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吉原 稔
労働委員会の連合推薦の「労働貴族」の兵糧を断つ
県の労働委員、選挙管理委員、収用委員の月額報酬支出の差止を提訴
上田 誠吉
『布施辰治の生涯と朝鮮』(大石進・講演)について
中野 直樹
夏入り  岩魚釣りの宿



労働委員会の連合推薦の「労働貴族」の兵糧を断つ

県の労働委員、選挙管理委員、収用委員の月額報酬支出の差止を提訴

滋賀支部  吉  原   稔

1、滋賀の労働委員会は、不当労働行為申立が年に一〜二件しかないのに、一五人の労働委員は、月額二〇〜二二万円の定額報酬をもらっている。連合推薦の労働貴族が、このうまい「ジッツ」(座席)にしがみついている。

2、五人の労働委員を連合が独占しているので、県労連推薦の委員を任命せよと要求し続けてきたのに、嘉田知事は、今年四月、またしても、連合独占の委員の任命をした。

 そこで、何か別の方法はないかを考えた。連合が労働委員を独占するのは、暇なくせに高給をはんでいるところにある。その兵糧を断てば、旨味がなくなって、「ジッツ」を手放すのではないかと考えて調べてみた。

 その結果、一五人の公益・労働者・使用者委員の定例会議(月二回、半日)の出席率は八〇%くらいであり、いつも約五分の一の委員がサボっている。労働者委員の出席率が一番悪い。そして、出席率の悪い委員は、事件関与も少ない。サボっていても二年の任期が経過して、そのまま再任される。県と連合、経営者団体、弁護士との馴れ合いによるものである。

3、収用委員は七人で、月二回の定例会(午後)、年平均一・八五件の事件を処理し、選挙管理委員は四名で月一回の定例会(午後)に出席するだけなのに、月二〇〜二二万円の報酬をもらっている。労働委員だけを相手にすると、思想的背景を詮索されるので、収用委員、選挙管理委員も道連れにした。年収二〇〇万円以下のワーキングプアが一〇〇〇万人もいるのに、「ノンワーキングリッチ」が税金による高給を喰んでいるのが実態である。

4、地方自治法二〇三条2項は、非常勤特別職の報酬を、「日数に応じてこれを支給する」と決めている。国家公務員の「一般職の職員の給与に関する法律」二二条(非常勤職員の給与)も同様である。

 しかし、地方自治法は、二〇三条2項但書で、条例で特別の定めをすることを認めている。これは、非常勤の特別職にも、常勤の職員と同じ勤務実態があるものもいることから、それに対応するために、月額制をとることを認めているものである。

 しかし、労働委員や収用委員、選挙管理委員のように、常勤の職員と同じ勤務実態ではなく、日当制にできるのに(現に、富山、福井、山梨、長野の四件は、収用委員は日額で支給している。)、月額制にするのは、法律が条例に授権したことに悪乗りして、月額制という「鬼っ子」を産んだのである。法律が日額制を原則としているのに月額制にするのは、条例への授権の範囲を逸脱するから、条例は違法無効であり、月額製による支出は違法である。

 ちなみに、国家公務員の非常勤委員は、一日三七九〇〇円以下の日当(手当)制であり、司法試験委員は、委員手当二二〇〇〇円、答案検査は一通四〇〇円で、最低賃金やパートの賃金より少ない。

5、私は、二一年間の県議時代に、この種の条例の違法性には何の疑問も抱かなかった。県議OB、弁護士、連合の役員は、これら各種委員の指定席(ジッツ)であった。いくら長期に議員をしていても、知事野党にはおはちが回らなかった。

 「こんな暇でうまい公務がある」ことを新聞に知らせたのに、書くきっかけがないので、監査請求をしてくれという。そこで、あらためて地方自治法を読んでみて、その違法性に気付いて監査請求をし、本人訴訟をした。

 全国の都道府県や市町村で同様の条例(特別職の職員の給与等に関する条例)で二〇万円以上の月額制を決めている。地方自治法二〇三条2項但書の条例の違法性については、判例はもちろん、文献もない。わずかに、自民党政務調査会司法制度調査会が平成一九年三月に出した「21世紀にふさわしい準司法手続きの確立を目指して」において、「処理件数が少ないのに高給をもらっている準司法機関は費用対効果の点で問題があり、納税者の納得が得られない」という問題提起だけである。勝訴の初判例が取れれば、「民主的行政改革」を滋賀から全国に発信することになるだろう。



『布施辰治の生涯と朝鮮』(大石進・講演)について

東京支部  上 田 誠 吉

一、はじめに

 自由法曹団の創設者のひとりで、その独特で旺盛な活動によって巨大な足跡を残した弁護士布施辰治(一八八〇〜一九五三)の孫にあたる大石進氏(日本評論社会長)が祖父の生涯と活動について講演した記録が印刷されて、一読する機会を得た。大石氏は高麗博物館が二〇〇七年八月一一日に東京・新宿西教会で主催した講演会で、記録にすると四百字詰め用紙で約九〇枚位に達する詳しい講演をされた。

 この講演は、大石氏が従来は祖父について『個人的な思い』を語るに止めてきたが、このときは「大きな演題」を与えられたのに応えて、はじめて詳細に祖父の「生涯と朝鮮」について語った貴重な記録となった。筆者はこの記録にふれて感銘を受けたことが多い。その一端を記述し、あわせて筆者周辺の布施をめぐる諸事情も加えて、大石氏の貴重な記録の紹介にかえる。

二、「独立の共和政体」への共感

 布施は「自己革命の告白」(一九二〇年)ののち、東京市電従業員のストライキ弾圧事件の弁護などを経て、朝鮮人青年の在日留学生たちが一九一九年に発した「二八独立宣言事件」の弁護にあたる。これが布施の朝鮮人弁護の最初であった。この宣言は、独立宣言としては先駆的なもので、「布施は自己の弁護する朝鮮の青年たちが、単に日本帝国の不当な支配からの脱却を目的とするだけでなく、そのあとにくる政体として、大韓帝国の復活ではなく共和政体の国を作るという民主主義への志向をもっていたこと、そして新しくできる国は、中国王朝の支配の及ばない完全な独立国でなければならないと考えていることを知って、我が意を得たと思ったのではないでしょうか」という。この考察は布施の心事に一歩立ち入ったもので、独立の共和政体の樹立に朝鮮独立運動の志を感得したとすれば、布施には一九二〇年代初頭の日本人の理解として抜群のものがあったと云うべきであろう。そこには、戦後の日本で、日本国憲法とともに歩んできた世代にも通ずる独立共和政体への志向にも共通するものがあって、大石氏もその趣旨の感慨を述べているが、ここまでの拡がりをもって布施の朝鮮独立運動への共感を論ずるのは、大石氏の説明にもやや不足の感があって、戦後の日本の世代の情感に引き寄せすぎているかも知れない。しかしこの大石氏の問題提起は重要なことで、一九二〇年代初頭の布施の朝鮮独立運動への共感のなかみに踏み込んでみることは、その後の布施の歩みを確かめるうえで有益なことであるにちがいない。

三、大震災と朝鮮人虐殺

 この大石稿の最良の達成は、関東大震災(一九二三)と朝鮮人虐殺に関連して、布施の尽力をひろく描き出したことである。筆者は、「自由法曹団物語」(一九六六刊、労働旬報社)、「自由法曹団物語・戦前編」(一九六七刊、日本評論社)で、この部分の拙い稿を執筆したので、恥ずかしい思いをこめながら一層その感を深くするのだが、大石稿はこの日本近代史の闇の部分に迫って、史料、資料を渉猟し、これらを縦横につかって、しかも温かい眼でやや情感をこめながら描ききっている。筆者は大石稿のこの努力に敬意と謝意を表する。

 とくにすぐれた記述は、亀戸事件と朝鮮人虐殺事件とのからみ合いの仕組みと、両者が表裏をなした一体の事件であったことを明らかにしたことである。「朝鮮人の行方の目撃証人である労働者=主義者一〇名と、警察・軍隊のもっとも密接な共犯者であった自警団四名の口をふさいだのが、いわゆる亀戸事件なのであって、もっと大きな犯罪、朝鮮人虐殺がこの事件の裏に隠されている。」そして「大杉栄事件、亀戸事件が明らかになると、日本のマス・コミは、また労働組合や左翼の結社なども、関心はこちらに集中して、朝鮮人虐殺や中国人(王希天)虐殺などへの非難の声が弱まったことです。」

 もうひとつ、大石稿の指摘のすぐれた点は、大震災のときの大弾圧にあたった政府当局者の動きを追って、軍隊の出動と戒厳令の施行がこの弾圧の決め手となったことを明らかにしていることである。そして、何千人もの虐殺の手を下した最悪の犯人は、軍隊であった。

 自由法曹団の活動としては、布施の提唱で早くも一九二三年九月二〇日に「第一回震災善後策会議」をひらき、「震災中における朝鮮人虐殺の真相及びその責任に関する件」の調査のための「六項目」を整理しており、一年後の一九二四年九月に「中間報告」を発表している。この「中間報告」も右の六項目に沿ったもので、布施によると虐殺された人の数は、「官権発表の数は一桁少ない」、「官権発表の三〇〇人を一桁あげると三〇〇〇人という数が出ます。布施の推測はこのあたりだったのではないか」としている。

 大震災と虐殺については、最近その研究がすすんで、大石氏はこれらを十分に活用している。史料の豊富な引用という点では加藤文三著「亀戸事件・隠された権力犯罪」(一九九一刊、大月書店)がすぐれており、これには自由法曹団が作った二四通の聴取書も含まれている。

 なお、布施は朝鮮に四回、台湾に二回にわたって訪問して、現地の運動への支援をおこなっているが、大石氏はこれらについても精一杯くわしく記述している。とくに台湾での通訳の役目を果たした農民運動家、簡吉との交友を描いた筆致は優しい。

四、布施自身の受難

 布施に対しては一九三二年一一月、弁護士除名の懲戒裁判が確定する。治維法違反の大阪地裁での裁判闘争における言動を理由とするが、この懲戒裁判の東京控訴院、大審院における審理では、「画期的な」「円卓法廷」の闘争が展開された。さらに一九三三年三月には新聞紙法違反で禁固三ヶ月の刑が確定し、これの服役を終えて釈放直後の九月に労農弁護団事件で検挙、治維法違反で起訴され、一九三九年五月に懲役二年が確定し、一九四〇年五月まで服役した。釈放後、疎開して神奈川県逗子に「蟄居」する。やがて直孫の大石進氏も祖父方に疎開する。そして一九四四年二月、布施の三男杜生が治維法違反で拘束されたまま、京都の山科監獄で獄死した。布施は「最大の悲しみ」を余儀なくされる。この辺りでは、布施と大石氏の個人史は、祖父と孫のそれとして相重なることになる。

五、前進座の公演と学習会

 ことし(二〇〇七)三月二十日から二五日まで、劇団前進座は、「生くべくんば死すべくんば 弁護士布施辰治」と題した演劇を公演した。三月二一日には、筆者を含む自由法曹団の弁護士多数が鑑賞した。そして六月二日には、筆者の所属する東京合同法律事務所は布施柑治著「ある弁護士の生涯ー布施辰治ー」をとりあげて学習会をおこなった。テーマは「権力との対峙とは」という題で、テキストには前記布施柑治著のほかに岡部保男の提供した「榎井村再審事件の裁判官忌避申立資料」と、筆者の講演録「司法の行方を考える」を加えていたので、かえって焦点がぼやけたうらみがあったが、それにしても初めて布施辰治の生涯にふれる青年たちを含めて、弁護士、事務局員のほぼ全員がレポートを提出し、熱心に討論に参加した。

六、「入会紀行」地代論

 その席で、筆者はおよそ次のような発言をした。

 布施の生涯については「トルストイの弟子として」「社会主義弁護士≠ニ呼ばれて」(布施柑治)などといわれたり、「人道主義」、「戦闘的人道主義」(森正)といわれたりしているが、明治、大正、昭和と進むにしたがって次第に左翼への関心を強め、弾圧をうけながら、これと進んで闘って、やがて日本共産党を正視する政治的立場を鮮明にしていった。実際、二度にわたって弁護士資格を奪われ、戦後を含めれば二度にわたってこれを回復し、二度にわたって刑務所に捕われ、ついに愛する息子の命を奪われる悲運を経験しながら、戦争と反動の嵐が強まれば強まるほど、自分の位置を左に定めていったその強靱な精神と肉体は、なにによって支えられていたのだろうか。これを解くことは至難だが、ひとつ思い当たることがある。それは布施の「奥の入会紀行」のなかの記述である。この文章は、一九三〇年六月二五日から七月一四日まで、岩手県北部の山村に入り、山村民の家を泊まり歩き、この地域の入会慣行や山村生活の実際にふれながら、未実現の入会権の地主との和解の実行を迫った。「紀行」はその山村行の詳細な記録である。

 筆者は、石巻文化センターがその研究報告八号で「紀行」全文を刊行した記録を庄司捷彦弁護士の好意で贈って頂いたものを読んでいる。

 その七月一四日の部分は、この旅行の最後の日のやや感慨をこめた叙述になっているが、筆者はそこに一条の光をみる。布施は「私の生活を顧みると、前半の二十年を土の中に暮らして居り、後の三十年を土地争議の弁護士活動に暮らして居る。そして借地借家人運動では、都会の住宅争議を通じて観た、土地の使用地代について、農民運動では、小作争議を通じて観た、土地の農耕収益について、入会事件では、毛上目的の管理採取について、更に漁民騒擾事件や、鉱山ストライキを通じて観た、地中海上等の土地使用収益形態に教へられた、幾多の実感を体験している。……そこには、土地を繞ぐる人心の動きが、最初の土地使用収益形態から最後のそれ迄、一本の線を引いてゐるものの如くに考へられる」。布施は「只一点の目標を、一部少数者に依る先占的土地所有制度の不合理に向けてゐるのであるが、最近二年の読書生活中、いろんな本を漁り読んだが、落ち行く先のすべては『地代論』であり、私直面のテーマである『土地制度の研究』であった」。「土地制度については世界的に喧しい地代論がある。だが、私は、まだ私の腑に落ちるやうな所まで研究を徹底した理論を見たことがない」。「私は今後に約束される長生と精力が続く限り、飽迄古今を貫く地代論の一線を掴み上げて見たい」。「私は飽迄、大衆の中の一人なのだ。絶対に大衆の中を突き抜けて急進するやうな軽率を、敢て冒してはいけないのだ。もっとも苦しむ者の為にと云ふ心持ちは、やはり最も遅れたる者を見返って之を置き去りにしない心持でなければならないのだ。世界中に一人だって見殺しにされていい人類がいないと仝時に、正しい文化には一人だって置き去りにされていい人類がないのだ。午後七時五分、上野着、子供達に迎えられた」。

 布施は自分の弁護士としての活動を「土地争議」として総括する。そして各種の争議の分野ごとにそれを分説し、すべては土地の使用収益権の擁護につきることを指摘する。つまり価値論でいえば土地の使用価値をめぐる争議である。その価値を貨幣価値ではかるとそれは地代である。地代の根源とその量定が地代論の分野である。

 そこで布施の「落ち行く先」は地代論であるが、しかし「世界的に喧しい地代論」はやまほどあるが、布施は未だ納得のいく地代論に行きあたったことがない。これをきわめることが布施の「大衆の一人」としての今後の生涯の課題である。

 布施は自分の仕事を地代論と結びつけて、これを一般化、普遍化しようとしている。そして難解きわまる地代論、とりわけ難しい森林地代論に挑もうとしている。布施には社会科学への信頼がある。この関心がつづく限り、一事の反動や戦争の機運に動いたり、揺れたりすることはあるまい。

 私の述べたことはおよそ以上のとおりであったが、当初の設定された課題自体が大きすぎるので、筆者の説明もまた説明不足であることを認めざるをえないが、大石稿もその最終の章節は「おわりにー布施辰治の活動力の源泉はなんだったか」となっていて、筆者の関心と共通する問いかけをしている。そして「トルストイだの墨子だのといった小道具なしで、彼の生涯の行動は十分説明できていると思っています」と結んでいる。トルストイを「小道具」というのには、もう一つ説明がほしかったような気がするが、どんなものだろう。

七、「夢」

最後に大石氏は「夢」を語る。日本の朝鮮併呑一〇〇年にあたる二〇一〇年に南北朝鮮が一つになる話し合いがはじまり、二〇一五年の光復七〇年にそれがまとまり、二〇一九年の一〇〇回目の三一記念日に「一つの民主主義国家が朝鮮半島に新生する」。そのとき、大石氏は祖父布施辰治と一緒に「万歳(マンセイ)」を叫びたいと。筆者もまたそのあとにつづいて、祝福の声をあげたい。

 なお、大石稿は自由法曹団の諸兄姉にひろく読んで頂けるような方法について、団執行部で検討している。



夏入り  岩魚釣りの宿

東京支部  中 野 直 樹

 パジェロにテント・寝袋、野炊道具、食料、そして釣り道具を満載し、深夜の東北道をひた走る。ハンドルを握らぬ者は首都高を抜けるあたりで缶ビールをあけ、蓮田SAでトイレ休憩。那須をすぎる二時頃には眠りにつく。運転をする者は、ここからが試練である。疲れと眠気が忍び寄る蔵王山麓の村田インターを過ぎると仙台への急勾配の下りカーブの連続となる。闇夜から路側帯の白線が目先に迫ってくる感覚で、緊張が目に張りつき、ハンドルを握る手に汗がにじむ。東北道で一番の難所である。

 古川あたりから朝まだきの東北道はほぼ直線状態となる。通行車両はぐっと減り、テールランプもヘッドライトも見えない走行が数分間続くこともある。やがて東の空にうすく光が浮かんだ思うと、ゆっくりと空が紫色に変わる。夜明けである。

 最寄りのインターを降りた後も、めざす渓まで一〜二時間のふんばりをしなければならない。林道に入り、若葉青葉を通して渓水の砕ける音、小鳥のさえずりを耳にしてようやく安堵。車止めに着くと、ビールで安着祝いの乾杯をしながら、釣り装束に着替え、インスタントラーメンで朝食とし、薮に入ってキジ撃ちを済ませ、自慢の竿を伸ばして岩魚に求愛開始。

 このようなハードな往路をたどる、八王子合同法律事務所の齋藤・佐治団員と国民救援会町田支部の佐藤さんのSトリオと私の釣り旅は、秋田県森吉山、神室山地、鳥海山、岩手県の早池峰、和賀岳・焼石岳、宮城県の栗駒山系、山形県の朝日山地などの岩魚の渓にたくさんの踏み跡を残した。夜は山中の水辺にキャンプ地を探し、焚き火を囲んで語らいながらの宴会。何の料理にもニンニク仕込みで、寝袋にもぐった後出てしまうおならが、やはりニンニクなのである。谷を転戦しながら二〜三泊もすると、身体も荷物も車内もすべて汗と岩魚の生臭さとニンニク臭が染みつき、当人たちは臭覚が麻痺するが、自宅で迎える家族は、思わず手が鼻をつまんでしまう有様である。

 こんな野趣溢れるさすらい型釣り旅も、重ねる齢に勝てず、佐藤さんが定年退職となった二〇世紀最後の年に終止符となった。

 Sトリオは六〇才台の釣り旅をベースキャンプ型にギアチェンジした。東北の湯けむりの地には、自炊の湯治宿がある。そんな一つ、昭和元年に建てられた木造の湯治宿に食料を持ち込み、ここを定宿に幾つかの渓を釣るスタイルになった。出発も午前五時となった。

 二〇〇七年初夏、私は単独でこのコースに出かけた。午前一一時ころ、めざす川の林道車止めに着いた。仲間はいないが、缶ビールを抜いて安着の感謝の念をこめて吹き出す泡を大地にふりまいた。春先には一面カタクリの花が咲きつめる廃林道の薮をかき分けて三〇分ほど進むと堰堤があり、その少し上流で荷をおろし、いつもどおり切り餅入りラーメンの昼食をとった。

 この谷はブナの若木の森である。あちこちに炭焼き跡が点在し、自然石に「山の神」と刻んだ碑が鎮座する。今日は右岸の枝沢を攻めることにした。この枝沢は、入り口が荒れており、本流への注ぎ口の水量もちょろちょろと貧弱な相である。川虫を投じるとすぐにぎやかなアタリがあり、仕掛けを右へ左へと忙しく引っ張る。ははんと思いながら、合わせをしないで竿をあげると、やはり中指ほどの大きさのわんぱくじゃりんこが自らの頭よりも大きい川虫に食らいついて宙吊りとなり、やがて事態を察知して驚いて口を開けポチャンと流れに落ちた。こんなことが幾度か繰り返され、流れが右に曲がり、さらに左に曲がるあたりから、手応えがあるアタリがきたので今度はエイと合わせて竿を大きく振ると、一五センチに満たない岩魚が勢いあまって空を飛び、そのまま木枝で鉄棒の大車輪よろしく巻き付いてしまった。欲求に増幅されたイメージの仕業である。釣り歴一七年の看板が泣いてしまう。さらにその先二〇〜三〇メートルほどまったくアタリがなくなってしまった。ここらあたりでこの渓に見切りをつけ本流に戻ろうか、心が迷う。実際にUターンをする釣り人が多いと思う。実は、このあきらめの地の存在が、この小渓の岩魚天国のポイントとなっている。

 忍の一字で、崖地の右岸を洗いながら左カーブに流れる平沢を踏み、さらに歩むと明らかに水量が増えてきて、落ち込みと溜まりに変相してきた。ここらあたりから水流が、地表面を流れるものと地中を流れる伏流水に分かれているようである。

 待望のアタリが出始めた。鉤合わせをすると力強い反転が竿を弓なりにする。小さなポイントが連続し、それに正比例して魚籠の丸い入り口に岩魚が落ちるようになった。やがてSトリオの引き返し地点の流れ滝が見えてきた。両岸が岩盤で、最上部が水路のように狭まり、そこから溢れる水が扇状に広がりながら岩板を滑り落ちてくる。左右の岩盤に張り付く緑苔のなかに白いレースをかけたようである。落ち込みは、左岸に沿って白濁の水流が勢いよく流れるが、右岸側は川面が落ち着いて緑苔を映している。そこに餌を投げ入れた。Sトリオからは尺ものポイントと聞いているだけに期待に胸が風船のようだ。そらきた。竿先が右側に強く引かれた。すかさず手首で合わせて、ためらいなく一気に引き抜いて、手前左の草むらに向けて放り投げた。その途端に鉤がはずれ竿先が天空に向かってはねた。岸辺に落ちた岩魚は反り返り、跳ね飛びながら水辺に戻ろうとしている。慌てて手で押さえにいったが、ぬめる岩魚の肌にお手玉をしてしまい、逃がした。岩魚は、砂地面を蛇のようにくねりながら前進し、水中に消えていった。残映鮮やかな大岩魚だった。幾回もの釣り人の挑戦を退けてきたしたたかさに負けた。

竿をしまい、左岸を薮こぎしながら高巻く。けもの道らしきものにしたがい滝の上に降りた。ここから上は、渓相はV字に刻まれる山岳の峪となってきた。両側の斜面からブナの若葉が回廊のようにかぶさり、まるで黄緑色のセロファン紙を通して見える世界である。落差が大きくなった渓を走る水が、岩にはじけ、岩をぬらし、静寂を破りながら、静寂にとけこむ。青い水をたたえる淵の連続となり、慎重に岩の割れ目に足場を確保し、時には倒木渡りをしながら、仕掛けを投ずると小気味よいリズムで岩魚が跳ねる。魚影が濃いと、放流サイズは順番待ちとなるものなのか、鉤がかりすることはない。

 やがて前方に一五メートルほどの滝が見えてきた。手前を釣りながら近づくと、右手に、もうひとつ二段の滝があった。並んで二又の滝となっているのは珍しい。右手の滝壺でさらに数尾仕留めた。ここが魚止めの滝だろうか。左岸を高巻きして上流を探りたい衝動にかられたが、三時すぎとなり、帰りを急がねばならない。満杯となった魚籠から岩魚を取り出し、腹を割き、腑、エラ等をていねいに取り除いた。この始末も釣りの大事な一部である。東北の梅雨明けは遅く、帰路には空が泣き始めた。身体に粘り着くような霧が立ち込めてちょっと先も見えなくなり、突然ぬっと熊が現れないか不安に駆られ、呼び子を吹き鳴らした。

 定宿のおかみさんに声をかけ、別館に自炊道具を運び込んだ。八五年の時代を重ねた木造建物は、木窓、障子戸、欄間、床の間、火鉢・・アンティークこの上ない風情である。一人できたときのいつもの一〇畳間を与えられた。住込みのおばさんが、いつものしゃがれ声で釣れたかねとあいさつにくる。荷物を運び上げていると、温泉からあがった様子のおばあちゃんが、上半身裸体のまま、廊下を買物用の手押し車を押しながら歩いている。前にきたときもこのタイミングだった。この方は、息子夫婦との共同生活の家を避けて、この自炊宿で長期間生活をしているそうだ。春先にみかけた六〇歳頃のおじさんが、これから湯につかるのか、階段をゆっくりと下りてきた。脳梗塞になり、右半身に障害が残ってしまい、月に一回一〇日ほど湯治にきているとのこと。最初見かけたときは壁に右手をかけながら危なげに歩いておられたが、今回は、見た目にも身体の動きがよくなっておられた。それぞれの人生は知らないが、ここにはあわただしくない時間の流れがある。

運び込みが終わると、まず、釣果の岩魚を水洗いし、ラップに包む作業に取り組み。缶ビールを話し相手に、二〇〜三〇分、ぬめる岩魚をタオルで水切りながら丁寧に包む。包装した岩魚は廊下にある共用冷蔵庫の冷凍庫に入れる。次に米研ぎである。この宿にはお釜があり、文字通り釜飯を炊く準備である。ここまでやってようやく湯屋へ。源泉かけ流しの湯は、熱湯で、ぬる湯派の私にはしばし地獄湯である。弱アルカリ性で、頭や目の病気に効用ありとの説明がある。

 吹き出す汗をふきふき、一〇円を入れると三分間使用できる時代物のガス装置に火をつけ、米釜をかけた。大きな木蓋をのせて、はじめちょろちょろ、中パッパと唱えて、火加減を調整しながら、釜中の音と湯気の匂いに集中していると、暗闇を通して、森を渡る風音のうなりが聞こえた。気をとられた瞬間、ふっと脳裏に、棲みかに逃げこむ岩魚の残像が浮かんだ。と、大風が窓を将棋倒しのようにガタガタと震わせながら、走り去った。