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小笠原里夏 *静岡県特集*
新採小学校教師の自殺を公務災害と認定した東京高裁判決
小川 秀世 袴田事件の早期再審開始と身柄釈放を
神原  元 裁判員裁判と民主主義
林   治 ホンダ期間契約社員雇止め事件
〜東京高裁不当判決〜
馬奈木厳太郎 「原発なくせ、完全賠償をさせる福島県北の会」の第三次請求のご報告
中瀬奈都子 沖縄・東電原発事故の説明を求める会の取組み
笹本  潤 基地撤去二〇年と原発をストップさせたフィリピンへのツアー
堀  良一 「たたかい続けるということ 馬奈木昭雄聞き書き」(阪口由美著)」を勧める
玉木 昌美 ラン&カラオケ、そして読書
中野 直樹 裏銀座縦走・回想の山旅(二〇一一)



*静岡県特集*

新採小学校教師の自殺を公務災害と認定した東京高裁判決

静岡県支部 小 笠 原 里 夏

一 事案の概要

 本件は、二〇〇四年四月に新規採用された公立小学校の教諭である木村百合子さんが、多動性・衝動性の強い指導困難児への対応と担任学級の運営に苦悩して、うつ病に罹患し、着任後わずか六か月で焼身自殺をした事件である。

 百合子さんのご両親は地方公務員災害補償基金(以下「基金」)に対して公務災害認定請求を行ったが、同基金静岡県支部は「公務外」との認定を下し、代理人となって行った審査請求も棄却されたため、二〇〇八年七月、静岡地方裁判所に公務外認定処分取消請求訴訟を提起した。そして本年八月三日、提訴してから丸四年、百合子さんの死から約八年を経過してようやく、勝利(公務上認定判決)が確定した。

 本件では、うつ病発症の原因となる特筆すべき「出来事」があったわけではなく、長時間労働が立証できたわけでもない。新人教師の日常業務が過重性の判断対象となった。

二 本件での公務起因性判断のポイントと立証の工夫

 本件の特徴は、(1)百合子さんが新人であったこと、(2)担任する学級に、発達障害の疑いのある多動性・衝動性が顕著な児童が在籍していたことと、(3)担任するクラスが学級崩壊のようになりつつあったこと、(4)所定の「初任者研修」があったとはいえ、本人から度々SOSがあったにもかかわらず、同僚教諭らによる百合子さんに対する支援体制が全く組まれなかったこと等である。

 ところが現職の先生方に話を聞いてみると、前記(2)から(4)のような事情は、現場では日常茶飯事だというので、私は途方に暮れた。だからこそ教師の精神疾患が増えているのだということになるが、裁判所が、教職の「日常業務」一般に精神疾患を発症させるような過重性があると評価するとは、到底思われなかった。

 そこでて、(1)百合子さんが新人であったことを前面に押し出して、業務の過重性を主張することにした。もちろん、多動性・衝動性が顕著な児童への対処や学級崩壊に対処することの困難さに関する立証にも手は抜けなかった。文科省が発表している資料等を活用したり、支援してくれる現職の先生方に陳述書を作成してもらったりすることで粘り強く立証していった。この頃、名古屋高裁でイラク派兵の違憲判決を勝ち取った弁護団の川口創弁護士から、イラク訴訟で実践された気合い一〇〇%の立証活動の内容や方法をお聞きし、大いに本件での立証活動の参考にさせていただいた。裁判官は学校現場のことは何も分からないはずだということを前提に、「二四歳の新人には負担が重過ぎる業務だった」ことを何とかして分かってもらいたいという気持ちだった。

三 静岡地方裁判所での一審勝訴判決

 裁判は、百合子さんが従事していた担任業務に過重性はなかったと強弁する管理職らに対する反対尋問に成功したことで、闘いの局面がガラリと変わった。苦悩する新人に対して、ほとんど何の支援もしなかった管理職・同僚教諭らの冷淡な対応が浮き彫りになり、基金が公務外認定の判断の基礎としていた、「百合子の担任クラスの動静については全職員で見守り、相談を受け、みんな本気になってやっていた」との前提事実は総崩れとなった。

 結果を期待して迎えた一審判決は、予想どおり勝訴であった。そして判決内容も、被災職員に対する共感や新人の立場を尊重する姿勢に貫かれた、素晴らしい内容であった。こんなに良い判決を得ることもあるのだなと感慨深かった。

四 東京高裁での控訴審勝利判決

 まさかとは思ったが、基金は恥知らずにも控訴をした。保守的な静岡地裁が、東京高裁が堅持してきた業務起因性の厳しい判断基準を(上司の許可なく?)緩和して「最脆弱者基準説」(当該業務に精神疾患を発症させるような危険性があるか否かについては、同種労働者の中でその性格傾向が最も脆弱である者を基準とすべきという考え)を採用したことがよっぽどショックだったのだろう。また、本件ではうつ病発症後のうつ病の「悪化」と公務との因果関係も争点の一つとなっていたところ、一審判決はこれもあっさりと「業務過重性の判断にあたっては、発症後の公務の過重性も考慮する」と判断したので、基金にとってはダブルショックとなったはずだ。

 基金は、東京高裁がこれらの判断を一刀両断してくれることを期待したはずだ。しかしこの作戦は、完全に基金のヤブヘビに終わった。東京高裁の判決も、被災職員の立場を尊重した判断内容であり、その程度は一審判決を上回るほどであった。

 なんと、あの東京高裁で「最脆弱者基準説」が採用されたのである。そして、うつ病の悪化と公務の因果関係についても、一審判決と同様、うつ病発症後の公務の過重性を相当因果関係の判断要素として考慮する考え方が採用された。画期的な判決であった。

 これで基金は完全に息の根を止められ、さすがに上告は断念した。

五 雑感

 控訴審勝訴判決を得たころ、労働弁護団通信二九五号に掲載された嶋風ハ弁護士による日本ヒューレットパッカード事件勝訴報告文に触れた。同報告文に「最高裁(平成二四年四月二七日判決)は、単に上告不受理とせず、敢えてメンタルヘルス対策に関連する箇所についてのみ判断を示しており、最高裁のこの問題に対する強い関心がうかがわれる。」と記されているのを見て、ひょっとしたら本件勝訴もこの流れの一環なのかもしれないと感じた。

 なお本件をテーマとした書籍が出版されている(「新採教師の死が遺したもの 法廷で問われた教育現場の過酷」久冨善之他編著/高文研)。機会があればご一読いただけると幸いである。


袴田事件の早期再審開始と身柄釈放を

静岡県支部  小 川 秀 世

 一九六六年(昭和四一年)六月三〇日、旧清水市(現在の静岡市清水区)で味噌製造会社の専務一家四人が殺害され、放火された。袴田巌氏は、味噌会社の住み込み従業員であった。

 この事件では、警察は、捜査の初期から、証拠をねじ曲げ、袴田氏を犯人に仕立てあげてしまったと言ってよい。

 七月四日には、従業員寮を捜索し、目に見える血痕などまったくないパジャマを押収し、「血染めのシャツ発見」と報道させた。同日、袴田氏も、すでに深夜までの「任意」の取調べを受けていた。

 八月一九日、警察は、袴田氏をわずかな血痕と混合油等を理由に逮捕し、平均一二時間以上、最長は一六時間、取調室に便器を持ち込むという違法な取調べを行ない、勾留期限三日前に、袴田氏に「自白」をさせた。

 公判になり、パジャマの血痕や混合油の鑑定の信用性が争われると、その途中の、事件から一年二ヶ月経って現場近く味噌工場の味噌醸造タンクの中から、血に染まった「五点の衣類」が発見された。また、その直後の家宅捜索によって袴田氏の実家から五点の衣類の内、ズボンの共布が「発見」され押収された。しかし、五点の衣類は、パジャマが犯行着衣であるとする自白とは、まったく矛盾する証拠であった。

 ところが、一九六八年、静岡地方裁判所はこの五点の衣類を袴田氏の犯行着衣であるとし、また、自白も着衣以外の部分は信用できるとして、袴田氏に死刑判決を下した。控訴審の東京高裁では、はじめて五点の着衣の装着実験が行なわれたが、ズボンについては太腿のところでつかえて袴田氏には穿くことができなかった。ところが、裁判所は、ズボンの寸法札の「B」が、サイズの表示であるとして、ズボンが縮んだなどという認定で、一九七六年、控訴を棄却し、一九八〇年に上告棄却となって、死刑が確定した。

 一九八一年、袴田氏は静岡地裁に再審請求を行なった(第一次再審)。同年、日弁連が袴田事件委員会を設置して、再審支援を開始している。

 第一次再審請求を、一九八二年に静岡地裁に申し立ててが、二〇〇八年に最高裁で特別抗告が棄却された。

 そこで、直ちに第二次再審請求を行なったが、袴田氏が後述する拘禁症のため、弁護人選任届に署名捺印できない状況であったため、袴田氏の姉(後に、袴田氏の保佐人となる。)が請求人となった。現在は、静岡地裁でこの第二次再審請求の審理が進められている。

 第二次再審請求においては、弁護団は、当初から、五点の衣類は警察によるねつ造証拠であると主張してきた。請求時の新証拠は、五点の衣類の味噌漬け状態は、二〇分でできることを明らかにした「味噌漬け実験報告書」である。ねつ造を主張し、これまでの証拠を再検討することで、警察が、袴田氏の自白取得後、秘密の暴露を偽造するため、工作をしてきた構図もよく見えてきた。

 そして、その後、証拠のねつ造がさらに明らかになってきた。

 検察官は、当初、証拠開示を頑として拒否していたが、途中で、態度を変え、一部の未開示証拠を開示してきた。その中には、発見された直後の五点の衣類のカラー写真やズボンの寸法札の「B」の表示は、サイズではなく色を示すものであることを示す証拠が含まれていた。これは、衣類発見直後に、警察が入手していたのだ。ところが、検察官はこれをひた隠しにし、「B」はサイズを示すという虚偽の主張をしていたことが明らかになった。また、味噌色がほとんど付いていない緑のブリーフや、血液が、まさに「鮮血」状態のように見えるカラー写真も、一年以上も味噌タンクの中で味噌に漬かっていたにしては明らかに不自然であった。

 さらに、今回、五点の衣類に付着した血痕についてDNA鑑定が実施された。第一次再審においてもDNA鑑定は行なわれ、鑑定不能という結果に終わっていたが、その後の技術の発達により、DNAが検出できる見込みが立ったため、再度、鑑定が実施された。この鑑定の結果により、五点の衣類に付着していた血痕のDNAは、被害者のものではなく、袴田氏の右肩の傷口から付いたとされた半袖シャツの血液付着部分のDNAは、袴田氏のそれと一致しない可能性が高いことが明らかになった。

 現在、袴田氏は長期間の身体拘束が継続し、特に一九八〇年に死刑が確定してからは死刑執行の恐怖を常に感じながらの拘留が続けられており、ひどい拘禁症を発症している。死の恐怖から免れるため、妄想にとらわれた状態に陥っているのである。これまで、支援者などから袴田氏の拘禁症に対して速やかに適切な治療を行なうように東京拘置所に要請しているが、未だに実現していない。

 袴田事件は、もともとが違法な取調べにより自白を獲得し、脆弱な証拠によって起訴された。そして、公判の途中でその脆弱な証拠によっては有罪にできないことを感じ取ると、今度は五点の衣類を「ねつ造」して袴田氏に罪を着せようとしたえん罪事件である。

 袴田氏は、現在すでに七六歳である。早期に再審開始決定を勝ち取らなければならない。併せて、袴田氏は拘禁症により心神喪失状態にあるのだから、直ちに適切な医療機関での治療が行なわれなければならない。

 全国の団員の皆様の熱い支援をお願いします。


裁判員裁判と民主主義

神奈川支部  神 原   元

 前回の幹事会で主に京都支部の団員から、「裁判員裁判制度は、国民主権、民主主義の理念に沿うものとして評価するべきであり、選択権は裁判員制度の定着の妨げになる危険があるから認めるべきでない」との意見があった。私はこれについて意見を述べた。以下は、私が会議で述べた意見を若干敷衍したものであるので、会議に参加していない団員の意見を伺いたい。

 第一点め、裁判員制度を「国民主権と民主主義の理念に沿うものとして評価する」という方向性は危険ではないかと思う。

 もともと、団や人権弁護士が国民の司法参加に期待したものは、官僚裁判官の独善を打破し、えん罪を防止し、よって、被告人の人権を守るということだったと思う。「えん罪防止」という実践的要求を離れ、「国民主権」「民主主義」で制度を正当化すると、「司法参加」そのものが目的になってしまい、「えん罪防止」「人権擁護」という本来の目的がどこかにいってしまう。

 「司法参加」に「えん罪防止」を期待したことは、(結果として正しかったかどうかは別として)理由のないことではなかった。第一に、キャリア裁判官は、出世を気にするために無罪判決を書きたがらない傾向にあったし、第二に、キャリア裁判官は、エリート意識から頭ごなしに被告人の主張を否定してかかる傾向にあったし、第三に、キャリア裁判官は社会経験に乏しく誤った事実認定を行うので、市民の社会常識により正す必要があったのだ。

 えん罪防止という観点から、裁判員裁判がうまく機能しているのかどうか、未だ判断は難しい(ただし、いくつか興味深い判決が出ており、一定の期待はもてる。)。他方、えん罪防止という意味からは、裁判員の量刑関与は必然ではなかった。むしろ、私は、団通信で「裁判員制度の下で重罰化傾向があるのではないか」と指摘した。しかし、「国民主権」「民主主義」を強調すると、重罰化であろうと何であろうと、「裁判員の判断は民主的だから正しい」となりかねない。これはとても危険だ。

 大阪地裁平成二四年三月二一日付け裁判員裁判判決は幼児に暴行を加えて死なせた傷害致死の事件で一〇年の求刑に対し一五年の懲役刑を科す判決を下した。同じく大阪地裁七月三〇日裁判員裁判判決は、障害(アスペルガー)を持つ被告人の殺人事件で一六年の求刑に対し二〇年の懲役刑を科す判決を下した。

 京都支部の団員も、これらの裁判員裁判には批判的だろうと思うのだが、「国民主権」「民主主義」を強調すると、これらの判決も「民主的に下されたから正しい」となりかねないのだ。

 第二点め、選択権について。裁判員制度の目的が被疑者・被告人の人権擁護にあるとすれば、これを利用するかどうかは、権利主体である被告人の選択に委ねるのが論理的帰結となる。例えば、情状の悪い性犯罪など、裁判員裁判であれば裁判官裁判より重い刑が予想される場合などは、裁判官裁判を選択できる途を開いておく必要がある。

 アメリカでは、一九二四年、レオポルドとローブ事件という猟奇事件で、担当のクラレンス・ダロウ弁護士は、陪審では死刑が必至とみて、あえて裁判官裁判を選択し、見事に死刑を回避した(この時のダロウ弁護士の弁論は「最終弁論」(マイケル・リーフ他著、朝日新聞社二〇〇二年)に収録されている。)。日本でも同じ問題が生起しつつあるのではないか。

 アメリカの陪審制より、日本の裁判員制度の方が被告人にとって酷な制度でなければならない理由はない。そうであれば、団はせめて「選択権」を主張するべきだろう。これは、裁判員制度をどう捉えるか、という根本に関わる困難な問題かもしれない。しかし、誰かが問題提起をし、前に進めるべきでないか。


ホンダ期間契約社員雇止め事件
〜東京高裁不当判決〜

東京支部  林     治

一 事件の概要

 〇八年九月リーマンショックによる減産を理由に、ホンダは〇八年末栃木製作所で働いていた期間契約社員の全員を雇止めにした。

栃木製作所で一一年一一か月(更新回数七四回)に渡って働いてきた期間契約社員であった原告が、この雇止めが違法・無効であるとして、〇九年四月東京地裁に訴えた。

二 一審の不当判決

(1) ホンダは、期間契約社員の雇止めをするにあたり、〇八年一一月二八日に期間契約社員に対し説明会を開催し、期間契約社員全員を雇止めにすることを伝えた。そして、説明会の終了時に〇九年一月以降の更新がない旨の条項(不更新条項)が入った契約書(契約期間は一二月一日〜同月三一日)にサインをさせた。

 訴訟でホンダは「不更新条項が入った契約書を作成したのであるから雇止めに納得しているはずだ」として、この点を一番強調して争った。

(2) これに対し、原告は、もし不更新条項付きに契約書にサインしなければ、説明会の二日後(一一月三〇日)には従来の契約が満了し仕事を失ってしまうのであるから、どんな労働者だって「あと一ヶ月働きたい」との思いから不更新条項付きの契約書にはサインをせざるを得ない状況であったこと、また、多くの労働者は何度か更新していると雇止めを争うことができることなど知らないこと、などから窮状や無知を利用して契約させた公序良俗違反の契約であると主張した。

 さらに、期間契約社員は正社員の作業は同一であること、むしろ残業時間は期間契約社員の方が長く会社への貢献度は大きいこと、ホンダは〇八年度も通期では黒字を維持するなど経営状況は悪くないことなどを主張して争った。

(3) しかし、東京地裁(民事一九部・渡邉和義裁判官(単独))は、不更新条項付きの契約は公序良俗に反するとは言い難いと判断し、期間契約社員の仕事は熟練を要しない単純な作業であるとホンダの言い分をそのまま認めた。

 さらに、「一一月二八日の説明会の時点で不更新条項に不満や異議を述べるなどし、本件雇用契約を締結しないまま本件直前契約の契約期間(同月末日まで)が満了するに至り、雇止めになったのであれば…雇用継続に対する期待利益を保持し、かつ、それが…合理的というべき」であるが、原告は不更新条項付きの契約書にサインをしているので「同年一一月二八日時点において、…雇用契約の更なる継続に対する期待利益を確定的に放棄した」と認定し、解雇権濫用法理の類推適用があるかどうかの検討をするまでもないとして、整理解雇四要件の検討すらしないで原告を敗訴させた。

 しかし、この判断は「期待利益を維持して、雇止めを争うなら説明会の二日後に雇止めされなければならない」というものであり、労働者に不可能を強いる判断である。

三 控訴審での主張

 控訴審で一審原告は、期待利益の放棄に関して、真に自由な意思に基づかなければ放棄できないものであるのに、ホンダは不更新条項付きの契約書にサインしなければ二日後に仕事を失うという窮状を利用して契約をさせたのであるから、契約は真に自由な意思に基づいてなされたものでないと主張した。

 不更新条項は、ホンダが一方的に利益を得るだけで一審原告は何の利益もない等価性のない契約であると主張した。

 また、そもそも一審原告は一二月末で辞める意思を有していなかったので、不更新条項の入った契約は一二月末で辞めることは心裡留保により無効である。そして、不更新条項付きの契約の締結自体が公序良俗に反すると主張した。

四 控訴審判決

 一二年九月二〇日に東京高裁(第二一民事部・裁判官斎藤隆、飯田恭示、春名茂)が下した判決は、一審判決を踏襲した不当判決であった。

 期間契約社員の仕事内容は、期間契約社員を製造ラインの需給調整に対応する臨時的・一時的雇用社として位置付けているというホンダの主張を採用し、正社員とは異なる内容であると判断した。

 不更新条項については、ホンダは期間契約社員全員を雇止めにせざるを得ないと説明し、一審原告もその説明を理解し、やむを得ないと受け入れたので、自由な意志で契約を締結したと認定した。

 等価性については、「労働者が真に自由な意志で種々の条件と不更新条項との利害得失について考慮した上で合意したか否かを判断する際に斟酌する余地がある」と一応斟酌の余地を認めながら、ここでも「自由な意志に基づいて不更新条項を定める本件雇用契約を締結したと認められる場合に、等価関係の不存在のみを理由に不更新条項の効力を制限することはできない」と判断した。

 そして、不更新条項を認識していたのであるから心裡留保の主張も採用できないとした。

 さらに、期待利益の放棄については、「不更新条項に合意しなければ有期雇用契約が締結できない立場におかれる一方、契約を締結した場合には、次回以降の更新がされない立場におかれるという意味で、いわば二者択一の立場におかれることから、半ば強制的に自由な意志に基づかず有期雇用契約を締結する場合も考えられ、このような事情が認められれば、不更新条項の効力が意思表示の瑕疵により否定されることもあり得る」としながら、「労働者が次回は更新されないことを真に理解して契約を締結した場合には、雇用継続に対する合理的期待を放棄したものであり、不更新条項の効力を否定すべき理由はない」として、本件では雇用継続に対する合理的期待を放棄したと認定している。

五 控訴審判決の不当性

 結局、東京高裁の判決も一審原告が不更新条項付きの契約書にサインしたことをもって、雇止めに納得していたと認定している。

 しかし、これは全く実態を無視した判断である。

 非正規労働者の圧倒的多数は、労働組合にも所属せず、労働法の知識もなく、会社に対抗する手段を有していない。加えて、次回の更新を拒否されないよう会社と争うことを避けている。

 このように、法的知識もなく、弱い立場におかれている期間契約社員が、不更新条項付きの契約書のサインを迫られた場合、拒否したり、異議を述べたりできるはずがない。

 控訴審が「不更新条項に合意しなければ有期雇用契約が締結できない立場におかれる一方、契約を締結した場合には、次回以降の更新がされない立場におかれるという意味で、いわば二者択一の立場におかれることから、半ば強制的に自由な意志に基づかず有期雇用契約を締結する場合も考えられ」ると述べたことは評価できるが、結局本件ではそのような場合にはあたらないとして認めていない。

 法的知識もなく、極めて弱い立場におかれている期間契約社員が当事者であった本件でさえ「半ば強制的に自由な意志に基づかず有期雇用契約を締結する場合」にあたらないのであるから、どのような場合に不更新条項の効力が否定される場合があるというのだろうか。

六 最高裁でのたたかい

 仮に、原判決をそのまま認めれば、更新に合理的期待があった場合には解雇権濫用法理が類推適用されるという判例理論が、不更新条項付きの契約書にサインをさせるだけで潜脱できるということになる。これでは、これまで有期契約労働者保護の為の判例理論が空文化してしまう。

 このようなことは絶対に許されない。

 最高裁でのたたかいでは、これまで築いてきた有期契約労働者保護を後退させないたたかいになる。

 全国のみなさんにも、これまで以上のご支援をお願いしたい。


「原発なくせ、完全賠償をさせる福島県北の会」の第三次請求のご報告

東京支部 馬奈木厳太郎

 「第二次請求書提出の際、私たちを敵視するかのような無礼な対応をしたことについて、謝罪を求めるとともに、改善を求めます」「第一次請求書について、満足のいく説明もないまま請求者に突き返すという行為は、私たち県民を見下した無礼な態度であり、謝罪を求めるとともに、第二次請求書については同じ繰り返しをせず、誠意のある対応を求めます」――これは、二〇一二年一〇月一日に、「原発なくせ、完全賠償をさせる福島県北の会」(県北の会)が、東京電力に対する第三次請求の際に手交した要求書の一部です。この怒りの込められた要求書の手交と第三次となる請求書(一一九世帯分)の提出には、会員約四〇名が参加したほか、福島市市議二名も参加しました。また、復興共同センター代表(県労連議長)と桑折町町議が連帯の挨拶を行いました。県北の会の活動を支援している「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害弁護団(生業弁護団)からは、私が参加しましたので、この間の経過と当日の模様をご報告いたします。

 県北の会は、(1)東京電力と国に福島原発事故は人災と認めさせること、(2)住民が被ったすべての損害に対して、東京電力と国に納得のゆく金銭賠償をさせること、(3)生業の回復、環境と地域コミュニティの再生、健康被害の継続的対策などをとらせることを目的として、福島市、伊達市など福島県県北地区の住民によって二〇一二年四月一〇日に結成された被害者の会です(福島現地での被害者の会の状況については、藤原泰朗団員による紹介もご参照ください。団通信第一四一六号)。現在、会員は約六〇〇世帯(約一六〇〇名)にのぼります。

 県北の会では、地域ごとにミニ集会などを行い会員の拡大を図ってきたほか、会員に向けて要求項目のアンケートを実施するなどの取り組みを行ってきました。そして、こうしたアンケートの回答などをふまえ、八月一日に、東京電力に対し一一二世帯分の請求書を集団で提出し(第一次請求)、九月三日には、要求書とともに、八六世帯分の請求書を集団で提出しました(第二次請求)。いずれの提出に対しても、東京電力福島補償相談センターは、請求書を持参した会員を同事務所内に入れず、事務所前の駐車場で請求書を提出させるという不当な対応をとりました。

 同年九月、第一次請求に対する東京電力からの回答が各会員に届きました。回答書には、次のように記載されていました。「それぞれの被災者さまにご事情があるとは存じますが、きわめて多数の被害を受けられた方々がいらっしゃるため、まずは今回弊社よりご案内させて頂いた定額の賠償について対応させて頂いておりますので、ご請求書はご返却させて頂きます」。

 東京電力の回答は、被害者が個別の事情を記載して請求の意思を表示した書面を提出しているにもかかわらず、定額の賠償以外は全く相手にせず請求書を返還するというものであり、東京電力側の一方的な都合を被害者に押しつけるものでした。こうした対応は、慰謝料のみを請求した被害者に対してだけでなく、慰謝料以外の避難費用や除染費用など個別の損害について請求した被害者についても同様でした。請求書の中身の検討すらせず、まさに請求自体を門前払いにする、東京電力はそうした態度を、福島現地の、しかも線量の高い福島市とその周辺の被害者に対してとったわけです。

 こうした東京電力の不当極まる態度に対して、県北の会では直ちに反撃を開始しました。生業弁護団もこれを重大な問題だと受け止め、県北の会の事務局会議にも参加し、今後の取り組みについて協議を続けてきました。

 その結果、県北の会では引き続き直接請求を継続し、しかも請求者の数をこれまで以上に増やして行うこと、広く県民に東京電力の態度を訴えること、東京電力の福島現地事務所だけでなく本社に対する要請も行うこと、東京電力のみならず経産省や文科省に対する要請も行うことなどの方針を確認し、さっそく九月二八日には福島県庁で東京電力の対応を告発する記者会見を行い(生業弁護団からは深谷拓団員が参加しました)、地元二紙などが「東電が請求書返却」「直接請求東電が拒否」の見出しのもと翌日の紙面でとりあげました。

 冒頭の第三次請求の請求書の提出と要求書の手交は、こうした経過をふまえてなされたものです。第三次請求は、過去最高の一一九世帯分をとりまとめて提出したほか、請求書の提出も事務所前の駐車場ではなく、事務所内のブースで行わせました。また、駐車場で行われた事前集会では、要求書を提出するとともに、第一次請求にかかる請求書の返却について東京電力の社員に経過と事情の説明を――不十分な内容で会員の新たな怒りをかっていましたが――行わせることができました。

 県北の会では、引き続き一〇月三日には、今度は衆議院第一議員会館において、沖縄に避難した被害者の会である「東電原発事故の説明を求める会」との共同で、経産省と文科省に対し、東京電力の態度を明らかにするとともにその是正を求める要請を行うことにしています(この要請に際しては、沖縄県選出と福島県選出の全国会議員に対して、同席し、被害者を激励するよう求めています)。

 東京電力の被害者の線引きと切り捨てという態度に被害者の怒りはいよいよ高まっています。生業弁護団としても、被害者の方々の要求実現と被害救済のため、県北の会のみなさんとともに全力を尽くします。


沖縄・東電原発事故の説明を求める会の取組み

神奈川支部 中 瀬 奈 都 子

一 結成

 二〇一二年七月、福島第一原発事故後、福島県、宮城県、茨城県、その他首都圏各都県から沖縄へ避難した方々によって、「東電原発事故の説明を求める会」(以下、「求める会」と言う)が結成されました。「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発事故被害弁護団(以下、「生業弁護団」と言う)は、すでに団通信でもご紹介したとおり、昨年一二月二四日から、法律相談を行うなど、沖縄避難者と現地支援者で結成された「つなごう命の会」の取り組みを継続的に支援してきました。「求める会」は、「つなごう命の会」の活動でつながった沖縄避難者が、沖縄には一千人近くの避難者が避難生活を送っているにも関わらず、事故から一年半経った今まで、一度も東電による説明会が行われたことないという実情を問題視し、賠償に関する情報から隔絶されている状態を改善したいと立ち上がり、結成されたものです。「求める会」は、将来的に、生業弁護団が構想する国と東電の責任を追及する集団訴訟の原告団準備会に発展していくことが予定されており、生業弁護団は、「つなごう命の会」への支援に続き、「求める会」への支援も行っています。

二 東電との交渉

 二〇一二年七月三一日、「求める会」は、東電に対し、沖縄避難者を対象とした賠償請求に関する説明会の開催を求めましたが、これに対する東電の回答は、個別方式での相談会を開催するというものでした。これまで、沖縄避難者に対して、賠償について説明をする場が設けられていなかったことからすれば、個別相談会の開催は、一定の評価ができるものです。しかし、全体説明会でなければ、避難者同士が東電に対する思いを共有できないという問題や、一人で東電の社員と相対することに不安があり、避難者複数で賠償について説明を受けたいという声があること、また、「求める会」として、全体説明会の場で、東電に対し、要請事項を渡したいという希望があるなど、全体説明会を開催させる必要があります。

 そこで、同年八月一七日、生業弁護団を連絡窓口とし、改めて、東電に対し、個別相談会に加えて、「求める会」を中心とした参加者全員に向けた全体説明会を開催することを要請しました。生業弁護団は、これと併せて、弁護団所属弁護士と東電担当者との間で、持ち方や進行について事前協議を行うよう要請しました。

しかしながら、この二つの要請について、東電は、いずれも要請に応じることはできないという回答をし、加えて、同年九月一八日、あろうことか、個別相談会を「避難等対象区域から避難された方」のみを対象とするものとすると明らかにしたのです。

 対象者を限定した個別相談会の持ち方は、避難者を一方的に分類し、いわゆる自主避難者を排除し、沖縄避難者の中に、分断を生じさせるものであって、「求める会」としても、弁護団としても、到底許すことのできないものです。そして、このような、全体説明会を開催しない、避難対象区域からの避難者のみを対象とする相談会だけを開催する、という東電の態度は、自分たちが誰が被害者かを決める、そうでない人に対しては、賠償についての説明すらする必要がない、賠償などもってのほか、と「切り捨て路線」を明らかにしたものと評価できます。

三 全体説明会の開催及び個別相談会の持ち方改善を求めて

 「求める会」は、全体説明会の開催を求めて、沖縄避難者に対し、署名活動を行いました。署名用紙は、単に氏名を記載するのではなく、東電に対する思いをぶつける「一言コメント欄」を作るなどの工夫を凝らしました。会員は、小さな子供を抱える若いお母さんが中心なのにも関わらず、約二週間という短い期間で、四八二筆(二〇一二年九月二一日現在)もの署名を集めました。同年九月二一日、「求める会」は、全体説明会の開催、生業弁護団との間で個別相談会の持ち方について事前協議をすること、個別相談会の対象者を避難元地域によって限定しないことの三点を要請した要請書と共に、東電本社に、避難者の思いがつまった署名を送付しました。もっとも、「求める会」では、全体説明会が開催されるまで、署名活動を継続するようです。また、同年一〇月三日、「求める会」及び生業弁護団は、以上のような東電の態度を是正させるための取り組みの一環として、監督官庁である経産省と文科省に対し、東電の実態を伝えるとともに、その態度を是正させるべく指導するよう申し入れる要請交渉を行います。そして、この交渉は、福島市内を中心に現地で生活されている被害者の方によって結成された「原発なくせ、完全賠償をさせる福島県北の会」(以下、「県北の会」と言う)と共同で開催します。放射性物質による健康被害などの不安を抱えながら生活しなければならないにも関わらず、低額かつ一度限りの慰謝料しか支払われていないことから、「県北の会」が、集団で実損及び慰謝料の請求を行ったところ、東電は、請求書を受け付けることすらせず、そのまま返却するという態度をとっており、沖縄だけでなく、福島県内にとどまる被害者に対しても、上記「切り捨て路線」をとっているからです。

 いよいよ始まった東電による、賠償「終期」を睨んだ「切り捨て」に対し、被害者の怒りは高まるばかりです。弁護団は、こうした怒りを結集し、国と東電の責任を明らかにする訴訟を提起する予定です。弁護団の一員として、被害者の方々の多様な要求を実現するための闘いに取り組んでいきたいと思っています。


基地撤去二〇年と原発をストップさせたフィリピンへのツアー

東京支部  笹 本   潤

基地撤去から二〇年のフィリピン

 今から二〇年前の一九九二年一一月二四日は、フィリピンの米軍基地が撤去された日です。

 一九八六年にピープルズ革命で誕生したコラソン・アキノ大統領。アキノ大統領は当選後に米軍基地撤去派に転じますが、市民の力はそれで収まりませんでした。八七年には基地の存続を上院に委ねた新憲法が制定されます。

 米軍基地の更新期限である、一九九一年六月には、クラーク空軍基地、スービック海軍基地の近くのピナツボ火山が爆発します。特にクラーク空軍基地は火山灰が積もって滑走路が使えなくなりました。基地の延長を認める審議がなされた九月の上院では、一二対一一の僅差で基地撤去派が上回り、米軍基地が撤去される決定がされました。

 基地撤去後のスービック、クラーク基地跡は、現在では経済特区となり、雇用数も四万人から一一万人に増えています。ただ新自由主義の下、儲からない企業はすぐ撤退したり、非正規雇用が多く、労働事件も多発しています。

 しかし、他方で、米軍訪問協定という名の地位協定が一九九九年に結ばれ、米軍の駐留が今でも続いています。米比共同の軍事演習が中国との領土紛争も射程に入れながら行われており、米軍鑑の寄港地周辺ではレイプなどの犯罪も多発しています。

 基地撤去当時の活動家は今でもフィリピンで米軍の駐留反対、訪問協定反対の平和活動をしています。一一月八日、一〇日にスービック湾とマニラで基地撤去二〇周年を祝う記念集会があります。日本からも多くの方の参加で基地撤去の連帯を作っていきましょう。

原発の稼働を止めさせたバターン原発の見学

 同じくピープルズ革命の一九八〇年代に、フィリピンで導入が計画されていたバターン原発が稼働中止となり、そのままの形で維持され、見学できるようになっています。燃料は入っていない原子炉や使用済み燃料棒プールの実物(燃料は入っていない)を近くで見ることができます。実際の原発の内部を見学できるのは世界で唯一かと思います。

 福島原発事故が起きて一年半余りが経ちますが、改めて原発内部の様子を見て、原発の恐ろしさを実感することができます。中央制御室まで入ることができます。また現地で原発反対運動をしてストップさせた、非核バターン運動の方の話も聞くことができます。

 フィリピンでも、原発の導入については、日本と同じくIAEAが主導し、マルコス独裁政権の一九六五年に正式に導入を決めました。バターン原発の場合は、製造メーカーはウエスティングハウス社です。しかし、フィリピンの市民は、スリーマイル島、チェルノブイリ原発の事故を通して原発の恐ろしさを知り、それが反原発の大運動に発展していったのです。

 しかし、政府は今でもバターン原発の稼働をあきらめてはおらず、ここで日本とフィリピンの市民の連帯をしていく必要があります。

フィリピンの貧困問題、移民労働問題

 マニラ市に「スモーキーマウンテン」というゴミの山から使えそうなものを生活の糧にして生活している貧困地域があります。マニラ市は他方では高層ビルが建ち並んでおり、そのコントラストには驚きます。フィリピンの貧困問題は、南北格差など国際経済の構造的問題でもあります。フィリピンからの日本への移民労働者は、日本で劣悪な労働条件で働かせられ、人権侵害事件も多く起きています。フィリピンの法律家団体NUPL(ピープルズローヤーズ国民連合)やイミグランテ・インターナショナルともこの問題について交流します。

 このフィリピンツアーは日本国際法律家協会が主催します。一一月七日出発一一日帰国の五日間です。お申し込みは富士国際旅行社(電話 〇三-三三五七-三三七七)まで。


「たたかい続けるということ 馬奈木昭雄聞き書き」(阪口由美著)」を勧める

福岡支部  堀   良 一

 つべこべ言うなら力尽くでも読ませてみたい本である。とりわけ相手が若い団員だったら、取り押さえてでも読ませたい。馬奈木昭雄団員について書かれた「たたかい続けるということ 馬奈木昭雄聞き書き」(阪口由美著 西日本新聞社)がそれだ。

 馬奈木団員は、今更説明するまでもなく、公害環境弁護士の草分けである。弁護士一年目にして単身水俣に赴き、水俣病訴訟を戦い抜いた。その後取り組んだ集団訴訟のテーマは、じん肺、炭鉱事故、廃棄物、電磁波、大規模公共事業による環境破壊、予防接種等々と実に多彩である。それぞれの戦いには汲めども尽きせぬ教訓がある。しかも、リタイアした人間の回顧録ではなく、今もなお、よみがえれ!有明訴訟や九州原発訴訟の陣頭指揮を執る現役の戦う弁護士が、今に繋がる戦いと人生の歩みを語るところに深い説得力がある。

 しかしこの本は、決して堅苦しい集団訴訟の戦いの記録というものではない。弁護士として、人間として、馬奈木団員が課題に対してどう立ち向かい、何を教訓にして次に活かしていったのか、そのなかでわたしたちが馬奈木イズムと呼んでいる、馬奈木団員の弁護士としての戦いの論理、戦略と戦術、人生観、世界観をどう進化させていったのかということを、まるで馬奈木団員が隣にいて、平易な語り口調で静かに語りかけてくれているような気分で読み進むことができるのだ。

 それはこの本が馬奈木ファンの若い女性ジャーナリストによるインタビューのまとめという形式であることに負うところが大きい。著者である西日本新聞社の阪口由美記者のあとがきによれば、インタビューは五〇回を超えたという。よみがえれ!有明訴訟の弁護団でいっしょに活動しているわたしは、そのインタビューが実に徹底したものだったことをよく知っている。あるとき、裁判所に向かう電車に、馬奈木団員が若い女性を連れて乗ってきた。いっしょに座って、なんだか楽しそうに話している。あっ、うらやましい、と思ったらそれが阪口記者だった。インタビューは、電車の中でも、裁判や集会の打ち上げの飲み会の席でも、文字通り、ぴったりと貼り付いたようにして行われた。「馬奈木弁護士が歩み、積み重ねてきた歴史こそ、人とは何か、権利とは何か、国とは何かを正面から問い続けた運動の歴史であり、法律家の世界を越えて後世に伝え継がなければ、と思い念じてきた」(「あとがき」より)という阪口記者の思いは、単なる「仕事」にインタビューを終わらせていない。阪口記者の人間としての共感、人々に伝えたいという真摯な思いが、女性らしい優しい筆致の行間に溢れている。

 このインタビューが始まる前、馬奈木団員は病に倒れた。冒頭の「発刊に寄せて」にも書かれているように、予後が極めて悪いと言われる胆管癌だ。わたしの脳裏には、病室に見舞いに行ったときの、馬奈木団員の無念そうな表情が焼き付いている。闘病の過程でインタビューに応じた馬奈木団員は、このインタビューを通じて、病気を克服すると共に、未来を力強く生き抜くために、人生を振り返り、見つめ直し、自らの精神を奮い立たせようとしたのかもしれない。

 「たたかいつづけるということ」・・このタイトルには、後輩への言葉にとどまらない、馬奈木団員の未来に向けた強い決意が込められているように思う。

 そうした馬奈木団員と阪口記者の二人三脚がなしとげた、興味のつきない希有な半生記である。

 旨い物は、言葉で百回説明するより、食えば分かる。いい本も、それと同じで、読めば分かるのだ。


ラン&カラオケ、そして読書

滋賀支部  玉 木 昌 美

 私の一番の趣味は走ること、そして、各地の市民マラソンの大会に参加することである。「あんな苦しいことをして何が楽しい」という人がいるが、自らを鼓舞し、気力を充実させながらゴールにつなげる心理ゲーム、走り終わったあとの達成感は何ともいえない。運動会ではビリばかりだった運動音痴が二〇年以上もはまり続けている。

 大会では、「ランナーズ九の会」のランニングを着用し、背中には「変えるな!!世界の宝 憲法九条」のステッカーをつけて走っている。走っている途中「九条頑張れ!」の声援を受けることもあるし、各地の九条の会の人と走りながら、あるいは、走り終わったあとに交流することもある。「九の会って何?」と聞かれて、憲法九条の話をすることもある。こうして、私のマラソンは単なる遊びではなく、憲法運動としての位置づけもしている(と、たびたびの大会参加を妻に弁解している)。今年七月は、福井の花はす早朝マラソンに大阪の西団員と一緒に参加したが、はるばる東京からの清水団員とお会いした(福井の大会でお会いするのは坂井市古城マラソンについで二度目である)。

 もはやタイムや順位にこだわる年でもないが、受験戦争を経験した経歴からか遅いなりにもやはりこだわりがある。ところが、今年になって一度も一〇キロで五〇分を切っていない。調子がよいと思っても、五〇分八秒(東近江元旦)、五〇分一〇秒(夢の島)、五〇分一五秒(鯖江つつじ)であった。その原因としては加齢による衰えと右足首の故障が治りきらないことが考えられる。加齢を吹き飛ばし、これからのシーズンに何としても復活したいと思っている。九月は岡山県井原市のぶどうの里ふれあいマラソン五キロで五〇位となり、飛び賞のぶどうを手にした。三年前も五〇位の飛び賞でバスタオルをもらっており、私にとって運のいい大会である。恒例の丸亀ハーフのうどんツアーは大阪支部の篠原団員らを中心に参加者を募っている。

 大会に合わせての小旅行も楽しい。特に福山の文学館はお勧めである。また、常幹の翌日に関東の大会にも参加しており、今年三月、夢の島のベジタブルマラソン一〇キロを走った。その会場には、第五福竜丸展示館があり、大いに勉強になったし、そのころの団通信の大久保団員の原稿が印象に残ることとなった。

 膝の故障で半年間走れなかった時期にカラオケにのめり込んだが、黄金の足?が復活した後も続いている。三年前、救援会大津支部の忘年会の二次会で行って以来、あるスナックにたまに通うことになった。一〇時すぎまで仕事をしてから行き、一〇時三〇分ころから一二時まで飲んで食べて歌うのである。大声で歌って(みんなに迷惑?)ストレスを解消することも私にとって元気を回復する手段のひとつである。かつては、フォークとアニメ中心であったが、一昨年からナツメロにシフトし、昨年からは演歌である。小林旭

(「北へ」等)、五木ひろし(「由良川慕情」等)、北島三郎(「比叡の風」等)、・・である。ナツメロ関係では、「ガード下の靴磨き」の歌を知ったとき、これは自分が小学生くらいのころに、亡父が歌っていたことに気づいて感動した。また、亡母は岡晴夫のファンであったこともわかり、彼の歌も持ち歌にしている。カラオケ仲間と一緒に歌いにいけば、二時間、三時間あっという間に過ぎる。この夏、篠原団員夫妻らと琵琶湖岸を走ってから四時間歌い続けるというラン&カラオケの企画もしたが、大いに盛り上がった。うどんツアーも前日の夜の懇親会はカラオケ大会である。今年の団支部八月集会の二次会もカラオケであったが、彦根の坂梨団員の歌、西郷輝彦の「ねがい」などがよかった。

 読書は、毎月一〇冊ほどの本を団支部とマラソン仲間に紹介している。私は三五期九組で今年三〇周年の同期会が仙台であったが、わがクラスの刑弁教官であった亡土屋公献先生(元日弁連会長)の自伝『弁護士魂』を是非お読みいただきたい。戦場で捕虜の首を切ることを命じられ、たまたま逃れた戦争体験、その後の先生の生きざまから学ぶべきところが実に大きい。「人権の擁護と社会正義の実現に貢献しないのは弁護士じゃない。」という言葉が印象に残っている。私は憲法学習会ではいつも亡土屋先生の戦争体験を紹介し、九条を語ることにしている。最近、孫崎享氏の『戦後史の正体』を読んだ。これも日本の根本問題、「対米従属」を読み解く必読文献であると思う。

 以上のほかにも趣味は多い(団通信に駄文を送ることも付け加わった)が、「いくら忙しくても人生を楽しむ」というスタンスを大切にしたいと思っている。


裏銀座縦走・回想の山旅(二〇一一)

神奈川支部  中 野 直 樹

北アルプスの名川

 北アルプスは日本の屋根と言われている。この屋根に降った大量の雨水は、常願寺川、黒部川となって富山湾に注ぎ、また姫川、信濃川となって新潟県を流れ下る。このうち、信濃川の支流高瀬川は、烏帽子岳から鷲羽岳を経て槍ケ岳西鎌尾根に連なる山塊と餓鬼岳から燕岳・大天井岳を経て槍ケ岳東鎌尾根に連なる山塊の狭間を刻む。前者の稜線道は裏銀座縦走コース、後者は銀座縦走コースと呼ばれている。

 高瀬川は上流の登山基地・湯俣温泉で、湯俣川と水俣川に分岐する。水俣川は、槍ケ岳のもう一つの支稜・北鎌尾根をはさんで天上沢と千丈沢となる。湯俣川は河原に硫黄泉が沸く地獄がある。本流の中に白い巨大な茸のようなものが立ち、湯が噴き出していた。硫黄が固まり盛り上がった珍しいものである。地図には噴湯丘と書いてあった。豊富な水量の高瀬川水系には、下流から国土交通省所管の多目的ダムである大町ダム、東京電力の七倉ダム・高瀬ダムが築かれている。七倉ダムと高瀬ダムは揚水式で繋がれ、東電の有数の電力源である。

急登

 山歩きには地図が欠かせない。地形図がもっとも玄人肌であるが、コースタームが書かれた手頃なものは昭文社の「山と高原地図」シリーズである。この地図には、百名山、二〇〇名山、三〇〇名山の表記、コースの特徴・注意点がコメントされ参考となる。この地図に、「北アルプス三大急登」と選ばれている登山道がある。中房温泉から燕岳に登る合戦尾根、剣岳の早月尾根、そして、烏帽子岳へのブナ立尾根である。

大学の山仲間を思い出しながら

 一〇月八日朝、高瀬ダムから烏帽子岳登山ルールを歩き始めた。トンネルを抜けると真っ白な花崗岩の砂に埋まった不動沢があった、その吊橋から望む不動岳・船窪岳は、激しく崩壊を続け、白く傷ついた地肌が痛々しい。

 しばらく歩むとブナ立尾根の取り付きとなった。私の心の中には「いよいよ」という気持ちがあった。一九七七年入学の大学のクラスにO君がいた。O君は私立武蔵高校のワンゲル部員だった。私は山国育ちだが、わざわざ登山までするという経験はなかった。私は、たまたま一年の夏に富士山に登り、下りは無謀にも一合目の精進湖畔まで、青木ケ原樹海内を歩き通した。八合目から頂上、そして一合目まで一二時間以上の長行程だった。山には沢が流れ、水場があるものだとの先入観が富士山ではまったく全くはずれた。八合目で買った水筒の水が一滴もなくなってから数時間、炎天下、富士山のすそ野の緩傾斜を延々と歩くはめになった。この自慢とくたびれを後期の教室で話した。このことがO君の耳に入り、O君から山行に誘われるようになった。

 丹沢の沢登りから始まり、新緑の奥秩父東沢遡行、槍・穂縦走、南アルプス縦走など奥深い山の世界に導いてくれた。山行の道中に彼から聞かされた高校時代のワンゲル部の体験談の中に、夏の合宿で、ブナ立尾根を登って裏銀座コースをたどり、槍・穂縦走をやりとげて涸沢に下りたときの苦労話しがあった。そのなかでブナ立尾根の急坂にバテバテたという話が妙に記憶に残った。当時の大学はまだ学生運動とセクト抗争が残り、駒場構内でも内ゲバによる殺人が発生した。O君も私も大学構内では、社会運動に参加し、それぞれの所属するグループは肌合いを異にし、時には対立関係にもなったが、本郷に移った三年まで山のパートナーとしての友情を温めた。O君はワーグナーを愛し、長編「ニーベルグの指輪」を六時間聴き通したなどと私にはない文化を身につけていた。彼は、大学卒業後、金融機関に就職し、音信がとれなくなった。そして後年、若くして物故者となったことを同窓会名簿で知った。二千数百メートルの高度差をもつ黒戸尾根に汗粒を垂らしながら登った甲斐駒ヶ岳の頂上で、奉納してある剣を手にとって天にかざした姿を撮った写真をはじめ、私の学生時代のアルバムは彼との山行の写真で埋まっている。

 私もいつかはこの急坂に挑みたいと思いながら、三〇年以上が経った。

 尾根を背にすると正面に餓鬼岳・燕岳が聳え立つ。ブナからダケカンバに樹林相が変わり、烏帽子岳の尖りが見え隠れし始めた。息があがるところもあったが、緩やかになり中休みかと思ったところが烏帽子小屋であった。O君の体験談が心のなかで反芻され、増幅した心境で気合いを入れてきただけに、昼食もはさみ四時間で烏帽子小屋に着いたのはあっけなかった。もちろん、真夏に、巨大なキスリングに詰まった重荷を背負った鍛錬という条件下で歩かされたならば、また異なったブナ立尾根の風景があったかもしれない。

烏帽子岳の夕暮れ

 山体の形が山の名称になっていることが少なくない。駒、槍、笠、冠、烏帽子などなど。馬の形を表象する「駒ヶ岳」の名のつく山は全国に二〇を数える。駒ヶ岳の場合は頭に地名が付いており、個性がある。これに対し、帽子の烏帽子となると、全国に五〇を超え、この場合は地名がつかず、全国どこでも、標高二〇〇メートル足らずのものも、すべて「烏帽子岳」と名付けられているから面白い。この烏帽子一族のなかで三番目に高い裏銀座ルートの「烏帽子」は、二〇〇名山として「烏帽子岳」の親分格である。

 烏帽子小屋で素泊まり料金六〇〇〇円を支払って空身になって烏帽子岳に向かった。稜線にはすでに降雪した痕があった。縦に割れた花崗岩が折り重なって烏帽子の頭を造っていた。鎖をたどって二六二八メートルの頂上に立ち、山見を楽しんだ。北の立山方面はガスで見えなかったが、南は野口五郎岳への稜線が伸び、黒部川東沢谷をはさんだ向かいの赤牛岳から水晶岳への大きな山塊がでんと座っていた。

 一六時五〇分、雲が切れて赤牛岳の右肩の後方に薬師岳が姿をあらわし、夕陽をのみこんだ。小屋の周辺には小鳥のさえずりが響き渡っていた。

 小屋はテント泊まりを含め、冬季前最後の高山を楽しむ人々で賑わっていた。

 主は、やさしい言葉遣いで登山客と交流している。労山の会員である様子だ。今朝の気温は氷点下五度で、すでに野口五郎小屋、水晶小屋は閉鎖されているとのことである。自炊場でレトルトの中華丼と缶詰を食べ、コーヒーを楽しんだ。冷え切った身体をシュラーフにもぐらせたが足が暖まらず、なかなか寝付けなかった。