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秋山 健司 二〇〇五年団五月集会に参加して
菅野 園子 五月集会に出席して
藤田 温久 大船自動車学校解散解雇事件 控訴審でも全面的勝利判決
「退職届を出さない者は営業譲渡先の会社に雇用しない」は無効!
萩尾 健太 六・九 鉄建公団訴訟シンポジウムが明らかにしたもの
古本 剛之 小森先生をお呼びしましょう!
──「いま憲法九条を輝かせるとき」小森陽一講演会の報告
沼澤 達雄 皇国少年から見た戦後六〇年(下)




二〇〇五年団五月集会に参加して

京都支部  秋 山 健 司


 今、憲法九条が攻撃を受けている。かつてない程にその攻撃が強まっている。そのような緊迫した状況の中で、今年の五月集会は開催された。私は、京都においては、同じ京都支部所属の井関団員と共に、「憲法九条改悪に反対する一三〇万人署名活動」に実行委員として参加している。そのため、自分は,憲法問題情勢についてはそれなりに通暁しているという気持ちをもっていたと思う。そのような気持ちを抱きつつ、山形会場に足を踏み入れた。

 しかし、各地の団員から様々な具体的報告を受け、「あ、そうだったのかー。熱い思いを抱きつつ、情勢を冷静にかつ具体的に捉えた上行動されているのだなぁ。」という思いをさせられる場面が数多くあったように思う。

 矛盾する面があるが、自分の場合、熱い気持ちを持つ人々が多い自由法曹団の中では、まだまだ人生観、それを実践するための理論武装の確立が弱いという自覚(?)があるのも確かだったのである。 京都支部の先輩である川中団員からは「秋山君は、大局観というものがないんだなぁ。」と辛口コメントを頂いているような状態なのである(苦笑)。しかし、同室だった同期の田場団員から、「自由法曹団に所属することで、自分探しを続けることが可能になるんだ。」と言われ、ここでまた「はっ、そうか。団員として活動していく中で自分の大局観も作り上げていけばいいのだな。」と思えたのだった。多くの人々の血が流された果てにできあがった憲法九条を大切にしたいという気持ちは自分の中に確かにある。あとは、自分の目で見て考えた上、自分なりの護憲、平和活動を追求していけばそれでいいのだ、と思えたのだった。このように、この集会では、いろいろな方からいろいろなサジェスチョンを受けることができた。それが何よりもの収穫であったと思える。

 ここで、少し、今集会でのいくつかの場面を思い起こし、振り返ってみようと思う。

 開会の最初の時、坂本団長は、自分がイラクの人間であったら、と言う気持ちでイラクの実相を見てみる、そういうことができる心をもって日々生きていくことが大事だという趣旨のことを述べておられたのが印象に残る。つまり、被災している人々になった気持ちで被災状況を考えることが大事だということである。一言で言えば被災者の身になって考えることが大事であるということである。この気持ち、自分は昔から抱いて生きてきていたつもりであった。しかし、正直なところ、ここの所の自分は、日々生起する事件に思い悩み、なかなか処理を進められない中、そのような気持ちを持ち続ける意識が弱かったように思う。しかし、今回の集会でその気持ちが消滅時効に罹ることを防ぐことができたようだ。団長の言葉は、時効中断事由であった。自分にとって、団の集会は、平和のための時効中断の機会となるものであるという気持ちが強くしたのであった。

 分科会(第一)での発言を聞いていると、憲法に対する攻撃の熾烈さが肌身に伝わってくる思いがした。しかし、憲法改定の鍵を握る国民の中では、自衛隊を海外に派遣して武力行使をさせること自体について賛成する人は一五%しかいないということもここに来て知ることができた。京都に戻ってから、自衛隊を海外に派遣して武力行使をさせることにつながる憲法九条二項の明文改憲を許してはならないのだということを訴えかけていく元気を得ることができた。

 今回の集会では、明文改憲の動きだけではなく、有事法制制定、自衛隊法改変、米軍と自衛隊の一体化、教育基本法の改変問題、日の丸君が代強制という、憲法以下の法令制定、行政機関の行動による憲法攻撃の実態にも目を向けさせてもらった。

 国民投票法案に関しては、ワンパッケージ方式が企まれていることが報告されていた。環境を保護する規定だけ改訂することに賛成するということはできないのだという問題点も、自分が講師を務める憲法学習会等ではっきりと伝えて行かなくてはいけないものだと思えた。

 そして最後に、人権の中の人権と言われる内心の自由、それと密接に結びつく表現の自由に対する圧殺が、日の丸君が代強制問題、ビラ配り弾圧という形で顕れていることが鮮烈に頭に残った。自分は、教職員であった母に支えられて司法試験にチャレンジし続けてきた。なかなか芽が出ない自分を、母はいつも暖かく精神的、経済的に支えてきてくれた。母が再雇用の年限を迎えた年、私はかろうじて試験に合格した。もし、私の受験中、母の再雇用期間中に、現在の日の丸君が代問題が起きていたらどうなったであろうか。母は間違いなく処分され、解雇されていたに違いない。そうなったら私も受験を続けることは困難となっていたことであろう。そう考えるととても危険な事態が進行しているのだと思えてくる。弁護士の仕事は、正直なところ、自分にとっては苦しい仕事ではある。しかし、この仕事に就くことができなくなっていたらと思うとやはり恐ろしいのである。ましてや、母の思想の自由が侵害された結果自分の受験の道が絶たれていたかもしれないのだと思うと、ますます恐ろしいことだと思うのである。今も、再雇用されている先生と、その先生に支えられて受験生活を続けている人がいるかもしれない。そのような先生、受験生のためにも、自分は何かできることから頑張らなくては、と思ったのであった。

 集会で得られた力、熱意を元にして、これからまた頑張っていこうと思う。The Long and Winding Roadかもしれないが、いつかは、真に平和な世の中、人権が花開く世の中へのドアにたどり着けるはず、と信じて地道に頑張って行かなくては、と思う。

 全国の仲間の皆さん、体に気を付けつつ、共に頑張りましょう!



五月集会に出席して

東京支部  菅 野 園 子


初めての団五月集会に参加して感じたことを羅列すると、

(1) まず、とてもたくましく活きのいい弁護士の集まりだと感心しました。
(2) みんな話が上手、特にだらだらと話だけが長い人がいなかった(これは会議では感動的なことだと思います。)
(3) テンポもいいし、端的に実際的で内容のある話ができる人が多かった(どこで鍛えているのでしょうか?)
(4) 話を聞いていて、かなり様々な事実を深く掘り下げて分析していると感じました。私は第三分科会に参加していたのですが、「安心、安全まちづくり条例がなぜ各地で制定されているかについての議論」人それぞれ違うなりに、一〇年後、二〇年後の将来を見据えたもので大変参考になりました。
(5) 話し手が熱心であるのと同じぐらい聞き手も話を熱心に聞いている(これも、集団の会議ではまれなことだと思います。話し手と受け手の距離が大変近い会議だという印象を受けました。)
(6) 会議進行も緊張感があった。

 ここから参加してみて大変有意義な会議であったことが分かることと思います。

 私は五七期で、まだ弁護士になって七ヶ月ですが、今回半年ぶりに同期に会ってみんな徐々に弁護士独特のあくの強さを身につけていることが分かり、頼もしいような複雑な気持ちになりました。

 さて、私は第三分科会に参加しました。社会はどうなってしまうのかなあと空恐ろしくなりました。これからは、権力者側からの一方的な制限ではなくて、権力者側が市民の焦燥感や、不安感をあおって、市民と市民が相互に自由を制限し、監視しあう社会になっていくという印象を受けました。市民の利益を守るために、「安心、安全まちづくり条例」を制定する、市民の自由や生命を脅かすテロリストについては、徹底的にやっつけるために弁護することも許さない(リンスチュアートの場合)、市民の持っている素朴な正義感に上手に訴えかける手法は過去にもあったはず…。

今の人たちは忙しいし、多分政府が自分たちを守ってくれるという根拠のない善意のためにあっという間に偉いことになりそうではないですか。行く先は戦争かも知れないというのもかなり説得的です。

 私が今やっている中国の遺棄毒ガス事件(八・四チチハル遺棄毒ガス事件)も究極的にはこんな戦争被害を二度と起こさないというのが目的です。戦争の被害を回復するのは戦争をするより何倍もしんどいことなのに…。と、かなり危機的な気持ちにさせられました。こういったことにも目を配り時間に流されて後悔しないようにしたいと思いました。



大船自動車学校解散解雇事件

控訴審でも全面的勝利判決

    「退職届を出さない者は営業譲渡先の会社に雇用しない」は無効!

神奈川支部  藤 田 温 久


 大船自動車学校解散解雇事件につき、東京高裁第一四民事部(西田美昭裁判長)は、二〇〇五年五月三一日、原審に続き再び、労働者側の全面的勝利判決を言い渡した。

 事 案

(1) 全株式の取得 

 (株)勝英(岡山県、以下「勝英」)は、二〇〇〇年一〇月三一日、大船自動車学校(「湘南センチュリーモータースクール」に名称変更)を経営する大船自動車興業(株)(以下「大船興業」)の一〇〇%株主である三丸興業株式会社が所有する大船興業の株式を全部取得した。

(2) 突然の解雇予告と退職届

 新経営陣は、全従業員に対し、一一月一六日、「一一月末日までに退職届を出さない者は一二月一五日をもって大船興業を解雇する。一一月末日までに退職届を出した者は、勝英に正社員または契約社員として雇用し大船興業に出向させる」旨を労働者に通告した。

 しかし、退職届を出すことは、勝英の劣悪な労働条件への切り下げ(労働時間の大幅延長、大幅な減給)、「全員課長」(全く部下のいない名目だけの一人課長にして残業代不支給、組合脱退を図る)を認めることに他ならず、自交総連神奈川県自動車教習所労組大船自交支部(以下「大船支部」という)は退職届を提出せず、団交を求めたが、新経営陣は拒否し続けた。

(3) 営業譲渡と解散

 大船興業は勝英と、一二月一五日、「湘南センチュリーモータースクール」の営業全部を譲渡する契約を締結した(以下「本件営業譲渡契約」)。

 また、大船興業は、前同日、臨時株主総会で、本件譲渡を承認し、同社の解散を決議し、解散にともない、大船支部員らを全員解雇した。

 一二月一六日、退職届を出した従業員は勝英に雇用されたが、大船支部員らは雇用されなかった。

 原審判決

 九人の大船支部員が勝英に対し地位確認と、未払賃金支払などを求め提訴し、二〇〇三年一二月一六日、横浜地裁第七民事部(福岡右武裁判長)は、以下の通り、原告ら全面勝利の判決を言い渡した。

 判決は、以下のとおり認定しました。

(1) 解雇の効力 

 (1) 大船興業と勝英は、遅くも本件営業譲渡契約締結時までに○a「営業譲渡にともない従業員を移行させることを『原則』とする」、しかし○b「相当程度の労働条件切下げに異議のある従業員を個別に排除する『目的』達成の『手段』として、退職届を出した者を(株)勝英が再雇用し、退職届を出さない者は解散を理由に解雇する」と合意した。

 (2) (1)の合意は、○aは有効だが、○bは民法九〇条(公序良俗)に反し無効である。

 (3) 営業譲渡契約中の「(株)勝英は興業の従業員の雇用を引き継がない。但し、一一月三〇日までに再就職を希望した者は新たに雇用する。」との規約は、(1)の『目的』に沿うように符節を合わせたものであり、同様に民法九〇条(公序良俗)に反し無効である、

 (4) 以上、原告らに対する解雇は、形式上解散を理由にするが、(1)○bの『目的』で行われたものであり解雇権の乱用として無効である。

(2) 労働契約の承継の有無

 原判決は、営業譲渡にともなう「当然承継」は否定し、譲渡人の譲受人の特別の合意を要するとした上で、(1)(4)により原告らは解散時に興業の従業員としての地位を有することになり、(1)(1)の合意○aの『原則』通り営業譲渡の効力が生じる二〇〇〇年一二月一六日に労働契約の当事者として地位が勝英との関係で承継される、とした。

 控訴審判決(本判決)

 本判決は、原審の判決のうち、(1)解雇の効力 (2)労働契約の承継の有無についての判断は、全面的に支持した。

 他方、会社側が、控訴審になってから本格的に主張し始めたバックペイの減額を図る主張について、新たに正当な判断を下した。すなわち、会社は、バックペイ算定の基礎としての平均賃金額算定に当たって、(1)現実的に勤務して初めて認められるものである時間外手当及び休日手当、(2)教習内容、時間により支給される路上教習手当、高齢者教習手当、(3)実費保証手当である食事手当等を、控除すべきことを主張した。しかし、本判決は、(1)(2)(3)各手当の意義を分析した上で、会社の責めに帰すべき労務の提供という債務の履行が不能であることから、会社は民法五三六条二項本文により賃金支払義務を負うのであり、労働者らが現実に労務に従事することができないことは民法五三六条二項本文が適用される場合に当然に予定されているところであるから、現実に勤務しないことを理由に(1)(2)(3)各手当を平均賃金額算定の基礎から控除することはできない、としたのである。

 本判決は、本判決確定までのバックペイを認め、かつ仮執行宣言を付した。

 本判決の意義

 先ず、労働条件の大幅切り下げリストラ・合理化に抵抗する労働者の排除を達成する手段となっている「解散」「営業譲渡」を譲渡人と譲受人との合意、営業譲渡についての実態に則した明快の意思解釈によって断罪した画期的な原審を一切の後退なく支持したことである。

 次に、違法な解雇をした会社が、労働者が現実に勤務することを条件に認められる手当はバックペイの基礎にできないという破廉恥な主張を明確に退けたことである。この結果、二時間分の残業が常態となっている自動車教習所労働者のバックペイの水準は確保された。

 また、中間利益については、平均賃金額の六割を超える部分から当該賃金の支給対象期間と時期的に対応する期間内に得た中間利益の額を控除することが許されるとしたものの、原審において、将来分については四分の三を越える限度でのみ執行停止を認められたことにより原審以降支部員の中間収入がほとんどなかったこともあり、控除は最小限にとどまったのである。

 現 状

 弁護団は、直ちに、会社取引銀行等に仮執行をかけ、本判決で認定されたバックペイ全額を確保した。しかし、勝英は、上告し、なおも争う構えである。

 しかも、勝英は控訴審継続中(和解継続中)に、あらたに(株)湘南センチュリーモータースクールという会社を設立し、「湘南センチュリーモータースクール」を再び営業譲渡した。勝英に対する勝訴が確定しても支部員らを職場へ復帰させないため、更には遠方へ配転するための悪辣な策謀である。

 しかし、連戦連勝を続ける神自教労組、当該支部団員と弁護団は、いかなる策謀も打ち破り職場へ復帰する決意を新たにしている。

 なお、弁護団は、坂田、大田、高橋(横浜合同)、小賀坂(馬車道)、神原、藤田(川崎合同)です。



六・九 鉄建公団訴訟シンポジウムが明らかにしたもの

東京支部  萩 尾 健 太


 さる六月九日、鉄建公団訴訟の法的論点に関するシンポジウムが、「不当労働行為責任を問い時効論を切る!」と題して、以下の陣容によりエデュカス東京にて開催された。

 パネリストの西谷敏教授(大阪市立大学大学院法学研究科)は、シンポジウムの中で語ったとおり、マル生闘争との出会いが労働法学者としての原点であり、以前から国鉄労働組合と関わり合いを持ち、大阪不採用地労委事件で意見書を提出し、それが全国初の救済命令につながったという、国鉄闘争に関わる労働法学者を代表する一人であるとともに、労働法全般について労働者保護の立場から研究してきた。

 同じくパネリストの松本克美教授(立命館大学大学院法科大学院)は、国や企業の民事責任の追及を研究テーマとして、じん肺、戦後補償などの裁判では、争点とされた消滅時効についての意見書を作成するなど、多くの事件に関わってきた気鋭の民法学者である。国鉄闘争への関わりは、今回、鉄建公団訴訟で消滅時効についての意見書を作成したのが初めて、とのことであった。

 このお二人にパネリストを引き受けて頂いた時点で、今回のシンポジウムは既に十分に意義のあるものとなった。本件の二大争点は解雇無効と消滅時効であるが、お二人の当日の発言は、それらを解明する視点を明らかにし、原告弁護団が説明した原告らの主張の位置づけを明確にし、運動の展望をも示すものであった。

 西谷教授が報告した内容は、私の理解に基づき無理に要約すると以下の通りである。

 マル生闘争で勝ち取られた現場協議制と様々な慣行は、基本的には国鉄労働者の権利・地位を向上させるものであった。しかし、当時の労働運動の中核であった国労などを潰そうとした政府は、現場協議制度などを「ヤミ・カラ・ポカ」の温床と攻撃し、国鉄分割民営化を遂行した。この分割民営化の政治性を受けて、国鉄改革法は国鉄による採用名簿作成と新会社による採用に採用過程を分離するきわめて政治的な特異な構造を持っていた。

 この政治的な法律をそのまま形式的に解釈することは、政治的な結論を導く。しかし、地裁・高裁・最高裁判所は、そのような解釈で、地労委、中労委で認められた国労組合員らの救済を取り消した。そこには憲法二八条(団結権)を尊重するという発想はない。しかも、「国鉄は新会社設立委員の補助者として名簿を作成した」との国会での説明は便宜にすぎない、と国会を軽視する判決であった。その判断枠組みを批判しなければ勝利の展望はない。

 すなわち、国鉄改革法はそれ自体が団結権破壊の政治的な方である点を踏まえて、団結権擁護の観点で実質的に解釈すべきである。団結権思想はILOでも確認された国際的な大原則である。これが広く国民に定着し、世論が高まれば、JRに実際に責任を取らせることも不可能ではない。少なくとも、最高裁多数意見も認めたように、鉄建公団が実質的な責任を取らなければ、著しく正義・公平に反することとなる。そうした観点で重要なのは少数意見である。最高裁判決の少数意見や補足意見が多数意見に転化することは、全逓東京中郵事件やホテルオークラの事件の例があり、鉄建公団訴訟でも、団結権尊重の観点で実質的に判断した少数意見を足がかりに、団結権思想を世論に拡げる中で、鉄建公団の責任を追及する必要がある。

 この発言を受けて、清水建夫弁護士(鉄建公団訴訟常任弁護団)は、一九九〇年の解雇無効について、新会社と清算事業団との振り分けに差別=不当労働行為があった以上、再就職特別措置法による「再就職を必要とする者」との指定により清算事業団職員を不利益な地位に置いたことも不当労働行為であり、その「指定」が無効となるから、「指定」を前提とする三年経過による解雇も本来なしえず、無効である、と原告らの主張を説明した。

 さらに、加藤晋介弁護士(鉄建公団訴訟弁護団主任代理人)は、再就職特別措置法の趣旨は、中曽根が「路頭に迷わせない」と言ったとおり、国鉄職員の職を奪う代償として再就職させるという憲法二九条三項の趣旨によるものであり、不当労働行為=団結権侵害によって解雇した以上、本来、原状回復としてJRへの就職斡旋がなされるべきところ、まともな就職斡旋もしないまま解雇した行為は違憲・無効であると述べた。

 フロアーから佐藤昭夫弁護団長が、奪われたのは憲法二七条(勤労の権利)という重大な権利であり、団結権侵害が認定されて労働委員会の新会社採用取り扱い命令も解雇以前に出されており、そうした状況の下では期限切れ解雇は認められるべきではなく、再就職特別措置法にも附則にも解雇は定められていないことから雇用は継続されるか、附則の規定を活用して特別措置を延長すべきであり、解雇は無効であると述べた。

 次に、消滅時効論について、松本克美教授が以下のように報告した。

 損害及び加害者を知ったときから三年で損害賠償請求権は時効で消滅するが、不採用・解雇から一〇年以上経過した本件では、その起算点が問題である。清算事業団が原告らをJRに採用斡旋する義務違反という不法行為はまだ継続しており、個人の尊厳を傷つけられた損害は時がたつほど重大になるのだから、まだ起算点は来ておらず、時効消滅しない。例としてハンセン病訴訟熊本判決がある。

 請求があれば時効は中断するが、本件では労働委員会への申立がなされている。迅速解決のための労働委員会への申立を先行したために、その後の裁判での請求が時効となっては労働委員会制度の趣旨に反するから、中断が認められるべきである。

 時効は良心規定であり、当事者が援用しなければ裁判所が勝手に適用することは許されない。その制度趣旨は、権利の上に眠れる者は保護しない、法的安全性、証拠収集・採証の困難などだから、加害者が権利行使を妨げた場合には、援用は権利濫用と言える。本件では、加害者国鉄が、差別の責任の所在を不明確にする国鉄改革法を策定したのだから、国鉄を承継した鉄建公団が時効を援用することは、著しく正義に反し権利濫用である。

 これを補足して加藤弁護士は、裁判で鉄建公団側は、国鉄宿舎明渡裁判での主張や国労本部からの内容証明郵便から、原告らは鉄建公団の責任が分かっていたはずだと主張してきたが、民法の権威である星野英一も時効とは本来真の権利者を救うための制度であってそうでない場合に安易に適用すべきでないと述べている。原告らが当初職場復帰を求めて労働委員会闘争を優先したのは当然であり権利の上に眠ってなどいない、国営企業労働委員会でも国鉄に使用者性はないとの判断がなされ原告らはそれに従ったまでと主張した。

 清水弁護士は、一九八七年二月一六日の不採用通知の際に、職場管理者らは「設立委員の決めたことで私たちには分かりません」と責任逃れし、国鉄が団体交渉も拒否したことを指摘し、本件を責任を取る者がいない怪談にしてはならないと訴えた。

 会場から川副詔三氏が自らの組合オルグの経験も踏まえて、解雇無効も時効援用権濫用もいずれも前提として団結権侵害の不法性を強調する必要があると発言した。

 それをうけて、西谷教授は、国鉄分割民営化を知らない若者も増えてきている今日、分割民営化、団結権侵害の事実に遡って、団結権の重要性を浸透させる必要があると訴えた。

 最後に、松本教授は、何のための団結権なのか、個人の尊厳のための団結権であり、それが侵害された本件は、時効援用が正義に反して権利濫用とされる典型例の一つだと思う、本件が救済されなければ、日本の司法は終わりである、と強調した。

 西谷氏の述べた団結権思想の定着のための鍵は、冒頭上映された福知山線事故に象徴される安全問題にあるだろう。利用者の安全のためにも使用者をチェックしてきたのが労働組合であり、その役割は見直されてきている。他方、原告らは安全軽視儲け優先の分割民営化に反対する組合所属のために首を切られたのである。松本教授の指摘した個人の尊厳のための団結との観点は、まさに「統一と団結」の名の下に個人を潰されることを拒否した原告らの闘いに当てはまるものである。そうした団結にこそ今日広く定着していく可能性があるだろう。

 シンポジウムは、その高度な内容にも拘わらず、会場満員の二五〇人の聴衆にもわかりやすく、鉄建公団訴訟への確信を深めることができた。日本の司法が絶望的なものとならないよう、さらに闘いを強めよう。

 七月一五日(金)には、学者・文化人の呼びかけで左記の集会が開かれます。是非、ご参加下さい。

● 国鉄労働者一〇四七名の解雇撤回! 原告団・闘争団・争議団を励ます七・一五全国集会 ──ふたたび大惨事を許すな! かちとろう! 鉄建公団訴訟勝利判決を!──

 18時会場、東京都・日比谷野外音楽堂(地下鉄霞ヶ関駅)無料

連絡先:国鉄・JR問題研究所 芹澤寿良

          (高知短期大学名誉教授 090-6659-6352)



小森先生をお呼びしましょう!

──「いま憲法九条を輝かせるとき」小森陽一講演会の報告

大阪支部  古 本 剛 之


 六月八日、大阪の人情味あふれる下町、西成に「九条の会」事務局長の小森陽一先生をお招きして、講演をしていただきました(木津川地域連絡会主催)。小森先生はご多忙で、講演会当日の朝にアメリカから戻られ、時間ギリギリの乗り継ぎを経て会場に駆けつけて下さることになりましたが、それでも二時間を超える熱いお話しをしていただきました。

 小森先生のお話は、憲法は、国民が守るための法として存在するのではなく、国家に守らせるものだ、ということの確認から始まりました。そして、これまで憲法九条が果たしてきた役割、なぜ、いま九条が変えられようとしているのか、いまの九条を取り巻く現状などについてお話し下さいました。

 小森先生は、まずは聴衆に世界地図を思い描かせ(ここでのテクニックは巧く、聞いていた弁護士が皆、これを盗もうと決意したぐらいです)、現在の世界情勢、歴史的な流れを、冗長にならずにポイントを押さえてわかりやすく話されました。時折笑いも交え(大阪的には、これは評価高し!)、飽きることなく聞いているうちに、あっという間に終了時間でした。非常に乱暴な要約かもしれませんが、「アメリカの世界戦略のためにイラクで戦争が起き、同様に世界戦略の一環として、今はアメリカは中国を睨んでいる。中東では戦争が続いてきたが、東アジアでは北朝鮮のような国を抱えながらも、近年戦争は起きていない、これを支えるものとして日本の憲法九条も一役を買っている。今後も戦争が起きないよう、憲法九条を生かさねばならない。」といった下りは、聴衆の心を鋭く掴んだことでしょう。ここから、改めて運動が盛り上がることは必至です(?!)。(これでは、なんのことは分からないと思われた方、ぜひとも小森先生のお話をお聞き下さい。)

 小森先生は、本業としては日本近代文学を研究されており、言葉の専門家として、言葉を大事にされるので、そのお話しは、とても感銘を受けるものであって、盗みどころ満載です。「しばらくは土日がない」と言われるほどに日本中(日本以外にも)あちこちに出かけられて講演をされており、「憲法九条を輝かせる」べき国民運動を作るために奔走されています。 絶対に聞いて損はしないお話しですので、ぜひとも小森先生を今まで以上に日本全国にお呼びして、その言葉に酔って下さい。酔った後は、その言葉を自分の身に吸収し、新たな運動へのエネルギーとしていきましょう。



皇国少年から見た戦後六〇年(下)

山形支部  沼  澤  達  雄


 昭和一六年三月一日国民学校令が公布され、四月一日から尋常高等小学校は国民学校にかわった。国民学校は、初等科六年と高等科二年からなり、その目的は、「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことにあった。教育内容は、教育勅語の精神をよりいっそう徹底的に教え、国民科(国語、修身、国史、地理)文部省教学科がつくった「臣民の道」や、日本主義精神や、万世一系の天皇の統治を絶対視する皇国史観が幅をきかせ、神話や伝承が歴史的事実として教えられた(木坂順一郎・太平洋戦争一五九頁)。これは、尋常高等小学校の教育では、皇国少年、軍国少年に育成するにはものたりぬから、学校名を変更して小学生を徹底的にしめ上げて皇国少年、軍国少年としての「国家の規格品」に作り上げようとするものである。

 私の舟形尋常高等小学校も、昭和一六年四月一日から舟形中部国民学校になった。舟小「百年の歩み」によると、国民学校の教育目的も「国民精神総動員の学校目標」から「戦時教育の徹底をはかる」ことに変った。教育内容は、「日本精神の顕現」や「時局に対応する教育」から敬神崇祖、尽忠奉公、勤労愛好の精神を強調することに変った。

 敬神崇祖とは、神を敬い祖先尊ぶということであったが、ここでいう神とは天皇であった。私は、小学校三年生のときから国民学校初等科三年に変ったが、その頃から宮城遙拝や神社参拝を度々行わされた経験がある。とくに記憶にあるのは、奉安殿に対する礼拝である。

 私の舟形小では、奉安殿の設置されたのは昭和一一年となっている(百年の歩み、三八頁)。「百年の歩み」では、奉安殿が奉安庫となっているので奉安殿というのが私の記憶違いかと思って「百年の歩み」を調べてみたら「昭和の小学校風景を語る」のなかで、私より五年上の同氏も「校庭の東側に天皇陛下のご写真と、教育勅語を保存する奉安殿があり登下校には決まって脱帽敬礼をした」と記してあるし、又元教員であった太田千代子氏も「終戦までは、どこの学校でも天皇、皇后両陛下の御写真「御真影」を保管しておく奉安殿がありました。」と記している(山形放送編著、聞き書昭和のやまがた五〇年一〇四頁)。このことをみても、私達は小学生時代に奉安殿と教えられていたことは間違いのない事実である。

 ところで「沼田の八〇年」では、ごていねいにも奉安殿を奉安庫と表題のもとに一節を設けている(四八頁)。私達が、戦時の小学生時代に奉安殿と教えられていたものが、何故敗戦後に奉安庫と名称が変って、小学校史に記載されているのか、私には理解できない。

 私によれば、これらの小学校史を編集された人達は良識の方達だけと思われる。奉安殿となると大仏殿とか何んとか殿と同じように神社や仏閣と間違えられると思い奉安庫と変えて記載したのではないか。悪くかんぐれば、これらの編集者は天皇を神として小学生に教育した過去の歴史を抹殺しようとしているのではないか。現在憲法を改正し天皇を再び元首にしようとする動きもあるときに、いかに地域のなかの小学校史といえども許されるべきことではない。

 私にとっては、奉安殿は天皇を現人神として祭る神殿であった。私達小学生は、登下校の際には、必ずこの奉安殿に最敬礼させられたものである。太田さんがいうような単なる御辞儀といったものではない。私は、あるとき授業に遅れるので走りながら奉安殿にピョコンと頭を下げて教室に入ったのを教師に見つかりコッピドク教師に殴られ、再び奉安殿の前まで連れて行かれ最敬礼をさせられた苦い経験がある。それは単に頭を下げるなどということは、神に対する冒?であることに対する制裁であったと思われる。

 尽忠奉公とは、神である天皇に忠義を尽すことであった。最大の忠義は、兵隊となり戦場で戦死することであった。これが、臣民であると私達小学生は教わっていた。では、このよう皇国少年を育成する方法は、どんなものであったか。皇国少年を育成する方法について「沼田八〇年」は、国民学校発足当時の校長が次のように載せている。

 国民学校となって皇国の道に則る皇国錬成の道場として再出発することになった。皇国の道は一言でにしていへぬであろうが吾等は端的に教育勅語にお諭し給へる「斯の道」であると考える。そして其の中心を「克ク忠ニ克ク孝ニ」あると考へ錬成目標とする(七三頁)。

 これによると国民学校は、教育の場ではなく「克ク忠ニ克ク孝ニ」を実践するために子供達を作り上げる錬成道場となっていたことが判る。いいかえれば、国民学校は、皇国少年を育成する道場であった。ここには、子供の人間形成のための教育というものは全く見当らない。

 国民学校初等科の教科は、国民科=修身、国語、国史、地理、理数科=算数、理科、体錬科=体操、武道、芸能科=音楽、習字、図画、工作、裁縫、家事と、四教科一四科目に分けられたが、国民科、芸能科の授業時間が少なくなり、体錬科とくに武道の時間が多くなった。

 国民科は、国民精神の徹底を目標とするものにおかれていた。教科内容は、天の岩、神の剣、日本武尊、靖国神社、千早城、兵営だより、広瀬中佐、観艦式、軍艦生活の朝など、神国日本、忠君愛国、戦意昂揚を育成するものが多かった。

 芸能科では、とくに音楽が多く従来教えられていた「小学校唱歌」は、歌わなくなり、大東亜決戦の歌、空の神兵、隼戦斗機隊など軍事色のこい軍歌が多く教えられ歌われるようになった。

 体錬科は、心身の鍛練を目標とするものであったが、武道と言っても今の小・中学生には理解できないと思われるが、その教科内容は、柔道・剣道・銃剣道であった。その目的は、青少年の体を鍛えるというものではなく、将来軍人となるために体を鍛え、軍人となったとき相手の敵を殺すための技を修練するというものであった。

 その頃から私達の学校内外の生活は、軍隊式になってきた。校長や教師の話が、天皇や皇室の話になると不動の姿勢をとらされ、少しでも動くと教師から張りとばされたりなどの体罰を受けるようになった。又毎月一回必勝の祈願という名のもとに宮城よう拝、神社参拝を強制されるなど崇神の念を教えこまれたものである。

 武道の時間には、練習をいくらかなまけていると、教師は「精神がたるんでいる」「そんなことで戦争が勝てると思うか」などと怒って、本剣で殴る、柔道の技で投げつけるなど教師の生徒への体罰が日常行われ、学校生活は、軍隊の内務班化となり兵の予備軍として教育が徹底的に行われた。

 勤務愛好の精神と言っても、私達子供は勤労などの意欲などあるわけがない。学校から帰れば遊びたいのが子供の本心であること、昔も今も変りはない。私達小学生時代は、多くの家庭が働き手を兵隊にとられ農家では手不足が生じていた。私達の多くは、学校から帰れば嫌でも田や畑に出て働かねばならなかった。農繁期には、学校を休んで農業の手伝いをしたものである。農業の手伝いをしなければ、親父や祖父からこっぴどく叱られ食事抜きの制裁すら受けることもあった。私達は、学校の教育で勤労の意欲を受けなくとも戦争のおかげをもちまして家庭で強制的に勤労の意欲を植えつけられていたものである。私は、今考えてみると何故国民学校になり、私達にことさら勤労愛好の精神を受けつけなければならなかったか理解に苦しむ。しいて言えば、私達がやっていた家業である農業の手伝いは、あくまでも私的なものであり個々的な勤労である。直接戦争協力を目的とするものではなかった。

 私達を集団的、団体として直接戦争に役立つ仕事をさせることが、この勤労愛好の精神ではなかったかと思われる。

 私達の国民学校の勤労作業と言われるものは、学校全体として行われる集団的、団体的なものであったことからみてもこれをうらづけられるものである。舟小「百年の歩み」は、昭和一八年度の勤労作業成績と次のようにあげている。

 蝗四石七斗五升、団栗十五俵、蝿百貫匁、薪運搬千五十束、亜炭二千二百貫などである。しかし、私の記憶では、このような作業は昭和一八年のみではなく昭和一六年頃から敗戦の年まで毎年行われていた。さらに、道路の補修、松の根っこ堀り、開墾、鉄道線路に敷く砂利採集などあらゆる仕事をさせられたことを記憶している。私の五、六年頃は、国民科の教育などの授業は全くなく、この勤労作業のみが行われていたような記憶がある。

 私達の学校外の生活を規制するのに「大日本青少年団」という団体があった。

 私達国民学校の生徒は、全員大日本少年団に加入させられたものである。少年団の団長は、国民学校長がなり部落単位ごとに分団がおかれ、その下に五名か一〇名位の班組織となっていた。大日本青少年団の目的は「皇国ノ道ニ則リ男女青少年ニ対シ団体的実践鍛練ヲ施シ共励切磋確固不抜ノ国民的性格ヲ錬成シ以テ負荷ノ大任ヲ全ウセシムルヲ」として作られたものである。それは、中山恒によれば、青少年の生活から「自由主義、民主主義的ナモノヲ排除シ」ひたすら(天皇ニ帰シ一奉ル)ようにその「全生活ヲ教養訓練トシテ具現」する統制機構が大日本青少年団だったのである。もはやそこには服従することしか残されていない。命令によって励むことしか無い(ボクラ少国民第一部三二五頁)と言われるほど私達の日常生活を規制していたのである。

 私は、登校下校は必ず分団単位で二列に整列して歩いていく。団旗というものがあって、団旗に対しては、兵隊が軍旗に対する態度と同様の態度が要求された。又、学校の教練に分列行進があったが、学校内であっても分団単位列を組み行進させられたものであった。勤労作業も、分団単位に行われることが多く、私達は学校の行事と青少年団の行事との区別がつかなかったことを記憶している。

 国民学校になると、陸海軍の将校が度々学校にくるようになった。将校の話はきまって戦争の話であり、最後には「きたれ、海に陸に空に」ということであった。たまには、学校に来る将校が、映画を持ってきて見せることがあった。映画を見るときは、体操場の窓ガラス全部にむしろを張り見たものである。私が今だに記憶があるのは、海軍の少佐が来て「轟沈」という映画をみたことである。この映画は、潜水艦の乗組員の苦労をえがいたものであった。母港から出航した潜水艦が、何日かの苦労のはてにアメリカの戦艦を轟沈する話であった。私達は、このような戦争映画で陸海空軍にあこがれをもった。

 この轟沈の映画に主題があり何故か、私は今でも記憶している。

 このように私達は、皇国少年として学校内外に育成された。皇国少年の育成とは何であったかと考えてみると、私達は、軍隊の予備軍として訓育されてきたということである。私が驚いたのは、当時の教育にたずさわっていた者のなかに私達青少年を「物」として取扱っていたことである。そのことは「沼田八〇年」に次のように記されている。

 満州移民という国策拡充のため昭和一三年から満蒙開拓青少年義勇軍というものがあった。この義勇軍への高等科卒業生の送出は学校にとって大きな仕事であった。そして、昭和一五年八月二八日付、県学務部長の市町村長、小学校宛の通達は各学校毎に厳しい割当を示している。その通達をあげているが、その通達をみると「満蒙開拓青少年義勇軍ノ供出方ニ関スル件」となっている。私は、「供出」というのは、戦時中米を供出するとか、鍋や釜を供出するとか、国民が政府に「物」を出すことであると理解していた。人の供出もあるのかと思い漢和辞典を調べてみたが、人間を供出するなどという文言は見当らない。「供出」の意味は「国、政府に物をさし出すこと」となっている。とするならば右の通達は、高等科卒業生を物として取扱っていたことになる。

 私は、今まで自分が国民学校で受けた教育?を自分の記憶にもとづいてたどってみた。渡辺清氏が、昭和一四、五年頃までの高等小学校の教育によって「かなり」の皇国少年教育を受けたと言っているが、その当時のおえらさん方は、すでに高等小学校の生徒を「物」として取扱っていたものであった。

 私達の受けた国民学校の教育は、より徹底した皇国少年錬成であった。とするならば国民学校の教育は、皇国少年の育成の名のもとに私達を戦争遂行目的のため人的資源いいかえれば「物」に仕上げるための教育であったと断言しても誤りはないと、私は考えます。

 今、教科書問題や軍備予算増大など何かキナクサイ臭がしないでもありません。私達昭和一ケタ生の人達は、戦争中の教育はどんなものであったかもう一度ふりかえり考えてみる必要があるのではないか。