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高木 健康 「餓死者を出さない生活保護を」
あまり誇れない北九州市からの報告
渡辺登代美 団総会特別企画―横須賀強殺事件
倉内 節子 団女性部総会報告 第一弾
玉木 昌美 「ピース・ナイン」うたごえで平和を
広田 次男 カナダ・ノバスコシアのゴミ
神田  高 “米軍再編”とのたたかい方
高橋 伸子 憲法・教育基本法改悪反対!
八王子市民集会 市内五カ所で開催!
中野 直樹 栗駒のブナの森に求めた岩魚の楽園(一)




「餓死者を出さない生活保護を」

あまり誇れない北九州市からの報告

福岡支部  高 木 健 康

一 生活保護を受けられずに餓死

 私の住む北九州市で、生活保護を拒否された男性がミイラ化死体で発見される事件が起こりました。五六歳のその男性は右足が不自由で身体障害四級でした。昨年八月に失業して無収入となり、九月には水道、電気、ガスの全てが止められました。男性は近隣の次男が一週間に二度持ってくるパンと公園の水で命をつないでいたようです。九月に男性は次男に連れられて保護課に行き「生活保護の申請をしたい」と訴えたが、保護課は「親族で話し合いなさい」と申請書を渡さなかった。

 一二月、再び男性は次男に付き添われて「生活保護」の申請に行きました。ライフラインは止まったままであり、健康状態も悪化し、次男も援助ができない状態でした。保護課は「それなら長男に援助を頼め」と男性を追い返しました。その後、男性は二度と保護課に来ないまま餓死したのです。

二 北九州市の生活保護

 残念ですが、北九州市は生活保護行政が極めて厳しいことで有名です。国民の高齢化と格差の拡大による貧困者の増加で、どの自治体でも生活保護受給者は増えており、これは当然のことです。ところが、北九州市は受給率も保護費も減少しています。これだけで北九州市の異常は分かります。保護が必要な人に保護をしていないのです。

 その方法は、徹底した窓口での追い返しです。保護申請に来た人に対して、申請用紙を渡さないまま、「働きなさい」「親族の援助ができない証明を持ってきなさい」と追い返し、「このままでは死んでしまう」言えば「まだ生きているだろう」という始末です。申請に来た人のうち申請書を渡されて申請できるのは僅か二〇%です。(全国平均四五%)申請できない人たちは保護基準以下の状態で生き延びるか、それができなければ死ぬことになります。

 北九州市では、二〇〇一年、二〇〇五年にも生活保護を拒否された人の餓死事例があります。

三 これまでの生活保護とのかかわり

 私は多重債務事件を扱う中で生活保護に関係するようになりました。生活保護を受けるべきと思う人に「生活保護の申請をしましたか」と聞くと「保護の申請に行ったけれども申請書をくれないので申請できない」と言われました。保護申請書を渡さないで保護を申請させないのは明らかに違法です。本人と共に保護課に行くとすぐに申請書を出して受け付けました。本人によると「自分ひとりの時と先生がいる時では対応が全く違う」とのことでした。

 それ以来、保護が必要と思う人には保護申請の援助をするようになりました。今では、保護申請用紙のコピーを準備しており、保護課の窓口で申請書をもらえなかった場合にはコピーの申請用紙で申請をさせます。それでも受理しないときには申請書を郵送します。(法律的には、定型の申請用紙の必要はなく、申請の意思を示す文書であれば有効です)

 受理された人の八割以上は保護開始の決定を受けています。しかし、私が関与できるのは生活保護を必要としている人のほんの僅かに過ぎません。多くの人は生活保護が必要なのに、窓口で追い返され続けています。

四 変わらない市の態度

 今回の北九州市での餓死事件は明らかに生活保護行政の歪みが原因です。今回の事件はマスコミでも大きく取り上げられました。いずれも北九州市の保護行政の異常さを指摘するものでした。ところが、北九州市は「法に基づいた適切な対応だった」と居直っています。その後の北九州市の保護課窓口での対応も従前とほとんど変わりません。今でも明らかな申請拒否が続けられています。

 この異常な市政に抗議し変えていくために、九月八日には「餓死者を出さないあたたかい市政を」のスローガンでの市民集会が開かれ、七〇〇人が集まりました。一〇月二三日から二五日にかけては、全国社保協などの全国調査団による北九州市の生活保護実態の調査が予定されています。これには生活保護に取り組んでいる弁護士も全国から参加いただき、「生活保護一一〇番」や「保護申請援助活動」などをしたいと考えています。

五 憲法二五条を守るために

 社会保障への国の攻撃は、生活保護にまで及んでいます。老齢加算や母子加算の廃止はそのことを示しています。国の方針を受けてどの自治体でも生活保護行政は厳しくなっています。最近では、秋田で生活保護を拒否された青年が抗議の遺書を残して自殺しました。

 北九州市では生活保護者を増やさないため、前年実績以下の計画を立て、それに合わせた申請受理をします。さらにケースワーカー一人につき五件の廃止ノルマを設けさせて随時報告させます。保護を切った者が出世する仕組みになっているのです。この北九州市の生活保護拒否の方法は「北九州方式」と呼ばれ、他の自治体の参考にされてきました。北九州市のやり方が全国に波及したら大変です。憲法二五条(生存権)の最後の保障が生活保護です。北九州市の生活保護は良くなったと言われることを夢みて、活動を続けたいと思います。



団総会特別企画―横須賀強殺事件

神奈川支部  渡 辺 登 代 美

 二〇〇六年一月三日午前六時三〇分から四〇分ころ、神奈川県横須賀市で佐藤好重(よしえ)さん(五六歳)が米兵に殴り殺された。前夜から飲んでいた米兵は、さらに飲む金を強奪するために出勤途中の好重さんを襲った。

 泣き叫ぶ好重さんに対し、顔面を殴打し、コンクリート壁の角部分に打ちつけ、足で踏みつけ、さらには身体をつかんで左右の壁に繰り返し打ちつけるなどの激しい暴行を加えた。好重さんが口から血の泡を吹き、全く声もあげず身動きしなくなるまで。

 この結果好重さんは、多数の肋骨を直線状に骨折し、折れた肋骨が肺に刺さって肺が破裂、腎臓と肝臓も破裂という痛ましい状態だった。顔に至ってはほとんど元の姿かたちを留めないほどだったという。

 事件から九か月、好重さんの内縁の夫山崎正則さんが立ち上がった。「彼女が死んだのは米軍基地があるからだ。米軍基地がある限り、また彼女のような犠牲者が必ず出てしまう。」(これを受けて弁護団としては、一〇月二〇日に国を相手に提訴する予定)

 総会の夜に山崎さんが全国の団員に支援を訴える。「米軍基地をなくせ。日本から米軍は出て行け。」

 併せて「黙っていると一〇〇年先も基地の街―米軍再編 神奈川のたたかい」というビデオの上映も行ないます。沖縄に次いで米軍基地の多い神奈川県での「再編」と、それを拒否する住民の意思を、軍事基地に翻弄されてきた神奈川県の歴史を織りまぜながら描いたものです。

 山崎さんのつきそいは、一九七七年九月二七日に起きた米軍機墜落事故の被害者椎葉寅生さんと、ついこの間神奈川労連議長を退任したばかりの菊谷節夫さん。

 労働組合活動もあまり積極的にはしてこなかったという山崎さんが、好重さんのためにひとりでも闘う決意を固めました。好重さんのことを話すと今でも泣いてしまう山崎さん。そんな山崎さんの訴えを聞くと、あなたもきっと弁護団に入りたくなります。

 総会一日目の懇親会のあと、本部で部屋を用意してもらいます。夜は長い。酒はいつでも飲める。ということで、是非この特別企画に足を運んで下さい。



団女性部総会報告 第一弾

東京支部  倉 内 節 子

 九月一五日、一六日にかけて女性部の総会が世界遺産である高野山で行われた。交通の便も考えたら北海道や九州など多方面からの参加者が予定の開始時間にどのくらい集まってもらえるか不安があったが、全くの杞憂に終わりほっとした。

 今回の総会は、小泉内閣五年間のルールなき資本主義、日本を戦争する国へ変質させる極めて重要な情勢をふまえた討論が強く求められた。いわゆる悪法三兄弟(失礼?)の廃案を勝ち取るために、緊急かつ効果的な運動をどう作り上げるかという課題に、参加者が日頃取り組んでいる経験交流は実り豊かなものであった。私たちが思っている以上に、日本の今後のあり方を決する法案の中身が知られていないという共通認識が持てた。教育基本法、国民投票法案など、わかりやすく一人でも多くの方々に知らせる必要がある。

 特に、教育基本法改正案については、教育現場の実態を踏まえ、何がどう変えられようとしているかを全教大阪教職員組合の渡部有子氏に講師を依頼したのが非常に良かった。同氏は、「教育とは何か」から問いかけてきた。「心と心の交流」であるという。しかしながら、教育基本法の改悪は経済論理を貫く教育における構造改革と強調された。「学校選択制」の名の下に選べる人はほんの一部の人間のみであること、教師の雇用形態も多様化し、その呼称だけでもいくつもあるという。定数内教師、期付教師、若得、嘱託など・・・。公立幼稚園では園長のみが正規職員ということも報告された。教員の団結の基盤がなくされ、教員の若年層は生活保護水準の賃金という。貧困と格差の実態の報告には思わず涙があふれるほどであった。家庭訪問に行こうとしたら、働かなければ食べられないので来てもらっては困るというケース、文房具も一〇〇円ショップで買い与えられた子どものコンパスがすぐ壊れてしまうなど・・・。このような教育現場を放置して「国を愛する態度」の評価を求めるなど全くもって論外である。

 二日目の討論では全国各地でジェンダーバッシングの実態が報告されたが、今後、女性部としてジェンダー問題のプロジェクトチームをつくり、ジェンダー問題と新自由主義経済の関係など、理論的整理をはじめ、この攻撃の狙い、どう阻止するかなどを深めることとなった。

 女性部の今期の活動として国民投票法案など、いつでも、どこでも学習会の講師活動を行うことなどが確認された。

 最後に、団長からのメッセージに心から敬意を表します。日本、世界の「宝」である憲法を「壊体」させないため、歴史の転換点でのせめぎあいに、共に頑張りたいと思います。

今期の役員
 部  長   倉内 節子    事務局長  中野 和子
 運営委員  岸  松江、西田 美樹、宮腰 直子、千葉 恵子
                               若干名交渉中



「ピース・ナイン」うたごえで平和を

滋賀支部  玉 木 昌 美

 今年七月、宵々山コンサートに行った。高石ともや、笠木透、上条恒彦ら豪華メンバーですばらしい内容であり、雨の中一時間並んで待ったかいもあった。特に、印象に残ったのは、笠木透の「ピース・ナイン」という歌だ。彼の説明によれば、子供からお年寄りまでみんなが歌える九条の、平和の歌として作ったとのことである。歌詞は、「鳩は平和を はこぶ鳥 九の鳥と 書くのだから カタルーニアの鳥も 日本の鳥も ピースピースピースと さえずる この世は九で 十分なのさ 鳩よ世界の 空でなけ ピースピースピース ピース・ナイン」である。「カタルーニヤの鳥」が理解できる人は相当の音楽通である。スペインのカタルーニア地方には「鳥の詩」という民謡があり、そこの鳥は「ピースピース」と鳴くという。チェリストであるカザルスのCDにある。まさに九条の会のテーマソングにふさわしい曲であると思う。

 八月六日、滋賀スポーツ九条の会の結成総会があり、「スポーツは平和とともに」として講演したが、第二部は寺内牧子さんのピース・ナインコンサートであった。九条の会の集会というと講演が多いが、こうしたフォークコンサートやそれとのセットもいいと思う。

 考えてみれば、私が学生時代、セツルメントというサークルで活動していたとき、例会の際にはみんなで青春の歌、労働歌、反戦歌等を歌っていた。歌うことによって、エネルギーを養い、再生する感覚があった。九条の運動とうたごえを結び付けることにより、運動を活性化することができるのではないだろうか。

 私は、ランナーでもあり、音楽家九条の会の呼びかけ人である高石ともやのファンであるが、毎年八月、琵琶湖ジョギングコンサートで彼の歌を聞いている。彼の「死んだ男の残したものは」や「拝啓 大統領殿」は反戦をアピールできる歌であり、深い共感を覚える。今年の大会(一〇キロ)で彼と並走したとき、これらをリクエストしたが、残念ながらコンサートでは歌ってもらえなかった(懐かしい「受験生ブルース」はアンコールで聴くことができた)。

 笠木透のCDには「憲法九条と生きる人々の歌」とある。そのCDの中で一番気に入った歌は、「軟弱者」である。その歌詞には「この国を守るために 軍隊がなくてはならないとしたら 軍隊がなくては滅びていくとしたら 滅びていこうではないか 私たちは どんなことがあっても 戦力はもたない 私たちは なんと言われようと 戦争はしない」とある(本当は四番まで紹介したいが、字数の関係で省略する)。九条の精神を貫いて平和を守る堅い決意、気概を感じとることができ、自らを鼓舞できるような気がする。

 これまで憲法問題の学習会の講師要請があれば喜んで受けてきたが、今後は講演だけではなく、「ピース・ナイン」「軟弱者」の歌も披露していくことにしようか。

 恐ろしいことに団通信に投稿することがマラソン、読書、映画、カラオケに続く第五の趣味になりつつある。かつて、今は亡き『シティ・ランナー』の投稿マニアだったことが思い出される。吉原団員から「玉木君には、それほど大した活動でもないものをそれらしく報告できるずうずうしさがある。」と指摘されて反発したが、最近では何か当たっているような気がしてきた。滋賀反核平和マラソン快走記も書こうかなとも思ったが、今回の原稿でしばらく控えることにする。



カナダ・ノバスコシアのゴミ

福島支部  広 田 次 男

君のゴミ

 現代のゴミは様々な化学物質を含みます。その大半は高温焼却するために様々な化学反応を起こし、様々な有害物質を発生させます。

 ゴミ業者らは「有害物質を発生させない焼却炉」、「有害物質を外部に漏らさない処分場」と宣伝文句にしていますが、大半の焼却炉・処分場からは大量の有害物質が漏れだしているのが現実です。だから、日本全国で焼却炉、処分場反対の住民運動が数多く展開されています。

 これらの住民運動に対して「(処分場や焼却炉に)反対する君等だってゴミは出しているではないか」、「(処分場や焼却炉は)日本のどこかには必要だ」、「自分の近所だけは嫌だというのは地域エゴだ」、「君のゴミはどうするのだ」との批判は全国共通どころか万国共通です。

日本のゴミ

 日本のゴミの殆ど全ては「焼いて人目につかない田舎に埋める」事により処理されています。日本の大型ゴミ処分場(管理型)は約一二〇〇、大型焼却炉は約八〇〇ともいわれています。

 いずれも現代科学の粋を集めた施設・体制を宣伝し、「有害物質の発生、漏出は永久にない」として、そのために費やされる国家予算は約二兆八〇〇〇億円(二〇〇五年度)とも言われます。

 他方、ゴミ裁判に於いて裁判所は処分場・焼却炉の公共性を認め、いわゆる「受忍限度論」を適用し、対置されるべき住民の健康権、平穏生活権には極めて低い価値しか認めようとしないのが現状です。即ち、「焼いて埋める」は司法・行政を含めた日本の国策といえるのです。

世界のゴミ

 「焼いて埋める」は、少なくとも現在では日本固有の政策になっています。但、一〇数年前まで、世界の多くの国で現在の我が国と同様のゴミ政策が採用されていました。

 かつてのカナダ・ノバスコシア州も同様でした。中心都市ファリファックスから排出されたゴミが、周辺地域で焼かれたり埋められたりしていました。

 無秩序な環境破壊に対する住民運動の盛り上がりの中で、今では「脱焼却・脱埋立」、即ち「ゴミは焼かない埋めない」というゴミ処理方式がほぼ確立したとされています。

 世界的にもカナダと同様な方向が大勢になっています。ほぼ焼却と埋立のみに頼っている日本は、世界の中でも特異な例です。

地域エゴの奮起のために

 誰でも自分の生活環境が汚染されるのは嫌です。

 これまでの日本は、国際語「ミナマタ」に代表されるように、様々な環境政策の誤りにより「ミナマタ」の悲劇を繰り返してきました。今また誤ったゴミ政策により、日本中に「ミナマタ」の悲劇が拡散されようとしています。

 特に環境問題については、現場の人々の感覚こそが、理屈抜きに正しかったという経験は枚挙に暇がありません。

 「故郷の環境は汚染させない」とする、ゴミ企業に言わせると「頑固な地域エゴ」の人々の声こそが、ゴミによる日本全体の汚染から故郷を守ることになるのではないでしょうか。

 「地域エゴ」を奮い立たせる理論的な確信を与えると共に、受忍限度論の論争に厚みを加える目的で、ゴミ弁連(斗う住民と共にゴミ問題の解決をめざす弁護士連絡会)は、カナダから二人の講師を招いて全国公演を行う事としました。

カナダのゴミ

 カナダ、ノバスコシア州では、住民運動が主体となり、行政の協力を得てゴミ政策の転換を成功させています。転換の経過とゴミ処理の実際を生の声で聞くために、ノバスコシア州政府の官僚であるボブ・ケニー氏と住民運動に大きな役割を果たしているレイ・ハルセイの両氏が来日します。

 講演予定の概略は以下の通りです(勿論、逐次通訳つきです)。

一〇月 七日 福島県郡山市 一三時三〇分〜 三穂田ふれあいセンター

一〇月 八日 北海道函館市 一八時〇〇分〜 函館市中央図書館

一〇月 九日 長野県軽井沢市一七時〇〇分〜 軽井沢中央公民館

一〇月一〇日 東京都目黒区 一九時〇〇分〜 環境総合研究所

一〇月一二日 東京都町田市・神奈川県横浜市 武蔵工業大学

一〇月一三日 福岡県福岡市 一八時〇〇分〜 福岡工業大学

 各講演会は地元団体との共催などの形式になります。

むすび

 日本の今のゴミ政策は誤っているし、変えられる。この確信が住民運動の中に確立すると共に、この論理が法廷の場でも勝利を収められるよう、皆様の御来場をお待ちいたします。



“米軍再編”とのたたかい方

東京支部  神 田   高

その一“笑い”〜沖縄芸人の挑戦

 八月に妻の実家に帰ったとき、妹さんが「ビデオとっといたよ」と言って見せてくれたのが、沖縄人気お笑い芸人集団FECの公演を特集したテレビ番組だった。“基地を笑え!お笑い米軍基地”の公演には、県立高校生(平和教育の一環)など若い人たちも押しかけ、会場はいっぱいとなった。県内外のメディアも取材していた。高校生たちは「重い課題がすーっと入ってきて面白かった」と感想を話していた。何といっても舞台がいいが、仕掛け人の小波津正光の書いた“お笑い米軍基地〜基地に『笑い』でツッコむ ウチナー(沖縄)的日常”(グラフ社)からサワリだけ紹介する。

 九話“沖縄の守り神”─米軍基地は日本のシーサー的役目を果たしているらしいさ。周辺諸国から、悪いやつが入ってこないように睨みを聞かせているってさ。

そのお陰で日本人は平和に暮らしているらしい。

ただこのシーサーは人気がないさ。

沖縄ではずっと前から、この世界最強のシーサーをどっかに持っていって欲しいって声が多いサーね。本土からの観光客にできれば買って行って欲しいと思ってるさ。

ところが!

世界最強のシーサーはヤマトゥ(本土)でも人気がなかったわけさ!

ヤマントンチュは、世界最強のシーサーは必要だけど自分達の町に置くのは嫌みたいだわけさ。

おかしいさぁ、世界最強のシーサーが側にいれば世界一安全な生活が送れるはずなのに・・・。沖縄でも本土でも人気のない世界一のシーサー。

世界最強のシーサーがわったー島に来て六〇年以上。

なんでこんなに人気がないのに未だに居続けてるのかねぇ?

最近よく聞くのが、今世界一のシーサーがいなくなったら、マスゲーム好きの将軍様やパンダの国が攻めてくるって言うさ。

わんはそんなこと言われてもピンとこないさぁ。

だって沖縄の歴史上で、攻めてきたのはナイチャー(本土人)とアメリカーのほうだからや。

かつて攻めてきた人たちに「悪者が攻めてくるぞ」って言われても説得力ないさぁ。・・・

 売れない沖縄芸人が“米軍基地”をお笑いにするきっかけとなったのは、沖縄の新聞だった(八話“沖縄の新聞”)。〇四年八月一三日、普天間基地の海兵隊ヘリが沖縄国際大学構内に墜落した。小波津三〇才の誕生日である。当時小波津がいた「東京では、アテネオリンピック開幕でテレビ・新聞は大盛り上がり。全国紙には、日の丸を先頭にスタンドに手を振りながらにこやかに行進する日本選手団の写真が。沖縄の新聞一面にはデカデカと黒煙を上げて燃え上がるヘリの写真が載っていたさ。」小波津が東京にいたとき、私は沖縄にいて沖国大の墜落現場にかけつけた。「わんの三十路の誕生日にでっかい花火をありがとうやぁアメリカー!その日のことはよく覚えているさぁ。」これが、超ウケの“お笑い米軍基地”を生んだ。

その二“核空母”〜横須賀

 名ばかりの平和委員会会長が誠実な事務局長に突きあげられて、お隣の武蔵野にも呼びかけて、七月九日バスを仕立てて横須賀軍港にむかった。『横須賀なんて四〇年ぶりかしら』『カールビンソン(巡洋艦?)入港反対でいったのいつだったけ』。昔話にはずんで、同じ場所とは思えないキレイなヴェルニー公園に到着した。大変久しぶりだがみなの思いは同じだった。 

 東京の大集会場に比べて遥かに小ぶりな公園に次から次と人が波のように入ってきて、集会開催時には満杯をはるかにこえ、熱気にあふれていた。集会でとくに印象に残ったのは二つ。一つは、妻を米兵になぶり殺しにされた夫の淡々としかし切々たる訴え。非情への抗議・告発と悔しさ。二つ目は、フーセン。“ストップ!原子力空母”と書かれている。子ども連れも多かったが、青・橙・黄色と、様々なノボリ・旗の会場に彩りを添えて和んだ雰囲気をつくっていた。

 当日発言された「原子力空母の横須賀母港問題を考える市民の会」共同代表の呉東さん(横浜弁護士会)が「法律新聞」(八月一八日号)に「横須賀で原子力空母の原子炉事故が発生すると、死の灰が放射能雲となって運ばれ、風下週十キロに降下し、南風の吹く日ならば横浜、東京を含む首都圏数百万人もの人々と広大な土地が、放射能汚染にさらされて、放射能被爆による死者は、百万人以上に上る可能性がある」と書いている(死亡一六〇万人との試算もある。同日の東京新聞)。しかも、一切の日本の原子炉関係の法律は適用されない。

 集会後のデモ行進が、横須賀米軍基地前ゲートをすぎ、そろそろ解散地点に近づいて、信号待ちをしているとき、赤塗りのスポーツカーが止まって、こちらを盛んに見ている。一見ヤンキー風のカップルで、イチャモンでもつけるのかなと思っていたら、子どもの持っている風船を見上げている。勘のよい妻が子どもが持ってる“核空母ノー”のフーセンをあげたら、うれしそうに帰っていった。

“これだ!”この闘いは、ヘソをつかんでいると思った。

 六月一〇日の“九条の会全国交流集会”でも、横須賀九条の会の発言はとくに印象に残っていた。父母の中には自衛隊員もいて、その中で切り結んで九条の会の運動を発展させている発言に感銘を覚えた。憲法九条擁護の闘いと米軍再編との闘いは一体不可分である。

その三“命の海”〜辺野古から

 八月一三日、久しぶりに家族で名護の辺野古を訪れた。「命を守る会」の金城オジィとヘリ基地反対協の安次富さんが大浦湾をのぞむ団結小屋前のテントにおられた。金城さんの後ろに掲げられていた“命の海”の詩には泣かされた。

 命の海を子や孫たちに 残さなければそれだけのために 命をかけて闘っている

 わったーもう老い先短いけれど 子や孫たちが哀れする 

 あんな思いはさせたくないさ

 戦やならん  戦やならん  戦やならん  戦やならん

 忘れないよ おばぁの言葉 基地はつくらせちゃならんよ

 人は働いて畑をつくり 魚をとって生きるものだよ

 金をばらまき 海を山を壊す いまにバチが当たるよ

 ヤマトの人たち考えてくれ 何もいらない 平和な島を

 返しておくれ 豊かな島に 基地なんていらないよ

 大事なことはみんなで決めよう 名護市民投票 あれから八年

 何が何でも この海をつぶし 基地をつくろうとする日本政府の卑劣な攻撃に

 傷だらけになりながら されど杭一本 打たせちゃいない

 打たせちゃいない 杭一本打たれはしない

 命の海を子や孫たちに 残さなければ それだけのために

 命をかけて闘っている おじいやおばあたち

 戦やならん  戦やならん  戦やならん  戦やならん

 受けとめよう おばあの言葉

 基地は つくらせちゃ ならんよ

帰りに妻が持参した椰子の実一つ差し上げてきた。



憲法・教育基本法改悪反対!

八王子市民集会 市内五カ所で開催!

八王子合同法律事務所事務局  高 橋 伸 子

 秋から始まる臨時国会で、再び上程される教育基本法改悪法案と国民投票法案の廃案に向けて、八王子では民主団体が中心になり「憲法改悪反対・教育基本法改悪阻止八王子共同センター」を結成し、これまで駅頭宣伝、署名集め、路地裏宣伝行動等を行ってきました。 都教組八王子支部では「今、お金をかけなくてどうする!」という意気込みのもと、教育基本法改悪反対の署名ハガキ付きカラーチラシを一〇万部作成して朝日新聞、毎日新聞に六万部折り込みました。

 そして九月二〇日水曜日の夜に、市内五カ所で市民集会とデモ行進を行いました。各集会で実行委員会が結成され、八王子地域に九つ結成されている九条の会も協力して、取り組んできました。市内五カ所で同時に集会デモを行うこと、各所で実行委員会が結成されることなどは、初めての試みでした。通常一カ所の集会でもなかなか人数が集まらずに苦労している現状で本当に成功するのか、とても不安もありました。各実行委員会ごとに独自のチラシをつくり宣伝にも力を入れました。五カ所の集会で弁護士へ挨拶要請がありましたので、事務所から五名の弁護士を配置しました。

 当日は五カ所の集会の参加人数合計六一〇名の参加で大成功しました。三カ所の集会ではそのあと行われたデモに弁護士も先頭に立ち意気高く声を張り上げながら行進してきました。

 この集会の成功を力に、廃案に向けて取り組んでいきたいと思います。団作成の国民投票法反対読本リーフは当初五〇〇部取り寄せましたが、すぐに在庫がなくなったので追加で一〇〇〇部注文しました。今後の宣伝行動などで広めていきたいと思います。大変な情勢ですが、みなさんそれぞれのところでお互いにがんばりましょう!



栗駒のブナの森に求めた岩魚の楽園(一)

東京支部  中 野 直 樹

 東北の地図を開くと、中央部に奥羽山脈が背骨のように走っている。青森の八甲田山から、八幡平、岩手山、乳頭山、秋田駒ヶ岳、和賀山塊、焼石連峰、栗駒山系、神室山、蔵王、吾妻山、安達太良山、磐梯山、栃木の那須連峰までを指す。このうち、深田久弥命名の「日本百名山」に指定されているのは、八幡平、岩手山、蔵王、吾妻山、安達太良山、磐梯山であり、これらには、旅行会社仕立ての観光客ともいうべきツアー登山者が押し寄せている。ブランド名でははるかに及ばないが、源流釣りからみた自然の豊さと奥深さ度において、東北にはもっと魅力的な山々がいっぱいある。

 渓流釣り師は、一つの沢を、まだ芽吹き色の早春から、錦秋の始まりの頃まで、いろいろな季節に、繰り返し訪れる。そこで渓と森と山々の装いの変化を楽しむ。山登りも、著名な山の数を追いかけるのも目標の持ち方として大事だが、一つの山をいろんな季節の中で登り返すこともまた意義の深いことではないかと考えている。

 岡村親宜団員と大森鋼三郎団員は二〇期で、四〇歳頃から四半世紀の間、相棒として、東北のほとんどの山系に足を踏み入れ、可能なかぎり山頂直下の源流域に迫り、岩魚探しをしてきている。

 〇五年七月、この二人もまだ竿をさしたことのない、秋田県雄勝郡の成瀬川の枝川に三人で入渓することになった。成瀬川は、栗駒山を水源とし、雄物川となって日本海に注ぐ。本流(赤川)は須川高原温泉、大湯温泉から流入する、水生動物にとっての悪水が入り魚はいない。赤川に合流する右岸の谷は、一キロメートルほど上流で北の俣沢、合ノ俣沢、木賊沢に分岐する。釣り人には有名な沢だが、この最源流部までいければ岩魚の楽園が残っているのではないか、という見込みであった。問題は、脚力にあった。

 岡村さんの岩魚庵から一関を経て栗駒山岳道路にエンジン音を響かせ、三時間近くかけて目的の川に到着したところ、前日の雨で増水し、とうてい入り込めない。

 地図をひろげて思案の末に、車で二〇分ほど成瀬川を下流に下った右岸に、秋田・岩手県境の千メートルの稜線に突き上げている「大深沢」という名の沢があり、ここを探ることにした。この日は、この沢でまずまずの釣りとなり、林道の待避場のごつごつした砂利の上に刈り取った草を敷きテントを張った。水場の小沢まで、ヘッドランプの明かりをたよりにぬかるむ斜面を上り降りしなければならないのは難儀であったが、岩魚の天ぷらをつまみに一年に一回の野営に酒と談義がはずんだ。二人とも六〇代の半ばともなると同じ話の繰り返しが多くなったが、こちらも酔っており、何を繰り返していたのか記憶が定かではない。おそらく、翌夜にはまた新鮮な気持ちで同じ話をするのであろう。それでも九時には二人のテントがイビキにゆれていた。

 翌朝五時起床。木立の上に青空がひろがっていた。いつもどおり岡村さんが飯盒を炊き、朝飯と昼食のおむすびをつくる。テントを撤収し、七時過ぎに山越えの道の登り口に移動した。先行車が止まっていた。この日は、岡村・大森さんが一番手前の木賊沢、私が一番奥にある北の俣沢に入渓することにしたので、それぞれコンロ、コッフェル、食料、ビール缶等をザックに込めた。

 山道はブナの若木の密生した林の中を登る。木暗いなかに、山あじさいの白や青紫の花が楚々とした姿で目を和ませてくれる。二〇分みっちり歩き汗がしたたるころ、うれしいことに瀬音の響きが聞こえ始めると、いきなり急坂の下りとなった。帰りにへたばりそうな勾配と距離である。

 七時四〇分、木賊沢に着いた。木賊は、シダ植物で、砥草とも表記するように、乾燥させた茎は、木・角・骨製品を磨く道具とされてきた。これが自生している湿地がある沢なのであろう。

ここで帰着は車止めに四時半頃と決めて、二人と分かれた。

 私は、木賊沢の右岸に渡り、下流で右岸から注ぐ合ノ俣沢に向かう仙道にかぶさる草を分け歩み始めた。と、すぐ上りとなり、どんどん登っていく。首をかしげながら歩を進めるとそのまま尾根に上がっていく雰囲気である。道に迷ったとき、最初に選んだ直感を大事にするか、その選択がおかしいと感じた直感を優先するか、いつも心迷いとなる。試験のときに最初に書いた回答を見直して書き変えたところかえって間違ってしまったときの口惜しさが顔をもたげ、町中では私は、だいたい最初の選択に従うようにしている。しかし、山中では危険との隣り合わせであるので、不安を感じた時点で、いったん歩いてきた道を戻り、検証するようにしている。このときも五分ほど戻ると、茂みに隠れた、下流方向に向かう踏み跡が見つかり、そちらに右折してさらに五分ほど下ると、合ノ俣沢が現れた。ここから川中を歩き下ると五分ほどで右岸から北ノ俣沢が合流していた。

 二〇メートルほどの渓幅の半分くらいに水が流れていた。この沢の入口に吊り橋がかかっていたが、羽目板がはずれ、うらぶれた姿となっていた。

 北ノ俣沢は、さらに上流で三つの枝沢に分かれる。情報では岩魚が棲息するのはこの分岐から上である。ここまで一時間以上、川通しで遡行することになる。

 谷ではいつも期待と不安が相半ばするが、未知の谷の入り口では、不安と漠然とした怖さが門番をしている。この谷口を見下ろす山の名は、狐狼化山である。大きく深呼吸をして、気合いを入れて源流に足を踏み出した。