過去のページ―自由法曹団通信:1156号        

<<目次へ 団通信1156号(2月21日)



村山 裕 触法少年事件等に関する
少年法「改正」の動向
笹本 潤 紛争予防のための東北アジアNGO会議
(GPPAC)報告 〜「東京アジェンダ」採択〜
井上 洋子 おしゃべり父の教え 「人生は面白き哉」
松島 暁 戦前社会は明るかった?!
L・ヤング『総動員帝国』を読んで




触法少年事件等に関する

少年法「改正」の動向

東京支部  村 山  裕

一、触法少年事件に関して警察の「調査」権限を法定・強化し、一四歳未満少年や遵守事項違反の保護観察少年の少年院送致を可能にするなどの、少年法「改正」の動きが始まっている。

 一昨年の長崎事件の際、親の「市中引き回し」発言で物議を醸した鴻池祥肇青少年育成推進本部担当大臣による「少年非行対策のための提案」(鴻池試案)以来画策されてきた青少年対策の一環としての、触法少年対策・保護観察の強化策であり、昨年九月に法制審総会に要項が諮問され、少年法部会で一〇月から今年一月まで四ヶ月間に六回の会議を経て要項が可決され、二月の総会で答申がなされ、今通常国会に「改正」法案が提出される見込みである。

二、「改正」の主眼の第一は、触法少年、虞犯少年に対する警察の「調査」(捜査)権限の法定化である。すなわち、触法・虞犯少年事件について、警察に一般的「調査」権限(呼出・質問権による任意取調を含む)を、特に触法事件では対物強制「調査」権限を付与する。また、従来の「通告」制度に加え、警察から児相への事件「送致」制度を設け、検察官関与相当事件に該る罪に相当する事件は、「原則家裁送致」として児童相談所の裁量権限に縛りをかけ、警察がしっかりと「調査」の上「送致」しようというものである。

 そして、少年院法の収容年齢の下限を撤廃し、一四歳未満であっても少年院送致を可能にしようというのが、「改正」の第二である。

 現行では、児相から家裁に送致された一四歳未満の触法少年には、保護観察処分か児童福祉法による児童自立支援施設(旧教護院)への収容がなされ、その際、家裁から強制的措置の許可を得て自由剥奪もなされているが、児童福祉の「育て直し」では足りず、少年院送致による「矯正教育」を行おうというものである。

 第三は、保護観察の保護処分少年に対して、現在でも虞犯事由があれば虞犯通告により少年院送致があり得るのだが、遵守事項違反そのものを理由に保護観察所長の警告を経て、家裁が少年院送致をなし得る制度を設け保護観察を強化しようというものである。 

三、警察の「調査」権限強化は、近時の触法事件を契機とした「事実解明」を求める要請を背景になされている。児相の事実解明能力とその手続との関係で、かつて触法冤罪事件を扱う弁護士の立場からも「積極的家裁送致」が提唱された時期もあり、送致を受ける家裁側からの「精密な証拠資料」の送致を求める姿勢も根強い。少年院送致まで行うに当たっては、この要請はより一層強くなる。

 しかし、認知・表現能力に乏しく暗示・誘導に乗りやすい一四歳未満の子どもが対象であり、「児童の情操」への特段の配慮が必要なのに、児童福祉の専門家でない警察にそれができるのか、少年院で、未だ家庭的な育て直しが必要な義務教育年齢の児童の処遇ができるのか、厚労省の専門家委員会でも懸念が表明されている。触法少年事件での児童の発達段階を無視した警察の捜査・取調が、事案解明を困難にしてしまう例もしばしば見受けられる。

 なによりも、重大事件での原則家裁送致制度や警察からの事件送致制度の創設、そして一四歳未満児の少年院収容は、これまで培ってきた児相や児童自立支援施設の非行問題への対応能力を空洞化させ、この領域での児童福祉的機能を減退させることが危惧される。

 また、虞犯事由にも当たらない保護観察の遵守事項違反を理由とする少年院送致は、二重処罰の疑いがあるばかりでなく、威嚇と監視によって支えられる保護観察への質的転換を招きかねない。

 法制審の議論では、少年法のこのような形での「改正」が不可欠であることを示す実証的データや根拠は示されていない。児相の一時保護所や児童自立支援施設が、被虐待児童などと非行児童・生徒との混在が困難な状況にあるとの指摘もあるが、学校・警察連絡協定や「警察補導法制」の整備の動きなどと呼応した今「改正」によって、従来児童福祉領域で捉えてきた原則が危うくなりつつある。児童福祉施設の充実こそが、本来追求されるべき途であろう。

四、なお、今回の答申には、一定の罪に関する事件に家裁の裁量により公的付添人を選任する制度の導入が付帯決議されている。現在の全国の対応能力を反映したものだが、被疑者国選の拡張時に、家裁での付添人が保障されない事態に陥らぬよう備える必要がある。 


紛争予防のための東北アジアNGO会議

(GPPAC)報告 〜「東京アジェンダ」採択〜

東京支部  笹 本  潤

 二月一日〜四日にかけて青山の国連大学に東北アジアのNGOのメンバーが約四〇人集まって、「武力紛争を防止するためにNGOとして何を提言できるか」を話し合った。二日間の議論を通して採択されたのが、「東京アジェンダ」という提言である。

 紛争予防と言っても、もちろんブッシュの予防的防衛とは全く違う。日本の憲法九条の非武装・非軍事の理念を具体化するものとして、市民やNGOがどのような役割を果たせるのか、がテーマだった。提言の内容はHPでダウンロードしていただくとして、どのような議論がなされたのかを報告する。

 一日目の平和・軍事のテーマでは、北朝鮮からの参加がなかったため、最も注目されたのが中国と台湾の軍事的緊張の問題だった。中国のNGOと台湾のNGOが壮絶な議論を繰り広げた。

 台湾NGOは、「中台の軍事的緊張の問題は、他のアジアの国々にも影響を及ぼす可能性があり、その点では北朝鮮の核問題も同じ。」「グローバル市民として、地域の問題としてこの問題を取り上げるべきだ」と主張した。これに対し、中国NGOは、「中台問題は国内問題だ、外から干渉されると問題が複雑になる」「中台問題を不安定化している原因は台湾の独立運動」などと応酬し合った。しかし、対話をしていくことでは合意し、その日の夜、エンドレスの会議室を用意し、夜遅くまで話し合ったようである。次の日の朝には一緒に朝食をとるなど、対話をした成果が表れた。私も中国の参加者からどのような議論がなされたかを聞くと「今までNGOレベルでこのような議論をしたことがなかった。中国は台湾のNGOがみんな独立指向であると誤解していたし、台湾は中国のNGOがみんな武力侵攻をするのではという誤解をしていた。NGOレベルではそうではないということがわかり、それが収穫だった。」と対話が一歩前進したという感想が聞けた。

 しかし、二日目のアジェンダ採択になると、再び中国側が「一つの中国原則」を持ち出し、台湾がそれに保留するという両論併記型の提言になってしまった。このあたりの中国の姿勢には国の政策の影響を受け頑なな印象を受けたが、歩平教授も微妙な問題と言っていたように、一日や二日の議論ですべてがまとまる方が不思議なくらいで、時間をかけて今後とも対話を続けていくしかないだろう。南北朝鮮の市民の対話も時間がかかったし、中台の対話の第一歩としての意味は十分持てたのではないか。

 それにしても東北アジアからNGOが四〇人も集まるような会議は初めてではないか。日本の憲法九条の改悪に関しては、韓国、中国のみならず、フィリピン、モンゴル、ロシアからも、「九条改悪は具体的ではっきりした脅威」「九条の平和メカニズムは日本のためにもなる」「隣国の声を聞いて決めてほしい」「東南アジアや日ロ関係にも悪い影響を及ぼす」などと不安の声が次々にあがった。私は、日本国民として、九条を守る責任をますます痛感させられた。

 四日間の会議の中でいろんなNGOの方と出会い親交を深めることもできた。今後ともこの集まりを継続していこうとの提案もされている。このようなすばらしい会議を法律家レベルでも九月のCOLAPでぜひ実現させたいものだ。東アジア平和共同体もこのようなプロセスを通じて実現できるものなのかもしれない。

【改憲阻止メーリングリストから転載】


おしゃべり父の教え 「人生は面白き哉」

大阪支部  井 上 洋 子

 父は一五歳で祖父に死に別れた。祖父は鉄工所を経営しており、家産はあったが、祖母には事業継続能力がなかったので、家産を売っての生活になった。父は兄弟の二番目でまだ下に妹三人、弟一人がいたので、旧制中学を中退して働きに出た。それから戦局悪化で一九歳で徴兵され、終戦後、原爆が落ちて焼け野原になった広島に帰ってきた。建物も家財道具も生活用品もすべてなくなり、金融資産はインフレで無価値になり、妹二人は被爆死、弟は戦死。被爆した祖母、疎開で難をまぬがれた妹と土地だけという再出発だった。

 戦後、当時広島の地場産業であった針工場で働き、経営者の娘との縁談があったのを断り、見合いで母と結婚した。母の兄が経営していた電気店に転職し、その後は独立して電気店を経営し、支店を作り、小資産を作って、七〇歳で店を閉めた。

 こうした人生に根ざした父の教えにはいろいろある。

(1)まず、体を大事にし長生きしなければいけないということ。

 父も早くに祖父を失ったが、祖父もその両親に幼くして死に別れた。その前の世代もそうだったようである。代々知恵と商才はあるらしく、商売は軌道にのり小金持ちになる。生まれた子どもは坊ちゃん、嬢ちゃんで育つのだが、育ちきるまえに、親が四〇歳前後で死んでしまい、一家離散となる。残された子どもは幼くして世間の荒波に揉まれ、苦労してまた商売を興し、成功するが早死にする。そんなことが代を追って繰り返された。父はこの悪循環を断ち切るためには、自分が長生きしなくてはいけない、と思っており、祖父の享年を超えたときにはひどく喜んでいたのを覚えている。父が五〇歳、六〇歳と生きて働いてくれたお陰で、私と兄は東京の大学に行くことができ、私は司法試験を受けることができた。

(2)次に、女も能力をもたなくてはいけないということ。

 父は祖父が死んでも、祖母がもっとしっかりしてくれていたら、自分が学校をやめたり苦労をしたりしなくてすんだのに、と思っている。他の家には似たような境遇でも女手一つで子どもを育て上げた人はいくらでもいるのに、祖母は情けない、親として無責任である、と思っている。だから、父は結婚相手に、美人のお嬢様ではなく、丈夫で明るく根性のありそうな母を選んだ。そして、私に女でも仕事をもって経済力をもたなければならないことを説き、法学部進学、司法試験受験を勧めてくれた。

(3)国や警察など国家機関を信用をしてはいけないこと。

 父は若い頃から、警察の横柄な態度に反発を感じていたらしい。また、戦争になってからは、今まで国が自分に何かをしてくれたという実感もないのに、なぜ国のために死なねばならないのかと感じ、危険の少ない飛行機整備工場での兵役を希望した。そして戦争に負け、庶民が死に、傷つき、飢え、家族も家もすべてを失って苦しんでいる一方で、お偉方は一部が戦犯になっただけでその家族も資産も経済力も失わずにのうのうと生きている状態に憤り、国のためにと思って死んだ人が哀れだ、国に騙されてはいかんといった気持が深く父の中に根ざした。国家機関を利用することはあっても信用してはいけないという思い、戦争に負けて平和になって豊かになって本当によかったという思いは、こうした体験談や感想を通じて私に伝わってきた。

(4)時代を読んで、年齢に応じて暮らすこと。

 父は、針産業は斜陽になると考え、家電販売という仕事を選んで高度成長期の時流に乗り小財を築いた。景気のよいときには株式を扱い、雲行きがあやしくなったら全部を売って手を引いた。バブル期には不動産を購入するな、そのうち値崩れすると兄に忠告していた。

 経済面だけでなく、自分の人生の行動においても時代に応じて暮らしている。私が幼いころは土日もなく夜遅くまで働いていた。六〇歳ころからは洗濯、買い物、料理など分担し始め、一人暮らしになっても不安のない状態になった。七〇歳ころに商売をたたみ、健康維持のために散歩や運動を欠かさないようになった。八〇歳の現在は、近所の老人仲間とグランドゴルフをして機嫌よく暮らしている。父はこういうことをすべて意識的にしている。そして私たちに「今何をすべきときか、どうしたらいいのか、考えて暮らせ。」といっている。そして「人は決して教えてくれない。自分でよく観察して、自分で読みとっていくしかない。観察するのは大切なことだ。」と言っている。

(5)人生はおもしろいということ

 父は折にふれいろいろなことを話してくれる。「毎日同じ事の繰り返しで退屈なように見えてもそれが仕事というものだ。」とか、「男も女もいくつになっても色っぽくなくてはいけない。そうでないと人が寄ってこないよ。」とか、「人の倍働かないとお金は儲からない。横着をしていてはだめだ。」とか。

 それは「子どもには言って聞かせないとわからない。口で言わないとわからない。」と子どもに経験や思いを伝えていくには、いわば「後ろ姿を見て育つ」だけでは不十分で、折々に子どもと話していくのが大切だというのが持論だからである。父は幼い頃から祖父に家業の手伝いをさせられ、折々に祖父からいろいろな話を聞いており、それが自分の人生にとても役立ったという実感を持っている。近頃聞いて一番嬉しかったのは、「いろいろ苦労もあったけど、それでもやっぱり人生いうのはおもしろいもんよ。」という言葉である。それを聞いて、もともと苦労らしい苦労をしたことのない私でも、「ああ、これから先の人生でどんなことがあっても、それでも人生はおもしろいと思えるんだな。」と妙に安心した。

 父は今年八〇歳、母は七六歳で広島市で健在である。

 井上洋子団員の「おしゃべり父の教え 人生は面白き哉」は、大阪支部の第三八回(二〇〇四年度)総会議案書の特集「おやじの背中、おふくろの教え」よりの転載です。


戦前社会は明るかった?!

L・ヤング『総動員帝国』を読んで

東京支部  松 島  暁

 ある会議の席上、先に公表された自民党の改憲草案大綱が復古的か否かという議論がなされた。この場で自民党の改憲大綱が復古的なものかどうか、それ自体を「抽象的」に議論するつもりはない。むしろ、改憲草案=復古的という主張に含まれる、ある「実践的」意図を問題にしたいのである。

 その意図は、戦前=暗黒の圧政社会であることを前提に、そのような暗い過去に逆戻りさせようとするのか!という問いかけ、自民党の改憲策動は、この国を暗黒の社会にしてしまう危険がある、そうならないためにもこの復古的改憲策動を許してはならない、という護憲の論理である。その意味では自民の改憲大綱=復古的とする論者の戦術的意図がわからないわけではない。しかし、はたしてそうなのだろうかという疑問を拭いきれない。

 別の表現をすれば、悪しき戦前の軍国主義は、敗戦によって打ち負かされ、新憲法のもと戦前とは断絶した民主主義社会がこの国において実現したが、自民改憲大綱はこの民主主義社会を戦前に逆戻りさせるものだというイメージである。しかし、私の戦後社会のイメージは、戦前と断絶したものではなく、九条は手にしたが戦争遂行の最高責任者がその責任を問われることはなく、天皇制は温存された。戦前社会の連続性・延長線上に今日の日本社会はあるのではないのか、かつてこの国を侵略に駆り立てた問題性は、何ら解決されることなく、今日まで生き続けているのではないのかという根深い疑念が私にはある。

 私の疑念が正しいとするならば、暗い戦前・明るい戦後という前提のもとでの復古主義的改憲策動に反対するという実践的意図は虚構の戦術的主張となってしまうのである。

 ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(岩波書店)やハーバート・ビックスの『昭和天皇』(講談社)など、アメリカにおける最近の日本近代史研究の成果が続々と発表されている。それらの中の一冊にルイーズ・ヤングの『総動員帝国―満洲と戦時帝国主義の文化』(岩波書店)がある。

 ここで描かれる戦前社会は、暗黒社会でもなければ抑圧的社会でもない。今日の日本とさほど変らない「普通」の社会である。

 満州への開拓移民が「迫害者だったのか犠牲者だったのか」について筆者は、「一見正反対に見える解釈は、じつは開拓民が国家のなすがままに振舞ったという前提を共有している点で同じ」だという。彼らは、国家の意に不承不承従ったのではなく、「普通のひとびとが、良識のあるひとびと」が、「満州における暴力と圧政のプロジェクトを支持」したのだと結論づける。

 日露戦争時に「君死にたまふこと勿れ」とうたった与謝野晶子は、満州を訪れ日本管理下の満州の発展に感銘を受け、植民者としての日本の使命を確信して帰国し、「花より清く身を散らし、武士の名誉を生かせたり」とうたい、かつての反戦歌人は日本支配下の満州を「自発的」に賛美した。

 大連・新京間を結んだアジア号は、満鉄技術者たちが作り出した傑作で、当時世界最速の一一〇キロを記録し、その近代的デザインは斬新で、ポスター、パンフレット、写真集、ガイドブックに取りあげられる。また満州に渡った都市計画や建築の専門家らの手によって、日本の植民地であることを示す建築物の一群を中心に、街路樹に彩られた、広い街路が放射状に広がる美しい都市=新京を作り出した。そして一九一二年に設立されたJTBの目玉商品は、活気溢れる大連の埠頭、新京の中央広場、光り輝くアジア号などの大陸ツアー(パックツアー)だった。

 このように日本人にとって満州は、ユートピア・大陸のフロンティアにおける新しい生活、内地とはかけ離れた満州の超近代的な都市生活の魅惑的イメージであったり、中国農民の生活を改善しなければならないという高尚な使命感であったりした。しかしそれらのイメージは中国や朝鮮のひとびとにとっては、土地収奪や都市での人種隔離、政治的抑圧として経験されたのだという。

 今「東アジア共同体」が、あちこちで語られている。政府や財界ばかりではない。進歩主義者や平和主義者までもが「無邪気」に「東アジア共同体」を口にする。谷口誠著『東アジア共同体ー経済統合のゆくえと日本』(岩波新書)などはその典型だろう。しかし、今から七〇年ほど前にも同じことがあった。「東亜共同体」が三木清や尾崎秀実ら進歩主義者から強力に唱えられた。日中戦争を回避するという実践的意図のもと、日中のナショナリズムの対立を架橋し、同時に日本国内の社会変革をも実現することを意図していた。しかし、陸軍の改革派とともに唱えた「東亜共同体」論の行き着いた先は「大東亜共栄圏」という幻の世界であり、中国の民衆から受けいれられることはなかった。

 今日「東アジア共同体」を唱えることが、かつての三木や尾崎が陥ったと同じ誤りではないという保証がどこにあるのだろうか。あるいは当時と今とでは時代が違う、われわれは戦後民主主義の洗礼を受けており、戦前の抑圧された社会とは違うのだというかもしれない。しかし、それこそ戦前と戦後の断絶という神話に囚われた思い上がりでしかない。本当にわれわれは戦前の負の遺産を清算しきっているのだろうか。

 『総動員帝国』の著者は、戦時下の日本帝国が、近代の「未熟」さによってもたらされたという通説的理解を否定する。社会的関係は封建的な残存物によってねじ曲げられ、経済の分野でも古いものと新しいものとが混在し、デモクラシーは根付かず絶対主義に逆戻りし、学問の発展も思想統制によって無意味なものとなってしまった、そのような近代性の未熟さが戦時下の日本を生み出したのではない。そうではなくて、満州国は、明治維新によって始った近代の「成熟」によって創り出されたものであるという。

 満州に夢をはせたのは、軍国主義者だけではなかった。貧しい農民も進歩的知識人も「軽やかに」「明るく」満州に出て行った。