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志村 新 「NTT配転事件」 東京地裁判決の異常性
広田 次男 仙台高等裁判所住民訴訟逆転勝訴のお知らせ
市川 守弘 長崎市長銃撃事件
〜けん銃やらせ捜査横行の結末〜
増井 健人 「これが日本の民主主義なのか」四・一二中央行動に参加して
鶴見 祐策 DVD「裁判員制度を支える速記官(充実した評議のために)」の紹介
脇山 弘 「業による輪廻」の差別と脅し
井上 正信 二・一三 六カ国協議合意文書をどう見るか(一)第三セッションへの途(上)



「NTT配転事件」 東京地裁判決の異常性

東京支部  志 村   新

はじめに

 二〇〇七(平成一九)年三月二九日、東京地裁民事一九部(裁判長裁判官中西茂、裁判官本多幸嗣・同齋藤巌)は、九名の通信労組員がNTT東日本(及びNTTエムイー)を被告として二〇〇二年七月から八月にかけて行われた配転の効力を争っていた事件について、原告ら全面敗訴の不当判決を出した。

 同じくNTT東日本を被告として本件と同じしくみで同時期に行われた配転の効力を五名の通信労組員が争った事件について、半年前の二〇〇六(平成一八)年九月二九日、札幌地裁は、配転はいずれも権利濫用であるとして全員に慰謝料を支払うようNTT東日本に命ずる判決を出していた。

 なお、東京地裁判決の前日には大阪地裁が、NTT西日本を被告とする同種事件について、原告二三名のうち三名についての配転を権利濫用として慰謝料の支払いを命ずる一部勝訴判決を出していた(大阪支部の城塚健之団員の報告参照。)。

一 NTTによる本件配転の特異性

 本件配転は、札幌地裁及び大阪地裁で争ってきた配転事件と共通するしくみで行われた、いわゆる「NTT一一万人リストラ」の一環としてなされたものだった。

 ところで、NTT(日本電信電話株式会社)及びその傘下各社から成るいわゆる「NTTグループ」は、一九八五年四月の電電公社民営化による旧NTTの発足(及びNTTデータ・NTTドコモ・NTTコムウェアなど新設子会社への一部事業譲渡)を経て、一九九九年七月の純粋持株会社NNTとその一〇〇%子会社である東西地域通信会社(NTT東日本・NTT西日本)及び地域間・国際通信会社(NTTコミュニケーションズ)への再編により、現在の原型がほぼ出来上がっていた。

 もともと旧電電公社は電信電話通信網を全国にあまねく普及・維持するために公社として設立されたものであること、民営化及び再編後の事業体にもこれを引き継がせる必要があったことから、電電公社民営化と再編はいずれも立法措置によって行われた。こうして、NTT東日本及び西日本は、いずれも電信電話業務を含む電気通信業務がその本来業務として法定されていた。

 ところが、本件配転をその重要な手段として行われた「一一万人リストラ」は、この本来業務の中心である固定電話に関する業務を、「収益性が見込めない」からとNTT東日本及びNTT西日本自らが行わずに外注化(アウトソーシング)することにより、人件費をはじめとする経費の大幅削減を狙ったものだった。その著しい特徴は、外注先として地域毎に一〇〇社にも及ぶ一〇〇%子会社を新設するとともに、外注化対象業務に従事していた労働者のうち、五〇歳以下の者は新設子会社に在籍出向させる一方で、五一歳以上の者はNTT各社を退職して新設子会社に二〇〜三〇%の賃金ダウンで再雇用させるという点にあった。

 退職再雇用には当然ながら本人の同意が必要となる。しかし、大幅な賃金ダウンという不利益を伴うので、大多数の者から同意を得るにはそれなりの「仕掛け」がなければならない。その「仕掛け」として用意されたのが、「NTTに残れば今までの仕事はない。徹底した成果業績主義のもとで高度のスキルが要求される仕事に就いてもらうこととなるうえに、全国転勤型となる。」という脅しであった。NTT各社は、こうして対象者である五一歳以上の労働者の実に九七%を「同意」にもとづく退職再雇用へと追い込んだ(これに「希望」退職募集等と合わせて一一万人の削減をはかるものであったことから「一一万人リストラ」と呼ばれる。)。

 一方で、通信労組員をはじめとする約七〇〇名の不同意者に対しては、定年を数年後に控えた年齢になってからの異職種・遠隔地への異動を、家族的事情などをいっさい把握しようともせずに強行したのである。これが、二〇〇二年後半からの札幌・大阪・東京の各地裁(他に静岡・名古屋・松山・福岡の合計七地裁)への一斉提訴にいたった原告らに対する各配転の実態であった。

二 東京地裁判決の突出した異常性

 東京地裁には、北海道・東北各県などから東京・神奈川へと配転された一〇名の通信労組員が提訴していた。うち一名については、訴訟中に実父の病状が深刻化したことから、新たな人事異動発令により自宅から通勤可能な職場への異動を実現して単身赴任状態を解消することと引き換えに訴えを取り下げる、という事実上の和解が成立した。この結果、判決を迎えたのは九名だが、うち二名はすでに定年退職しており、判決二日後の三月末日にはさらに二名が定年退職を控えていた。

 東京地裁判決は、二三名のうち二〇名の請求を退けた大阪地裁判決とも共通するが、各配転の業務上の必要性を正面から肯定した。先ず何よりもこの点で、一人を除く原告全員について業務上の必要性を否定した札幌地裁判決との間に決定的な違いがある。

 しかも、東京地裁判決は、前述した新設子会社への業務の外注化と五一歳以上の退職再雇用を柱とする経営構造の改革施策は「人的コストの削減」を主要な目的とするものであり「経営上の合理性・必要性が認められることは明らか」だと積極的に評価した。そのうえで、退職再雇用に応じなかった者はそれまで従事していた業務がなくなったのだから、配転先との関係で求められる業務上の必要性については「より緩やかに判断」されるべきだという独自の基準を打ち立てた。

 しかし、原告らが従事していた業務がなくなったとされるのは、もともと、五〇歳以下とは異なり五一歳以上の者は新設子会社に在籍出向させないという年齢差別施策によるものだった。ところが、判決は、二〇〜三〇%の賃金ダウンに応じて退職再雇用された者の「不公平感を煽り、その勤務意欲を削ぐ結果となることは明らか」なので、原告らを含む五一歳以上の者に在籍出向を認めなかったことは合理的である、とまで言い放った。

 原告らは、大規模法人を対象にしたIP・ブロードバンド営業を柱とする首都圏の法人営業部門へと配転されたが、五〇歳代になるまでの三〇余年間にわたる業務従事歴に照らして原告らが不適任であって、人選の不合理は一見して明らかであった。にもかかわらず、判決は、右のような独自の判断基準を打ち立てて、原告らに対する各配転についての業務上の必要性を易々と肯定したのである。

 また、判決は、退職再雇用に応じるか否かは労働者の「自由意思に委ねられていた」と事実を歪めつつ、実際には本件各配転が五一歳以上の労働者を退職再雇用に追い込むためという不当な動機目的にもとづくものであったことを、いとも簡単に否定した。 

 さらに、判決は、原告らが被る不利益についても、単身赴任は一般的に不利益を伴うものであるから余程の特別な事情がない限り甘受すべきである、片道二時間の通勤は「首都圏に勤務する会社員にとって希有な事態とは解されない」等の理由で一蹴した。そこには、五〇歳代になってからの単身赴任・遠距離通勤によって労働者とその家族が強いられる厳しい現実に目を向けようとの姿勢は、微塵も窺うことはできない。

三 企業の論理に染まった姿勢を正すために

 NTTでは、五一歳に達すれば賃金ダウンを伴う退職再雇用に同意することを迫られ、同意しない者は仕事を奪われて異職種・遠隔地配転を受けるという仕組みが現在も維持され、毎年その犠牲者が生まれ続けている。

 中西茂裁判長らは、そのことを百も承知で、この仕組み自体を「人的コストの削減」を主要な目的とする合理的な経営施策だと積極的に評価した。裁判官らは、労働者をもっぱら経営上の「コスト」と見なす企業の論理にどっぷりと浸り、生活の大半を捧げてきた企業から削減すべき「人的コスト」扱いされて子会社への「外注費」に付け替えられる労働者の悲惨さには目を向けようとはしなかった。

 しかし、労働者とその家族は生身の人間であって調達部品・資材などのコスト一般の対象とは異なる。切り捨てられても物言えないコスト対象物とは異なることを、この不当きわまる判決の論理に対する批判の声を大きくひろげることで示さなければならない。

 弁護団(東京支部の泉澤章・今村幸次郎・上田誠吉・大崎潤一・小木和男・坂本修・志村新・菅俊治・平井哲之・藤澤整・町田伸一・松本恵美子ほか、及び埼玉支部の山崎徹)は、そうした運動の力と結びながら、控訴審での逆転をめざして準備を進めているところである。



仙台高等裁判所住民訴訟逆転勝訴のお知らせ

福島支部  広 田 次 男

一 はじめに

 地元の政治家が自民党県連会長または県会議長などの要職に就任した場合に、その祝賀広告に自治体が名を連ねる事が福島県ではこれまで慣例として見られてきた。また、この慣例は東北地方一帯で多く見られると聞くので、恐らく全国的にも広く見られるのではないだろうか。この判決は、そのような広告への公金支出を違法とした点で参考となるかと思うので報告します。

二 事案

 いわき市水道局は、いわき市出身の衆議院議員Aが自民党県連会長に、同県会議員Bが県会議長に、各々就任した祝賀広告(朝日新聞)に広告主として名を連ねた。他に会津地方の市町村は市町村名で、双葉地方の市町村は双葉地方町村会で広告主として名を連ねた。

このような広告に名を連ねる事は、地方政治の中立性を規定する地方公務員法三六条に違反するとして、市民オンブズマンいわきが二〇〇五年五月二七日にいわき市に対して監査請求をしたが、例によって理由らしい理由もなく請求は棄却された。

三 一審

 そこで、同年八月五日に福島地方裁判所に提訴した。被告いわき市水道局は、「この広告はA衆議院議員とB県会議員の別々の広告であり、公費は公的地位である県会議長Bの広告費として支出したもので私的地位である自民党県連会長Aの広告には支出していない」との主張をなした。裁判所は被告職員を証人として採用し「AとBは別々の広告と理解していた」旨の証言を長々とやらせた。当方は「広告が一体である事は、一目瞭然であるから証人採用は不用」との意見を提出したが、裁判所は当方の意見を却下したので、この頃から一審の「雲行きは悪い」との感触であった。

 二〇〇六年一一月二一日福島地方裁判所は、「AとBは一体の広告であるが、両者とも社交的儀礼の範囲」として、原告敗訴の判決を言い渡した。

当方の「地方政治の中立性」についての主張は全く無視された。

四 控訴審

そこで直ちに控訴をなし、特に政治的中立性を中心に控訴理由書を提出した。本年三月二九日仙台高等裁判所は、一審判決を破棄し、住民全面勝訴の判決となった。その骨子は、「AとBは一体の広告で両者とも社交的儀礼の範囲」と一審同様の判断をしたうえで、「しかし、A自民党県連会長の広告は、地方政治の中立性を損なう」点で社会的相当でない支出とした。

更に、「Bの県会議長」の広告にも言及し、Bが県会議員であり、地元の住民にはその所属政党は明白な事実であるから、この広告への支出も地方政治の中立性を損ない社会的に相当でないとした。

五 三万一五〇〇円

親子二代に亘りいわき市の顧問弁護士を勤めるC先生は快活で率直な人柄である。この訴訟で当方が返還を求めた広告料は三万一五〇〇円であった。

控訴状提出直後、弁護士控室で顔を合わせたC先生は、本訴について「一審で四〇数万円、控訴審でほぼ同額、計八〇数万円は私は手にした。三万一五〇〇円の返還のために弁護料八〇数万円を支出させる事をオンブズマンとしてどう考えるのか」と私に問うてきた。

私は「提訴、控訴の基準はソロバン勘定ではなく、スジが通るかどうかでしょう」と答えると、C先生は「なるほど」とうなづいた。

そこで私は、「先生は八〇数万円も弁護料を手に出来るでしょうが、私は全く無償ですよ」と言うと、C先生は「その点では君は全く立派だよ」と再びうなづいた。「当然だ。私は誇りある団員だから」と私は胸の中で呟いた。



長崎市長銃撃事件

〜けん銃やらせ捜査横行の結末〜

北海道支部  市 川 守 弘

 長崎市長銃撃事件は、選挙期間中もあって、政治に対するまた言論に対する暴力、という点での論評が目立つ(四月一八日時点でこの原稿を書いている)。しかし、私はこの事件を知ったとき、一番に警察の銃器捜査、暴力団捜査の能力低下とそれを招いたけん銃やらせ捜査の横行、そしてなによりもこのような事件は、今後一般市民に向けられた犯行としていつでも、どこでも起こりうると感じた。

 国松警察庁長官狙撃事件に端を発した日本警察による銃器対策は、けん銃摘発に重点を置き、「首なしけん銃」(被疑者不明のままけん銃だけが押収される)に代表されるように、押収される銃器の数だけを全国で競う、という現象を引き起こした。いわゆる「平成の刀狩」である(この詳細は、原田宏二氏著「警察VS警察官」「警察内部告発者」に記述されている)。この銃器対策は、それまで暴力団対策として行われていた銃器捜査を暴力団捜査から切り離し、生活安全部「銃器対策課」を新設して行われた。当然のことながら、この結果、暴対担当との情報交換は行われなくなり、「ライバル」部署となる。また銃器対策課は、暴力団対策の要である覚せい剤捜査とも切り離される(生活安全部薬物対策課となる)。銃器対策課は、徹底した銃器の摘発押収だけを目的とし、その押収数が、幹部の昇進と警察本部への予算配分へのポイントなるため、数々の違法捜査を生み出した。北海道では、覚せい剤一三〇キロの密輸を「泳がせ捜査」で行い、最終的に銃器の大量押収というシナリオを立てていたが失敗しこの覚せい剤は街に流れた、と報じられている。私は、その捜査を担当した元警部に刑務所で面会し、「事実だ」といわれた。けん銃摘発のためには一三〇キロの覚せい剤の密輸などたいした問題ではないのだ。またけん銃の摘発のために、わざと暴力団員の「捜査協力者」にけん銃をコインロッカーなどに入れさせ、あたかもタレコミによって情報を得たものとして押収する、などという手口が日常茶判事となった。

 このようなけん銃摘発だけを中心した銃器対策課は、前記の泳がせ事件や長崎(まさに今回の事件の舞台)でのけん銃摘発のための違法捜査(大宅事件)などに対する全国からの批判を契機に縮小されていく。警察が組織を挙げて、「やらせ摘発」の違法行為を繰り返していたことは全国で発覚している。問題は、この「平成の刀狩」が何を生み出したかである。

 第一に、暴力団対策の刑事捜査が弱体化した。いまや暴対といえば「民暴」対策が主な仕事である。資金源である覚せい剤などの薬物や武器であるけん銃は、いまでも生活安全部薬物銃器課が担当である。

 第二に、「平成の刀狩」では、暴力団そのものの「武器庫」が温存された。やらせ捜査を中心にけん銃摘発だけを目的としていたのであるから、本当の武器庫には手をつけていなかったのである。身を危険にさらして長い内偵を必要とする「武器庫」の摘発などは、毎月の押収数だけが重視されるけん銃捜査では不必要ですらあったろう。実際に「暴力団事務所から大量のけん銃が押収」などというニュースはなかった。良質の大量のけん銃が全国の暴力団事務所に温存されたのである。

 第三に、弱体化した暴対とけん銃を大量に温存する暴力団との力関係から、いまや警察は暴力団に完全になめられている。東京の中心街で白昼、けん銃により組幹部が射殺されたニュースは、つい最近の出来事であるが、いまだに犯人は捕まっていない。組同士が手打ちをしたと報じられながら結局実行犯は行方不明のままである。聞いた話では、襲撃された組が仕返しに相手の組事務所に発砲したところ住所を間違えていたそうである。これは警察からの情報を元にしたからだそうだ。組事務所所在地を間違えるほどの警察は、いまや暴力団にも相手にされていない。ちなみに、警視庁はだいぶ経ってから神戸の本部にガサに入った。事前通報して入ったといわれている。通報がなければ「どんぱち」始まって、警察官が危険だったからだそうだ。

 刑事警察が、警備公安警察に比べて弱体化しているという話は、昔からあった。しかし、長崎の事件ほどそのことを痛感させられるニュースはない。「平成の刀狩」を指示した警察庁のキャリア官僚には、現場の捜査などどうでも良いのだ。市民生活の安全など眼中にはない。これでは、いつ市民がけん銃の標的になってもおかしくない。それだけ暴力団組織が幅を利かせ、けん銃が日本中に蔓延しているからだ。そして、このキャリア官僚は、警備公安上がりなのである。



「これが日本の民主主義なのか」四・一二中央行動に参加して

大阪法律事務所事務局  増 井 健 人

 私は今年四月に大阪法律事務所に入所した新人事務局です。

まだまだ右も左も分からない入所十日目の四月十二日、改憲手続法案の採決をくい止めるため、東京の国会前での中央行動に参加してきました。大阪の自由法曹団からは西晃弁護士と当事務所の事務局三名、さらには府内の他の共同事務所の事務局三名が参加しました。私にとっては東京に行くこと自体が初めてでした。

 東京に到着するなり、早速衆議院第二議員会館前で座り込み行動に参加しました。はじめに、事務所が集めた署名(一、二二一通)を提出。みなさんの声と想いを届けました。この日は、衆議院の憲法特別委員会で強行採決が行われるとの情報もあり、多くの人が改憲手続法案、憲法改正への反対の声をあげました。

 十二時十五分からは座り込みと並行して国会前でのコア集会に参加。この集会では各団体の代表者がそれぞれ法案・憲法改正への反対を表明。そして、憲法特別委員会で審議をしていた日本共産党の笠井亮議員が、午前の委員会での審議状況を報告されました。与党側が今日にも強行採決しそうなこと、それに対し「議論が尽くされておらず、拙速だ」との意見を聞き、徐々に危機感が増してくると同時に「法案を通してはいけない」との思いがさらに大きく湧き上がった瞬間でした。

 午後からは国会記者会館の食堂で昼食の後、西弁護士と事務局三名で衆議院憲法特別委員会を傍聴しました。めったに来ることはできないであろう第十八委員会室での傍聴。そこは外の音が遠くに聞こえる程に静かで、より一層の緊張感を生み出していました。

 理事会の延長で予定よりも四十分近く遅れて午後の議論が、民主党・共産党・社民党の順で始まりました。民主党の「私たちの出した案と自民党案は一枚の板の表と裏、なぜ受け入れられないのか」という主張に愕然とし、共産党の「議論が拙速で、改憲スケジュールにしたがっているだけだ」「自由に政治活動ができない法案はおかしい」、社民党の「主権者は国民であるのに、国民投票運動に規制があるのはおかしい」「法案成立後三年間で議論するなら、なぜ今採決するのか」という発言に賛同の拍手が起こる傍聴席。しかし満足な返答もなく国民の声を無視したまま、怒号の中、午後六時過ぎに強行採決されました。初めて傍聴した委員会は歴史の転換点ともいえる瞬間で、傍聴に来てよかったという思いと強行採決に対する怒りとが混ざった複雑な気持ちで委員会室を後にしました。傍聴席からの「これが日本の民主主義なのか」という言葉がひどく印象的でした。

 私たちは最後に、怒りを抑えきれず興奮状態のまま日比谷野外音楽堂で行われた「STOP!改憲手続き法案四・一二大集会」に参加しました。日本共産党の志位委員長、社民党の福島党首がそれぞれ、改憲手続法案の強行採決に抗議するとともに、改憲反対・九条を守ろうと呼びかけると集まった大勢の人たちからは、われんばかりの大きな拍手が巻き起こりました。

 今回の東京での行動を通して、改めて民主主義の大切さと改憲への流れを止めなければという想いが強くなった、意義深い、充実した一日でした。



DVD「裁判員制度を支える速記官(充実した評議のために)」の紹介

東京支部  鶴 見 祐 策

 裁判員制度の報道や解説がさかんだが、重要な問題点が見過ごされているように思う。法廷供述をもとにした集中審理がうたい文句であるが、その記録をどうするのかが、いぜん不透明である。裁判員は、弁論のあと裁判官を交えた評議に入るというが、その手元に文字化された客観的で正確な記録の裏づけがなければ、主体的に自己の意見を述べることはできない。当事者にも記録が必要である。立ち会う弁護人や検察官もそれがなければ、弁論や論告で裁判員を説得できない。質問しながらの記録は不可能である。裁判員もメモをとりながらでは聴取に集中できない。

 解説書には裁判官の一人がメモをとって評議に提供するという策が考えられているというが、これは勿論、客観的な記録とはいえない。事前準備に関与して予断を避けられない裁判官のメモに頼るのは、旧々刑訴時代にまで逆行する最悪のシナリオというほかない。

 最高裁が模索の音声入力は既に挫折している。録音反訳は評議に間に合わない。判決後、当事者は控訴の判断を迫られるが、手探りにならざるを得ない。そもそも文字化された記録が残されなければ、その裁判の当否を後日検証するてだてがない。裁判員制度が国民に定着し適正に機能するには、それ相当な時間をかけた経験の継承が必要であろう。誤判の有無、量刑の当否についても検証の可能性が残されるべきである。その記録の保存が不可欠である。

 この問題を解決できる技術が開発されている。文字化が即日可能な電子速記である。そのことを伝えるDVDが「電子速記研究会」と「速記官制度を守る会」で作成された。本体が一二分。技術の紹介や外国の実例など含めて判りやすい。

 相変わらず最高裁当局は速記録を認めたがらない。速記官削減による司法予算の流用の既定方針に固執している。その批判も込められている。

 司法問題に関心を持つ団員に観てほしいと思う。問合わせ先は「速記官制度を守る会」(東京都千代田区霞ヶ関一ー一ー四裁判所合同庁舎内全司法東京地連気付)。団本部にも寄贈されている。



「業による輪廻」の差別と脅し

山形支部  脇 山   弘

 ゴータマ・ブツダ(釈尊)が出現する前のおよそ紀元前七世紀頃、「業による輪廻」の思想が古いウパニシャッド(秘密の教義)に芽生えると、それはインドにひろまる。

 インドで紀元前六世紀、自由で清新な思想家つまり異端の思想家たちが活躍する。六師外道と呼ばれ業と輪廻の説に疑問を呈し始める。釈尊(紀元前四六三年〜三八三年)もこのような異端的な自由思想家の最大の一人であり、仏教は後世のインド哲学者たちから強力な異端的宗教思想とみられ続けた。

 仏教の教えは釈尊においてそうであったように、たえず現実をみつめ、ことに現実のさまざまな苦悩に対応する教えが多種多様に説かれた。対機説法、応病与薬、人をみて法を説く、八万四千の法門などという。したがって仏教には教条的なドグマは存在せず、異説排除の考えもきわめて薄い。逆にいえば仏教の教理そのもの、仏教のありかたは揺れやすく、それの一義的な定義は困難でありむしろ不可能に近い。かくて、仏教思想史は一面で仏教論争史とも解される。仏教に異端審問はなく、異教との混淆を生み世俗化多様化し寛容融和を当然とする。仏教史のいかなる場面にも、創造神は存在しない。支配や征服といった性格は仏にはない。キリスト教をはじめとする一神教から導き出される風景は、仏教にはない。仏教の理想とするところは乱されることのない平安を得て、解脱が達成され、寂静そのものである涅槃の確保に向かう。三枝充悳『仏教入門』。

 釈尊の時代において地獄の思想は民衆のあいだに浸透していた。釈尊は地獄の思想を方便(衆生を導くためのすぐれた教化方法)として用いてはいるが、輪廻の思想を説いてはいない。釈尊は、けっして、死後の世界を語らず、生死無常の理を説いた。梅原猛『地獄の思想』、『仏教の現代的意義』。

 末木文美士は『思想としての仏教入門』において、輪廻についてこう説いている。

 原始仏教の思想も古代インドの枠組みの中にあり、苦や無常もすべて輪廻の枠組みで理解しなければならない。しかし、このような人生の苦悩は、輪廻を前提にしなくても十分理解ができ、その点いささか曖昧である。(五六頁)

 近代の解釈は輪廻を非合理のものとみる。輪廻に関しては、上述のように原始仏教において曖昧なところがあり、十二縁起に関しても全く同様である。(六三頁)

 中国をはじめ東アジアの文化には、インドのように輪廻という発想がなく、中国などは、来世観が十分に発展していない現世中心的な文化であるから現世において悟りに達するような方向が模索された。それは中国で突然出てきたものではなく、すでにインドの大乗教典の中に源泉を持っている。(一三六頁)

 インドのカーストの差別は、業と輪廻の説に密接に結びついている。業と輪廻は、行為の善悪によって次の生の境遇が決まり、それを永遠に繰り返すというものである。この業ー輪廻の思想が差別に結びつく。というのも低いカーストやカースト外の不可触民に生まれるのも、やはり悪い行為をなした報いと考えられるからである。

 これはインドのことだけではなく、日本でも江戸時代、被差別部落(原文のママ)に布教する際、そのような境遇に生まれたのは前世が悪かったからであり、それゆえ現世の境遇を甘んじて認め、その代わりに現世でよい行いをして来世によい生まれを得るようにと勧められた。このように、業ー輪廻の思想は差別を固定化し、よい境遇の人には自分が恵まれていることを合理化し、悪い境遇の人にはその境遇に甘んじるように諦めさせる役割を果たしてきた。社会的な階層だけでなく、身体の欠陥や夭折、その他さまざまな不幸もこうして説明された。(一七四頁)

 「親の因果が子に報いる」という言い方がなされるが、これは自業自得の原則からいうと奇妙である。また、死後四十九日経て輪廻するという説に従うならば、その後生きている人たちがいくら功徳を回向しても、もはや意味はないはずであるが、実際には一周忌から三回忌、七回忌と続き、日本の中世以降は三十三回忌まで行われる。これは仏教自体の原理からは説明できず、むしろ人が死んで祖先神に一体化してゆくという、日本の民俗化した発想から説明される。(一七八頁)

 業ー輪廻の思想が差別の固定化を招いたり、あるいは場合によっては、仏教が人々を脅かすのに用いられるとしたら、非常に危険な思想である。不幸に苦しむ人に向かって、あなたの不幸は過去の業によるのだから、その業を絶つために必要だといって、理不尽な要求をして、人の不幸を食い物にする宗教もないわけではない。

 業ー輪廻の説は、先に触れた大乗教典の神話的言説と同じレベルの言語とみるべきであろう。それは事実を説明する言葉ではない。事実として自分が過去世にいつどのような境遇であった、というのはおよそナンセンスで、証明できない。(一七九頁)

 末木教授は『日本仏教史』でも科学的排仏論の登場として、片山蟠桃の『夢之代』(一八二〇年刊)が地獄・極楽・輪廻などの説の非合理性を批判していたことを引き、こうした科学的な理論の意義を十分に認められなかったところに近世仏教の一つの限界があるといえようと説かれている。

 仏教においては、衆生は個人の業=行為によって輪廻するとされる。衆生とは、生きとし生ける者、すべての生命体の意である。衆生の輪廻する世界が六道といわれ六種の生命体が住む。人間と畜生以外の生命体は神話的な存在である。では、六道はいったいどこにあるのか。そこにある生命体が神話的な存在であるから、場所も神話的ということになる。菅野博史『法華経入門』三四頁。

 現世の運不運を、人間の理解できない前世の因縁と結びつけることによって、仏教は、はなはだしく、理性の正しい行使を傷つけます。まさに、日本人を諦観にしばりつけるとともに、日本人の理性をマヒさせた最大の元凶のようです。近代の精神は、このような因果因縁の概念を否定することから生じるのであります。このような因果因縁の概念こそ、まさに仏教のインチキ性を証明するものと映った違いありません。梅原猛・『仏教の現代的意義』。

 加藤周一は「陶淵明の二行を再び思い出す。『死去何所知』ー死ねばどうなってしまうのかわからない、というのでそこまでは反対者が少ないだろう。だから生きているうちにどうすればよいか。淵明の答は、「稱心固為好」である。みずから自由に決めるが良い、と。聡明な『論語』は、その話はやめよう、といった」と書いている。朝日新聞〇七年二月二一日『夕陽妄語』。

 輪廻思想は、現世中心の考えが強い中国や日本では、影が薄い。たとえば日本には、仏教伝来以前から根強い祖霊信仰があって、輪廻思想を阻み、死者は墓に眠っていて生者をみまもり、またときには生者とまじわるという死者観から、ほとんど離れたことがなく、現在におよんでいる。三枝充悳『仏教入門』一二三頁。

 伝統仏教行事の盂蘭盆には精霊棚を作り先祖の霊を招いて僧に読経してもらい、功徳を積み先祖に回向する。七月一三日精霊を迎える迎え火、一五日墓参と盆踊、一六日精霊を送り出す精霊流しや京の大文字などの送り火。盂蘭盆は中国では西暦五三八年、日本では西暦六〇六年から行われてきたという。輪廻の思想とは相容れない。

 源信の往生要集が冒頭に地獄の凄絶な様相をえがいたために輪廻の書として有名になった。往生要集の構成は大文第一から大文第十までの十章からなる。大文第一は、厭離穢土つまり地獄から天道までの六道輪廻の世界を、大文第二が欣求浄土、極楽浄土に生まれることを願い求める様相を、大文第三は極楽の証拠を明かさば、と欣求浄土の疑いを釈した章である。

 法然は、往生要集の大文第一厭離穢土の輪廻の世界から大文第三までを次のように述べて不要の教説として棄てている。

「厭離・欣求・証拠の三門は要にあらず、故に捨てて執らず。上の厭離等の三門はこれ往生の要にあらず。故に簡びてとらず。第四・第五の二門は正しくこれ往生の要行なり」。法然は、「往生要集は、称名念仏をもって往生の至要とす」と説いた。『日本思想体系 法然 一遍』所収「往生要集釈」。

 大文第四は、「正修念仏」であり、正しく念仏する五つ門を説いた部分。大文第五は「助念の方法」であり、「一目の羅は鳥を得ることあたはざれば、万術もて観念を助けて、往生の大事を成ずるなり。今、七事を以て、略して方法を示さん」と修行の心構えを説いた部分である。

 石田瑞麿は、源信が地獄を書いたのは、主課題である念仏を説くための導入部方便である。往生要集は浄土の念仏の正しい在り方を示した念仏指南書であって、念仏が広く民衆の救いとしてあることを端的にしめしたものであると書く。『日本思想体系 源信』所収「『往生要集』の思想史的意義」及び『日本仏教史』。

 法然は、「往生要集を先達となし、浄土門に入る」と述懐し、「余宗ノ人、浄土門ニソノ志アラムニハ、先ず往生要集ヲモテ・・・・初心ノ人ノタメニヨキ也」と浄土教を志すものの必読書としている、と大橋俊雄は書いている。『日本思想体系 法然 一遍』所収「法然における専修念仏の形成」。

 末木は前記『思想としての仏教入門』で言う。「ブツダが出現した紀元前五世紀のインドと、我々が生きている二十一世紀の日本とはあまりにかけ離れている。そのとてつもない両極端の緊張の中に、ありきたりの仏教史の常識は解体する」「伝統を解体し、批判的に継承してゆくことこそ重要である」と。

 業=輪廻の思想は、源信や鎌倉新仏教の祖師法然、親鸞、道元、日蓮らの実践思想によって解体されている。斯く故に「輪廻が仏教思想の中核か、そうではあるまい」と問うた。



二・一三 六カ国協議合意文書をどう見るか(一)第三セッションへの途(上)

広島支部 井 上 正 信

 北朝鮮核開発問題を協議する第五回六カ国協議の第三セッションが、二月八日から三日間という当初の日程を大幅に越えて、二月一三日六日間の日程を終了して、最終日に合意文書を採択した。二〇〇五年九月一九日第四回協議の共同声明(以下九・一九共同声明)が採択されてから、一年四ヶ月を経過した上での前進的な成果である。

 過去の北朝鮮核開発問題と同様、この中断期間中にも、危機的状況が出現した。少し長くなるが、一年四ヶ月の間に何が起きたのかを、新聞報道により振り返ってみることにする。

 九・一九共同声明は、朝鮮半島非核化を実現するための大枠を合意したもので、これを履行するためには多くの問題を六カ国が乗り越えなければならないものであった。

 九・一九共同声明の履行に向けた第5回協議は、九・一九共同声明六項で二〇〇五年一一月初旬と合意されたが、そのとおり一一月九日開催された(第五回協議第一セッション)。

 この時既に米財務省は、北朝鮮による米ドル紙幣偽造や違法資金洗浄に関与したとして、九月一五日マカオの銀行を指定し、一〇月には北朝鮮企業が保有する在米資産を凍結し、金融制裁を発動していた。九・一九共同声明に批判的なブッシュ政権内の対北朝鮮強硬派の巻き返しと見られる動きであり、当時からブッシュ政権内での北朝鮮政策の不統一と六カ国協議への悪影響が懸念されていた。九・一九共同声明後、第五回協議に向け共同声明履行の詰めを行うため、ヒル国務次官補が平壌訪問を計画し国務省も後押ししていたが、これも対北朝鮮強硬派により潰された。もし実現していれば、ブッシュ政権下での初の米朝二国間協議になったはずである。米朝二国間協議は、二〇〇六年一月米朝ベルリン協議まで開催されることはなかった。更にブッシュ政権内の対北朝鮮政策を巡る路線対立から、デトラーニ朝鮮問題担当大使が辞任することになった。一一月六日ブッシュは、訪問先のブラジルで、金正日を「北朝鮮の暴君」と呼び、すかさず北朝鮮は「ブッシュは人間のクズ」と応酬した。このように、九・一九共同声明後ブッシュ政権内部では、対北朝鮮強硬派の巻き返しが強まり、徐々に米朝の対立は深まる。

 〇五年一〇月二二日から三〇日にかけて、胡錦涛中国国家主席が北朝鮮を訪問し、第五回協議の開催の根回しを行った。この時の中朝首脳会談で金正日は共同声明の履行と第五回協議への参加を表明している。

 〇五年一一月九日から一一日までの三日間、第五回協議第一セッションが開かれた。日韓が共同声明履行のための作業部会を提案するが、北朝鮮は米国による金融制裁を強く非難して、前進的な議論がなされなかった。最終日に発表された議長声明がそのことを物語っている。議長声明は、九・一九共同声明の内容を確認するだけで、第五回協議の第二セッションを早期に開催すると述べるが、日程すら決められなかった。

 〇六年一月一〇日から一八日にかけて金正日が訪中し、一月一七日中朝首脳会談が開かれた。この席で胡錦涛は金融制裁問題と切り離して六カ国協議へ参加するよう説得したが、金正日は「そんなことをすれば、我々の政府は崩壊する」と強く拒否した。中国は更に米・中・朝の六カ国協議首席代表者による三者会談を提案し、一月一九日から北京で会合する。しかし、ここでも事態の進展は得られなかった。

 四月には金桂寛次官が来日した。東京でヒル次官補と会談を期待しての訪日であったが、実現できなかった。この時金次官は「米国が圧力を課すなら、我々は超強硬(対応)に出る。正面突破を図る」、「六者協議が遅れるのも悪くない。その間に我々はより多くの抑止力を作れるであろう。それが嫌なら金融制裁を解除すべきだ」と不気味な発言をしている。その後の事態の進展を振り返れば、七月の弾道ミサイル発射、一〇月の核爆発実験を示唆していたと考えざるを得ない。

 弾道ミサイル発射と核爆発実験は、金融制裁で苦境に立たされた北朝鮮が、米朝二国間協議による対米関係の打開と六カ国協議の再開を狙った、武力を誇示する瀬戸際外交であったといえる。ブッシュ政権は、政権内部での対北朝鮮関与派と強硬派との対立で身動きがとれず、有効な手を打てなかったのである。その結果、弾道ミサイル発射や核爆発実験、安保理での制裁決議と短期間に事態が急速に悪化した。

 九三年から九四年にかけての第一次朝鮮半島核危機、二〇〇二年一〇月から二〇〇三年四月にかけての第二次朝鮮半島核危機でも、米国による対北朝鮮強硬政策とそれに対抗する北朝鮮による瀬戸際政策で、朝鮮半島は武力紛争の危機が強まった。その度に日米同盟は強化され、有事法制制定や憲法改悪策動の強まりとなった。〇六年のいわば第三次朝鮮半島核危機では、北朝鮮脅威論の高まりを追い風に安倍内閣が誕生し、集団自衛権行使に関する憲法解釈の見直し、防衛庁を防衛省へ格上げし、自衛隊海外派兵を本務化する自衛隊法・防衛庁設置法改悪が成立し、自衛隊海外派兵恒久化法案を国会へ提出する動きが強まり、憲法改悪を内閣の重要課題とした。

 ではなぜ第三次朝鮮半島核危機で高まった武力紛争の危機が、急速に外交手段による解決の方向へ動いたのか。いくつか要因がある。米国は安保理経済制裁により、PSI(拡散防止構想)を発動しようとした。海上での北朝鮮船舶に対する船舶検査である。日本も周辺事態船舶検査法を発動することを検討した。しかし米国は、安保理決議自体が海上での船舶検査を容認しているものではないこと、中国・韓国をはじめ多くのアジア諸国が船舶検査に乗ってこないこと(或いは批判的であること)から、早々と船舶検査路線を放棄している。日本でも、周辺事態船舶検査法適用問題はいつの間にか立ち消えとなる。米国内でもブッシュ政権の対北朝鮮無策への批判が強まった。イラクでも泥沼の内戦で解決の見通しさえもてず、いたずらに犠牲を増やすだけである。イランの核開発問題でも、軍事的圧力をかけるだけで有効な手だてがとれない。ブッシュ政権の外交は八方ふさがりとなった。その結果中間選挙で、与党共和党は歴史的大敗となった。中間選挙後ブッシュ政権は、それまでの米朝二国間協議はしないという方針を明らかに転換した。そのことが、第五回協議第三ンセッションでの共同声明採択に結びついたのである。(次号に続く)