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大森 典子 NHK問題とは
西   晃 新嘉手納爆音訴訟第一審判決
(那覇地裁沖縄支部)について
芳澤 弘明 事務所に「憲法九条を守ろう」の横断幕を
並河 匡彦 おやじの背中、おふくろの教え
寺澤 達夫 おやじの背中
渡辺 和恵 母の教えと天皇問題




NHK問題とは

東京支部  大 森 典 子

 一月一二日に朝日新聞は、二〇〇一年一月三〇日に放映された特集番組「戦争をどう裁くか」の二回目(二〇〇〇年一二月に行われた女性国際戦犯法廷を主として報道するもの)が放送直前に自民党の中川昭一、安部晋三という当時も現在も政権の中枢にいる議員の圧力によって、その内容を変更させられたと報じた。ちょうど、その番組のチーフプロデューサーであった長井暁氏が記者会見をして意に反する番組改変を強いられたことを告発したニュースと重なって、大きなセンセーションを巻き起こした。

 ところが、当初、番組放送前にNHKの幹部に会って、放送中止もあり得ると述べたことを認めていた中川氏は、その後一転して放送前にNHK幹部に会ったことはないと述べるに至り、安部氏も又朝日の報ずるような内容のやりとりはなかったと前言をひるがえすに至った。NHKに至っては、ニュースの時間を勝手にNHKの立場を弁明し、朝日を攻撃するための時間にあてて、今や朝日の報道を否定し、朝日攻撃に全力をあげる事態となっている。

 このような経緯の中で、当初はNHKと政権与党との密着性に眉をひそめた人々も、今や朝日とNHKの対立という構図でこの事件をとらえ、どちらが正しいのかはよく分からない・・・とする風潮を生み出している。

 しかしながら、問題はNHKと朝日のどちらが正しいのかといったことではない。重要なことは、

 第一に、NHKの特定番組が事前に政権政党の幹部によって審査され、公正であるか否かの評価をされていたということである。これは明らかに放送に対する事前審査である。

 第二に、封殺された番組の伝えようとしたことが日本政府にとって国際的な批判を受けている日本軍慰安婦の制度とその実態を明らかにし、そのことに対する責任者を明らかにしようとする民間の取り組みを報ずる番組であったということである。まさに「天皇有罪」は何が何でも放映させてはならなかったのである。

 第三に、その後、与党議員による朝日攻撃の様相は、物言う言論に対するこの機会をとらえての全面的な攻撃になっているということである。自民党のさる幹部は、この際、朝日のあらゆる「不祥事」を洗い出して朝日をたたけとの趣旨の発言をしたという。

 このNHK問題は、上記のように民主主義の根幹が問われている問題である。自民党議員がカットさせようとした内容が、政権政党にとって不都合であったか否か、「公正中立」であったか否かについても重要な論点である。しかし、この問題の最大の問題は、NHKも朝日もその他のメディアも戦前のような大本営発表をたれ流すメディア、国民の知る権利を封殺し、国民の思想や見解を一つの方向に誘導するメディアにさせてはならないという点である。まさに日本の民主主義が決定的に曲がってしまうか否かの瀬戸際にある。真実に忠実であろうとする内部告発者を勇気づけ、真実の報道を貫こうとするメディアを守り、事実を歪めようとする者に徹底した国民的非難を集中させる必要がある。 


新嘉手納爆音訴訟第一審判決

(那覇地裁沖縄支部)について

大阪支部  西  晃

 一昨年一一月の「象のオリ」訴訟最高裁判決に続いて、また残念な判決報告になります。

、米軍嘉手納飛行場の周辺六市町村の住民約五五〇〇人余が、国を相手に夜間・早朝の飛行差し止めや、将来及び過去分の損害賠償を求めた「新嘉手納爆音訴訟」の判決が二月一七日に那覇地裁沖縄支部(飯田恭示裁判長)で言い渡されました。判決の骨子は次の通りです。

(1)夜間・早朝の飛行差し止め請求は、被告(日本国)の支配の及ばない第三者の行為に対する差し止めを求めるものであり、主張自体失当として棄却する(予備的請求にかかる外交交渉義務の確認請求を民事訴訟で請求することは不適法であり却下する)。

(2)嘉手納基地周辺の爆音と健康被害(騒音性聴力損失)については、その可能性は否定できないが、個々の原告に関する継続的な騒音暴露の具体的立証が不十分であり、法的因果関係は認められない。

(3)被告国は、W値(うるささの指数)八五以上の地域に居住する原告三八八一人に総額二八億二七六万(過去の損害賠償分)を支払え。

(4)将来の損害賠償請求は不適法であり却下する。

(5)損害の発生並びに算定にあたって、いわゆる「危険への接近」の理論は、沖縄における歴史的・地理的特殊性に鑑み(特段の事情ある原告一名を除き)採用しない。

(6)なお同日、(対日訴訟)判決言い渡しの後、同じ法廷において、アメリカ合衆国を被告とする飛行差し止め請求事件(対米訴訟)の判決も言い渡され、(不適法)却下というものでした。

 このように、今回の判決は過去の基地訴訟における各地裁判での判断枠組みを基本的には踏襲するものでしたが、特筆されるべきは、過去の賠償認定にあたって、その賠償対象者の範囲を「W値八五以上の地域に居住する原告のみ」と、著しく狭めたことです。このことによって今回の訴訟で損害賠償請求が認められたのは、全体の三分の二に相当する約三八〇〇人。W値七五から八五未満の地域に居住する全体の三分の一、約一六〇〇人以上の原告が切り捨てられたことになるのです。ちなみに一九九八年二月に出された(旧)嘉手納爆音訴訟控訴審判決(福岡高裁那覇支部)では、W値七五以上の地域の原告も救済の対象になっていたのですが、今回の判決は一気にW値八五以上という全国的に見ても初めてとなる厳しい基準を適用してきたわけです。

、「嘉手納飛行場における米軍機の激烈な爆音による被害、これが周辺住民に生活妨害など著しい苦痛を与え、受任の限度を超えて違法となっている」・・旧訴訟から通算して三度目となる裁判所による違法判断が持つ意味は少なくありません。過去二度にわたって違法と宣告されてきたにもかかわらず、根本的な音源対策を怠り、違法状態改善を図ってこなかった国の責任が、今回も司法の場で確認され、指摘されたことを、国は謙虚に受け止めなければなりません。国は住宅騒音工事などの小手先の手法でのみ対応するのではなく、本当に抜本的な基地の整理・統合、そして縮小へと具体的な行動を本気で取る必要があります。沖縄はもう待てないのです。

、国(行政)の責任とともに、今回痛感したのが、司法の怠慢、役割放棄のことです。もちろん飛行差止めについて、安易に第三者行為論に乗ってしまったことも絶対許されるものではありません。それとともに問題なのは、司法裁判所として十分に役割を発揮することのできる権利救済・損害回復の分野においてですら、これをほとんど果たしていないということです(わずかに評価しうる部分は「危険への接近」論を原則的に排斥したところくらいです)。その一つが騒音に起因する難聴など聴力損失原告の認定です。私たちは、沖縄県が行った健康影響調査に基づき、被害原告の具体的証言を得、専門家証人の協力を得ながら、十二分に科学的立証を尽くしてきました。裁判所も、沖縄県の行った調査結果は信用できると評価し、激甚な騒音のもとで、それにさらされた原告らが聴力損失に陥ることの可能性を否定しませんでした。ところが個々の原告との関係では、その生活歴や職歴を基にした騒音暴露の状況を時系列的・具体的に立証しなければならないというのです。これではいわゆる疫学的因果関係の手法を用いた立証はおよそ成り立ち得ないことになります。これは一般的な公害裁判や医療過誤訴訟、あるいは労災事件等における因果関係の立証の考え方からすれば、大きく後退しているものだと言えます。

 さらに損害賠償の対象範囲を厳しく限定し、救済範囲を狭めたことも許せません。旧嘉手納爆音訴訟において福岡高裁(那覇支部)が示したW値(七五以上)を一気に八五以上とした理由について今回の判決は、「W値七五、八〇の各地域における航空機騒音は減少しており、現状ではかなり低いといわざるを得ない」と述べています。しかしこれは明らかに実態を全く見ない机上の判決理由です。現実に飛行場周辺に居住し、騒音に苦しむ被害者の声を、その発生頻度(週の内平均して何回「うるさい」と感じるかなど)で形式的に線引きしたに過ぎない判断です。

、原告団・弁護団は対米訴訟を含めて即日控訴を確認し、二月二四日、控訴の手続きを行いました。闘いの舞台は福岡高裁那覇支部に移りました。沖縄の闘いはまだまだ続きます。


事務所に「憲法九条を守ろう」の横断幕を

沖縄支部  芳 澤 弘 明

 本年一月三日、宜野湾市において普天間基地一周新春自動車パレードがおこなわれた。爆音をなくせ、普天間基地を撤去せよ、の要求をかかげて乗用車をつらねてパレードする恒例の行動だ。

 今年の行動は、昨年八月一三日の沖縄国際大学本館ビルへのヘリコプター墜落炎上事故のあとであっただけに参加者は多く、およそ42台の乗用車がおもいおもいのスローガンを書きこんだのぼり旗を車体の横に立てたり、横幕を車体にまわしたりしてパレードした。

 私は「憲法九条を守ろう」と書いた横断幕を車体の横にまわしてしばりつけ、パレードに参加した。

 出発集会には、宜野湾市長の伊波洋一氏もかけつけ、普天間基地閉鎖と辺野古沖への移設反対を力づよく訴える連帯の挨拶をされた。

 私も県原水協代表理事として、連帯の挨拶をした。

 どこまでも徐行しなければならない運転にはいささか疲れたが、沿道から手をふってくれる多くの人々の声援にはげまされて、心地よい行動を終わった。

 パレードの翌日、事務所(あけもどろ法律事務所)の横壁にある格子窓に、パレードから持ち帰った横断幕をかかげた。パートナーの上間瑞穂弁護士はじめ、事務局スタッフの皆さんも大いに賛同してくれた。事務所に出入りされる依頼者の皆さんも、口をそろえて「いいアイデアですね」と言って下さる。そのなかには、基地には必ずしも反対ではない建設業者や、中小企業の社長さん方もおられる。

 「憲法九条を守ろう」の横断幕を事務所にかかげたからといって、依頼者が減ることはない。むしろ、昨今の沖縄・日本をめぐる危険な状況や、イラク情勢などについてもするどい問いかけをしてこられる。これを機に、憲法改悪反対の議論もはずんでくる。「九条を守れ」のぜっけんをつけて裁判所がよいをする勇気はない。しかし、せめてこの横断幕だけはかかげ続けたいと思う。

 事務所のななめ向い、一〇〇メートルほどの場所に、最近「新都心交番」ができた。交番詰めの警察官が、毎日のように私どもの事務所のかんばんとこの横断幕をながめてくれている。道ゆく人びとの眼にもとまっている。この横断幕にひかれてこられたとびこみの相談者もおられる。


おやじの背中、おふくろの教え

大阪支部  並 河 匡 彦

 変てこりんなテーマなので、雑文を寄せさせていただくことにしました。私は、一八期なので、四〇年近く団員になっています。

 私はテーマにあるような、おやじの背中も、おふくろの教えもほとんど身に付けておりません。では、なぜこんな文章を書いたのかということになります。

 私は自分の過去について語ったことはほとんどありませんでした。いくらかでも触れているのは、大学四回生の時に書いた『大阪市大学生法学』という雑誌に司法試験合格体験記と、司法修習の終了時に青法協機関誌に少し書いただけです。知られていることはないだろうと思います。

 さてテーマは、おやじの背中、おふくろの教えです。

 私は両親と二歳上の姉と九歳下の弟のいる長男です。

 父は神奈川県で事業をしており、なかなか商才もあったようです。物心ついた時には、江ノ島の対岸である藤沢市片瀬に住んでいました。

 父は私が小学校に入学した頃、私が中耳炎になり、それが直ちに治ったことから、ある新興宗教の信者になり、事業も止め布教師になったのです。それからは収入もなく、貧乏生活が始まりました。横浜市にあった土地建物も全部売り、父の故郷である奈良県に帰りました。父は、学生時代に全国大会に出るほどの卓球選手だったとのことです。それが急に運動を止めて就職したためか、肺結核になり、それが四〇歳頃再発し、奈良県に帰ったころには、数年間病床のままでした。私と姉は、私が小学三年の時から、新聞配達や町工場で働き、家へ帰ると母と内職をしていました。父は昭和二九年五月に病死しましたが、私が中学一年になった時でした。

 私と父は宗教や生活態度のことなども合わず、よく対立していたので、おやじの背中について良い思い出はありません。

 次に、おふくろの教えについて書きます。

 母は、中学生の長女・長男と幼児の二男をかかえ、余り働くこともできず、姉と私が働いており、特に姉は中学に半分くらいしか通えないで、町工場で働いていました。二学年下の私は、姉の教科書を見て宿題などはしてあげました。姉の成績は中程度でした。

 私は中学一年の時に、弁護士になろうと決心しましたが、そのためには大学の法学部に行かなくてはならないと思っていましたが、小学生の時から教科書も買えない経済状態でした。高校へ行きたくて、母に行かせてくれと頼みましたが、すぐ就職してくれと言われ、しかし私は何とか認めてもらおうと思いました。中学の先生も、進学させてやったらと説得してくれました。いつでも中退せざるを得ない覚悟で、県立高校を受験しましたら、一番で合格しました。後は大学法学部です。大阪市大には入学金免除、授業料免除という制度があり、早速この制度を適用させていただきました。

 次は、司法試験です。

 大学では一、二回生でアルバイトを一〇〇種類はしていたと思いますが、三回生からの勉強のために必要と思う金額は貯めておきました。受験勉強は、二間しかない家で家族同士で話をするにも気を使わざるを得ない有様でした。私はこれを無言の行と名付けました。

おふくろの教えですが、そんな苦労はしなくて良いではないかと言うものでした。おふくろの教えに反して勉強することに決めていました。

 三回生で短答式試験に合格した直後、母が病気となり、奈良県立医大病院(現在)で手術をしなければならなくなり、私が付添をし、論文試験の受験は見送りました。

 翌年四回生で合格したので後悔することもありませんでした。

母は今、私の近くに二男家族と生活しています。今年五月に有馬温泉で子どもらと米寿の祝いをしました。

 私は月に一、二回、母の家に行き、水割りウイスキーを飲み、とりとめもない話をしながら、戦友として(苦しみながら、世間を乗り越えてきた実体験を共有しているからです)語り合うのが楽しみになっています。


おやじの背中

大阪支部  寺 澤 達 夫

 おやじが死んでからもう一六年になる。おふくろが癌で逝った後は泣いてばかりいて、それこそ後を追うように死んでしまった。最後はおふくろなしでは腑抜けみたいな毎日だったが、若い頃は相当骨のある検事だったようだ。ようだというのは、おやじは余り自分のことを話さなかったからで、今から書くことも後に人から聞いたり本で読んだりしたことが多い。

 戦後間なしの名古屋地検時代、「従犯の俺より主犯の方が刑が軽いのは賄賂を使ったからだ。」という被告人からの訴えがあった。おやじはこれを無視せず、事務官と二人で捜査を進め、令状をとって現職判事の自宅を自ら捜索し、現金封筒付きの菓子折を発見、その判事は収賄以前の日付で辞めてしまった。そのためその判事の言い渡した何十件かの判決は「判事にあらざる者の言い渡したるものなれば破棄を免れず」という妙な理由でみな破棄され、関係する被告人や弁護人は刑が軽くなって大喜びだったという。検事正や検事長からは「寺澤君、ほんとにやるのかね」とのやんわりとした圧力があったらしいが、おやじはやってしまった。近所の官舎に住むもの同士ではなかなか出来ないことである。

 昭和二九年、函館地検次席時代。台風のため青函連絡船の洞爺丸が沈んで一〇〇〇人以上が死んだ。歴史上世界最大級の海難事故だった。当時は総評の力が強く、その中心が国労だったという背景もあり、国会で「国労の関係者を業務上過失致死で起訴しろ。」という議論になった。刑事局長は鋭意その方向で捜査中といった答弁をしていたが、おやじは函館地方気象台(ここの台長が一高東大の先輩だった)などの情報から、台風の動きは予想を超えるものだったとの理由で不起訴にしてしまった。このときは東京に呼び出され、検事総長から「起訴しろ」と怒鳴られたらしいが、「起訴したければあんたが起訴しなさい。」と答えたという。検察官独立の原則から上司といえども起訴を命ずることはできず、検察官事務引き取り権を行使できるだけだというわけである。表向きこの事務引き取り権が行使された例はないらしく、そこまでは検事総長もできなかった。

 このとき同席していたのが後の広島高検検事長の柴田さんという方で、「あんたのおやじさんはなあ、検事総長に灰皿を投げつけようとしてなあ、俺が必死になって羽交い締めにして止めたんだ。」と聞かされたことがある。そういえば、おやじは字が下手なので、おふくろに自分の辞表を書いてもらっていたことがあったが、あれはこの頃のことだったかも知れない。

 多分昭和三四年頃だったと思う、札幌地高検時代。おやじが酔っぱらって帰ってきて、「芦別事件は無罪だ。杉之原先生はえらい人だ。」といったことをくどくどしゃべったことがある。私は当時中学生だから何も分からなかったが、おそらくおやじは芦別事件控訴審の公判を担当していたのではないか。検事が無罪だなんていうのは変な話だという印象が残っている。今にして思えば、戦前は裁判官をし、戦後検察官になってからも独立心の強かったおやじにして、組織の中では限界があるということを、そういうときは酒でも飲まなければやりきれないということを言いたかったのかも知れない。芦別事件はその後まもなく高裁で逆転無罪となり、そのまま確定した。もしかしておやじの公判活動が影響したのかな? という気もするが、もう時効になった話である。

 こんなおやじだから出世とは無縁だった。田舎周りばかりさせられ、おかげで私は小学校を四つ、中学と高校を二つずつ通う羽目になった。でも、私はおやじの方が検事総長よりもえらいと思っている。そう評価してくれる先輩検事もいたらしく、こんな戯れ歌を貰ったことがある。

 衒いなく 世の騒ぎにも動ぜずに 我が道を行く 真にこの人

 おやじの名は寺澤真人、おふくろの名は道。みな詠み込まれている。おやじはその後公証人になった。私が司法試験に合格したとき、検事になることを楽しみにしていたようだ。ところが検事にはならず、判事にもならず、弁護士になると聞いてがっかりしたみたいだが、よりによって加藤充事務所にはいると知って切れた。私と嫁さんの結婚式にも来ず、おふくろにも出席を禁じた。昔でいう勘当であった。

 酒を浴びるほど飲むようになり、脳溢血で倒れ、半身不随になった。おふくろによると、どうやら原因は期待を裏切った私にあったらしい。しかし、おやじのために生き方を変えるつもりは私にはない。八鹿高校事件で現地に張り付くような毎日を送っていて、おやじを気遣うゆとりもなかった。

 おやじは何も話してくれなかったが、おふくろによるとこのころおやじは徹底的に解同問題を研究したらしい。『前衛』を読み、『解放』を読み、その他あらゆる文献を調べた結果、共産党だけが正しいという、おやじにとっては多分不本意な結論に達した。しかし、証拠によって判断するという法曹のやり方に従い、その後のおやじは市長には榎原、知事には黒田、衆議院では村上という具合に投票したという。すべておふくろからの情報である。もしかすると、おやじは息子とその嫁の背中を見て考えを変えてくれたのかとも思う。

 そのうち子どもたちが生まれ、おやじにとっての孫を連れて行くと、勘当は曖昧になってしまい、いつもにこにこ歓迎してくれた。

さて。こんなおやじの背中を見て育った私はどんな人間になっただろう。おやじ同様、嫁さんなしでは腑抜けみたいになることだけは確実である。


母の教えと天皇問題

大阪支部  渡 辺 和 恵

遅すぎた降伏

 皆さんは今はおそらく「遅すぎた降伏」という事柄をご存知だろう。一九四五年二月、近衛公爵は、昭和天皇にすみやかに戦争を終結させるべしの上奏をしたが、天皇はもう一度戦果を挙げてからでないと難しいとしてこれを拒否し、天皇制という国体護持が図られる好機を得るべく戦争を継続し、やっと八月一五日になって戦争終結宣言に至ったという事実。この事実を皆さんは何時知られたのだろう。

 私は、昭和天皇の死亡時期をXデーとマスコミが騒ぎだした頃に、沖縄の放送局が「遅すぎた聖断」というノンフィクション番組をテレビで報道した時に遅ればせながら知った。

 これをみた衝撃は忘れられない。私の母方の祖母は、近衛上奏の後の、三月一〇日の東京大空襲に引続く三月一三日から一四日にかけての大阪第一次大空襲で、防空壕で蒸し焼きにされて殺された。小山仁宗先生の「大阪大空襲」(一九八五年発行)は、B29が大阪上空に二九五機が飛来し、無差別爆撃をし、死者三九八七人、全焼家屋一三万四七四四戸、その他の罹災を含め、罹災者は五〇万一五七八人と大阪警察局が報じたことを記している。

 私は、今は亡き母から祖母の遺体を抱くことはおろか、近よることさえ許されなかったことから戦争で泣きをみるのは庶民だ、昭和天皇を許さないと繰り返し聞いて育った。昭和天皇が起こした戦争で、母はこのようにしてその母を失ない、妻と幼子を持つ兄を失なっていた。

 そんな私であったが、近衛の上奏と天皇の拒否の事実を知らなかった。せめてその時、降伏していたらいくつもの大空襲もなく、沖縄が焼土と化すこともなく、広島・長崎もなかったのである。

新しい歴史教科書採択問題

 国民の命より国体の護持のために戦争継続した昭和天皇が、中学生の歴史教科書(昭和天皇|国民とともに歩まれた生涯と題する見開き二頁の人物コラムのページ)に「『これ以上戦争を続けることはできないと思う。たとえ自分の身がどうなっても、ポツダム宣言を受諾すべきである。』と述べ、戦争が終結した。この時の天皇のお気持ちをよまれた御製がある。『爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも』」と記述されている。新しい歴史教科書を作る会が作成し、三年前に検定を通り、去る八月二六日、東京都教育委員会で採択され、来年から新設となる東京都立白鴎高校附属中学校で教科書として使用されるものである。

 私は、ある私立女子大学で日本国憲法の講義をしていたことがある。天皇はなぜ「象徴」となったのかについて、学生たちに問うた。天皇は戦争責任をとったからか、戦争責任をとらないままだったからかと。学生たちの多くは前者だと答えた。学生たちには、戦争の最高責任者が最高の権威の地位をおりたのだから、戦争責任をとった形が「象徴」たる地位であると思ったという。敗戦直後昭和天皇が戦争犯罪者として国外で大問題であった時にも、国内では問題にならなかったことを今日まで引きずりながら、若者の感覚で天皇に戦争責任有りと考えていることが興味深い。

 天皇に戦争責任をとらせず、国体を護持することが占領政策の有効な方法である、言いかえれば、日本国民は、天皇のマインドコントロールの中にあるとみたアメリカ占領軍の判断は、日本国民の非民主的意識をあまりにもよくつかんでいたとしか言いようがない。

 先の教科書の一文に続いて、マッカーサー回想記の抜粋も記述されている。「私の命はどうなってもよい」は、この回想記に「天皇は戦争責任を明言し私自身はあなたの代表する諸国の裁決にゆだねる旨発言した」として紹介されている。

 ある学生は、以前に先生からこの天皇発言を習ったのに、渡辺先生は逆のことを言っているとの指摘をした。私はその時不勉強で、天皇とアメリカ占領軍との間で、アメリカ占領軍は天皇を戦争犯罪者にしない、天皇はアメリカ占領に協力することで合意したもので、マッカーサーの回想記は歴史の真実からは問題とされていると答えたに止まった。

 その後、二〇〇二年一〇月、五七年目にして、通訳奥村勝蔵の会見録が公開され、天皇が戦争責任をとると申出た事実はなく、私の命がどうなってもよいとの記載もないことも確認されている。やっと明らかになった歴史的事実に反する記述が、作る会教科書によって子どもたちの認識を作っていくことがおそろしい。

象徴天皇は民主主義意識醸成の桎梏

 こんなことから天皇問題に私はずっとこだわり続けている。しかし、一般には、大日本帝国憲法下での天皇制ではなく、経過はともかく象徴なのだから、政治権力を持たないのだからめくじらをたてなくともよいとの意見が強い。戦争責任についても、当の本人裕仁は死んで、今は明仁であるし、もはや政治的に利用されることもないのだからと無関心な人も多い。

 私は、戦後、マッカーサーが、日本人の主権者意識がないところで、日本国および日本国民統合の象徴として天皇を置き、今、戦後六〇年に届かんとする年月を経てもなお存続していることは象徴天皇制それ自体が日本人の主権者意識を育てることの桎梏になっている証拠だと思っている。

 例えば、女性の中では「(うつ病=)適応不全といわれる雅子さんはかわいそう」、「女を子産みの道具とするのは、ひどいわ。女でも天皇になれるようにすればいいのに」の発言がある。皇位継承の資格は皇統に属する男系の男子である(皇室典範第一条)から現行法上は雅子さんの唯一の義務は男子を出産することである。

 天皇とその赤子である臣民、家父長とこれに服する女性とこども、このピラミッド型権力の構図は日本人の意識に強くうえつけられてきた。天皇が女性でもよいことになると、家父長支配の現代版、男性優位社会のシンボルを失うことになる。女性の天皇は、この支配を良しとする勢力にとっては耐え難いことである。元々、この構図が男女平等に反する理念に基づくものであるから、「雅子さんかわいそう」と言うのなら天皇という制度をなくそうと言うのが筋だろう。夫婦別姓の民法改正案が今日も国会に上程されないのは、ピラミッド型の権力構図が日本の良き伝統だとの勢力の妨害が故である。

 これから育ちゆく子どもたちには、日本国憲法の国民主権・恒久平和・個人の尊厳の三つの柱をしっかりと受け継いでもらいたい。

そのためには、天皇問題をいま一度、大人である私たちが自分の抱えている問題に引きつけて考えることが重要かと思う。最後に、ハーバード・ビックスの「昭和天皇(上巻下巻)」講談社からの天皇の発言を引用して考える素材の提供としたい。

(1)一九七五年一〇月三一日アメリカから帰国後記者団との質問に答えて

 「(ホワイト・ハウスでの、わたしが深く悲しみとするあの不幸な戦争との発言については)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから(戦争責任という)そういう問題についてはお答えができかねます」、「この原子爆弾が投下されたことについて遺憾には思っていますが、こういう戦争であるからどうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っています。」(下巻二七五頁)

(2)一九四七年五月六日 天皇とマッカーサーの会見

 天皇は「米国が去ったら誰が日本を守るか」と問い、マッカーサーが「カリフォルニア州を守るごとく日本人を守る」と答えた。

その後、マッカーサーは「米国が沖縄を保有することに日本人が反対するとは思えない。なぜなら沖縄人は日本人ではないからだ」と断言した(下巻二三六頁)。

並河匡彦団員、寺澤達夫団員、渡辺和恵団員の原稿は、大阪支部の第三八回(二〇〇四年度)総会議案書の特集「おやじの背中、おふくろの教え」よりの転載です。