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吉田 健一 光州での民弁総会に参加して
泉澤 章 光州への旅 (上)
村山 晃 ティーチャー・イグゼンプション
河内 謙策 二一世紀の東アジアと日本国憲法(上)
松井 繁明 憲法九条改悪をめざす日本独占資本・
大企業の動機および集団自衛権について




光州での民弁総会に参加して

幹事長  吉 田 健 一


一 シンポジウムと総会に参加

 韓国民弁(民主社会のための弁護士会)からの招待を受け、自由法曹団を代表して光州で開かれた五月二八日の民弁総会に参加しました。民弁総会への参加は、団としても初めてのことです。参加者は、山崎徹団員(埼玉支部)、笹本潤団員(東京支部)、泉澤章事務局次長(東京支部)と私の四人でした。オブザーバーとして、山本真一団員(東京支部)が同行しました。

 二七日夕刻、仁川空港に到着した私たちをシム弁護士ら民弁のメンバーが出迎えてくれました。シム弁護士は、昨年の沖縄団総会に参加してくれた弁護士です。ソウルでの夜は、イ・ソクテ民弁会長以下執行部の皆さんが歓迎懇親会を開いてくれました。

 二八日には、民弁のメンバーとともに二台のバスに分乗し約四時間のバスツアーで光州へ。民弁総会に先立って市内にある「五・一八記念文化館」でのシンポジウムに参加しました。シンポジウムのテーマは、「東北アジア平和定着の課題と対案の模索」で、日韓から合計七人のパネリストが発言しました。日本側からは山崎団員が「アメリカの軍事戦略の変化と日米軍事同盟の性格変化」、泉澤次長が「日本の戦争責任と今日の改憲策動」について発言しました。その後、改憲問題や竹島問題などを含め、会場からも活発な質疑が出されました。

 シンポジウム終了後のレセプションを経て光州郊外のホテルに移動し、午後八時から民弁総会が開始されました。パワーポイントを使っての活動紹介、会長の挨拶のあと自由法曹団から挨拶をさせていただき、ホテルの部屋で待機となりました。午後一二時に及んだ総会が終了して、その後の懇親会で交流の時間を持つことができました。深夜二時に及ぶ懇親会への参加と日程はいささかハードではありましたが、民弁の皆さんの心あたたまる歓迎に接することができました。

二 韓国の民主化と光州事件の重み

 翌二九日には光州事件の犠牲者の墓地である望月洞にお参りしました。献花のうえ、民弁会長に続いて、私も追悼の辞とあわせて平和と民主主義のために弾圧に屈することなくたたかう決意を表明しました。

 ここでは、当時の民衆のたたかいや軍による弾圧の状況を知るとともに、光州事件が民主化を実現した韓国のたたかいの原点であることを実感することができました。

 一九八〇年五月一八日、光州では、戒厳令が発効するもとで軍事独裁政権に反対し民主化を求めたデモや集会が展開されました。労働者もストライキで軍に対抗し、学生と市民一体となったたたかいが広がりましたが、最終的には軍が弾圧を強行し、当時の政府発表によっても約二〇〇名の命が奪われたといわれています。全斗煥軍事政権のもとで犠牲者は反逆者とされ、事件の事実も封印され、犠牲者の埋葬されている望月洞への立ち入りすらできなかったということでした。

 八七年軍事政権が倒れ、ようやく光州事件の事実が広がり、その後全斗煥には死刑が言い渡されたのです。今では、犠牲者らの名誉も回復され、五月一八日は法定の民主化運動記念日とされています。

三 民弁とのいっそうの交流を

 今回は、シンポジウムを通じて、アメリカの軍事的な支配、日韓両国政府の海外派兵、北朝鮮問題や日本の改憲問題、植民地支配や侵略戦争についての歴史認識など、共通のテーマで議論を深めることができましたと思います。取材していたMBCから改憲問題や戦後補償裁判、NKHの番組改編問題などについてインタビューも受け、戦後六〇年を前にして改憲問題への関心の高さを感じました。

 民弁のシンポや総会へ参加したことにより、韓国民弁と自由法曹団との間での連帯がより強められたと思います。今後の交流の発展が重要ですが、今年は九月二日・三日にソウルで第四回アジア太平洋法律家会議(COLAPW)が開催されます。民弁のメンバーも多数参加しますので、日本からも多くの参加が期待されます。

 団五月集会で講演していただいたイ・キョンジュ仁荷大教授は、ソウル・光州間の往復バスツアーを含めて全ての日程に参加され、通訳役までこなしていただきました。民弁の皆さんとあわせて、心から感謝したいと思います。



光 州 へ の 旅 (上)

東京支部 泉 澤   章


 不安な気持ちで仁川国際空港の到着出口へ近づいていった私の目に、私の名前を書いた紙きれを持って立っているムンさんの姿が見えてきた。この日(五月二七日)の午前中、どうしても期日を変更できない弁論があり、みんなに数時間遅れて一人ソウルへ着いた私を、民弁の事務局の仕事をしているムンさんが、わざわざむかえに来てくれたのだ。しかし、私はハングル語を全く話せない。ムンさんも日本語は全く話せないようす。渋滞でなかなか進まないタクシーの車中、私とムンさんは、片言の英語(彼のほうはかなり流暢だったが…)でとりとめもない話をした。ムンさんはとても気の優しい青年で、気をつかって色々な質問をしてくれているのは良くわかるのだが、いかんせん私の英語力ではそれ以上会話は続かない。そのうち二人とも話すことがなくなり、疲れもあってうつらうつらし始めたとき、やっと到着予定の店に着いた。空港からここまで約二時間半。成田から仁川国際空港までの飛行時間より時間がかかった。

 歓迎会がひらかれている店には、私より先にソウルに到着していた吉田健一幹事長、山崎徹団員、笹本潤団員、それにオブザーバー参加なる名目で同行した山本真一団員たちがすでに到着している。今回の旅のメンバーは、私を含めてこの五人。山本さんを除けば、韓国の民弁(正式名称は「民主社会のための弁護士集団」)から自由法曹団宛に総会への正式な招待状が届いたことから、これを受けて日本側代表として参加することになったメンバーである。なお、本当ならこのメンバーにはあと一人、渡辺登代美団員の姿もあるはずだったのだが、出発二日前に交通事故に遭い、今回は残念ながら参加できなかった。

 中国へは何度となく行っている私だが、韓国はこれが二度目。それも、一度目は今年二月にCOLAPW(第四回アジア太平洋法律家会議)の準備会のため、深夜着翌日昼発の一泊二日で行ったきりなので、実質今回が初めての韓国行きである。ハングルは全く読めず、話せず、「冬ソナ」も最終回しか見ていない。そんな韓国初心者の私だが、どうやら私以外は「韓国通」らしい話っぷりなので(後でそうでもないことを知る)、なんとか旅は続けられるだろうと思う。特に、笹本さんは最近韓国にはまっているらしく、ハングルの勉強も本格的にはじめている。その実力は定かではないものの、頼れる同行者である。

 歓迎会の席では、民弁現会長のイ・ソクテ弁護士はじめ、つい一週間前に山形の五月集会で講演をしていただいたイ・キョンジュ教授、そしてイ・キョンジュ先生のパートナーであるチェ弁護士たちが、私たち一行をあたたかく迎えてくれ、総勢一〇名ほどで催された宴の時間は楽しく過ぎた。

 イ・キョンジュ先生もチェ弁護士もともに日本留学組で、イ・キョンジュ先生は一橋大大学院、チェ弁護士は東大大学院で学んだ経験をもっている。当然ながらお二人とも日本語が非常に達者で、そのため歓迎会の席から光州の旅程に至るまで、後々お二人はずっと我々の「お世話係」のようになってしまう。二人ともシンポや総会で重要な役割があるはずなのに、私たちに対する細かい気配りを決して忘れず、その対応には本当に感謝、感謝で頭が下がる思いだった。

 翌五月二八日午前九時、地裁や地検に近いビルの前(東京ならさしずめ日比谷公園わきの「飯野ビル」といったところか?)に集合し、貸切バス二台に分乗した。今回の民弁総会は、韓国における「民主化の聖地」である光州で開催される。

 いままで民弁の総会といえば、大体ソウルの近郊で行なわれるのが通例だったらしい。それが今年はなぜ光州でなのか。詳しい理由は聞けなかったが、今年が光州事件から二五周年にあたることの他に、昨年の自由法曹団沖縄総会に民弁の方々を招待したのも一つのきっかけだったらしい。基地闘争の現場である沖縄で総会を開くことの意味と、民主化闘争の熾烈な現場であった光州で総会を開くことの意味に、なにがしか共通点を持つと考えてくれたのなら、団として非常に光栄なのではないだろうかと思った。

 ソウルから片道三時間半。我々一行を乗せたバスは、一路高速道路を南下し、光州へと向かっていった。



ティーチャー・イグゼンプション

京都支部  村 山   晃


 学校の先生の働き過ぎ問題は、去る六月一一日に静岡で開かれたタウンミーティングでも話題になり、文科相と中教審会長は、そろって「多忙解消の必要性」を指摘しました(一二日付日経朝刊)。 その翌日六月一二日、京都で「先生、しんどそうだけどだいじょうぶ!何がそんなに忙しいの?」という副題のついたシンポジウムを実施しました。主催は全教と京教組と京都市教組です。

 世の中は、サービス残業漬けになり、時間どおり仕事を終えることが罪悪視される傾向はますます強まっています。私の倅がある会社の面接に行ったところ「五〇〇〇時間働く覚悟はあるか」と聞かれたとのことです。そんなことが平気でまかりとおっています。思い返せば、我々、弁護士も、口では権利と言いながら、早く帰ろうとした同僚を、冷ややかに見る場面をあちこちで見かけたことがあります。私自身、ものすごい馬力で働いてきました。権利を守る闘いに時間を忘れて全力を投ずることが喜びでした。

 閑話休題。学校の先生も、総じて良く働いています。子どもを目の前にしたら、自らを省みないことが美徳でさえあるようです。一日八時間労働制が、意識から脱落しているように思えることが良くあります。実は、そのような「意識」を影でしっかりと作ってきたのが、現行のティーチャー・イグゼンプションの制度です。

 しかし、除外されていると言っても、学校の先生が、完全に八時間労働制の枠外におかれているわけではありません。ところが、公立の先生方を規制する法は、そのように運用されてきましたし、現場の先生方も、それを事実上受け入れてきているところがあります。

 先日のシンポジウムで、大学の先生は言いました。「学校の先生方は、自らが時間を無視して働くことで、多くの若者を今のような働かせ方にして世の中に送り出してきた。」と。今、ホワイトカラー・イグゼンプションで、議論が沸騰しつつありますが(これもどこまで沸騰させるかは、これからの運動にかかっていますが)、実は、先生方は、ずっとイグゼンプション状態にあったことに思いを寄せる必要があります。そして今、ようやく「労働時間制」を取り戻す闘いが始まっています。京都で展開している裁判闘争も、その一つです。今取り組まれている裁判闘争については、先の五月集会の報告集に執筆しましたので、是非ご一読下さい。

 問題を広げ深めるためシンポジウムを行いました。「働き過ぎ」を、きちんとコントロールするには、しっかりした時間管理をすることが不可欠です。これが、シンポジウムの確認の出発点です。今、学校の先生方についても、各地で教育委員会が、重い腰をあげ、「労働時間調査」を始めました。「教員の仕事は、時間の測定になじまない」と豪語していたのですから、画期的なことです。次に、「サービス労働」にさせないことです。これが実は、一番の課題です。現在の法では、一般の公務員にある「残業手当支給」の条項が、教員については適用除外にされています。イグゼンプションです。今回のシンポジウムでは久々に労働法学者に研究をしてもらい、イグゼンプションにすることの違法性について発表をしてもらいました。当該学者が驚いていましたが、この分野は、殆ど誰も研究してこなかったのです。

 組合が闘いに立ち上がりました。労働科学の研究者、労働法学の研究者が加わりました。教育研究者の間でも論議が始まっています。今回のシンポジウムで問題がさらにクローズアップされました。各地で学習会が開催され、裁判を展望するところも出てきました。

 この闘いの勝利無く、ホワイトカラーイグゼンプション阻止闘争の展望はあり得ないと思っています。

 教員の長時間労働の解消に向けて、大きな注目と参加をお願いするものです。



二一世紀の東アジアと日本国憲法(上)

東京支部  河 内 謙 策


日本国憲法九条問題と本稿の目的

 一九四六年に制定された日本国憲法、特に前文の平和的生存権の規定と一切の戦争放棄を定めた憲法第九条をめぐって、日本の国内においては、六〇年にわたる激しい対立・抗争が続けられてきた。その対立・抗争に最終的な決着がつけられようとしている。憲法九条の改正を主張する自由民主党が、今年の一一月に憲法改正草案を発表するなど、憲法改正に向けての具体的な歩みを始めることを明らかにしているからである。

 日本の法律家は、この憲法改正に反対し、世界の多くの法律家・民衆が、共に反対の声をあげていただくことを切望している。なぜなら、今回の憲法改正は、世界第二位の経済力を持ち、世界第三位の軍事費の裏づけを持つ自衛隊を有する日本が、世界のあらゆるところで、アメリカと肩をならべて戦争をする国になることをめざすものだからである。また、憲法の平和規定は、その制定過程や憲法の文言から明らかなように、第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)とアジアの植民地支配を反省した日本の国家・民衆の、世界、とりわけアジアの国家・民衆に対する平和の誓いという性格をもっており、それゆえ憲法改正=誓約違反に対し、世界の国家・民衆が反対の声をあげる権利を有しているからである。

 今回の改正=改悪を日本国憲法九条問題と呼ぶことにすると、日本国憲法九条問題は、日本国内問題にとどまらない。それは国際政治上の重大問題であり、それゆえ私たち日本国際法律家協会は、国際的な憲法九条擁護の共同闘争を呼びかけるものである。

 二一世紀初頭の東アジア(東南アジアを含む。以下、同じ。)においては、様々な問題につき、アメリカ、日本、中国、ロシアの激しい対立と抗争が続いている。東アジアは、アメリカ、日本、中国、ロシアの覇権争いの舞台になっているといっても過言ではない。私は、様々な平和をめぐる問題を抜本的に解決し、覇権争いに終止符を打つために、東アジア各国が、日本国憲法九条や平和的生存権規定のような平和憲法を採用し、あるいは国際条約により憲法九条や平和的生存権の規定を具体化する方法をつうじて、平和共同体を創立することが望ましいと考えている。本稿は、その見地から、最近東アジアで発生している北朝鮮の核開発・人権問題、台湾問題、中国・韓国の反日行動の問題の歴史的な経過と問題の所在を明らかにし、世界の法律家・民衆が東アジアの平和と日本国憲法九条問題を考察する材料を提供しようとするものである。

北朝鮮の核開発・人権問題

 一九八八年六月、アメリカの諜報衛星が朝鮮人民民主主義共和国(以下、「北朝鮮」という。)・寧辺で建設中の使用済み核燃料の再処理施設を発見したことが、北朝鮮の核開発問題の端緒である。当時のブッシュ大統領は、「控えめの関与政策」を採用し、一九九一年九月には、朝鮮半島を含む全世界の米軍基地から戦術核兵器を一方的に撤収することを宣言した。そのこともあって北朝鮮は、一九九二年一月には国際原子力機関(IAEA)の査察合意に署名したが、一九九三年三月には、突然、核不拡散条約(NPT)からの脱退を表明する。北朝鮮は瀬戸際外交を展開し、九四年三月には「戦争が起これば、ソウルは火の海だ」という北朝鮮の発言が飛び出したりして、朝鮮半島は一触即発の状況となった。しかし、その状況は、元アメリカ大統領ジミー・カーターの平壌訪問によって救われ、九四年一〇月には、「枠組み合意」が締結された。同合意によれば、北朝鮮はNPT体制に残り、IAEAによる通常査察を受け入れると同時に、現存の原子炉と再処理施設を凍結する、アメリカは、見返りとして、北朝鮮に軽水炉建設のための国際組織を設立し、軽水炉が完成するまで毎年五〇万トンの重油を供給することとなっていた。

 枠組み合意については、アメリカの強硬派が激しく攻撃をし、そのために元国防長官のウィリアム・ペリーの報告書が提出されたりしたが(一九九九年九月)、金大中韓国大統領との協力もうまくいって、クリントン大統領の訪朝一歩前まで進展をみせたのである。しかし、ブッシュ大統領が登場し、二〇〇二年一月の一般教書演説で北朝鮮を「悪の枢軸」と呼んだことにみられる強硬な態度をとりはじめてから、事態は一変した。二〇〇二年九月には、日本の小泉総理が訪朝し、平壌宣言が発表されたが、北朝鮮研究者の重村智計氏は、これは北朝鮮が基本にしている「振り子外交」によるもので、アメリカの攻撃を抑え、早期の経済協力を獲得するためのものであった、と分析されている(重村智計『最新・北朝鮮データブック』講談社現代新書、二〇〇二年、二〇三頁)。二〇〇二年一〇月のケリー国務次官補の訪朝時に、北朝鮮は核開発計画の存在を認めた。これに対し、ブッシュ政権は強硬策をとり、北朝鮮は二〇〇三年一月に再びNPT脱退を宣言するに至った。米朝関係が完全な悪循環に陥る中で、イラク戦争との関係もあってアメリカは多国間重視のアプローチに移り始め、中国の仲介外交に依存し始めた。二〇〇三年四月二三日から二五日まで、北京で、米中朝の三者協議が行われ、更にアメリカが日韓の参加を、北朝鮮がロシアの参加を主張して、米中朝韓日ロによる六者協議が開催されることとなった。

 北朝鮮の核開発問題をめぐる六者協議は、第一回目が二〇〇三年八月二七日〜二九日、第二回目が二〇〇四年二月二五日〜二八日、第三回目が二〇〇四年六月二三日〜二六日に、それぞれ北京で開催された。第一回目の終了後に北朝鮮が「こうした協議を開く必要はもうない」と述べて、今後が危ぶまれたが、第三回終了後にケリー米国務次官補が「わたしたちは六者協議の参加国による相互の活発な討議を見てきた……現在は北朝鮮の核問題に焦点をあてているが、将来、それが拡張される可能性があると思う」と述べる地点まで、緩やかではあるが協議は進展した。協議の内容においても、検証を伴う核の凍結とその見返りとなる補償措置が必要という点で各国は合意した。第四回六者協議は、二〇〇四年九月末までに開かれる予定であったが、韓国の核開発疑惑が新たに浮上したこと、北朝鮮が米大統領選の模様眺めの態度に出たため開かれずに今日に至っている。北朝鮮は、今年の二月一〇日に六者協議への参加の中断と核兵器の製造を宣言、最近では核実験の噂が飛び交い、再び緊張が高まっている。

 六者協議を見ていて一番痛感するのが、美辞麗句の背後に存在する各国の思惑・打算の違いとイニシアティブ争いである。今回のような事態を招いたことについては、アメリカの長年にわたる核脅迫政策があることは言うまでもないが、アメリカはそのことをなんら反省せず、超大国の地位を守ろうとしている。北朝鮮は、金正日の独裁の延命のために瀬戸際政策を展開している。中国は、今回の六者協議をアジアにおける中国の影響力増大に利用しようとする意図が露骨であるし、日本は、中国に対抗してアメリカとアジアを共同支配する位置を確保しようと懸命になっている。韓国は腰が定まらないし、ロシアは独自の発言で点数を稼ごうとしている。政府や外交専門家に人民の運命を任せることの危険性が明らかになっている。そうだとすれば、六か国の民衆の出番ではないだろうか。六か国の民衆・平和団体が一堂に会し、討論し、要求をまとめて六か国首脳に提出し、共同で要求実現のために努力するという新しい平和運動が求められているのではないだろうか。

 北朝鮮の人権問題について、一言述べたい。北朝鮮の民衆が、金正日の独裁体制の下で、自由の抑圧・人権侵害に苦しめられていることは言うまでもないが、その最も端的な表れが、北朝鮮の強制収容所の問題と拉致問題である。北朝鮮の山の中に少なくとも五〜六箇所あるといわれる強制収用所には、一五〜二〇万の人々が捕らえられていると言われている。日本人の拉致問題については二〇〇二年九月一七日、金正日が拉致工作の事実を認めて謝罪した。しかし金正日は拉致事実の全貌を未だ明らかにしようとせず、被害者の日本への帰還もこれからである。日本の特定失踪者問題調査会の調べによれば、北朝鮮による日本人の拉致被害者は少なく見積もっても一〇〇人以上、四三〇人に及ぶ可能性があるといわれている(http://www.chosa-kai.jp/)。拉致という野蛮な犯罪行為の被害者は、日本人だけでない。韓国政府の発表によれば、一九五三年から二〇〇〇年までの韓国人拉致被害者は四八六人と言われているし、ヨーロッパでも拉致が行われている。

 この問題については、北朝鮮に対する民族排外主義的宣伝が日本国内で大々的になされていること、日本の拉致被害者の家族が保守政治家と結びついて北朝鮮に対する経済制裁を主張し広範な国民の支持を獲得していること、日本の法律家や平和運動の中でも種々の意見が存在し、コンセンサスを形成するのが難しいことなど、きわめて複雑な事情が存在する。しかし、この問題から逃げるわけにはいかない。日本国際法律家協会も、今後努力を傾注していきたいと考えている。

台湾問題

 昨年末から今年の初めにかけて、中国の反国家分裂法制定のニュースとともに中国の台湾に対する武力行使の可能性が話題になった。台湾問題の急浮上となったのである。まず、台湾の歴史の概略を見てみよう。

 台湾が世界史に登場するのは一六世紀になってからであり、それ以来台湾は外から来た勢力によってもてあそばされてきたと言われる。一六二四年から一六六一年までオランダが支配し、その後の鄭氏政権は、一六八三年に中国を支配した清朝によって滅ぼされた。その後の台湾は、行政区分では福建省の下に置かれたが、実質的には植民地であり、放任状態にあったと言われている。一九世紀のなかばになると欧米列強が自己のものにしようと動き始めたが、結局、一八九五年、日清戦争に勝利した日本が自己の植民地とすることに成功した。日本の植民地支配は、一九四五年まで、五〇年間続くことになる。日本の統治は、初めは激しい抵抗に直面したが、後に日本はインフラの整備、初等教育の普及などの植民地的近代化に努め、そのような中から台湾人のアイデンティティが芽生え始めているのが注目される。戦争に狩り出された台湾人軍人は約八万人、軍属・軍夫は約一二万七〇〇〇人で、戦死・病死者は約三万人にのぼっている。

 日本が第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)で敗北した結果、蒋介石政権が台湾を接収した。国民党の支配が始まったものの、インフレと官僚の腐敗に台湾人社会の不満と怒りが高まり、そのような中で、一九四七年の二・二八事件が発生し、台湾人の怒りが爆発した。これに対し、大陸から派遣された国民党政権の増援部隊が手当たり次第に台湾人を殺戮した。「二万八〇〇〇人の台湾人が殺害され、死体が投げ捨てられた川は赤く染まったという。さらに、国民党当局は、将来反抗の種となる恐れがある指導的な人物をいっせいに逮捕し、すべて秘密裡に処刑して行った」(酒井亨『台湾入門』日中出版、二〇〇一年、一四六頁)。中国大陸での共産党と国民党の内戦は、一九四九年、共産党の勝利・中華人民共和国の建国となり、負けた中華民国政府と国民党が台湾に逃げた。一九五〇年の朝鮮戦争の勃発とともに、アメリカは台湾海峡での第七艦隊のパトロールを開始し、蒋介石政権に対する援助も再開した。「台湾海峡を隔てた中華人民共和国と『中華民国』の対峙が固定化することとなった」(若林正丈『台湾―変容し躊躇するアイデンティティ』ちくま新書、二〇〇一年、六一頁)。

 中華人民共和国は「台湾解放」を、台湾の蒋介石政権は「大陸反攻」を呼号し、二度にわたる台湾海峡危機があったものの、両方とも実現しなかった。一九五〇年代と一九六〇年代は、台湾内部においては国民党の暗黒支配が続いた。その中で、後に「台湾の奇跡」と言われる経済の高度成長が実現した。六〇年代の中ごろには、台湾は農業社会から工業社会に変貌したのである。

 国民党政権は、一九七一年に「中国」の代表権を中華人民共和国に奪われ、自ら国連を脱退するに至った。この前後から、国民党政権は国際的に追い込まれるだけでなく、国内的な力も弱体化しはじめた。蒋介石は一九七五年に死去したが、六〇年代末より蒋経国が実際上は指導していた。蒋経国は「台湾化」の方向に舵取りをはじめたが、その下で、中?事件(一九七七年)、美麗島事件(一九七九年)などの自由と民主主義を求める事件も発生し、民進党が結成された(一九八六年)。フィリピンのアキノ革命も大きな影響を与えた。そして一九八七年七月、三九年間にわたって猛威を振るった戒厳令が解除された。一九八八年一月には蒋経国が死亡し、当時副総統であった李登輝が総統になった。

 李登輝が総統であった一九八八年から二〇〇〇年の間に、李登輝の粘り強い努力とこれを支援する様々な勢力との共同の力で台湾が大きく民主化されたことは、言うまでもないであろう。国内的な面では、一九九一年五月に「反乱鎮定動員時期」という非常戦時体制を終了させた。これにより、それまで「共匪」などと呼んでいた中華人民共和国を正式名称で呼ぶことになった。一九九二年五月には、反国民党的言論取締りの根拠規定となっていた刑法第一〇〇条が改正された。台湾には、現在政治犯はいない。一九九一年には、「万年議員」と批判されていた一九四八年に中国大陸で選出された議員の退職が実現し、一九九二年一二月には立法院の全面改選が行われ、民進党が勝利宣言をした。一九九五年二月には李登輝の非公式訪米が実現した。一九九六年三月には台湾史上初めての総統直接選挙が実現し、李登輝は、五四%という高い得票率で当選を決めた。若林正丈氏は、総統直接選挙の実施により、「中華民国第二共和制」が形成された、と評価しておられる。(若林正丈、前掲書、二二〇頁)。 なお一九九六年三月には中国のミサイル演習も実施されたが、アメリカは原子力空母を派遣して対抗し、台湾住民には逆効果であった。李登輝は、一九九九年七月に、ドイツのラジオ放送局のインタビューに答えて、中国と台湾の関係は「(民主化を経て)少なくとも特殊な国と国の関係であり、決して合法政府と反乱団体、中央政府と地方政府といった『一つの中国』における内部関係ではなくなっている」と述べた。この発言に中国政府は激しく反発したが、台湾内世論の支持は高かった。



憲法九条改悪をめざす日本独占資本・

大企業の動機および集団自衛権について

東京支部  松 井 繁 明


 五月集会では第一分科会に参加した。どの発言もよく考えぬかれていて、刺激的であった。

 そのうち、私がとくに刺激をうけた二つの発言について考えてみたい。

 第一は河内団員の発言である。河内団員はいくつかのテーマについて発言したが、私が興味をもったのは、要旨つぎのような発言である。

 団本部の議案書は、改憲の目的を「アメリカとともに戦争をする国」にすることと捉えている。その側面を全否定はしないが、しかし日本の独占資本・大企業の真の動機は別のところにあるのではないか。東アジアでは、日・米・中をふくむ諸国間で激しい経済競争が展開している。日本独占資本・大企業はこのなかで勝利しなければならない。そのためには、経済力による競争だけでなく、軍事力の裏づけを求めている。レーニンのいう帝国主義戦争の側面を軽視すべきではない。日本独占資本・大企業が憲法九条改悪を求めるのは、そのためである。

 憲法九条改悪の動機として、アメリカへの追随とともに、日本独占資本・大企業の独自の欲求があることを渡辺治教授(一橋大)が以前から指摘していることはよく知られている。イラン・パーレビ王朝崩壊後の石油施設をめぐる経過は、日本独占資本・大企業にとっての悪夢であった。海外投資をする独占資本や大企業が軍事力による保護を求める欲求・衝動にかられることは自然である。そのような一般論としてなら、渡辺教授の説に特に反対ではない。

 そこで河内さんにお訊ねしたいのは、この発言は以上のような一般論の範囲にとどまるのか、それともつぎのところまで踏みこんでいるのか、ということである。

 東アジア諸国で政変や内乱による日本独占資本・大企業の権益が脅かされる事態が発生したら、日本は、アメリカが動かないばあいでも、単独で自衛隊を派遣し、日本の権益を守らなければならない。その障害となる憲法九条を改悪すべきである。これが日本独占資本・大企業の真意なのである、と。

 この問題については私自身、ながく迷ってきたし、今も迷っている。しかし日本の独占資本・大企業が、現実にそのような事態を想定し、かつ、自衛隊の単独派兵が可能でしかも有効と考えている、そのために憲法九条の改悪を求めている、と想定するのは、かなり無理があるのではないだろうか。

 東アジア諸国は、アジア太平洋戦争で日本が直接に侵略の被害をあたえた国々であり、民衆のあいだにもその記憶は生なましい。政変・内乱などが発生した特定の国にたいしても、軍事力の行使はつよい反発をよぶだけで、どれほどの効果が期待できるであろうか。まして、その特定国だけでなく、全東アジア諸国の広範な反発を生みだす。中国とは決定的な対立となるであろう。かりに特定国での権益が守れたとしても、それとひきかえに、日本は全東アジア諸国での権益をすべて失いかねないのである。ネオ・ナショナリスト的政治家らとは異なり、それなりの「経済的合理主義」にしたがって行動する独占資本・大企業が、それほどの冒険主義に立っているとは考えにくいのではないだろうか。

 第二は、大久保団員の発言である。

 アメリカが日本にたいし、集団的自衛権行使の解禁を求めているのは事実だが、たとえばイラク戦争のように、アメリカがイラクから攻撃をうけたこともなく、したがってアメリカには個別自衛権すら発生していないばあい、日本がアメリカのために集団自衛権を行使することなど国際法の解釈からみても不可能なのだ、という意見であった。

 本来の集団的自衛権の意義とアメリカの先制攻撃とを区分することを提起した、大久保団員のこの発言は貴重である。従来の国際法の解釈からは、まったくそのとおりである。

 私自身もふくめてわれわれは、憲法九条の改悪によって集団的自衛権の行使が容認されると、イラク戦争で自衛隊は正面作戦をアメリカ軍と共同することになる、と宣伝してきた。しかし、ここにはひとつの論理の飛躍がある。集団的自衛権にもそれなりの限界があって、すくなくともイラク戦争のようなばあい、日米共同作戦を集団的自衛権で説明することはできないのである。

 しかし、いま問題にしなければならないのは、その先ではないだろうか。アメリカは従来の自衛権の概念を大きく変更しようとしているのである。

 アメリカによれば、今日の非対称的軍事脅威にたいしては、「状況によって対処する」のではなく、「能力によって対処する」。すなわち、じっさいに脅威がおよぶ状況か否かにかかわらず、アメリカにたいして脅威となる能力をもつ国や勢力にたいしては先制攻撃が許される。それは自衛権の範囲内である、というのである。

 アメリカが今後ともこのような国際法の「解釈」(もちろん不当な)にもとづいて行動することが十分に予測される状況において、集団的自衛権の「限界」を論じることは、それはそれとして大切だが、なお不十分なのではないだろうか。そしてアメリカの「解釈」の不当性を追求するとともに、日本の保守勢力がそれに追随する危険性の高いことを警告しなければならない。その意味では、集団的自衛権行使を許さないこと、憲法九条改悪を阻止することの意義は、いっそう重要になっているというべきであろう。