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原  希世巳 東京大気汚染公害裁判
この誇りを胸に・・勝ち取った全面解決
鷲見 賢一郎 「ものづくり」に学んで
佐藤人権裁判・東京高裁で勝利判決
中野 直樹 二〇〇七年 六千?番目の九条の会―相模原
高崎  暢 市民集会「北の国から9条を守ろう」大成功!
―アウェイの人たちに届く言葉のたいせつさ
守川 幸男 「消えた年金問題と権力は転んでも…」



東京大気汚染公害裁判

  この誇りを胸に・・勝ち取った全面解決

東京支部  原  希 世 巳

六月二二日、東京高裁一〇一号法廷

 裁判長の声が普段にまして大きく鮮明に法廷内に響き渡った。

 「その提訴の意味は、上記のような大気汚染についての問題を広く国民一般に提起してその討議と解決を迫った点にあるものとも理解できるのであり、・・本件訴訟の提起をひとり原告らの個人的な利益のためのみになされたと矮小化すべきではなく、その社会的意味を軽視すべきではない。」東京大気汚染裁判に対する高等裁判所の基本的な認識がこう述べられた。

 私たちが提訴した一一年前、自動車メーカーは「地球に優しい」ディーゼル車を大宣伝し、4WDのディーゼル乗用車がもてはやされていた。私たちが提起した「メーカーの公害発生責任」はいささか奇異なものとも受け止められ、「あなた達も自動車の恩恵を受けているでしょう」と影に日にささやかれた。敵の大きさばかりが目に付いた。

 提訴の三年後の一九九九年八月、東京都の石原知事が「ディーゼルNO作戦」を掲げ、本格的なディーゼル排ガスの規制に向けての動きが始まった。尼崎(二○○○年一月)や名古屋(同年一一月)の判決でディーゼル排ガスの危険性が注目を浴びた。私たちは流れが変わりつつあることをようやく実感し始めていた。東京都などのディーゼル規制条例が成立し、自動車NOx・PM法が強化され、最大の発生源であった九○年代前半までの未規制・排ガス垂れ流しディーゼル車が次第に駆逐されていった。そして昨年からは、全国ワーストワンを争っていた大和町や松原橋などの激甚交差点ですら、SPMの環境基準をクリアするほど改善が進んだ。

 裁判所は「最近の東京都内における大気汚染状況の改善は、そのような(原告団からの)問題提起を受けて、自動車メーカー、国、道路管理者、そして国民一般がそれぞれその社会的責任を自覚してきた中で実現してきたものとも考えられる」と、私たちの提訴があったからこそ実現できたと、高く評価しているのである。

 そして「第一次訴訟から第六次訴訟について、各当事者の社会的責任を反映するものとして、以下の通り和解の骨子を勧告する」とした。和解勧告は、核心に入っていった。

画期的な医療費助成制度

 東京高裁は「この新たな医療費助成制度は、東京都全域を対象にして気管支ぜん息患者の医療費を助成するというこれまでに例を見ない画期的なものである。当裁判所は関係当事者の創意と決断に深い敬意を表するとともに、この制度の創設が本和解の一つの柱となるべきもの」とした。

 私が東京の公害患者会で未認定の患者さんの話を初めて聞いた時の衝撃は大きかった。家財道具を売り、親の形見の着物まで売って病院代を払った患者、病院代を抑えるため二日間発作を我慢して死にかけた患者、お金がない時は高いけど月末払いの夜間診療を受けるしかないという患者、いくら稼いでも病院代に消えてしまうので夫が働く気をなくしてしまった主婦の患者など、認定患者の被害に倍する困難の中で、人生の展望を奪われ、何の救済もされずに生きている人々が数多く存在することを知った。

 私たちはこの裁判の中で、国や東京都、そして自動車メーカーの責任を明確にして、それら汚染者の費用負担により被害者を救済する制度を作らせることを、最終的な目標とした。これは未救済患者のみならず、様々な攻撃にされされつつあった認定患者にとっても切実な要求となった。

 東京都が昨年一一月に制度の提案をした時点では、トヨタ以外の各メーカーが財源拠出に応じるかは微妙な情勢だった。原告団は「後ろ向き」と見られた日産へ、そして三菱、マツダへ座り込みや要請行動を繰り返し、財源負担に応じさせた。

 拠出に応じることは絶対にないだろうと思われていた国に対しても、マスコミへの働きかけや首相官邸への直訴、国会前座り込みなどによって、予防事業としてではあるが六〇億円の拠出を決断させた。たたかいによって勝ち取った医療費救済制度であった。

胸をはって勝利和解へ

 高裁の和解勧告の第二の柱は、東京都全域に対する公害対策の前進、そして第三の柱が解決金の支払いである。解決金については一二億円を被告メーカーらが支払うことが勧告された。

 この金額は沿道五〇mに救済範囲を限定した第一次訴訟一審判決の認容水準の約三倍であり、裁判所が実質的に面的な救済に足を踏み出したと言えた。また見舞金レベルを超えてメーカーの責任を前提とした水準であると評価しうるものでもあった。しかし原告らの甚大なる被害の回復にはほど遠いものであった。

 高裁の勧告は、本裁判の社会的意義を高く評価し、その成果をかつてないものと賞賛し、原告らの長年にわたる辛苦と被害を正面から受け止め、病をおして裁判へ、そして社会的な活動へと献身した原告らの姿に深い共感と敬意を示す優れた内容のものであった。原告らの多くはこのことと、一二億円という金額との落差を簡単には受け止められなかった。

 原告団は都内六つのブロックで緊急の原告団会議を行い、和解勧告についての意見を集約した。「和解金が入ったら借金が返せると思っていたがとても無理だ」「息子の墓ぐらい建ててやりたいと思っていた」等という切実な声も寄せられた。しかし彼らも含めて、自分たちのこのたたかいが大きな成果を上げ、それが正当に評価されていることには十分納得ができるものであった。

 「この制度を待っている患者が大勢いる。一刻も早く解決して制度を実現するのが私たちの役割だ。」

 「メーカーに勝利判決も取らずに、運動の力で制度を実現させたことは大変なこと。」

 「一二億は不満だが、私たちが勝ち取ったものは全国の裁判の中でも抜きんでて大きい。よくここまでこれたと思う。」

 「自分は未救済患者。毎日の支払は大変。医療費がかからなくなるということは本当にうれしい。裁判やってきてよかったと思う。」

 「私はぎりぎりで認定を受けられた。早く未救済の人を救済してほしい。」

 「初めてトヨタ前に泊まり込んだ。ここまで皆でたたかってこれた成果だと思う。」

 「昨年三回救急車の世話になり、以後活動に参加できなくなってしまった。何としても生きているうちに解決してほしい。」

 「お金の問題ではない。私はこの原告であることを誇りに思います。」

 私はこのような一人一人の原告の声を聞いて、彼らの志の高さに改めて敬服した。そして弁護団の一人として、この歴史的なたたかいにかかわることができたことの誇りと幸せをかみしめている。

たたかいは続く

 原告団は六月三〇日の幹事会でブロック会議の内容を集約し、全会一致で裁判所の和解勧告を受け入れることを決めた。現在公害対策など和解条項のツメの作業を行っている。

 和解条項では、原告団と被告らとの間で継続的な協議機関(連絡会)が設置され、和解条項の履行状況の確認、その他主要には今後の公害対策に関する協議が行われることとなる。

 公害対策において画期的なことは、環境省が微小粒子PM二・五の環境基準設定を視野においた検討を始めることを約束したことである。SPMは環境基準達成と前述したが、PM二・五については依然として高濃度の実態にあることが、近時の小児ぜん息罹患児童の急増の原因になっていると考えられている。

 また都内幹線道路の緑化、大型車の走行規制など国や東京都が検討を約束した対策は数多い。これらの和解条項をしっかりと履行させていくことは、運動なくしては不可能である。そしてそれはまた弁護団の責任でもある。

 また東京での成果を受けて、全国公害患者会はいよいよ新たな全国的な公害健康被害補償制度の確立を求めて、運動を進めていく体制を作ろうとしている。

 そして東京の患者会としては、新たな医療費救済制度の周知徹底と患者の組織化を進めていくこととしている。ここで勝ち取った医療費助成制度は五年後に見直しを行うこととされている。現在慢性気管支炎と肺気腫の患者が対象外とされていることなどの限界を克服していくこと、さらには国レベルの全面的な救済制度への道筋をつけていくことを目指して新しいたたかいが始まっていく。

 弁護団としても「目的達成」まで引き続き役割を果たしていきたい。

以上



「ものづくり」に学んで

  佐藤人権裁判・東京高裁で勝利判決

東京支部  鷲 見 賢 一 郎

一 減額賃金七六三万九七七二円、慰謝料一五〇万円等の支払いを命ずる高裁判決

1 事案の概要

 JMIU千葉地方本部オリエンタルモーター支部の佐藤武幸さんは、オリエンタルモーター(株)土浦事業所で精密小型モーターのギヤ(歯車)加工業務に従事していましたが、右眼の黄斑変性症で物がゆがんで見えるようになり、マタギ歯厚測定(ギヤの歯先と歯先の間隔をマイクロメーターで測定する作業)が困難になったので、二〇〇二年十二月六日、会社に対して、業務換えを申し出ました。この佐藤さんの申し出に対して、会社は、佐藤さんから仕事を取り上げたうえ、二〇〇三年五月から社内清掃業務への業務換えを命じ、あわせて、毎月の基準内賃金を三十一万八四八四円から十八万一六八〇円へと、十三万六八〇四円、四十三%も減額しました。

2 判決主文

 東京高裁第十九民事部は、平成十九年四月二十六日、第一審被告オリエンタルモーターに対して、第一審原告佐藤さんに(1)今までの減額賃金七六三万九七七二円、(2)平成十九年三月以降本判決確定の日までの毎月の減額賃金十三万七六九九円、(3)慰謝料一五〇万円を支払うことを命ずる判決を出しました。

 慰謝料が三〇〇万円請求したところ一五〇万円しか認められなかったのは残念でしたが、減額賃金の請求は全額認める、東京地裁判決に引き続く佐藤さんの全面勝利判決です(なお、東京地裁勝利判決の報告は、団通信一一九五号(二〇〇六年三月二十一日号)に掲載してあります。)。

 会社は、五月八日、最高裁へ上告受理申立をしました。

3 判決理由の概要

 高裁判決は、五つの争点を設定し、「争点(1)本件業務換え及び本件賃金減額の合意の成立」では会社と佐藤さんの間の合意の成立を認め、「争点(2)公序良俗違反による合意の無効」で右合意を公序良俗違反で無効としました。高裁判決は、「争点(3)就業規則や労働協約に基づかないことによる合意の無効」については、判断を示しませんでした。

 続いて、高裁判決は、「争点(4)労務の提供の有無と第一審被告の受領拒絶」で佐藤さんの「債務の本旨に従った履行の提供」を認め、他方で会社の就労拒絶を認定し、佐藤さんの減額賃金請求権を認めました。

 高裁判決は、「争点(5)第一審原告の慰謝料請求の可否及び慰謝料額」では、会社の「組合員の不利益取扱いの不当労働行為及び第一審原告の人格権侵害の不法行為」の成立を認め、慰謝料額は一五〇万円が相当としました。

二 東京高裁での新たな争点

 ―債務の本旨に従った履行の提供の有無

1 会社の主張

 会社は、控訴審になって、新たに、「賃金請求権は、労働者が債務の本旨に従った履行をすることによって初めて発生する請求権であるから、本件業務換えが無効である以上、第一審原告は旧業務を履行しなければならず、それを履行した場合に賃金請求権が発生する。しかるに、第一審原告は、旧業務の履行が不可能と申し出ており、かつ、履行できないことが客観的に明確である以上、債務の本旨に従った労務の提供がないことは明らかである。したがって、従来の賃金額に基づく賃金請求権を取得する根拠はない。」と主張してきました。

2 第一審原告の主張

 会社の右記主張に対して、佐藤さんは、片山組事件最高裁第一小法廷平成一〇年四月九日判決を引用して、「労働者が現に就業を命ぜられた特定の業務について労務の提供が十全にはできないとしても、その能力、経験、地位、当該企業の規模、業種、当該企業における労働者の配置・異動の実情及び難易等に照らして当該労働者が配置される現実的可能性があると認められる他の業務について労務を提供でき、かつ、その提供を申し出ているならば、なお債務の本旨に従った履行の提供があると解すべきである。第一審原告が右眼黄斑変性症で物がゆがんで見えるとしても、担当できることができる業務として、(1) 高周波焼入れ機によるギヤ部品の高周波焼入れ加工業務、(2) NCマシニングセンタによるギヤケースの加工業務、(3) 超音波洗浄機によるギヤ部品の洗浄業務、(4) 大型洗浄機による通い空きバケットと加工部品を入れるプラスチックのトレイ等の洗浄業務、(5) ギヤヘッドの組立業務、(6) パート従業員等の管理的業務、(7) 会社の他事業所からモーターやギヤや制御回路を受け入れ、ラインへ運搬するなどの社内物流業務、(8) ラインへ運搬されてきたモーターやギヤや制御回路を梱包し、会社の配送センター等やメーカーへ出荷する業務がある。また、当時の要員状況からして、第一審被告が第一審原告を上記各業務に就かせることは十分可能であった。」と主張しました。

3 債務の本旨に従った履行の提供を認めた高裁判決

 これらの第一審原・被告の主張に対して、高裁判決は、「少なくとも、土浦事業所の精密ギヤ製造部の業務のうち、柳澤が従事していた超音波洗浄機によるギヤ部品の洗浄業務、大型洗浄機による通い空きバケットと加工部品をいれるプラスチックのトレイ等の洗浄業務や、ユニット製造部の業務である、会社の他事業所からモーターやギヤや制御回路を受け入れ、ラインへ運搬するなどの社内物流業務、ラインへ運搬されてきたモーターやギヤや制御回路を梱包し、会社の配送センター等やメーカーへ出荷する業務等は、第一審原告においても就労可能な業務であり、各部門における人員配置、異動の状況からみて、実際にもそれらの業務に第一審原告を就労させることは可能であったものと認められる」、「第一審原告は、上司に対し自らが就労可能な代わりの業務に就かせて欲しい旨繰り返し要望を出していたのであるから、これにより第一審被告に対し債務の本旨に従った履行の提供があったものと認めるのが相当である。」と判断しました。

 佐藤さんの主張が全面的に認められたのです。

三 一年間を超える高裁のたたかい

 ―一抹の不安にかられ、「ものづくり」に学ぶ

1 口頭弁論七回、本人及び証人尋問一回等

 会社の佐藤さんに対する処遇のひどさからいって、私は、東京地裁では「この事件は勝てる」と思い、東京高裁では「この事件は負けない」と思っていました。そうはいっても、高裁の後は上告もしくは上告受理理由が憲法違反や最高裁判例違反等に限定されている最高裁なわけですから、「もし万が一高裁で負けたら大変だ」と一抹の不安を感じていました。ですから、準備書面や書証等をできるだけ提出し、本人及び証人の尋問を積極的に主張しました。

 平成十八年一月二十日東京地裁判決から、一月三十日会社控訴、二月二日佐藤さん控訴、平成十九年四月二十六日東京高裁判決までの間、口頭弁論期日七回、佐藤さん本人及び会社側証人の尋問期日一回、和解期日二回を持ちました。主張書面は、控訴状、控訴理由書、答弁書のほかに準備書面を(一)から(十一)まで提出し、甲号証は、第六十五号証から第一一七号証まで提出しました。

2 「ものづくり」に学び、債務の本旨に従った履行の提供を証明

 高裁では、「右眼黄斑変性症でものが歪んで見えても佐藤さんに担当できる業務が土浦事業所にあり、同事業所の人員配置上も佐藤さんをこれらの業務に配置することが可能である」との点の立証活動に力をそそぎました。

(1)ギヤ等の製造工程と製造方法の解明

 しかし、「マタギ歯厚測定」、「高周波焼入れ加工業務」、「NCマシニングセンタ」、「超音波洗浄機」、「ギヤヘッド」等々、私にとってははじめて聞く言葉ばかりでした。私自身がこれらの言葉の内容を理解することも大変でしたが、これらの業務内容を裁判官にわかりやすく伝え、さらに佐藤さんが「マタギ歯厚測定」以外の各業務はできることを裁判官に理解してもらえるように伝えることはもっと大変でした。私は、何度も何度も、佐藤さんや同僚の労働者(JMIU組合員)の話を聞いたり、ギヤやギヤヘッドの現物やNCマシニングセンタの写真やマイクロメーターのカタログを見たりして、何とかギヤやギヤヘッド等の製造工程と製造方法を理解することができました。

 高裁へは、これらの写真やカタログとあわせて、同僚の労働者に作ってもらった「高周波焼き入れ加工図」等のイラストを甲号証として提出しました。また、ギヤ等の製造方法等に関する佐藤さんや同僚の労働者の陳述書も提出しました。

 高裁判決は、ギヤ等の製造工程等を正確に認定しており、事実解明の重要性を再認識しました。

(2)会社の人員配置・異動の状況の解明

 佐藤さんと同僚の労働者の見聞や土浦事業所の組織図に基づいて、前記(1)〜(8)の業務についての、二〇〇三年から二〇〇七年一月までの間の、労働者の配置と異動の状況を明らかにしました。正社員の異動状況だけでなく、業務請負の労働者の配置や異動状況も明らかにして、佐藤さんを前記(1)〜(8)の業務に配置することが十分可能であったことを明らかにしました。

四 一人ひとりが大切にされる社会を目指して

 佐藤さんに対する業務換え及び賃金減額は会社のJMIU敵視に起因するものですが、右眼を悪くした一人の労働者に対する処遇として常軌を逸した人権侵害もはなはだしいものです。このようなことが許されるようでは、職場は荒廃し、「ものづくり」にも悪影響をもたらします。

 一人ひとりが大切にされる社会こそ、日本の「ものづくり」の未来にとって重要です。佐藤人権裁判をたたかうなかで、このことを痛感しています。



二〇〇七年 六千?番目の九条の会―相模原

東京支部  中 野 直 樹

一 神奈川県下二五〇幾番目の九条の会

 私は、本年三月一日付けの団通信に、「二〇〇六年 私のまち 相模原市のうねり」を投稿した。戦争する国の時代に軍の都であったまち、米軍再編戦略で、米陸軍司令部と戦闘指揮訓練センターがやってくる座間キャンプ、相模総合補給廠がいすわる基地のまち、旧津久井郡四町を吸収合併し七〇万人の人口となり政令指定都市をめざす保守市政のまち、民衆の運動の連帯・共同が難しいまち。このまちで、九条の会運動づくりに取り組み始めたことを報告した。

 昨年一一月二九日の「輝け!私たちのオンリーワン」憲法のつどい(九〇〇名)、この六月二日、実行委員会による映画「日本の青空」上映(一九〇〇名)、六月一六日、さがみはら九条の会発足のつどい(七〇〇名)と大型企画の連続となった。いまどき九条の会の発足は珍しいことでもなんでもないが、相模原のまちにとって、あるいは、私自身が中心の一人として二年ごしに取り組んできていることとしては特記すべき半年である。

 この間に、事務所のある町田市では、団通信七月一日号で小林善亮さんが生き生きと報告している「LIVE!憲法ミュージカル inさんたま」の初日公演(五月六日)をはさんでおり、まさに憲法の旬であった。

二 家族そろって

 昨年の憲法のつどい、九条の会発足のつどいの宣伝チラシはいずれも、私の妻に製作依頼となった。毎晩、自宅では、デザイン・レイアウトをめぐって、夫婦の激論となり、人に語れない苦労もあった。できあがったチラシの評判は上々で、ロゴは会のシンボルマークとして使われている。

 昨年の憲法のつどいには一家で参加。今回の発足のつどいでは、読み上げる「アピール」朗読に若者をという声が出て、私が、高校二年生の自分の娘をくどくことになった。そんな恥ずかしいこと嫌だ、から始まり、私も起案の一部を担当したアピール文は難しく舌をかみそうだとの批判もはさみ、舞台監督による発声練習の場にケーキを差し入れる努力もしながら、最後は、着用する洋服談義を経て、当日となった。

 高倉真理子さんという音楽療法学会に所属する作詞作曲家、朗読・ミュージカルにおいてピアノ創作演奏を行っている方がいる。昨年の憲法のつどいでは、朗読に合わせて即興のピアノ演奏をしていただき、発足のつどいでは、オープニングで音の風景を演出していただいた。私の小学六年の娘も珍しい楽器のお手伝いとして参加し、ご機嫌であった。

 私だけではない、つどいの準備、当日の要員に、事務局メンバーの多くが、配偶者や子を伴ってきておられる。

三 厳しさ、しかし、希望をもって

 発足のつどいでは、高遠菜穂子さんに「命に国境はない〜最も危険な国イラクに支援は届くのか?〜」、朴慶南さんに「私以上でもなく、私以下でもない私」の講演をお願いした。

 高遠さんの話は、米軍によるイラク進攻がもたらしている絶望の実像と心の荒廃を生々しい証拠写真を使ってえぐり出すものであり、参加者は息をのみながら見入り、聞き入った。舞台裏での様子を含め、彼女自身が現に戦争のさなかにいるかのような過酷さをもった生き様である。

 朴さんの語りは癒しと包容である。差別と対立を融かしてしまう人間の力を信じ、生きる力にビビッドな刺激をあたえてくれる。涙して聴き入る観衆。感性のかたまりのような方だ。

 さがみはら九条の会づくりが刺激となって、市内地域九条の会が新たに二つ生まれ、市内で一二の会となった。発足のつどいでは、この会の代表が壇上にそろい、リレートークをしていただいた。それでも地図にそれぞれの会のカバーするエリアを落としてみると、まだまだ、空白の地域が圧倒的に多い。

 懇親会の席で、高遠さんは、これまでたくさんの九条の会によばれたが、どことして若い人たちの参加がないし、これからも「九条の会」の看板では、若者は集まらないと断言されていた。熊本五月集会の後藤道夫教授の講演の最後に、九条の会運動が、青年運動と断絶していることの限界を指摘されていた問題である。

 実際に、市内のどの九条の会も年金生活者ばかりである。二回のつどいとも、市内の大学に宣伝物をおかしてもらったり、大学前の駅で宣伝行動をしたりしたが、まるで違う世界の人たちが何かやっているという距離を保たれてしまう。それでも、司会や朗読者に大学生・高校生を起用できたこと、アンケートに十代一名、二十代六名、三十代七名が回答をしてくれたことを明日につなぐ到達と受け止めている。

四 一人ひとりが九条を守る柱に

 朝日と神奈川新聞が、発足のつどいを報道してくれた。この種の集会は、事前報道はしてくれても当日の取材と報道があることは珍しい。私の名が載った朝日新聞を読まれた市内弁護士の一人から私あてに手紙が届いた。

 この方は、一六年前に私が相模原市に住むことになったころに、事件の相手方代理人となった方で、以後年賀状の交換をしてきている。今年卒寿を迎えられた。手紙によると、一七歳で兵隊として、満州に駆り出され、一九四五年五月、二等兵としてソ連国境に配置、ソ連の捕虜となりシベリアに抑留された。復員後大学法学部に入学し、司法試験合格するも、「シベリア帰り」という思想レッテルのために研修所入所を一年遅らされてそうである。手紙は、戦争の悲惨を話したくとも受け付ける雰囲気がなくなっていることを嘆きつつ、戦争体験者からの声で応援していますと結んであった。

 私は、これまで九条を支えてきた戦争の原体験者には、なお、お元気に発言をしていただきたいとのご返事を差し上げた。



市民集会「北の国から9条を守ろう」大成功!

―アウェイの人たちに届く言葉のたいせつさ

北海道支部  高 崎  暢

、さる六月二三日、二五〇〇名の市民で通路まで埋まった札幌厚生年金会館大ホールは「九条を守れ」という熱気にあふれた。高校生・大学生の参加者の姿が目立った。主催は、札幌市内の約八〇の「九条の会」が共同でつくった実行委員会である。

 集会は、実行委員会を構成した各「九条の会」の方々約一〇〇名が登壇し、「憲法九条を輝かせたい」「戦争はもういやだ!」の横断幕やのぼりがステージを埋めつくしして開会。続いて、コント集団「ザ・ニュースペーパー」が、石原都知事や憲法を素材に鋭いコントを展開し、爆笑と拍手が起こるなど会場を巻き込んでいた。

 評論家佐高信氏の講演は、「城山三郎の遺言―戦争で得たものは憲法だけだったー」と題するもので、今年三月に七九歳で亡くなった作家の城山三郎さんの軍隊体験を紹介。一七歳で志願して軍隊に入ったものの、当時の言論の自由のないなかで志願させられていたことに気付き、「戦争で得たものは憲法だけだった」が口癖で、勲章拒否と反戦、護憲の精神を貫き実践した人であったと話をした。その上で、「護憲の遺志を受け継ぐには『憲法九条なんて守らなくていい』という人たち(アウェイの人たち)に届く言葉を持たなければならない。」と聴衆に訴えた。

  思想信条、立場の違いをこえて「九条を守る」運動が大切であると訴えてきた私たちに、この「アウェイの人たちに届く言葉を持つことの大切さ」の提起は、新鮮で示唆に富む話であった。この話に一段と大きな拍手が起こったことが印象的であった。

、この集会は札幌市の後援を得ていた。八〇〇枚のポスターが市の施設をはじめ公民館、町内会館、郵便局等にも張り出した。チラシも約九万枚を配った。メーデー会場(労連系、連合系)でのチラシ配りを皮切りにあらゆる機会を活用し、さらに大通り公園、高校や大学前等でも配った。連合系のメーデー会場で配った時、受け取った女性がじっとチラシを見てから、近づいてきたのでチラシを返しにきたのかと思ったが、「このチラシあと二〇枚、できれば三〇枚欲しい。私の回りの方に配りたい。」といわれ感激したというエピソードもあった。日に日に、チラシ見ましたという声が多くなってきた。参加券(五〇〇円)も発行し普及に努めた。集会が近づく中で、「参加券がないが当日入れるか。」という問い合わせも増した。実際、約六〇〇名の方が当日券を買い求めて参加した。大々的な広報を通して、「憲法九条を守る」運動があるということをアピールすることができたと思っている。マスコミが九条の会の活動を黙視している状況のもとで、その活動を市民に訴えることも運動である。この集会は、地元紙北海道新聞が一週間前に記事にし、当日の報道もしてくれた。

、集会は、手話通訳、保母など多くのボランティアに支えられ、実行委員会のメンバーの創意ある活動によって成功することができた。とりわけ、組織も持たない人たちが集まって二五〇〇名を集めたことは画期的なことである。

 そして、集会後の反省会で、感動的な話がたくさん寄せられた。ごく一部を紹介する。時機を得た企画だった。地域の9条の会に活力を与えた。この集会で励ましを受けた。隣の会の活動がよく分からなかったが分かるようになった。政党のポスターと一緒に張っていたが集会のポスターだけが破られることがあった。ハンディを持った人たちに対する配慮が足りなかった。カンパに参加者の励ましと温かみを感じた。リボンの着いた五円玉、一〇〇〇円の図書券等何か協力したいとの思いを感じた。参加者が頷きながら聞いていたなど反応がよかった等々である。

 また、各地域の九条の会からも、あの集会で勇気やエネルギーをもらったという声も届いている。

、この実行委員会は、「たかさき法律事務所九条の会」の役員会の席上、元高校教員であった方が、「九条を守る他の会の活動が見えない。私たちだけでやっていると焦燥感がある。うちの会の身の丈以上のことができるのではないか。」という発言が契機で、回りの会に呼びかけることになった。その呼びかけ文には、「各会が取り組んでいる草の根の活動を確かめ励まし合うこと、個々の会ではできないことを連帯した力で実現することも、今なすべき重要なことのひとつであると考えます。」と記載されている。最初の呼びかけは十数の会であったが、広がって約八〇になった。実行委員会では、対等平等の運営原則とこの集会を終われば解散することを申し合わせた。第一回実行委員会から丁度一〇〇日目の集会開催であった。

 この成功を、九条の会の運動の発展に、来る参議院選挙の結果へと結びつけたい。

 なお。この日の内容をDVDにする予定である(頒価未定)。ご希望の方の申込みを歓迎。


「消えた年金問題と権力は転んでも…」

千葉支部  守 川 幸 男

.団通信の前号(七月一一日号)で「権力は転んでもタダでは起きないー消えた年金問題を口実にして」を書いた。(1)社会保険番号と国民カード、(2)労働者攻撃と差別の予告である。

.うち(2)については、発言したのは塩崎官房長官であり、ボーナス返上にからんで新組織への再雇用をしないことをにおわせたものであった。

.その後、興味ある記事があった。

 七月九日の朝日新聞の「私の視点」で、ジャーナリストの斉藤貴男氏が、「社保庁の賞与返上 問題は年金制度そのもの」と題して、私の問題意識と同じことを発言しているが、もう少し掘り下げている。

 ほかに、前号のテーマとは離れるが、二つの指摘がある。年金制度が、そもそも相互扶助を目的としたものではなく、ナチスにならった戦費調達目的で発足し、その後も国民を金づるとみなした発想があるとの指摘だ。どこかで聞いていたことだが、参考になる。

 また、末尾に、「社会保険方式にこだわるから、正当な給付が期待できないと見る人は保険料を支払わない。」として、税方式への転換を含めた抜本的な制度改革の検討を呼びかけている。必要な金額が膨大なので、基礎部分(最低保障年金部分)は税金で、上乗せ部分は保険料方式で、という考えもあり、いずれにせよ財源をどうするかも一つの大きな問題であろう。