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<<目次へ 団通信1401号(12月11日)


和泉 貴士 自死遺族支援弁護団の一年
広田 次男 原発避難民の今
馬奈木厳太郎 宮城・仙南民商の東電に対する損害賠償説明会のご報告
板井  優 熊本における「映画布施辰治」の上映運動の報告
井上 正信 日本版NSCと秘密保全法制
小林 善亮 【自由法曹団九〇周年&東京・お台場総会特集 その四】
次長退任のご挨拶



自死遺族支援弁護団の一年

東京支部  和 泉 貴 士

一 はじめに

 昨年一二月に自死遺族支援弁護団を結成してから、一年が経過した。筆者は弁護団の東京の取りまとめ役として、仲間とともに自殺対策のことを考えない日はないほど、弁護団の活動に没頭する日々を過ごしてきた。幸いにして設立当初の段階ではほとんど一般に認知されることの無かった自死遺族支援という領域が、近時徐々に注目を集めはじめている。新たな人権領域を開拓した若手弁護士達の奮闘と一年の成果を振り返りたい。

二 結成の経緯

 現在、年間自殺者が三万人を超える事態が一三年連続で続いている。今年は序盤こそは自殺者の減少が見られたが、震災とともに自殺者は急増、一四年連続三万人超えは避けられない事態となっている。一般に、一件の自殺について自殺者の近親者は四〜五人、すなわち、年間で一二〜一五万人の遺族が発生している計算となる。

 遺族の多くは、周囲に死因を隠したまま生活している。後述するが、自殺に対する無理解(覚悟の死)、倫理的非難(命を粗末にする、社会的敗北者)が世間一般では根強いからである。年間一五万人発生する遺族の大半は、己の苦しみを誰に語ることもできないまま、声をひそめて生活しているのが現状である。

 他方で、従来、自殺対策といえば、自殺予防であった。自治体や国の施策は自殺者をいかに減らすかという点に重点が置かれ、自殺予備軍のメンタルケアのみが偏重される傾向があった。例えば、有名女性タレントの自殺と若年女性の自殺との相関関係などは大きく取り上げられる一方で、遺族が現実に直面している法的問題については、ほとんど光が当てられることがなかった。このことは、本来社会矛盾の産物として発生し、社会問題として取り扱うべき自殺問題について、遺族支援分野に限っては遺族側の自己責任として放置されてきたということに他ならない。

 自死遺族支援弁護団は、後述する自殺賃貸事案の増加を契機に、従来注目されることのなかった遺族支援の分野に光を当てるとともに、社会運動としての遺族支援を提唱し、遺族の組織化や政策提言を積極的に行った最初の弁護士集団であった。

三 遺族が抱える法律問題解決への障壁

 遺族が抱える法律問題について語る前に、遺族が直面する法律問題を解決するには、大別して四つの障壁が存在することを説明しておいた方が、より問題について深い理解が得られるものと思われる。

(1)親族間の不和

 自殺が発生した場合、親族間で犯人探しが始まることは珍しくない。例えば、子供を自殺で亡くした場合、夫婦仲が悪くなることは珍しくない。また、夫を自殺で亡くした場合、夫側の親族から妻が強く非難されることも少なくない。「こんな汚い血と結婚させるのではなかった。」などと言われた例もある。そしてこのことは、直面する法律問題について、親族間で意思統一を図ることが極めて困難であることを意味する。

(2)近隣住民からの視線

 遺族は、自殺が生じたことについて過剰に責任を感じていることが少なくない。そのため、死因について近隣住民に明らかになることを極端に恐れる。他方で、近隣住民は死因を秘していること自体に奇異の念を抱き、理由を詮索することが少なくない。自殺の事実が明らかになった場合、自宅で居住を続けることが困難になるケースもある。多くの遺族は裁判沙汰になった場合に、近隣住民に死因が明らかになってしまうのではないかと危惧する。そのため、不当な請求であっても家族間で協議の末、支払うことを選択することは珍しくない。

(3)相談機関の不適切対応

 例えば、相続放棄について、三か月の熟慮期間切れ一日前に、筆者に電話で相談を申し込んできた事例がある。一週間前に鉄道の飛び込み自殺で鉄道会社から損害賠償請求をされ、行政等の相談窓口に連絡したが、熟慮期間のことは聞いたことがなかったという。また、法律家に相談したが、相続放棄について説明を受けることがないまま夫の債務の支払いを続けていた遺族もいる。後述する自殺賃貸事案について、法テラスに相談したが、破産するしかないと言われたケースもある。いずれも、自殺対策全般においてメンタルケアばかりが重視され、法律問題に関する実務的な支援体制が脆弱だったことを示す事実である。

(4)遺族自身が抱える問題

 例えば、長時間労働を強いられうつ病を発症して自殺した事案では、遺族が労災に関する知識を有しなかったため、労災申請を検討していなかった。また、近親者の自殺によって体調不良となり、外出が困難となったため法律相談を受けることができなかった事案もある。さらには、交渉知識が不足しているため、相手方弁護士の請求する金額が妥当なものか判断できないことも少なくない。

 以上のような障壁が存在するがゆえに、不当な請求が来た場合も遺族は判断を先送りし、追いつめられた末に最後は支払う、といった事例が後を絶たない。

四 遺族が抱える法律問題

(1)自殺賃貸事案

 アパートの居室内で自殺をした場合、連帯保証人である遺族に対して大家から損害賠償請求がなされる事例が多発している。法律構成としては、原状回復請求と将来賃料の賠償請求である。

 いずれも、自殺によって当該物件が事故物件になったことを理由とする。自殺によって当該物件について心理的瑕疵が生じ、当該物件を「気持ち悪い。」、「化けて出るのではないか。」と思う人間が多数生じて、次の賃借人の発見が困難になることを前提になされる請求である。

 原状回復請求については、近時の流行はオールリフォームである。自殺の場所が風呂場であろうが台所であろうが、全ての部屋について壁紙その他設備を全て取り替える。三〇〇万円程度の費用が請求されることが多い。筆者が経験した例では、二階居室での自殺について、壁を取り壊したうえで柱の取り換え工事の代金まで請求された例がある。一〇〇〇万円を超える請求がなされることも少なくない。

 将来賃料の請求については、次の賃借人が見込めないことを根拠になされる。東京地裁は、平成一九年八月一〇日、平成二二年九月二日に、いずれも大家側勝訴の判決を出している。アメリカでは、賃借人がエイズで死亡したことを次の賃借人に告知してはならない旨、州法で規定されている州がある。他方で日本では、前の賃借人が自殺したことは宅建業法四七条で告知しなければならないと判示されている(前記裁判例。)。このことは、遺族に対する非科学的な偏見を裁判所自身が追認したことにならないか。また、孤独死については心理的瑕疵が発生しないとする裁判例がある一方で、自殺については心理的瑕疵を肯定する裁判例が一般的であること自体、自殺者や遺族に対する無理解を助長する結果とならないか。自殺対策基本法では、自殺は自己決定ではなく「追いつめられた死」であるとする。孤独死と自殺を区別すること自体、死を自ら選んだ以上、自己責任は止むを得ないとする自殺に対する誤った理解に基づく判断であると考える。

 なお、日本の自殺賃貸事案は、海外においてもBBCやルモンドなどのメディアで取り上げられ、自殺大国日本の奇妙な現象として紹介されている。

(2)労災

 遺族は、死因が過労自殺であるにも関わらず、死因が世間に知れることを恐れて、労災申請や企業に対する損害賠償請求を躊躇することが珍しくない。自死遺族支援弁護団のメンバーは、筆者も含めて多くが過労死弁護団のメンバーでもある。前述した遺族が抱える障壁を超えて、遺族が本来当然に有するべき権利をいかにして守るかを考えながら活動している。それでも多くの事案において、親族の反対などを理由に労災申請を躊躇する遺族が多いことは否定できないのが現状である。

 世間的にも、例えば、「今は夫の死をきちんと悲しむべきであって、自殺の原因を会社や世の中など他者に押し付けることは良くないことである。」といった議論がなされることが少なくないのが現状である。

(3)いじめ、医療過誤、保険など

 いじめ自殺については、遺族の気力をいかに保つかが最も苦労するところである。周囲から、「真面目な子に育てた親が悪い。」といった批判がなされることも多く、遺族は喪失悲嘆とあいまって生きる気力を失いかけていることも少なくない。

 医療過誤については、薬物惹起性うつ病の存在を指摘しておく。ステロイドなど、一部の薬物については、副作用としてうつ病を発症することが意外に知られていない。副作用によってうつ病が発症しているにも関わらず、放置した結果、自殺に至った可能性のある事例も散見される。

 保険については、契約後二年以内に精神疾患に罹患し自殺した事案について、保険金支払いが認められるかが争点となる。

五 自死遺族支援弁護団の活動

 弁護団の陣容は、東京、大阪、名古屋などにおいて過労自殺に取り組んできた若手弁護士を中心に四〇名程度である。

 結成直後の二〇一〇年一二月一二日に電話相談会を行い、八五件の法律相談があった。その後二〇一一年三月にも電話相談会を予定していたが、震災により中止、二〇一一年九月二五日に電話相談会を再開(東京は八王子合同法律事務所、大阪は四方・生越・立野法律事務所)。テレビ放映されたこともあり、六時間で八二件の相談があった。

 また、臨床心理士やカウンセラーと法律家の合同相談会を行っている。この相談会も既に四回目であり、専門職同士のコラボレート企画として一定程度の成果を挙げつつある。

 また、国交省の原状回復ガイドラインの改訂に際して、提言を行い、自殺賃貸事案について、原状回復との関係で指針を示すべきとの提言を行っている。

 自殺賃貸事案については東京高裁での訴訟活動に参加。毎日新聞二〇一一年九月一日に大きく取り上げられた。その後も自殺賃貸事案について複数の示談交渉、訴訟活動を手掛ける。

六 おわりに

 弁護団は多様な法律問題を手掛けるが、その根底には一貫した価値観を持っている。それは、「遺族に対し必要以上の沈黙を強いる社会に対する異議」である。

 自殺者数が失業率と強い相関関係を有することは学問的にも立証されており(澤田康幸他「不況・失業と自殺の関係についての一考察」)、自殺は個人の問題ではなく社会問題であると考える。

 他方で、精神疾患に対する不当な偏見、儒教的な家族観、無宗教の国日本では確立した死生観が存在しないこと、家で看取られながら死ぬことが無くなり死に対する根拠のない嫌悪感が蔓延しつつあること、マスコミの興味本位の報道といった諸要素によって、遺族は社会との結びつきを希薄化させ、自己が抱える問題について社会からの援助を受けることができない状態に追い込まれる。社会に存在する、遺族を竦ませ、己が身内の死を恥と捉えることを強制する諸要素に挑むことが弁護団の根本的な存在意義であると考えている。

 自殺賃貸事案の解決についても、保険制度の適用や不動産業者の告知期間の短縮などが考えられるが、それ以上に、自殺を「気持ち悪い。」と考え、遺族の想いに共感することが少ない世間一般の風潮が改まらない限り、完全な解決はあり得ない。そのためには、運動の力によって自殺に対する正しい理解を広めることが不可欠である。

 遺族支援の領域は、徐々に認知されつつあり、この分野に参入したいと考えている弁護士も増加しつつある。その一方で遺族の抱える問題について理解を書いたまま対応し、遺族がかえって傷を深めることも少なくない。遺族支援分野のパイオニアの一人として、相談を受ける弁護士には先述したような価値観を共有して頂きたいと願う次第である。


原発避難民の今

福島支部  広 田 次 男

一 弁護団結成

 数ヶ月の議論および準備会を経て、一〇月一六日に福島原発被害弁護団の名称の弁護団が結成された。人手は幾らあっても足りない状況でもあるにも拘わらず、現在の登録弁護士数は五〇名足らずであり、今後も多数の団員の参加を心よりお願いする次第である。

 弁護団は「謝れ、償え、なくせ原発」をスローガンとして、東電の支払能力に捉われない完全賠償を求める事を目的としている。

 弁護団は「被害に始まり、被害に終わる」との公害事件の原則に徹して、被害の聴き取りを重ねてきた。その結果「祭店」「海の家」「保育園」などの事業グループと共に膨大な避難民の被害の状況が徐々に把握されてきた。以下に私の関知した例を被害の一端として紹介する。

二 避難民の今

 楢葉町のAさんは、三月一一日以前は誠に優雅な農村生活者であった。

 七〇〇坪はあろうかと思われる敷地の入口には高い屋根門を構え、庭の真ん中には樹齢四〇〇年とも言われる松が存在感を示していた。高校教師として定年退職したAさんは年金で悠々と農業を楽しみながら、市民オンブズマン楢葉の代表として活躍していた。

 好みの野菜を栽培し、その加工も絶妙であった。カリン酒、柚子の砂糖漬けなど、Aさんから事務所あてに届けられる農産物は多種多様であり、特に年末の搗きたての豆餅は絶品であった。

 今のAさんは、いわき市の一DKのアパートに暮らしている。

 「全てを失った。故郷に帰れるとは思えない。」

 と沈痛な表情で語る。

 以前のAさんは、冗談を言っては文字通り「アッハッハッハッ」と声を立てて笑う愉快な人柄であったが、「将来の事を考えると眠れない」と暗い表情で語る。

 浪江町のBさんは、成功した不動産業者であった。

 浪江町の中心部に三町歩余の土地を有し、その賃料収入だけでも莫大な金額であった。郊外の丘の上に一町歩の邸宅を構え、趣味で収集した豪華な鎧甲が邸内の随所に飾ってあった。邸内の壁、襖、床の間などの装飾も一見して高価なもので、鎧甲に調和していた。

 多くの人がBさんの周囲に集まり、Bさんは定数一の県会議員に保守系無所属として立候補し敗れはしたが、接戦であった。

 今のBさんは多くの仲間と分かれ、白河市のアパートで生活している。

 「今の生活では、手足すら充分に伸ばせない。東電と斗う以外ない。広田先生にも腹を固めて貰おう。」

 豪放なBさんが呟くように語っていた。

 双葉町のCさんは、優秀な獣医師であり、その人柄と見識は多くの町民から将来の町長として期待されている。夫婦揃って快活な性格であり、息子をいわき市の高校まで通わせるなど、子供の教育に力を入れていた。

 今のCさんは埼玉県加須市で生活している。

 「将来への展望を失くし、精神的に追い詰められている。奥さんも同様で皮膚病に悩まされている。子供の大学進学もあきらめた。」

と聞いた。

 川俣町Y地区のDさんは保守系無所属の町会議員である(Y地区は放射線量の高い事で著名な地区である)。

 先日の電話で、

 「相談をイッペエ抱え込んでんだ。この間も支持者が灯油かぶって自殺しちゃってよ、遺書は無いんだが、避難所をタライ廻しにされて、Y地区には将来がないから。一一月二〇日の(町議会)選挙が終わったら相談に行くから。」

 との事であった。

三 実現する会

 前記に紹介した楢葉町のAさんは、弁護団準備会を傍聴した後に、弁護団に対応する原告団の結成を目指して、楢葉町有志に訴え「完全賠償を実現する会(以下、「会」という。)」の結成に取りかかった。

 一〇月半ば頃には、会の呼びかけ文が作成され、それには私の名前が顧問弁護士として記載されていた。私には無断であったが、私は特に異を唱えなかった。Aさんとその仲間の行動に水を差すような事はしたくなかったからである。Aさんは精力的に楢葉町の仮設住宅を廻り、運動は徐々に形になり始めた。

 「一一月三日の午後から仮設住宅の集会所で、会の結成趣旨の説明会を行うので、広田弁護士も出席して、弁護団の目指す所を説明して貰いたい。」

 旨の申入があり、私は快諾した。

四 説明会

 仮設の集会所に詰めかけた四〇人を超える人を前に、私は三〇分近く弁護団結成の趣旨を話した。話しながら左端に座った作業服の男の妙な行動に気付いた。私の話は「この原発被害が公害であり、東電は加害者である事」「加害者が慰謝料額を月一〇万円と指定する事は筋が通らない事」「弁護団は公害を弁護士の営利活動とは考えていない事」など多岐に亘ったから、作業服の男以外は皆顔を上げて私の顔を見て私の話を理解しようとして、熱心に聴く事に専念していた。

 しかし、作業服の男は顔を伏せたまま大型ノートに私の言葉を記入する事に専念していた。

 私の話が終わり、質疑応答になると作業服の男が挙手して発言を求めた。

 「損害をナントカしろというのは、大半の町民の気持ちだ。こういう時のために我々は議員や町長を養ってきた。町長や議員を先頭に立てて、もっと大きな規模の会にして、発足しようではないか。」

 と誠にモットモな趣旨の提案をした。

 しかし、町長や議員の大半が東電に鼻毛を抜かれていて、会の先頭に立つ事はあり得ないから、この男の提案を真に受ければ会は永遠に発足しない事になる。そこで私は「小さくとも最初の一歩を踏み出す事の重要性」を強調して、男の発言の効果を封じ、出席者の大半もこれに同意した。

五 弁護団執行部会議

 私は、翌四日の夜に東京で開かれた弁護団執行部会議に、会の現状、説明会の状況を報告した。弁護団としても会の発展を強く希望し、その反面として厳しい注文が幾つか提出された。

 「会と弁護団との団結が勝利の条件だ。」

 「東電ペースでの示談強行への怒りが会の団結の要である。」

 「弁護団は個々の弁護士としてではなく、集団的に会に対する責任を遂行する趣旨だ。」

 等々であった。

六 会執行部との話し合い

 翌五日にAさんは幹部三名を伴い会の執行部として、私の事務所を訪れ、私は前夜の弁護団執行部会議での注文を紹介し、説明した。

 会の四名の執行部は若干の質問はあったものの、私の説明を全て理解して了承した。

 そのうえで、

 「町長および大半の議員の東電支持は今も不変である事。」

 「これら議員が町の顧問弁護士と連携して相談会を開き多数の町民を集めている事。」

 「三日の集会には、複数の東電職員が避難民を装って参加しており、作業服の男は、その一員に相違ない事。」

 「避難民はこれまで様々に翻弄されており、今となってはキレイ事を言ったところで、誰も耳を傾けない事。」

 等々が、堰を切ったように語られた。

 私は会の期待を裏切ることのない旨を約束し、年末を目途に賠償額ないしその基準を示す事を約束した。

七 会津での説明会

 翌朝、私はAさんの運転する車で、会津美里町に設けられた楢葉町仮設住宅での説明会へと出発した。

 六日午後一時の会津美里町は土砂降りの雨であった。激しい雨にも拘わらず、五〇人近い人が集会所に集っていた。Aさんの会の結成趣旨、私の弁護団の目的などの話が終った後に、大声で発言を求めた男が居た。

 大声の男は、「なぜ会の結成を事前に会津美里の仮設にも呼びかけないのか。なぜ会の代表がAさんで、弁護団の代表が広田弁護士なのか。これでは会は一部の町民の組織で終ってしまう。町長を先頭にたてて、バスを連ねて東京へ乗り込む位の気概で会を発足させるべきだ。」との趣旨を延々と捲し立てた。

 「作業服の男と同じ事を言いやがる」と思いながら、隣に座っていたAさんが血相を変えたのを見て、私は立ち上がり、男の発言を制して、「まず第一歩を踏み出しましょう。その後で、会の皆さんの意見を聞いて、私もAさんも何時でも代表を降りますから。」と言って、その発言を封じた。

 会津での説明会は四時頃まで続き、終了後は三日と同じように入会手続の列が出来た。それを見ながら、私は再びAさんの車の助手席に座って、小降りになった雨の中をいわき市への帰途についた。

八 車中にて

 奥羽と阿武隈の二つの山脈を越える道を、Aさんは車を運転しながら、作業服の男、大声の男に対する怒りを露わにし、東電の陰険な体質と対応を非難し、避難民が如何に追い詰められているかの話が続いた。

 そのなかで、Aさんは仮設住宅で耳にした、「Eさんをしなきゃ」との話を最も心配していた。

 仮設で数人の避難民が、「いよいよEさんをしなきゃ」と話しているのを聞いて、Aさんは「Eさんとは誰か」と質問したところ、某無差別殺傷事件の犯人の名前であるとの答であった。

 つまり、「Eさんをしなきゃ」というのは、東電からも行政からもマトモに相手にされず、世間からも忘れ去られて行くであろう避難民の存在をアピールするためには自爆テロしかないという意味だったのだ。

 Aさんが、「そんな事、簡単にできる訳ないだろう」と言うと、数人の避難民は

 「ガソリンを地下鉄の運転席近くに持ち込んで走行中に火をつければ地下鉄はコントロールできなくなり、暴走を続ける。」

 と具体的に答えたとAさんは語り、

 「そうなったら、福島県民は終わりだ。今は同情と差別だけだが、自爆テロが起これば警戒と憎しみの対象になる。」と話した後に、「しかし、年末までに具体的展望が全くないと、自爆テロは有り得る。」

 と続けた。

 私は、パレスチナとかアフガニスタンとかは、地理的な意味と共に、社会構造としても日本とは遠く隔った国と漠然と考えて来た。しかし難民という点では、日本もパレスチナ、アフガニスタンとその想いは全く同質である事を思い知らされた。

 今、このような事態を目の当たりにして、弁護士として、ひいては人間として、何を為すべきかが問われていると思う。

二〇一一年一一月一四日


宮城・仙南民商の東電に対する損害賠償説明会のご報告

東京支部  馬奈木厳太郎

 一一月二九日午後八時すぎ、この日の東京は暦ほど寒くなかったものの、白石蔵王駅に降り立つとやはりそこは東北、すり抜ける夜風はかなり冷たいものでした。この日、私は銚子市での進行協議を終え、東京に戻るや東北新幹線に飛び乗り、宮城へと向かいました。宮城県内の民商としては初めてとなる、仙南民商の賠償説明会に参加するためです。そのときの様子をご報告いたします。

 会場となった白石中央公民館には、四〇名を超える方々が集まり、東電からも七名が説明に訪れていました。午後六時すぎから始まった説明会では、東電の社員が賠償についての考え方を説明、それに対し農業を営んでいる人たちを中心に質問や意見が殺到、当初、東電の説明は一時間で終了する予定だったのですが、二時間にも及んだとのことです。その後、仙南民商や宮商連(宮城県商工団体連合会)、福商連(福島県商工団体連合会)の役員の方々が、賠償請求の取り組みの重要性や意義などを説きました。私が遅れて到着したときにも東電とのやりとりの熱気はまだ残っており、夜風の冷たさなどあっという間に吹き飛んでしまうほどでした。

 福島県に隣接する仙南地域では、原木シイタケの原木(榾木)やナメコ、炭などに顕著な被害が出ています。また、イモ(ヤーコン)の葉を健康茶として販売していた業者が、事故後、韓国の業者との取引をキャンセルされたといった事例もありました。

 参加者の大半が非会員という説明会でもあり、一から被害を聞き出していく必要があったのですが、たとえば炭の場合、木炭から五〇〇ベクレルを超える放射性セシウムが検出され、釜では二万四〇〇〇ベクレルを超える高い数値が出たとのことでした。県などからの規制はまだがかかっていないとのことでしたが、事業者の方はそもそも事業を継続できるのか、釜などを解体するにしても解体後どこに運べばいいのかなど、東電に対するとともに行政に対する不満も口にされていました。また、榾木についても、同様に二〇〇ベクレルを超えるセシウムが検出され、各生産者で六〇〇〇本から数万本の単位で被害が発生することになるとのことでしたが、千葉へ販売している森林組合においても損害が発生するというお話でした。榾木は、通常一二月に卸されるとのことで、これから損害が具体化することになります。

 紛争審査会の中間指針では、宮城県はいわゆる風評被害の対象県としては指定されていませんし、宮城県知事なども被害が生じていることを積極的に取りあげる姿勢ではないとのことです。東電においても、仙南地域での被害について、今日の段階ではとても認識しているなどとはいえない状況でした。私は、被害者自身が声を挙げなければ誰も被害に注目しないこと、声を挙げれば状況を変えることはできるし、現にこれまでいくつもの点で変えてきたことを訴え、力を合わせて請求のために動き出すことを呼びかけました。あわせて、多くの団員が全国で被害を救済するために力を尽くしていること、各地で完全賠償を求める弁護団もできており、民商の相談会から生まれた弁護団も存することを説明しました。

 今回の説明会を通じて、仙南民商では多くの方が請求を前向きにとらえていることに手応えを感じています。今後、さらに多くの人たちに呼びかけて取り組んでいくとのことですが、私としても宮城支部の団員の方々とも連携して、何らかのお役に立てればと考えています。

 事故直後から先頭に立って取り組んでこられた相双民商の役員の方が説明会の最後に述べた、「宮城の民商の東電とのたたかいは、これから始まるんだ」という言葉が印象に残る、そんな説明会でした。


熊本における「映画布施辰治」の上映運動の報告

熊本支部  板 井   優

 「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆ために」で知られる弁護士布施辰治生誕一三〇年を記念して、「映画布施辰治」が製作された。布施辰治は、自由法曹団創立メンバーの一人で、その功績は同名の岩波新書でも紹介されている。

 この映画の製作に協力した関係で、去る六月一七日、青法協熊本支部の協力を得て、熊本市内のパレアで試写会を行った(ちなみに、試写用のDVDは無料)。この試写会には熊本県弁護士会など多くの方々に呼び掛けた。そこに、三〇人以上の人が参加してくれた。そこで、団熊本支部として、これは上映会が出来るかも知れないと考え、参加者に一一月頃に上映したいので、実行委員会に参加するように呼びかけた。

 八月一〇日に準備会を熊本中央法律事務所で開いた。その後、八月二九日に実行委員会を持ち、何回か議論をするうちに、試写会を参加した田中信幸氏が感激し、一〇月に韓国の独立宮殿でハングルバージョンで上映するということを知った。布施辰治弁護士は、二〇〇四年韓国政府から「建国勲章」を送られている。それで、呼びかけの対象を、朝鮮総連、大韓民国居留民団など考えられる限りの団体にひろげ、協賛団体としてこれらの団体を含むハンセン病菊池療養所入所者自治会など二九団体、呼びかけ人三九人という大掛かりな人数で上映運動を進めた。

 呼掛け人には、宇都宮健児日弁連会長が個人の資格で加わり、熱いメッセージも頂いた。また、前参議院議員仁比そうへい弁護士も呼掛け人に名前を連ねている。

 特に、戦前の朝鮮半島の状況や、国内での様々な運動など内容が難しいとの声も強く、一一月七日に、日本近代史が専門の大阪大学名誉教授猪飼隆明氏にパレアで講演をしてもらった。参加者は四〇人位で、熊本県弁護士会史に出てくる代言人松山守善について、会史編纂をした二五年前の弁護士会長が紹介するなど盛り上がった。

 また、新しく参加した協賛団体のために一〇月一四日に第二回目の試写会を行い、朝鮮総連や居留民団の関係者など約四〇人が参加するなど、好評であった。

 本番の上映会は、一一月二三日の祭日の午後に三回行われ、スタッフを除き約三二〇人が観賞した。この日は、この映画を監督した池田博穂氏も来られて、一回目と二回目の映画終了後約三〇分映画作りの苦労など話をされている。上映に当たっては、熊本映画センターのスタッフに大いに協力頂いた。

 上映が終わっての打ち上げにも池田監督を始め、多くの方々が参加し、大いに盛り上がった。特に、ポスターやチラシ、チケットの印刷、会場確保、映画センターとのつなぎ役となった廣島正氏、コミュニティボードなどでの宣伝を引き受けた富田公代しなど数多くのスタッフに支えられての上映運動であった。

 今後、熊本では水俣市でも上映運動が起こっており、さらに広がって行くであろう。是非、全国各地でも上映運動を大きく展開して行きましょう。まずは試写会です。パソコンで「弁護士布施辰治」製作委員会を開いて、支援を求めて下さい。


日本版NSCと秘密保全法制

広島支部  井 上 正 信

 一一月一〇日朝日新聞に、野田内閣が、外交安全保障の司令塔となる日本版NSC作りに着手した、との記事が出ていました。一一日の時事通信(電子版)では、民主党は一〇日の内閣部門会議で、日本版NSC創設を目指す「インテリジェンス・NSC作業チーム」設置を決めたとの報道がなされています。作業チームは、国家機密漏洩を防ぐための「秘密保全法(仮称)」も検討し、来年二月をめどに報告書を提出するとのことです。

 日本版NSCの創設に秘密保全法制がなぜ関わるのでしょうか。これには、自公政権時代からの深い関係があると思われます。

 NSCとは国家安全保障会議のことで、米国で一九四七年に国家安全保障法により設立されました。公式メンバーは大統領、副大統領、国務、国防各長官、統合参謀本部議長です。国家安全保障問題担当補佐官は、公式メンバーではありませんが、NSCスタッフの長として、また、大統領の安全保障問題での側近として、国家安全保障会議で重要な役割、影響力を有しています。NSCの役割は、安全保障政策、軍事政策についての政策調整や大統領への諮問です。

 日本版NSCについては、NPJ通信の連載「憲法九条と日本の安全を考える」(http://www.news-pj.net/npj/9jo-anzen/index.html)七月二九日にアップした「原点回帰した自由民主党」で、「国家安全保障会議の常設は、安倍首相が執念を燃やしたものです。形骸化した安全保障会議に代えて、米国の国家安全保障会議(NSC)をモデルに安保防衛政策で首相を中心とした官邸機能を強化し、首相官邸とホワイトハウスとが常に意思疎通をできるようにすることを狙ったものです。二〇〇六年四月に法案(安全保障会議設置法改正法案)を国会へ提出しました。しかしながら、肝心の安倍首相が二〇〇七年九月に首相の座を投げ出して辞任したことや、国会のねじれから成立の見込みがたたず、二〇〇七年一二月福田内閣は廃案にすることを決定しました。」と述べました。

 日本版NSC創設は、安倍元首相の個人的な強い思い入れでも、自民党固有の政策でもないと思います。以下に説明するように、これには強い国家意思が背景にあり、政権交代でもそれはいささかも揺るがないものであることを示しています。ではそれはどこから出てきたのか。直接的には日米同盟強化・深化を合意した日米防衛政策見直し協議のプロセスと考えています。二〇〇五年一〇月「日米同盟:未来のための変革と再編」で、日米同盟を強化するため、「部隊戦術レベルから戦略的な協議まで、政府のあらゆるレベルでの緊密かつ継続的な政策及び運用面の調整を行う」、「部隊戦術レベルから国家戦略レベルに至るまで情報共有及び情報協力をあらゆる範囲で向上させる。」ことを合意しました。

 日米両政府が、国家戦略レベルでの安保防衛政策を緊密に調整するため、ホワイトハウスのNSCに匹敵する日本版NSCが必要となったのでしょう。

 安倍内閣ができる直前の二〇〇六年六月二二日、自民党政務調査会の中に作られた「国家の情報機能強化に関する検討チーム」の提言が出され、安全保障会議と並ぶ閣僚級の「情報会議」設置、内閣情報会議の下に内閣情報委員会を設置し、内閣情報室が事務局になり、内閣情報委員会が、各省庁の情報部門が参加する情報コミュニティーを担う、対外情報機関(日本版CIA?)を新たに組織する、罰則規定を含む秘密保護法制を制定する、等を提言しました。

 安倍内閣の下で、官邸内に「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」を設置し、二〇〇七年二月二七日報告書を出しました。外交、安全保障政策を立案推進するため、内閣の司令塔機能を強化するとして、現行の安全保障会議の機能を吸収して、新たに国家安全保障会議を創設する、国家安全保障問題担当総理補佐官を常設する、政策部門と情報部門との連接を強化する、厳しい罰則を定めた秘密保護法を制定する、等の提言を行いました。

 自公政権最後の内閣となった麻生内閣は、二〇〇九年一二月に一六大綱に代わる新防衛計画大綱を策定しようとしていました。そのために、自民党国防部会防衛政策検討小委員会は、新防衛計画大綱の内容へ反映させるため「提言・新防衛計画大綱について」(二〇〇九年六月九日)をまとめました。そこでは、「情報体制の強化」として、「国家の情報機能強化に関する検討チーム」の提言が丸ごと取り入れられ、「安全保障戦略を推進するための体制強化」として、安全保障会議の機能を吸収した「国家安全保障会議(日本版NSC)」の新設、情報保護法制の制定(「主要情報の適切な管理に関する法律」という名称まで例示する)などを提言しました。

 民主党外交安全保障調査会は、二〇一〇年一一月三〇日「『防衛計画大綱』見直しに関する提言」を作成し、その中で、安全保障・危機管理における官邸機能の強化及びインテリジェンス体制の充実を打ち出し、情報保全と秘密保護法制制定が重要としました。菅内閣が策定した新防衛計画大綱(二〇一〇年一二月)は、「政府横断的な情報保全体制を強化する」、「官邸に国家安全保障に関し関係閣僚間の政策調整と内閣総理大臣への助言等を行う組織を設置する。」として、日本版NSCを創設することを決定しました。新防衛計画大綱閣議決定の直前に、内閣府の中に官房長官をトップにした「政府における情報保全に関する検討委員会」第一回会議が開かれました。そこで設置されたのが、「秘密保全の法制の在り方に関する有識者懇談会」でした。この有識者懇が秘密保全法制を提言し政府は来年の通常国会へ秘密保護法案を提出しようとしているのです。有識者懇報告書は文末のURLでご覧下さい。

 以上のような大きな流れを見ると、日本版NSC創設、内閣の情報機能強化と秘密保護法制は三点セットで押し進められてきたこと、政権交代でもその流れはいささかも変わっていないことが理解できると思います。

 秘密保護法制は、決して尖閣諸島での中国漁船衝突のビデオ流出などの些末な問題から出てきたものではありません。日米同盟に源流を発した強い国家意思が働いていると思います。二六年前にいわゆる「スパイ防止法案」が国会へ提出され、日本弁護士連合会を始め多くの法律家団体や、市民団体などの強い反対運動が起こされて結局廃案となり、法案修正の動きもあるも、再提出させることを防ぎました。このときは、右翼団体などが地方議会で「スパイ防止法」制定の意見書を採択させる運動を起こし、一部の右翼国会議員が議員立法として国会へ提出しました。

 しかしながら今回の動きは、用意周到に積み重ねられてきた国家意思が推進力になっていることは明らかです。有識者懇報告書を作成する過程で、内閣府の検討委員会の事務局は、秘密保護法制制定に関して関係省庁へ意見照会を行い、それを踏まえて有識者懇報告書案を事務局が作成したことが分かっています。私がいつも安全保障・軍事政策に関する貴重な情報を得ている軍事問題研究会が情報公開で入手した意見照会文書は、一二四七枚もあり、内容は黒く塗りつぶしてあるとのことです。まさに、政府を挙げた取り組みとなっているのです。

 ここが二六年前と大きく情勢が異なる点です。日本弁護士連合会は、有識者懇が提言する秘密保全法制に対して、反対の意見書を提出しました。私も意見書作成に加わりました。意見書は、秘密保全法制制定の理由、必要性がないこと、国民主権原理から要請される知る権利を侵害するなど、憲法上の諸原理と正面から衝突すること、保護されるべき「特別秘密」が無限定で曖昧な概念であること、国民が知るべき情報が隠されること、罪刑法定主義等刑事法上の基本原理と矛盾抵触すること、公開の裁判を受ける権利、弁護を受ける権利を侵害する等を指摘し、秘密保全法制の制定には反対であることを明確にしました。意見書は文末のURLでご覧下さい。

一〇 国会では衆参両議院で憲法審査会が動き始めました。秘密保全法制はそれ自体が憲法の国民主権と民主主義原理、基本的人権の保障、憲法九条の平和原則に反する立法です。明文改憲への大きなステップになるでしょう。それに引き替え、まだこの問題を多くの方はご存じありません。今の国会の現状を見ると、法案提出後一気に進む可能性があります。多くの方にこの問題を知っていただき、九条や憲法改正に反対している個人・団体から反対の声を挙げてください。私もこのコーナーで随時新しい情報を紹介したり、私の意見を述べるつもりです。

秘密保全法制に関する有識者懇談会報告書

http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=060111014&Mode=0

日弁連パブコメ意見書

http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/opinion/year/2011/111124_4.html

 この原稿は、NPJ通信に一二月一日掲載されたものの転載です。NPJ通信を是非ご覧下さい。最新の原発情報や憲法九条に関する論説などが満載です。

http://www.news-pj.net/


【自由法曹団九〇周年&東京・お台場総会特集 その四】

次長退任のご挨拶

東京支部  小 林 善 亮

 月並みですが、「あっという間の二年間」という表現しか思いつきません。二年前の一〇月に事務局次長に就任したときは、翌一一月に東京で行われる憲法ミュージカルの事務局長としての仕事に頭がいっぱいでした。次長に声を掛けて頂いた時、当時の執行部の方からは、「いいよ、いいよ。次長の仕事は一二月からぼちぼちやれば」と暖かい言葉をかけて頂いたのですが、普天間基地問題、国会法改正問題や衆院比例定数削減問題などすぐに取り組みが必要な喫緊な課題が目白押しでした。

 思えば、この二年間、先に挙げたものばかりでなく、新防衛大綱、震災復興基本法、TPPなどその時々の「喫緊の課題」に右往左往してしまったように思います。自分にもう少し余裕があれば落ち着いてものを考えながらやれたのではないかとも思いますが、とにかく今は無事に任期を終えたことにホッとしております。

 私は、憲法改悪阻止共同センターや安保破棄実行委員会、子ども全国センターなど、他団体の方との会議に出席する機会が多かったのですが、そこでの議論も大変勉強になりました。全労連や民医連、農民連、全商連、新婦人、全教などそれぞれの立場の要求を持ちながら憲法や安保などの課題にどのような切り口で取り組んでいるかということを聞いて参考にしていました。また、こういった会議に出席して団に対する期待の大きさも肌で感じました。いわゆる民主団体の中で法律家の部隊は団だけですので、その時々起こっている問題に対して法律家集団である団がどのように考え、取り組んでいるかということを他団体の方も知りたがっていました。おかげで、私は団が取り組んでいることを話すだけで鼻高々になれたわけですが、それもこれも、団の対策本部や委員会、各支部の日ごろの活動あってこそと秘かに(?)感謝しておりました。団の対策本部や委員会にもう少し若手団員が参加するとさらに活動が活性化するし、パワフルなベテラン団員の経験に触れ若手団員にも勉強になると思います。私も、今後一団員として参加していこうと考えています。

 最後に、この二年間お世話になった菊池団長、鷲見幹事長、小部幹事長、杉本事務局長や次長の皆様、専従事務局の皆様、この二年間温かく見守り応援していただいた三多摩法律事務所の皆様に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。