卒業式のあった夜、「今日、君が代歌ったの?」あえてさらりと聞いた。息子は、うつむいて、「歌った。」とぽつりと言った。

 気にするな、あの雰囲気の中で頑張るのは、大人でも難しいんだ、君はよく頑張った。来年は君自身の卒業式だ。お父さんもお母さんも今度は一緒だ。共同戦線で戦うか?―心の中だけで語りかけた。

★今年の東京都の卒業式の「君が代」斉唱での教師に対するしめつけ★は、ひどいものがあった。

 「教師の良心」を守ることは、「子どもの良心」を守ることである。       (二〇〇四年度女性部総会報告書より承認転載)


共同行動を発展させた司法総行動

東京支部  小 部 正 治

 司法総行動では、〇二年暮に全労連の担当者から従来のままの活動を続けていて良いのかという提起がなされ討議を重ねた。〇四年の国会闘争が最大の決戦とはいえ、推進本部段階で決着がついてしまう危険性もある。〇三年は敗訴者負担問題を最重要課題と位置づけ「司法問題に取り組んでいるさまざまな団体と連携をとり、可能な限り共同の取り組みを広げる」ことを方針とした。同時に、多く団体が参加して情勢を協議し共同の行動を広げる場が必要であるとし日弁連が主催する継続的な懇談会の開催を非公式に要請した。

 〇三年一月二七日に日弁連・弁護士報酬敗訴者負担問題対策本部が主催する「司法アクセスを阻害する弁護士報酬敗訴者負担に反対する各界連絡会」が開催された。全国連絡会・司法総行動・「司法に国民の風を吹かせよう(風の会)」の三団体の構成団体をはじめ日本労働弁護団、全国青年司法書士協会、主婦連、地婦連、消団連等々が結集し、継続的な懇談を求めたので、〇四年一二月まで三二回も開催された。毎回の懇談会では、アクセス検討会・国会の情勢や日弁連の主催行事に関する様々な意見交換にとどまらず、日弁連では主催できない参加団体間での共同行動の企画の内容・日程についても協議され、運動の発展に大きく寄与した。ある時期から、日弁連は参加者にお弁当を無料で出すことになり市民も驚いていた。懇談会の前後には、全国連絡会・司法総行動・風の会の三団体の共同行動等に関する篠原団員からの読めない手書きのFAXが来て坂団員ともども意見交換をし、必要に応じて会議も持った。

 弁護士会との共同の最大の取り組みは、〇三年五月の敗訴者負担反対の共同パレードであった。市民二五〇人、労働者二〇〇人を結集し合計一三〇〇人のパレードとなったことが運動に大きな弾みをつけた。司法アクセス検討会の開催日には、全国連絡会・「風の会」・司法総行動の三団体共催で有楽町・マリオン前で宣伝カーを出し街頭宣伝行動を行なった。司法総行動は、臨時国会に備えて作戦本部が必要であると〇四年初夏の日弁連の各界懇談会にて提言した。八月一二日から弁護士会館五一〇号室が作戦本部となった。専従事務局が必要であるとの意見が強まり、九月から専従アルバイトを三団体の費用で雇い入れた。そこで会議をもちそこから議員要請活動や各党の懇談会等に打って出た。一〇月一三日には、三団体による院内集会が開催されたが、民主・社民・共産・無所属・公明等各党の議員本人や秘書が次々と参加し、運動の前進を実感した。それと前後して、民主党・千葉景子議員の質問に対する小泉総理の答弁が、法案の問題点を浮き彫りにし、手応えを感じた。


父の軍歴

大阪支部  小 林 保 夫

 私の父は、一九〇八年(明治四一年)一月一五日、長野県の片田舎で、落ちぶれた庄屋の四男坊として生まれ、一九八三年(昭和五八年)八月二四日、同じ田舎で二度目の妻に看取られて亡くなった。享年七五歳であった。

 父は、七五年の生涯のうち、一九二九年(昭和四年)一月一〇日から敗戦によって中国から帰還し「召集解除」となった一九四六年(昭和二一年)四月五日までの一七年の間に、日本が「満州事変」(一九三一年)、「支那事変」(一九三七年)と呼んだ侵略戦争に狩り出され、さらに一九四一年(昭和一六年)九月から敗戦まで、いずれも中国の戦場にあった。父の軍歴表には、この間の中国大陸での作戦行動の詳細が、几帳面な筆跡で記録されている。

 この一七年間は、年齢でいえば父の二一歳から三八歳までにわたった。この間そのまま国内にいたからといって、おそらく、実際にはさして立身を恵まれることはなかったであろう。それでも若さと体力に恵まれ、働き盛りであったから、チャンスはわずかであったかもしれないがその日暮らしの貧しい境涯から抜け出す夢を描いて努力することのできた唯一の貴重な時期であったであろう。

 一九四六年(昭和二一年)、敗残の兵として中国から帰還した父は、当時まだ一〇歳、小学校四年生にすぎなかった私の印象でも、戦場にあった間に、妻、二人の子ども、義母を相次いで失ったことも手伝って、もはや人生の最良の時期が失われたーそんな雰囲気をかもしていた。

 父は、短躯肥満型でいかめしい容貌であったが、その実は小心で、愚直というべく、そのため家業の小さな酒・雑貨店の経営、とりわけ客あしらいがまったく不得手で、すべて母任せであった。また、母が残した日記によれば、父は、一緒に過ごした日常は、絶えず怒りっぽく、恋女房であったはずの母を困らせることが多かったという。

 そんな父ではあったが、「戦地」にあっては、妻や子どもに対する思いが深く、頻繁に母に手紙を書き送り、母や子どもの様子を問うていたあとが残っている。父は、子どもたちには、何回にもわたり、中国の風物を色鉛筆で描いた手書きの絵はがきを送ってくれたものであった。

 こうして父は、おそらく日本の兵隊の多くの例に漏れず、故郷に残した家族や同胞に対しては、こまやかな愛情や配慮にあふれていたのである。

 しかし「戦地」の父は、国民党軍や八路軍との戦いに明け暮れ、さらに住民に対して、殺しつくし、奪いつくし、焼きつくすといういわゆる「三光作戦」に加わり、「日本鬼子(リーベンクイズ)」として恐れられた日本の軍隊の例外ではあり得なかったであろう。日本の兵隊は、当然ながら侵略軍として絶えず敵軍と住民の襲撃を恐れていたし、また軍中枢の基本的な方針の結果として、糧食を現地で住民からの略奪によって調達するほか生きるすべがなかったのである。

 また軍人としての父は、故郷にあればその性格からして妻に対する貞操を守ったであろうことに疑いがないが、おそらく「戦地」にあっては、「慰安婦」を相手に欲望を処理していたことにも疑いがない。

 父の軍歴のなかに、「(昭和十二年十二月)同月十日ヨリ十三日迄南京城付近ノ戦斗」とある。一九三七年(昭和一二年)一二月一三日は、南京城内に侵入した日本軍によっていわゆる南京大虐殺が行われたまさにその日である。

 多くの一般的な日本人の例にもれず、私も、大学も含めて学校で日本の中国等への侵略やそこでの加害の歴史を学ばなかったため、社会に出て、それもずいぶん遅くなってから南京大虐殺をはじめとする日本軍の中国や東南アジアでの残虐な蛮行の事実を知った。したがって生前の父に中国での父を含む日本軍の侵略行動の実態を問うたことはなかった。

 私は、その後ようやく、南京大虐殺について何冊かの書物を読むに至って、加害国民である日本人としての私のなにがしかの責任においても、父が南京城に侵入していなかったことを願いながら、父の南京大虐殺との関わりを知らなければならないと思った。

 父は松本五〇連隊に所属していた。

 研究書によって当時の南京城攻略にあたっての日本軍の布陣の大要が知られるが、それによれば、当時松本五〇連隊は、南京城郊外に布陣していたと記されていた。

 私は、父が南京城内での虐殺や強姦などの蛮行に加わっていなかったことを知って、とりあえず気の休まるのを覚えた。

 しかし、当然ながら、同時に私は、父が南京大虐殺として知られる世紀の蛮行に直接には参加していなかったとしても、性格を同じくする蛮行は、日本軍の侵略行動における不可避というより不可欠の一環をなしていたのであるから、その一員であった父がその責任を免れるものでないことにも気づいた。

 父は、一九三九年(昭和一四年)九月、母と三人の子どもたちが迎えるあばら屋に戻ることができた。

 そして父と母は、一九四一年(昭和一六年)秋、三度召集を受けるまでの二年間、平和な時代の普通の夫婦にとってはほんのつかの間を、ともに働き、ともに暮らし、この間に貧乏人の子沢山のたとえを地でいって、四人目の子どもをつくった。

 太平洋戦争の始まる直前の同年九月一九日、父は、「臨時召集」を受け、私たち幼い子どもたちとともに、不治の病にむしばまれた身体をおして門口まで出た母に見送られて、ひそかに家を発った。

 そして父は、このたびも中国の戦場に赴き、軍歴を重ねたが、一九四六年(昭和二一年)春、敗残の兵として故郷に帰ることができた。父を迎えたのは、おそらくは厄介者として親戚に託された私たち幼い二人の子どもだけであった。異国の戦場にあった五年の間に、母、二人の子どもと義母の四人をいずれも病で失っていたのである。

 父は、日本にあっては当時の社会構造のうえで被害者であっただけでなく、とりわけ戦争によって甚大な被害を受けたのであった。しかし父が、中国においては侵略者、加害者の立場にあったこともまぎれもない事実であった。

 父の人間像や軍歴は、戦前の日本の兵士の多くのそれと重なっていたのではないか。

(二〇〇四年九月一〇日)


「銃後」の母 ―母の日記から―

大阪支部  小 林 保 夫

 【銃後】

 1 戦場の後方。直接戦闘に携わっていないが、間接的に何かの 形で戦争に参加している一般国民

 2 銃を執る人。武器を扱う将兵、またその精神をいう。

「大辞泉」より

まえおき

 私は、いつからか、父と母の「戦史」、とりわけ母の「戦史」を書かなければならないという義務感のようなものを感じていた。それは、太平洋戦争の最中に、死んでも死にきれない思いを残してこの世を去った母と、中国の戦場で妻の死を聞かなければならなかった父の無念を慰めるためであるが、同時に、そうしなければ私自身のあの戦争へのこだわりをおさめることができないという思いが、年をとるにつれてふくらんで来るためでもある。

 私の母は、一九四二年(「昭和」一七年)二月二一日の早朝、三〇歳の短い生涯を閉じた。その前年、父の三度目の出征を見送った時、結核を患い病床にあった母は、もう再び生きて夫の帰還を迎えることが出来ないのを覚悟していたに違いない。しかし、夫を戦場に送り、あとに六〇歳に近い自分の母と八歳、六歳、三歳、一歳の四人の子どもを残して死を迎えなければならなかった母の苦痛と無念は、今なお想像にあまりある。母が、死の近いことを予期して、夫、自分の母、私の姉、私にあてて書いた遺書は、何箇所も、したたり落ちた涙でにじんで文字が読めない。

 私の父は、母との一九三二年(「昭和」七年)から一〇年間の短い結婚生活の間に、三度にわたり、ほとんどその半分に近い年月を中国の戦場で送った。父は、母を失った後もなお、子どもたちを託した祖母と、姉と私を除く二人の子どもたちの死を戦場で聞かなければならなかった。そして、敗戦の翌年になってようやく敗残の兵として日本に帰ることが出来たのであった。

 文学少女で、書くことが好きだった母は、遺書のほか、一九三七年(「昭和」一二年)秋から一九三九年(「昭和」一四年)秋まで、ちょうど父が二度目の招集のため中国の戦場にあった期間の日記と、戦場の父に送った手紙の一部を残した。

 「昭和」一二年といえば、軍部の挑発で日中戦争が始まり、国民をその後のとめどない戦争の泥沼に引きずり込むこととなった年である。

 もちろん戦争の仕組みを知り、戦争に反対する人たちはいた。

 しかし、ほとんどの国民と同じように、私の母も、戦争はどうしようもない運命であると信じて疑わなかったに違いない。母の日記には、村の出身者の戦死の知らせに敏感で、絶えず父の無事を祈る文字しかない。

 しかし、私は、その文字の一つ一つに戦争への母の恨みと告発を読むのである。

母の日記から

 「昭和」十二年十月十二日 母は、この日から、前日まで父が書いていた日記帳を書き継いだ。

十月十二日

 今夜は何だかこはい様な気がする晩だ 外をみるのがおそろしい気がしてならない 良人は先にやすんで私は母を庄屋へかりられてしまったので明日の運動会の用意に忙しい 何となしにさびしい気持になりながらこれも身体の生理的の心のうごきであろうかと思いつつ用もおえたのでおびをといていると「小林さん小林さん動員令です」「はアツ」とその声に目をさました良人も直ちにおきて動員令をうけた おお待ちに待った動員令はついに来た 何ともいえない気持で良人の出征の後が心配になる いろいろと良人と語り合って長い間ねつかれなかった 私はかねてかくごの通り一人で一生懸命働らいて見様とけっ心した 動員は三都和で九人

十月十七日

 今日は朝日奈達伊様を見送りする

 良人を昨日壮途に見送ってから第一日目の朝である 私は泣くまいしっかり働らこう見れば醤油も大箱のマッチもない 今日は用ばかりだ 明日は早く出かけよう 雨は風と共にふきつけて連日の悪天候には全く困る 夜政子が「母やん 父やんは本当におみやげかってきてくれるかい いつかへってくる」ときくので可愛想になってしまふ ばあやんおこたにあたりなやオレと当たろうとせがむのをききながら便所でとめどない涙を如何ともする事が出来なかった

 保夫はババイヨといったら乳をいじるきりで困るほどのむとはいはない これでやめられそうだ

十一月八日

 今日は天気が良いかと思ったら又雨降り

 困る困る

 何もしないで茶をのみくらす

 政子も保夫も大はしゃぎ

 それにつけても手紙のこないのが気がかり

 終日良人の事を思いくらす

十一月十二日

 今日も上天気

 一日中山へいってからまつの枝をまるける

 今日は十日夜 おはぎをつくって子供に父へ上げさせる

 正貫より久しぶりの来信あり

「昭和」十三年 一月二十一日

 雨だけは上がったがまだ空も様はどんよりしてゐる 風もなまあたたかい しみがとけて道がわるい 殊ににはがくちゃくちゃで下駄が重い 何もしないで保夫とあそびくらすには苦にもならない だが升いを心配していてやはり頭がいたむ

 ゆふべ正貫かへった夢を見た 目がさめてやっぱりうそだった 夢だったとがっかりする しきりにかえりが待たれてならない

 にはとりたまごを四ツ生む

二月四日

 ビンとたるあつめ ひるすぎは正貫がかへれそうなはなしにやや気がらくになる 松本にははりだしがしてあったとの事 順次山本部隊は交たいになると

 今日はあたたかい日でめずらしい 加藤様に十五円入

三月一日

 いよいよ三月になった 正貫よりこのところ便りがないのでさびしい この二三日一寸あたたかくなった 何をするにもらくだ あまりかへれそうだかかへれるとのうわさばかりで気が迷ふ 一日も早く丈夫でかへってくれるといい ひまさえあればそんな考えで頭の中が一ぱいだ 母が腹痛でねる 久しぶりの事だ ふを七銭五厘の仕入れで一円五十銭仕入する

五月二日

 今日は小学生の遠足だと言ふのにひどい雨ふりで空をながめてうらめしがっているだろう

 ひるま良人の事を思ふとかならず夢を見る 遊んでいてねむりのあさいせいもあろうが夢で見る良人はかならず自分と共にいるのに実際はいつあへるのやら 何につけても心細いはなしだ

五月三十一日

 今日もはっきりしない日であるが雨は降り出さない 芦田町の郵便局の息の戦死の報をきく

 私は思はずいのる「夫よ どうぞ無事であれ」と 麦の中へ一日がかりで豆まき 母はにはとりの運動場をつくる 中々上手に出来て感心する

八月二十三日

 帳面のセイリ 毎日あそびくらして気がもめる だが今年は秋蚕のちがふ人が多くってお気の毒だ

 用をしながらしきりと正貫とけんかした事を思い出す でもけんかも今になって思い出すとたのしい

 けんかする相手のいない今の方がどんなに心細いだろう 今度こそ良い妻になりたいと思ふ

 夕方より夕立する よいおしめりである 大根も白菜もよろこんでいるだろう

九月十九日

 今日は土屋アヤ雄様のいこつをみなさんと一緒にむかいにゆく日である

 かつ枝をおぶってみなさんと一緒に藤沢までむかいにいったらぼつぼつ雨がふりだしてたく山ふられると困ると思ったが大した事もなくどのくらいまったか かなりの間まっていたら いこつがきて少さい白木の箱の中におさまってしまったその人の事を考えたら自然に涙が出て来て胸が一ぱいになってしまった 水平服の弟さんに抱かれて 立ぱに元気良くたっていったであろうありし日の姿は も早なく ああどんなに泣いても泣いても泣ききれない肉親の心の中を思いやったら気の毒でたまらなかったそれにつけても「良人よ

 子の父よ どうぞどうぞ無事であってくれる様にと」心の中で手をあはせて神にいのるのだった 学校のにはへ来て県知事の代理の人をはじめとして村長 遺ぞくの人々 各学校長 区長の順でそれぞれ焼香をすませて第一区の人々はお宅のそばまでお送りしてかへってきた

九月二十九日

 今日は土屋文夫様の村ソウである 朝一寸くもっていたがだんだんはれてきて天気になった

 朝一寸七之助様へトシさんのお見舞いにいってくる

 午後一時に遺骨にしたがって順番にセイ列して学校へいってソウギ委員長のよみ上げによって進行する 軍部関係 新聞記者 遺ゾクセキ等それぞれ定めのセキについて今日の一番上の人から順に焼香弔辞等アリ その時間が長いのだー今日は珍らしくあついので誰れも同じところにじっとしていられずしきりにうごく

 夕方ようやくおへて又セイ列して細谷小ジまでお見おくりする 家へかへったらうすぐらくなった

「昭和」十四年 二月六日

 軍事扶助をいただく

 かへりにてい次郎様のところでお茶をもらふ

 達伊様のお嫁様おいでられて 八日におかへりとの事であまりの突然におどろきながら共によろこぶ

 子供様がよろこんでいられるとの事に胸をつかれる

九月七日

 母朝五時半に松本へ出かける

 自分は雑用

 夕方かへられないのでもうとまりかと思ったら十時頃かへってきておみやげをもらふ  主人は元気の由

 種々の用事をきく

九月九日

 古町姉さんきたり兄姉様たちが手つだいにきてくれて兵隊むかえへる用意する

 夕方六時頃二年ぶりで家のしきいをまたがれる 政子はおぼえていてうれし相であった 保夫は一寸てれているがすぐ満更でもなさ相

 夜十一時までのんでもらって六升五合ばかりおへる

あとがき

 こうして母は、再び、父を自分たちのあばらやに迎えることが出来た。そして父と母は、一九四一年(「昭和」一六年)秋、三たび召集を受けるまでの二年間、平和な時代の普通の夫婦にとってはほんのつかの間をともに働き、ともに暮らした。二人は、その間に、貧乏人の子沢山のたとえを地で行って、四人目の子どもをつくった。

 しかし二人は、何時も、ゆがんだガラス戸を叩く音がして、「動員令です」という声を聞いたあの悪夢を忘れることが出来なかったに違いない。

 母は、もうこの二年間については日記を残さなかった。おそらくは、商売や田畑の仕事と育児の負担に加え、怒りっぽい父の相手で精一杯で肉体的にも精神的にも日記を書く余裕がなかったのだろうか。あるいはむしろ、母は、父が傍らにいる以上もう日記を書く必要がなかったのではないかとも思うのである。

 そして母は、病んだ身体をおして門口まで出て、父の三度目の出征を見送った。

 しかし母は、ついに父のために三度目の出迎えをすることは出来なかった。

(小林保夫団員の「父の軍歴」は、大阪支部の第三八回(二〇〇四年度)総会議案書の特集「おやじの背中、おふくろの教え」よりの転載です。尚、転載に際しては、原文にあった詳細な群歴については省略させていただきました。)