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小林 善亮 LIVE!憲法ミュージカルinさんたま
〜市民一〇〇人と創った憲法の風
杉本  朗 温和な労働者と便利な発電所?
はじめての労働審判
神田  高 “私が中国戦線でしたこと”
〜NHKがカットした証言(上)
松井 繁明 【書評】憲法フェスティバル実行委員会編『憲法くん出番ですよ―憲法フェスティバルの二〇年』



LIVE!憲法ミュージカルinさんたま

〜市民一〇〇人と創った憲法の風

東京支部  小 林 善 亮

一 憲法にふれてみませんか

 今年五月、東京のベットタウン・多摩地域の四箇所(五/六町田・五/二〇小平・五/二六立川・五/二七八王子)で素人市民一〇〇人によるミュージカルが上演された。五月半ばに急遽決まった二回の追加公演も含めて六公演、のべ六〇〇〇人以上の観客を迎えて大成功に終わった。

 この企画は、約二年前、登録して二、三年目の若手弁護士達の雑談から始まった。地域事務所に入所して地域の様々な運動に関わったこの弁護士達は、集会や会議に自分たちと同じ子育て世代の人間があまりに少ないことに危機感を持っていた。

 改憲問題は、この国の将来の在り方に関わる問題で、若い人にこそ考えてもらいたい。憲法を身近に感じたことのない人たちに、「憲法って大切なものなんだ」と感じてもらうことが、今一番必要なことなのではないか。学習会などで頭で考えるきっかけとして、憲法が守ろうとしているものを感覚としてこころで感じてもらえる企画をやりたい。そんな若手弁護士・事務局たちの共通の思いが「憲法をテーマにした市民参加のミュージカル」という企画に集約されていった。

二 市民ミュージカルをやりたい

 しかし、市民ミュージカルなんてどうやったら出来るのか全く判らない。

 そこで、一九九三年から二〇〇二年まで埼玉で市民による憲法ミュージカルに取り組まれた牧野弁護士を訪ねお話を伺った。そして、牧野弁護士から、埼玉の一〇作品を手がけた演出・脚本家の田中暢(のぶる)氏を紹介してもらった。

 田中氏は、そのころ二〇〇六年五月上演する山梨の憲法九条ミュージカル「少年がいて」の制作に追われていた。その田中氏を弁護士数名で取り囲み「二〇〇七年は是非三多摩で!」と依頼をし、了承してもらった。以後、田中氏に脚本・演出をしてもらい、音楽、振り付けもプロに依頼をしオリジナルの作品を創ること、出演者は市民一〇〇人を一般公募で募集をし、その出演者に一月からゴールデンウィークまで一五〇時間以上の練習をしてもらうことなど、この企画の骨子が決まっていった。

 二〇〇六年五月には、山梨に「少年がいて」を見に行った。開場前に既に行列が出来ている。しかも並んでいる人が若い!(若い出演者たちが自分の友達に見に来てもらっているのだ)「少年がいて」は被爆直後の長崎を撮影した米軍の従軍カメラマンが、四〇年後に自分も被爆していたことを知り、被爆直後の長崎で出会った少年と再会するというストーリー。見ると戦争の悲惨さや九条の大切さが自然と胸に入ってくる。作品のレベルも高くとても素人ミュージカルとは思えない。なにより出演者の顔が輝いていた。「これだ、これをやりたい。」と決意を新たにした。

三 熱い出演者との出会い

 ミュージカルを成功させるためには実行委員会を立ち上げる必要があった。また、公演地ごとに地域のスタッフも集めなければならない。

 我々は、「憲法をテーマにミュージカルをやりたい。」と片っ端から知り合いに声をかけて回った。しかし、これだけ大きな企画に協力していくれる人はなかなか集まらなかった(「無謀」と何度言われただろうか…)。それでも少しずつ人の輪が広がっていき、二〇〇六年九月に実行委員会が立ち上がった。一二月には出演希望者のオーディションが開催され、一〇〇人を超える市民が集まった。自分の戦争体験について語る人、とにかく歌や音楽が好きだから来たという人、憲法への思いを話す会社員…。五歳から七六歳までの個性豊かな出演者が集まり、会場は自分の思いを表現し、そしてそれに聴き入る熱気に包まれていた。

 二〇〇七年一月から練習も始まった。一月、二月は土曜日だけだが三月以降は土日が練習に充てられる。合宿練習もあり、ゴールデンウィークは毎日練習である。加えて出演者の中には集まって自主練習をする者もいた。驚くべき体力と情熱であった。

 そして、この企画への賛同の輪も広がっていった。朝日新聞立川支局・毎日新聞多摩総局・東京新聞や公演地の自治体、社会福祉協議会、立川商工会議所から後援を得た。練習には地元の小学校が体育館を貸してくれ、商店がポスターを貼ってくれた。地域のスタッフも最終的には二〇〇名が参加した。これまでの憲法の企画より一回りも二回りも広い人たちが関わってくれた。

 作品は、「キジムナー」というガジュマルに棲む樹の精霊から見た沖縄戦がモチーフになっている。生物と植物が共生していた一億年以上前からこの世にいるキジムナー。そのキジムナーが、「一億年のうちで一年だけ地獄があった。」と沖縄戦のことを語り出す。そこには、アメリカ軍による「鉄の暴風」、日本軍の捨て石作戦、ガマでの「集団自決」や住民虐殺などが描き出されていく。そして、キジムナーが戦争の愚かさと共生のメッセージを歌と踊りで伝えるという内容である。

 この作品を創るにあたって、ひめゆり学徒隊の生存者の方の話を聞いたり出演者・スタッフも学習を重ねた。その結果、出演者の意識も高まった。「ただミュージカルが好きだから」と言って参加していた出演者が、「もっと呼びかけ人の弁護士に憲法の話しをしてほしい。」と実行委員に要望するようになった。

四 まさかの追加二公演!

 練習は順調に進んだが、当初はチケットの売り上げも芳しくなく、練習のたびにどうやってチケットを広げるかというミーティングが開かれていた。

 宣伝も強化し、地域のイベントでの訴え、ポスター貼り作戦や駅頭宣伝にも取り組んだ。四月下旬、朝日新聞の夕刊(全国版)と多摩版、しんぶん赤旗東京版で立て続けに報道され、五月一日のメーデーでは雨の中集まった五五〇〇人を前に、ステージ上で歌とともに憲法への思いを訴えた。

 ここに来て、地域人たちが「なんか大きな事をやっているらしい」とざわざわしてきたのを肌で感じた(感覚的な表現ですみません。多分これが「火がついてきた」ということなのかなと思います)。いろいろな団体の会報に取り上げられたり、会う人との会話の端々にミュージカルの話題が出る。よく知らない人に電話を掛けても「憲法ミュージカルの弁護士さん」と認識してもらえる。そして徐々にチケットの販売数も動き出した。

 五月六日の町田初日を前に、町田公演と小平公演のチケットが売り切れた。三多摩中に憲法ミュージカルの風が吹いてきた。

 いよいよ迎えた初日の町田公演。開場前にすでに三〇〇人以上の行列が出来ていた。会場からあふれるほどの観客が押し寄せ、会場に入りきれない人もいた。観客も、学生や子ども連れなど、若い人が多かった。会場から出てきた観客はみんな顔が輝いていた。出口で来場へのお礼を言っている私達に、逆に多くの観客が「感動した。ありがとう。」と声を掛けてくれた。それまでの苦労が吹き飛んだ。

 翌五月七日に憲法ミュージカルがNHKの特集で取り上げられた。

 そして町田公演が評判を呼び、公演二週間以上前に立川公演と八王子公演も売り切れとなった。

 五月半ば、練習の時間を割いて出演者・スタッフが追加公演を行うかどうか、三時間以上のミーティングを行った。その結果、二〇日の小平と、二六日の立川で二回ずつ公演を行うことが決まった。体力の不安やけがの心配などを乗り越え、一人でも多くの人に見てもらいたいという出演者の強い思いであった。

五 大成功そしてその後。

 企画が立ち上がった時は誰も予想しなかった二回の追加公演。

 その後の二週間は、とにかく追加公演のチケットを広げることと、無事二回 公演を行うための準備に費やされた。

 そしてふたを開けると、二回の追加公演も大部分の席が埋まり、全六公演で六〇〇〇人以上の動員という大成功を収めることが出来た。

 この憲法ミュージカルは、「憲法を守ろう!」と声高に言うわけではない。それどころか、作品の中に「憲法」という言葉すら出てこない。それでも、多くの観客は、憲法に込められた思いを追体験し、会場を後にするときに「憲法のかけら」を心の片隅に持って帰ってくれたと思う。そして、六〇〇〇人の観客だけでなく、この企画のチラシを受け取った一五万人、朝日・毎日だけで計七回の報道を見た人、NHKの番組を見た人等々、多くの人に肩肘を張らない語り口で憲法の大切さを伝えることができたのではないかと考えている。

 ただ、この企画だけでは、憲法を大切に思ってくれる人を増やすタネを撒いただけである。このタネに水をやり、大きな花を咲かせるために何が必要なのか、既に今後に向けた議論も始まっている。この成功によって、それまで憲法運動を行ってきた地域の人たちも元気づけられた。さらに一回り広げた取り組みを一緒に考えていきたい。

 最後に、出演者の女子高校生(彼女は以前いじめにあったことがあり、今回のミュージカルには学校の先生の薦めで参加した)は、NHKのインタビューに答えてこう語った。

 「先生から『人間らしく生きる』ということを一六年間言われ続けてきたが、全然理解できなかった。でもそれをするために必要なものが憲法なんだと思った。」

 ここに私たちがなぜこの企画をやったのか、そしてなぜ憲法を守らなければと思うのか、その原点がある。

※この憲法ミュージカルのDVDが発売されます(八月一五日完成予定)。

 値段は、一枚三〇〇〇円(送料別)。現在、予約を受け付けておりますので、ご希望の方は、お名前、住所、電話番号、必要枚数をメールまたはFAXでお知らせ下さい。

 DVD取扱連絡先 FAX 〇四二ー五八七ー三五九九

          メール hoshino@hinoiaw.jp

         (担当:星野一人・日野市民法律事務所)



温和な労働者と便利な発電所?

はじめての労働審判

神奈川支部  杉 本   朗

 知ってる人は知ってるとおり、私は、横浜法律事務所という、どちらかと言えば労働事件をやる事務所に所属している。だけど労働事件をあまりやったことはない。私のことを労働弁護士と呼ぶ人はまずいないだろう。そんな私に、ある日、とある行政(政党や組合ではない)から、労働審判の申立を引き受けてくれないか、という電話があった。なんでも、弁護士に相談に行ったら、労働審判くらい自分で出来る、と言われたがやっぱり自信がない、と窓口に来ている人がいるのだそうだ。門前の小僧ではないが、労働審判の制度設計の段階からできる限り弁護士が代理人となることが望ましいとされていた、という事情くらいは知っていた私は、とりあえず、引き受けることにした。

 相談に見えたのは、神奈川県内に数店舗展開しているスーパーの部長さん二人だった。もともとは、神奈川県内資本だったのだが、近県で一〇店舗以上スーパーを展開している資本に、営業譲渡がなされた(身分は旧資本退職、新資本採用で、そのとき退職金も貰っている)。その直後の昨年一一月、あと三ヶ月で解雇する、その間出社に及ばず、という通告を受けた。解雇事由は整理解雇なのだが、四要件など毛ほども満たしていないようで、結局は新資本の社長と折り合いが悪い、というのが理由のようだった。

 さて、私のいる事務所では、私とあと一人二人を除けばみんな熱心に労働事件をやっているのだが、労働審判ってどうやるの、といまさら聞くのも何となくはばかられる。そこでとても役に立ったのが、他団体の宣伝になって恐縮だが、日本労働弁護団から出ている『労働審判実践マニュアル』だった。中をのぞくと、申立書類とか、書証とかは大体仮処分や労働委員会と同じようである。これを見て私が準備した書類と書証は大体次のとおりだった。

〔書類〕労働審判手続申立書、併合審理上申書、証拠説明書

〔書証〕給与明細、解雇通告、解雇理由書、就業規則、陳述書、チラシ

 チラシは、彼らに解雇を言い渡したのちも、会社が求人広告を出していた、という証拠である。併合審理の上申は、なんだかよくわからないが、労働弁護団のマニュアルにそういう書式があったので、出したものである。申立人二人は、解雇を言い渡された状況が共通であり、解雇理由も共通であり、整理解雇の四要件を完全に無視している点も共通なので、併合審理した方が紛争の解決に資する、とかいうようなことを適当に書いた。のちに、弁護士会主催の研修会で裁判官に質問して分かったことだが、当事者が多数いるということはそれだけ紛争が複雑であり原則三回の審理で終了する労働審判にはなじまない可能性がある、と裁判所の方は考えているようだった。神奈川労働弁護団の誰だかに言われたとおり、陳述書は労働審判員の分もコピーを提出し、陳述書も労働審判員に渡して欲しいという上申書もくっつけた。

 労働審判を申し立てたのが昨年の一二月二八日、第一回期日が二月九日であった。申立の日から四〇日をちょっとすぎているが(労働審判規則一三条では、第一回の期日は申立の日から四〇日以内と定められている)、申立が年末のどん詰まりであることを考えれば、まぁ四〇日以内と言えるだろう。第一回期日の一週間前、相手方会社から、本件は合意退職である(解雇通告があるのに!)、という答弁書が出された。

 第一回期日では、まず労働審判官から、提出された書類に基づいて労働審判委員会として理解した事実関係は次のとおりだがこれでいいか、という前振りのあと、事案の要約がなされた。公刊された労働審判官の論文など読むと、まず当事者に事実関係を説明させる人もいるようだが、私の事件の場合は、審判官が事案の要約をした。

 次に、審判官、審判員の方から、当事者双方にあれこれ突っ込んだ質問がなされた。第一回期日から争点整理と並行して争点に関する審尋を行なう、という方式である。

 双方に質問がなされたあと、今までうかがったところでは、会社のおっしゃることには無理があると思うんですけどね、と審判官がぽつりと言ってから、個別に話を聞くこととなった。まぁ和解手続みたいものである。私たちは、冒頭、復帰するのか金銭解決でいいのか、を聞かれ、金銭解決でいい、というと、審判委員会は、ほっとした感じであった。

 午前一〇時半から始まった第一回期日は、正午をまわるころまで続いた。基本的には、次回に会社側が解決案を持って来ることになった。第二回期日は、二月二〇日と指定された。

 第二回期日は、最初から個別に話を聞く形で進められた。まず、会社側が事情を聞かれ、次に私たちが入った。審判官から、解決金なし、どうしてもというなら再雇用する、という会社側の提案が告げられた。冗談じゃないですよ、と答えると、使用者側の審判員(発言中に「私は使用者だけど」みたいことを言ったので、分かった)が、私もそう思う、会社の提案はまともじゃない、代理人がついていないから落とし所が分かっていない、というような発言をした。審判官から、会社側に提案は拒否された、と伝えるが、おそらく話合いになるような態度を会社側が示すとは思えないので、審判もやむをえないと考えている、という発言があった。

 一旦審判廷を出て、会社側と入れ替わり、再び呼び入れられて入った。審判官から、全然話にならないですね、と言われた。使用者側審判員は、何とか説得したいけど、怒鳴りつけるわけにもいかないし、というようなことを言っていた。続いて、審判官から、「で、最大限譲歩していくらならいいんですか」という率直な発言があった。当事者とは、ここまでは仕方ないというラインは決めていたので、その額を伝えると、審判官は、まぁそんなもんでしょうねぇ、と言い、じゃあ、これから審判を言い渡すことにしますけど、会社側の態度からすると異議が出る可能性は高いと思っていて下さいね、と言った。

 会社側が審判廷に呼び入れられ、審判の口頭告知が行われた。内容は、当事者間に労働関係が存在しないことの確認と、私たちが言った額の解決金の支払い、であった。口頭告知の場合、告知によって審判の効力が発生するので、異議申立期間は告知の翌日から(初日不算入ですね)一四日以内となる(あとから審判書も送られてくるのだが、それが届いてから一四日以内ではないことは注意する必要があると思った。審判廷で審判官がその旨注意はするのだが、うっかり勘違いすると大変なことになりかねない)。どうせ、異議申立なんだろうなぁ、とは思っていたが、出来たらこれで解決したいなぁ、とも思っていたので、異議申立期間が満了する日に、会社側から、審判を受け入れることにしたので振込先の口座を教えて欲しいと連絡があったときは、ちょっとほっとした。

 はじめて労働審判を体験したが、これって結構使えるなぁ、というのが感想である。申立までに資料を揃えるのが大変だ、という話も聞いたことがあるが、仮処分の申立と大して変わらない。むしろ、相手方の主張に反論するために徹夜で準備書面を書かなければならないということがない分(原則的に、申立書と労弁書のあとは、口頭審理である)、楽かもしれない。

 勿論、「闘う労働弁護士」のみなさんには、労働審判に対していろいろ言いたいこともあるのだろうけれど、世の中全ての労働者が闘おうと思っているわけでもないような気がする。大掛かりに会社と喧嘩しようとは思わないけど、このまま会社を辞めるのはちょっと納得がいかない、とか賃金の不足分があるのでちょっと文句を言いたい、という人たちだって結構いると思う。そういう人たちのためには、この労働審判は役に立つのではないだろうか。少なくともそういう人たちにとって、最大限三回の期日で終わる、というのはかなり魅力的なはずである。

 全団員が、今年度中に、最低一人一件は労働審判を申し立てる、ということをやれば、結構面白い状況になるのではないかと思うのだけど、どうかなぁ。



“私が中国戦線でしたこと”

〜NHKがカットした証言(上)

東京支部  神 田   高

☆ 三鷹九条の会は、五月一三日に“憲法のつどい”を開催し、「国民投票法」について、杉井静子団員に講演していただいたあと、中国帰還兵の金子安次さんからお話をうかがいました。大変貴重な話で、参加者の深い感動をよんだので、さわりを紹介します。

 金子です。私は現在八七歳です。私は昭和一五年一二月三日に東京の上野公園に兵隊として徴兵されまして、入隊しました。大体国内の部隊に入るのですが、私たちの場合は特使(とくし)として上野公園に集合しました。六日に芝浦から、船で中国の山東省椿東(ちんとう)に上陸しました。

 兵隊にいく二日くらい前に、私はお袋とあったのです。お袋と二人きりであいました。そのとき、私は「おっかあ。おれは兵隊にいったら必ず、戦地に行ったら必ず上等兵になって帰ってくるよ。」と言ったのです。このことばは、お袋を喜ばせようという気持ちがあったのです。お袋はしばらくジーッと考えておいて、「ばかやろう。おっかあは、金平糖(こんぺいとう※)はいらねい。ばかやろう、金平糖はいらねい。生きて帰ってこい。」こう言ったのです。そのとき、「私は、なんだうちのお袋は。」と実は軽蔑しました。

 当時六年間の義務教育の五年生では、「一太郎やーい」というのが国語にあったのです。一太郎という青年が日清戦争に召集されまして、今日は出発である。そのときにお袋さんが見送りにきた。そこで大きな声で「一太郎やーい。戦地にいったならば、かならず天皇陛下のために手柄をたてるんだぞー。お国のために働くんだぞう。」というのが国語にあったんです。私たちはその頭があったんです。うちのお袋はなんていうことをいうんだろう、とそのとき思いました。(※上等兵の階級章のこと)

 軍隊の階級では、二等兵、一等兵、上等兵となるのは当時大変な出世なんです。そういうつもりで私はお袋を喜ばせるつもりで言ったのですけれど、お袋は怒って「生きて帰ってこい」という。「なんだうちのお袋は。」と私はお袋を軽蔑しました。

 そういう感情をもって私は中国に入りまして、山東省椿東へ入って、そこからジョシュウの日本兵の兵舎に入りました。そこのある兵舎に入ったときに、私は、一〇〇名あまりでしたが、少年兵もいました。そこで訓練をしました。三日間の教育訓練がありましたが、入って三日くらいすぎると毎日コレ(ビンタ)です。朝礼に集まるのが遅いといってビンタ、なんでもかんでもビンタです。こうして徹底的に教育を受けた。当時の日本の教育は、鉄砲の撃ち方、銃剣で人の殺し方、迫撃砲の撃ち方、大腿部をねらう人の殺し方を教えるのが軍隊だった。これをみっちり教わったのです。そして、三月間の教育が終わると、これからは本当の戦地にいくのだといって、私たちは山東省の山奥のなかへ作戦部隊として入っていきました。

 そこで、兵隊を一人前にするためには、人を殺すことを教えなければならない。部落に入りました。古い兵が残っている村人を集めてくる。それを、老人であろうと、子どもであろうと木にしばりつける。それで私たちが一〇人位一組になって、小銃に剣をつけて、一列に並ぶ、「つけ剣!」といわれ、ひとりづつ「突撃!」、わーっと言って刺すんです。

 これが一対一で闘うなら、こちらもやられるから必死になってやる。ところが、相手は木に縛りつけられている。どうにもしょうがない。初めて人を殺す人間はほんとうにおどおどしてしまう。目が閉じる、胸がどきどきしちゃう。自分の手がすべっちゃうんです。すると古い兵隊がついてきて、「それで天皇陛下の兵隊か。」ビシーと(ビンタを)やっちゃう。「もう一回」。ほとんどの兵隊が入っていくんです。

 ところが、当時の銃剣は厚いので、心臓の上をヤァーとつくんですけれども、少ししか入らない。(胸に)あばら骨がある。だからつかえちゃう。手はすべっちゃう。やるが住民は傷だらけになっちゃう。そうすると古い兵隊、が「おれがやるから、みておけ。」といって、自ら駆けだして、「ヤァー」といってついたら、銃剣の先をまわすと入っちゃう。銃剣をまわすと(あばら骨の間に)はいっちゃう。「いいか、このとおりやるんだ。」「これから、腹でもいい、どこでもいい。入っちゃえばいい。」とどこでも刺したんです。私も腹を刺しました。こうして私たちは人を殺す最初の訓練をしました。これが日本の軍隊の典型的な兵隊に対する教育だったのです。

 こういう教育を毎日のようにうけ、それが高じてくると一人殺す、二人殺す、競争して「今度は二人殺してやる」となってくる。こうして私たちは兵隊として教育されてきました。これが私たちの第一回の作戦前の訓練でした。そして、いよいよ作戦にはいります。

 昭和一六年の七月頃でした。ある部落に八路軍がいるというので、私たちはその部落を包囲して、攻撃をしました。中国の部落は当時、周りに高さ五メートルぐらいのどろの塀が部落をめぐっている。その塀の上から攻撃するのですけれどなかなかうまくいかない。抵抗が激しくて攻撃することができない。仕方なく、私たちはガス弾を打ち込む。ガス弾は二つ種類がある。催涙ガス、くしゃみガスを打ち込んだ。苦しくなって部落民がぞろぞろ表にでてくる。これをめがけて私たちは、機関銃で一斉射撃で攻撃をして一七〇人を殺した。

 殺してから部落に入った。二人一組に別れて中に入って残兵がいないか調べて回る。私も古兵と二人で入った。ところが、中国の部屋は当時窓がなくて暗くて中がよく見えない。じっーとしているとだんだん見えてくる。するとオンドルがある。そこが寝台になっている。そこに女の方が一人、子どもを抱いていた。古い兵隊は残兵を捜すのが目的でないです。女を探すのが目的なんです。女がいたら強姦する、これが目的なんです。「あそこに女がいる。お前は子どもを連れて表に行っておれ。おれが終わったらお前にさせるから。」私はたくさんの子どもを無理矢理連れて表にでました。家の中からは女の叫び声と古年兵の叫び声がして、しばらくすると古年兵が女の髪の毛を引いて外へでてきた。

 「金子ついてこい。」と言われてついていった。部落には必ず井戸が二つ、四つあるんです。井戸の所へ連れて行った。井戸の縁に女の人をおっつけた。「金子お前、足をもて」。私は足をもった。ついで、一、二の三で女の方を井戸に突っ込んでしまった。

そうすると、子どもが「マアマ、マアマ」と言って叫ぶ。井戸の周りで「マアマ、マアマ」と言って叫んでいる。ところが背がとどかない。そうすると子どもは泣きながら、いったん自分の家に行ったんでしょうね。机のような台をもってきた。これを台にして、「ママア」といって自分から井戸の中に飛び込んでいってしまった。子どもというものは、親がいるところが一番安全だと思っている。

 こうして、女性は一つの男の対象として扱われてしまう。中隊長の指示は「女は殺せ。子どもを殺せ。」。なぜ女を殺すんですか。子どもを産むからです。「子どもを産むから女を殺せ。」「子どもは大人になって抵抗するから殺せ。女も子どもも殺してしまえ。」これが当時の上からの命令だったのです。しかし、私たちは子どもは殺すことができなかったです。

 そして終わると「手榴弾をぶちこんでやれ。」。私たちは手榴弾を二つもっているんです。一個の手榴弾を外して発火させて私が場内に手榴弾をぶちこんだ。バーと火があがる。そのとき、私はゾーッとしました。後で日本に帰って、自分で子どもを産んだとき、私が子どもの寝姿をみたときゾーッと思い出すことが度々ありました。

 こうして私たちは、私だけでなく多くの兵隊が、強姦はやる、輪姦はやる、人殺しはやる。これを私たち平気で日常茶飯事のようにやる。これが当時の日本軍隊の姿であったのです。私たちはこれを誇りに思い、正義と思っていた。天皇陛下のためであると思いこんでいた。これをやることによって階級があがっていく。功名心を持っている。これが当時の私たちの状況でありました。

Q、金子さんも五年間シベリアに抑留されて、その当時中国は内戦状態でその後独立しました。独立とともに金子さんは一〇〇〇人の仲間とともに中国に戦犯として収容されました。収容されたのが撫順戦犯管理所です。そこに六年間収容された。合計一一年間。その前に戦争を五年間やっています。一六年間日本から離れていた。

 その前に戦争の話をもう少しあるそうです。

 私たちが女性を井戸の中に投げ込んだあと、周りには広場に人の輪ができました。兵隊も集まってきました。部落民も集まってきました。そうすると一人の中年の方が後ろ手に縛られて座っているのです。そこに、将校が、将校は兵隊とちがって日本刀をもっている。兵隊は将校の持っている日本刀は本当に切れるのかなあという目で見る。将校も、「それが一番いやだったらしい。俺の腕前をみせてやろう。」という気持ちがあるらしい。前には手を縛られた中国人が座っている。座っているから首がないように見えるのです。そうすると隊長は「座り直せ。」と言って、座りなおさせた。そして日本刀を抜いた。日本刀をかまえた。手を後ろに縛られ座っているから首が突っ立っている。それを将校が、機をねらって落とそうとした。ところが、日本刀がぷつんと半分に折れてしまった。そうすると将校の顔がサアッーと真っ青になる。恥をかいた、「あの将校はなまくらをもっている」と私たちは思った。ところが小隊長が「隊長殿、私の日本刀を使ってください。」といって差し出した。「借りるぞ。」抜いた。今度は呼吸をはらって、ヤァーと切った。ものの見事に今度はポロッと首が前に落ちた。血がワァッーと一尺くらいあがった。一瞬のうち、首がころころころっと一メートルくらい転がった。目がすーっと閉じた。

 そうすると他の部落民の女の方のなかに、一人の女性がワーッと泣き出して駆けだしてきたと思うと、拾って首を抱きしめてしまった。おそらくその女性のだんなさんじゃないかと思いますけれども。

 将校は将校で、自分の刀が切れるか切れないか、首を切れる技術をもっているかいないか、試し切りをやるんです。将校はほとんどみんなやるんですね。やらないのはいない。兵隊はそういう目でみて、兵隊が剣で突くのと同じように、将校は自分のもっている日本刀が切れるか切れないか、自分には腕前や度胸があるか、試される。中隊長はやったんです。ところが一度は失敗したんですけれど、ものの見事に首を切った。私もこのとき初めて首を切る状況を見ましたが、本当にゾーッとしました。そのときは見事だったと思いました。

 このように、私たちは将校であれ、兵隊であれ、人を殺すことが軍隊の常識だったのです。これが作戦部隊の一つの特徴です。

(次号に続く)



【書評】憲法フェスティバル実行委員会編

『憲法くん出番ですよ―憲法フェスティバルの二〇年』

東京支部  松 井 繁 明

 これはまず、読んで愉しい本である。

 サブタイトルからも明らかなようにこの本は、一九八七年から東京で毎年一回、二〇年にわたって続けられてきた「憲法フェスティバル」の記録とそれをめぐるエピソードなどを収めたものである。

 憲法の話はどうも、暗くてつまらなくなって、いけない。「戦後レジームから脱却」して「美しい国へ」などとウソ八百をならべたてて国民を「戦争をする国」へと引っ張ってゆこうという話だから、愉しいはずもない。しかしこの本は愉しい。というよりも、「憲法フェスティバル」(以下「憲フェス」と略)そのものが愉しいのである。

 憲法施行四〇周年にあたる一九八七年。青年法律家協会の若手(当時)会員のなかに「何よりも楽しく、明るい、それでいて真面目で親しみやすい企画を」という声があがり、それによって実現したのが同年五月二日の第一回憲フェスであった。

 宮原哲朗さん執筆の第T章「憲法フェスティバルの誕生」がその経緯をいきいきと描き、そこには、その後二〇年も続く憲フェスの諸要素が凝縮しているようである。ちなみにこの第一回の主な内容は、歌・横井久美子さん、講演・ジェームス三木氏、映画・亀井文夫・山本薩夫共同監督「戦争と平和」。それに七つの分科会というものである。とりわけ、幻の名画といわれる「戦争と平和」の四〇年ぶりの上映は、社会的にも大きな反響をよんだ。入場者は合計で二〇〇〇名を大きく超え、大成功であった。

 この本は第二に、役に立つ。

 いま全国の地域・職場に六〇〇〇以上の「九条の会」が結成されている。その多くが活発な活動を継続しているが、なかには活動停止または先細りの組織もあるようだ。結成集会が頂点で、この先なにをしてよいのか判らない、よい企画が浮かばない、というのである。本書の第U章は、「憲法フェス」二〇回の企画内容がそれぞれ簡潔に記されている(下林秀人さん他執筆)。各地の「九条の会」を運営しているみなさんにとって、ここには無限のヒントが潜んでいるのではあるまいか。

 華やかな表舞台のかげで、スタッフたちの悩み、ボヤき、気持ちの揺れなどはさまざまである。第V章「〈憲法フェスティバル〉って何だ」(海部幸造さん他執筆)が内幕を披露している。だれもが参加でき、自由に発言できる実行委員会だが、なかなか意見がまとまらない。真面目派とおもしろがり屋派の拮抗。勝手な論議と少数者への仕事量の集中。それを回避するための役割分担が組織を硬化。いつの間にかいなくなるベテランと何もわからない新人たち。つきまとうカネの悩み。スタッフの吐息が聞こえそうだ。およそなにかのイベントを企画した者なら、だれしも共感する経験だろう。それでも二〇年間続けてきた力は何なのだろうか。―各地の「九条の会」運営者が汲みとるべき何かが、ここにはあるだろう。

 さいごに、この本を読むと希望がもてる。

 宮原さんも触れているように、憲フェスの企画に直接の影響をあたえたのは、一九八五年の憲法劇「今日私はリンゴの木を植える」であった。海部さんが「編集後記」で紹介されているとおり、横浜の憲法ミュージカル「がんばれッ!日本国憲法」も今年で二〇年をむかえた。埼玉でも同様の企画が続けられている。そして今年、東京・三多摩地方で素人集団によるミュージカル「キジムナー」が大成功をおさめた。それぞれのイベントが、それぞれに独自でありながら、相互に刺激と影響をあたえあっているのを見るのは、心楽しいことである。

 憲法をめぐる企画がいつも判りやすく楽しいものでなければならない、というのではない。ときには深刻で激烈な論議だって必要なのかもしれない。しかし憲フェスのような方向が憲法の問題を、より広い人びとに拡げてゆくうえで、欠かしてならないものであることは、いうまでもない。

 私たちはこの難局を、希望を胸にいだいて前進しよう。そのために、この本をおすすめする。(花伝社発行・共栄書房発売。定価一五〇〇円+税)