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廣 田 次 男 三穂田処分場全面勝利和解
飯 田   昭 半鐘山開発問題が計画大幅縮小で全面解決―世界遺産銀閣寺バッファゾーンの保全
笹 山 尚 人 幸せな団員の記録、「お父さんはやっていない」を読んで
宇 賀 神  直 詩集 〈午後四時の虹〉を推薦します
土 井 香 苗 ニューヨーク 人権留学日記 三
―テスト、テスト!―
井 上 正 信 密かに進む戦争国家体制作り(上)
村 田 智 子 団での活動を通して感じたこと
松 本 恵 美 子 借地借家法の改悪反対の運動を強めよう



三穂田処分場全面勝利和解

福島支部  廣 田 次 男

一 序

 昨年一二月一九日福島地裁郡山支部に於いて、同市三穂田町に建設が計画されていた、安定型処分場について原告住民が全面勝利和解した。

 ゴミ訴訟は、ここ暫く全国的に負けが込んでいるし、折角だから新鮮で弾けるような躍動感に溢れた勝利報告を直ちに書こうと思っていたところに、事務局から「一月一四日までに報告原稿を送られたし」とのFAXが入った。

 たちまち、生来の怠け心から「では正月休みに書けば…」という事になってしまった。

二 経過

 郡山市三穂田は、郡山市の南西部に位置する風光明媚な田園地帯であり、付近には、三三万市民の主水源である安積疎水が東流している。

 四年前に処分場計画が市に提出されて以来、反対運動が組織され、反対署名は二一万筆にも及んだが、ゴミ企業はひるむことなく逆に住民に対して、損害賠償を請求するなどして対抗した。

 運動は、時の経過とともに倦み疲れ、混迷と分裂の様相が色濃くなった。しかし地元三穂田の住民の団結は固く、二〇〇六年には、春と秋の二回に亘りゴミ弁連との共催で、五〇〇名規模の集会を成功させていた。

三 提訴

 二〇〇四年から訴訟準備のうち合わせを重ね安定型処分場訴訟のこれまでの判例の集積と分析および建設予定地の地形、地質、調査などを突き合わせて、これなら勝てるとの心証に至った。

 二〇〇五年末には、ゴミ企業との反対運動の様相を踏まえて、被保全権利を浄水享受権として、処分場建設禁止の本訴提起を住民側に提案した。

 住民は暫しの躊躇を見せたが、やがて「一丁やりましょう」との決定をした旨の返答があった。

 そこでゴミ弁連に提案して、全国五五名の弁護士が代理人として名を連ねて、昨年六月二七日に提訴した。

四 和解

 第一回期日は九月一九日だったが、ゴミ企業側は未だ処分場建設への明確な展望が確立されていない、今後の訴訟の困難性などを口にして最初から「腰砕け」の様子であった、裁判所は素早く、その様子を見抜いたのか「期日間の和解交渉を行う事を前提として」第二回期日は三ヶ月後の一二月一九日となった。

 その間、被告弁護士、裁判所との交渉を重ね原告請求を全面的に認める和解内容となった。

 原告請求の全面認容であったため、和解につきものの「原告は、その余の請求放棄」の文言はなく、替り「原・被告は本件が和解により終了した事を確認する」文言が記載された。

 正に原告住民の全面勝利和解であった。

五 勝因

1 建設予定地であった三穂田の住民が、よく団結して住民運動の原則に則った運動を展開した。即ち不偏不党の立場で民主的手続を重視しながら、周辺の運動体の動きにまどわされる事なく運動を拡大していった。

2 専門家集団であるゴミ弁連と連携を深め、また福島県内に於る他の先発運動体と連動して、世論を集中していった。

3 ゴミ企業側の体制が整わないうちに、(名前だけの弁護士が大半としても)五五名の大弁護団の名のもとに、真っ向う勝負を挑みかけた。

六 意義

 ゴミ訴訟で、和解による住民全面勝利は全国的にも殆んどなく県内は及ばず全国のゴミ紛争を斗う住民にとって大きな励ましとなった。今年いただいた賀状にも「三穂田の勝利」に触れたものが相当数あった。

 また本訴には、複数の若手弁護士が加わって、積極的役割を果たし金太郎飴化しつつあるゴミ裁判に新風を吹き込んだ。

 因みに「全面勝利」の旗出しは、弁護士経験二ヶ月余のピカピカの新人であった。

 最後に一言、勝利和解は控訴審の心配をしないで済む事が、ナンとも良い所だ。



半鐘山開発問題が計画大幅縮小で全面解決

―世界遺産銀閣寺バッファゾーンの保全

京都支部  飯 田   昭

一 これまでの経過

 半鐘山は銀閣寺道から北東に入った白川と閑静な住宅地に囲まれたところにある一〇〇〇坪程の里山で、東山三六峰の一つ、西方山の通称です。以前は銀閣寺(慈照寺)の寺領で、東山の先端部分に位置し、歴史的風土保全区域、風致地区第二種地域に指定されていますが、市街化区域、第一種低層住居専用地域のため、法的には開発が可能でした。

 業者による開発計画は、山を全面的に削り、一三戸の住宅を開発し、白川に橋を架けて、進入道路とするもので、市議会での緑地保全の誓願採択にもかかわらず、京都市長は二〇〇一年三月に開発許可を与えてしまいました。

 計画は、山沿いの隣接家屋の安全性の問題、車両通行問題に加え、世界遺産・銀閣寺(慈照寺)に近接するバッファゾーン(緩衝地帯)の景観を破壊する行為でもあることから、世界遺産条約違反でもあるとして、ユネスコ世界遺産センター(パリ)へ勧告を求める要請(二〇〇二年九月)も行なうなど、保全を求めた多様な運動が展開されました。この要請を受けて、ユネスコ世界遺産センター所長バンダリン氏は、日本政府に、「半鐘山は歴史的山地である東山から降りてくる丘陵部の先端部である。世界遺産センターとしては、開発許可が出された事実に対し驚愕せざるをえない。」との書簡を出しています。

 法的手段としては、弁護団(八名。常任弁護団は玉村匡、岡根竜介団員、奥村一彦団員、湯川二朗と当職)は国土問題研究会など専門家の援助を得て、(1)開発許可取消審査請求↓取消訴訟、(2)架橋工事による被害に対する損害賠償請求訴訟に取り組んできましたが、業者が本格的な開発工事を強行する構えをみせたため、〇三年八月には開発工事差止め仮処分を申立てました。

 抗議行動の中で、工事施工業者は撤退し、仮処分申請の審理は時間をかけて行われていましたが、同年一二月九日、業者は残された半鐘山の樹木を予告無く突然伐採するという暴挙に出ました。

 同年一二月一八日、京都地方裁判所第五民事部(永井ユタカ裁判長)は、崖上、崖下になる三軒につき、開発工事の続行により家屋が重大な変形、損傷を受けるおそれがあることを認め、建物所有権を被保全権利として「債務者らは、自ら及び第三者をして、半鐘山の形質の変更(樹木の伐採・枝打ちを含む)を行ってはならない」との、仮処分決定をくだしました(保証金各二〇〇万円)。

 樹木の伐採を含め、全体として工事を差し止める必要があるとするもので、開発許可を受けた開発工事を樹木の伐採を含め全面的に差し止めを認めたという点で、裁判所の仮処分決定例としては、画期的なものでした。

 業者側はこれに対し、保全異議、さらには保全抗告(大阪高裁)を申立てましたが、いずれも却下されています。

二 全面解決へ

 住民側は、業者側の起訴命令を受けて、二〇〇四年一月二三日には、差止め本案訴訟を提訴し、既に係属している業者に対する損害賠償訴訟及び行政訴訟と併合、平行して審理されました。

 裁判はその後、二〇〇四年夏から〇五年春にかけて半鐘山の地盤、地質の詳細な調査をおこなった国土問題研究会の専門家証人志岐常正氏、奥西一夫氏(共に京都大学防災研究所教授)、実務家の幸陶一氏の証人尋問及び原告本人尋問が行われ、〇五年夏以降は、大幅に開発規模を縮小した全面解決へ向けた住民側と業者側の和解協議が訴訟外でもねばり強く続けられてきました。

 住民側は、(1)半鐘山の周囲部分を京都市に取得させて緑地と景観の恒久的な保全・再生を図ること、(2)隣接住宅の安全性の確保、(3)搬出土砂を最小限に抑えること、(4)受けた被害に対する正当な賠償、(5)今後の開発工事については業者側の費用で住民側の指定した専門家に管理させること、(6)住宅地の販売にあたっては周辺の風致景観との調和や住居以外の用途に使用しないことを含めた建築協定を付して販売すること、及び(7)謝罪を求めてきました。

 その結果、今般、(1)宅地面積は当初計画の約半分(中央部分のみ)に、区画数を一三区画から五区画に限定する、(2)周囲部分(約三分の一)は掘削せず植樹して京都市に寄付し、周囲から見れば山が回復した状態にする、(3)搬出土砂の半減、(4)解決金四三〇〇万円、(5)今後の開発工事の監理は業者側の費用で住民側の指定した専門家に依頼する、(6)住居専用に限定し、周辺の風致景観との合致を含めた建築協定付で販売する、(7)謝罪条項など、ほぼこれらの要求が全面的に満たされたため、二〇〇六年一二月二六日、業者側との和解成立に至ったものです。

三 意義

 上記和解成立により、当初の計画は取下げられるに至ったため、開発許可取消訴訟は当初の開発許可が取消されたのと同様の状態になることから同日の「取下げ弁論」をもって終結しました。下記は取下げ弁論の「最後に」の部分です。


 住民側が本来京都市に求めてきたのは、京都市が半鐘山全体を取得して恒久的に保全・再生を図ることにより、本件を全面解決させることであった。また京都市は、(1)本件和解の当事者となること、(2)住民側に対して、当初の開発計画を認めたことについて謝罪の意を表明することのいずれも拒否した。これらのことからすれば、今般の解決にはなお不十分な部分があり、この点は極めて遺憾である。

 しかしながら、京都市は今般新景観政策を立案し、そこにおいて、(1)風致地区制度及び自然風景保全条例の拡大・強化(特に、市域全体についてダウンゾーニング)を図るとともに、(2)世界遺産周辺(五〇〇メートル)の眺望景観保全策を打ち出すに至った。

 京都市をして、このように、良好な景観形成に向けて従来の施策を大きく転換することを決意させ得たのは、まぎれもなく、本件開発行為について、開発審査および本件訴訟を通じて、地域住民が、長年に亘って粘り強く良好な住環境と景観の保全を訴え続け、これに呼応したユネスコ世界遺産センターが、わが国に対して世界遺産の保全を要請したことの偉大な結実に他ならない。

 この点において本件訴訟は、京都の住環境並びに景観保全にとって、歴史的意義を有するものであると評価することができる。

 このように、(1)業者をして当初の開発許可を取り下げさせることができたことから、実質的に開発許可が取り消されたのと同様に、原告勝訴の状況を勝ち得たこと、(2)京都市も、謝罪の言葉こそないものの、政策転換によって従来の政策の誤りないし不十分さを認めたと評価することができることから、原告らはいずれも所期の目的を達したものとして、本件訴訟を取り下げることとするものである。

 なお、本弁論を締めくくるにあたって、一言付言する。

 このように、本件訴訟は、京都市をして景観行政について歴史的な大転換を決意させ得たわけであるが、それでもなお市域に残された緑地、里山が開発可能性から守られることになったとは言い難い。京都市は、開発可能性のある緑地、里山について、風致地区条例のより一層の強化、未指定緑地について地域の状況に応じた、古都保存法の歴史的風土特別保存地区の指定もしくは都市緑地法の特別緑地保全地区の指定を行うべきである。



幸せな団員の記録、「お父さんはやっていない」を読んで

東京支部  笹 山 尚 人

一 同期の大山さんの活躍を読もう

 ある土曜日。朝からしんどい控訴事件の控訴理由書を作成していた。もう一週間以上取り組んでいるがなかなか仕上がらない。

 昼食は、気分転換と、妊娠中の妻の長尾詩子団員の運動を兼ねて蒲田駅の駅ビルまで散歩して外食。昼食後、長尾団員から教えられた、矢田部孝司、あつ子著「お父さんはやっていない」(太田出版)を書店で購入した。帯に一月二〇日公開の映画「それでもボクはやっていない」の監督、周防正行氏のコメント。「この事件に出会わなければ僕の映画は生まれなかった。」。この本は、痴漢えん罪事件、「西武新宿線事件」の被告人とその妻が、逮捕から高裁での無罪判決までの日常を振り返ってまとめた本である。映画の公開に合わせ、時期を得た出版だ。この事件を被疑者弁護の段階から担当した弁護団は、城北法律事務所の団員たち。工藤団員、坂口団員は私の大学生時代からの師匠だし、大山勇一団員は、私の同期で修習生時代からの青法協仲間。彼が議長で私が事務局長、でコンビを組んだ仲だ。そんなこともあって、大山団員からはよくこの事件のことは聞いていた。さぞかし彼らの活躍がかっこよく描かれていることだろう。大山君の活躍を読める、と期待して購入した。

二 西武新宿線事件と痴漢えん罪事件

 この事件は、二〇〇〇年一二月五日に西武新宿線で通勤途上の矢田部さんが、高田馬場駅で痴漢の嫌疑をかけられて逮捕され、強制わいせつとの罪名で起訴された事件だ。二〇〇一年三月六日に保釈されるまで矢田部さんは勾留された。裁判は、地裁では二〇〇一年一二月六日、懲役一年二月の実刑を下されたが、その後の高裁では二〇〇二年一二月五日、逆転で無罪判決となり、そのまま確定している。

 東京など大都市圏を中心に、痴漢えん罪事件は続発している。条例違反の嫌疑で、認めれば罰金で解放されるが、否認すれば被害者尋問が終わるまでは保釈されない。被告人の早期の身柄解放のため、被害者尋問は主尋問反対尋問同日で。被害者の供述が信用できるイコール被告人の弁解は信用できない。被告人の弁解を裏付けるその他の有力な証拠がなければ無罪にならない。こうした現代刑事司法の闇の全てが、凝縮されているのが痴漢えん罪事件だ。これに加えて、「性犯罪」という事柄の性格上、身柄をとられた家族、とりわけ妻にとってつらい事件になる。「夫は痴漢を本当にしていないのか。」常にその疑問にさいなまれる。家族のたたかいとしても大変厳しい事案だ。

 周防正行監督は、この西武新宿線事件に出会って痴漢えん罪事件の取材に取り組んだという。そういえば、うちの事務所で加藤健次団員らが取り組んだ丸山事件にも周防監督は現れていた。そうしてできあがったのが今度公開となる映画。団員の活躍にヒントを得た弁護人像を役所広司さんが演じるのだろう。映画も楽しみだ。

三 本の内容と推薦

 で、この本を読んだ感想である。

 この本は、逮捕された当日から、高裁判決の日まで、その日あった出来事とそれについて本人が感じたことについて、夫からの視点、妻からの視点が織り交ぜられながら、順次展開されていく構成。さながら二人の日記を合体させて本にしたような感じである。

 弁護人の発言も、行動も、一日、一日詳しく記されている。「勾留理由開示公判準備」「弁護団会議」「再現ビデオ撮影」「電車内撮影」など、弁護団の弁護活動の記録としても詳細だ。中には「弁護士を動かす」なんて項まである。

 事前に事件についての情報を聞いたことがあるせいかもしれないが、二時間くらいでパーッと読めた。読後感としては、被告人、その家族、それから弁護士の行動の実録という内容なので、勝ってさわやかというよりは、本当につらい事件を苦闘してたたかったのだな、よくがんばったな、という、ややしんどい印象を受けた。思ったより、大山団員をはじめ、団員たちが大活躍したようには書かれていない。武勇伝を期待した私は若干肩すかしをくわされた気分だ。それでも、一読の価値があるとは思う。それは次の理由による。

(1) えん罪に陥れられた被疑者、被告人とその家族の、苦しさ、悔しさ、つらさが克明に描かれる。接見での夫婦げんかや、一家心中未遂など、えん罪がどれほど無実の人を苦しめるか。司法に携わる者として、決して忘れてはならない現実、司法制度の様々な矛盾を知ることができる。あつ子さんのあとがきにある、「この国の司法は、平凡に生きている私たち国民を簡単に握りつぶしてしまうだけの権力を、無責任に行使する。」という言葉は、これだけの具体的な実録を読んだあとでは、恐ろしく説得力がある。

(2) それにからんで、勾留されている被疑者被告人の様子について、知っているつもりの私たちもここまで克明には知らない。我々にはにこやかな留置担当の警察官も、被疑者にはこんな汚い言葉を使うんだな。やはり警察というのは、恐ろしい権力を使うところだなと再認識。

(3) 依頼者や家族というのは、弁護士に対してこのような印象を持ったり、うれしかったり、がっかりしたりするのだな、ということは初めて知った気がする。依頼者の気持ちというものも、状況の変化や時の流れに応じて変わっていくもの。なるほどねえ、と何度も一人ごちさせられた。それでも、「信頼している工藤弁護士と大山弁護士」という矢田部さんの言葉がうれしかった。一生懸命やっている弁護士に、依頼者は信頼を寄せるものだな。

(4) とくに否認事件を担当したことがない若手の団員の方には、被害者の供述と被告人の供述という証拠構造の中、否認の刑事事件をたたかう際のあり方が勉強になる。

(5) 実は大きな支援が高裁無罪につながっていった事件である。「現代の大衆的裁判闘争の実録」というべき本である。矢田部さんの友人たちの活躍もあるが、国民救援会の小沢さんの活躍も光っていてそれもうれしい記載。小沢さんは、中大の先輩で、実は司法試験受験のときチューターをしてもらったこともある人。今は救援会の大黒柱として活躍されている。

四 個人的な思い出

 読みながらぱっとそのときの情景を思い出した。矢田部さんの起訴時のことである。

 二〇〇〇年一二月のころ、登録したばかりということもあって、この事件は、大山君からよく話題にされていた。今、これは絶対にやっていない、というえん罪事件を不起訴にするためにがんばってたたかっている、と。弁護士になってすぐ、えん罪事件にぶつかったのだ。大山君は端から見ていても奮闘していたと思う。

 たしかヤコブ事件の法廷の日だったと思うのだが、一緒に弁護士会館から裁判所に向かって歩いている道すがらで、大山君の携帯が鳴った。「ええっ!起訴ですか!?」その後むっつりして黙りこくった大山君の顔を、落ち込む彼にかける言葉がなかったことを、よく覚えている。

 本では、二〇〇〇年一二月二五日「起訴」の項で、詳しくそのときのいきさつが書かれていた。とりわけ妻のあつ子さんの手記部分、城北事務所で工藤、大山両弁護士と面会するくだり、「選任届に署名しながら泣いてしまった私に、二人の弁護士は無言だった。」とあった。さぞ、悔しい思いをしただろう。

 大山君は、その後、高裁で、初回接見の状況の証言のため証人として法廷に立った。初回接見時のメモも証拠として提出した。高裁判決では、このメモと大山証言が無罪の資料として引用されたそうだ。苦労しただけに、嬉しかっただろうな。弁護士として無実の人の救援に最初から最後まで関われた大山君は幸せ者で、とてもうらやましい。それは、この事件に関わった全ての団員にいえることだ。

 こういう友人や先輩がいることは私にとっても幸せなことだ。私もこのようなたたかいができるようにがんばらねば。元気をもらって、再び控訴理由書に取り組み、何とか完成にこぎ着けることができた。



詩集 〈午後四時の虹〉を推薦します

大阪支部  宇 賀 神  直

 昨年の暮れにわれ等の詩人の立川 晃さん(本名 武山 哲夫)が〈午後四時の虹〉という詩集を出しました。〈午後四時の虹〉というのは「裁判官ネットワ―ク」を立ち上げた一裁判官が最高裁判所に挨拶に赴き事務当局の人に、「私たちは最高裁に敵対するために結成したのではじゃない―国民のためにより良い裁判所にし合うためです―と話したら、しきりにうなずいていました―午後四時頃―玄関を出るとお濠に雨上がりの虹がかかっていました―ネットワ―クの門出を祝ってくれる虹だねと―話しながら歩いたことを思い出します」という詩をこの詩集の題にしたのである。

 詩集は、祖国よ!という、プロロ―グの〈ぼくは告発する― 戦時中のアジヤの人たちへの加害のありのままを― ぼく自身がひどい加害をやった―  そしていまの深刻な抑圧と人権状況を暴く―

 だが平和で自由で豊かな社会に向って― 人びとのたたかいは続いている― 平和で豊かな未来に向って 暴き尽そう〉を詠いだして、一章は「加害は償われたか」二章は「人権は守られているか」そしてエピロ―グとして「陽は昇る」の三つのテーマに分けて、一章には、「日本鬼子ということで中国残留日本人孤児訴訟」「唄えるか君が代ということで日の丸・君が代起立斉唱拒否裁判」「あの頃の軍隊のやったこと」「神風は吹かなかった」「在日一世の日々」二章は「命奪うな―過労自殺その後」「明日を見つめて―心の病」「おぞましき輩―日本の警察考ということでチカン冤罪などを綴っている」「一枚のビラ―公務員の政治活動とマンションビラまき弾圧事件」「午後四時の虹」「土くれの唄」など一四の詩が綴られている。その中で「中国残留日本人孤児国倍訴訟」「在日一世の日々」「過労自殺その後」「心の病いとたたかう」葛飾ビラと堀越事件の言論弾圧を綴った「一枚のビラ」などの詩文には怒りに満ちた叫びが鋭い感性で詠われている。「土くれの唄」の詩は御門訴事件を叙事的に謳い上げられたもので明治維新の新政府の抑圧に対する農民のたたかいが活き生きと描かれている。詩の力を思う。「中国残留日本人孤児国賠訴訟」の詩や「在日一世の日々」の詩はユンさんという八〇歳の在日の人の日本での苦しい生活の日々を綴ったものでその苦しみと被害回復の今日的意義を伝えている。これらの詩を読むと言葉と言葉の間そのつながり短い文の中から人の動き、姿、訴え、叫びが読む者に伝わってくる。詩の力と思う。

 立川晃さん。本名は武山哲夫さんで電報事件という名の選挙弾圧で逮捕・起訴され裁判闘争を繰広げ、その終結後は国民救援会本部の事務局長、副会長をつとめあげた方で、健康を害しながらも地元で活動しながら詩を綴っている。

 団員の皆様がこの詩集を手にして読んでみるよう、推薦する次第である。

「酒田書店発行 一四〇〇円 立川晃さんの住所は、横浜市保土ヶ谷区仏向町一六五六の九 TEL・FAXとも〇四五―三三五―〇九〇三」



ニューヨーク 人権留学日記 三

―テスト、テスト!―

東京支部  土 井 香 苗

 二〇〇五(一昨年)年八月にはじまったNYU(ニューヨーク大学)ロースクールのLL.M.(法学修士)コースですが、時が経つのは早く、翌年、つまり昨年五月には、卒業式を迎えてしまいました。実質的には、九ヶ月間のコースに過ぎないわけで、慣れてきたと思ったら終わってしまったというのが実感でした。この九ヶ月間は、秋学期(八月から一二月)と、春学期(一月から五月)に分かれており、各学期末には、約二週間ほどのテスト期間があります。ゼミ形式の授業については、各授業への参加度・貢献度及びペーパーで評価を受けるものがほとんどです。ペーパーは思った以上に時間をとられてしまいます。週末ペーパーを書いてもなかなか終わらず、学期末に提出時期を延長してもらってなんとか提出したというような話もちらほら聞きました。また、授業への参加度・貢献度については、とにかく発言をしないといけませんので、度胸がいります。各クラスにつき一回とか二回とか、自分にノルマを課して発言するように努めました。

 ゼミ形式以外の授業については、いわゆる「テスト」を受けることになります。テストの形式には、インクラスとテイクホームがあります。インクラスのテストは、実際に学校に行って、全員一緒にテストを受ける形式のもので、時間制限は、一時間くらいのものから長いと四時間というものもありました。限られた時間の中で、すごく長い(と私には思える)事例を読み、覚えてきた知識をとにかく吐き出しつつ回答を書きまくるというのが実情です。アメリカ人JDでも時間が足りない人が出るくらいですから、ネイティブスピーカーでない外国人にはハンディキャップがあります。アメリカのロースクールの中には、そうした言語上のハンディキャップを考慮して、外国人LL.M.生には余分に時間を与える学校もあるようですが、NYUはそうではありません。以前はそうしたシステムがあったやに聞きますが、JDの抗議を受けて廃止されてしまったと聞きました。一方で、とくかく人一倍まじめに勉強していけば、それほど勉強しなかったJDと比較してよい点を取ることができるようにも感じました。

 一方、テイクホームのテストは、自宅で試験を受けます。制限時間には、八時間のもの、四八時間のもの、あるいは二週間のものなどがありました。ホームページからテスト問題をダウンロードするとタイマーがセットされるので、定められた時間以内に答え(通常、論文形式)をアップロードするという形式です。テストを受けている間に食事をしたり眠ったりすることもあり、いつ眠るか、いつ食事をするかなど、事前に計画を立てておかないといけません。

 さて、私は、アメリカで修士号をとった日本人弁護士の先輩たちの話をきいて、アメリカのロースクールで学ぶことは結構簡単という印象を受けていました。みな、「日本での仕事に比べれば、楽」と言っていたからです。日本での大学時代には、まともに出席さえしていなかったので、大学=楽というイメージもありました。そこで、アメリカのロースクールでの一年間は、まあ、遊びとはいわないまでも、ちょっとした息抜きのつもりもあってやってきたのですが、実際に始めてみると、遊ぶ暇もあまりありません。勉強そのものはそれなりに楽しかったのですが、とにかく、毎日、たくさんのリーディングに追われているので「ちょっとした息抜き」とは言えない一年間になってしまいました。ニューヨークでたっぷり観光しよう!と思っていたのですが、ふたを開けてみると観光も中途半端。英語もぺらぺらになるかと期待していたのですが、九ヶ月ではそんなに上達もせず。ということで、学期半ばころから「これではいかん」と思うようになり、卒業後一年間、ニューヨークにいる方法を模索しはじめたのでした。

 ―ということで、NYU卒業後、いったい私がどうしているのか―は、また別の機会にご報告いたします。



密かに進む戦争国家体制作り(上)

広島支部  井 上 正 信

一 はじめに

 年末から年始にかけて、日米の共同作戦計画作りに関する重要な記事がいくつか掲載された。〇六・一二・三〇中国新聞(共同通信社配信)「尖閣有事日米初の演習 中国の侵攻想定」、〇七・一・四朝日新聞「日米、有事計画を具体化 施設提供や支援」、〇七・一・五朝日新聞「朝鮮半島有事なら・・安保会議が推計 北朝鮮から難民一〇万人 日本の収容能力越す恐れ」、〇七・一・四中国新聞「中台有事で対処計画 日米政府検討へ 補給や医療など想定」に注目した。いずれも朝鮮半島と台湾海峡有事を想定した日米の共同作戦計画策定が進んでいることを裏付けている。

 昨年末の臨時国会で防衛庁設置法・自衛隊法改正法案が成立し、一月九日より防衛庁は防衛省になる。更に自民党内では自衛隊海外派兵恒久法案が既に作成されている。

 防衛法制は私たちの目には明らかになりその分析は可能だが、日米共同作戦計画となると軍事機密の厚いベールに包まれて、その内容はほとんど国民には知られていない。時々現れる新聞記事などの断片的情報から、その内容を推測するしかない。しかし、安全保障政策・軍事政策やそれを法制面から支える軍事法制を規定するのが、日米共同作戦計画なのだ。これらの新聞記事から、現在進められている戦争国家体制作りの現状を整理しそこから見えてくる防衛法制と憲法改悪に言及しよう。

二 日米共同作戦計画の系譜

1 新ガイドライン策定まで

 七八年一一月旧ガイドライン策定後日米両軍の共同演習が活発になり、それを踏まえた共同作戦計画作りが進んだ。しかし、旧ガイドラインは基本的な内容が日本有事であったため、極東有事研究は中断され、朝鮮半島有事研究も未完に終わった。完成したといわれるものはソ連による北海道侵攻を想定した日米共同作戦計画五〇五一と、シーレーン防衛研究と中東有事研究を合体させた日米共同作戦計画五〇五三だけであった。

 本格的な周辺有事研究は九七年新ガイドライン策定からである。新ガイドラインは旧ガイドラインで積み残された周辺事態について日米の戦争計画を作ることが合意された。新ガイドラインではそのための仕組みが合意されている。「包括プログラム」である。「包括プログラム」は新ガイドラインによると、平素からの日米共同作戦計画を策定し検討修正を計る、準備のための共同の基準・共同の実施要領(日米両軍共通のデフコン、作戦規定、交戦規則などであろう)の確立を目的にする。具体的には、日米安保協議委員会(日米両国の外務・国務・防衛・国防大臣長官会議)の下に、共同作戦計画、共同の基準、共同の実施要領を策定する共同計画検討委員会(自衛隊、米太平洋軍・在日米軍で構成)、日本の関係省庁局長等会議(中央省庁の局長・審議官で組織)を包括したものである。関係省庁局長等会議は九七年一〇月二〇日設置された。この会議は、日米共同作戦遂行のための国内体制の整備が目的である。この仕組みにより日米共同作戦計画や有事法制が推進されることになる。つまり、日米両軍の作戦計画策定と日本の国内体制整備が車の両輪となって戦争国家体制が作られてきたのである。

2 島嶼部防衛計画

 新防衛計画大綱では多機能弾力的防衛構想が打ち出されたが、その柱の一つが島嶼部防衛である。島嶼部防衛は言葉のイメージからすると小規模な作戦のように思ってしまう。これが我が国の防衛力の総力を結集する作戦であることを示したのが、〇五・一・一六中国新聞(共同通信配信)「部隊五万五〇〇〇人動員 南西諸島有事防衛庁方針 尖閣巡り策定」という記事であった。中台武力紛争で中国人民解放軍が南西諸島の一部を軍事占領することを想定した戦争計画である。記事によると、防衛庁の部内協議で策定された計画では、侵攻への直接対処要員(おそらく戦闘部隊)九〇〇〇人を含む陸自部隊五五、〇〇〇人と海自護衛艦や空自戦闘機が戦域へ派遣される。警戒監視や情報収集、護衛艦や戦闘機による海上阻止(海上の敵軍を攻撃)、占拠された島の奪回作戦である。陸自の定員は一五万人であるから、三分の一以上の部隊が参加する作戦である。空自・海自部隊の規模は分からないが、輸送や護衛、攻撃部隊、情報収集、偵察などを考えると大部隊となるであろう。これ以外にも北朝鮮に対する牽制のための部隊の配備もあるので、日本の軍事力の総力を挙げた作戦であることは容易に想像できる。この対処方針は〇四年一一月に策定された。私は、この計画は新防衛計画大綱の策定作業の一貫として取り組まれていたと考えている。なぜなら、防衛庁は次期防衛計画大綱策定のための内部作業を進めるため、九・一一事件の一〇日後に「防衛力のあり方検討会議」を設置した。あり方検討会議が打ち出した多機能弾力的防衛構想の柱が島嶼部防衛であるから、「防衛庁の部内協議」は「防衛力のあり方検討会議」と並行して進められたことは間違いないであろう。

 私はこの記事を読んだとき、この計画には必ず米軍が関わり共同作戦計画の一部となっていると考えた。その理由は、南西諸島へ中国軍が侵攻する事態とは、中台武力紛争で米国が台湾支援の武力介入した際に発生するからである。元々南西諸島有事計画の出発点となったのは、九六年三月の台湾海峡危機であった。台湾総統選挙の際中国人民解放軍が台湾武力侵攻の軍事演習を行った。これは中国人民解放軍初の統合演習であった。軍事演習の最終盤で弾道ミサイルを台湾近海へ打ち込んだ。このとき米国は台湾関係法を初めて発動して、二個空母戦闘群を台湾海峡近海へ派遣し中国を牽制した。米軍は日本に対して給油艦の派遣、負傷米兵の収用、敵情法の提供を要請した。米国はこのとき中国との武力紛争の可能性を想定していたのだ。このときの米国の要請は、九四年春からの朝鮮半島核危機の際の二〇〇〇項目の軍事援助要請と併せて、後の周辺事態法や有事法制策定の衝動となる。当時の橋本内閣は、弾道ミサイルが誤って台湾へ着弾したり、中台双方の空軍機の偶発的な交戦などの偶発事態から、中台の本格的な武力紛争に発展し、南西諸島の一部を中国人民解放軍が軍事占領することや、沖縄本島への航空攻撃を想定して、防衛出動を検討した。自衛隊も年度防衛計画の発動を検討した。具体的には、F―一五戦闘機部隊を那覇基地へ派遣し、護衛艦を八重山諸島へ派遣するというものであった。

 作戦計画は軍人が頭の中で考えるものではない。実際の軍を動かす演習(実動演習や指揮所演習)を繰り返しながら作戦計画を練り上げ、更に軍事演習により計画を検証し、修正しながら完成させる。完成させた後は情勢に対応して演習を繰り返しながら計画をアップデートしてゆく。島嶼部防衛計画は必ず軍事演習を伴うはずである。とりわけ新防衛計画大綱で防衛政策の重点になったのである。先に紹介した中台有事を想定した日米共同演習の記事は、台湾海峡有事での日米共同作戦計画作りが進んでいることを私たちに示しているのである。新聞記事によると、昨年一一月に硫黄島周辺で行われた日米両海軍の共同演習では、海自からイージス艦等約九〇隻、P三Cなど約一七〇機、米海軍から空母キティーホークなど一〇数隻が参加した大規模な演習であった。想定は、中台情勢緊迫の中で中国軍(オレンジ)が尖閣諸島に武力侵攻し、日本(青)と米国(緑)が海上交通路を確保し、日本が輸送艦で地上部隊を緊急展開し、日本が尖閣諸島を奪回するというもの。陸・空軍が参加していないが当然地上戦闘と空中戦闘、海上戦闘が想定されている。既に陸上自衛隊は米海兵隊と共にハワイやグァムで上陸演習を行っている。このような演習を通じて中台紛争という周辺事態での日米共同作戦計画作りが進んでいるはずである。

 ここで言葉の整理をしておこう。周辺事態での日米共同作戦計画のことを、公式には相互協力計画と呼んでいる。日本有事では共同作戦計画と呼ぶ。その理由は、周辺事態は、日本の施政権下にある日本の領域への武力攻撃という日米安保条約五条事態ではないので、日米両軍の共同作戦ができないこと(安保条約第六条による基地提供だけである)、憲法九条の制約から、我が国が攻撃されていない事態で自衛隊は海外で戦闘行動がとれず、集団自衛権も行使できないからである。そのため、共同作戦計画と呼べば憲法にも安保条約にも違反することになるから相互協力計画と称している。このネーミングは日本の軍事政策でよく使われる言葉のごまかしである。日米両軍の分担はあるが一つの作戦計画の下で一体となった軍事活動を行う以上、共同作戦計画と呼ばなければならない。

 尖閣列島防衛については、もう一つの伏線を確認しなければならない。米国は日米安保条約の共同防衛が適用される地理的範囲を日本の施政権下とし、それには日中間で領有権争いのある尖閣列島を含むか明確にしてこなかった。ところが、二〇〇〇年一〇月のアーミテージレポートは、米国として尖閣列島防衛のコミットメントを明らかにすべきであると述べている。ホワイトハウスの公式の表明として踏み込んでいるか私は知らないが、軍事政策としては既にアーミテージレポートの提言を実行しようとしているのであろう。

(以下、次号に続く)



団での活動を通して感じたこと

東京支部  村 田 智 子

 二〇〇六年一二月一五日、教育基本法「改正」法案が成立した。私が二〇〇二年秋に団本部の事務局次長になってから四年間取り組んできた教育基本法改悪阻止運動も、ひとまず区切りがついた。

 区切りがついてしまったことに対して、なんともいえない寂しさと、この社会に対するいいようのない悲しさは感じる。

 でも、後悔はまったくない。

 どうしてなのか。

 それは、私が、団全体の取組の中で、団員として、取り組んだからである。

 運動全体を通して、いろいろな会合に出かけたが、その中で感じたのは、「団は、結構面白い団体である」ということだった。団には、組織としてしっかりしているという面と、個々の団員の自由な活動を許容し受け入れるという柔軟な面がある。従来の民主団体の良さと、市民運動型の運動体の良さを、両方あわせもっているのではないかと思う。

 たとえば、ある団体の会合において、私だけでは何ともしがたいという場面で、対策本部長の小笠原さんと、当時担当次長だった飯田さんが一緒に出席してくださったことがあった。この会議の後、私は他の団体の方から、「団はいいね。村田さんが大変そうだと、ああやって小笠原さんや飯田さんが一緒に来てくれて」と言われた。「普通の組合とかだと、担当者が行けないとなると、誰も行かない、ということで終わってしまうこともありますよ」といわれ、ああそうかもしれない、と思った。決して、他の団体のやり方が悪いというわけではない。ただ、団の場合、弁護士のメンバーで専従はおらず、皆、それぞれの仕事や他の活動を抱えながらの運動なので、自然と、様々な面で、お互いにカバーしあうようになるのだろうと思う。より正確に言えば、カバーしあわなければやっていけない。それが、結果として、功を奏するのだと思う。

 書いていて、今ひとつ、うまく表現できていないので、一つの例えで説明したい。

 皆さんは、本格的なチアーリーディングを見たことがあるだろうか。本格的なチアでは、二段、時には三段のタワーをつくる。仲間の肩の上に立つのである。高いタワーの頂上にたった演技者は、タワーから降りるとき、どのように降りるのか。階段を降りるようにそろそろと降りるのではない。演技中のポーズのまま、笑顔のままで真後ろに「落ちる」。それこそまっさかさまに落ちるのである。落ちた先には、複数の仲間が構えていて、その演技者を受け止める。だから、落ちた演技者は怪我一つしない。そのことが分かっているので、演技者は最後まで笑顔でいられる。大げさな言い方かもしれないが、運動の最後の局面での私の心境は、頂上に立っているチアの演技者とよく似ていた。最終局面ではかなり運動に突っ込んだが、何の不安もなかった。皆が一緒にいてくれるのが分かっていた。恵まれた環境にいたと思う。

 こういう団の環境は、若手が活躍する場としては、最適なのではないか。仮にやりすぎはあっても、そこは周囲の人がフォローしてくれる。一緒に取り組んでくれる。事態が緊迫したときは、どんなに忙しくても伴走してくれる。自分がやる気を失ったときには、誰かがやる気になっていて、うまくバランスがとれたりする。

 教育基本法改悪阻止の運動の成果を通して、団の活動に参加してくださる方が増えたら、本当にうれしい。

 特に若手には、安心して、団の活動に参加して欲しい。



借地借家法の改悪反対の運動を強めよう

市民問題委員会担当次長  松 本 恵 美 子

 自由法曹団は、これまでも、定期借家制度や正当事由制度を見直す借地借家法の改悪の動きに対し、意見書(二〇〇五年二月)を発表するなど反対運動に取り組んできました。

 二〇〇六年六月、日本経団連は、「二〇〇六年度規制改革要望」を発表し、その中で、(1)定期借家制度導入前の既存の賃貸借契約を合意解約し、定期借家契約に変更できるようにする。(2)定期借家契約に際し、書面交付・説明の義務を廃止する。(3)小規模居住用建物の借家人の中途解約権を見直すべきであるとして、定期借家制度の見直しを政府に要望しました。また、借地借家法の正当事由を廃止せよ、仮に存続させる場合は、立退料の上限を設定すべきと正当事由制度の見直しも要望しています。昨年末の一二月二五日には、規制改革・民間開放推進会議も、同様の内容で答申(第三次)しています。

 このような情勢の下、本年の通常国会で、前述の内容で借地借家制度の改悪法案が提出されると予想されます。

 前記改悪は、立ち退き・建て替えを容易にします。そして、不動産証券化を拡充することにより、不動産業者、デベロッパー、ゼネコン等の業界の利益が図られます。他方で、我が国の全世帯の約4割を占める借家人の「居住する権利」は侵害され、営業や生活の安定が脅かされることになります。このような、改悪は、絶対に阻止しなければなりません。

 昨年末、全国借地借家人組合連合会から自由法曹団に対し、借地借家法改悪反対全国連絡会へ参加し、共に反対の運動を拡げていこうとの要請がありました。そして、昨年一二月の団の常任幹事会で、全国連絡会へ参加することと署名運動に取り組むことが確認されました。

 そこで、団員の皆様は、後記のアドレス(東京借地借家人組合連合会のホームページ)より署名用紙をダウンロードして、二月末までに署名を集めてくださるようお願いします。なお、署名用紙は、団本部ではなく、署名用紙に記載のある借地借家人組合連合会宛に直接送付してください。

 署名用紙掲載のホームページアドレス

 http//www.yuiyuidori.net/to-syakuren/9-u/061015s.pdf