過去のページ―自由法曹団通信:1389号        

<<目次へ 団通信1389号(8月11日)


黒澤 いつき 給費制は「民主主義のコスト」
〜議員立法で法改正を!〜
小林 善亮 「つくる会」系教科書が採択されて
〜武蔵村山市教育委員会傍聴記
馬奈木厳太郎 港区での教科書採択をめぐる取り組みについてのご報告
吉原  稔 原発の脅威から「生命」と「琵琶湖」を守る原発再稼働禁止仮処分を申請
米倉  勉 避難区域の拡大の必要性、そして自主的避難を選択する権利を(上)
萩尾 健太 JRへの雇用要請に関する違法状態
政府の責任は追及されねばならない
守川 幸男 「刑務所のいま 受刑者の処遇と更生」のご紹介
鶴見 祐策 山田善二郎著
「アメリカのスパイCIAの犯罪」を勧める
橋田 直実 還暦祝賀会の報告
後藤 富士子 「日の丸・君が代」問題の議論への疑問
―「国民の教育権」と「親権」
加藤  裕 第五回民弁・沖縄交流会のお知らせ



給費制は「民主主義のコスト」

〜議員立法で法改正を!〜

東京支部  黒 澤 い つ き

 過ごしづらく勤労意欲が低下しがちな季節、給費制のたたかいは続いています。この間の情勢と、今後の活動方針を併せてご報告致します。

(1)八月二日院内集会

 参議院議員会館講堂で開かれた「司法修習の意義から給費制を考える院内集会」は、平日昼間にもかかわらず二三〇人もの参加者で講堂が埋まり、国会議員本人の出席は一六名、代理出席も含めれば四七名という快挙でした。集会では、改めて司法修習(統一修習)が戦後我が国に導入された理由、導入した人達の思いを振り返り、司法修習の意義が再確認されました。日本の民主国家としての再興を思う熱意が、弁護士を含めた法曹養成制度すなわち司法修習を生んだのであれば、受益者=弁護士本人であるという安直な受益者負担論など入り込む余地はありません。受益者負担論を理由に給費制が廃止されれば、司法予算を削る足がかりになり、ますます修習の期間・内容が希薄になり、修習廃止論が導かれる現実的な危険があります。民主党のある議員は、「最近は公務員さえたたけばいいという風潮がある。しかし官・税にしかできないことはたくさんある。マーケットの原理に任せておいては守れないものがある。給費制はその中の一つである。」と話しました。給費制の存廃は日本の司法の在り方を根本的に変質させるものであるという問題意識が、国会でも徐々に共有されつつあることを嬉しく思いました。

(2)八月四日第四回「法曹の養成に関するフォーラム」

 第三回のフォーラムでは、上記のような本質的な議論は一切なされず、「借金返済できるだけの稼ぎがあるのだから」という安直な理由のみで「給費制廃止の前提で議論する」という取りまとめがなされました(市民連絡会とビギナーズ・ネットは緊急の抗議声明を発表いたしました)。第四回のフォーラムにおいては、引き続き日弁連VSその他という対立で劣勢をしいられましたが、機関保証(オリコ)について、審査の結果、保証を断られる可能性について疑問が呈されたり、激しい意見対立について「このまま取りまとめてしまっていいのか」という意見が出されるなど、貸与制の矛盾点やフォーラムの在り方の問題点が浮き彫りになる場面が随所にありました。フォーラムは、このような表層を滑る「議論」のみで、最終的な取りまとめの準備に入りました。

(3)今後の活動方針

 政府が付託したフォーラムで、このような取りまとめがなされた以上は、政府がこれを尊重しないことはありえないため、閣法での法改正の可能性はほぼゼロです。私たちは再び議員立法の道を切り開くたたかいを始めなければなりません。日弁連は各単位会へ八月中の徹底的な議員要請の号令を出しました。各単位会と市民連絡会の各支部とが連携を強化しながら、全ての議員への要請を実現することが重要と思われます。団の各支部におかれましては、弁護士会の要請行動への協力(意欲が希薄な弁護士会においてはリードすること)をよろしくお願い致します。

 また、団事務所におかれましては、日頃付き合いのある各民主団体への署名の協力要請も、引き続きお願い致します!不安定な国会情勢ゆえ提出日が未定ですが、とりあえず第一次集約を八月末、第二次集約を九月末と設定します。

 国会議員は、この問題についてはやはりまず身近な法曹出身議員の話を聞いてみるのだそうです。しかし肝心の法曹出身議員が、問題意識無きまま「貸与にしても大丈夫だよ」などと回答してしまうため、国会内で共感が広がらないのだ、という実情をさる議員の方から伺いました。そこで、全ての議員への要請は最低限ですが、狙いの中心は法務委員と法曹出身議員に定める必要があると思います。

 ビギナーズ・ネットは、すでに二日から四日までの三日間でほぼ全ての法務委員と弁護士出身議員へ要請行動を実施し、議員会館前での街宣も連日行いました。これから八月中ほぼ毎日、議員会館で街宣を実施します。財政難ゆえ、大規模な行動はできませんが、どんなに国会が混乱していても、給費制の問題を忘れさせません!私たちはたたかい続けます!と地道な熱意のアピールが大事だろうという思いです。一人でも多くの団員にお手伝い頂ければ幸いです。青いTシャツは絶賛貸し出し中ですので、是非、議員会館前にお越し下さい!


「つくる会」系教科書が採択されて

〜武蔵村山市教育委員会傍聴記

東京支部  小 林 善 亮

一 はじめに

 八月五日、東京・武蔵村山市で育鵬社版の歴史・公民教科書が採択されてしまいました。国立二小事件で教員処分の先頭に立った当時の指導課長が武蔵村山市教育長に就任しており「あぶない」と指摘されていました。

 市民の方も、「つくる会」系教科書採択を阻止すべく、街頭宣伝、チラシの全戸配布、学習会、教育委員へのハガキ要請、FAX要請などに取り組んできました。三多摩法律事務所の富永団員を講師に招いた学習会には七〇名の参加者があり、しんぶん赤旗にも取りあげられました。教育委員会へは約四〇〇件の意見が寄せられ、うち約三〇〇件が市内の個人による意見だったそうです。これもハガキ・FAX要請に取り組んだ成果でしょう。

二 採択当日

 教科書採択が行われる八月五日は、朝から七〇名を超える人が武蔵村山市役所につめかけました。

 武蔵村山市では、教育委員会の前に中学校校長と市民一名が参加する「資料作成委員会」が各教科書について調査し、コメントを記した資料を作成し、教育委員会に提出します(教科書の絞り込みまでは行いません)。

 教育委員会では資料作成委員会から各教科の全ての教科書について報告がなされ、その後、教育委員による質疑と討議がなされます。

 事前に、各教育委員がどのような考え方の持ち主か情報集をするため、昨年の小学校教科書の採択の時の教育委員会議事録を読んでいました。その際は、教育長が「教育基本法と学習指導要領が改訂され、『伝統と文化の重要性』が盛り込まれたがこの点はどうなっているのか」と盛んに質問をしていました。他の四人の教育委員に目立った発言はなく、やはり危険なのは教育長かと思っていました。

 ところが、八月五日の教育委員の資料作成委員会への質疑が始まると、小学校の教科書採択の時とはまるで異なりました。社会に限らず他のほとんど全ての教科で「伝統と文化を大切にする視点はどうなっているか」などと三、四人の教育委員から発言が相次ぎます。 例えば、「国語はやはり『伝統と文化』を大切にする教科」「生活科は翻訳すれば外国の教科書としても通用するようなものでなく、日本らしい教科書を使用すべき」「竹島や北方領土は日本の領土であり、韓国・ロシアが不法占拠しているというのが日本政府の見解。この点を曖昧にしか記載していない地理の教科書あるが、はっきり書くべき」等々。教育委員の発言がぎこちなく、手元のペーパーを読んで発言していました。資料作成委員会の教育委員に対する回答も、「つくる会」系に有利になるような発言でした。歴史について、「人物が沢山取りあげられているのが良いとの意見あった」とか、「ストーリー性がある教科書がよい」。公民では、「原発の取りあげ方についてどうか」と問われ、「対立と合意、公正と効率という柱で賛成意見・反対意見を採り上げている教科書あった」などです。

 やりとりを聞いていて、「初めからシナリオが出来ているんじゃないか」と思ったのは私だけではないはずです。採択結果は歴史・公民ともに育鵬社版、全会一致でした。

三 今後について

 傍聴して強く感じたことは、「伝統と文化の重要性」とだけ言われると、素直に「それは大切だよね」と思う人が増えてきているのではないかということです。それに加えて教育基本法と学習指導要領に決まっているんだから、教えなくてはいけないと説得されると受け入れてしまう土壌がつくられつつあるのではないでしょうか。 今回の教科書採択の分析は採択が終わってからでしょうが、「つくる会」系教科書が採択されなかったところでも「伝統と文化」についての発言がなされていると思います。仮にそうだとすると、どこの教育委員会も油断できません。とりあえず、三多摩法律事務所では、担当地域でまだ採択がされていない市について昨年の小学校採択の教育委員会議事録を確認するなど、もう一度各教育委員会の点検を行うことにしました。

 それと、「伝統と文化」が大切だと素朴に感じる人たちに対して、「『つくる会』系教科書は『伝統と文化』を大切にしている教科書ではない」と言っていくことも必要ではないかと考えました。「つくる会」系教科書は、天皇を中心とする文化については描かれていますが、伝統や文化の担い手たる民衆の営みについては極めて軽視しています。「伝統や文化」の捉え方についても一面的で偏っていると言えるのではないでしょうか。今から出来ることは少ないですが、これ以上の「つくる会」系教科書採択をなんとしても阻止したいと思います。

 採択されてしまった武蔵村山市に対してですが、多摩地域の弁護士有志として団員よりも広く弁護士に呼びかけて抗議声明を発表すべく準備中です。市民の側も運動をしてきた上で採択されてしまったため、怒りも大きいです。この怒りを育鵬社版教科書を跳ね返す力にしたいと思います。九月以降、情報公開請求で教科書採択に関わる資料をとり分析して、地元で学習会を開いたり、教組と協力して、総合学習の時間に弁護士を講師に呼んでもらい、憲法について講義をするなどのアイデアも出されています。育鵬社版教科書の採択は非常に残念ですが、これにめげずに逆にバネにして取り組んで行ければと考えています。


港区での教科書採択をめぐる取り組みについてのご報告

東京支部  馬奈木厳太郎

 いわゆる「つくる会」系の教科書採択をめぐって、全国各地で取り組みがなされているところですが、港区での取り組みについてもご報告いたします。

 港区では、従来、保守日本という会派を形成する区会議員二名が、「つくる会」系の教科書採択を求めて熱心に活動していたようですが、今回の選挙で、いずれの議員も落選してしまい、議会内での足場を失うという事態になりました。そうした経緯もあり、なんとなく港区では採択されないだろうという雰囲気が漂ってもいたのですが、「それではダメだ」ということで、遅まきながら東京合同法律事務所でも取り組むこととなりました。

 もっとも、取り組むといっても、問題の教科書を読んでみなければ何がどう問題なのか本当には分かりません。そこで、実物を読んでみなければ始まらないということから、まずは市販版の歴史と公民の教科書を購入することになりました。事務所に教科書が届いてからしばらくの間、「つくる会」系教科書が事務所内でちょっとしたブームになったのは言うまでもありません。

 その後、七月一一日に、佐藤生団員と私とで、港区教育委員会に対し、「つくる会」系教科書を採択しないよう要請を行い、団で作成した「教科書採択についての要請書」と意見書を手渡しました(これらは、教育委員会事務局を通じて、各委員に配布されたそうです)。

 また、私たちの取り組みに先行して、港区の教職員や保護者の方などが参加する「港・子どもと教育を考える会」が、港区教育委員会に対し、「つくる会」系の教科書を採択しないよう請願を行っていましたので、「考える会」との間で情勢や連携のありかたなどについて意見交換する場をもちました。

 そうして、七月二六日の港区教育委員会臨時会において、要請の趣旨について発言することとなりました。発言後には、委員から、「学生のころ、大学の憲法の教授が熱意をもって語っていたことを思い出した。とてもいい意見を伺った」、「最近、戦後の民主主義に対して、個人的な感想として、ある危険性を感じている。子どもたちに偏見をもたせるような本は選びたくない」などの意見がだされました。概ね要請に好意的な意見だったと思います。また、約一二〇の大使館などが区内にあることから、国際的な視点も大事にしなければという意見がだされたことも、印象的でした。

 港区では、八月九日に教科書が採択されますが、「つくる会」系教科書が採択されることがないよう、引き続き教職員や保護者の方などと連携して取り組んでいきたいと考えています。

 末尾になりますが、七月二六日の発言内容を付しておきます。

*   *   *   *   *   *   *   *

 私たちは、自由法曹団という全国約二〇〇〇名の弁護士からなる法律家団体です。人権や民主主義、平和主義の擁護を標榜して、一九二一年に結成されました。今年で結成九〇年を迎える団体です。

 今年度の教科書採択に際して、先に請願書を提出いたしました。今回の請願の趣旨について、法律家団体の立場から、補足して意見を申し上げます。

 まず、委員のみなさまにご認識いただきたいのは、改めて申し上げるまでもないことですが、憲法は国の最高法規であって、憲法によって国は成立し、憲法に従って運営されていかなければならないという、誰もが争わない根本原則についてです。もちろん、現在の政治制度や教育制度も、その基本が憲法に規定されています。そのため、教育基本法にしても、教科書の採択にしても、憲法の精神と相容れないものは許されないのです。憲法は教育現場にも妥当するという明確な事実を、冒頭で確認しておきたいと思います。

 そのうえで、私たちは、歴史と公民の教科書採択について、具体的には自由社と育鵬社の内容について、その問題点を指摘したいと思います。時間が限られていますので、両社の両科目いずれにも共通する問題点についてのみ、ここでは言及することにします。

 法律家団体である私たちから見た場合、両社の教科書には、大きく二つの点で問題があります。それは何かと言うと、キーワード的に言えば、《現在のこの国のかたち》と《現在のこの国のなりたち》についての認識が、決定的に誤っているということです。

 《現在のこの国のかたち》とはなんでしょう。さきほども申しましたように、いまの日本国という国家は、日本国憲法によって成立し存続しています。国家という政治的な枠組みは、憲法によって造られているからです。憲法を英語ではConstitutionといいますが、constituteとは構成するとか構築するという意味です。まさに、国家を創設するものが憲法なのです。

 では、いまの日本国を創設した日本国憲法は、どのような内容のものでしょうか。

 日本の歴史における現行憲法の特徴は、歴史上初めて、国民主権や個人の尊厳、個人の尊重を謳った憲法であるという点にこそ見いだされるでしょう。いわば「普通の国」であれば当然だと考える原則を初めて採用したというわけです。国民主権や人権という意味で、「普通の国」の仲間入りをしたといえるでしょう。

 ところが、両社の教科書では、この点の認識が決定的に弱いという弱点があります。一々挙げることはしませんが、個人の尊重ではなく、むしろより大きいものへの忠誠や奉仕といったものの強調、公共の福祉や義務の強調といった内容が目立ちます。日本の歴史上初めて、個人の尊厳を正面から謳い、個人主義に立脚するという現在の日本国の原則、《この国のかたち》の根本部分についての理解が、両社の教科書は誤っていると言わざるをえません。

 そして、なぜそうした認識の誤りが生じるのかという点ですが、これが二つめの《現在のこの国のなりたち》についての理解にかかわってきます。

 いまの日本国が成立したのは、敗戦の結果、日本国憲法が成立したことに根拠を有するのですが、戦後の日本というのは、単に戦争に負けたというだけではなく、あの戦争は間違った戦争だったというところから再出発しています(より厳密には、あの戦争だけではなく、戦争一般が誤っているという立場なのですが)。それはまた、当時の国際公約でもありました。戦後の日本は、決して無色透明のところから始まったわけではないのです。この理解は、戦後の日本を考えるうえでは決定的に重要です。

 ところが、「あの戦争は間違った戦争だった」「先の体制は否定されるべきだ」という現在の日本国のなりたちの立脚点に関する理解が、両社の教科書では致命的なほど欠落しています。ファシズムの歴史的意味や植民地支配の実態、天皇制や軍部による支配など、全く不十分としか言いようがありません。しかし、これらはいずれも、平和や軍事力の問題について、日本国が、いわば「普通の国」を越える決断をした経緯にもかかわるものであり、《現在のこの国のなりたち》を理解するためには、不可欠な事柄のはずです。この点での認識がどのようなものであるのかは、決してどうでもよい事柄ではありません。

 簡単に見てまいりましたが、両社には以上のような問題が含まれています。《現在のこの国のかたち》と《現在のこの国のなりたち》という点は、公民と歴史のそれぞれ核心にかかわる部分です。そして、この点に問題があるということであれば、端的に言って、公民や歴史の教科書としては不適当というほかありません。

 両社の教科書が採択されることがないよう、委員のみなさまにおかれましては、どうか賢明な判断をお願い申し上げ、私たちの要請の趣旨といたします。


原発の脅威から「生命」と「琵琶湖」を守る原発再稼働禁止仮処分を申請

滋賀支部  吉 原   稔

 八月二日に大津地裁に関西電力の福井原発七基(定期点検で停止中)の再稼働差止仮処分を申請した。

 本件を提起する最大の動機は、

(1)琵琶湖を守るということを私のライフワークにしてきたが、琵琶湖の敵はブルーギルや水位低下は可愛らしいもので、最大の敵は原発であったということを安全神話のベールから完全に脱却して自覚したこと。再稼働を差し止めれば、全国の原発は来年春には全部停止するから、最も手っ取り早い方法であるからである。

(2)志賀原発二号機の金沢地裁判決で原発差止判決を出した井戸謙一元裁判官が退官し、彦根で弁護士登録をし、弁護団に参加してくれたので、パソコンすら使えない、科学オンチの当職にとって、百万の味方を得たこと。

(3)六月一七日の社民党の福島みずほ議員の国会質問と答弁を新聞で読み、そこで菅首相らが答弁した「安全審査指針失効論」に着目し、これを定期点検の違法性の論拠としたこと。

(4)「思想信条を問わず」参加を呼び掛けた七月一六日に脱原発全国弁護団会議に参加し、浜岡原発等で活躍した海渡雄一、河合裕之弁護士ら、先発組の弁護団に深甚の敬意と仁義を表し、後発組として、原発立地県以外の県の管轄裁判所に提起することとしたのである。

(5)仮処分をしたのは再稼働が迫っているからである。本訴を出すが、その時には琵琶湖を水源とする京都、大阪、兵庫にも呼び掛けて原告団、弁護団を結成する。

三 裁判の内容(概略)

(1)債権者らは一六八名であり、主として滋賀県内に居住しているが、債務者の設置する美浜原発一号機等福井原発群から二〇〜一一〇km圏に住んでいる。

(2)申立の趣旨は、

 債務者は、国によって、発電用軽水型原子炉施設についての福島第一原発の事故原因を解明したうえで「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」「発電用軽水型原子炉施設に関する安全評価に関する審査指針」「発電用原子力設備に関する技術基準を定める省令(昭和四〇年六月一五日通商産業省令第六二号)」が改定され、新安全審査指針及び技術基準に適合したとする定期検査が完了するまで、美浜原子力発電所一号機、三号機、大飯原子力発電所一号、三号、四号機及び高浜原子力発電所一号、四号機について、再稼動(調整運転を含む)をさせてはならない。

(3) 再稼動の違法性

 警告されていた原発の過酷事故が現実のものとなった現在、本件各原発を再稼動することは許されない。その理由の一は、本件各原発においても福島第一原発と同様に過酷事故が発生する具体的な危険がある。

 若狭湾沿岸地域で大地震が起こる危険性が高い。

 本件各原発の多くは、老朽化している。

 津波対策がとられていない。

 本件各原発は、適正な定期検査を受けておらず、再稼働の要件をみたしていないから再稼働は違法である。

 電気事業法三九条一項は、事業用電気工作物を設置する者は、事業用電気工作物を経済産業省令で定める技術基準に適合するように維持しなければならないとし、第二項は前項の経済産業省令は次に掲げるところによらねばならない。一号、事業用電気工作物は人体に危害を及ぼし、又は物件に損害を与えないようにすること、と定めており、五四条一項は特定事業電気工作物についてこれを設置するものは経済産業省令で定める時期ごとに経済産業大臣が行う検査を受けなければならないと定めている。

 定期検査は、事故故障の未然防止、拡大防止を図るため、また電気の供給に著しい支障を及ぼさないようにするため定期的に行う検査であり、これによって、電気工作物が工事認可申請及び経済産業省令で定める技術基準(発電用原子力設備に関する技術基準を定める省令(昭和四〇年六月一五日通商産業省令第六二号)等に適合するよう維持、運用することを確認することとされ、技術評価のポイントの一つは、国内外の発電所における評価対象機器のトラブルの発生の有無、トラブルの是正処置の適切性を評価することとされている。

 そうすると、本件各原発の定期検査は、福島原発事故の原因(地震による故障か津波による故障か)が究明され、新安全指針が制定され、それに基づく対策がとられなければ、トラブルの是正措置の適切性を評価できず、定期点検は終了したといえない。

 現行の安全審査指針は失効しており、無効である。

 福島原発事故により、従来の技術基準や安全審査指針の欠陥があきらかになり失効しており、今や定期検査がよるべき基準が存在しない。従来の技術基準や安全審査指針がもはやよるべき基準としての規範性をもたず、法的にも事実上も失効している。

④ 安全審査指針が失効したとする法的根拠について

 菅首相は、平成二三年六月一七日の参院復興特別委員会において、社会民主党の福島瑞穂議員からなされた「これまでの安全指針に基づく原発設置許可は事故で無効になったと思うがどうか。安全指針は失効したと思うがどうか。」との質問に対して、「これまでの指針をクリアした福島原発が重大な事故を起こしたのだから、指針が十分ではなかったことははっきりした。」、「最終的には安全指針や基準というものが、検証の結果変えられていくということになろうかと思います。」と答弁し、海江田万里経済産業大臣も、班目委員長も、「今回の東京電力福島第一発電所の事故をしっかりと教訓化をして、新たな安全基準を作ると。経産省は発電用原子力設備に関する技術基準を定める省令を直さなければいけない。」と述べている。これは、安全審査指針の「失効宣言」をしたものである。

 行政手続法第三八条は、

 「(2)命令等制定機関は、命令等を定めた後においても、当該命令等の規定の実施状況、社会経済情勢の変化等を勘案し、必要に応じ、当該命令等の内容について検討を加え、その適正を確保するよう努めなければならない。」

 と規定する。命令は弾力的なもので長の失効宣言によって失効する。

 最高裁大法廷平成一七年九月一四日判決、在外邦人選挙権制度違憲判決と最高裁大法廷平成二〇年六月四日国去強制令取消事件判決のとる「立法事実変遷論」からも規則等の失効は根拠づけられる。

 そもそも現行の安全審査指針は極めて不合理なものであり、それが原発事故を惹起した。

イ 「指針二七・電源喪失に対する設計上の考慮

 長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない。

 非常用交流電源設備の信頼度が、系統構成又は運用(常に稼働状態にしておくことなど)により、十分高い場合においては、設計上全交流動力電源喪失を想定しなくてもよい。」

 としている。今回の福島第一原発は、全電源喪失が長時間係属したため、冷却機能が失われたのであるから、長期の全電源喪失はあり得ないとする指針二七は間違いであった。

ロ 安全評価審査指針における単一故障指針の問題点

a 単一故障指針とは、事故が起きたときに、各種の安全機器例えばECCS(緊急炉心冷却装置―シャワー―強弱の複数あり)や緊急電源用ディーゼル発電機(DG―強弱の複数あり)のうち各種の全部(例えばECCSの全部)が壊れることを想定(共通原因故障ルールという)しなくてよい。各種の全部のうち、最強のものをただひとつだけ(単に一つだけ)の故障を想定すればよいというルールである。もっと具体的に言うと、ECCSには高圧用二つと低圧用二つがある場合には高圧用ひとつの故障を想定すればよい。DGに強、中、弱とあるときには最強のものひとつの故障を想定すればよい。すなわち、DGの最強のもの一個とECCSの高圧用のもの一個が同時に故障することは想定しなければいけないが、ECCSが全部同時に壊れることやDGが全部不起動となることは想定しなくてよいというルールなのである。

b これでは、巨大地震や津波に無力であることは誰の目にも明らかであろう。現に福島原発では一三台あったDGのうち一二台が地震若しくは津波によって破壊され、冷却水の循環に失敗したのである。

 単一故障指針は巨大地震や巨大津波に対する安全審査の方法としては全く不適切かつ無力である。巨大地震や巨大津波は原発のすべての施設危機を同時多発的に強烈にゆすり、水で破壊する。そのような場合に、再循環系(炉心の水が均等になるようにかき回す)配管が同時に複数破断したり、ECCSが同時に複数故障したり、DGが全部押し流されたりすることは容易に想定できるのである。」(以上、河合裕之著『脱原発』p.131)

 この安全指針の重大な欠陥が原発事故の「引き金」となったのであるから、点検基準としては失効している。

 通常の点検は安全審査基準による認可が下りたことを前提にして機器の点検だけで済ましているが、その前提を欠く状況になっているから、それを含めた点検が必要であり、それをしようとすれば、新しい安全基準の設定、それによる審査、安全保持のための防波堤などの防護施設の建設をして、その後に点検を行って初めて点検が完了したといえるのであるから、その点検を完了しないで再稼働することは「点検の終了」という再稼働の要件を欠き、再稼動は違法である。


 政府が出したストレステストの統一見解によれば、

 「わが国の原発については、稼働中の原発は現行法令下で適法に運転が行われており、定期検査中の原発についても現行法令にのっとり安全性の確認が行われている。

 さらに、これらの原発については、福島第一原発事故を受け、緊急安全対策などの実施について経済産業省原子力安全・保安院による確認がなされており、従来以上に慎重に安全性の確認が行われている。」

 としているが、先に六月一七日の国会の答弁で失効宣言をしておきながら、「現行法令にのっとり、安全性の確認が行われている。従来以上に慎重に安全性の確認が行われている」としているのは全く矛盾している。福島原発の原因が把握されていない段階で行われるストレステストに合格してもそれによって本件各原発の安全性が確保されたとはいえない。

 関西広域連合は、「原発事故によって琵琶湖が汚染された時の代わりの水源を考える」としているが、これは不可能であるが、行政の深刻な危機意識を物語る。


避難区域の拡大の必要性、そして自主的避難を選択する権利を(上)

東京支部  米 倉   勉

 福島第一原発の事故による放射能汚染の状況は、事故発生から四ヶ月が経過した今も収束せず、広がる一方である。

 この間に、周辺住民に対して段階的に避難の指示がなされ、五月末日を目処にようやく計画的避難区域の住民の避難が実現したことは報道のとおりである。この経過については、原発からの同心円で区域を設定することの不合理性や、高齢者の移動による被害等、様々な問題が指摘されている。何よりも、著しく放射線量の高い地域の住民の避難が大きく遅れたことは重大な問題であり、さらに、このように強制的な避難がなされた地域の住民についてさえ、被害補償は後回しのままである。

 加えて、避難政策の状況には、以下のとおり大きな問題が残されたままである。並行して様々な課題に取り組むことが困難であることは承知の上で、問題提起をしたい。この未曾有の大規模事故においては、並行して多くの困難を乗り越える取り組みが必要とされている。

一 政府の避難政策

 周知のとおり政府は、周辺住民の放射線被曝を防止するための指示として、事故発生後一年間の積算放射線量当量が二〇ミリシーベルト(mSv)を超えるかどうかを基準に避難区域を設定している。二〇mSvという値は、ICRP(国際放射線防護委員会)の勧告(二〇〇七年)が定める、「緊急時被ばく状況」における基準の最低値であると説明されており、根拠とされるICRP勧告は、放射線の管理基準として次のように定めている。

・事故や核テロなどの非常事態(緊急時被ばく状況)

  (一般公衆)年間二〇〜一〇〇mSvの間に目安

  (緊急措置や人命救助に従事する人々については、五〇〇〜一〇〇〇mSvを制限の目安とする)

・事故後の回復や復旧の時期等(現存被ばく状況)

   年間一〜二〇mSvの間に設定

・計画的に管理できる平常時(計画被ばく状況)

  (一般公衆)年間一mSv以下の線量当量

  (職業人) 五年間に一〇〇mSv

 年間二〇mSvという基準に基づき、政府は、(1)半径二〇km圏内を警戒区域(従前の避難指示区域)として立ち入りを禁止し、(2)事故発生から一年間に積算線量が二〇mSvに達するおそれのある地域を計画的避難区域として、概ね一ヶ月を目途に計画的に避難をさせた。さらに(3)その周辺の一定の地域について、緊急時避難準備区域として、常に避難が可能な準備を行うものとした。加えて、(4)特定避難勧奨地点として、局地的に一年間に積算線量が二〇mSvに達するおそれのある地点について、世帯ごとに避難を促す対象としている。

二 健康被害を避けるためにはより広範な避難が必要

 この二〇mSvという数値は、住民の被害防止のために十分な基準であるとは言い難い。放射線被曝による健康被害は、年間二〇mSvという数値を境に影響がなくなるものではなく、その確率的な影響は線量に応じて連続的に存在する。従前は、晩発性障害にも閾値があり、一〇〇mSv以下の低線量では健康被害は発症しないという見解があったが、現在は否定されている。低線量被曝による健康被害については十分な研究例がなく、不明な点が多とされているが、理論上、二〇mSvの被曝で、生涯に癌によって死亡する確率が〇・一%増加すると言われている。人口一〇万人あたり一〇〇人が被曝による癌で死亡する計算になる。一〇mSvで〇・〇五%、五mSvでは〇・〇二五%、一mSvでは〇・〇〇五%で、一〇万人あたり五人という計算になる。

 この数値は、人体への有害性として、到底無視できない水準であろう。一〇万人あたり数十人とか一〇〇人が死亡するような事態は極めて異常なことであって、容認できるはずがない。ことは生命・身体の安全という人間の生存に関わる問題であり、基本的人権の中核をなす(憲法一三条、二五条)。たとえそれが、数十年後に発症する確率的な被害であっても、目前の被害でなければ軽視してよいという理由はない。癌の発生のほかにも、心疾患などの発症や生殖機能の障害など、様々な有害性が指摘されている。そのような意味を持つ放射線被曝を余儀なくされる地域で生活することは、可能な限り避けるべきであり、早期に避難することが必要であるはずだ。

 問題はその範囲(程度)であるが、本来ならば年間一mSv、過渡的な基準としても、五mSvが限界であろうと思われる。理由は以下のとおりである。

 ICRPの基準は上記のとおりであるが、そもそもICRPの勧告には、健康被害を防止するために十分な基準とは言えないという批判がある。例えば、BSSと呼ばれる国際安全基準(ILOやIAEA、OECD等で構成される「電離放射線に対する防護と放射線源の安全のための国際安全基準(一九九六年)」)の規定する「公衆被曝の線量限度」は、「特別な状況下では一年間の実効線量最大五mSv。ただし、連続する五年間の線量平均が年一mSvを超えないことを条件のもとでとする。」とされている。ICRPの上記基準は、こうしたスタンダードを改悪したものだという批判を受けていた。

 そして、このような批判があるICRPの勧告においてすら、二〇〜一〇〇mSvというのは緊急時被ばく状況における数値であって、回復・復旧の時期における基準は一〜二〇mSvとされている。政府は、未だ原子炉が安定冷却の段階になく緊急時の状況であるから、その最低値で構わないという見解を維持している。しかし、そもそも平常時における基準は一mSvとされていて、二〇mSvというのは極めて例外的な数値である。既に事故から四ヶ月を経過し、新たな放射能の大気中への放出は一応収まっているとされる現在、今後も緊急時の基準のまま扱うことは不当である。

 このようにして、年間二〇mSvを超える地域は避難を指示される対象となるが、それ以下の地域ではその対象とならず、また避難に対する補償も明示されないという現状にある。上記のような国際安全基準からしても、現在の二〇mSvという基準による避難政策は、早急に見直される必要があると思われる。


JRへの雇用要請に関する違法状態

政府の責任は追及されねばならない

東京支部  萩 尾 健 太

第一 政治合意は未だに果たされていない

 一九八七年三月、国鉄分割民営化に際して組合差別によってJR各社へ採用されなかった七六二八名の国鉄労働者が国鉄清算事業団に収容されました。それから三年後の一九九〇年四月、一〇四七名が国鉄清算事業団から解雇されました。

 国労、全動労等に所属する被解雇者らは、路頭に放り出され、塗炭の苦しみを味わう中で、長期の労働委員会闘争、裁判闘争を闘ってきました。そして、昨年四月、鉄道運輸機構を相手にした裁判の原告ら九〇四世帯は、この解決について与野党四党と政府との間で合意をし、鉄道運輸機構と最高裁判所で和解しました。これによって、原告らは、その労苦からは不十分ではあるものの、金銭の支払いは得ました。

 しかし、その後一年以上を経ても、未だに、JR各社への政府の雇用要請、公的部門への採用、という政治合意は果たされていません。

 たしかに、六月一三日、政党の要請内容は政府が取り次いでJR各社に伝えられましたが、JR各社への「要請」というかたちではなされていません。

 また、政府が努力することになっていた公的部門への採用については、六月の政党からの要請の段階で落とされました。

 これは、もはや違法、と言える状態に至っています。

第二 違法状態の根拠と問題点

一 政府の合意の法的性質

 政府と合意した内容は、金銭の支払いのほか、政府がJR各社に約二〇〇人の雇用を要請し、関連企業や自治体等への雇用は政府として努力する、というものです。

 この合意は、民主党、公明党、社民党、国民新党各党の幹事長が押印して政府に申し入れをし、政府側は、当時の前原国土交通大臣、菅直人財務大臣、平野博文内閣官房長官が署名・押印したものとなっています。

 そして、鉄道運輸機構を相手にした四原告団の代表と、所属組合・支援組織の四団体の代表が、政治合意を受け入れる確認書に署名・押印しています。さらに、四原告団の各原告は、最高裁で一括して裁判上の和解を行う、という承諾書に、個別に署名押印し、それを政府に提出しています。

 そもそも、被解雇者らが要求してきたのは「解雇撤回・職場復帰」でしたから、その内実である「雇用の実現」は欠かせない要求でした。政府や四党が責任を持って署名・押印した文書によって、この要求が容れられたと判断したから、上記の権利放棄に応じたのです。自分が雇用を望める年齢でない原告も、若い仲間の雇用が実現できる、と言う理由で、政治合意を受け入れた者が少なくありません。

 すなわち、各原告が、政治合意を受け入れる結果、裁判上和解し係争する権利を放棄するとの合意をしたのです。

 その点で、この政治合意は法律上の効果を生じています。単なる道義的な合意ではなく、法的義務を発生させた合意といえます。

二 1年経過したことの意味=採用希望を断念させられる

 二〇一〇年六月中に、四原告団としては、JRに雇用を希望する者を、当時五五歳以下の原告の中から一八三名とし、関連会社、公的部門への希望者と併せて三二二名の名簿を政府に提出しました。

 しかし、それから一年経過してしまうと、当然、当時五五歳以下の者も、五五歳を越えてしまい、就労に不利となります。また、一年も経てば、家庭の事情などで、採用希望を断念して、他の職に就職せざるを得なくなる者も出ざるを得ません。

 このように、政治合意から一年以上が経過する、と言うことは、実際には、採用希望を断念させるに近いものでした。それ自体によって、政府の約束が果たされないことになり、政治合意を受け入れた各原告らにとっては「騙された」ことになります。

 その上、前述のように、六月一三日、政党の要請内容は政府が取り次いでJR各社に伝えられましたが、JR各社への「要請」というかたちではなされていません。

 また、政府が努力することになっていた公的部門への採用については、今年六月の政党からの要請の段階で落とされました。しかし、四者四団体が合意調印し、各原告が承諾書を提出したのは、この公的部門への採用も前提とするものです。今回の政党からの要請にそれは入っていなかったとしても、政府の合意文書としての効力は残ると考えるべきですが、その採用の努力はなされていません。

三 ILOにおいても問題とされる

 これは、ILO国際労働機構においても、重大な問題になると思います。

 この政治合意にさいしての四党からの国土交通大臣への申入れ文書には、東京高裁でも、国鉄による組合差別の不当労働行為が認定されたことが明記されています。不当労働行為があったからこそ、政府が政治合意をなした、ということになるのです。

 ところが、その不当労働行為を前提とした合意が履行されない、と言うことは、政府が不当労働行為(=ILOにおいては反組合的差別)を是正するために適切な措置を取りえていない、と言うことになります。

 国鉄闘争共闘会議に結集していた労働組合は、国鉄分割民営化に際しての反組合的差別と、その後の労働委員会命令に対する行政訴訟における差別是正措置の不全について、ILO条約勧告適用専門家委員会に、ILO八七号結社の自由条約、九八号団結権条約違反として申告しています。昨年の政治合意後の状況についても、不十分なものとして申告していますが、結局政治合意が履行されない現状は、さらなる条約違反としてILOの場でも問題とされ、日本が国際的批判を浴びることになりかねません。 

四 他の政治解決にとっても悪しき前例となる

 最近ではB型肝炎訴訟のように、公害や薬害の事件では、政治解決は珍しくはありません。

 従来の政治解決では、もちろん、政府がなした合意は履行されてきました。

 しかし、今回、政府や与党の責任者が署名・押印までした合意が履行されない、と言うことになれば、それが悪しき前例となります。今後、政治合意が守られなくなる、と言うことも考えられます。

 他方で、「政治合意」の権威は地に墜ち、紛争当事者にとっては、紛争解決の一つの希望が失われることになりかねません。

 そのことからすれば、これは、本件だけの問題ではありません。政治合意で解決するような紛争当事者みんなの問題といえるのです。

第四 まとめ

 上記に述べたとおり、ことは、政府の約束が違法状態になっており、国際的にも問題が生じる、という事態のなのです。

 そもそも、国鉄問題は、中曽根元首相が告白したように、国労潰し、総評潰しという国家的不当労働行為です。今回、政府が約束を履行せず、国労闘争団が闘争終結を余儀なくされるに至ったことは、さらなる国家的不当労働行為と言うべき事態です。

 政府の責任追及は、重大な課題であると言えます。


「刑務所のいま 受刑者の処遇と更生」のご紹介

千葉支部  守 川 幸 男

一 はじめに

「発刊によせて」の紹介もかねて

 団の五月集会で同期の小池振一郎弁護士から「ぜひ書評を」と言われ、引き受けてから二ヶ月を経てしまった。

 本書は日弁連の刑事拘禁制度改革実現本部編著で、(株)ぎょうせいから今年の四月、一七一四円で発行された。

 二〇〇一年に発覚した名古屋刑務所における刑務官による虐待死亡事件を契機として行刑改革会議が設置され、受刑者処遇のあり方について根底からの見直しが提言された。そして、監獄法を全面改正した刑事被収容者処遇法で、各施設ごとに視察委員会が設置され(私も市原刑務所視察委員長をしている)、処遇の一定の前進がみられたが、なお課題は多い。

 この法律は施行後五年目の見直し期を迎えた。また、裁判員制度の施行と三年後の見直しに向けて、市民の間に犯罪防止のための対策と受刑者の社会復帰のための処遇への関心が高まっている。本書はこのタイミングで発行された。

 刑務所に入れて懲らしめ、あるいは職業訓練を受け、再犯は減ると思っている人や、悪いことをした人間は少しでも長く閉じ込めておけ、という考えの市民も多いと思われる。

 本書は、最新の施設内の生活や社会復帰後の実情を紹介し、統計データや弁護士会の調査に基づく海外の事例も示しながら、処遇の実態と問題点や課題を客観的かつ具体的に紹介している。

 この資料の中には、法務省矯正局、同保護局などの関係諸機関から提供されたものもある。

二 内容のご紹介

 本文は七章まであるが、「序章」と「終わりに」がある。

序章「裁判員制度と受刑者の処遇・更生」では

 裁判員制度発足後一年間の執行猶予判決の七割に保護観察処分がついたのは、更生してほしいという裁判員の思いの現れ、社会福祉の問題である高齢者、貧困者の生活保全を刑務所が肩代わり、拘禁率の上昇と仮釈放の激減、などが紹介されており、冒頭の「発刊によせて」とともに本書全体を貫く問題意識が示されている。

第1章「刑務所とは何か」では

 刑務所の種類と数や分類基準(指標)などの紹介のあと、再犯率の高さやその原因、社会的背景が分析されている。また、刑務作業の実態を紹介し、職業訓練を受けた受刑者は幸運、という実情が紹介されている。

第2章「刑務所の生活」では

 受刑者の一日、外部とのつながり、規律などが紹介されている。

第3章「受刑者は、なぜ再犯に至るのか」以下は、第4章「受刑者の更生のために刑務所で行われていること」、第5章「高齢受刑者・障がい者」、第6章「薬物事犯」、第7章「受刑者の更生―社会との連携」と続く。

 これらを通じて、受刑者の特性に応じた更生の努力の開始とその不十分さ、施設内処遇と保護観察などの社会内処遇との連携(矯正と保護の連携)の不十分さが強調されている。

 具体的には、入所中の職業訓練、服役時における作業が釈放後の職業と結びついていないこと、帰住先の確保の困難さ、仮釈放と保護観察の重要性、その受入れ体制の不十分さ、仮釈放は「野放し」の誤解と満期出所こそ「野放し」との指摘、無期刑の終身刑化、暴力団、性犯罪、交通事犯、薬物事犯等に対応した更生プログラムの詳細などが記述されている。

 特に、薬物依存は「病気」であり「治療」の対象である、(しかし「矯正」はもちろんのこと、守川注)「治療」(原文のまま)によって「治る」わけではない(きびしい指摘である)、「予防」「早期発見」「早期対応(治療)」が重要である、との指摘は重要である。初犯者が執行猶予になって治療の対象外になっている現状をどうするかは、刑事弁護に関わる者として考えなければいけない。

「終わりに」では

 刑法犯の認知件数の減少のもとでの体感治安の悪化、マスコミ報道と厳罰化の傾向、長期受刑者の指示待ち人間化、無職者の再犯率の高さ、死刑制度賛成者が七割の日本でも裁判員経験者でこれが五割にとどまったある県のアンケートなどが紹介されている。

 ここにも「死刑によせて」や「序章」とともに、本書全体を貫く問題意識が示されている。

三 どう読み、活用するのか

裁判員裁判への活用の観点を含めて

 私はかつて、「犯罪不安社会 誰もが『不審者』?のご紹介」(団通信二〇〇七年一〇月一一日、一二五一号)と、続いて「治安・監視強化と重罰化は安全・安心のために効果的なのか」(同年一一月一一日、一二五四号)を書いた。

 前者は光文社新書刊で、浜井浩一氏と芹沢一也氏の著作であり、後者は浜松の日弁連人権大会シンポジウムの分科会に関連した問題提起であった。私たちは、犯罪の実態を正確に理解して論評する必要がある。そして多くの国民に正しく問題提起していく必要がある。

 日弁連の本書はこれらの問題意識とも共通し、主として行刑の分野に関する実態をもとに問題提起したものである。私たちは刑事弁護をしながらも、被告人の判決後の処遇についてあまり関心を示して来なかった。しかし、裁判員裁判の開始とともに、この点に関する市民の関心も高まり、これに伴って(と言うのも本来は逆であるが)弁護士の関心も高まってきている。

 本書が、この問題をどう考えるべきかについての議論を開始するきっかけとなればと思い、少し詳しく紹介した。また、裁判員裁判で(もちろんそれ以外の刑事弁護でも)刑務所の矯正機能が不十分だ、更生に役立っていないと指摘することは簡単だが、だからどうすべきなのかを示さないといけない。私自身も弁論で、刑務所の矯正機能の不十分さを言おうかと考えたこともあったが、結局できなかった。

 長期の宣告刑が予想されるケースで、仮釈放がほとんど行われない現状で、この被告人は満期出所後一体何歳になるのか、そのときどんな仕事が可能なのか、被告人を受け入れるべき家族や地域がどうなっているのか、応報刑や教育刑のバランスをどう見るのかなどの刑罰の目的、機能とも関連させて、何か言えるのかを考える必要がある。

 また、裁判員裁判に限らず、執行猶予を求める場合に、再度の執行猶予がつかないことを念頭に、保護観察に付すべきだとの量刑意見を言うのかどうかも、事案ごとに検討することになろう。

 今年の団の松江五月集会では、裁判員裁判の経験を通じて、団員の中に、市民が量刑に関わることに肯定的な意見が増えていた。

 裁判員裁判の経験も蓄積してきているので、これらの各論点について少し意見交換してみたらどうであろうか。


山田善二郎著

「アメリカのスパイCIAの犯罪」を勧める

東京支部  鶴 見 祐 策

一 鹿地氏救出の全貌

 日本国民救援会元会長の山田善二郎さんが表記の著作を出版された。「鹿地事件から特殊収容所まで」が副題である。朝鮮戦争のさなか米軍謀略機関による鹿地亘拉致監禁事件は日本全体を揺るがす大事件(五二年)となった。その鹿地氏を文字どおり命がけで救出したのが当時二五歳の山田さんなのである。すでに山田さんの体験記「決断」が上梓されているが、今回の本では、米軍の秘密の施設に監禁され自殺を図った鹿地氏の存在を知ってから、極度の緊張を強いられながら外部と連絡をつけ、猪俣浩三代議士の支援と決断のもと乾坤一擲の記者会見と国会での審議に持ち込み真実を公式に暴露することによって奇跡的な救出劇が実現されるのであるが、それまでの過程が臨場感をもって克明に綴られている。そこにこの本の特徴がある。

二 キャノン機関での奇怪な体験

 予科練から鈴鹿海軍航空隊に配属された山田さんが敗戦を迎えたとき満一七歳であった。戦後の混乱期に米軍キャンプの従業員となって家族の生活を支えていたが、横浜の将校宿舎の調理を受け持った関係からジャック・Y・キャノンを知ってその家で働いた。やがてキャノンが準備した「T・Cハウス」に移動したあと「キャノン機関」の根城であった「本郷ハウス」(旧岩崎邸)や茅ケ崎の「C―三一号館」などのアジトに身を移しながら、送り込まれてくる人達(捕虜)の世話にあたっていたという。アジトには日本人、朝鮮人、中国人など多数が入れ替わり連行され拘束されていた。彼らは「お客さん」と呼ばれた。彼らをスパイとして養成して共産国に潜入させるのが施設の目的であった。

 鹿地氏は戦前プロレタリア作家として知られていたが、中国に亡命して戦時中は宣撫工作などに関っていた経歴からスパイ工作の標的とされたに違いない。鹿地氏は散歩中に暴力で拉致された。クレゾールをあおって抗議の自殺を図ったが未遂で終わった。

 アジトでは外部との連絡が厳重に断たれていた。そして「お客さん」の人権が蹂躙される場となった。山田さんは「わたくしが目撃し体験した奇怪な事実を生涯忘れることができない」と述懐している。

三 今に続く国際的な犯罪と謀略

 松川事件をはじめ戦後の謀略事件の背後には、必ず米軍の謀略機関の影がつきまとう。とりわけ「キャノン機関」の悪名は高い。キャノンが死亡して何年か経つが、その身辺にはアメリカ諜報機関の対日工作を裏付ける証拠が多く遺されているに違いない。CIAは今も極秘事項の公開を拒んでいると言われる。

 その生態を垣間見ることができる。その意味でも貴重な証言と言えよう。

 同じ手口の謀略は今も続いている。スパイ工作、誘拐、拉致、監禁、暗殺、拷問など後を絶たない。山田さんは、キューバのグアンタナモ基地CIA収容所などで行われている多くの人権侵害を指摘しながら、その国際的な犯罪性を鋭く追及している。

四 アメリカの謀略機関と日本の警察との関係

 私がこの本を推薦する理由はそれだけではない。とりわけ私が強調したいのは、これら米軍の謀略機関や諜報機関CIAと我が日本の警察首脳部との密接にして不可分の関係なのである。

 山田さんによれば、横浜のハウスでキャノンが度々催したパーティには、招待された国家警察長官斉藤昇、警視総監田中栄一、内閣調査室長村井順、神奈川県知事内山岩太郎らが夫人同伴で出席して山田さんが作った西洋料理を食していたという。重要なのは、米軍による鹿地氏らの不法監禁に日本の警察の上層部が無関係でなかったことである。猪俣代議士が斉藤長官に救出を依頼したとき斉藤はひたすらマスコミに発表しないでもらいたいと懇願したという。彼はキャノン機関のメンバーに捜査と逮捕の特権を認める証明書を発行していた。国会では斉藤長官と岡崎勝男外相は米軍が日本人を監禁した事実はないと口をそろえ、呼応して極東米軍司令部も不法監禁を否定する。それだけではない。国民の怒りを逸らすため、警察と検察は三橋政雄の電波法違反(三橋スパイ事件)に連座させる形で鹿地氏を被告として起訴に持ち込んだものの肝心の三橋との接点が証明できずに無罪で終わるのである。このスパイ事件の捏造も米軍の差金であろう。

 山田さんは、この斉藤長官がアメリカ陸軍CIC(対敵諜報部)を参考に警備公安警察の特殊情報機関「公安四係」を作った事実にも言及している。これには江間恒(元警視正)の証言がある。

 それが今日も支配層の権益守護を任務とし時には非合法活動も辞さない特殊な権力組織、公安警察(政治警察)が存在を続ける基盤となっている。

 あわせて斉藤長官が自民党の国会議員になったこと、自民党議員がCIAに資金をせびったこと、岸信介や佐藤栄作や右翼などが要請してCIA資金と結びついてきたことにも触れられている。

五 隠然たるもう一つの権力

 議会制民主主義をとる我が国では、国政選挙によって多数派を形成した政治勢力によって統治機構が組成され、それが政治権力を行使することによって国民主権がそれなりに実現されているというのが、いわば教科書的で通説的な説明と言えるだろう。その説明自体は間違いではないが、それとは全く別個で異質な「権力(暴力)」が我が国に存在していること、それが異質で底知れぬ不気味さを漂わせながら生き未だに続けていることを、この山田さんの本は、私たちに改めて思い知らせてくれる貴重な教材にもなっている。そこに真価があり、私が団員諸兄に購読を勧める理由である。

六 蛇足

 蛇足ながら、私は一八歳のとき裁判所に採用されて最初に通勤した場所が、キャノン機関が撤収後の「本郷ハウス」であった。まだ少数の外国人の影が残っており、広い庭に設けたカマボコ兵舎が何棟か放置されていた。思い出が深い。今は東京都に移管の旧岩崎邸として見学者が絶えないが、昔の面影はあまり残っていない。

(学習の友社・定価一四〇〇円)


還暦祝賀会の報告

岐阜支部  橋 田 直 実

 七月一二日、自由法曹団岐阜支部において、安藤友人団員、矢島潤一郎団員の還暦祝賀会が行われました。両名の外、岐阜支部の団員二〇名が参加しました。

 両名による講演の後、懇親会が行われました。

 安藤団員、矢島団員には、「これまでの弁護士経験を振り返って」というテーマで講演してもらいました。弁護士になった理由、弁護士としての姿勢、これまで参加した弁護団事件等について、約三十年の弁護士経験に基づく興味深い話が聞けました。

 岐阜支部においては、四十期代の団員が極端に少ないため、五十期代以降の弁護士にとっては、貴重な経験を学ぶ良い機会でした。当初は、還暦を迎える団員が二人いるから何かやるかという程度の企画でしたが、予想以上によい企画となりました。


「日の丸・君が代」問題の議論への疑問

―「国民の教育権」と「親権」

東京支部  後 藤 富 士 子

 この間、「君が代」の起立斉唱を命じる職務命令に違反した教員に対する不利益処分をめぐる最高裁判決が相次いだ。最高裁は、この職務命令や不利益処分が憲法第一九条で保障された教員個人の思想・良心の自由を侵害しないと判示している。

 これら最高裁判決をめぐって、六月二一日号で穂積匡史団員が、七月一一日号で齊藤園生団員が、それぞれ論評しているが、私は深い違和感を禁じ得ない。というのは、これらの議論には、親=国民が不在だからである。かつて私が憲法を勉強した際、「国民の教育権」というキーワードで問題を捉えていた記憶があるのにもかかわらず。

 そこで、教育基本法(平成一八年)をみると、その前文は次のとおりである。

 「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。

 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を承継し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。

 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。」

 この前文から明らかなように、教育を推進するのは国民である。また、義務教育については、「国民は、その保護する子に、普通教育を受けさせる義務を負う。」(同法五条一項)とあり、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって」(同法一〇条一項)と、子どもではなく、保護者の義務と責任を定めている。さらに、家庭と公権力の関係について、「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を構ずるよう努めなければならない。」(同条二項)と定めている。すなわち、子どもを教育する権利は、第一義的に親にあり、国家の教育権は否定されている。

 ところで、子どもをめぐる親と国家の関係について、ドイツでは、ワイマール憲法に由来する基本法第六条二項に「子の養育および教育は両親の自然的権利であり、かつ、第一次的にかれらに課せられる義務である。国家は、両親の活動を監督する」と規定されている。この規定に基づき、連邦憲法裁判所は、一九八二年一一月三日、離婚後の単独親権強制を違憲・無効とする判決を下した。そして、「子どもの権利条約」の批准に伴う親子法の改正(一九九七年)により、父母の婚姻関係の有無にかかわらず、共同配慮(ドイツでは、「親権」という語彙は「親の配慮」に代えられた)となったが、より根源的なのは、親の配慮が、「子に対しては義務であるが、第三者に対しては絶対的効力を有する」とされ、また、「最高の人格的権利で放棄できない」とされていることである。

 これに対し、日本では、民法八二〇条は、「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。」と規定しているが、離婚や未婚は単独親権制をとっている。そして、「どちらが単独親権者として適格か」について、最終的には官僚裁判官の民事行政処分(家事審判)によって決定される。すなわち、子の監護・教育について、両親の自然的権利でも、第一次的なものでもなく、国家が支配するのである。

 齊藤団員によれば、最高裁が教師の教育の自由についての主張に一言も触れなかったことを最も残念なこととし、「国の主人公は君たち国民だと教えながら、卒業式には主人公であるはずの子どもの卒業制作をかざらない、代わりに国の象徴の日の丸を飾って、起立までするなんてできない」という原告の発言を紹介している。そして、子どもの学習権を充足するためにこそ教師に教育の自由があり、教育委員会の指示は、教育基本法一〇条の「不当な支配」だとの主張が無視されたことが残念だというのである。

 しかし、前記したように、平成一八年制定の教育基本法一〇条は、「家庭教育」を定めたものであるし、同法一六条一項に「教育は、不当な支配に服することなく、」との文言があるが、齊藤団員が前提する「子どもの学習権を充足するためにこそ教師に教育の自由があり」とは結びつかない。

 むしろ、私は、親の教育権を一顧だにしないでおいて、教師の「教育の自由」なんて言われると、ムカッとする。そして、教師の個人的な「思想・良心の自由」で、公権力に対抗できるはずはないじゃないか、と白けてしまう。要するに、公権力も教師も、「国親思想」を共有しながら、子どもも親もそっちのけで争っているのではないですか?

 穂積団員の論考は、「反対意見を多数意見に変える闘いの始まり」という。

 しかし、前述したのと同じように、少数の教師の「思想・良心の自由」を尊重しようという意見が、多数意見に変わる契機は何もないとしか思えない。「国民の教育権」すなわち、「子育て」について「国の支配」ではなく「親の権利」への理念的転換がなされない限り、解決できないと思う。

 そして、穂積団員は、「宮川反対意見は、上告人となった教職員らが、自らの教師生命をいわば犠牲にして勝ち取ってくれた宝ものである。これを大切に守り、そして大きく育てていく闘いが、これから始まる。」と締めくくっている。

 しかし、私には、「大きく育てていく闘い」など、どんなに考えても想像できない。むしろ、上告人となった先生方の行為を無駄にしないためにこそ、「国民の教育権」を確立させることが必要なのではないでしょうか? そして、それは、弁護士の身近にある、単独親権制をめぐる法制度の改革につながっているのではないでしょうか?

(二〇一一・七・一四)


第五回民弁・沖縄交流会のお知らせ

沖縄支部  加 藤   裕

 沖縄支部は、二〇〇七年から、毎年秋に、韓国「民主社会のための弁護士」(民弁)の米軍問題研究委員会との間で、相互訪問して平和交流会を行ってきており、これまで、双方の米軍基地訴訟の経験交流や情勢討議、現場訪問などの交流をしてきました。昨年のソウルでの交流会の様子は団通信一三六九号で赤嶺朝子団員が報告しています。

 五回目となる今年の交流会は、沖縄での開催を予定しています。韓国側からは一五名程度が参加するとのことです。予定はおおむね次のとおりを計画していますが、全国の米軍基地問題に取り組んでいる団員の方々の参加も歓迎いたします。なんだか懇親会だらけですが、息長く交流を続けようという思いの表れ、と受け止めて下さってよいと思います。参加してみたい、という方は沖縄合同法律事務所(〇九八―八五三―三二八一)までご連絡ください。

第五回民弁・沖縄交流会

日 時:一〇月一日(土)午後二時ころ〜 セミナー(那覇市内)

議 題:沖縄と韓国における米軍基地をめぐる環境問題

     沖縄と韓国での米軍基地関係訴訟の報告

     米軍基地撤去を展望した情勢討議

夕 刻:懇親会(那覇市内)

     一〇月二日(日)午前〜四日(月)午前 渡嘉敷島ツアー

メニュー:渡嘉敷島の戦跡見学

     釣り、シュノーケルなどのマリンレジャー

     一〇月四日(火)夕刻 懇親会(那覇市内)