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松島 暁 徳島(鳴戸)に集まりましょう
津川 博昭 徳島総会への誘い
中野 直樹 春の峪で知った「村の兵士」




徳島(鳴戸)に集まりましょう

事務局長  松島 暁


 本号がお手元に届く頃は、ちょうど総選挙の真っ最中でしょう。小泉首相は、郵政民営化法案の参議院での否決をきっかけに、郵政民営化を「構造改革の本丸」と位置付け衆議院を解散するという暴挙に出ました。

 先頃の自民党の改憲草案の発表など明文改憲を具体化する動き、引き続くイラクへの自衛隊派兵や有事法制(国民保護法制)の具体化、日米同盟の新たな強化、他方、リストラ・社会保障の改悪・増税、教育現場に対する権力の介入など、四年あまりの小泉政治とは、平和憲法のもとでつくられてきた社会の基本的な枠組みの、日米同盟やグローバル化・新自由主義「構造改革」などの名による破壊でした。したがって、総選挙で問われているのは小泉政治そのもの、構造改革と戦争国家化の国家改造そのものの是非が問われています。

 団は、「迫りくる戦争への足音、変質する『福祉』社会、憲法の破壊にどう立ち向かうか」をテーマに五月集会を開催し、平和と改憲に関する情勢や取り組みについての討論(平和の破壊と創造の分科会)、労働・教育を含め国民生活の現場から社会全体の動きと権利闘争についての討論(「福祉」社会の破壊と再編の分科会)、準戦時下での治安強化や弾圧の動きとこれに対するたたかいについての討論(戦争と治安の分科会)の三分科会で議論を深めました。団は、戦争国家化と構造改革の小泉政治と対決してきました。来る徳島総会は、この団の一年間の活動を総括し新たな活動方針を確定する場となります。

 ぜひ多くの団員が徳島(鳴戸)に集まり、憲法と平和、生活と権利を語りましょう。

 また、総会前日の二二日には二つのプレ企画、(1)法曹養成と団の将来(将来問題委員会)、(2)「いまアメリカの軍隊と市民社会はどうなっているか−新しい反戦運動のうねり」ルーク・ハイケン弁護士を囲んで(国際問題委員会)を予定しています。ハイケン弁護士の講演は新人学習会も兼ねていますので新入団員とその予定の団員の参加をお願いいたします(新人弁護士採用予定の各事務所のおかれましては、「二二日から徳島へ行く」旨を、入所予定の修習生に事前にお知らせお願いいたします)。



徳 島 総 会 へ の 誘 い

四国総支部(徳島県) 津川 博昭


 乱舞渦巻く阿波踊りも終わり、その余韻が残る徳島から、実りの秋に開催予定の徳島総会へのお誘いを申し上げます。

関東には長男板東太郎・利根川が、九州には二男筑紫次郎・筑後川が、そして、四国には三男四国三郎「吉野川」があります。この吉野川の太平洋に注ぐところに県都徳島市があります。

 メイン会場は、吉野川の北東部で、その徳島市の北に隣接する鳴門市にあるリゾートホテルです。ホテルからは、大阪・神戸から明石大橋を渡り、淡路島を通って四国に入る、優美なアーチ状の吊り橋「鳴門大橋」が架かる「鳴門海峡」を一望することができます。鳴門海峡といえば、激しい潮流により生まれる「鳴門の渦潮」が、その鳴門大橋に敷設された「渦の道」の足下に、正に渦巻いています。潮の干満時に訪れると、それは、かまぼこの「なると」とは全く様相を異にする、豪快な渦巻きをご覧になれます。議論に疲れた頭を、豪快な自然の営みはスッカとしてくれるでしょう。

 もとより、シーズンオフとはいえ、懇親会の夜は、歓迎の「阿波踊り」が欠かせません。浮き立つような鉦や太鼓のリズムにのせられて踊る爽快感は、翌日の議論に立ち向かうエネルギーを再生してくれること疑いありません。

 いくら気持ちが浮き立っても、腹が減っては何もできません。ご安心ください。四国三郎「吉野川」が遠く四国山脈から運んできた栄養豊かな真水と南海の彼方からやってきた暖かな黒潮とが、鳴門海峡の激流で混ざり合う所・紀伊水道で育った「鳴門鯛」をはじめとする魚たちは、身が引き締まって絶品です。そして、こうした美味に爽やかな酸味を加味して更に味を引き立てる「すだち」も徳島県のみで味わえるものです。馬肥ゆる秋を実感されたい方には、香ばしさ最高のさつまいも「鳴門金時」もご用意しましょう。

 もちろん地酒も忘れてはいません。美味いものには良い地酒はつきものです。ご期待を!

 さて、四国三郎「吉野川」の河口から約一四km遡ったところにある第十村に、一七五二年「第十堰」が作られました。以来、第十堰は海水の遡上を防ぎ、また、北東部への分水の役割を、営々と二五〇年余の長きにわたって果たしてきました。探偵浅見光彦(内田康夫「藍回廊殺人事件」)は、幅七五〇mにわたって、滔々と流れる大河吉野川の堤に立って、その流れを斜めに堰き止める大堰の壮大な景観を称賛していますが、今から約一〇年ほど前、この第十堰を撤去して可動堰を建設するという計画が持ち上がり、これに反対する市民運動が展開されたことがありました。その市民運動は、河川行政に市民の意見を反映させるための運動として普遍性を持つこととなり、全国的にも注目を集めました。こうした市民運動の結果、可動堰計画は中断され、第十堰は現在もなお二五〇年前と同じ営みをしています。

 総会終了後のオプショナルツアーとして、半日コース・一泊コースの二コースを用意しました(別紙)。

 浅見探偵のように、この壮大な堰をご覧いただき、「藍の館」を訪ね、同じく吉野川が育んだ「藍」による、ONLY-ONEの「藍染め」のハンカチーフをお作りいただくのも、「青い徳島」の思い出として一興かと思います(半日コース)。

 トンネルじん肺闘争の原点である池田町の四国じん肺訴訟記念碑。野生のシラクチカズラを使って編んだ吊橋で、日本三奇橋の一つかずら橋は国の重要有形民俗文化財。踏み出すとギシギシと揺れ、スリル満点。吉野川が四国山地を横切るところに、激流によって削られた渓谷が約八kmにわたり続く男性的な景観・大歩危(おおぼけ)、それより岩の形もやさしくなる小歩危(こぼけ)。両岸の岩石は約二億年前の地層という(「ぼけ」とは谷の両岸に山が迫る険しい場所を指す)。これらの絶景・景勝美もまた見逃せません(一泊コース)、。

 是非、四国・徳島の秋をご堪能ください。皆様方のご来県を心からお待ち申し上げます。



春の峪で知った「村の兵士」

東京支部  中野 直樹


 雨上がりの朝、春の霞が淡い若葉色に染め上げられた山々にたなびく。残雪が白まだら紋様をつくる遠山のそのまた奥に鎮座する白山は、まだその名のとおり純白の容姿である。

 五月の連休はいつもふるさとに帰り、田植え作業を手伝う。この出生地の名が変わった。石川県石川郡に属していた二町と五村がこの二月一日に、かつての郡仲間である松任市と合併し、白山市となった。白山を源頭とする手取川に沿う、白峰村から日本海への河口の美川町までの細長い流域をすっぽりおさめようとする自治体が法律上つくられた。明治二二年の町村制施行とともにできたわが故郷・吉野谷村が閉村し、そして人口千人あまりの過疎の「村民」が一夜にして「市民」になった。

 手取川の左岸の支流の大日川が旧鳥越村を串刺すように流れている。この大日川は全体として穏やかな平川だが、唯一、その右岸に注ぐ杖川は峻険なV字谷を形成している。この最上流部は鼓弓谷と名を変える。二時間ほどかけて山越えをしてとどく鼓弓谷には、初夏まで残る残雪と盛夏のメジロアブ軍団で守られた岩魚の小楽園がある。

 今年、田植え作業前に帰省してこの渓に向かった。ところが、大日川本流の上流域に通ずる道路がまだ冬季閉鎖を解かれておらず、鼓弓谷への山越えは断念。これまで辿ったことのない杖川の下流域の林道をのぼることに決めた。車が右に左に振られる悪路を一〇分ほど進むと崩れた箇所があり、車が二台止まっていた。一台は岐阜ナンバーの釣り人のものだった。眼下はるか下の杖川は、雪解け水に青白く、増水した流れは轟々と白槍をたてていた。足ごしらえをして廃道となった林道を歩き始めた。

 芽吹き初めのうす茶色と芽吹き終わった淡緑が混ざり合って山の襞をあいまいにし、上流の山々はおぼろにかすむ。道端の険しい崖に垂れる、五片の花弁の黄色が鮮やかな山吹に見とれながら、三〇分ほど歩くと、二人組が下ってきた。大きなザックを背負っている。雨中の山中に泊まった様子である。こちらからあいさつするが、返事もなく、黙々と歩いていく。これから釣り場をめぐって競い合う関係にあるわけでもないのに、陰険だ。

 梢を渡る風に、受けた不快感を払いながら、さらに三〇分以上、くねくね曲がる廃道をのぼると、本流とは異なる瀬音が響いてきた。前方に橋がかかり、沢が横切っている。廃道はまだ上に続いているが、今の本流の水量ではとても入渓できそうにない。即座に、今日は、この沢に生きる岩魚をさぐろうと決めた。沢と本流の出合いを見定めて、小枝につかまりながら、山肌を急降下し始めた。

出合いには、積年を感じさせる積石が囲む一画があり、苔むした穴があちこちに開いていた。かなり古い炭焼き釜の跡だった。ちゃわんのかけらなどを拾って時代を推測していると、沢向かいの朽ち木の陰に石碑がたっているのに気づいた。こんなところに何かと思い、近づくと、高さ一メートルほどの自然石に「軍人記念碑」と刻され、その隣の切石に「日露戦死者芳名」として、四名の名がきざまれていた。石碑は本流を正視していた。人里から二時間近く山道をのぼらないとたどりつけない山中に、碑を建てた人の心情は、鎮魂にあったのだろうか、それとも忠魂だったのか。四名は、歩兵上等兵、一等兵、二等兵、輜重輸卒と階級順に並んでいた。彼らが炭焼き仲間であったとするならば、動員され、死んでなお序列のつく社会は悲しい。

 石碑に心をとられながら、沢水に浸したビール缶をあけ、吹き出した泡を流水にかけて、今年の釣りの果と安全をまじなった。枯れ草に顔を出す、一輪草のうす紫花をよけながら、竿を振り始めた。二メートルほどの浅瀬の流れだが、岩に苔が張りつき、落ち着いた渓相である。岩盤を伝わり落ちる水が差し込む陽の光にはじけ、自然の山葵の群生がみずみずしい葉と清楚な白色の花で目を和ませる。

 この時期の岩魚は、まだ落ち込みの深みに身を寄せている。白く飛沫をあげる落口に仕掛けを沈めていると、竿先が水流に翻弄され忙しくはねる。そんななかでも竿を握る指にかすかな魚信が伝わってくる。待て待て。まだ餌追いも緩慢で、あわてると、空振りする。二呼吸がまんしてようやく合わせると、まだ黒く錆びた、細長い岩魚の尾ひれが水面に跳ねた。

 沢が右に左にくねり始めたその先に、鋭く切れ上がった右岸から雪崩れて大きく堆積している残雪が左岸の大岩に手をのばし、スノーブリッヂを形つくっていた。自然による見事な作品である。ブリッジは堅い氷状となっているが、水滴がぽたぽたと落ちている。もし、これが崩れると、いったん沢水は堰き止められ、そして、一定時間後に決壊し、川津波が起きるのだろう。そんなことを背中の不安にしながら、山を下りた。

 帰宅後、父の書棚から村史を取り出し、「戦争と村の人々」を開いた。このパートの執筆者である石川県立歴史博物館学芸主査により、明治六年徴兵制の施行以来、「村の若者」が「国の兵士」としてもれなくカウントされ、一八九四年の日清戦争以降、戦場に使われていった歴史が明らかにされている。一九〇四年にわが国から宣戦布告した日露戦争では、白山麓の兵士が組み込まれた第九師団は、旅順ロシア要塞への無謀な攻撃に派兵された。その結果、吉野谷村の若者九名が戦死した。鳥越村では三〇名が死んだ。この中に、今も山中で「軍人記念碑」にきざまれている四名もいた。

 そして、日清戦争を機につくられた在郷軍人会が「軍人思想の鼓舞、軍人精神の涵養」の銃後の役割を担い、太平洋戦争に突入していった。この戦争で私の父の兄二人が一九、一七歳で海の藻屑となったことをはじめ、村の戦死者は九一名と記されている。

 この村史は、戦争の侵略性に触れることなく、「村には、村の規模と歴史的背景の中で兵士の生と死をみとどけるとともに、戦争の歴史を静かに受け入れてきたのであった」とあいまいに結んでいる。 私にはきわめて違和感のある情緒的表現であるが、「神の国」発言を生む、靖国神社と結びついた遺族会組織の強固な故郷の風土を感じさせる章であった。