過去のページ―自由法曹団通信:1167号        

<<目次へ 団通信1167号(6月11日)



瀬野 俊之 「つくる会」教科書の採択を許さないために、教育委員会へ足を運んでください!
毛利 正道 「自衛隊員がイラクで一〇〇人死ぬ。本当にこれでいいのか」
― 九条改造反対の世論を大きく高めるために今必要なもの ―
守川 幸男 「安全・安心のための治安の強化」に賛成する市民をどう説得するのか
井上 正信 靖国問題雑感
沼澤 達雄 皇国少年から見た戦後六〇年(上)
馬屋原 潔 勝利報告〜富津産廃処分場建設等差止請求事件




「つくる会」教科書の採択を許さないために、

教育委員会へ足を運んでください!

団本部担当次長  瀬 野 俊 之


 この夏ふたたび、「つくる会」教科書(歴史・公民)が全国各地の教育委員会にやって来ます。四年前、国内外の厳しい批判を浴びて、全国の公立中学校でひとつも採択されなかった危ない教科書です。「つくる会」公民教科書は、「改憲」を明確に意識し、この国を「戦争する国」に導こうとするもので、「改憲イデオロギー教本」にほかなりません。

 団本部と教科書プロジェクトチームは、六月二日付で各支部、各県へ「つくる会」公民教科書批判意見書『検証・「つくる会」教科書』を郵送いたしました。本意見書は「つくる会」公民教科書を全面的に批判したもので、類書はありません。本意見書が「つくる会」教科書の採択を許さないたたかいの力づよい「武器」になることを確信します。

 また、これとあわせて、「つくる会」歴史教科書についての見解、五月集会決議『「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書・公民教科書を採択することを許さない決議』、教育委員会宛要請書もお送りいたしました。これらを四点セットにして、支部内、県内のすべての教育委員会に届け、「つくる会」教科書を採択しないよう要請してください。

各支部におかれましては、「つくる会」教科書の採択を許さないたたかいを「改憲」阻止闘争の前哨戦と位置づけていただき、積極的に取り組んでいただくようお願い申し上げます。



「自衛隊員がイラクで一〇〇人死ぬ。

本当にこれでいいのか」

― 九条改造反対の世論を大きく高めるために今必要なもの ―

長野県支部  毛 利 正 道


九条改造反対の声が減っている(?)

 昨年六月の「九条の会」発足以来、そのアピールに賛同する全国各地域・各分野一九〇〇を超える「九条の会」が生まれています。長野県では今も毎週のように増え続け、一五〇になっています。ほとんどのところで、地域の著名人・有力者・無党派と従来からの護憲勢力との幅広い共同ができ、いわば、燎原の炎のように広がっています。そのなかで、しかし、今年五月三日の朝日新聞の世論調査では、九条改正反対の声が七四%(〇一年)↓六〇%(〇四年)↓五一%(〇五年)と年を追って大きく下がり続けている結果がでました。いまだ過半数を保っていること、自衛隊に海外での武力行使まで認めるとする者はわずか一五%であること、二〇才代では九条改正反対が五七%と各年代で最も高くなっているということ、という希望を感ずる結果も同時に出てはいますが、世論調査とはいえ、四年間で二三%、ほぼ四人に一人、九条改正反対の声が減っているという結果は軽視できません。

 これはなぜでしょうか。一つは、九条の会がこれまで一九〇〇生まれたとはいうものの、大局的には、従来護憲の心は持っていたが、表に出れなかった人々が表に立てたという段階にあり、中央「九条の会」事務局の小森陽一さんが再三言われているように、改憲論を支持している人々を変える斗いはこれから始まるという段階にあるためでしょう。

ますます好戦的なマスメディア

 もう一つの要因は、好戦的なマスメディアの状況にあると思います。ファルージャ・カイムでの虐殺などイラク戦争の実態を報道しない、九条の会の動きをほとんど無視する(特に全国系テレビ)、中国の「反日デモ」についても、ほとんどが多くの市民が参加して整然となされており、ある地方都市では、片側二車線の広い直線道路の、半分を埋める人の波が見渡す限り遠くまで整然と続いている写真があります。これと、石を投げる場面とでは、日本人の受け取り方は大きく異なります。北朝鮮についても、金日正政権の核兵器瀬戸際政策はとても認めることできるものではありませんが、例えば、核実験するのか否かについて、アメリカでも見方が分かれている時に、日本では見出しで大きく「北朝鮮、核実験か」と打ち出しています。私は、昨年一一月以来、沖縄タイムスを郵送で購読していますが、基地・平和・憲法問題についての扱いは、本土と比べ、ケタ違いに豊富です。同じ商業新聞である沖縄のこのマスコミの姿を鏡とするとき、日本のマスメディアが全体として好戦的な方向に事実を歪めて報道していること極めて明白です。

自衛隊がイラクで百人死ぬ

 このように、九条改正反対の声がかなりの角度で減少している可能性がある現在、日本と世界の宝、九条を柱とする日本国憲法を守りきるために、今、何がとりわけ必要なのでしょうか。この点に関し、最近、私は次の二つの体験をしました。

 ひとつは、長野県の南、飯田市のある区長さんの話を聞きました。この人は、地元の自民党代議士の後援会幹部ですが、他の有力者と同じく、地域の九条の会に賛同してくれてはいました。でも、息子さんが自衛隊員になってもいる家なので、地域の方が、県内で取り組んでいる九条を守り生かす署名用紙を「この家は無理かな」と思いつつ、それでも、とその家に届けておいた。そしたら、その日のうちにその区長さんが家族全員の署名をして持ってきて、「俺は、海外で戦争させるために息子を自衛隊に出したんじゃない」と言ったそうです。そうです。現在の憲法改正は、日本の国を守るためではなく、海外でのアメリカの違法無法な戦争で自衛隊にドンパチ戦斗させるためになされようとしているのであり、その点では、自民党を強く支持している人も、自衛隊員の家族からも、すなわち、圧倒的多数の国民が反対する客観的可能性を持っている課題なのです。

 先ほどの世論調査にみられるように、自衛隊の海外での武力行使まで認める人は一五%しかいないのであり、残りの八五%の国民に、改憲のこの真の狙いを理解してもらえれば、改憲策動を打ち砕くことは十分可能です。

 二つ目の体験は、五月三日の憲法記念日集会に、イラク人質事件から立ち直り、イラク支援プロジェクトとイラクの実情を伝える講演活動を続けている高遠菜穂子さんをお呼びし、主催者の予想を大きく上回る、ほぼ会場いっぱいの八五〇名が参加し、内容的にも参加者の認識を大きく深めるものになったことです。高遠さんは、イラクの再建のために学校・病院やストリートチルドレンの居場所づくりをイラク人と共にすすめていますが、この間、協力者が何人も殺されていて、彼女は本当にこの再建のための斗いに命を賭けているのです。その彼女が、映像をふんだんにつかって語るファルージャでの住民虐殺の数々には息が止まります。映像と音だけでなく、腐敗した死体から死臭が伝わってきます。命を賭けた講演でしか伝わらないものです。

 むろん、彼女は九条改正反対とは言いません。そこを、私が実質二〇分のレクチャーで補いました。

 曰く―― アメリカは、日米同盟を英米同盟のように変えると言っている。今、イギリスはイラクに九〇〇〇人派兵して八七名が死亡している。ほぼ一〇〇人に一人。米軍も一〇〇人に一人死に、一〇人で少なくともイラク人一人を殺している。ということは九条を変えると、自衛隊がイラクでイギリス軍と同様実戦に参加して、一万人派兵されて一〇〇〇人のイラク人を殺し、一〇〇人の自衛隊員が死ぬということなのです。この一〇〇人が死ぬということがどんなことなのか、JR福知山線脱線転覆事故で一〇七人死亡したことからよくわかります。今日は、憲法を変えたら自衛隊がどのように人を殺し、殺される事態になるのか、本当にそれでよいのか、皆さんと共に考えるために高遠さんをお呼びしました。―― 

(自分で言うのも何ですが、私のこの話によって、高遠さんの話が何倍にも生きたと思っています。めったに誉めない私の妻が「朝リハーサルをして臨んだ夫の話もよかった」とホームページに書いただけでなく、何人もから「お褒めの言葉」をいただきました。)

改憲の狙いが目に見えるように

 私は、この二つの体験をするなかで、アメリカの絶え間ない戦争のなかでも、とりわけ、違法無法ぶりが明らかなイラク戦争の実態、どんなに殺し殺されることがひどいことなのかを、もっともっと日本の国民に伝えるべきだと強く思いました。改憲の狙いがよく見えるように国民に示す必要があるのです。しかもこれは、イラク戦争の実態を伝えない、好戦的なマスメディア状況に対する斗いでもあり、これとの斗いを抜きにして、九条改正反対の世論を高めることはできないという点も重要です。

 それでは具体的にどうしたらよいでしょうか。臭いまで伝わる高遠さんの講演にレクチャーを付ける、これが最高でしょう。今ロードショー公開中の綿井健陽さんのドキュメンタリー映画「リトルバード」も見ましたが、この映画の上映会はお勧めです。

 更に、つい一週間ほど前に土井敏邦さんのドキュメンタリー「ファルージャ二〇〇四年四月」のビデオ・DVDが発売になりました。価格が安く、手軽に上映会を行うことができます。他にもジャーナリスト・ボランティア・イラク人など、とりわけ、イラク派兵訴訟でつながった少なくない講演者がいます。

全国の「九条の会」でイラクに迫ろう

 私がとりわけ重視したいのは、現在までに一九〇〇を超え、日々増え続けている全国の「九条の会」いたるところで、このイラク戦争の実態を知る企画をとりあげていただきたいということです。各々の会員はもちろん、広く市民に呼びかけて大いに九条改正の狙いを実感を伴ったものとして広めていただけないものでしょうか。そうしてこそ、世論を改憲を阻む方向に大きく盛り上げていくことができると思います。

(五月集会での発言に大幅に加筆しました)



「安全・安心のための治安の強化」

に賛成する市民をどう説得するのか

千葉支部  守 川 幸 男


 はじめに ―問題意識

 山形五月集会の第三分科会「戦争と治安」に出た。安全・安心のためには監視や治安の強化もやむを得ない、と思っている市民も多い。団通信の昨年一一月一一日号で埼玉の大久保賢一団員は、「『安全』は武力によってしか守れないか」と題する論考を投稿して「スーパー基本権としての安全」と表現した。いったいどう説得するのか、ヒントがほしい。これが第三分科会に出た理由だ。

 私自身も自分の問題意識を発言したが、田中隆団員の問題提起や何人かの発言も参考になった。それらも踏まえて論点整理しておきたい。

 どう考えるべきか ―論点整理

(1) そもそも「安全・安心」を口実に監視や治安を強化することは、戦争目的である、すなわち、この国を戦争する国にするための国家改造と一体のものである、とか、アメリカの愛国者法ほどではないが、プライバシー侵害や各種の人権侵害をもたらす、とか、政治的、経済的な原因とその結果の関係をあいまいにするものだ、などと批判されている。この最後の論点は、テロの根源は貧困であり、この克服なしにテロを戦争でなくすことはできない、とか、教育の荒廃の原因を作っておいて、これを口実にして教育統制や重罰化、教育基本法の改悪をするのは本末転倒だ、などという批判と共通する。

(2) しかし、これらの批判だけでは足りない。これでは多くの人を説得し切れない。これらに加えて、端的に、監視や治安の強化は安全・安心という目的達成のために効果的なのか、いや、安全・安心のためには監視や治安の強化は逆効果である、と言えなければならない。これはなかなかむずかしい。似たような例として、前記の、テロで戦争がなくせるのか、とか、備えあれば憂いなし、は正しいのか、という論点がある。これについては、備えのあるイスラエルこそ憂いがある、とか、備えのないコスタリカはむしろ憂いがないではないか、などと反論する(実際にはこんな単純ではなく、もっとあれこれ説得するが)。平和のためには武力より丸腰の方が効果的なのだ、ということだ。しかし、「安全・安心」問題はもっとむずかしい。

(3) 結局、これらの情勢をトータルにとらえ、小さな安全・安心を守ろうとして、もっと大きな安全・安心、すなわち、平和や自由が根こそぎ奪われる結果をもたらすとか、市民がいつの間にか監視、摘発する側に回って、「異分子」の排除や、国家と国民の関係に変容をもたらすことになる、そんな社会になってよいのか、と説得するしかないと思う。これはやはり時間がかかり、むずかしいが、それ以外に簡単な答えはなさそうだ。

(4) その意味で今回の五月集会が、情勢をトータルに見るために、個別の分野に細分化せず三つの分科会だけにしたのは成功したのだろうと思う。

 「安全・安心」のための取り組みにどういう態度を取るか

 とは言え、現実に「安全・安心」をおびやかす事態はある。教育の荒廃の問題と同様だ。そこで、町内会などで民間パトロールだとか「ご近所の底力」への協力を求められたとき、日の丸・君が代反対のような対応はできない(これとて単純に反対すれば済むわけでもないが)。

 結局、第三分科会で強調されたように、崩壊した地域社会の再構築のためにいずれの側がより力を尽くせるのか、その中でどちらが信頼関係を勝ち取れるのかという、原則かつ柔軟でむずかしい対応が求められているのであろう。単純な反対ではなく、説得や連帯と、主体的に参加する立場に立つ必要があると言えよう。



靖国問題雑感

広島支部  井 上 正 信


 今年は第二次大戦終結六〇周年である。国連の呼びかけで「記憶と和解の年」の大規模な行事が開催された。改めて第二次対戦の総括が、戦後現在まで続く国際社会の出発点であったことを確認することが重要である。とりわけヨーロッパが約三〇年かけて統合の歩みを進めてこれたのは、ドイツによる戦争責任の追及と謝罪・補償、被侵略国との和解が決定的に重要であったことを指摘しなければならない。とりわけヨーロッパの歴史上ドイツとフランスは何度も大きな戦争を戦った敵国同士であったが、両国の和解がヨーロッパ統合の鍵であった。その様に歴史認識は国際社会の平和の構築にとって極めて重要な要素である。小泉の靖国参拝を巡り中国・韓国と日本との関係が最悪の状態になっているのもまさに日本の歴史認識が主要な原因である。

 日本が侵略戦争の責任をアジアの国々に対してとることが重要なことは論を待たないが、私は少し角度を変えて、国内問題としてみても大切なことであることを述べたい。それは私たち自身が未だ払拭し切れていない点であると感じているからである。

 靖国問題はA級戦犯を合祀していることが問題にされるが、そもそもアジア・太平洋戦争で戦死した兵士を合祀していることからが問題にされなければならない。戦没者は祖国のために犠牲になった者=英霊という呪縛にとらわれている日本人が多いのであろう。戦没者=英霊視から抜け出さない限り、小泉の靖国参拝に対する国民的批判は起こらないであろう。戦没者は戦争指導者の無謀な侵略戦争で無惨な殺され方をされた、犬死にをさせられたのである。

 一九四三年九月三〇日御前会議で絶対国防圏を決定し、日本軍は戦争での勝利を断念して戦略的持久にはいるが、絶対的国防圏から取り残され一〇万人の日本軍がいたラバウルをはじめ、ソロモン・マーシャル等の諸島の日本軍は見捨てられ、降伏も許されず戦争の帰趨に関係のない無駄な玉砕戦法で戦死させられた。ミッドウェー海戦で敗北したため、戦略上は無意味となったアッツ島守備隊は撤退できないまま玉砕し戦死させられた。

 マリアナ諸島が米軍に落とされ、制海・制空権を完全に失ったまま、本土決戦を遅延させ、「国体」護持=天皇制生き残りのためだけで、わずか半年(四四年一〇月から四五年四月)で、八年間の日中戦争での戦死者とほぼ等しい五〇万人が戦死したフィリピン戦線、同様の意図のもとに、県民一七万人を犠牲にした沖縄戦線、この両戦線で動員された特攻、これらの戦線での兵士の死様を見れば「英霊」などと美化は決してできない。無謀な戦争指導、無責任・無能な現地指揮官の作戦命令のため、食料・武器弾薬はなく(現地自活方針)、フィリピン戦線では五九万の将兵の内七八%、レイテ島では九七%が死亡した(大岡昇平レイテ戦記(下)二七九頁中公文庫)。その大半が戦闘での死亡ではなく餓死・病死であり、山下奉文直轄軍団では死者の九割が餓死・病死であるといわれている。

 この戦死者の無念の気持ちをはらすためには、戦争責任を徹底的に追及し、侵略戦争の真実を暴き、憲法の平和主義を完全実施する以外にはないであろう。

 戦没者=英霊視は、憲法の平和原則を徹底させる上で実に有害な役割を果たしてきた。それは

・元兵士達が持つべき過去の戦争への批判・疑問を封じ込める
・元兵士達に侵略戦争の真実を語らしめず、歴史的事実を隠蔽する
・戦没者遺族が当然持つべき戦争への怒り、批判、疑問を封じ込める
・戦争の最高指導者達(天皇と帝国軍隊統帥の中枢部)の戦争責任を免罪し、彼らの責任逃れを許す
・現地軍(方面軍・軍団・師団)の作戦指導者達の無謀な、誤った作戦指導への批判を封じ込め、彼らの責任逃れを許す
・総じて、日本人の侵略戦争への批判、疑問を封じ込める

 これらは戦後の保守政治・戦犯政治を支える役割を果たしたといって良いであろう。

 天皇を頂点とした戦争指導者達の戦争責任を私たち自身追及することがあまりに弱かったことが、アジア諸国に対する戦争責任を政府に果たさせることができなかった原因の一つではないかと思うのである。これを克服しないと、憲法の平和主義を実践するため例えば北東アジア共同体を構想しても、実現に向かうことはないであろう。改憲阻止運動にとって重要な課題ではないであろうか。



皇国少年から見た戦後六〇年(上)

山形支部  沼  澤  達  雄


 二〇〇五(平成一七)年度は、敗戦後六〇年と言われています。私達自由法曹団山形支部の結成も早くも三〇年経ちました。敗戦後六〇年も経つと戦争の悲惨や戦争時代の教育はどんなものであったか忘れ、憲法・教育基本法などが改悪されそうな政治的・社会的情勢になっています。

 私は、戦争中に教育を受けた者です。戦争中の教育は、天皇の為に戦死し靖国神社に神と祭られるという皇国少年の訓育でありました。私は、ある所で山形県戦没者の舟形町関係の名簿を閲覧しました。戦没海軍軍人の名簿に高橋恒男(以下高橋先生という)・昭和一九年一〇月二七日、戦死場所は、フィリピン諸島となっていました。私の記憶では、国民学校初等科の先生であって、私が初等科五年か六年時に教えを受けたと思われます。そこで手持ちの「舟形小学校・百年の歩み」によると昭和一七年から昭和一八年まで教職員として教鞭をとっていたことになっています。

 高橋先生は、何故在職期間一年であるかというと亡高橋先生は旧制中学を卒業すると代用教員として私達に教え、昭和一八年に海軍に志願したのです。その時の高橋先生は、私達教え子に「スサラ(舟形弁でお前という意味である)が海軍に来るときには少尉になっている。荷物せよいではない、正真正銘の少尉である。卒業したら俺の後に続け。」と言って出征していきました。

 私達は、何らの疑問を感ずる事無く高橋先生の言葉に励まされ高橋先生の後に続く事を誓ったことを記憶している。しかし、高橋先生は、一年後に戦死をしていた。私は、学校で高橋先生の戦死の知らせを聞いた記憶はない。

 私は、教育基本法の改悪の論議を聞いていると当時の学校教育に立ち戻り子ども達に皇国少年を訓育するような教育を狙っているような気がします。

 私の手許に今、二冊の「小学校の歩み」という雑誌がある。一冊は、舟形町立舟形小学校が創立百周年記念事業の一つとして発行した、舟形小学校「百年の歩み」であり、もう一冊は、新庄市立沼田小学校が同校創立八〇周年記念誌として発行した「沼田の八〇年」である。

 舟小の「百年の歩み」は、舟小が私が在学し卒業した学校であり、同校創立百周年記念行事のときにいくばくかの寄附をしたところそれの返礼として贈呈を受けたものである。沼小の「沼田の八〇年」は、私が昨年の暮に偶然に入手したものである。

 これらの「小学校の歩み」を読むと我々昭和一ケタ生れの人達は、教育の激動期の中で育ったものであるとつくづく感ずる。

 私は、昭和八年生れ、昭和一四年四月小学校入学、昭和二〇年三月国民学校初等科六年修了、同年四月に国民学校高等科一年入学、昭和二二年三月国民学校高等科二年を卒業したものである。

 この八年間の校名変更をみても、小学校入学当時の校名は、舟形中部尋常高等小学校であり、入学三年目の昭和一六年四月一日からは、国民学校令によって校名は舟形中部国民学校と変更になっている。さらに私が、国民学校高等科二年卒業年には昭和二〇年八月一五日の太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦に伴い連合軍の占領政策による学制改革が行われ、いわゆる六・三・三制となり、昭和二二年四月から舟形村(当時は村であった)中部小学校と三度校名変更となった。この学制改革により新たに五月三日から新制中学制度が発足し舟形中学校が設置された。これにより国民学校高等科制度は廃止された。

 私達、昭和二二年三月の国民学校高等科二年卒業生はいわゆる新制中学校三年生として舟形中学校に入学することができることになったが、三年生入学は義務制ではなく入学するかどうかは、本人の自由であった。

 私達の学年は、高等科二年の卒業生が男女合せて約百十名位いたと記憶しているが、新制中学に入学した者は約二〇名位で五分の一にも達せず、他の者は卒業と同時にそれぞれ就職し社会人として出発している。

 校名の変更が、校名の変更にとどまっているのであれば問題がない。私達の小学校在学中の校名変更は、ただ単に校名変更にとどまらず私達が教育の内容を根底から変えるものであった。

 私が、舟形中部小学校尋常一年に入学したのは昭和一四年四月であった。当時既に日中戦争ははじまっていた。私が入学した前年昭和一三年当時の舟小「百年の歩み」をみると、国家総動員法が公布されている。それに伴い舟形小学校は、教育目標として「国民精神総動員の学校目標を立て日本精神の顕現をつとめた」とされている。

 舟小「百年の歩み」には、国民精神総動員の学校目標がどのような内容であったか、そしてどのような教育を実践したのか全くふれられていない。

 私のおぼろげな記憶によると、私達の受けた教育は「日本国は、神様である天皇(現人神)が治める神国であり、世界でもっともすぐれた国である」とか「お前らは、天皇の赤子である。天皇のために戦に行き戦死すれば、神として靖国神社に祭られる。これが親に対する最大の孝行である」などと、学校教育は、天皇中心、戦争中心であった。

 この時代の小学校教育について、昭和七年に小学校入学、高等科二年卒業後一六歳で海兵団に少年兵として入団し、水兵として艦隊勤務を命ぜられ、昭和一七年には戦艦武蔵に配属され、その間何度か海戦に参加し昭和一九年一〇月のレイテ沖海戦で乗艦の武蔵の撃沈により九死に一生をえた体験をもっている、渡辺清氏は、当時の小学校教育について、「ぼくが小学校にはいったのは昭和七年ですが、すでにかなり徹底した皇国民教育というか、軍国主義教育が行われていましたから、ぼくはそういう教育をもろにかぶって育てられた世代の一人だと思います。まあ、いってみれば純粋培養されたみたいな皇国少年だったわけです。」(私の天皇観二一七頁。点は筆者)と語っている。そして、自分が海兵団に入団した動機について、当時の心境をいま動機論的に一応要約してみると、「俺みたいな百姓の子だって兵隊になりゃ偉くなれるんだ。」(出世意識)「国を守り天皇陛下に尽せるのは兵隊だけなんだ。」(忠誠意識)そして「その兵隊で死ねば俺みたいなやつでも天皇陛下がお詣りしてくれる。靖国神社の神様になれるんだ。」(価値意識)ということだろうか。こうしてぼくは、幼時から「国家の規格品」として身ぐるみ兵隊につくられていたのだ(同書八頁)と述べている。

 渡辺清氏が、述べているように、皇国民教育や軍国主義教育は、昭和一五年頃までは「かなり」と言えるものであったものであろうか。この頃までは、小学生を「皇国少年、国家規格品」化の教育が行われていたが、いくらかはまだ、小学生を人間として育成するための教育が行われていたのではないかと思われる。

 私の記憶でも、昭和一四、五年頃までは私の小学校において、皇国民、軍国主義教育が行われていたが、国民学校に校名変更後のように小学校の五、六年生や高等科の生徒が、学校の授業を放棄させられ勤労奉仕の美名のもとに、道路の補修工事や燃料、食糧増産のために亜炭の運搬や荒地の開墾等に狩り出され学校ぐるみ強制労働に従事させられることはなかった。又、小学生の軍事教練や教師の生徒に対する体罰なども行われたかどうか私にはあまり記憶がない。私に記憶がないところをみると小学校では、軍事教練や教師の体罰などはあまり行われていなかったと思われる。

(今号と次号で沼澤団員(山形支部)の「皇国少年から見た戦後六〇年」を『自由と人権 山形の三〇年』から転載させていただきます−編集部。)



勝利報告

〜富津産廃処分場建設等差止請求事件

千葉支部  馬屋原   潔


 団通信一〇五〇号で御報告した富津産廃処分場建設等差止仮処分事件であるが、起訴命令の申立てがされたので、本案に移行した。そして、本年五月一二日に、千葉地方裁判所木更津支部民事部合議係(仲戸川隆人裁判長)は、処分場の建設及び使用、操業の差止めを認める原告勝訴の判決を言い渡した。

 本件に至る経過は前記団通信の通りである。仮処分段階で争点となっていた、(1)本件処分場に有害物質が混入する可能性があるか、(2)本件処分場内に混入した有害物質が処分場外に流出するか、(3)流出した有害物質が地下水汚染等により住民の健康に被害を与えるか、あるいは周囲で営まれている農業や漁業等に影響を与えるか、(4)保全の必要性があるかの四点については、(4)が差止め等の必要性になった以外は本案でも争点となった。

 また、本案ではさらに二点が問題となった。

それは、(5)平成一〇年改正廃掃法の適用を受ける処分場の安全性をどう評価するか(改正後の安定五品目自体に危険性があるか、マニフェスト導入により安定五品目以外の汚染物質混入の危険性が否定されるか)、(6)代替施設(簡易水道、公営水道、水密コンクリート吹きつけ)により被害が回避されるか、である。

 (2)、(3)、(4)については仮処分段階の判断がほぼ踏襲された。

 そして、(1)及び(5)については、安定五品目の危険性自体は否定されたものの、中間処理施設等で分別し尽くせるものではなく、また、マニフェストによって有害物質を把握し尽くせるものでもないので、本件処分場に安定型産業廃棄物以外の有害物質が混入することは不可避であると明確に判断した。

 (6)については,簡易水道の水源井の汚染の危険性等を具体的に判断して、代替施設による被害回避可能性を否定した。また、被告は透水性の高い地層には水密コンクリートを吹き付けるので安全と主張していたが、実効性に疑問があると一蹴した。

 仮処分段階では我々の理解が不十分であった地下水の挙動に関する理論(動水勾配等)に関しても、かなりの補充を行った。そして、協力していただける学者の方とともに現地調査を積み重ねていった。また、原告団からも情報を提供してもらい、自分らの足で拾い集めた資料を積み上げていった。

 このようにして積み上げていった資料と理論が整合することを具体的に明らかにしていったのである。

 そして、このような立証を我々が積み重ねていく中で、裁判所も現地進行協議期日をもうけ、現地の状況を見たのである。このことの意義は大きかったと思われる。

 本案でも田久保団員、井出団員がそれぞれの持ち味を生かした活動をした。私を含め三名とも証人尋問を行ったが、三人三様であり、それぞれの個性がよく表れた尋問であったと思う。

 私の性格からすれば、それぞれの尋問のコメントを書きたいところではあるが、まだ係属中であっておちゃらけたコメントをしている時期ではないので、全面勝利解決し楽しく事件を振り返ることができる日までそれは控えておきたい。

 千葉県内で安定型処分場の操業等の差止めが認められたことはおそらくは初めてである。また、平成一〇年改正廃掃法の適用が問題となった安定型処分場の差止め訴訟は全国でもまだ例は多くないと思われるので、各地の戦いに対する千葉からのエールになるであろう。

 被告は報道各社の取材に対し控訴することを明言している。

 控訴審でも勝利するのみならず産廃行政の転換をもたらすことができるよう、原告団・弁護団一丸となって裁判内外の運動をいっそう強化していく決意である。