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飯田 美弥子 代用監獄の恒久化につながる法律案には断固NOを
城塚 健之 改憲と公務の市場化
吉原  稔 信じられますか、こんなこと
地主の反対にあって、ダムサイトのボーリングもしないまま計画を決めるとは
―滋賀県永源寺第二ダム訴訟
金野 和子 「九条の会」アピールの示す日本の進むべき道について
(二〇〇五年二月二一日付自由法曹団通信・松島暁団員の投稿に寄せて)




代用監獄の恒久化につながる法律案には断固NOを

警察問題担当事務局次長  飯 田 美 弥 子

1 代用監獄をめぐる今日の状況

 自由法曹団は、代用監獄の恒久化を狙った(警察)拘禁二法に対し日弁連ともども反対運動の先頭に立ってきた。

 代用監獄をめぐり、自由法曹団や日弁連が反対運動を展開したそもそもの由来は、警察庁が、代用監獄に法的根拠を与え、恒久化を図ろうと画策し警察拘禁二法を国会に提出したことによる。代用監獄こそが冤罪の温床であり、えん罪の防止と刑事手続の適正化のためには、代用監獄の恒久化は許されず、その廃止こそが国民的課題であるとの認識のもと、自由法曹団は日弁連ともども国民的な運動を展開して、警察庁の目論見を挫いてきた。

 一方で、名古屋刑務所において発生した刑務官による受刑者への暴行致死事件などを受けて、行刑改革会議が設置され、その提言を受けた既決の処遇改善は早急に実現する必要があった。法制審議会において「監獄法改正の骨子となる要綱案」が策定され、法務省が監獄法改正案である刑事施設法案を準備しているとき、警察庁が「警察拘禁施設法案」という代用監獄恒久化法案を準備していることが明らかになったが、昨年一二月、既決と未決を分離し、既決処遇を先に立法化するという方針が、日弁連・法務省・警察庁間で合意された。この合意については、代用監獄の恒久化を阻みつつ受刑者(既決)の人権保障のために改善方向として望ましいものと評価した。

2 「警察留置場に収容されている受刑者の処遇」案の危険

 現在作成中の法律案は、伝え聞くところによれば、既決処遇について、外部交通権の拡大、一般的な医療の保障、第三者機関による刑事施設視察委員会の設置などなど、日弁連総会決議の「刑事施設法案の抜本的な修正」に近づいたものとして内容となっているとのことである。そのようなものとして立法化が進行するのであれば特にこれを問題視し、あえて反対運動等に自由法曹団が関わる必要のないところである。

 ところが、漏れ伝わった情報によれば、日弁連・法務省・警察庁の三者合意が存在するにもかかわらず、「警察留置場の管理運営」や「警察留置場における受刑者の処遇」という項目が設けられ、その中に代用監獄を恒久化しかねない規定が盛り込まれているという。

 代用監獄に収容されている受刑者処遇について「警察留置場」の項を設け、分離に関する一部規定、視察委員会に関する規定、刑務官の規定を適用しないこと、適用に関する読替規定をおくこと、警察庁長官の指定するものによる留置場に対する巡視の規定、留置場における受刑者の処遇について、多くの規定(矯正処遇の実施の全部、賞罰の全部、保健衛生の一部など多数の規定)を適用しないとされているほか、適用される条項の読替規定が置かれているうえ、警察留置場における防声具の使用に関する規定まで設けられているとのことである。このような詳細な規定は、まず、監獄法一条3項但し書きによる、受刑者の警察留置場収容の場面を想定したものである。しかしながら、同条項そのものは、法制審要綱(項)と刑事施設法案において削除の対象とされていた。削除が予定されている規定の適用場面にこれほど詳細な規定をする必要がない。

 現実にも、警察留置場に収容されている受刑者は、年間に延べ八〇〇人程度とわずかな人数であり、これまでも処遇に特段の問題があったわけではない。

 新法案になったとしても、警察留置場内の受刑者が、他の被収容者(未決拘禁者)と、どれだけ異なった処遇がなされるのか、全く不透明である。

 前述のとおり、未決拘禁者についての検討を先送りした現段階で、詳細な読替規定をおくことは、将来の未決処遇立法の際に、無用な混乱を招くだけである。また、未決処遇の内容を先取りするかのような規定までも散見され、看過できない問題である。

 このように、代用監獄内の受刑者の処遇については、別項をたてて規定する必要がないばかりか、規定することに弊害があることは明らかである。

3 代用監獄は廃止されるべきもの

 代用監獄は、捜査にあたる警察官が、被疑者の生活全般にわたる支配を及ぼし、被疑者を日常不断に監視し、長時間にわたる取り調べを可能にする場所である。警察官が、不利益処遇と優遇を使い分けることによってウソの自白を獲得する場となり、意に添わなければ拷問の舞台ともなってきた。私が関わる布川事件では、否認調書を作成された後、代用監獄に「逆送」されて改めて「自白」調書が作成されている。まさに冤罪の根源と言っていい。

 そもそも、代用監獄を定める現行監獄法一条3項は、制定された明治四一年当時から、将来の廃止を予定した暫定的措置であった。刑事施設が未だ不十分なため「やむを得ずしてこれを用いる」ものであり、将来の廃止を約束していた(明治三一年三月五日衆議院監獄法案外四件委員会議事録)。以来、弁護士会・国民の代用監獄廃止の要求は絶えることなく続いてきた。(にもかかわらず、警察は、昭和五一年を境に、そのような声にはっきりと背を向けて、代用監獄の恒久化を画策してきたのだった。)

 被疑者を警察の手中に置くことが捜査上便宜であることは間違いない。しかしながら、「司法官権の下に引致されたのちは被疑者の拘禁を警察に委ねてはならない」(一九五九年デリー宣言)ことが、国際的な原則になって既に久しい。捜査上の便宜を犠牲にしても人権を尊重するのが、世界の趨勢である中で、代用監獄の存在は恥ずべきものなのである。

 既決処遇といえども、速やかに廃止されるべき代用監獄について、存続を前提とした規定を設けることには断固反対である。

 団は、代用監獄の恒久化につながるあらゆる提案に反対する。「既決処遇の改善」を名目に代用監獄を恒久化しようとする策動には、国民的運動を含む反対運動をもって対決すべきである。 


改憲と公務の市場化

大阪支部  城 塚 健 之

 岩手自治労連から新春討論集会で「改憲と公務の市場化」というテーマで講演してほしいとの依頼を受けた。正直いって困った。というのも、「公務の市場化」は新自由主義的改革そのものであるが、憲法が必ずしもその障害になっているわけではないからである。そして私は、改憲勢力の主たるねらいはあくまで九条にあると考えていたから(もちろんその根底に新自由主義の圧力があるのはいうまでもないが)、両者を結びつけて論ずることは難しいなあと思ったのである。

 ここで「公務の市場化」とは、PFI、公の施設の指定管理者制度、市場化テストなどのツールを活用して、これまで公務として行われた領域を、営利企業に開放していくことである(詳細は団通信一一四三号(二〇〇四年一〇月一一日)で尾林芳匡さんが紹介されていた「Q&A自治体アウトソーシング」(自治体研究社)をご参照下さい)。「総合規制改革会議」の後継組織である「規制改革・民間開放推進会議」(議長は相変わらず宮内義彦氏)は、全閣僚がメンバーとなっている「規制改革・民間開放推進本部」とタッグを組んで、「公務の市場化」に執念を燃やしている。理由は簡単。儲かるからである。財界系シンクタンクも、こうした「官製市場」がどれほどの規模のマーケットになるか、しきりにそろばんをはじいている。

 そこでは雇用流動化が当然の前提とされており、労働弁護士としては看過できないのであるが、「公務の市場化」のより本質的な問題は、どれだけ公務サービスが受けられるかが、生存の必要ではなく、購買力によって決まるところにある。介護保険制度がその典型だが、保育でも、市場化が進めば、延長保育や、通常保育におけるオプションサービス、たとえば英語教育、スイミング指導、朝食(最近は朝ご飯を食べさせてもらえない幼児が多いのか)、アトピー代替食、クリーニング(おむつの洗濯など)、その他子育て支援事業等が、ことごとく別料金で実施されるのではないかと言われている。そうなると、親が金持ちなら、よりどりみどりのサービスが受けられるが、貧乏人の子どもはおちおち「おもらし」もできないことになりかねない。これはもはや「人権の売買」に等しいのではないか。

 ちなみに、公務に限らず、人間生活のあらゆる領域が市場化されていくことの問題点、その醜悪さは、姜尚中/テッサ・モーリス−スズキ「デモクラシーの冒険」(集英社新書、二〇〇四年)でも随所に指摘されているところである(これはすごい対談集であり、ブレーンストーミングのためにも一読をお勧めしたい)。

 もっとも、こうした「公務の市場化」が憲法上ストレートに禁止されているとは言いがたい。しかも、これまでわが国の福祉は、「企業社会」に依存していて、国レベルでは不十分なままだったから、憲法の社会権規定が必ずしも新自由主義的改革の桎梏とはなっていないのではないか、というのがおそらく渡辺治教授や後藤道夫教授の最近までの分析だったはずであり(たとえば『ポリティーク』七号(二〇〇四年四月)の渡辺論文では、九条以外の部分は、「糊しろ」、「毒まんじゅうの皮」という位置づけがなされている)、私もそのように考えていた。

 しかし、最近の改憲論議では、憲法を権力制限規範としてではなく、国家のアイデンティティ確保ないしあるべき目標を示すものとしてとらえている。これはいったい何なのか。なぜ、こんな憲法概念の転覆をはかろうという議論がまかり通っているのか。それは新自由主義的改革の進展とともに上層・下層に二極分解していく社会のありようを国民に「自己責任」の名のもとに受容させていたくためのイデオロギーが必要とされていて、それを改憲に求めているからではないか。社会権規定も含めた全面改憲論はそうした文脈から要請されているのではないのか。貧乏人は金持ちの迷惑にならないようにしろと言わんばかりの責務規定をもうけ、社会権規定を「プログラム規定」として整理すべきとまで主張している自民党憲法調査会の「憲法改正草案大綱」(たたき台)は、まさにそのような位置づけではないのか。

 昨年一二月二日、「大阪弁護士九条の会」の結成総会が開かれたが、記念講演をされた奥平康弘教授が強調されていたのは、「憲法運動は文化運動である」ということであった。奥平教授は、「九条の会」のメンバーのうち、憲法学者は自分だけで、あとの八名は文化人であるというのはどういうことなんだろうかと問いかけ、憲法九条を守るたたかいは、実は九条だけの問題ではなく、私たちの文化、生き方そのものをめぐるたたかいではないのか、と語られた。私は、これを聞いていて、「勝ち組・負け組」などという言い方で、人間の不平等、社会の不公正を容認する新自由主義イデオロギーに根本から対決しないと、このたたかいは負け戦になるのではないかと言われているような気がしてきた。

 また、後藤道夫教授は、「新自由主義改革と憲法改正」(法と民主主義二〇〇四年一一、一二月号)において、新自由主義的改革により支配層が構想している社会像を、労働・福祉・教育の視点から明らかにされている。後藤教授は、二五条が中心問題となるかは流動的とされているが、少なくともこうした社会像を国民に受容させるためのイデオロギー装置として改憲が論じられているのではないか。

 そこで、冒頭の講演でも、以上のような視点から「改憲」と「公務の市場化」を結びつけて話をしてみた(成功したかどうかは分からないが)。

 その後、遅ればせながら、昨年八月の憲法合宿の記録(団報一七三号)を通読した。これは、自分の周囲で憲法運動を作り上げていくためのヒントをもらおうと思ったからであるが、さすが各地の一線で奮闘されている方々だけに、いずれも発言も参考になった(その意味でこれは「必読文献」である)。注目したのは、東京の田中隆さんや(一二頁)、宮城県の小野寺義象さん(五五頁)などが、グローバリゼーション、構造改革と結びつけた問題意識から発言されていることであった(もっとも「公務の市場化」に言及した発言はなかったように思うが)。そしてこれを坂本団長が「参加した一団員として」なんていいながら、まとめられているのである(六二頁)。

 さすが団長、うまくまとめるなあ、やっぱり団はすごいなあ、などと思ったが、楽屋内で誉めていても仕方ない。坂本団長の「総括発言」(?)にもあるように、確かに構造改革反対を改憲反対の結集の軸とするわけにはいかない。しかし、改憲問題で問われているのは、結局のところ、この国や社会のあり方そのものである。だとすれば、私たちは、改憲を、数ある問題と「並列的に」捉えていてはいけない。その意味で、私たち自身がグローバリゼーションと平和の問題を本当に結びつけて考えてきたのか、と問いかける大阪の杉島幸生さんの指摘は重要である(五五頁)。

 私たちは、すでにさまざまな分野で、グローバリゼーションや構造改革路線とたたかっているはずである。大事なことは、そうした活動と改憲とを深く結びつけて、言葉豊かに語ることではなかろうか。


信じられますか、こんなこと

地主の反対にあって、ダムサイトのボーリングもしないまま計画を決めるとは
―滋賀県永源寺第二ダム訴訟

滋賀支部  吉 原  稔

、今、大阪高裁で、永源寺第二ダムの計画取り消しの裁判がある。この裁判の終わりの間際になって、こんなとんでもないことが判明した。

、ダムサイトを決めるのに、ボーリングもしないで計画調査、全体設計調査をして、計画を決めたが、その後、工事実施調査をして詳細なボーリング調査をしたところ、地盤が軟らかかったので、ダムの基礎を深くしなければならない。貯水池の谷の深さを測り間違ったので、ダムを一〇メートル長くし、さらに、堤高を一〇メートル高くしないと、予定した二五〇〇万トンの水がたまらない。だから計画を変更してダムを大きくするというのである。そのためにダムの工事費は、四七六億円が一一〇〇億円になった。

 こんなことが、農水省の計画変更の地元説明会で明らかになった。原告も、弁護団も、そんなことは夢にも思わなかった。もっぱら土地改良法の法律的要件である費用対効果が争点であった。今日、ほんの小さな住宅を建てるにも地盤調査でボーリングをしている。もし調査しないで建物を立てて沈下したらそれだけで裁判には負ける。ダムを建設するのにダムサイトの地盤の調査をして安全性を確認しないとダム計画の要件である「技術的可能性」(ダムの安全性)が確認できない。それなのに巨大なダムを造るのにボーリングや弾性波探査を省略して計画を決め、いつでも着工をできる状態にした。その後で調査したら地盤が軟らかかった、谷が狭かった、予定した水がたまらない。だからダムの基礎を深くしてダムを大きくしないと安全性が確保できないから計画を変更するというのである。こんなことが信じられますか。

、ダム設計基準運用通知には、「河床部などで明らかに、健岩が、路頭している場合は、ボーリングは省略できる」とされていることから、ここには、「健岩が、路頭している」のでボーリング調査を省略したといっている。しかし本件のダムサイトには、健岩の路頭は見られない。ダムサイトの地質の特色は断層によって破壊された岩石が多いということである。ダムサイトに至る茶屋川の林道には至る所で崖が崩落している。ダムサイトにも破砕帯が存在することが予測される。写真を見ただけでも節理が多く、ダム地点の川は蛇行をくりかえして複雑な地形であり、ボーリング調査や電気探査を省略できる場所ではない。現に平成一三年度から一五年度に行われたボーリング調査の結果では、「墨流し状」と呼ぶ亀裂があり、透水性が高く、地盤が、地盤変動で、もまれている場所が多い。全体設計予備調査段階でこの透水性の高い領域が見いだされていたら、この地点はダムサイトに選ばれなかったであろう。

、地形調査についても、全体設計調査では二五〇〇分の一の地図を使用したが、工事実施調査では五〇〇分の一の地図を利用したので、谷の深さは測り間違いがあったという。いまは、伊能忠敬の時代ではない。便利な機械があるのだから、はかり間違いではすまされない。

、なぜボーリングをしなかったか。もともとは農水省はボーリングや弾性波探査を予定していた。その調査を申し入れたが、この土地は、大字政所の民有地であったため、地主の強い反対にあって、実地調査ができなかったのである。このことは、町長も平成一六年九月の議会で答弁している。「地元住民の同意を得てから着工する」と約束しながら、地元の立ち入り調査の同意がなくボーリングができなかったために、ボーリングをしないまま全体設計調査を済ませて計画決定をし、「いつでも着工できる状態」を作りながら、ボーリングは計画後に工事実施調査で行った結果、川床部が軟らかいこと、谷が狭いことが判明し、その結果ダムの構造を大きくする必要がある。そのために工事費は四七五億円が一一〇〇億円になるというのである。反対運動のため、立ち入り調査や、ボーリング調査ができなくても、とにかく計画を決める。そして後で工事実施調査をしてボーリングをし、もしダムの構造を変える必要があれば変更計画で変えれば良いと、たかをくくっていたのである。これは計画の原始的瑕疵である。高裁では、この理由による取り消しを追及している(弁護団長 藤原猛爾、吉原 稔、山田隆夫、赤津加奈美、和田重太)。

このような事例を体験したことが御教示をお願いしたい。


「九条の会」アピールの示す日本の進むべき道について

(二〇〇五年二月二一日付自由法曹団通信・松島暁団員の投稿に寄せて)

秋田県支部  金 野 和 子

、憲法九条を中心とする憲法改悪阻止のたたかいは、二一世紀の世界の流れの中で日本の進むべき道を明らかにし、閉塞状況にある国民や無関心層をも勇気付ける明るく希望ある展望をもつ大運動が必要であると思う。

 私は、現在日本の進むべき道として「東アジア共同体」は現実性のある重要な問題と考えており、団内でも討議を深めるべきと考えていたので、「東アジア共同体」に触れた表記松島団員の投稿に寄せて私見を述べる。

、EU、ASEAN、南米共同体等世界の地域共同体の取組みの流れの中で、東アジアの流れを見ると、「独立、主権、領土保全などの相互尊重」「紛争の平和的手段による解決」「武力行使と武力による威嚇の放棄」等の国家間関係の原則をうたった東南アジア友好協約条約(TAC)は、東南アジア地域以外の国にも解放され、二〇〇三年には中国とインドが加入し、日本はアメリカの意向をうけて加入しないといっていたが、昨二〇〇四年六月の東南アジア諸国連合外相会議で日本とパキスタンが加入することになった(日本の正式加盟は同年七月二日)。現在では韓国、ロシア、パプアニューギニアが加入し、世界人口の半数以上を結ぶ平和友好条約となっている。

 又、東アジア共同体については、二〇〇四年一一月のASEAN首脳会議と日中韓三国が加わった「ASEAN+三首脳会議」で、二〇〇五年末にマレーシアで東アジア首脳会議が開かれることが決まった。今年は、東アジア共同体の一員として日本がどのように対応していくか、緊急、重大な現実問題となってきている。

 私は、東アジア共同体の方向は、今、政財界が意図している憲法九条を「改正」し、日本に基地をおくアメリカと一体となった軍事力を背景にすすめようとしている「東アジア自由経済圏」構想の方向とは相反する内容と方向をもっていると思う。又、小泉政権は、「東アジア共同体」に積極的姿勢を示しているが、東アジア共同体への米国の参加に道を開くことを狙っているととれる立場をとっていると指摘されており、東アジアの諸国からはその自主性のなさに不信を買っている。又、中曽根元首相の東アジア共同体重要性論は、松島団員の危惧する問題点をはらんでいると思う。

、私は、二一世紀の世界の流れの中で日本の進むべき道は、東アジア共同体の一員として日本が二〇世紀の反省に立ち、東南アジア友好協約条約、日本国憲法前文、憲法九条に基づき、自主性ある平和外交を誠実に進めていくことが必要であると思う。この方向こそ東アジア諸国から受け入れられる方向である。又、政治的にも経済的にも、この方向こそが平和で未来ある日本の生きる道であると思う。日本がアジアの孤児となり、世界の孤児となる二〇世紀の誤りを繰り返してはならない。我々は、早急に団内でも日本の進むべき道について討議し、東アジア共同体に対する政府の対応に注意し、国民の声を挙げていく必要があると思う。(前衛二〇〇四年九月号特集「平和と友好・対話と協調のアジアへ、東アジア共同体を考える」三浦一夫論文・「東アジア共同体の展望と現実性」大西広論文等・経済二〇〇五年一月号特集「憲法九条こそ日本経済再生への道」石川康広論文等・二〇〇五年二月二日付赤旗主張「アジアの一員」等参照)

、「九条の会」アピールは、世界の流れの中で二一世紀の日本の進むべき道を示していると思う。

アピールは、

「アメリカのイラク攻撃と占領の泥沼状態は、紛争の武力による解決が、いかに非現実的であるかを、日々明らかにしています。なにより武力の行使は、その国と地域の民衆の生活と幸福を奪うことでしかありません。」

「だからこそ、東南アジアやヨーロッパ等では、紛争を、外交と話し合いによって解決するための、地域的枠組みを作る努力が強められています。」

「二〇世紀の教訓をふまえ、二一世紀の進路が問われているいま、あらためて憲法九条を外交の基本にすえることの大切さがはっきりしてきています。」

「憲法九条に基づき、アジアをはじめとする諸国民との友好と協力関係を発展させ、アメリカとの軍事同盟だけを優先する外交を転換し、世界の歴史の流れに、自主性を発揮して現実的にかかわっていくことが求められてます。」

と述べている。

 東アジア共同体の一員として、日本が自主性をもって東南アジア友好協約条約、日本国憲法前文の理念、九条に基づき誠実に対応していくことは、対米自立への現実性のある一歩でもなかろうか。私は、憲法九条「改正」問題、アメリカのアジア戦略とも関連するものとして、「東アジア共同体」問題は、現在及び将来の日本にとって非常に重大なものと考えている。

 団員諸兄の御意見を求める。