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井上 正信

「警察活動」なら自衛隊の海外軍事活動は九条に違反しないのか

毛利 正道

海賊対処法案は、どこが憲法違反か

広田 次男

八ッ場ダム訴訟(東京地裁敗訴の報告)

川人  博

六・四 天安門事件から二〇年
中国における人権を考える法律家の集いのご案内



「警察活動」なら自衛隊の海外軍事活動は九条に違反しないのか

広島支部  井 上 正 信

 〇九年五月集会特別報告集において、東京支部田中隆団員が「ソマリア沖海賊問題と『非対称の戦争』」と題して、貴重な問題提起をされている。私は分科会において、彼の指摘を今後団内部で深める議論をするとともに、憲法学者や憲法運動へ提起することが必要だと発言した。

 分科会への参加者は一〇〇名程度なので、この貴重な問題提起を団内に広げるために、私の見解を団通信へ投稿することにした。

 できれば、田中隆団員からも投稿をお願いしたい。

 海賊問題は、これまでの政府解釈を前提にすれば国際紛争での武力行使ないし武器使用には該当しないということになる。政府解釈による武力行使の定義は、「我が国の物的・人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為」とされている。

 では、国際紛争についての政府解釈は「国家または国に準ずる組織の間で特定の問題について意見を異にし、互いに己の意見を主張して譲らず、対立している状態」をいうとしている。

 つまり、夜盗・追いはぎの類は国際的な武力紛争の主体ではないので、彼らと交戦しても武力行使には該当しないというのである。

 ところで、ソ連崩壊後の米国やその同盟国の軍事戦略は大きく変わった。もはや本格的な国家間の武力紛争は想定していない。国家安全保障に対する脅威は、テロ・大量破壊兵器の拡散、麻薬や海賊などの国際犯罪である(非対称的脅威とも称する)。クリントン政権下で進められ、ブッシュ政権で確立された、米国の国家安全保障戦略、軍事戦略は、この脅威に対応するものである。

 二〇〇四年一二月に閣議決定された新防衛計画大綱は、これらの脅威を「新たな脅威」とし、我が国に対する本格的な武力侵攻の可能性は低下したとして、「新たな脅威」に対する「新しい安全保障政策」を打ち出した。新防衛計画大綱を策定するため、防衛庁(当時)内部に防衛力のあり方検討会議を立ち上げた(二〇〇二年九月)。その「まとめ」(二〇〇四年一一月)では、新しい安全保障環境について、国際テロや大量破壊兵器・弾道ミサイルの拡散の脅威とともに、「テロ活動、海賊行為等の各種不法行為や緊急事態などが安全保障上重要な問題となっている」と述べている。

 ソマリア沖への自衛隊派遣は、この政策を実行しているのである。

 日米防衛政策見直し協議(一般には米軍再編と呼称)による日米同盟の再編強化の直接の背景にはこのような認識がある。

 すなわち、軍事的対応を要する二一世紀の脅威には、海賊等の国際的不法行為がきちんと位置づけられているのである。我が国の新しい安全保障政策を実行するため、防衛庁が防衛省に「昇格」させられ、自衛隊法第三条に二項が追加されて、国際平和協力活動が自衛隊の本来任務とされたのである。

 このような背景の中で、私たちはこれまでの九条解釈では対応できなくなっていることを率直に見つめなければならない。これからの自衛隊の海外軍事活動の主流は、ソマリア沖の海賊対策のような活動が含まれるということを踏まえた九条解釈を打ち出さなければならない。

 加えて、政府解釈の二元論(武力行使と武器使用、派兵と派遣、戦闘地域と非戦闘地域、他国の武力行使との一体化論、多国籍軍への参加と協力等)に安易に寄りかかった解釈をやめなければならない。そもそも、この区別自体曖昧であり(そのことは二〇〇八年四月一七日名古屋高裁判決が示している)、なによりも自衛隊は、海外での活動を軍事秘密を盾にして、国会、マスコミ、国民へ説明することを拒否し続けているので、このような政府解釈ではもはや、自衛隊の海外活動に九条の規範力を行使することは不可能である。

 ではどうするのか。海外での自衛隊の軍事活動を率直にみる必要がある。この点は、五月集会特別報告集の田中団員の論考や、団意見書を参照されたい。

 ソマリア沖への自衛隊派遣や海賊対策新法は、恒久法への突破口とみることは事態を誤るであろう。このような見方は、任務遂行のための武器使用を規定したのは、将来の恒久法制定の地ならしとしてしか見ていない。任務遂行のための武器使用規定を入れたのは、ソマリア沖での海賊対策がそれだけ危険な任務であるから、これまでの海外派遣法制の武器使用権限規定では、自衛官が安全に任務遂行ができないからだ。

 ソマリア沖海賊問題で一連の安保理決議がなされているが、いずれも「第七章の下で行動し」という一文が入っている。このことは、ソマリア沖で任務に就いている各国の水上艦艇は、武力行使を前提にしていることを示している。

 私は、自衛隊がなぜ合憲とされているかという根本問題に、もう一度立ち返る必要があると考える(むろん私は自衛隊違憲論者だが)。自衛隊は我が国に対する武力攻撃が発生した場合に、我が国防衛のため個別的自衛権を行使する目的で設立され、かつその目的のためにのみ存在が認められているという解釈を、厳格に堅持する必要があると考える。さもないと、武力行使ではないから、自衛隊を海外で有効に活用しても、役に立つのであればかまわないという立場に立てば、もはや九条の意義は失われるであろう。



海賊対処法案は、どこが憲法違反か

長野県支部  毛 利 正 道

 この号に掲載されている井上団員の提起を受け、五月集会に向けた長野県支部報告集に掲載した私の論説の一部を、団通信に投稿します(この論説は、五月二日に脱稿したもので一部手直しの必要もありますが、論旨には変更ないので省略と明記したところ以外は全文そのままを掲載します)。

どこまで明らかになっているか

   省 略

警察活動なら「武力による威嚇や武力行使」が憲法上許されるのか

 海賊対処法案とこれに伴う自衛隊法改正法案により、自衛隊が海賊船の捜索・押収・差押え・逮捕などの警察活動を堂々とできるようになる。他方で、PKO協力法・テロ特措法・イラク特措法などこれまでの自衛隊海外派兵法に必ず規定されていた「武力による威嚇ならびに武力の行使はこれを認めない」との条項が、この法案には存在していない。

 すなわち、海賊対処行動は、警察活動であって軍事行動ではないから、「武力による威嚇ならびに武力の行使」もできるとの論理が貫かれている。政府も警察活動であることを合憲論の最大の根拠としている。これが、この法案に反対する国民がいまだ少ない最大の理由でもあろう。

 軍事行動=戦争・武力行使と、警察活動とはどこが異なるのか。アフガニスタンでは、九・一一同時テロ直後からアメリカ軍などが武力攻撃を加えたが、アフガニスタンのタリバン政権が崩壊した時点までが戦争であり、二〇〇一年一二月にアメリカの傀儡とも言えるカルザイ政権が成立した以降は、タリバンなどの武装勢力に対する掃討作戦は、時の権力者による犯罪者集団取締り行動=警察活動とも言える。

 イラクでも、フセイン政権が崩壊した二〇〇三年五月一日以降は、これもアメリカの傀儡とも言える政権による武装勢力という犯罪者集団取締り行動であるとも言える。

 このような角度でみると、現代では、国家対国家による武力行使=戦争という事態は稀になっており、世界における武力紛争の多くが、一応成立している政権とその政権に刃向かう武装勢力との戦闘という様相を伴っている。これは、政権側から見ると、殺人・放火・器物損壊などを犯した犯罪者集団を取締る活動であって、警察活動であると言えなくもない。

 また、日本でも、有事法制によって犯罪行為である「テロ」に自衛隊が出動するようになっており、軍事行動と警察活動との境目が流動的になっている。

 日本国憲法が、国家対国家の戦争や武力紛争だけを禁止しているとなれば、自衛隊が世界中どこに行ってどんな警察活動をしても自由ということになる。

 そんな解釈が成立する余地があるだろうか。

 日本は、明治初年以来七一年に及ぶ対外軍事行動で、戦争によって相手国の政権から権力を奪っただけでなく、相手国民衆による抵抗運動を徹底的に取締り民衆を殲滅していった。一九〇五年の「第二次日朝保護条約」以降の八年間で、一万七九九九名の朝鮮抗日勢力を殲滅。台湾でも、一八九五年に植民地にしたあと、二〇年間にわたって一万七〇〇〇名以上の抗日勢力を殲滅。一九三二年の「満州国」建国後も「匪賊」取締り名目で抗日勢力を殲滅(住民三〇〇〇名を殲滅した平頂山事件を見よ)。一九三七年からの日中戦争では、占領した華北などで中国側から「三光作戦」と呼ばれた夥(おびただ)しい抗日勢力殲滅作戦を遂行した。これらは、日本にとっては、犯罪者集団掃討作戦という警察活動でもあった。

 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることにないようにすることを決意し」て(前文)、制定された日本国憲法がこれらの事態を視野に入れなかったとうことなど決してあり得ない。「全世界の国民が平和のうちに生きる権利を有する」と前文で明記し、併せて、「生命に対する国民の権利については、最大の尊重を必要とする」と一三条で明記してもいる。自国他国双方国民の生きる権利を奪う、軍隊による一切の武力行使を禁圧したとみるべきである。従って、憲法九条は、名目が警察活動であろうがなかろうが、実質的に武力による威嚇ならびに武力の行使にあたる事態を禁止したとみるべきである。

 ソマリア沖に派遣された自衛艦二隻は、大砲を持つ巨艦であって、海賊にとっては、「武力によって威嚇されている」と受け取ること必定であり、したがって、「武力による威嚇」を目的にして派遣されたものであること明白である。また、(1)海賊を逮捕するため、(2)海賊の逃亡を防止するため、(3)警告を無視して接近することを防ぐため、これらいずれの場合にも、海賊艦船を狙って「大砲」や機関銃を撃つことができる((3)は新法下でのみ可能)。したがって、武力の行使を任務として派遣されるものであることも明らかである。前記したとおり、これまでのどの海外派兵法にもあった「武力による威嚇ならびに武力の行使は認めない」との規定が今回の法案には存在していないことも併せれば、今回のソマリア派遣が憲法九条第一項で禁止されている「武力による威嚇ならびに武力の行使」にあたることを否定することはできない。

 日本政府は、憲法で禁止されている「武力の行使」とは、自衛隊による「国または国に準ずる組織との間で生ずる一国の国内問題にとどまらない武力を用いた争い」だとして、「武力行使」にあたる場合を極力押し縮めようとしている。しかし、ソマリア沖海賊は、ロケット砲を駆使し使用している艦船もはるか洋上まで乗り出して大型商船を襲えるだけの規模であり、決して単なる集団強盗にとどまるものではない。

 前記のように、日本国憲法が抗日勢力掃討作戦に対する反省も含んでいると見る以上、その抗日勢力を敢えて小規模のものと大規模のものに区分して、前者の「小規模の抗日勢力に対する掃討作戦」は、「武力の行使」にあたらず憲法で禁止されていないなどと主張することが出来ようはずがない。そうであれば、一定規模になっているソマリア沖海賊に対する軍事行動が、「武力の行使」にあたると解すべきこと当然である。

どのように憲法違反か

一 武力の行使にあたる 九条第一項違反

 第一項は、「国際紛争を解決する手段としての」武力紛争のみを禁止する体裁になっている。しかし、この表現は、せいぜい純然たる自衛のための武力行使までは否定されないと解釈する余地を残すために挿入されたものでしかない。これを根拠として、遠くソマリア沖に海外派遣することを認めることができるものではない。ソマリア沖での海賊対処行動が、第一項に違反する「武力による威嚇または武力の行使」であることは明らかである。

二 禁止されている戦力にあたる 九条第二項違反

 日本政府の公権解釈は、「わが国を防衛するために必要最小限度の防衛力」は、第二項で保有を禁止されている「戦力」に該当しないというものであり、併せて、「武力による威嚇と武力行使を目的・任務とする自衛隊の海外派遣は、禁止されている戦力にあたる」というものである。海賊対処法案による自衛艦の派遣がこの「戦力」にあたり、したがって、この法案が九条第二項に違反するものであることも明らかである。

三 集団的自衛権の行使にあたる 九条第一項違反

 前記のとおり、ソマリア沖に派遣されている自衛艦は、多国籍軍によって構成されている「連合艦隊」の一員として行動しており、これまでにも現に、現行法の枠組みを超えて外国船を保護するために三回制圧に駆けつけている。当然今後、日本と関係のない船艦を、他国軍と共に防衛する場合も出てくる。それは、政府も否定している「集団的自衛権の行使」にあたる違憲行為である。

四 非軍事的手段でこそ

 海賊被害を防ぐには、ソマリアでの民生の安定と、ソマリアとその近隣諸国の警察力による海賊検挙活動の活性化が不可欠である。この海賊検挙活動とは、海賊を逮捕して裁判にかけて処罰することであり、現場で殺害することはほとんどない。

 他方、現在多国籍軍「連合艦隊」によって行われていることは、海賊船を武力で制圧し、時には海賊を殺害して戦闘能力を奪うことであって、逮捕して裁判にかけることは念頭にない。

 現に自衛艦には海賊の逮捕拘禁に不可欠な検察官・裁判官ともに乗船していない。このような殺傷を当然に伴う海賊対処行動では、現に海賊から報復攻撃宣言が出ているように泥沼化するだけである。それが、イラク・アフガニスタン戦争の大きな教訓であった。武力で平和は創れないのである。

地域ニュースレター「平和の種」二〇〇九年五月号のために



八ッ場ダム訴訟(東京地裁敗訴の報告)

東島支部  広 田 次 男
(全体原告団、弁護団、兼任事務局長)

 二〇〇九年五月一一日、東京地方裁判所は原告住民全面敗訴の判決を言い渡した。二〇〇四年一一月の六地裁一斉提訴から四年半を経て、六地裁のトップを切って言い渡された判決であった。精魂込めた裁判の敗訴は辛い。判決文を読み返すのは勿論、見るのさえ嫌だ。

 しかし、「勝訴の報告はしても敗訴の報告はできない」と思われるのは、もっと癪だ。以下に、思いつくままに判決の構造、特徴、今後の展望について報告する。

二 判決の構造

 二〇〇九年一月二八日の宇都宮地裁に於ける湯西川ダムの判決と同一である。即ち、地自法二四二条一項の解釈として、いわゆる「一日校長事件」をベースにして、先行行為に「重大且つ明白な瑕疵」がある場合には当該財務会計行為も違法性を有するとしたうえで、「瑕疵」の判断は行政の裁量であり「裁量の逸脱」が認められなければ財務会計行為の違法性は認められないとした。

 そして、以下の三点については却下とした。

(1)ダム使用設定予定者の地位には財産性はないから、申請を取り下げない行為は「財産の管理を怠る」行為とは言えない。

(2)被告都知事は支出命令権限を有していないから、ダム建設負担金の支出命令の差し止めを知事に求めることはできない。

(3)平成二〇年一一月二五日までになされた支出命令は既に実行されてしまったので、支出の差し止めは求められない。

 要は、湯西川判決の柱に、全て都側の主張を貼り付けただけの事である。

三 特徴その一

 判決を全体的に判断する時、最初から結論があったとしか思えない。判決文は最初から最後まで「裁量の逸脱は見られない」との趣旨の表現に満ち溢れている。如何にして東京都を勝たせる文章にするかという意向しか伝わってこない。

 四年半もの年月をかけて、(住民側に名を連ねた)三七人もの弁護士が精魂を傾けて、書面を作成し、書証を提出し、証人尋問をなし、そして、これに対して都側も弁護士および一八人もの指定代理人を繰り出して応戦してきた。

 第一回期日で、裁判長が原告らに対して「お上のやる事にマチガイはない。安んじて従いなさい」とでも宣えば、四年半ものエネルギーの消費は避けられたのではないか。

四 特徴その二

 都側を勝たせる判断の内容はどうなのか。最も特徴的な判断として、原告が主張したダムサイトの地すべりの危険性について、判決文八一項の一部を引用する。

 「貯水池周辺の地すべり対策は、これまでの調査に基づき、地すべり発生の可能性が高く、かつ地すべり対策の必要があると判断された箇所に限定して具体的な対策工事を計画した段階であって、現時点で具体的な対策がなされていない箇所ではおよそ対策工事をしないとするものではないから、現時点に於いて完成後のダムが危険であるというためには、地すべりの発生する可能性がある場所で、地すべりの発生を防止するために必要な対策工事を行うことが不可能であるか、そのような対策工事を行わないことが確定している場合に限られるというべきである。」

 判決によくある分かりづらい文章の典型であるが、要は「(地すべりの危険性はあるが)国が地すべり対策をやると言っているし、やらないとは言っていない」のだから信じなさいという事である。正に論証抜きの結論のみの押しつけである。

五 特徴その三

 「東京の水余り」は明らかである事、「都は水需要予想の下方修正を繰り返している事」を原告は具体的数値を示して部厚く論証した。これに対して判決は「東京は日本の首都であり、渇水などという事態は決してあってはならない」旨を強調し、他方「水は不足したら直ちに補えるといった類のものではない」とする。従って、現時点での数値にこだわる事なく、国家百年の大計の観点から治山治水を考えるべしとの趣旨になっている。

 確かに首都東京に於いて渇水などといった事態があってならない事は明らかである。しかし、だからこそ現時に於ける考えられる限りの科学的数値(勿論、それなりの余裕を含めた)を駆使して治山治水が検討されなければならないはずなのだ。その論証が本訴の本来的役割として私たちは位置づけ、論理を積み上げてきたのである。この論理を無視して「国家百年の大計」といった非論理性を優先させる事の誤りは明白である。

六 今後の事その一

 この後、六月二六には前橋地裁、その後水戸地裁(期日未定)と判決が予定されている。千葉地裁は六月二三日に結審予定、宇都宮地裁で証拠調べが決定し、さいたま地裁が証拠申請の段階にある。五地裁に於ける判決と進行、東京高裁に於ける本訴の控訴審、湯西川判決の控訴審と、進行状況は複雑に絡み合い、困難な判断を迫られる事になるだろう。

 しかし、残る五地裁のいずれかで「レンガ一個分を削り取るだけ」で八ッ場ダムは止まるのである。今回の東京地裁での仇を討つのは、いずれの地裁となるのか、はたまた〇勝六敗という結果になるのか。どこかで何とかしたいというのが原告団・弁護団の一致した気持ちである。

七 今後の事その二

 いかに不当な判決でも出されてしまえば、いくら悪態をついたところで、その効果は絶大である。特に本判決の、いわば論理を無視した「国家百年の大計」といった言葉で押し切られるとすれば、全ての大型公共事業を対象とした住民訴訟は「百戦して百敗」の結果となる。

 最初から斗いの困難性は覚悟して始めた裁判だけに、今回の判決により原告団・弁護団としても動揺は全く見られない。本件訴訟が「百戦百敗」の口火を切ったと言われる事だけは回避すべく、全力を尽くす覚悟である。



六・四 天安門事件から二〇年

中国における人権を考える法律家の集いのご案内

東京支部  川 人   博

 一九八九年六月四日、天安門広場に戦車が突入し、多くの若者の尊い命が奪われてから二〇年になろうとしています。

 中国国内では、数々の人権侵害がいまも続いていますが、他方で、「〇八憲章」署名活動など民主化をめざす勇気ある活動も繰り広げられています。

 私たち弁護士有志は、昨年四月二一日、在日チベット人の声に耳を傾ける法律家の集いを開催し、チベットをめぐる深刻な現状について学びました。

 このたび、下記の内容で、勉強し討議する場を設けました。

ご多忙のところと存じますが、ぜひご参集ください。

 六・四 天安門事件から二〇年
      中国における人権を考える法律家の集い

日 時 二〇〇九年六月四日(木)
     午後五時四五分開場受付
     六時〇〇分開会
     八時五〇分閉会

会 場 弁護士会館五階五〇九号室

講 師 緒形 康 氏 (神戸大学大学院人文学研究科教授)
     「天安門事件から二〇年 中国の人権と「〇八憲章」を考える」(仮題)
     中国研究者として著名な先生に神戸からお越しいただき、中国の人権問題の歴史・現状・将来を考えたいと思います。

ゲスト 在日チベット人の方から昨年以降の状況をお話いただきます。

参加費 一〇〇〇円 (学生・院生・ロー卒無料)