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村山 晃 全国学テ仮処分を申し立てて
太田 啓子 ぜひ!ご一読下さい
―「自治体アウトソーシングの新段階」
〜公務問題ビギナーも、上級者も〜
佐藤 真理 地元議員への要請を強めよう
―改憲手続法の廃案を目指して―
萩尾 健太 新司法修習における前期修習の復活と二回試験の追試の復活を求める
大久保賢一 憲法改正と人権・平和のゆくえ
〜日弁連憲法シンポの報告
井上 正信 二・一三 六カ国協議合意文書をどう見るか(一)
第三セッションへの途  (下)



全国学テ仮処分を申し立てて

京都支部  村 山   晃

 それにしてもひどい話である。文科省が主催する全国一斉学力調査だけでも、問題点はやまほどあるのに、(1)受験産業が全てを一手に引き受ける(2)学習状況調査と称して、家庭やプライバシーに土足で踏み込む調査事項が満載されている(3)氏名入りで当該学年の児童・生徒のデータが、受験産業や文科省に蓄積される、というとんでもない代物である。

 私は、ちょうど一九六一年に実施され一大反対運動が巻き起こった時の中学三年生であった。その時に、教職員組合とタッグを組んで、と言うより、生徒の方がより先鋭的に、反対運動に取り組んだ。白紙提出を全クラスに呼びかけた。これが教職員組合との出会いとなった。

 今回の学テ問題の社会的反応は、当時と比べると、大きな様変わりである。しかし、その根本的問題は何一つ変わっていない。と言うよりも、教育基本法が改悪され、教育三法制定策動の中で実施された、という点で、もっと深刻でさえある。

 「京都の子どもら九人が中止を求める仮処分を提訴した」というニュースは、全国に流れた。当初は、もっと大勢の人たちが参加するはずだった。しかし、やはり事実上学校相手になる裁判を起こすことの壁は、思ったより高かった。京都以外で提訴が無かったのも、そんなことがあるのかも知れない。法理論的には、全教弁護団が作成した意見書が、威力を発揮した。「何か有効な方法が無いか」と考えていた人たちを励まし、仮処分の提訴にまでこぎつけた。

 仮処分は、審理未了で、実施後取り下げとなった。しかし、その残したものは大きい。最後の最後まで、教育委員会は、大あわてであった。それまでしていなかった保護者への通知を急遽行った。氏名記入方式から番号方式に変え、受験産業に個人情報が流れないことを力説した。「調査は任意かどうか」が一つの争点となった。京都市の教育委員会は、正面からの答弁をせず、「授業と同じに取り扱う」とした。京田辺市の教育委員会は、申し立てた保護者に対し、「同意書」の作成を求めた。子どもの中には、登校しない子や、調査に答えないなどの対応をした子もいたが、特に何の問題も発生しなかった。調査は、多くのマスコミが、それを通して多くの国民が、見守る中で実施された。

 問題は、これからにかかっている。

 プライバシーに踏み込んだ多くの質問事項は、そのまま残された。

 データをどのように処理し、どのように利用するのか。受験産業が、それをどう利用するのか。文科省が、どこまで介入してくるのか。教育委員会や学校は、一体どうするつもりなのか。すべては、これからである。厳しく見守り批判していく必要がある。

 そして、私が、一番気にかかったことは、教育委員会は、愛知県犬山市を除き、何の主体性も持たず、文科省に強く寄り添って、最後まで中身を知らされないまま調査に全面的に協力したことである。これは旭川学テの最高裁判決でさえ、してはいけないと断罪したことである。国の教育への介入・統制の強化と、地方の教育委員会の解体傾向は、ますます重大な危機を迎えている。



ぜひ!ご一読下さい

―「自治体アウトソーシングの新段階」

〜公務問題ビギナーも、上級者も〜

神奈川支部  太 田 啓 子

一 序

 私が自治労連弁護団事務局の末席に入れて頂いてから、もうすぐ二年ほどが経ちます。 それまで公務を巡る諸問題は非常に複雑でとっつきづらいと思ってきましたが(今でも思いますが)、現在の公務の市場化に関する状況を少しずつ理解するにつれ、公務を巡る諸問題は、憲法改悪問題と並んで(二つは関連してもいますが)今日の日本社会における不穏な方向性を象徴的に表す極めて重要な事柄だと認識するようになりました。

 私が理解できるようになってきたことは、公務のあり方を議論することは、自分たちが生きている社会のあり方や価値観を問うことと同義だということです。

 PFI法制定(一九九九年)、地方独立行政法人制度の新設(二〇〇三年)、指定管理者制度の導入(地方自治法改正、二〇〇三年)、市場化テスト法成立(二〇〇六年)等と、新自由主義的行政改革の中での「公務の市場化」の動きは近年本当にめまぐるしく、おそらく多くの市民にはその変化の本質が理解されないままに、重大な事柄が次々と決定されてきたというのが実情かと思います。

 このように公務のあり方が激変している状況の中では、「世の中には、『効率が悪く』、『採算を見込めなくても』必ず誰かが責任をもってやらなくてはならないという性格の仕事があり、そのような性格の仕事を担うことこそが公務の役割なのだ」という、当たり前の根本的なことを常に意識させられると感じています。例えば医療分野でいえばへき地医療や難病研究などの「不採算医療」は民間病院だけが独立採算で担うことは困難ですし、「姉歯問題」で建築確認業務を民間開放したことの弊害がクローズアップされ、安全確保を目的とする業務において「迅速性・採算性」が優先されたことの愚かさ、軽率さが明るみに出ました。また、美術評論家の高階秀爾氏が「フランスの美術館が短期的評価だけで作品を集めていたら、今ごろゴッホもセザンヌも残っていない」と語ったように、文化芸術分野も市場原理や効率性、採算といったこととは性質上なじまないものであって、この分野に市場原理を導入することは文化の衰退を招くことが危惧されています。

 このように公務の本来の重要な役割には、市場原理にさらすと衰退しかねない価値や、市場原理が支配する空間では敗者になってしまう弱者を守ることがあるはずですが、現在はその公務自体が市場化の大きな波に呑まれつつあるのです。このことは、これまで公務が守ってきた価値、社会的弱者が危機にさらされることを意味します。自民党憲法草案(二〇〇五年一一月)地方自治の章に、住民の「負担分任義務」(九一条の二、二項)が盛り込まれたことにも表れているように、公務が縮小化した後には、社会的弱者は、「自己責任」により、自分が分任できる負担に応じた「受益」「サービス」しか受けられないということになりかねず、生存権保障が脅かされることを強く危惧します。あらゆる公務の市場化は、貧富の差に応じて人権保障の内容に格差が生じることを容認することになります。 本当に私たちはそのような国や社会のあり方を選択するのか、それが今の公務の市場化の中で問われている、最も根源的な問いです。

二  文献紹介

 序が長くなりましたが、このように公務を巡る状況に極めて重大な変化が起きている現在の状況や法制度を、わかりやすく解説した表記文献を紹介することが本稿の目的です。

 自治体アウトソーシングをテーマにした本としては、自治労連弁護団の事務局メンバーが中心となって、二〇〇四年八月に出版した「Q&A 自治体アウトソーシング」があります。自治労連弁護団では更に同年一〇月に新たに市場化テストについての設問を一つ追加した改訂版を出し、今回更に、それをベースにして、設問の組み替え・追加、および、その後の動きについて加筆した形で、「Q&A 自治体アウトソーシングの新段階」(自治体研究社、二〇〇七年一月三〇日発行、一九〇五円+税)を同じく自治体問題研究所から出しました。

 すでに、「Q&A 自治体アウトソーシング」を持っている方にとっては、前の出版物と全く同じ記載の部分もありますので、いまさらと思われるか分かりませんが、議論が進化している部分もありますので、ぜひ御一読いただくようお願いします。また、先の出版物をお持ちでない方には、現時点での自治体アウトソーシングの全容を網羅していますので、是非、御一読いただくようお願いします。

 以下、目次に従って、内容の紹介をします。

I 自治体はねらわれている

 地方行革新指針、日経連の「二〇〇六年度規制改革要望」、地方分権二一世紀ビジョン懇談会報告書など重要な最近の動きをフォローして、この問題を考える上での視点を提示しています。新自由主義的構造改革は憲法第二五条を基軸とする福祉国家の構造を変質させようとするものであり、公務の市場化の中では、住民が「主権者」から「サービスの顧客・消費者」へと変容させられることなどが解説されています。

II 市場化テスト

 設問を六つに増やし、この度一番充実した項目です。

二〇〇六年の通常国会で「競争の導入による公共サービスの改革に関する法律」(市場化テスト法)が成立しました。市場化テストは、官民または民間競争入札という手続によって公共サービスの業務委託を進める手続に関する制度です。落札するためのコスト削減競争により住民サービスが低下することや雇用問題発生など多くの問題点が解説されています。市場化テストは、今、東京都、大分県などにおいて導入の動きが具体化しており、今後他の自治体への波及は必至であり、法的紛争が生じることも大いに予想されますので、制度に関し理解して備えることが必要と考えます。

III 指定管理者制度

 旧の管理委託制度がすべて指定管理者制度へ移行した状況を踏まえての分析をしています。また、分かりにくい、指定管理者制度と業務委託・請負の関係についても解説しています。

 二〇〇三年九月二日に改正地方自治法・指定管理者制度が施行されてから今までの間に実際に全国各地で起きた諸問題も具体的に説明されています。例えば愛知蒲郡市で市民会館の指定管理者が下請代金の未払いをしたとして期間内に指定取消処分を受けた問題、東京都中野区の区立保育園に指定管理者制度が導入され、従来の保育士の雇い止めを巡って訴訟に発展した問題など、今後全国のどこで同様の問題が発生してもおかしくありません。

 このような問題を防ぐため指定管理者制度に対し住民がどのような監視をできるのか、指定管理者制度導入にあたって条例についてどのような注意をすべきかなど(条例案も掲載してあります)実践的な内容となっています。

IV PFI

 新たに項立てをしました。不十分ですが、この間の各地で発生している問題点の指摘もしています。例えば二〇〇五年八月一六日の宮城県沖地震で室内プール天井が落下して負傷者を出した仙台市スポーツパーク松森はPFI事業でしたが、この事故の背景の一つに、PFI事業という今まで無かった形態による、自治体と民間事業者双方の責任の所在の曖昧さがあったと指摘されています。PFIは他のアウトソーシング手法と連動するもので、この問題点については今後さらに検討が必要なところです。

V 地方独立行政法人

 二〇〇六年四月は、地方独立行政法人の設立ラッシュでした。掲載されている総務省資料によれば、二〇〇六年四月には四つの地方独立行政法人(大阪府立病院機構、東京都立産業技術センター等)と一九の公立大学法人(札幌市立大学、横浜市立大学等)が設立されました。この章では、国の独立行政法人の見直しの動きについても加筆しています。

 従来地方公共団体が担っていた業務を地方独立行政法人に移管する場合の職員の身分保障には大きな問題があり、労働条件の低下が懸念されます。地方独立行政法人に移行した後には整理解雇や免職などもあり得、先行した国の独立行政法人で起きた雇用問題の例などを具体的に挙げて解説しています。

VI 全部適用、特区そのほか

 特区について、憲法九五条違反であると指摘しました。労働者派遣については、偽装請負の点について触れていますが、現在の情勢の追いつくものにはなっていません。今後の課題です。

VII 各分野

 この間、保育所廃止・民営化をめぐる裁判を含めて一番動きのあった「保育所」については、論点を網羅した記述となっています。「学童保育」について新たに設問を設けました。「学校教育分野」については教育基本法の改悪を踏まえての問題提起となっています。

 ○社会福祉事業、○公民館・図書館・博物館・体育館などの社会教育施設、○学校給食、○水道事業、○公立病院、○道路・河川・港湾・公営住宅・都市公園、○公立大学、○試験研究機関、については全て独立した項目を設け、各分野でどのような方法でアウトソーシングが起きているかについて、全国各地の具体的な動きを指摘しながら解説しています。

 以上、ぜひご一読下さるよう、お願い致します!



地元議員への要請を強めよう

―改憲手続法の廃案を目指して―

奈良支部  佐 藤 真 理

 廃案に追い込めるか、いよいよ正念場です。この間、ファックスを一〇回以上送付しましたが、前川議員(参議院憲法調査特別委員会の理事、民主党・奈良県選出、弁護士)から丁重な礼状が届き、最低投票率問題等で頑張っているという内容でした。

 地元議員への要請がやはり大事だなと感じています。私の返信を参考に掲載します。

 五月三日、「九条の会」奈良の憲法後援会で、鈴木良前立命館大学教授と私が講演しました。一〇〇名の会場に一三〇名が参加し、資料を増し刷りしました。五月三日にじっとしておれないという人がたくさんおられるということを実感しました。持参した団のブックレット二〇冊は無論完売。リーフは一〇〇〇部を無料配布。

 驚いたことに、朝日新聞の予告記事を見て、前川議員から、「集会であいさつさせてほしい」との申し入れがありました。前川議員は審議状況を報告し、与党案反対で頑張る決意を表明しましたが、特に立憲主義の意義を強調され、改憲反対を明言されたと私は理解しました。

 マスコミの観測記事に一喜一憂せず、廃案を目指し、悔いのないよう、頑張りましょう。

二〇〇七年四月二四日

参議院議員 前 川 清 成 先生

弁護士  佐 藤 真 理

謹啓

 当事務所の弁護士連名で改憲手続法に関する要請書をファックス送信させて頂いたところ、早速に、丁重なお手紙を頂戴し、感激しております。

 先生のインターネットを拝見させて頂きました。最低投票率問題は国民主権との関わりでまさに最重要の論点です。先生の追及はきわめて的確であり、大変心強く感じました。今後とも、ご尽力をよろしくお願い致します。

 今回、貴党が有料広告の全面禁止を打ち出したことを高く評価します。いろんな意見があっても、「カネの力で憲法を買い取る」ような事態だけは避けなければならないというのは、民主主義国家では最低限のことだと思います。

 私は、今改憲の必要はなく、従って手続法は不要との意見で、先生とは意見を異にするかもしれません。しかし、作る以上は、国会に議席を持っている全政党の概ねの一致が得られるような内容であることはむろん、おおかたの国民の納得と同意が得られるような手続法でなければならないと思います。

 日弁連が有料広告禁止に改めれば、私は立派な対案になりうると思っています。

 いずれにせよ、今国会で強行採決を重ねて成立させようとする与党のやり方は断じて認めるわけにはいきません。

  徹底審議を尽くし、今国会では一旦、廃案の上、国民主権にふさわしい真に公正で民主的な手続法をつくるために、ご尽力頂けたらと願っております。

 司法改革問題では意見を異にしたこともありますが、弁護士会において、また弁護士として存分に活躍された先生が、後世に残るようなご奮闘をされることを、心から念願し、期待しております。

 よろしく、お願い致します。

敬具



新司法修習における前期修習の復活と二回試験の追試の復活を求める

東京支部  萩 尾 健 太

一 新六〇期の導入修習

 昨年一一月末から、法科大学院を卒業して新司法試験に合格した者を対象とする新六〇期の司法修習が開始された。

 従来の前期修習に相当する内容は、法科大学院で履修済みとの前提で、前期修習がなくなり、新六〇期については一ヶ月だけ研修所に集められて導入修習が行われた。その内容としては、各科目の即日起案とその講評がほとんどであった。

 この導入修習では、新六〇期は旧司法試験組と比べて起案の出来にばらつきが多いとの声があった。

 前期修習に相当する内容を行っているはずの法科大学院では、民事訴訟の要件事実は教えているが、特にそれ以外の各科目については教え方などにも差があり、事実認定の方法に基づく起案の仕方などはほとんど教えておらず、修習生は導入修習で初めてそれを習うのである。

 その後に実務修習に入り、最後に二ヶ月の集合修習があって、一年で法曹資格を得ることとなる。

二 導入修習廃止の問題点

 二〇〇七年合格の新六一期からは、この導入修習も廃止される予定である。しかし、新六一期は新六〇期の倍の二〇〇〇名に増え、法科大学院ではじめて法学教育を受ける「未習コース」卒業も含まれているはずである。そうした新六一期を、導入修習もなくいきなり実務修習に就けても、起案の仕方も分からず、実務修習を充分に吸収できないのではないか、という危惧がある。そのもとで一年で法曹資格を与えても、その資格に見合う能力があるのか、私自身、弁護士一年目はずいぶん未熟な事件対応をしていたと思うが、さらに充分な教育を受けられないまま修習期間が短縮されたもとではどうなってしまうのか、大いに疑問である。

三 追試廃止の問題点

 そこで、すでに現行および新六〇期からの二回試験の厳格化・追試廃止が打ち出されている。従来、二回試験に落ちても数ヵ月後にその落ちた科目についての追試が受けられたが、これを廃止し、新修習生は八ヶ月後に再度、現行修習生の二回試験で全科目を受けなおさなければならないというものである。しかし、私はこの発想には反対である。修習期間を短縮して必要な技能を修得するのを妨げたのは、政府や裁判所、弁護士会の側である。そうしておきながら「質が低くなった」などとして追試の機会まで奪うのは、修習生から見れば横暴である。

 また、五九期においても二回試験のプレッシャーも含めて心身に偏重をきたす者が出たが、一年修習で追試廃止が決定された新六〇期においてはさらに深刻な状態が生じることが懸念される。

 加えて、二回試験の追試が廃止され、翌年も不合格になるなどして法曹資格が取得できなくなれば、法科大学院生時代からの多額の出費が無駄になってしまう。

  むしろ、修習生に十分な能力習得の機会を保障するべく、二回試験の追試復活を求める。

四 修習生の自主的活動への前期修習廃止の影響

 前期修習は、「春の集会」や青法協などの自主的な修習生運動にとっても重要である。前期修習の間に全国的なつながりを作り、このような活動を形成しうるのであり、この体験がさまざまな人権活動や弁護士会などの自治活動の基盤となる。すでに、導入修習しかなくなった新六〇期では全集修習を対象とした自主的研修と交流の機会である「春の集会」に相当するものは実行できなくなった。そうした活動をできなくさせることが、前期修習廃止のひとつの狙いだろうと私は考えている。

五 選択型実務修習の見直しが必要

 以上から、修習生の質を保障する充実した修習を確保するためには、新六一期以降は少なくとも二ヶ月間の前期修習の復活が必要である。

 前期修習を復活させるとした場合、前期修習と一期前の後期修習が重ならないようにするためには、現行六〇期修習と同じ一年四ヶ月が最適である。それでこそ、充分な法曹養成期間の確保といえよう。ただし、仮に現行の一年の枠が動かせないとするならば、選択型実務修習が削られるべきである。

 選択型実務修習とは、各実務庁での実務修習を終えた後、配属先弁護士事務所をホームグラウンドとして自分が応募した修習プログラムを受けに裁判所、検察庁、弁護士会へ出て行く、というものである。これは、新六一期以降は選択型実務修習の後集合研修を受けるグループと、集合研修の後選択型実務修習のグループの二つに別れることになる。後者は、一度研修所に集めた後、再度地方に戻すことは不合理なので、東京など研修所に通える範囲の修習地に配属された者が対象となる。

 しかも、選択型実務修習では全国プログラムとして「地方修習では経験できない裁判所の地財部、検察庁の法務行政、渉外事務所・知財事務所での修習プログラム」が予定されており、特に後者の選択型実務修習の対象者にはこのプログラムを選択する者が多くなると思われる。

 修習生の約半分をこのような後者の選択型実務修習の対象者として予定するのは、渉外事務所をはじめとする首都圏の事務所への修習・就職の固定化となり、地方への弁護士供給という法曹人口増の目的のひとつに逆行することになる。このような選択型実務修習のありかたは再検討が必要である。

六 「官から民へ」の新自由主義の問題点

 この選択型実務修習が二つに分かれるのも、新六一期から導入修習が廃止されるのも、その理由は司法研修所のキャパシティの問題だとされている。しかし、それは本末転倒した議論である。法曹の質によって被害をこうむるのは依頼者すなわちお客様であり、国民・外国人・諸団体である。その損害は莫大な額に上ることもある。他方、司法研修所の建設費などわずか十数億円の初期投資ですむ。トヨタが一日で稼ぐ額にも満たず、国家予算からすれば微々たるものである。そのことからすれば、当然国家の責任でなされるべきである。

 問題なのは、弁護士の間に、この前期修習廃止に積極的な声が目立ったことである。

 これは、「司法研修所の官僚統制打破」という「革新的」なスローガンの下に、「官から民へ」「官の研修所から民のロースクールへ」という新自由主義のイデオロギーに絡めとられた結果であろう。しかし、郵政民営化に見られたように、そして、国鉄分割民営化で実証済みのように、「官から民へ」とは「公共サービスを官僚と癒着した民間独占資本へ売り渡す」ことに他ならない。「民衆へ」ではなく、むしろ「民衆から公共財を奪う」ものである。司法研修所での給費制の修習は、法曹養成における福祉のひとつの形であった。「司法研修所の官僚統制」を強調してこれを否定する論理は、人権活動に積極的な弁護士が弁護教官となっている現状や管理統制と対峙してきた運動を見ずに、国家の出費で公共サービスををさせるという福祉国家理念を否定するものである。前期修習ひとつをとっても、月給をもらえた前期修習がなくなり、その分を学費を払って法科大学院で授業を受ける、新修習生にとっては莫大な負担増である。

 他方で法科大学院に対しては国から助成金がつぎ込まれる。そうした大学が、今日では大学の自治を自ら投げ捨て、産学協同と儲けに走り、とくに法政大学や早稲田大学、東北大学、九州大学などは、学内に警察を導入しては頻繁に学生を逮捕させているのである。その構造は、国鉄分割・民営化と瓜二つである。

 以上から、新司法修習における前期修習の復活と二回試験の追試の復活を求めるものである。



憲法改正と人権・平和のゆくえ

〜日弁連憲法シンポの報告

埼玉支部  大 久 保 賢 一

 四月二一日、日弁連主催の憲法六〇年記念シンポが開催された。テーマは、改憲が現実的政治問題となっている今、「なぜ、憲法改正なのか」を検証しようというもので、パート1として「規制緩和と格差社会から考える」とされていた。参加者は約二〇〇名と少しさびしい面もあったが、参加者からは好評をいただくことができた。(例えば、三一期同期の前田茂君は、他の予定があったので途中退席しようと思ったが、内容にひきつけられて帰るのをやめたと感想を述べていた。)ここでは、その内容の紹介と、パート2として予定されている「イラク戦争から考える」憲法改正についてのご案内をしておきたい。

 主催者の問題意識は、まず第一に、現在の改憲論は、九条二項を廃止して国軍の保有と海外での武力行使に可能にするだけではなく、国家と個人の関係を逆転しようとするものであって、その特徴は自由権を「公益・公の秩序」に隷属させ、ナショナルミニマムを骨抜きにすることによって社会権保障を国家の責務から排除しようとする国家体制作りを企図しているのではないかということであった。第二に、この傾向は、改憲を待たずに、この国では日常的なものになっているのではないかということであった。だとすれば、第三に、改憲問題を理念的な問題としてだけで捉えるのではなく、今この国で現実に起きていることにスポットを当て、そのことと改憲問題がどのようにリンクしているのかを検討する必要があるのではないかということであった。そのひとつのテーマが「格差と貧困」の問題であり、もうひとつが「イラク戦争」であった。第四に、現実的な問題をテーマとすることによって、改憲問題をより多くの人と一緒に考えることができるのではないかということであった。とりわけ、「貧困や格差」の問題をテーマにすることは、昨年の日弁連の人権シンポのテーマ(生活保護)と重なるのではないかということであった。更にいえば、この「戦争ができる国」、「公益のために個人の自由が制約される国」、「社会権が薄められる国」造りの背景にある思想や行動基準はどこにあるのかを探求できないだろうかという問題意識である。国家の武力行使を容認し、個人の自由は制約しつつ、社会保障は二の次三の次でよいとする思想がこの国の根本規範の改変を進めようとしているのであれば、それとの対抗が必要になるであろうと考えたのである。

 これらの問題意識に基づいて、シンポでは、二宮厚美神戸大学教授の「新自由主義的格差社会化の中の憲法問題」という標題で講演をいただいた。二宮さんは、格差社会は貧困という不自由と格差という不平等が特定の人に集中する社会であり、憲法一四条や二五条の予定する事態とは背理するとされる。そして格差社会の背景事情には新自由主義的構造改革があり、その提唱する能力主義的競争は格差を増幅するという。雇用格差は賃金格差を生み、賃金格差は消費格差や資産格差を生み、更にそれは健康・教育を軸にした格差を生み、「人格的自由」を侵害するというのである。貧困と格差の連鎖である。先生の講演の中で括目したのは、自民党新憲法草案の中の地方自治条項の読み方である。ここでは、社会保障の経費負担についての国家の役割は背景に退き、住民は受ける役務について負担しなければならないとされているというのである。二五条の改定は直接的には触れられていないが、それと同様の効果が生ずる可能性があるという指摘である。「能力による競争」を容認する社会で際限なく生み出される貧困と格差に対して、新憲法はナショナルミニマムなど用意せず、受益者負担原則で対処しようというのである。

 パネルディスカッションでは、冒頭、日本テレビの「ネットカフェ難民」が放映された。日払いの非正規労働者がネットカフェを泊まり歩き、希望を持つこともできず、「何時死んでもいいですよ」とつぶやく姿が目に焼きついている。その番組のディレクターである水島宏明さんは、彼らは重層的貧困の中にあるという。児童虐待、多重債務、低学歴、低スキル、精神病、貧困ビジネスの被害者という重層的貧困である。そして、自暴自棄、自己疎外、希望喪失の中で、心を壊していくという。また、「青年ユニオン」に加入した青年を取材したとき、「赤旗」と小林よしのりの本が混在していたという。そのどちらが彼らの心をつかむのであろうか。

 大阪弁護士会の小久保哲郎さんは、生活保護問題に実践的に取り組んでいる昨年の日弁連シンポで重要な役割を果たした人である。彼は、このシンポの準備にかかわる中で、貧困と格差の問題が改憲問題と密接に関連していることに気がついたと述懐していた。多重債務問題と生活保護問題のコラボレイトにとどまらす、格差と貧困と改憲問題のコラボレイトを展望したいと、反省会のときに述べていたのが印象的であった。

 愛敬浩二名古屋大学教授は、改憲問題をトータルに捉えることや「見たくない現実」から出発することの重要性を強調していた。加えて、現在の「民主主義」で「格差と貧困」例えば「ネットカフェ難民」問題を解決できるのだろうかという問題提起をしておられた。小選挙区制と政党助成金の下で政党が選挙民の声を聞く必要がなくなっているのではないか、日常経費は政党助成金でまかない、その他の費用は財界が提供してくれるということであれば、「貧困と格差」に取り組まなくとも、むしろ金を払ってくれる人たちの利益を代弁すればよいということになるではないか、という指摘である。民意を反映しない政治と、政治をチェックしない司法の下で、二五条は画餅となり、新憲法草案の下では画餅ですらなくなるのではないかと危惧されよう。「自分の尊厳が奪われている人は他者に配慮でない」という言葉も印象的であった。

 「ネットカフェ難民」のような事実(NHKの「ワーキングプァ」でもよい)に直面したとき、私たちは憲法規範との乖離を主張してその是正を求めることは可能である。けれどもその規範が改変され、規範としての適用を求めることができなくなったとき、私たちはどうするのであろうか。改憲問題の持つ奥深さと多面性に気がつかされるシンポであった。「見たくない事実」を見ることは大切なことであった。

 七月二一日(土)の午後には、パート2として「イラク戦争から何を学ぶか」が予定されている。イラクで何が起きているのか、日本はイラクで何をしているのか、その事実を確認することからはじめたい。そして、イラク戦争を国際政治や国際法の視点でどのように把握すればよいのか。イラク戦争と改憲の動機付けとの関連をどのように解析すればよいのかなどについて考えることとしたい。講演は品川正治さん、パネリストには浅井基文さん、愛敬浩二さんたちが予定されており、イラク戦争の現実や日本の関与などについて語れる人を人選中である。ぜひ団員の皆さんの参加と協力をお願いしたい。



二・一三 六カ国協議合意文書をどう見るか(一)

第三セッションへの途  (下)

広島支部 井 上 正 信

(前号の続き)

 第五回協議の第一セッションが何らの成果もなく、次回協議日程も決められないまま終了し、北朝鮮弾道ミサイル発射や核爆発実験とそれに対する安保理制裁決議(一七一八号決議)がなされてから、事態が動き始めた。中国が安保理決議に賛成したこと自体が、おそらく北朝鮮にとっては予想外であったと思われるが、一〇月二四日中国は経済制裁決議を履行する義務を真剣に履行すると外務省報道官が発表をする。既に一部の制裁を発動していた。韓国も金剛山観光への補助金中断を示唆した。中国による経済制裁は、北朝鮮にとっては体制の存続に関わる事態となる。北朝鮮は中断している第五回協議の再開に向けた動きを始めた。中国を通じて米国へ非公式の三者会談(米・中・朝)を密かに打診し、一〇月三一日北京で非公式三者会談が開かれた。ここで議論された内容は、北朝鮮の非核化とそれに対する見返り、金融制裁解除問題であるが、六者協議再開だけは合意した。その直後の米朝両国の高官発言を見ると、北朝鮮側は、六者協議で金融制裁問題が協議されるから復帰を決めたと述べ、米国側は、金融制裁は解除しない、安保理経済制裁を継続する、ヨンビョンの黒鉛減速炉解体など北朝鮮側の核廃棄に向けた行動が必要と述べた。文字通り米朝は同床異夢で、第一セッションでの対立点が克服される見通しはなかった。

 APEC首脳会議がハノイで開催され、一一月一八日、一九日の米韓・米中首脳会議の席でブッシュは、重要な提案をしている。米・韓首脳会談でブッシュは「北朝鮮が核の野望を断念すれば、米国は一連の措置をとる用意がある。それには朝鮮戦争の終結宣言や、経済協力、文化、教育といった分野の連携を進めることも含まれる」と発言した。米中首脳会談でも朝鮮戦争終結宣言を提案している。

米朝両国はニューヨークチャンネルを通じた協議で、一一月二八日北京で米・中・朝三カ国協議開催することを合意した。一一月二八日、二九日と開かれた。ここでの議論の内容が、その後の六カ国協議第三セッションの原型となったと思われる。米国は、重点要求として四点を求めた。核実験場の閉鎖、ヨンビョンの核関連施設の閉鎖、現在あるすべての核計画と核施設の申告、IAEA査察官復帰と査察再開である。更に、二〇〇八年中に九・一九共同声明の完全履行と拒否すれば追加制裁を科すというものである。二〇〇八年にはブッシュ政権は終了するので、中間選挙の敗北を受けブッシュ政権は北朝鮮問題解決に本腰を入れた格好である。これに対して北朝鮮は難色を示したので、中国は独自に仲介案を提示した。核実験場閉鎖要求を落とし、北朝鮮がすぐとるべき措置として、核施設稼働停止とIAEA査察受け入れとこれに対する見返り措置である。見返り措置は、金融制裁問題、米朝・日朝国交正常化、経済エネルギー支援問題の作業部会設置であった。米国はこの中国提案を受け入れたという。

 この結果を受けて、中国は五カ国へ六者協議再開を打診し、一二月一八日から再開することが合意された(第二セッション)。一二月一八日から二二日まで開かれ、それと並行して一九日と二〇日米朝間での金融制裁問題についての両国の専門家会議が開かれた。しかし、金融制裁問題での進展は見られなかった。一一月二八日、二九日の三者協議を受けて、ヒル国務次官補は第二セッションの結果について楽観的な見通しを述べていたが、北朝鮮は経済制裁が解除されなければ、非核化の措置に関する議論に入らないとの姿勢を一貫したため、九・一九共同声明の履行に関する議論はできなかった。一二月二二日発表された議長声明は、第一セッションで発表された議長声明と比べても進展がないことが判る。次回の再開日程も合意できなかった。

 第二セッションが暗礁に乗り上げ、金融制裁問題で何らかの解決の方向性を見いださない限り、六者協議は進展しないことは明らかであった。一月一六日のロイター通信は、複数の米政府当局者の話として、凍結された北朝鮮口座の内、一部解除できるかブッシュ政権が検討していると報道した。同じ日の一六日米国務省副報道官が、一六日にヒル国務次官補と金桂冠外務次官がベルリンで会談し、六カ国協議の再開準備協議をしていることを明らかにした。その後の動をみると、このころから米朝は六カ国協議での合意に向けて本格的に妥協策検討を始めたといえる。ブッシュ政権下で初めての本格的な二国間協議であった。ベルリン協議は、第二セッション終了後すぐに北朝鮮から中国を介しないで直接打診があったという。北朝鮮は、安保理決議で中国からも制裁を受け始め、国際的な孤立を深めた結果その窮状の打開が必要になったのであろう。米国は、北朝鮮最強硬派のボルトン(国連大使)が政権を去り、強硬派のラムズフェルドも辞任し、同じく強硬派のジョセフ国務次官も辞任したので、対北朝鮮関与派の力が強まった。このことがブッシュ政権の路線転換を促したのであろう。一月一六日から一八日まで開かれたベルリン会談で何が合意されたのかは公表されていないので不明である。しかし報道からは、金融制裁の一部解除と北朝鮮の非核化の初期段階の措置についてつっこんだ協議がなされたことは、その後の六者協議が初期段階の措置で合意に達したことから明らかであろう。一月一七日には東欧訪問中のライス国務長官がベルリンに入った。ヒル国務次官補と協議したはずである。ライスは「近い内に進展が得られる」と発言している。その後の報道によると、ライスは米朝ベルリン協議での合意内容をヒルから聞き、直接ブッシュへ同意を求めたようである。チェイニー副大統領をはずしたことで、ブッシュ政権内で最強硬派の彼の横やりを避けたのである。ベルリン協議は非公式協議であり、合意内容では憶測が飛んだ。ヒルは合意内容については公表を拒否し、文書を交わしたことには否定している。一月一九日の北朝鮮国営朝鮮中央通信は、ベルリン協議で一定の合意に達したと報道し、韓国連合通信は二一日、近く再開される六カ国協議で、北朝鮮非核化の初期段階の措置を話し合うことで合意したと報道している。二月八日の朝日新聞は、米朝が合意文書に署名したと報道し、その内容まで具体的に紹介している。報道された合意文書の内容は、その後開かれた第三セッションで採択された共同声明の内容と極めて類似している。おそらく合意文書が作られたと私は推測している。外交上の秘密交渉でとられる「ノン・ペーパー」であると思う。秘密文書で当事国のトップしか承知せず、質問されても否定することができるというものである。ブッシュ政権内での北朝鮮との交渉に批判的な勢力の妨害を避けるためであろう。ベルリン協議が終了するや、ヒルは中国、韓国、日本を訪問し、金桂冠はロシアを訪問している。第三セッション再開の根回しである。武大偉外務次官は合意文書を見せられたとの報道もある。一月三〇日には金融制裁問題を巡る米朝協議が北京で開催され、同日中国外務省報道官が、第三セッションを二月八日に開催することになったと発表した。実にタイミングの良い動きである。

 以上が、六カ国協議の第三セッションが開かれるまでの大まかな動きである。少しくどい内容になったが、事実経過を整理することは重要である。なぜ今あのような内容で合意文書採択に至ったかを評価する上で、米朝がどのような動きを見せたかを理解することで、合意文書を正確に分析できると考えるからである。まず最小限いえることは、核爆発実験による安保理経済制裁にまで至った危機的状況を、米朝両国はこれ以上の悪化を避けようとしたことが重要である。九四年の第一次朝鮮半島核危機の際にも国連安保理での経済制裁の動きがあり、米国は北朝鮮制裁を求める安保理決議案を理事国へ回覧していた。当時安保理決議が採択されていたら戦争になった可能性は高い。北朝鮮は、弾道ミサイル発射や核爆発実験で外交的に得た成果はないばかりか、中国までが決議に賛成し、一層の孤立を深めた。米国はブッシュ政権の対北朝鮮政策の無策のため、事態を深刻化させて北朝鮮政策の失敗を批判されるようになった。しかし北朝鮮問題でブッシュ政権はあまり力を割く余力はない。ブッシュ政権が終了する二〇〇八年までには、北朝鮮問題解決の道筋を付けようとしている。後で触れるが、合意文書は決して手放しで評価できるものではない。重要な問題を先送りしているし、初期段階の措置の実行ですら米朝の思惑の違いから、暗礁に乗り上げる可能性もある。仮に初期段階の措置を履行しても、その後に続く措置の道筋は作られていないし、合意文書では言葉として出ていない濃縮ウラン問題や、核兵器の廃棄・核実験場の閉鎖問題になると、再び両国が対立して六カ国協議は長く中断し、その間に緊張が高まるということを繰り返すかもしれない。それでも今回一年四ヶ月の中断があったにもかかわらず、米朝が歩み寄り共同声明にこぎ着けたのは、九・一九共同声明を履行する重要な機会が訪れていることを物語っている。

 次号では、二・一三合意文書の意義について述べる予定である。