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小林 善亮
*二・四衆院比例定数削減を許さない学習会特集*
衆院比例定数削減を許さない学習・懇談会大成功
渡部 容子

比例定数削減学習会の感想

池田 眞規

中国問題についての私の意見

大久保 賢一

世界社会フォーラムに参加して

小林 善亮

沖縄・基地闘争交流集会に参加しました

岡村 親宜

〈本の紹介〉つり人社発行
故大森鋼三郎著 「渓悠遊万遊(たにゆうゆうばんゆう) 釣り狂ち弁護士の岩魚釣り人生」

永尾 廣久

「国民のための刑事法学」(中田直人著)をすすめる

宇賀神 直 中田直人さんを偲び、著作集の出版を記念する会



*二・四衆院比例定数削減を許さない学習会特集*

衆院比例定数削減を許さない学習・懇談会大成功

事務局次長  小 林 善 亮(衆院比例定数削減反対対策本部)

一 はじめに

 二月四日、衆議院の比例定数削を許さない学習・懇談会が団本部で開かれました。参加者は北海道から九州まで五〇人。第一部は「比例定数削減問題を考える」と題し、学習会を行い、第二部は「削減阻止に向けたたたかい」として、具体的な運動について交流・討論を行いました。

二 第一部「比例定数削減問題を考える」

 まず、特別報告として仁比聡平団員(前参議院議員)より、国会情勢ついて話しがありました。仁比団員は、経済同友会が「めざすべき『国のかたち』」として、衆議院を「政権選択の場」と位置づけ、議員四〇〇人(小選挙区三〇〇人、全国単位の比例一〇〇人)、参議院を「良識の府、道州代表」と位置づけ、議員一二〇〜一三〇人、道州単位の大選挙区制という姿を提言していることを紹介しました。これは、二大政党制や政権交代の結果が自分たちの思っていたようにいかない財界なりの焦りや問題意識の現れではないか、特に国会では、参議院の「一票の格差」是正という各党が反対できないテーマを使って、定数削減も実現しようとしていると指摘がありました。

 その後、「比例定数削減の問題点と本質」として、山口真美団員から比例定数が八〇削減された場合のシュミレーションや、改憲・消費税などを実現するというその狙いなどこの問題を考える上での基本知識の紹介があり、「情勢と展開」として田中隆団員から、これまでの経過や運動の展開、現在の情勢について報告がありました。長澤彰団員から、意見書「誤りです!国会議員ムダ論」を使いながら、比例定数削減議論の際に必ず話題となる、「国会議員ムダ論」や「国会議員が身を切る」との言説にいかに反論していくか話しがありました。第一部の最後は、松井繁明団員から「あるべき選挙制度」について、完全比例代表制を目指す場合の個人立候補者の制限をどう考えるかといった問題や、衆議院と参議院の役割についてどう整理するかといった問題について提起されました。

三 第二部「削減阻止に向けたたたかい」

 第二部では、比例定数削減阻止に向けての運動について交流・討論を行いました。一月二八日にこの問題でいち早く一〇〇〇人集会を成功させた大阪、昨年一一月に民主団体の中心メンバーを集めた学習会を開催し、そこから年末までに五万九〇〇〇筆の署名を集めるまでに盛り上がった埼玉、「比例定数削減を許さない宮城連絡会」立ち上げに向けて、国会議員要請や街頭宣伝などに地域の諸団体と共同行動を行っている宮城などから報告がありました。また、どう国民に訴えるかという観点では、「政権選択で『民意が集約される選挙』というのは、選挙が終わった段階で国会議員は数としてしか意味がなくなる。小選挙区制は、少数政党ではなく、民主主義が排除させると訴えるべき。」などの指摘がありました。討論は、あるべき選挙制度をどう考えるのかにも及び、中選挙区制の再評価をする意見が出されるなど、時間一杯活発な討論がなされました。

 衆院比例定数削減阻止対策本部から以下の行動提起を行いました。各地での学習宣伝活動を通じてこの問題を労働組合や民主団体にさらに知らせ、共同の運動をつくること。地方議会での反対決議や、地元議員要請の追及、選挙制度や政治資金、国会のあり方の積極的な討論、メーリングリストでの活動の交流などです。

 さらに、対策本部からこの日初お目見えのリーフ「STOP!比例定数削減 国民目線で選挙制度を考えよう」を普及(一部一五円)、三月一二日(土)午前一一時からの東京・マリオン前での宣伝活動への参加の呼びかけを行いました。皆様にも是非お願いいたします。

 この問題は、地域の運動がつくられてきましたが、まだまだ全国的に広がっているとは言えない状況です。この時期に、常幹にも匹敵する参加者を得て白熱した議論が行われたのはとても有意義でした。これからこの成果と運動を地域に広げる局面に入っていきます。引き続き頑張りましょう。


比例定数削減学習会の感想

宮城支部  渡 部 容 子

 二月四日に団本部で行われた「衆院比例定数削減を許さない学習・懇談会」に出席させて頂いた。

 冒頭、仁比聡平団員より「国会から見た政治改革策動」と題して特別報告がなされた。

 まず、下記の通り情勢に関する報告があった。

 「財界支配層が比例定数削減により何をねらっているのか、これは経済同友会HP掲載の『提言・意見書・報告書』に端的に現れている。財界にはこれまで頑張って二大政党制を作ってきたが、なかなか自分たちの思うようにならないという強い苛立ちがある。また、国民の間にも自らの一票・願いが政治に結びつかないという深い閉塞感がある。国会では、一票の格差の是正を呼び水にして、選挙制度改革の機関を作り、そこで比例定数削減をやろうとしている(これは民主党の議員総会で示されている)。衆議院は民意の集約、参議院は多様な民意の反映というスタンス、すなわち衆議院でマニフェスト選挙をして政権選択を行なわせ、参議院は貴族院化し、ねじれを防止することを狙っている。政治家の劣化に対する財界なりの危機感がある。この文書を読むと、財界流政治家を育てていきたいという意欲にあふれている。」

 次に、小選挙区制の話題となった。「衆院選挙は政権選択の選挙、政党がどのマニフェストをもっているかで選ぶ。そのため、議員がどこの誰なのか主張がどうなのかわからないまま、当選する。政党の人気が下がれば落ちる、政治家を使い捨てにしていく制度。」と問題点を明らかにし、「いま明らかになっている矛盾はそうやって大きくなってきたどちらの政党も私たちの願いを実現しないこと、議員が投票・選挙マシーンになっていることである。全国民の代表という議員本来の役割を果たせなくなっている。これは地方選挙、地方議員では顕著。」と述べられ、附に落ちた。

 そして、仁比団員からは元国会議員ならではの議員要請に関するポイントをご教示頂いた。「議員要請では、弁護士のつながりを生かし、議員本人に話を聞いてもらうことが大事。議員には、何をしてほしいかをきちんと伝えることが大事。請願署名の紹介議員になってほしいとか、こういう議員につないでほしいとか、相手を見極めて研究してのぞむことが大事。また、地元弁護士会が決議をあげ、パレードなどをすると効く。地方議会からも世論をつくっていき、超党派の運動を広げていく。」とのアドバイスに団員の役割は大きいと感じた。

 続いて、比例定数削減に関する詳細な問題点を分析したレジュメを基に数名の団員から、この問題の本質に迫る報告があった。非常に有益な資料だったので、ぜひ団本部から取り寄せ、ご覧頂きたい。

 その後、大阪、京都、埼玉などから、活発な活動報告があり、意見交換を行った。中でも、坂本修団員の「私たちの一票を、国会議員を、政治を取り返そう!と前向きに訴えることが大事。もっと悪くなる、じゃ広がらない。どういう選挙制度にするべきか訴えていかないと。」という言葉が印象的だった。民意が反映される政治にするためにこうしたらいいという夢を語っていく必要があると思う。私などは正直、世代的に中選挙区制の時代を知らない。よりよい選挙制度について再考し、若者にも伝えていくことが大切だと思った。

 この運動は非常に大変であるが、比例定数削減の策動は脈々と動いている。これが実現されたらどうなるのかをしっかり認識し、諦めないでやり抜くことが大事だと痛感した。


中国問題についての私の意見

東京支部  池 田 眞 規

 私は不勉強で「中国問題学習会」を知らなかった。この学習会について団通信一三七〇号で、小林団員、坂井団員,守川団員の投稿を読みました。「他の団員の意見も聞きたい」という守川団員の言もあったので、遅まきながら中国問題について私も興味があるので少しばかり意見を述べたい。

 現在の中国問題をどうとらえるか、について次のような観点から考えてみる必要がある、と思う。

第一 中国問題を考える観点

 中国と日本の少なくとも五世紀ころから現在までの交流の歴史を振り返る。

 米ソ冷戦終結後の中国の発展と中国の脅威論の関係、を考える

 特に現在の中国が「市場経済を通じて社会主義を目指す国」であることの意味。

 中国の脅威に対応する政策として、政府、米国、マスコミの方策は主として軍事力に依存する策の可否

第二、上記の観点ごと、次に検討の具体的視点を略述してみる。

 日中の約一四〇〇年の交流の歴史の観点から具体的検討の視点は以下のとおり。

視点1)中国は日本に武力で侵攻して占領し支配した事実はあるか。

 侵攻・占領の事実は無い。元寇の襲来は蒙古であり、中国ではない。

視点2)中国が日本と交流の歴史の中で日本に貢献あるいは利益を提供したか。

 日本への貢献は文字、政治制度、仏教、思想、文学、書、絵画、芸術、建築、その他多数有り。

視点3)日本は中国に武力で侵攻した事実はあるか。

 多数の侵攻の事実あり。例:古代の倭寇、秀吉の中国侵略の意図の緒戦としての朝鮮侵略・占領、日清戦争、満州事変、中日戦争、いずれも非人道的な殺戮、破壊をしてきた。

視点4)日本は中国との交流の歴史の中で中国に貢献あるいは利益を提供したか。

 殆ど見当たらない。

視点5)上記3)の事実に関連して、中国は日本に復讐戦争を仕掛けたか。

 その事実はない。逆に日本の敗戦後の国交回復に際して、中国は日本に対して、復讐的行為または巨額の賠償を要求しなかった。

二 米ソ冷戦終結後の中国の発展と中国脅威論の観点からの具体的視点。

視点1)近世における欧米先進国(近代国家)のアジア植民地略奪時代。

 オランダが東インド会社をインドネシャに設置したのは一七世紀(一六〇〇年)初めである。それから二〇世紀まで四〇〇年の間、欧米先進国(資本主義国)はアジアの植民地争奪に狂奔し、膨大な資源・資産を略奪し、母国の資本主義経済の発達に投入した。中国はその略奪の大きな草刈り場であった。魯迅はこれを見て「中国はもう立ち直れない」と嘆いたほどである。

視点2)文明先進国の植民地から解放された中国の巨大な発展は日本の脅威か。

 第二次世界大戦が終結後、アジアの植民地は全て解放された。中国は解放後、内戦の結果、中国共産党が政権を取り、約半世紀をかけて、日本の侵略戦争で荒廃した国の再建に取り組み、「市場経済を通じて社会主義を目指す国家」の建設に向かって発展してきた状況にある。生まれ変わった中国の最大の課題は、社会主義の建設である。国境問題ぐらいで戦争をする暇はない。また、中国は、発達した資本主義国の米国や日本のように帝国主義戦争を仕掛けた経験がない。

 侵略戦争を常習化して財を蓄えた経験がある資本主義国は、中国が巨大な経済大国になったので「きっと自分たちと同じように他国に対し、侵略戦争を仕掛けるに違いない」と愚かな邪推をするようだ。常習犯罪者の心裡である。これは中国と対峙して議論をするときに、忘れてはならない観点である。帝国主義戦争を仕掛けた側の人間と考え方が違うのである。この認識がないと、中国が原子力空母を持てば、反射的に米国の核抑止力にスイッチ・オンし、日米軍事同盟の強化へと繋ぐ選択肢しか思いつかない、という危険な自動自殺装置が作動することになる。

 中国と付き合うには、武力外交ではない方法を多面的に考える道しかない。

三 「中国の脅威」と称する事態に対して具体的にどう対応するか。

視点1)中国問題に関連する朝鮮半島における戦争の火種にどう対応するか。

 朝鮮半島は米ソ戦争が終わっていない世界で唯一の地域である。三八度線で双方対峙して停戦中であり、いつでも戦闘開始態勢にある。ここで戦闘が開始すれば米国と中国との戦争となる。そうなれば朝鮮半島は戦場となり、米中戦争は核戦争に発展しない保証はない。しかし、この武力紛争の火種の消滅を執拗に阻止している強力な勢力が存在する。それは日米の産軍共同体、米軍の日本駐留軍隊、日本自衛隊、これらを支える日米の政治家群である。これらの勢力は、日米のマスコミを支配している。また米国の場合、核兵器体制を維持するために要する社会機構(核兵器の存続で生活している人的物的システム)そのものの消滅に抵抗する膨大な人々がいる。これらの勢力は、朝鮮半島の平和を望まない、という極めて困難な状況がある。   

視点2)「中国の日本への脅威論への対応問題」と「朝鮮半島の戦争の火種の問題」を同時に解決する名案を考え出した中国の孫子の末裔たち。

(1)この同時解決のための手段は何か。展望はあるのか。

東アジアにおいて核時代の戦争が起これば、東アジアに関与する中国、ロシヤ、米国の三国は核保有国であり、北朝鮮は核兵器開発途上国、日本・韓国は核保有国米国の核抑止力に依存している以上、過酷な核戦争となることが予想される。

(2)この場合に東アジアでの核戦争を阻止するには、最も危険な停戦状態にある朝鮮半島の非核化を実現することである。同時に、これと併行して東アジアにおいて、「戦争の出来ない仕組み」を作ることである。

(3)これは実現可能であり、すでに緒についている。

 二〇〇三年八月に、北京で始まった中国、ロシア、北朝鮮、韓国、日本、米国の六ヶ国協議である。この会議の議題は「朝鮮半島の非核化とこの実現に武力の行使をしない」という簡潔な議題である。この議題では簡潔であるが、いずれの参加国にとっても「拒否出来ない」重要な国益に係る課題である。

 したがって、目的を達するまで長期間を要しても、継続する会議である。しかも、協議が続く間は武力の行使はしないという暗黙の了解がある。そして長期間の会議が続くことにより、次第に定例の協議会となり、それがEUのような機構となっていくことが考えられる。つまり戦争が出来ない仕組みである。これは中国が考えた極めて巧妙な外交戦術である。

 こうして、中国脅威論はいつの間にか消えてしまうという手品のようなお話になってしまいました。坂井さん、守川さん、美和さん、すみません。

 五ヶ国が中国の平和外交戦術に乗せられた格好であるが、これがまとまるのに数十年をかけても構わない、という中国独特の長期戦術である。二〇〇年かけて万里の長城を造った民族である。

 このような発想は、EUや東南アジア友好協力条約(TAK)に基づく東南アジア共同体を目指す事例から見ても、成功率は高いと考える。いずれの国も、反対して決裂することに何らの政治的メリットが無いことを中国は先読みしているのである。東アジアが非核地帯になり、戦争が出来ない機構の出現が展望できるのである。それが五〇年先でもいいのである。余り悩まない方が得である。

 振り返れば、二〇世紀の初頭のハーグ陸戦法規から、不戦条約を経て、国連憲章で戦争の違法化に到達し、日本国憲法およびコスタリカ憲法で軍隊を禁止し、また全世界で非核地帯条約が進み、こうして人類は戦争も核兵器もない世界への道を歩み始めたと言える。それが進むと、戦争で儲けることも、核兵器で飯を食うことも出来ない世界を実現する展望が開けてくる。

 以上が中国問題について、私の意見の骨子である。


世界社会フォーラムに参加して

埼玉支部  大 久 保 賢 一

 二月五日と六日、セネガルのダカールで開かれた世界社会フォーラム(WSF)に参加してきた。

 参加の動機は、このフォーラムの意義も由来も知らないままに、アフリカに行ける、しかも、パリ・ダカール自動車ラリーのゴールやオプションであのカサブランカにも行ける、という単純なものだった。過酷なことで有名な耐久レースはテレビで見たことがあるし、イングリット・バークマンとハンフリー・ボガードの「昨日?そんな昔のことは忘れた。」というセリフを名画座で見たことを思い出したので、即断即決したのだった。

 参加者を募ったのは、大阪の梅田章二団員である。もちろん彼が団長格である。関東からは宮坂浩団員と笹本潤団員のパートナーと私の三人。その余は関西勢(上山勤・中森俊久両団員を含む)の総勢一三人。楽しくかつ有意義な旅であった。

 世界社会フォーラムについて少し解説しておく。このフォーラムの合言葉は「もうひとつの世界は可能だ」というものである。新自由主義とグローバリゼーションがもたらした格差と貧困を解決したいという運動である。先進資本主義国の代表者で構成される世界経済フォーラム(ダボス会議)の向こうを張ろうというのである。二〇〇一年にブラジルのポルトアレグレで開催されて以来、インドのムンバイ、ケニアのナイロビなどで開催されている。多い時には、一五万人という参加者があったという。今年の参加者は五万人といわれている。目立ったのは、地元セネガル(高校生たちも大勢参加していた)を除けば、ブラジル勢だった。ルラ元大統領も参加していたとのことである。発祥の地がブラジルであることからして当然のことなのかもしれない。

 私たちが何をしてきたかを報告しておく。まず、揃いのTシャツを着た。胸には「日本の約束」と書かれている。背中には、白クマと氷山がデザインされている。温暖化に対する問題意識であることはいうまでもない。その上に、これまた揃いの法被(はっぴ)(丈夫な紙製)を着こんだ。その背中には憲法九条がデザインされている。これが日本メンバーの参加理由なのだ。このコスチュームで、パレードと会場(ダカール大学)で、団扇(うちわ)とチラシを配るのだ。団扇とチラシの主張は日本国憲法九条の平和主義だ。チラシは英語とフランス語だ。セネガルの公用語はフランス語だし、配布されたプログラムもフランス語だ。開催されたセッションもフランス語だけというものもある(覗いて平和教育のセッションを覗いてみたが、何が何だか判らなかった)。団扇の「平和」という漢字は「ピースだよ」と説明しながら配布したものだ。

 それにしても、団扇とチラシの捌かれ方は半端ではない。次から次へと真っ黒(セネガルの黒人は本当の黒人なのだ)で体格の良いご婦人方(彼女たちの辞書には、ダイエットなどという言葉は絶対ないであろう)や子どもたち(セネガルの人は全体に人懐っこいのだ)が群がって欲しがるのだ。二千本、二千枚など瞬く間になくなってしまう。中には「その法被をよこせ」(多分)と身振り手振りで迫ってくる女性もいた。この迫力にかなう日本人は、関西グループの女性陣も含めて(私は最強の人たちと思っていたのだが)、いなかったのだ。中森君の法被は彼女の体には少し小さかったようであるが、よく似合っていた。宣伝効果は抜群であろう。

 私にとっての初体験は、パレードの参加者の数の多さとその多様さである。粛然と行進するわけではなく、踊ったり、歌ったり、楽器(太鼓やブブゼラ風)を奏でたりの、思い思いの行進なのだ。先導車も音楽を流している。まるで街頭でのディスクジョッキーを聞くようである。この迫力に対抗できる支配者はまずいないであろう。民衆のエネルギーは無限であると再認識したものだ。

 帰国してみたら、エジプトのムバラク大統領が辞任するということだった。ギロチンで首を切られるとか、車で引き回されるようなことはないと思うけれど、民衆の苦しみに無頓着なままに驕り高ぶる者は、いつの日かその命運を絶たれるであろう。「驕れる者は久しからず」という言葉を思い出す。

 ダカールの後、モロッコに行った。ジブラルタル海峡を見て、世界遺産の古い街並みに寄り道をして、カサブランカにも一泊してきた。バー・カサブランカは予約がないと入れないということだった。映画カサブランカの例のシーンはハリウッドのセットを利用しているのだから入れなくてもいいやなどと、イソップの葡萄を取れなかった狐の心境で、その外観だけを眺めてきた。

 世界社会フォーラムは、体制側からは社会民主主義者から無政府主義者までの雑多な左翼運動だといわれ、左翼政党からは、実践的アイデアも少なく、新自由主義や帝国主義に対する批判か明確でないといわれ、無政府主義者からはコミンテルンのようだといわれているという。それはそれでそうなのかもしれない。「何をやったって、誰かが文句を言う」というのはその通りだからである。

 私としては、世界は広いし、人々の営みは過去も現在も偉大だと確認でき、何を信じて未来を語るかが見えたような気がしただけでも、この時間と費用は無駄でなかったように思う。

(二〇一一年二月一二日記)


沖縄・基地闘争交流集会に参加しました

事務局次長  小 林 善 亮

一 基地闘争交流集会とは

 今年の一月二八日から三〇日まで、安保破棄中央実行委員会主催の基地闘争交流集会が沖縄で行われました。昨年の名護市長選、県議会決議、県民大会、名護市議選、沖縄県知事選と続いてきた普天間撤去・辺野古新基地建設反対をめざす運動を、さらに全国の連帯した運動とするために開催された集会です。私は、所用があり二八日、二九日しか参加できませんでしたが、中身の濃い二日間でした。以下、見聞きできた範囲で報告します。

二 一日目(二八日)

 二八日は、バスでの連帯行動でした。ところが、那覇に着くとあいにくの雨。その上風が強く寒い。「沖縄は暖かい」と油断して脱いでいたセーターを着込みました。二八日は、宜野湾市役所で基地政策部長と懇談し、辺野古でヘリ基地反対協のテントを訪問、ホテルにチェックイン後、名護民商会館でヘリ基地反対協、やんばる統一連との交流・食事会との充実したスケジュールでした。

 宜野湾市役所での説明では、市の面積の二五%、しかも中心部を基地にとられ、宜野湾市は一平方キロメートルあたりの人口が七〇〇〇人(東京より一〇〇〇人も多い)という超人口密集地となっているそうです。その密集地の上を米軍へリが飛んでいます。日米の騒音防止協定がありますが、昨年の普天間訴訟の高裁判決で「形骸化している」と指摘されるほど守られていない状況で、日本の航空法が適用されないので安全性も担保されていない状況です。ただ、宜野湾市民も辺野古への新基地建設に反対している人が多数派とのことです。同じ苦しみを押し付けたくないという市民の意識の高さは、伊波前市長からの一貫した市政の賜物なんだろうと思いました。

 辺野古浜では、ヘリ基地反対協の説明を受けました。現在辺野古浜では、基地との境界を隔てる有刺鉄線をフェンスに立て替える工事が行なわれていました。フェンス取り付け工事は、辺野古基地反対の旗がたくさん結び付けられている有刺鉄線が、米軍の心理的な負担となっていた証拠ではないでしょうか。フェンスに代えても、辺野古新基地建設が撤回されるまで新たな旗が結び付けられるんだと思います。

 夜は、名護民商会館で、交流集会参加者と、ヘリ基地反対協、高江村のヘリパッド建設に反対しているやんばる統一連との交流会でした。挨拶もそこそこに乾杯をし、名護民商の方の沖縄民謡や心づくしの料理に舌鼓を打ちながらの楽しい時間でした。交流会には、稲嶺名護市長も飛び入り参加し挨拶をしました。稲嶺市長は、知事選は残念であったが、辺野古新基地建設反対の県民の意思は揺らいでない、この盛り上がりは昨年一月の名護市長選挙から始まったとして、名護市長選挙以来の全国の支援に感謝されていました。ただ、新基地建設に反対していることを理由に米軍再編交付金を凍結されたり、沖縄に閣僚が来ても名護市には来なかったり有形無形の圧力があるそうです。そしてこの日、稲嶺市長が「そういえば」と最後に話したのが「本日、沖縄防衛局が私を訴えたようです」という話でした。翌日の新聞では、名護市が昨年一一月に辺野古沿岸の環境現況調査を拒否したことに対し、防衛省・沖縄防衛局が行政不服審査法の異議申し立てを行なったことが報道されました。交流会での稲嶺市長は、全国から「ふるさと納税」や寄付金なども寄せられており励まされていることを紹介し、辺野古新基地建設反対でぶれずに毅然と対応すると話していました。

三 二九日(二日目)

 さて、名護での長い夜が明けると、翌日は朝八時に東村高江に出発。ぺリパッド建設予定地傍の座り込みテントで、現地の「ヘリパッドはいらない」住民の会から説明を受けました。高江のヘリパッドをめぐっては、国が住民(当初八歳の子どもも含まれていました)に対し「通行妨害禁止」の仮処分申請をなし、申請の認められた住民の会の共同代表二名に対し本訴提起を行っています。本訴では、昨年一二月に裁判所が「判決では解決にならない」として国と住民双方に話し合いを打診していました。ところがその直後の一二月二二日の早朝から沖縄防衛局が工事を強行しました。翌二三日の夜には、米軍のヘリがゲート近くでホバリングし、強風で座り込みのテントの一部が壊されるという出来事もありました。菅政権は「沖縄の頭越しにはやらない」などと言っていますが、やっていることは全く逆だと感じざるを得ません。

 午後は、那覇に移動し、基地闘争交流集会が行われました。伊波前宜野湾市長が特別報告を行いました。普天間基地内で燃料漏れがあっても市は写真も撮れないし、土も持って帰れない。危険な実態があっても日本が手出しできないという日米安保の矛盾がここに凝縮していると話されました。他にも、辺野古からヘリ基地反対協や、東村高江から住民の会、与那国の自衛隊移設反対運動、神奈川の安保破棄の活動、横須賀、佐世保の基地闘争など、多彩な発言がありました。多くの人から、沖縄と連帯した運動をつくりながら、自分たちの基地闘争を広げていこうという積極的な提起がされていたのが印象的でした。


〈本の紹介〉つり人社発行

故大森鋼三郎著 「渓悠遊万遊(たにゆうゆうばんゆう) 釣り狂ち弁護士の岩魚釣り人生」

東京支部  岡 村 親 宜

 昨年の年末、二〇〇八年七月に逝去した故大森鋼三郎弁護士の表題の遺著が、典子夫人により発刊されました。大森兄は、菊池絋団長と同期の二〇期生でした。団通信には、四位直毅先輩の書評が掲載されましたが、この本の編集者として出版の経緯を報告し、この本の紹介をさせて頂きます。

 大森兄は、満四〇歳を前にして大病を患って入院し、人生観を転換して渓流釣りを生活のサイクルとして始めました。その彼が私の渓流釣りの師匠となってくれ、それ以降釣友として約二六年間、二人で源流の旅を続け、シーズン中一ケ月に一度三泊四日の源流の旅を続けてきました。彼は七五歳までは源流に行こうと言っていましたから、さぞかし無念であったにちがいありません。ところが、二〇〇九年九月、納骨に立ち会い、彼の遺された「句帳」をめくっていたら、本書の題名で、本出版の企画メモが記載してあるのを発見しました。「はしがき」はすでに執筆しており、ほぼ本書目次のとおりの企画でした。このメモを見て、これは彼が私に託した遺言と考えました。そこで、典子夫人と相談し、原稿を集めて整理・印字して出版原稿を作成し、写真を挿入する編集作業をし、つり人社にお願いして出版にこぎつけました。

 本書の序は「悠遊亭宣言」の詩です。第一部は「わが渓流釣りの世界」と題し、「わが釣り道場ー裏丹沢・道志川」、「一センチ不足の岩魚ー奥鬼怒・手白沢」、「山釣りの旅ー白神山地・津梅川、笹内川」、「発見の喜びー焼石連峰・キッツ川」、「幽谷のブナの森ー八幡平・大深沢」、「随想 私の渓流釣り」の稿が収められています。第二部は「わが俳句・詩の世界」と題し、「門外不出・わが渓の詩」、「白神山地・大川挽歌」、「薪を割る」、「赤岳山行」、「仙丈岳・甲斐駒ケ岳」、「茅ケ岳」、「ゴルフの詩」、「わが人生の句拾遺」、「わがゴルフの句拾遺」、「ゴルフ一二ケ月の句」の稿が収められています。 第三部は「紋と斑」と題し、自らの岩魚釣り人生を語った「岩魚と山女魚」、「心の故郷・私の決心」、「山女魚釣り入門」、「岩魚釣り入門」、「ブナの森の春」、「ブナの森の夏・秋」、「釣り狂ちの心」、「渓流釣りの道具」、「渓流釣りの心得」の稿が収められています。

 彼は、なぜ釣り狂ち弁護士と自称し、何を考えて自らの人生を岩魚釣り人生と命名したのか?。彼は、その答を本の扉に左記のとおり記しています。

 「天然の一匹の山女魚、天然の一匹の岩魚を手の平につかんでみたら、もうだめ。こんなに美しい魚がこの世にいるのか!なぜお前は、宝石を散りばめているのか?さらに、さらにだ。焚き火で塩焼きにして食らってみたら、美味い。

 もう、やめられない。それだけか?ブナの森を静かに流れ下る渓流の音。渓流に冷やしたビールのうまいこと。焚き火を見つめて、森の精にしたる。このひととき、夜半のテン場。人生とは、働いて、家族をつくり、死にゆくものか?

 人生とは、好きなことを存分にやりぬくことではないか?生をたまわった者が、それぞれの時代に精いっぱい生きることではないか?楽しい、豊かな人生をおくりたいと願う。世の中を良くしたいと願う。でも、楽しい人生を歩んでいるからこそ、説得力があるのではないか?人生を楽しむことなくして、世の中を良くすることはできない。人生とは、楽しめない障害物を取り除く努力ともいえよう。」

 本書は、故大森弁護士がこの世に遺した最後の遺品です。もし、私のこの本の紹介に心引かれ、入手を希望される方がありましたら、彼の遺族が守り続けている

町田法律事務所

 TEL 〇四二-七二八-七五二一 

 FAX 〇四二-七二九-三五一四 に申し込みをお願い致します。

定価一六〇〇円、送料は 一六〇円です。

 本屋には並べられていません。


「国民のための刑事法学」(中田直人著)をすすめる

福岡支部  永 尾 廣 久

 戦前、戦後の司法制度の歩みがよく分かる本です。

 戦前の日本では、検事のほうが裁判官よりも実質的な地位は高かった。裁判官の人事権を握っているのは司法省である。だから、裁判官から検事になって司法省に役人として勤めるほうが出世は早かった。司法大臣の中には検事総長出身者がたくさんいた。しかし、裁判官出身者は一人もいない。裁判官は検察官出身者によって握られていた。

 日本の裁判所の中には、戦前もそのような司法省支配による裁判のあり方に抵抗し、裁判官の独立をかち取る必要があると考えて研究していたグループがあった。これが「さつき会」である。戦後、GHQのオプラー法制司法課長は「さつき会」の人たちと接触しながら司法制度の改革をすすめようとした。しかし、オプラー課長は「さつき会」の力を過信していた。「さつき会」は非公然のグループであって、当時の裁判官たちの広い支持を得ていなかった。むしろ、裁判官層は猛烈に反発した。

 「さつき会」がかついだ細野長良・大審院院長に対しては猛烈な反発があり、細野氏は戦後の最高裁判事の推薦名簿にも載せられなかった。このとき、反対派は謀略的なニセ電報まで打って細野氏とその一派を引きずりおろした。そのなかで三淵忠彦という初代の最高裁長官は選ばれ、司法省の役人の経験者が最高裁事務総局に流れ込んでいった。

 最高裁事務総局が今日に至るまで全国の裁判官の人事を統制しています。配置から給料から、すべてを決めて一元支配しているというのも恐ろしいことです。

 もっとも、最近では、あまりに統制が効きすぎて、現場の裁判官たちが自分の頭で考えなくなってしまったという反省も出ているようです。ですから、むしろ最高裁判決の方が時代の流れに敏感な、大胆判決を出すことも数多く見受けられます。

 裁判は公正であるという幻想が、裁判の作用をいっそう狭いものにしようとする。これらが相互に影響しあって、裁判官が真実と正義の要求に目を向けることを妨げる。世論を作り出すことは、この妨げをまず除去することである。しかし、世論は、やがて裁判官を動かす主要な要素に転化する。

 個々の裁判官は、大衆運動なんかには影響されないぞ、自分の知恵と学識と両親によって判断したんだと、個人的な意識のうえでは、それなりに自負しているに違いない。裁判官の置かれている現実世界の広さ(むしろ狭さ)に目を向けたい。大衆的裁判闘争こそが、そうした現実世界を変革する。大衆的裁判闘争は、世論を新たにつくり出す以外に公正な結果を得ることができないという客観的情勢があるとき初めて必要となり、また可能となる。裁判闘争はすべて大衆運動に訴えるべきものでもなく、また、そのように発展するものでもない。大衆的裁判闘争は、裁判所を物理的に包囲したり、裁判官個々に威圧を加えたりはしない。

 裁判官も人間である。人間を動かす力は、人間による人間としての批判である。裁判官の弱さ、その世間の狭さによって、裁判における予断と偏見が生まれる。

 裁判官だけでなく、どんな人でも、自分のやろうとしていることについて多くの人が関心を寄せていることを感じると必ず、これは一生懸命にやろう、誰からもケチをつけられないよう、批判に耐えられるようなしっかりしたことをやろうと思う。これは人間の心理として当然のこと。たくさんの投書が裁判所に届き、書記官がもってくる。ほとんど読まない。それでも、なるほど、これだけ関心を持たれているんだったら、きちっとしっかりした裁判をしなきゃだめだという気持ちになる。そんなプラスの効果をもっている。

 誤った判決をだす裁判闘争のなかで署名を広く集める運動の意義は決して小さくないことが分かります。

 メーデー事件、松川事件、狭山事件などの戦後の裁判史上あまりにも有名な事件の弁護人としての活動、さらには公安警察のスパイ行動を裁く裁判にも触れられていて、大いに学べる本となっています。若手団員の皆さんに一読をおすすめします。

 福岡県弁護士会の書評にのせたものを、団通信にも投稿します。やはり、団員にこそ必読文献だと考えたからです。新日本出版社からこの一月に刊行されました。

 四〇〇〇円と少し値がはりますが、それだけの価値ある本です。


中田直人さんを偲び、著作集の出版を記念する会

大阪支部  宇 賀 神   直

 去る一月二九日、東京は四谷のブラザエフにおいて、この会の集いがあり、私も出席しました。会場には今は亡き中田直人さんの遺影が飾られていて中田直人さんの雰囲気が伝わって来る思いがした。集いには、学者・研究者と日本民主法律協会・自由法曹団の弁護士、中田直人さんが弁護人として活動されてきた布川事件や狭山事件の本人・関係者など約二〇〇人が出席された。会の初めに一橋大学の村井敏邦さんの「中田刑事法学の真髄」、新井彰弁護士の「中田さんの弁護活動とその意義」という題でのお話があり、その後、亡き中田直人さんに献杯して出席者によるリレートークと出席者間の懇談が行われた。最後に中田直人さんの奥様の孝子さんがお礼の挨拶をなされました。

 さて、中田直人さんの著作集というのは、「国民のための刑事法学 その理論と闘い」という題名で中田直人さんが生前に発表した論文・著述文を編集したもので、第一部は裁判闘争における基本的人権の擁護・第二部は刑事司法制度に対する批判的考察・第三部は著者略歴・業績目録の三部構成になっている分厚い本です。第一部には、戦後の裁判闘争・弁護士岡林辰雄と裁判闘争とメーデー事件・松川事件・狭山事件の裁判闘争、第二部には、公安警察活動に対する批判的考察・司法制度に対する批判的考察の論文が登載されている。私は既に読んだ文もあるが、戦後の裁判闘争と岡林辰雄弁護士の裁判闘争の理論の文には課題に対する深い考察と理解、問題提起があり、中田直人さんの研究者・弁護士としての優れた資質が現われている。

 新井彰さんは、「松川運動全史―大衆的裁判闘争の十五年」や「メーデー事件裁判闘争史」の分厚い本は中田直人さんが書いたものであり、今度再読して中田直人さんの努力と優れた能力を思い知ったと話された。時間の制約があり、新井弁護士はレジメの半分しか話が出来なかった。もっと新井さんのお話を聞きたい思いでいた。新井さんは「弁護士で一番に稼ぎの悪いのは誰か、言うと、それは中田直人弁護士ではないか」そして二番目に悪いのは自分であると冗談まじりに話された。

 当日、「されど ただの法律家」という中田直人・小品集が出席者に贈呈された。私はこの小品集の中のかなりのものを読んでいるが、今読み返してみるとその時代に即した中田弁護士の問題提起や感想を知ることが出来る思いがする。一九九八年に自由法曹団が憲法施行五〇年を記念して「憲法判例をつくる」を日本評論社から発刊した。その実行委員会の委員長に私がなり、中田直人さんに監修者になって頂き、関東学院の中田さんの研究室で打ち合わせをして夜は同じ委員の団員と食事やお酒を飲み学院に泊ったことがある。中田さんは団員の書いたものに手をいれるなど、出来上がるまでに力を注ぎました。その監修者として書いた文がこの小品集に登載されていて懐かしい。

 孝子夫人はお礼の挨拶の中で「中田直人はなによりも『人間が大好きだ』とよく申しておりました。人間への強い関心と深い愛情を持っておりました。だからこそ人を差別しない、不正や人権が侵害されることを許さない、権力に対して毅然と闘う人生を貫き通すことができたのだと思います」と話され、最後に結ばれる前に、直人さんが孝子さんにお贈りした俳句「梅一輪 咲きて人待つ 静けさよ」を詠みあげた。

 二〇〇一年の自由法曹団の総会で古希を迎えた団員の表彰式があり、中田直人団員も古希になり団長の私が表彰文を書いて壇場で読み上げ中田団員に手渡した。あれから一〇年が立ち、この世に居れば傘寿をお迎えしたのである。残念と言うしかない。

 注 「国民のため刑事法学 中田直人著 新日本出版社」

注文は中田直人著作集刊行委員会事務局のある日本民主法律家協会へ。

 TEL 〇三―五三六七―五四三〇

 FAX 〇三―五三六七―五四三一