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笹山 尚人 国家公務員法弾圧・堀越事件で東京地裁が不当判決
石井 逸郎 裁判官はどうして猿仏最高裁判決を「指導的判決」とまで言ったのか??〜堀越事件第一審判決の感想〜
玉木 昌美 滋賀支部だより
寺田 秀孝 「日本の海に空母はいらない―七・九首都圏大集会に参加して―」
濱口 都子 広島憲法ミュージカルのビデオはいかが?
加藤 雅友 長春かけある記




国家公務員法弾圧・堀越事件で東京地裁が不当判決

東京支部  笹 山 尚 人

一 堀越事件と不当判決

 東京地裁刑事第二部(毛利晴光裁判長)は、被告人堀越明男氏が、国家公務員法違反に問われた国家公務員法弾圧・堀越事件につき、六月二九日、堀越氏を罰金一〇万円、執行猶予二年とする有罪判決を言い渡した。

 目黒社会保険事務所に勤務する社会保険庁職員堀越氏は、二〇〇三年の衆議院選挙の際,休日に赤旗号外・東京民報号外を郵便受けに投函するポスティングの方法で配布した。本件は、この行為が国家公務員法一〇二条・一一〇条,人事院規則一四―七の政治的行為の禁止規定に抵触するとして、二〇〇四年三月三日に堀越氏が逮捕され,三月五日に起訴された事件である。堀越氏及び弁護団は、国公法及び人事院規則の違憲性及び猿払事件最高裁大法廷判決の判例変更の必要性等を訴えて争ってきたが、裁判所は、これらの主張をほぼ全面的に退けた。

 憲法を踏みにじる不当判決で、まことに許し難い。

二 言い渡しのとき

 判決の言い渡しは、午後一時三〇分から、午後三時五〇分ころまで、およそ二時間半弱と続いた。要旨が配布されたので結果的には不要であったが、私は、判決理由を確認するためのパソコンでの速記を担当した。この速記が、苦痛で苦痛でならなかった。聞くに耐えないとはこのことである。「弁護人の主張はかくかくしかじかである。事実はこうである。確かにそういう側面はある。しかし、このようにいうことができる。してみると弁護人の主張は、独自の主張で採用できない。」という、できの悪い論文試験の答案のような文章は、パターンが読めて退屈だったし、その上自分たちの言い分が非難されるとわかっているのに聞くのはつらい。おまけに裁判所の言う核心の部分がひどすぎた。そのひどい内容を自覚しているのか、肝心の部分を話す裁判長の声はひどく低く、ボソボソしていて、聞き取りにくいことこの上なかった。

 隣で同じく速記を担当した佐々木団員(旬報)が、途中で飽きているのがわかった。私と同じ心境だったのだろう。

三 ではそのひどい判決とは

 判決は、弁護人の主張中、堀越氏をつけ回し、行動をビデオで撮影し、配布行為と関係のない箇所でも撮影し、私生活を監視した捜査が行われたこと、しかもそれは共産党や堀越氏に対する日常的な監視活動に基づいて行われたものであること、だからこれは違法だから、公訴棄却をすべきである、もしくは違法収集証拠によって証拠を排斥すべきである、という点には次のように判示。

 捜査の端緒がたまたまであったという公安警察官の証言をほぼそのまま認定。そして、日常的な監視などとは憶測の域を出ていない。堀越氏を尾行し、行動をビデオ撮影した点についても、被告人の嫌疑が具体的に存在する中で立証のために収集するという目的及び捜査内容からして、任意捜査として求められる限界を突破しているとは評価できない。なぜなら、堀越氏の監視された行動は、公道上のものだからプライヴァシーが一定放棄されているし、堀越氏の行動が制限されたわけではないから。したがって、捜査に違法はない。 裁判所は、ビデオ撮影の合法化をはかるために、京都府学連事件で最高裁が立てた「犯罪の現在性」という要件をわざわざ修正して勝手に要件を立てて、現在犯罪が行われていない場面での撮影を合法化までした。

 わずかに違法と判断されたのが、日本共産党の千代田地区委員会への出入りに関するビデオ撮影について。しかし、この違法はだからといってその他に影響はしない、という。

 呆れてものがいえない。それじゃあ、毛利さん、警察官が嫌疑さえもてば、あなたを尾けても、かまわないってわけね。公道上はプライヴァシーはないんだもんね。たちはだかって邪魔さえしなきゃいいんだよね。

 共産党への監視、という問題でも、世間を知らなさすぎるのではないですか?サンデープロジェクト見なかったでしょ?

四 違憲論はさらにひどい

 これだけでももうおなか一杯、十分不快な思いをさせてもらったが、その後述べられた違憲論に対する判断が、メガトン級に気分が悪い。

 国公法が文面上もしくは本件への適用上違憲無効であって、猿払最高裁大法廷判決は誤っており判例変更されるべきである、という点について。猿払事件最高裁判例は、指導的な判例として今も機能しているというのが結論。合憲性判断は、合理的関連性の基準でいく。政治活動は重要だが、行政の中立も大事だから。確かに堀越氏の行為は、配布された周辺住民にとって役に立ち、職場への影響もなかったかもしれないが、行政の中立的運営とそれに対する国民の信頼という保護法益は、国民全体の共同利益であって極めて重要でである。その見地からして、公務員の政治的行為が行われることは、公務員の政治的中立性が損なわれ、公務の運営に党派的偏向を招くおそれがあり、行政の中立に対する国民の信頼が損なわれかねない。このようなことは、蟻の一穴でも、その後の累積的、波及的効果を考えざるを得ず、禁止の目的は正当である。ならば制限を受けるのが国民の一部である公務員であり、かつ禁止されるのも一定の行為に限られ、失われる国民の利益との比較でも遜色がないから、手段に合理的関連性がある。だから違憲ではない。表現の自由の優越的地位を強調してあまり厳密に判断することにすると、憲法上の重要な国の利益を損なうことになるし、裁判所の能力を超えてしまうので、予防的に規制するほうが合理的だし、裁判所としても立法機関の判断を尊重したい。罰則をつけたとしても、保護法益が重要で、行為が限定されており、罰金だって用意されているんだからいいじゃないか。

 仮に勤務時間外に、職務と関連なく行っても、政治的行為が組織的に行われれば、国民の信頼を損ねることにかわりない。仮に国民に認識されないように行っていたとしても、あとからそれを知った国民が信頼を損ねることにかわりはない。人事院規則が定めた行為を行えば、その保護法益を侵害する抽象的危険は発生するのであるから、公務の組織の政治的行為を許容することにつながりかねず、累積的、波及的効果を考えれば事案の特殊性も、軽視はできない。

 芦部先生がご存命であったら、嘆いただろう。裁判官が、ここまで表現の自由の意味をわかっていないとは、と。

 私が力を入れて弁論したところだけに、表現の自由の重要性について全く理解が及んでいない、というか脳みそが固まって思考が停止している判断に、胸が悪くなる思いがした。堀越さんがまいたビラが、「憲法九条を守ろう」という彼の思いをのせたものであり、ビラが重要な情報ツールとして高層マンションで大変役立っているという事実、こうした情報のやりとりがどれだけ議会制民主主義にとって重要か。私たちが積み重ねた事実を全く見ていない。これだけ重要なことを制限するには、必要不可欠な利益と必要最小限な手段が必要だと言っただろ!まして、「一部の公務員の人権なんだから、国民の利益に比べればいいじゃん」という判断。はあ?あなたがたは裁判所でしょ?民主主義が正しいとしたことでも、それによって被害を被る一人の人権を、守るべきかを憲法に照らして審査して、憲法によって守るべきという判断をするところでしょうが。しかも、守ろうとするのが「憲法上の重要な国の利益」。んなもんねえよ!公務員への波及云々については、ほんっとに呆れ果てる。あなたさあ、ほかの人が政治的行為をしてたら、同じ公務員だからって一緒に暴徒化するの?そんなことが本当に起こると思っているの?

五 量刑の理由こそ堀越氏の無罪の証

 判決は、量刑の理由として、「被告人が休日に職務と関係なく行ったもので、職場に影響がなかったこと、保護法益をただちに侵害する具体的な危険がないこと、この種事案の判決が猿払事件最高裁判決以来ないこと」などをあげて、堀越氏に酌むべき事情があるから執行猶予とした、と判示した。

 実は、この判決でもっとも重要なのはこの部分ではないかと思った。わかってんじゃん、あなたがたは。堀越さんのしたことが、褒められこそすれ、社会に害悪をもたらし、人から非難されるようなことではない、そういう行為だったということが。この判示こそ、堀越氏が、「本当は無罪」であることを雄弁に語っていると見るべきであろう。

六 控訴審へ

 堀越氏及び弁護団は控訴を決めた。あーあ、夏休みは控訴趣意書か。しかし、これほど腐っている裁判所の内外で、奮闘して民衆の人権のためにたたかうのは私たち団員の仕事だろう。裁判所が、表現の自由をいとも簡単に軽視し、「国の利益は大事」などとさらっと言ってしまえるところに、公益を盛り込もうとする自民党新憲法草案との親和性を感じる。今こそ、憲法を真に守り発展させるための正念場だ。

 というわけで、弁護団の皆さん、更に頑張りましょう。全国の団員及び団員事務所に勤務する職員の皆さん、よろしくご支援お願い申し上げます。

 最後に、汚い言葉がつらなってすいません。判決の翌日にこの文章を書いています。ご容赦下さい。



裁判官はどうして猿仏最高裁判決を「指導的判決」とまで言ったのか??

〜堀越事件第一審判決の感想〜

東京支部  石 井 逸 郎

 社会保険庁の職員の、平成一五年の衆議院選挙において、休日、自宅付近で、自身の支持する政党のビラ配りを手伝った行為が、先ごろ、有罪判決を受けたのであるが、新聞でも大きく報道されたので知っている方も多いと思う。私も弁護団の一員として、二時間三〇分に及ぶ判決を聞いた。裁判官は、本件行為は確かに行政の中立性を害するものではないと強調して、罰金刑に二年間の執行猶予を付するという異例の判決だったのであるが、だったら端的に無罪にすればいいのに、というのは傍聴していた全ての人の感想だったと思う。

 この裁判官にとって、約三〇年前の猿払最高裁判決は今日もなお「指導的判決」なのだそうである。これを前提にすると、本件も有罪にせざるを得ないとし、その猿払最高裁判決や国家公務員法一〇二条一項・人事院規則第六項七号一三号がどうして合理的なのかという点については、確かに一人の国家公務員の政治的行為が直ちに行政の中立性を害するものではないとしても、一人の国家公務員のたとえ休日、職務と関連しない態様での政治的行為といえどもそれを許してしまうと不特定多数の国家公務員にも伝播し、ひいては職務においても政治的偏向が生じ、行政の中立性に対する国民の信頼が損なわれる等という論理を強調するのみだった。「累積的波及的効果」だとか「予防的規制として合理的」等と言っていた。「指導的判決」との評価には裁判官の猿払最高裁判決への強い思い入れを感じる。

 私は聞いていて、何だか釈然としない思いを抱くとともに、ちょうど中学時代にタイムスリップしたかのような感覚にとらわれていた。そう、この論理は、中学時代、担任の先生とよく論争したときに、先生に言われた論理と瓜二つだったのだ。何故、靴下は白でなければいけないのか?長髪は何故だめか?どうして黒の制服を着る必要があるのか?こういうがんじがらめの校則は人権侵害じゃないのか??こうした当時の子どもたちの怒り、素朴な問いかけに、先生は、確かに色の付いた靴下を履いたからといって直ちに不良少年になるわけではない、しかし、一旦それを許すといつしかファッションにばかり気にする子どもになり、あるいは一人に許すとみんながファッションにばかり気にするようになり、ひいては学校全体の学問の気風が損なわれ、学校が荒れる、という論理を繰り返していた。私は、今回、弁護団の中でこの猿払最高裁判決の論理の批判を担当してきたせいでもあるからなのであろうが、判決を聞きながら、まるで、あの中学校の先生と論争した時に感じた感覚(先生が、私の問いに対して、何一つ合理的な回答をしてくれないことへの哀しさ、腹立たしさ等)と同じものを感じたわけだ。

 裁判官は、休日、職務と関連しない態様で政治的なビラを配ったことによって、職務においても党派的偏向のある行為をする恐れがある、などと本気で心配しているのだろうか?一人の国家公務員に休日の職場外といえども政治的行為を許すと、多くの国家公務員にも波及していき、すると日本の行政がめちゃくちゃになる、と本気で思っているのだろうか?実は私は、判決を聞きながら、あのときの中学校の先生と同じで、裁判官は本気で心配しているのではないか?と思えた。つまり裁判官は、日本の国家公務員を、中学生と同じ知的水準のものとしてとらえていて、本気で心配しているのではないだろうか?中学生が一人でも不良になって荒れだすと、みんな荒れだして、そのうち学校全体が荒れるように、一人の国家公務員に政治的行為を許すと、多くの国家公務員にも伝播して、政治的ストを繰り返すようになるのではないか?とマジで心配しているのではないだろうか?ワールドカップでの日本の惨敗をきっかけに、管理型サッカーかジーコ流の選手の自主性尊重スタイルかが問題となっていて自主性尊重スタイルは日本には合わないとの論調まで生まれているようであるが、もしかするとこの種の発想は、多くの日本人の心性(メンタリティ)に基づくものであるようにも思えてきた。

 この中学校の先生と今回の裁判官とは、一人一人の子どもたちや国家公務員の、個人としての尊厳や自己実現よりも集団としての秩序維持を優先させる点で、心性が共通している。こういう心性がどういう歴史的、風土的背景の基に醸成されたのかは一つの社会学的テーマとしてそれ自体興味を覚えるが、今はそんなことはどうでもよい。問題は、日本の裁判官が、あのときの中学校の先生と同レベルの、感性的にも古臭い、その辺のおじいさん、おばあさんと同じ心性・感覚で裁判をしているということなのである。

 裁判は、情緒論で行なうものではない。ある法律が憲法二一条に違反するかどうかについての合憲性審査が、そんな水準で審査されたのでは困るのである。約三三万人に及ぶ国家公務員の表現の自由(憲法二一条)の有り様が問われているのだから。厳格な審査基準の基に、法原理的に為されなければならない。その上で、このような規制に、客観的合理性がないとなれば断固として違憲であると言わなければならないし、それこそが三権分立の要請である。

 中学校の校則と同じレベルで考えられたのでは困るのだ。今回の堀越判決の一番の問題は、この点にこそあると私は思っている。



滋賀支部だより

滋賀支部  玉 木 昌 美

 団通信に、えらそうに「各支部から常任幹事会に参加しよう」という趣旨の原稿を書いておきながら、このところ日野町事件その他の関係もあり、欠席が続いた。また、本年度の五月集会の特別報告集には、支部活動についても原稿依頼があったが、日野町事件と滋賀・弁護士九条の会の二つを書いただけで、支部活動を落とした。 その関係で、今回滋賀に支部活動の原稿依頼がきたようである。よく、考えれば、前回の常幹への原稿が支部活動報告であったとも言える。しかし、依頼をはねつけるわけにもいかないので、ご報告する。

 二〇〇四年の長浜の五月集会の際、私は閉会の挨拶で、これを契機に滋賀支部の活動を再建したいという趣旨の発言をした。当時、滋賀支部は、団員がそれぞれに人権課題の事件活動をすれば、それが団の活動であり、忙しいのに会議をするまでもない、という風潮が一部あったからだ。しかし、それではいけないということで、このところ、ずっと例会を開催してきている。

 二〇〇六年度の例会の内容は次のとおりである。

一月二〇日 国民保護法制(有事法制)について(坂梨)ほか

二月二七日 地方自治をめぐる諸問題について(玉木)、着物の過量販売問題について(吉原)

四月 五日 冤罪日野町事件報告(玉木)

五月二四日 公判前整理手続の経験報告(永芳)、五月集会報告(近藤ほか)

七月二五日 労働審判制の活用法(荒川)、労働契約法制(玉木)−予定

 なかでも、坂梨団員(五七期)の国民保護法制の報告や永芳団員(五六期)の公判前整理手続の報告はすばらしく、若い弁護士のパワーを感じさせるものであった。

 この例会には修習生の参加もそれなりにあり、修習生支援になっている。

 ちなみに、大津修習は、五八期八名、五九期一六名(二倍)、六〇期二四名(三倍)と増加してきており、会員数に対する修習生の受け入れ率は全国一と思われる。五九期からは、一九期の吉原団員まで個別修習担当に復活した。また、一二名の団員中、実に九名の団員が指導を担当している。二〜三年前、岩田団員から、大阪ではあれだけの人数がいても、たったの数名の団員しか修習生の個別指導担当していないと聞いたが、大違いである。その関係もあってか、五九期は一〇名が就職予定であり、うち、三名は団員の事務所に就職する予定である。会員数六〇名の弁護士会が一挙に七〇名の会になるが、合格者増の影響は甚大である。今後は就職できない修習生の問題が顕著になるのではないかと予想される。

 弁護士会の活動では、現在、元永団員と竹下団員が副会長として活躍している。滋賀・弁護士九条の会の活動にも団員が積極的に関与してきた。事件活動では、再三の団通信に報告があるように「珍訴・奇訴?」の吉原団員の奮闘が光っている。クレサラ問題では、代表の小川団員を中心に「滋賀県クレジット・サラ金被害をなくす会」の活動をしており(来年は、全国交流集会が滋賀で開催予定である)、また、四三条対策滋賀会議を結成し、弁護団活動をしている。今年は、国民救援会が七月に、日本労働弁護団が一一月に、いずれも大津市雄琴で総会を開催する予定である。

 今後は、私が常任幹事会に復活し、全国の闘いの息吹を伝えながら、滋賀支部の活動を充実化させたいと思っている。

 尚、特筆すべきは、私が五九期修習生と「ごくたまランニングクラブ」(「五九期と玉木」の意味であり、「極道玉木」の意味ではない。「ごくたまに走る。」の意味もある)を結成し、五回の例会を行い(うちの事務所から、膳所公園その他まで八キロから一二キロを四〜五名の修習生と一緒に走った)、五月二一日には修習生四名、荒川団員ほかと一緒に奥びわこ健康マラソン一五キロを完走したことである。そのメンバーは、団例会にも比較的参加しており、ランニングは修習生支援にもつながったともいえる。六〇期もクラブを結成できるとよいのだが・・・。



「日本の海に空母はいらない―七・九首都圏大集会に参加して―」

川崎合同法律事務所事務局  寺 田 秀 孝

 七月九日、小雨降る横須賀は三万人を超す人びとであふれかえりました。デモ隊の列は途切れることなく、出発まで一時間待ちだったそうです。

 私はその中の一人として弁護士と共に歩き、さらには、シュプレヒコールのマイクまで握らせてもらいました。

 ニミッツ級原子力空母は、私たちの命・健康と平和を脅かす存在です。

 戦闘艦であるが故に、テロや先制攻撃受ける可能性が増した「原子炉」が、わざわざ人口密集地の東京湾岸まで来るのです。「万が一」の確率は、他の原発とは比較にならないはずです。まさに私たちの命・健康に直結する問題です。

 戦争への危険も更に増します。これまで、キティーホークが搭載していた重油分のスペースは、航空燃料や弾薬にまわされるのですから、航空機の戦闘可能時間が増します。つまり、それだけ反復継続した攻撃が可能となるわけです。アメリカが、北朝鮮などに先制攻撃もありうるとする立場を掲げている以上、こういう能力が強化されるということは、それだけ東アジアの緊張も高まってくるはずです。

 そもそも、大量のジェット戦闘機を背景に自国の軍事力を誇示し、もって平和を生み出すという論理自体が、クレイジーではないかと最近私は思い始めています。現に、フィリピンやニュージーランドは、国家財政に与える軍事力の負担、とりわけ、ジェット戦闘機の維持費が高いとして保有そのものを放棄しました。両国にはいま、ジェットは存在しません。同様の国にアイルランドも挙げられます。

 軍事力を背景にしたこれまでのあり方を変えよう。キティーホークが老朽化したなら、空母自体もう横須賀には来るな。

 そうした金も権力もない人びとの声は、横須賀中に響き渡りました。

 ですが、メディアはこの集会を黙殺しました。片や同日、安部晋三氏が自衛隊の先制攻撃もありうるとした発言については大々的に取り上げていました。

 一人の権力者の発言は、三万人を超す民衆の怒りの声より重たいとでも言わんばかりの態度です。

 こういうゆがんだ社会を正し、「空母帰れ」の声を大勢にしていくためにも、私たちは更に声を上げ続けなくてはいけません。

 私も、微力ながら、全力を尽くしていきたいと考えています。



広島憲法ミュージカルのビデオはいかが?

広島法律事務所事務局  濱 口 都 子

 広島憲法ミュージカルは今年で一三回目になります。今回の「希望の憲法―子規折々―」は例年以上に好評でした。

 毎回ビデオをとっていますが、今回は映像が全体の雰囲気を良くとらえていて、かつてないほど上出来でした。その観所と聴きどころを挙げてみます。

*観所その一 俳句甲子園の場面で伝統高と清新高の生徒がテンポよく言葉の応酬をするところ

*観所その二 テレビコマーシャルのカンワ商品特集で、カンワマンション、カンワ牛肉などを子どもの売り子が宣伝する場面

*観所その三 福祉真央さんと改革構造君の結婚式で福祉派と改革派が群舞と歌でやりあう場面

*聴き所   憲法ミュージカルが生み出した憲法九条や憲法の名曲が五曲勢ぞろいしているところ

 (1)マイライフマイケンポウ(憲法の誕生を祝う明るい歌)

 (2)九条でゆこう(若者が作曲した軽快な歌)

 (3)希望の第九条(ベートーベン第九合唱の替歌)

 (4)憲法讃歌(今や全国的に知られてきた荘重な曲)

 (5)四季の憲法(今年できた叙情的な歌)

 忘れていましたが、内容的には座付き脚本家広島東竜こと廣島敦隆団員が俳人としての素養を生かし、正岡子規のことばを通して九条改正等の憲法の今を楽しく批判しています。

 私は矢部次期総理候補役を演じた井上明彦団員の所属する事務所の自称「若手」事務局員で憲法集会の会計を担当しています。財政を潤わすためにも一人でも多くの方がビデオを買ってくださるととっても嬉しいです!。一本二〇〇〇円と送料二五〇円を加えて、二二五〇円でお譲りします。FAXでのご注文をお待ちしております。

 連絡先  広島法律事務所 電 話 〇八二―二二八―二四五八

FAX 〇八二―二二七―八四三一


長春かけある記

宮城県支部  加 藤 雅 友

 六月一五日から妻と二人で四泊五日で長春市を訪れた。〇一年から四年間、東北大学工学部大学院に留学していた朱さんと妻の李さんと親しく付き合っていたのに対する感謝の招待旅行である。李さんの一族をあげての熱烈歓迎をうけた。中国の家族は団結するのである。

 仙台空港から北西に二千八百キロ、日本海をわたり長白山脈を越えて地平線のかなたまで広がる大草原を飛ぶとやがて長春市に着く。二時間のフライトである。長春市は二万平方キロの地域に七百万人が住む大都市である。自動車をはじめ重化学工業がいち早く発展し、その一方で三十の大学、百の研究所が集まる学園研究都市でもある。

 李さんの三三歳になる兄が、情報通信部長をつとめる中国最大の自動車工場、中国第一汽車製造公司の最近の状況に興味があった。百を超える工場群と三〇万人の従業員の居住区を結び、バスが走り百貨店がにぎわっている。広さは仙台市全域に相当する。行ったのは土曜日のために休日で労働者は一人もいなかった。工場群は緑に囲まれていて、過労死などとても考えられない。食事をする店は人々で溢れ、活気に満ちていた。八〇年代後半からフォルクスワーゲンが技術提携をしたので、街はフォルクスワーゲンで溢れている。最近トヨタやマツダが技術提携したようだが、はるかに遅れを取っており日本車はほとんど見なかった。八○年代には、日本のメーカーは、東南アジアと北米に生産拠点を展開しており、中国市場の軽視が戦略的失敗であったのは明らかである。写真は長春中心部にある李さんのマンション近くの道路だが、片側五車線を自動車が疾走する。パトカーが走っているのでこの時は控えめであったがタクシーは次々に路線変更し、時には対向車線も走る。そこを信号機もないのに人々が悠然と歩いて渡る。私たちも手をとられながら何度か交通違反の横断をした。

 日本で読んだ文献によると、〇一年当時、自由化とWTO加盟で国有企業のリストラが続き、街に失業者が溢れ長春は寂れているとあったが、〇六年の長春は工場地帯も市中心部の高層ビル群、高層マンション群も真新しく輝きを放っており、街は活気に溢れていた。大気汚染もない。「調和のとれた発展」を遂げつつあると見た。上海などの沿海部は農村人口の流入や外資企業の大挙参入で環境の悪化などが伝えられていたが、国営企業中心の長春は五年足らずの期間でそれらの問題を解決しているように見えた。

 長春といえば旧満州の首都・新京である。市の観光名所はみな日本の植民地時代の遺跡である。清朝のラストエンペラー溥儀が即位した偽宮殿の正面には江澤民の筆で九・一八を忘れるなという石碑がある。一五年戦争の発端の柳条湖事件を指す。九・一八は国辱記念日と呼ぶ。関東軍司令部は日本の皇居を真似た城郭造りであるが、今は中国共産党吉林省委員会の事務所として使われている。大理石でギリシャ神殿風に作られた旧満州銀行は巨大なものであるが、そのまま中国銀行として使われていた。

 中国では今でも日本人鬼子(リューベン・グイズ)という。李さんが親切な日本人に世話になったといっても、そんな日本人は居るはずがないと誰一人信じてくれなかったという。しかし、反日デモの際にマスコミが報じた反日感情はない。国の恥を忘れずに中国を豊かで強大な国に発展させようというきわめて前向きな発想なのである。日本人なのかと聞かれたことはあったが、いやな思いをしたことは一度もなかった。