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二〇〇五徳島総会のご案内 その2
団総会前日(一〇月二二日)2つのプレ企画へのお誘い
泉澤  章 第四回アジア太平洋法律家会議(COLAPⅣ)の開催報告
松井 繁明 「つくる会」教科書とのたたかい
〜総括的感想
佐藤 香代 戦後六〇年の重大な節目に真実の和解を
〜チチハル遺棄毒ガス被害弁護団の取り組みを通して〜
阿部 浩基 スズキ賃金差別訴訟判決について
齊藤 園生 発作的映画評論 復帰 VOL1
 「ヒトラー〜最後の一二日間」を観る




二〇〇五徳島総会のご案内 その2

団総会前日(一〇月二二日)二つのプレ企画へのお誘い


1 ルーク・ハイケン弁護士講演会 (国際問題委員会)

 一〇月二二日午後に開催される総会プレ企画の一つ(新人弁護士を対象とする学習会と兼ねています)として、アメリカのナショナル・ロイヤーズ・ギルド(NLG)に所属するルーク・ハイケン弁護士に、「いまアメリカの軍隊と市民生活はどうなっているかー新しい反戦のうねり」と題して講演をしていただくことになりました。

 イラク戦争が泥沼化してゆく中、アメリカでは兵役を離脱する兵士が激増しているといいます。また、長引く駐留と増える死傷者を背景に、イラク戦争に反対する国内世論の盛り上がりは、ベトナム反戦運動以来の拡がりをもってきているともいわれています。最近では、ハリケーン被害に対する政府支援の遅れも、イラク戦争への州兵の大量派兵が原因ではないかとの批判が噴出し、ブッシュ大統領の支持率は就任以来最低となっています。

 今回講演をしていただくルーク・ハイケン弁護士は、NLGの活動家であり、ベトナム戦争以来、反軍活動をした兵士や兵役離脱者を支援してきた弁護士です。今回の講演では、九・一一事件後の「愛国者法」体制下で、アメリカの市民生活がどのような影響を受けているのか、そして市民や弁護士たちが具体的にどのような反戦のたたかいを展開しているのか等について、リアルに語っていただきたいと考えています。また、今回はルーク・ハイケン弁護士とともに、兵役離脱者に対する支援運動を続けてきたマーチ・ハイケン氏にも来日していただきます。マーチ・ハイケン氏からは、市民活動家の立場からみた、アメリカの反戦・反軍運動について発言していただければと考えています。

 戦時体制下にあるアメリカの現状について、普段のニュースでは知りえない話が聞ける非常に貴重な機会です。新人学習会も兼ねる講演会でもありますので、多くの皆様方の参加を呼びかけます。



第四回アジア太平洋法律家会議

(COLAPⅣ)の開催報告

国際問題担当次長  泉 澤   章


 九月二、三日の両日、韓国・ソウルの建国大学において、第四回アジア太平洋法律家会議(COLAPW)が開催されました。約二〇〇名の参加登録者のうち、日本からは参加国中最大となる、約一二〇名の法律家・市民が参加しました。

 開会にあたっては、国際民主法律家協会のシャーマ会長に続き、池田眞規団員が、日本代表として挨拶をしました。また、韓国側からは、ジョン・キンセル建国大学校学長、イ・ジョンビョムソウル弁護士会会長、イ・ソクテ民弁会長とともに、チョン・ジョンベ司法長官も歓迎の挨拶をし、ホスト国である韓国側の熱意が感じられました。

 開会式の後、一日目の午後から二日目午後にかけては、テーマごとに三つの分科会に別れ、それぞれのテーマに即した報告と質疑応答、討論がなされました。予定されていたテーマが、核や平和をめぐる問題から、政府の人権弾圧、司法制度改革、労働、財政改革といった問題まで、非常に幅広い内容となっていたため、進行をめぐっては若干の混乱も予想されましたが、韓国側運営委員会の努力もあって、滞りなく進行することができました。

 日本からは、主に平和問題を扱う第一分科会において、日本国憲法九条改悪問題を集中的に報告したほか、教科書問題や歴史認識問題についても報告がなされました。また、人権問題を扱う第二分科会では、治安維持法、在日韓国人問題、多国籍企業への抵抗、そしてイラク派兵差止訴訟について報告がなされ、第三分科会では、司法改革、長時間労働と過労死問題、そしてハンセン病問題などについて報告がなされました。日本側の報告は、そのほとんどが事前に詳細なレポートとして提出されていたため、各国の参加者にも分かりやすいという評価を受けていました。

 二日目の大会最終日には、今回のCOLAPWの成果として、共同宣言(ソウル宣言)が採択されました。ソウル宣言では、アメリカのアフガンやイラクへの侵略戦争を弾劾し、アメリカ軍だけでなく、現在イラクへ派兵を続けている韓国と日本の軍隊を即時徹底させるよう求めています。また、日本国憲法九条の原理が、アジア太平洋地域における「人民の希望」となりうるとして、日本国憲法九条の改定に反対しています。自衛隊のイラク派兵に反対し、憲法九条改悪に反対するわれわれにとって、この宣言は、アジア太平洋諸国からの力強い支援となるのではないでしょうか。

 こうしてCOLAPWは、成功裏のうちに幕を下ろしましたが、会議の成功にあたっては、ホスト国である韓国の法律家の方々には大変な負担をかけました。日本側準備委員会を構成する一団体として、この場を借りて御礼申し上げます。

 また、団員の方々には、会議成功のため、たくさんのカンパをいただきました。皆様には御礼を申し上げるとともに、今後とも国際交流へのご支援を賜りますよう、よろしくお願い致します。



「つくる会」教科書とのたたかい

〜総括的感想

東京支部  松 井 繁 明


 〇五年「つくる会」教科書採択状況の全容がほぼ判明した。

 「つくる会」歴史・公民教科書を採択したのは栃木県大田原市と東京都ろう・養護学校。同歴史教科書のみを採択したのが、東京・杉並区、東京都中高一貫校、愛媛県(ろう・養護学校と中高一貫校)および滋賀県の中高一貫校の一校であった。これ以外に公立中学用に「つくる会」教科書を採択した採択区はなかった。

 四年前に市区町村レベルでの採択が皆無となった「つくる会」はリベンジを誓い、〇五年には一〇%(約一二万部)の採択をめざした。もしこの目標を切れば扶桑社が手を引くだろうと、危機感をあおってきた。しかしその採択率は、上記のほかごく一部の私立学校(一三校)をふくめても、歴史で〇・三八%(約四八〇〇部)、公民で〇・一九%(約二三〇〇部)にすぎなかった。「つくる会」の危機は深刻だが、四年後の教科書採択では歴史・公民だけでなく、地理、国語および家庭科教科書にも進出すると表明している。

 「つくる会」教科書の採択に反対してきたわれわれの立場からみると、どうであったか。

 大田原市については事前の情報もなく、まったくの不意打ちであった。しかしこれが、栃木県内にもまったく波及しなかったことにより、その後の他県の採択にも悪影響をおよぼすことはなかった。栃木県内の反対運動の成果であった。東京都と愛媛県の採択結果は、われわれの「想定内」であった。東京都の採択が審議なしでおこなわれたため、つよいメッセージを発信できなかったことは、むしろ「つくる会」にとっての誤算であったろう。杉並区ではよくたたかい、ぎりぎりまで追いつめたが、区長が教育長を差し替えた結果として、やむをえなかった。滋賀県については情報も乏しく意外な結果となった。このほかにも「危険」とみられる地区が多々あったが、いずれもクリアした。−総じて、わずかな後退はあったが、ほぼ完勝といってよいだろう。

 自由法曹団はよくたたかったと思う。

 「つくる会」公民教科書にたいする意見書(検証・「つくる会」公民教科書)は、時間をかけ智恵を集めて、説得力のあるものとなった。巻末資料の比較は、とりわけ効果的だったようである。この意見書などを各教育委員会に届ける活動は、全国的にほぼ漏れなく展開された。それもふくめて、地域の草の根的運動とも連携した各支部・県の活動には、目をみはらされるものがあった。「静ひつな環境」に関する文科省への要請活動とその結果は「しんぶん赤旗」でも報道され、全国の運動をはげました。

 このなかで団東京支部はリーダー的役割をはたした。

 〇四年一二月に、はやくもプロジェクト・チームを発足。短期間で宣伝リーフを作成・配布するとともに、〇五年四月発足の本部プロジェクト・チームとそのもとでの「つくる会」公民教科書の「検証」作業の中核をになった。日の丸・君が代問題と教科書問題を結びつけて訴えた三月一七日の集会、七月二六日の都教委に対する共同請願行動、同二八日の都庁前宣伝行動は団支部が企画・設定したものである。全都の市区町村教委に資料を届けきり、「危険地区」とみられた千代田、品川、台東、町田、西多摩協議会などでも「つくる会」教科書の採択を阻止した。都と杉並をのぞけば、ほぼ完勝であった。「つくる会」が東京の半数を制することを目標としていたことからも、東京での勝利の意義は大きい。

 こうした闘いをつうじて、注目すべき点が二つあると私は思う。

 ひとつは、この闘いの性格から全国の市区町村単位で草の根的運動体が網の目のように形成され、インターネットをつうじて相互に連携しあったことである。これは貴重な財産であり、今後の憲法改悪阻止のたたかいにも生きることであろう。

 もうひとつは、全国の教育委員らの動向である。教育委員に選ばれるのはそれぞれの地域の「名士」や「有力者」であって、一般に保守的心情の持ち主と推定される。その彼ら(彼女ら)が、戦争を讃美し、改憲を誘導する「つくる会」教科書を採択しなかった。そのなかにわれわれは、わが国の保守層の良識と健全さを見てとることができるのではあるまいか。このことは、九条を改悪し、アメリカと海外で戦争をする国につくりかえる憲法改悪には、保守層のなかにも反発のありうることを示唆するものである。

 さいごに、この「暑い夏のたたかい」に奮闘し、勝利をおさめた全国の団員、東京支部団員とたたかいをともにした事務局労働者のみなさんに、敬意と感謝を申し上げる。この勝利に確信をもち、引きつづく改憲阻止のたたかいに力をつくしてゆこうではないか。

(東京支部ニュース九月号より)



戦後六〇年の重大な節目に真実の和解を

〜チチハル遺棄毒ガス被害弁護団の取り組みを通して〜

東京支部  佐 藤 香 代


 二〇〇三年八月四日に、中国のチチハルで起きた旧日本軍遺棄毒ガス被害事件を覚えているでしょうか。

 このとき、四四人という多数の人々が一度に被害を受け、彼らは、事件から二年が経過しようとしている今も、深刻な後遺症に苦しめられています。

 私は、昨年一〇月に弁護士となって、右も左も分からぬままに、このチチハル被害弁護団の一員となりました。そして、一一月に現地調査に行って以降、今日まで様々な活動をしてきました。

 八・四チチハル遺棄毒ガス事件の概要

 チチハル事件は、二〇〇三年八月四日に、中国黒竜江省チチハル市内の北疆花園団地の地下駐車場建設現場から、五つのドラム缶が掘り出されたことから始まります。このドラム缶には、旧日本軍が第二次世界大戦中に秘密裏に製造したマスタードガスが詰められており、また、ドラム缶から漏れた毒ガス液が周辺の土を真っ黒に汚染していました。

 このドラム缶は、再利用する目的で、廃品回収所に持ち込まれ、さらに、最終的には無害化処理のために化学工場へ運ばれましたが、この過程で、発見現場である工事現場や、廃品回収所、化学工場にいた人々が次々と被害に遭いました。

 また、周辺住民が、汚染された土をそうとは知らずに、駐車場や自宅の庭や学校の校庭を整地するために買っていき、チチハル市内の各所に汚染土が運ばれていきました。

 こうした経過から、毒ガス被害が市内に拡大し、現在把握されている限りで、四四名(そのうち、一三歳以下の子どもが五人)が被害に遭い、そのうち一人は全身に毒ガスが触れたために亡くなっています。

 毒ガス被害の実態〜年を経るごとに悪化する症状〜

 私が、被害者と会って、まず驚かされたことは、事件後、二年が経過しようとしている今もなお、彼らの症状がまったく良くなっていないことです。

 マスタードガス中毒については、皮膚の腐敗がクローズアップされがちですが、現実には、体中の様々な器官に中毒症状が現れています。

 現在、被害者が共通して訴えている主な症状は、(1)皮膚のびらんした箇所のかゆみ・痛み、(2)視力の低下、(3)朝晩の激しい咳き込み、肺機能の低下、(4)体力の低下、(5)集中力の低下、(6)頻繁に風邪を引く(免疫力の低下)、(7)性的不能など、実に多岐に渡ります。

 そして、このような深刻な被害状況がほとんど改善しないため、多くの被害者が現在も就労に復帰できていません。

 また、マスタードガス中毒は感染するという、誤った噂が流れているため、被害者は、近隣の住民や、友人、親戚からも差別されながらの生活を強いられています。

 子どもの被害者の中には、退院後復学する際に、クラスメートの保護者から「感染しないという証明書を出して欲しい」と要求された子までいるのです。

 こうした周囲から厳しい差別があるために、被害者の多くが、家の外に出ることを恐れて、孤独な毎日を過ごしています。

 八月五日、政府交渉の実現

 私たちは、七月二九日から八月九日の一二日間に渡って、チチハルから六人の被害者(小学生の女の子三人、成人男性三人)を招きました。そして、この一二日間、多数の国会議員や新宿区長との面会や、茨城県神栖市の被害者との交流会、多くの市民集会への参加、日本国内の病院での健康診断の実現などのたくさんの活動を通じて、チチハル被害者の真の被害救済の必要性を訴えました。

 こうした様々な活動と多くの人々のご支援が実を結び、八月五日に、被害者と弁護団は外務省の相沢副大臣との面会を実現することができました。

 相沢副大臣は、「国家間においては、八・四チチハル事件は解決済みである」との従来通りの見解を表明したものの、彼らの深刻な被害実態を見て、「副大臣に就任して、これほど心の痛む話を聞いたことはない」と述べ、今後の対応につきさらに検討する姿勢を示しました。

 今回の活動の中で、このような政府の見解を引き出したことは、大変な成果と言えます。

 「私の夢はもうかなわなくなってしまいました。」今回の事故で毒ガス被害に遭った、ある少女の言葉です。

 別の男の子は、将来サッカーの選手になるのが夢だったのですが、足に集中的に被害を受けてしまったため、もう十分に走ることはできません。

 これが、今の日本の戦争の現実です。六〇年たってもまだ、人々の人生を、子どもたちの夢を一方的に破壊する、それほど愚かな行為です。

 今までの私は、日本の戦争責任というものと真剣に向き合うこともなく、今日まで過ごしてきたし、それが私の世代では普通であったと思います。心のどこかで、もっと真剣に向き合わないといけないと感じつつも何とか避けて通ろうとしてきたとさえ、言うことができるかもしれません。

 しかし、私は、このチチハル事件に関わって以来、中国の人の立場や視点から、日本の戦争を見つめ直し、中国の人々の心を理解しようとしてきました。私は、今なら、もう少しだけ、自分自身の言葉で戦争を二度としてはいけない理由を語れるようになった気がしています。

 どうか今後とも、チチハル事件の全面解決に向けて、ご支援を頂ければと思います。


スズキ賃金差別訴訟判決について

静岡県支部  阿 部 浩 基


 本年九月五日、静岡地方裁判所浜松支部は、日本共産党員の活動家七名が、その活動故に賃金、賞与等において不当に差別されたとして、スズキに対して、差額の賃金等の賠償を求めた裁判で、日本共産党員として活動したことによる差別を認め、差額の賃金、賞与、退職金、慰謝料の支払いを命じる判決を言い渡した。但し、一名については差別がなかったとして請求を棄却した。

 スズキは、自動二輪車、軽自動車で日本を代表するメーカーであり、自動車会社の中では「勝ち組」に属し、売り上げ、利益とも伸ばしている。同社会長のワンマン鈴木修氏は静岡県西部の国会議員や浜松市の市長の首をすげ替えるほどの「実力者」でもある。

 原告らは、現在、五〇代から六〇代前半の年齢であり、入社後まもなくの若い時期に日本共産党に入党し、以後一貫して職場における労働者の権利と生活を守るために活動を行ってきた。しかし、それら活動は、あくなき利潤の追求のために、労働者の肉体と精神をぎりぎりまで搾り尽くそうとする企業の論理・行動と必然的に衝突した。原告らは、職場では労働者の模範となるように人一倍職務に励んだから、原告らに対する職場の同僚の信頼は高かった。

 それゆえ、スズキは日本共産党の影響が職場で強くなることを怖れ、これを妨害するために、公安警察出身者を日本共産党対策の責任者として中途採用し、日本共産党員の活動を徹底的に妨害し、彼らを職場で孤立化させ、その影響力をそごうとしたのである。日本共産党員に対する見せしめの最たるものが賃金差別であった。

 もともとスズキは自動車会社の中では最低の賃金水準にあるが、その上に賃金差別されたため、勤続三〇年になっても手取りで月額二〇万円にもならないという苛酷な低賃金となった原告もいる。共働きの妻の収入や親族の援助がなくては家族の生活は到底成り立たなかった。

それゆえこの裁判は原告らにとって日本共産党員としての自らの生き様を問うた裁判でもあった。

 訴訟において、スズキは、日本共産党員は「企業破壊者」(もはや時代遅れのフレーズである)であると決めつけ、日本共産党員に対する偏見を公然と披露し、原告らの低賃金は原告らが「企業破壊者」として真面目に仕事をしなかったこと、例えば時間外労働に協力しないとか、仕事の能力、意欲の無さなどに原因があるとして、個人の責任に帰着させようとしたが、そのもくろみは成功しなかった。

今回の判決は、最近のクラボウ、新日鉄広畑の同種事件判決に次ぐもので、職場での思想差別は許さないという裁判の流れを確固たるものにしたと言える。

 反共差別意思の認定

 本件では、スズキの反共差別意思を証明する会社の丸秘文書の類は全く入手できていなかったが、判決は、(1)本社正門前での原告らのビラ配布、日本共産党の候補者の演説をスズキが執拗に妨害したこと、(2)監督者教育での反共教育と受け取られるような教育が行われていたこと、(3)労働組合支部委員選挙において職制が相当程度介入していたこと、その労働組合が日本共産党スズキ自工支部作成の冊子「わっぱ」を排除すべきものとしていたこと、の三点から被告が日本共産党を嫌悪、警戒していたと認定した。当時配布したビラはほとんど残っており、主要なものは証拠として提出したが、それらビラには、春闘、一時金闘争の際に要求実現を求めて労働者を励ましたもの、「合理化」反対、労働基準監督署への申告(労災認定闘争と大企業黒書運動)に関するもの、会社に対する裁判の支援などが書かれていた。判決は、これら原告の活動をもスズキが嫌悪していたと認定したものと見てよい。

 損害の認定

 提訴の時点では同期同学歴者の平均賃金を賃金アンケートの結果や労働組合の賃金資料などから推定して提訴したが、提訴後、賃金台帳の提出命令を求めて、同期同学歴者の賃金台帳を開示させた。

 スズキの賃金体系は、平成八年に大きく変更されており、それまでの旧賃金体系について、判決は、終身雇用制を前提として年功序列型賃金体系であると認定したが、現行の賃金体系は、能力給的側面が強く使用者の裁量が大きいと認定している。

 旧賃金体系のもとでは、1から5までの考課査定のうち、最低の「1」をとり続けると考課累積点がゼロで全く昇格しない仕組みになっていた。判決は、この「1」の査定は懲戒処分の一種の昇級停止に等しいとして、正当な理由無く会社に出勤しないような場合にしか付けてはいけないものだとの判断を示した。その上で、原告らに対するスズキの勤務態度に関する悪口をほとんど認めながらも、それでも「1」の査定は裁量の範囲を超え差別であると認定したのである。

 たとえば、多くの原告らについてスズキは、低査定の理由として残業・休出・交替勤務をしないことをあげていたが、判決は、残業・休出・交代勤務をしないと相対的に低い考課査定になることはやむを得ないものの、あまりに低い考課査定をするとなると、実質的に従業員に残業や休日出勤を強制することになりかねないから、ここでいう相対的に低い考課査定というのは、あくまでも会社の要請に応じてその生産計画に協力していることを勤務態度の一事情としてプラスアルファの評価をしたことと表裏の関係にあるものであるから、このことだけを理由として、考課累積点が0点になってしまう「1」にまで劣位に評価することはできない、と認定した。

 こうして査定「1」については原則として差別であるとしたが、その一方で査定「2」は原則として裁量の範囲内だとした。

 具体的な損害額については、現実の賃金額と同期同学歴者の平均賃金額の間で、裁判所が差別がなかったら少なくともこれくらいの賃金にはなっていたであろうという金額をアバウトに認定し、その金額と実際の賃金額との差額をもって賠償の対象とした。したがって、請求金額に対する判決の認容金額は高くはない。同期同学歴者の水準までは認められていない。その差額賃金を前提に賞与、退職金の差額が算定されている。慰謝料は、賃金の差額の大きい原告ほど多額に認定されている。

 請求を棄却された一名は、査定「1」を受けたことがなかった。

 六名については勝訴と評価できるが、賠償金額が一部にとどまったことから、また一名について棄却であるので、全員控訴する予定である。スズキも控訴することになろう。

 弁護団は、田代博之、渡辺昭、塩沢忠和、中川真、宮崎孝子、藤澤智実、小笠原里夏と私の八名である。

 第一次提訴(一名)は、二〇〇〇年七月六日、第二次提訴(六名)は、二〇〇一年一〇月五日である。判決まで約五年を要したことになる。

 この間「支援する」の総会には、国民救援会会長山田善二郎氏、現団長の坂本修先生、元幹事長の篠原義仁先生、元団長宇賀神直先生と次々に「大物」に来ていただき、激励(アジテーション)と貴重なアドバイスをいただいた。


発作的映画評論 復帰 VOL1

「ヒトラー〜最後の一二日間」を観る

東京支部  齊 藤 園 生


 自由法曹団通信読者のみなさん、お久しぶりです。この映画評論をご無沙汰するようになり、「最近映画は観ていないの?」「あの連載はやめたの?」とよく質問をされます。いえいえ、映画は観ています。連載をやめたつもりもありません。ただ、次長を辞めたとたんに、仕事に忙殺されてしまい、書く余裕がなかったのです。すいません。今回紙面の多角化を図ると言うことで、再び駄文を載せていただくことになりました。しかしこの企画「発作的」ですからね。またいつ何時、中断されるかはわかりません。長い目でおつきあいください。

 さて、復帰(?)第一弾は、ドイツでは公開自体が衝撃だったと言われる「ヒトラー〜最後の一二日間」。監督オリヴァー・ヒルシュビーゲル、主演ブルーノ・ガンツ。私はこの映画を観て、これはなんとしても映画評論を書かねば、と思いました。実に多くのことを考えさせます。確かに衝撃的です。しばらく席から立ち上がれず、じっと考え込んでしまいます。

 内容は、敗戦濃厚なベルリンで、ヒトラーが自殺するまでの最後の一二日間の状況を、彼の秘書の目を通して淡々と描いています。戦況が厳しくなるにつれ、第三帝国の幹部達の中には、ヒトラーに対する忠誠が薄くなり、意見も言わない、命令も無視する、果ては自己保身のために逃亡したり、女や酒におぼれ現実逃避する者が現れ、帝国は内部から崩壊していきます。一方で、ナチ社会以外で子育てはできないと、自分の子を一人一人毒殺し、夫とともに自殺したゲッペルズ夫人、第三帝国を守ると言って犬死にしていく少年少女兵など、ナチスを狂信的に信じ殉じていった多くの人も描きます。映画はヒトラーの人間性についても、決して狂人としていません。彼は戦況が厳しくなるにつれ正常な判断ができなくなり、時に激高し、部下をなじりまくり、若い軍人やベルリン市民が死のうと「それがどうした」と言い切る反面、女性、子ども、身近な人間に実に優しく思いやりがあります。秘書をして、この二面性を「謎だ」と言わしめています。そして最後には妻エバと自殺していきます。

 映画の最後を観てください。晩年の秘書のインタビューが流れます。ここに監督の意図が現れています。一人の人間として還元されたとき、ナチスを信じ支持した人も、帝国の幹部達も、そしてヒトラーさえも、決して狂人ではなく、むしろ普通の人ではなかったのか。今の私たちと何が違い、再びナチ社会をつくらない保障はどこにあるのか。いや実は、今同じことが繰り返されつつあるのではないか。映画は突きつけてきます。恐ろしいですよ、これは。

 そして私は、この映画が戦後六〇年の今年、ドイツ人の監督とドイツ人のスタッフに制作されたことに、また感銘を受けるのです。これが戦後、戦争責任に正面から向き合ってきた国とその文化の根強さだと思うのです。日本で今「天皇ヒロヒト」という映画が作れるでしょうか。せいぜい戦艦大和の懐古趣味的映画を作るのが関の山です。戦争責任から逃げ続けだまし続ける国との違いと言えましょう。

 齊藤園生的おすすめ度一〇〇%