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内藤  功 *憲法特集*
砂川事件最高裁審理に関する米大使の国務長官あて書簡
守川 幸男 九六条問題の論点整理
坂井 興一 「災害二題・その後」大空襲上告棄却・大川小の悲劇など
森  雅美 大崎事件報告 〜第二次再審請求棄却決定〜
富樫 早苗 浜岡原発廃炉等請求訴訟及び仮処分訴訟について
川口  創 イラク派兵で重傷を負った元自衛隊員の国賠訴訟
中村 周而 水俣病特措法の救済「非該当」処分に対する異議申立ての闘い
海道 宏実 福井県支部の現状―設立一年を受けて
  明玉 愛知支部の若手会の取り組み



*憲法特集*

砂川事件最高裁審理に関する米大使の国務長官あて書簡

東京支部  内 藤   功

【砂川闘争 ・砂川刑特法事件 ・伊達判決 ・最高裁判決の概要】

 一九五五年六月一八日、砂川町民総決起集会は次のように決議しています。「戦時中も、戦後も相次ぐ基地拡張により多大の犠牲と損害を被ってきた。基地拡張は原子戦争の一環である。祖先が苦しみと悲しみに耐え築き上げた郷土は心臓部で分断され、明日への生活の根拠を奪われる。町民大会の名において基地拡張反対を表明する」

 一九五七年七月八日、測量に抗議するデモ行進で、基地内に二米ないし四米立ち入った行為を「安保条約に基づく行政協定に伴う刑事特別法二条違反(立入罪)」で起訴したのが、砂川刑特法事件です。

 一九五九年三月三〇日、東京地裁(伊達裁判長)は「(1)米軍は戦略上必要と判断した際、日本区域外に出動する。自国と関係のない武力紛争の渦中に巻き込まれる。戦争の惨禍がわが国に及ぶおそれがある。米軍駐留を許したわが国政府の行為は『政府の行為によって再び戦争の惨禍を招かないように』との憲法前文に反する」「(2)米軍駐留は、日本政府の要請と、施設区域の提供、費用の分担、その他の協力で、始めて可能。米軍駐留を許容する行為は、憲法九条二項の『戦力の保持』に該当し、合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるものである」と判決しました。政府・検察は異例の跳躍上告をしました。

 一九五九年一二月一六日、最高裁大法廷(田中裁判長)は「(1)外国の軍隊は憲法九条二項の戦力に該当しない」「(2)安保条約は高度の政治性を有する。その違憲か否かの判断は、一見極めて明白に違憲無効と認められない限り、司法審査権の範囲外で、第一次的には、内閣および国会の判断、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものである」と判決しました。

【一九五九年八月三日付け、在日米大使館より米国務省あて航空書簡】

 二〇一三年四月八日付けの各紙やTVニュースは、一九五九年八月三日付けで、在日米大使館から国務長官にあてた航空書簡について報道しました。新原昭治氏、末波靖司氏の入手文書につづいて、布川玲子氏(山梨学院大学元教授)が入手した米政府解禁文書です。

 その詳細は、山梨学院大学法学論集七一号所載の布川玲子氏の論考「砂川事件伊達判決と田中耕太郎最高裁長官関連資料」をご覧ください。本書簡は前半と後半に分かれます。

 前半部分では、田中耕太郎最高裁長官とレンハート首席公使が共通の友人宅で面談し田中長官から聴取した報告です。田中長官はレンハート公使に上告審の弁論期日の予定と、判決の落としどころを具体的に話しています。田中長官は、マッカーサー大使との「単線連絡」にとどまらず、首席公使との間でも、評議内容を含む情報の提供、秘密漏洩をしていたのです。大法廷弁論は、九月上旬に、午前午後通しで週二日、三週間、計六開廷で終わると教えています。実際は、過三日、二週間、計六開廷でした。ほぼ一致します。弁護団が弁論期日の通知を受けるよりも数日前に、米大使館には知らせていたわけです。

 田中長官は、裁判長として、「各裁判官がそれぞれの見解を長々と弁じたがるだろう」が、それに対しては、一五人の実質的な全員一致にもっていきたいと語り、また少数意見は「世論を揺さぶる」もとになるので回避することを願っている、と語っているのです。

 そして「裁判長は、争点を事実問題ではなく、法的問題に閉じこめる決心を固めている」とあります。ここに言う「事実問題」とは、「駐留米軍の実態」についての判断のことです。弁護団は「駐留米軍は戦略上必要と判断した際日本区域外に出動し、日本は関係のない戦禍に巻き込まれる」実態として、一九五八年、台湾海峡の紛争時に、第七艦隊など米海軍、米海兵隊航空団、米第五空軍が、日本の基地から出動した」と主張しました。田中長官はそのような米軍の実態は無視し、条文の文言解釈に「閉じこめる」という「決心」を示したのです。

 書簡の後半部分は、最高裁判決の時期が当初の田中長官の見立てより遅れる見込みとその理由、今後の見通しの情勢分析のコメントです。田中長官は当初、判決は「晩夏または初秋」の見込みだったが一二月になるだろう。それは「弁護団が結審を遅らせるべくあらゆる可能な法的手段を試みている」からだとしています。

 実は、最高裁判決予定が遅れたのは、最高裁田中長官が、米側の要求にこたえ、早急に違憲判決を破棄しようと焦って無理をしたからです。上告審弁護人の人数を被告一人につき三人、七被告について二一人に制限する旨の決定書を一方的に主任弁護人に送り付けました。その撤回を求めた弁護人の面前で、主任の斎藤裁判官は「米国がジラード事件(米兵の日本人女性殺人事件)で日本に裁判権を認めてくれた手前もあり、砂川事件は早く判決しなければいけない」「検事の上告理由書は簡単な箇条書き程度でいいから早く出せと言ってある」と公言しました。また、マスコミに対し「必要なら検察に最高裁調査官を貸してやってもいいと言ってある」と語っています。弁護団は、これらの理由で斎藤裁判官を忌避しました。また、田中裁判長は、裁判官への年頭訓辞で「ソ連・中共は国際ギャング」と公言していました。これほど極端な考えの裁判長は、安保条約を争点とする砂川裁判での公正な審理は到底期待できないとして、忌避しました。審理が遅れた原因は最高裁側にあります。

 また本書簡は「最高裁が、地裁判決を破棄し、政府側に立った判決を出すならば、新条約支持の世論の空気は、決定的に支持されることになろう」「反対勢力は、自分たちの攻め技が崇って投げ飛ばされることになろう」と書いています。しかし、当時の安保反対闘争は、最高裁判決によって、米大使館が期待するような打撃を受けることはありませんでした。安保反対闘争は、伊達判決で法的確信を与えられました。最高裁判決も「安保の違憲かどうかは、終局的には主権者たる日本国民の判断に委ねられる」と言わざるをえませんでした。一九六〇年六月の安保闘争の最高揚期に向け、次第に広がっていきました。

【米大使館の一連の報告文書を通読しての感想】

田中長官の米国への従属ぶりは、個人的なものか。構造的なものか?

 新原昭治氏入手資料(二〇〇八年四月発表)によると、伊達判決の翌朝、マッカーサー大使が、藤山外相を訪れ跳躍上告を要請しました。さらに大使は、田中長官と会って判決の見通しを聞き出しています。最高裁弁論の焦点となった、米第七艦隊が一九五八年台湾海峡に出動した実態について如何に弁解するか、最高検察庁、外務省、国務省が苦慮し協議していた背景も、わかりました。

 末波靖司氏入手資料(二〇一二年四月発表)によると、田中長官は大使に、最高裁の評議の内容を具体的に話しています。また、米軍駐留は、憲法九条の「戦力保持」に該当しないとの大法廷の論理は、米国務省の特別補佐官が一九五〇年に考え出した解釈で、米側は日本の著名な法学者に、この方向での学説の組み立てを求めています。さらに田中耕太郎氏を最高裁長官に任命する人事に際しては、米側が田中氏の、個人情報収集、思想調査をしていることがわかりました。

 今回の布川玲子氏入手資料を総合すれば、田中耕太郎氏の個人的な従属ぶりにとどまらず、安保条約の下での、最高裁に対する構造的な従属性を痛感します。安保条約、米軍基地にかかわる裁判闘争を進める上で、とりわけ留意すべきことです。

【最高裁判決と安保条約調印の当初日程を遅らせた根源の力】

 米側書簡では触れていませんが、遅延の真の原因は、もっと深いところにあります。当時大法廷に係属中の松川事件(冤罪・謀略事件)の破棄を求める国民的運動の力です。無実の被告を、死刑判決から救えという怒濤のような救援運動は、広津和郎氏ら、著名人を含む広範な人々の支持をえて、最高裁に迫っていました。五九年七月九日、東京体育館で、松川、砂川の共同の一万人大集会が開かれました。「松川の無実の人を救え。松川判決を先にせよ。砂川審理は急ぐな」が統一した要求となりました。最高裁大法廷の多数裁判官は、この大運動の道理に従い、松川の破棄差戻判決を先にし、砂川審理は後になりました。米政府と田中長官の当初の目論みに反する結果となりました。安保条約の調印、国会審議は遅れました。これは一九六〇年の歴史的な安保反対大闘争の組織に必要な期間が確保され、平和・民主勢力に有利な結果となったのでした。

(二〇一三・五・一四記)


九六条問題の論点整理

千葉支部  守 川 幸 男

一 はじめに

 私は自由法曹団通信二〇一三年五月一日号で、「九六条改悪阻止に向けて創意工夫を」と題して投稿した。九六条を入り口とする安倍内閣の改憲戦略を概観し、九条をはじめとした各条項について訴える観点やアプローチの工夫を中心としたものであった。末尾に「九六条変えたなら」というポエムをつけた。このポエムには、九六条改悪をめぐる論点と運動論の両方が含まれている。

 今回は、九六条問題で国民に訴えかける論点整理をしてみた。

二 情勢の見方の補論

 最近(四月の中旬ころからであろうか?)、マスコミや世論の動向が変わってきている。これに反対する野党協力も期待されている。九条改悪をあと回しにして九六条という「手続」論で押し切れるという戦略であったが、九条を変えてもよいという層も含めた意外な反応に推進側も少しあわてて、よく議論するなどととりつくろいを始めた。潮目の変化である。

 同時に、衆議院では、推進派の自民、維新、みんなが議席の三分の二を超えており(もっとも、最近みんなの対応が変化している)、支配層が、これが最後のチャンスとばかり総力を上げてかかって来るから、危機感を持って立ち向かう必要がある。

三 論点整理

 多くの論点はすでに多くの団員が学習会などで訴えていると思うが、九六条に焦点をしぼって論点整理してみるのも意味があると思う。様々なアプローチが考えられるので、かなり論点が重なっているうえ、論理の運びや構成、順序など自信がない。

(1)単なる手続規定ではない

 ―内容、本質、ねらいとの関連で見る

 憲法改正全体をどう考えているのかを隠している

 姑息なやり方、ずるい、真正面から問題提起できない、邪道

 もっとも、石破幹事長―「ねらいは九条」と発言していた

(2)立憲主義を破壊する

 九六条は立憲主義を保障する入り口の条文

 憲法には多数の横暴から少数者の人権を保障する機能があり、これを容易に変えるしくみへの変更は立憲主義の破壊

 手をしばられている権力者が、手をしばっているしくみを嫌って勝手に変えようとすることなどあり得ない発想

 勝つためのルール変更を選手はできないはず

(3)最高法規性を破壊する

 九六条のあとに続く最高法規の章と一体として見る

 自民党草案が九七条(永久権利性)の削除を提案していることとの関連を見る

 憲法十一条(永久権利性)、八十一条(違憲立法審査権)とも一体として見る

(4)硬性憲法の何たるかについての無理解

 ―諸外国の立法例との対比

 国の基本法として、政治的な思惑や一時の熱狂でやたらに変えてはならないことを規定した硬性憲法が世界標準

 歴史の教訓から学ばない

(5)諸外国で改正手続だけを先行して手をつけた例はない

(6)諸外国では頻繁に改定されていることをどう見るか

 厳格な手続に基づいて必要に応じて改定されたもの

 日本では憲法が生かされていないことこそ問題で、手をしばられている権力側から声高な改正論議があるが、国民の側から強い改正要求はない

 ドイツの憲法は法律で規定するような条項も多く、その分改正の回数が多い

(7)国民主権に資するものか

 「国民の判断する機会が奪われている」との弁解に対する批判を

 国民投票は、国会の発議した改正案に賛成か反対か判断するのみで、国民の判断する機会が奪われているとか「国民主権」に反するなどという大げさなものではなく、論点のすり替えでは

 国民主権や立憲主義に対する浅薄な理解

(8)法律より簡単な改正要件に低める

 九条を含めた一〇〇を超えるすべての条文が単純多数決で改正できることになる

 法律でさえ以下の四つの特別多数の規定(もっとも分母は「総議員」ではなく「出席議員」)があるのに、法律より改正要件が低くてよいのか

・五五条但書の資格を失わせる争訟 ・五七条一項但書の秘密会

・五八条二項但書の除名 ・五九条二項の再議決

(9)政権党が野党の協力なしにいつでも改憲発議ができることになる

 議院内閣制のもとで、政権党は必ず衆議院で二分の一を超える議席を有しており、いつでも野党の協力なしに改憲の発議ができる

 政権交代の度に多数決で容易に憲法改正の発議が可能となる→政治の不安定化

 もっとも、日本は二院制であるから、そう単純ではない

 なお、参議院で法律「改正」を阻止した歴史もあり、ここに参議院の存在意義がある

 しかし、九六条を改悪すれば、いずれ参議院の廃止を具体化してくるおそれもある

(10)九九条の憲法尊重擁護義務違反である

(11)一票の格差違憲訴訟での相次ぐ違憲、無効判決との関係

 国民の代表としての正当性に疑問をつきつけられている国会に憲法改正の発議をする資格があるのか

(12)改憲派からも異論、与党内からも異論、動揺

 小林節慶応大学教授など


「災害二題・その後」大空襲上告棄却・大川小の悲劇など

東京支部  坂 井 興 一

(五・八最高裁)第一小法廷(裁判長横田尤孝)は、三・一〇東京大空襲を棄却・不受理決定した。一月の大阪空襲高裁事件記録の移転さえ未だと云うのに、である。戦後補償問題放置の言い訳にされてきた空襲事件には、被害を身近に感じれる準同世代人の判事諸公が果たすべき責任があるとして大法廷回付を求めていたので、決定は早くても参院選後の今秋かと思っていた。が、レパ判決のことで前倒し対応の必要を感じ、社民党福島議員の協力も得て、何とか「大空襲は当時の国際法の根底にある人道主義には合致しない」との五・七付閣議決定答弁を引き出した。昭二〇年の帝国政府抗議声明自体は新聞記事等で立証済みであったが、責任政府の公権的見解を引き出したのは初めてのこと。また軍民補償格差問題についても、五・八には厚労省援護局経由のものを入手、それには平二四年で六八万五千人・五千二百億余、二五年でも六二万人弱に四千六百億余と、差別の継続拡大を証明するものであった。そうした新規証拠等を入手し、かねて窓口約束の一〇日には宇都宮前会長も加わっての補充書提出要請行動だったところ、裏切り決定は九日に郵送され、同日夕の緊急記者会見、そしてゆかりの浅草・台東区民会館での一〇日集会は、報告会改め、怒りの抗議集会と化した。決定の体裁は全く無内容・定番の三行半であるから、その心事は推測するしかない。(判事諸公の議論)追報の感じで、同日同小法廷のシベリア抑留上告棄却のことを知った。控訴審での重要事実として抑留補償法成立を取り上げていたが、経過は、京都地判平二一年一〇月が遺憾として立法を促し、二二年六月に即日施行立法と稔り、悪い意味で安心したのか、二三年一月に大阪高裁が直接請求を蹴ったものの上告審だった。となると小法廷は、給付法があろうとなかろうと直接請求は認めないとの態度で抱き合わせ合議したのか。そして、「主文に結びつかないサービス的傍論は邪道」論の風評と併せ推測すると、実定法のない請求は一切棄却、立法懈怠への付言も余計との立場を取るとしたのか。ちなみに名古屋空襲最判と同じ昭六二年六月のシベリア抑留賠償事件では、「戦争損害、多かれ少なかれ等しく受忍。総合政策・裁量の問題で、不作為でも裁量逸脱にあらず。」としている。(屈折した権威主義なのか。)空襲事件に見える裁判所の姿勢に、私は「遁走法廷、同情するだけでサヨナラですか(平二四年四月東京高裁)。」「司法は自殺する気ですか(この一月大阪高裁)。」と失望を表明してきた。が、まだ未練・ひらめ目線の高裁判事とは違い、被災が他人事でない準同世代人が個別意見を言う機会もある。そこを目指そうとしての上告審だったが、三行半決定である。司法のこの態度は、横並びみんなで渡る一票事件の「蛮勇」でカムフラージュした逃げ腰のものと思ってきたが、穿ってみれば、立法・行政に目こぼしで恩を売る類に見えてきた。彼らは昭一九年生まれの私と同世代で、若い頃は分からなかったが、この歳になってみれば天下り期待の他省庁の次官諸君と違い、一〇年近い年下諸君に媚びへつらう気にはなれない筈。ともあれ、体制権力への迎合・お目こぼしのいずれであっても、憲法一三・一四条を国民向き目線で説明し、裁判所が好む「中立・公平らしさ」に気を遣った物の言い様をしたらどうなのか。官側司法のこの有様を見るにつけても、弁護士会側が司研教官・最判人事や叙勲問題(少なくも連合会正副は予め辞退表明すべき)を消極受容してきた間に、法曹三者協議も予定調和の談合路線に傾き過ぎての今日の諸困難があるように思える。(災害と官)ところで陸前高田ふるさと大使である小生にとって、戦災と震災の二つは離れないテーマであるが、その関連で四月末に日民協仙台拡大理事会に出席し、渡辺治理事長らと共に石巻・女川等の被災地を見る機会を得た。北上川新河口遡上流域土手道付近、大川小悲劇の現場印象は強烈である。桜花が千切れるような寒風の日、多分当日も横殴りするような吹雪の強風の中で、川に沿って高速道並の逆流海水に呑まれたであろう大勢の子供達の最後の幻影がこびり付いて離れない。見なければよかったとも思うその場は、然しどうすれば避けえたのかも考えさせて呉れた。それは「誤った警報、危険の半端な遮断、何事も指示待ちの現場、責任逃れの検証委」である。さながら幼稚園舎のようなモダン校舎では上への逃げ場がない。すぐ近くの裏山は低灌木が邪魔して年少児童を上らせるには覚悟が要る。正面土手は荒川・多摩川並高堤防道路で異変は見えない。あなたが大川小の教員だったら、切迫した警報と怒濤の逆流が見えさえしたら、と思うかもと。つまり、(正しい教訓)その一、危険は見えるように、である。津波被害の大きかった南三陸・陸前高田・大槌・山田・田老に共通したのは、半端な教訓で半端に高かった堤防が海の異変を隠してしまったことである。比べて気仙沼・大船渡・釜石・宮古は、間近の危険がリアルに見えて生存率が高かった。この明暗の結果も何故か復興計画に活かされず、また有害・コスト倒れの万里の長城を築く気でいる。それだと自治体職員では太刀打ちできないアドバイザーを抱え、特区的効果を狙うゼネコン期待の時限予算での処理となる。彼らはそうして零細地元民を海から追いやる気なのか。津波は来るときは来る。半端な期待は持たず逃げるが勝ち、コミュニテイは野越え山越えどこぞの谷戸ではなく、どこからも接近の楽な中心部に、がれき残土を積み上げ、さながら中世欧州の城塞都市の如くとした方がいい。なまじいの高堤防が目の前の遮断物となって、大川小の悲劇は起きたのである。教訓その二は実践的警報責任である。責任問題に左右されるのか、原発のものも含め、行政の行う警報は過不足がひどい。チャンと言って呉れたらと何処でも嘆いているのに、チャンと謝った形跡もなく、お詫び抜き改訂の現状は遺憾である。一斉提訴の慰謝料請求でもしないと改訂版の実効性も期待薄である。空襲でも同様で、防空義務で縛り付けられた被災者は先行被害のことを隠され、悲劇はないことにされたまま一貫しての詫び抜き対応で死滅を待たれ、消し去られようとしている。官の無責任、それが誘導する無常・運命受容型の国民感情に便乗されていては、また同じ嘆きを繰り返してしまいそうである。


大崎事件報告 〜第二次再審請求棄却決定〜

鹿児島県支部  森   雅 美

一 大崎事件とは

 大崎事件は一九七九年一〇月一二日の夜、酔って道路脇に寝ているところを隣人二名に車で自宅へ運ばれた被害者の行方が、その後分からなくなり、同月一五日の昼過ぎに被害者の牛小屋の堆肥の中から遺体となって発見された事件である。

二 大崎事件の経過

 請求人の原口アヤ子さんは逮捕以来一度も自白することはなかったが、確定一審判決は共犯者とされた三人の自白供述をほとんど唯一の証拠として有罪とした。アヤ子さんと「共犯者」とされる三人の犯行を直接裏付ける客観的証拠は存在しない。

 共犯者とされた一人はアヤ子さんの元夫で、自らの公判廷では自白し、刑も確定していたが、アヤ子さんの控訴審では、アヤ子さんも自分も事件に関与していないと証言した。しかし、控訴審、上告審でも無実の訴えは棄却された。

 一〇年の服役中、アヤ子さんは罪を認めれば仮釈放できるという誘いも拒絶し、一〇年間服役し無罪を訴えてきた。アヤ子さんは一九九五年四月一九日第一次再審請求をし、二〇〇二年三月二六日鹿児島地方裁判所は再審開始を決定した。しかし福岡高裁宮崎支部はその決定を取消し、請求を棄却し、最高裁も特別抗告を棄却した。

 本件は二度目の再審請求である。アヤ子さんが二〇一〇年八月三〇日に元夫の親族が二〇一一年八月三〇日に再審請求を申し立てた。

三 鹿児島地裁決定

 二〇一三年三月六日、鹿児島地方裁判所刑事部(中牟田博章裁判長)は、第二次大崎再審請求事件について棄却決定をした。

 この決定では、弁護団が求めて続けていた証拠の標目の開示請求につき無視し、事実調べについても全く実施しないまま判断がなされた。弁護団は、新証拠として法医学鑑定書、供述心理鑑定書等を提出していたが、決定は、これら全てにつき「(共犯者らの)自白の信用性を動揺させるような証拠価値は認められない」として明白性を否定した。

四 決定の問題点

 鹿児島地裁決定の問題点は次のとおりである。

 本件の特徴は、先述のとおり共犯者三人の自白が確定判決を支える唯一の証拠であり、証拠構造が極めて脆弱である点にある。決定自身も「(共犯者らの)自白が直接証拠として最も重要であることは論をまたない」としている。

 弁護団は、この証拠構造の根本的脆弱性に加えて、共犯者とされる三人には知的障がいがあり、その自白の信用性判断については、一層慎重でなければならないことを度々指摘してきた。ところが、決定には、この点に対する配慮が全く見られず、このことと鑑定人らの証拠調べを全く実施しなかったこと等とあいまって、証拠の明白性判断に大きな影響を及ぼしている。

五 証拠の明白性の判断手法の誤り

 決定は、弁護団が提出した新証拠の明白性を判断するにあたり、最高裁が採用する総合的評価説を全く理解せず、独自の判断手法を採用する。

 すなわち、決定は個々の新証拠が、それだけで確定判決に合理的疑いを生じさせなければ、新証拠の明白性は認められないという理解に立つ。しかし、最高裁の総合的評価説は、個々の新証拠については関連する旧証拠の証明力を低下させれば足り、そのことだけで確定判決の事実認定に合理的疑いを生じさせる必要はないとするものである。新証拠の一つが旧証拠の証明力を低下させれば、改めて旧証拠と新証拠全体を総合評価し、その結果確定判決の事実認定に合理的疑いが生じれば、新証拠の明白性は肯定されるのである。決定の明白性判断はこれと異なり、それぞれの証拠を個別的に評価するに留まっている。理論的にも昨今の再審請求審における明白性判断枠組と逆行する。

六 新証拠に対する個別評価の誤り

 しかも、決定には新証拠そのものに対する個別の判断に関しても、それぞれの証拠に対する無理解、誤解が多々ある。

(1)法医学鑑定書(鑑定人上野正彦)について

 鑑定書は、共犯者らの自白を前提とすれば、当然に遺体に形成されているはずの所見(索溝)が欠けていることを示す新証拠であり、共犯者らの自白の信用性を弾劾するものである。ところが、決定は、被害者の死体の頚部について索溝等の有無を論じることはそもそも困難であるという理由から鑑定書の証拠価値を否定した。

 しかし被害者の頚部の索溝等の有無については、この鑑定だけが論じているものではなく、第一次再審請求時における三人の法医学者がいずれもこれに言及しているのである。この点について論ずることが困難というのは決定の独断であり明らかな事実誤認である。

 その上、決定は、この鑑定が被害者の抵抗を想定していることに、論理の飛躍があるという。しかし、本件では、共犯者らの自白内容自体に、被害者の抵抗が想定されているのである。そこに論理の飛躍があると述べる決定は、共犯者らの自白内容自体も正確に把握していないといわざるをえない。

(2)供述心理鑑定書(鑑定人大橋靖史、高木光太郎)について

 鑑定書は、共犯者らの自白供述を心理学の観点から分析した結果、共犯者らの供述が「体験供述性を有しない」と結論付ける新証拠であり、共犯者らの自白の信用性を弾劾するものである。

 決定は、鑑定書について、専ら供述の内容や変遷の有無等に着目して「体験供述性」の有無を論じており、供述の信用性の検討としては甚だ不十分であることはいうまでもない、等と述べる。

 しかし、この鑑定書は、供述の信用性の判断を直接に行ったものではなく、供述の構造及び形式という客観的側面に着目し、科学的観点からその「体験供述性」を論じたものである。あえて鑑定対象を限定して鑑定を行っている。このような鑑定に対しその限定ゆえに信用性の検討としては不十分などと断ずるのは、鑑定の意義を全く理解せず、科学的視点を全く無視するものである。

(3)決定は、カーペット等再現実験報告書や精神科専門医の意見書等の証拠についても類似の誤りをしている。

 そもそも決定がこのような誤った判断に至ったのは、鑑定人に対する証人尋問等の審理を充分しなかった点に要因がある。裁判官は法の専門家であっても、科学的知見に関しては素人である。証拠判断は法的見地からなされるにせよ、それに至る過程においては、もっと謙虚に専門家の意見の理解に努めるべきであり、それが無辜の救済の最後の砦たる再審に求められるものであろう。

七 手続進行について

 本決定で異例なのは、「再審請求手続の進行に関する弁護人の意見について」という項目を設けていることである。ここで、決定は証拠の標目の開示を求めなかったこと、鑑定人らの証人調べをしなかったことの理由を述べる。

 しかし、裁判所の勧告等により新証拠が提示され、それによって多くの再審無罪が導かれてきた事実を無視したものであるとともに、新証拠に対する決定自身の不十分な理解を見れば、結果的に本件の再審手続が不充分であったことを自認するものとなっている。

八 即時抗告審へ

 いずれにしても、今回の棄却決定は承服できるものではない。弁護団は三月一一日に即時抗告申立書を提出し、審理は即時抗告審へと移ることとなった。

 弁護団(鹿児島県弁護士会会員を中心にメンバーは三四人)では、即時抗告審における原決定の取消しと再審開始決定の獲得へ向けて全力で取り組んでいく所存である。


浜岡原発廃炉等請求訴訟及び仮処分訴訟について

静岡県支部  富 樫 早 苗

一 本訴の展開

(1)平成二五年三月二一日、第八回口頭弁論まで進行した。

 平成二四年五月一七日、裁判長が交替して弁論の更新があった。

(2)これまでの争点は、

 内閣府に設置された「南海トラフの巨大地震モデル検討会」の報告で示された震源断層モデル及びここから導かれる地震動に基づき(1)耐震設計の再検証を行っているか否か。(2)同検討会の報告で示された想定される津波高の津波(T.P一九m)が襲来した場合の対策を講じているか。(3)五号機特有の構造上の弱点、(4)取水設備の弱点などである。

 原告の問いに対し、被告中部電力の回答は、(1)への回答の要旨は「平成二五年度上半期を目途に、評価結果を取りまとめて、原子力規制委員会へ報告することとしている」。(2)への回答の要旨は「シミュレーションによる評価の結果、現在進めている津波対策により、原子炉を速やかに冷温停止できることを確認している」というものである。

 被告は、政府の安全性新基準の審査を待つという姿勢で、時間稼ぎに入っているようである。

二 仮処分の申立

 二〇一二(平成二四)年一二月二一日、新たに浜岡原発五号機の仮処分の申立をした。

 申立の趣旨は「債務者は、本案判決が確定するまでの間は、別紙原子炉目録記載浜岡原子力発電所五号機を運転してはならない。」である。

 浜岡原発には五号機まで有るが(六号機は建築の許可まで)、一、二号機は廃炉予定であり、三、四号機は、先行する別の仮処分を既に申立済みである。

 今回の仮処分の申立に辺り、申立人を広く公募した。先行する仮処分の申立人にも本仮処分に申立人として参加してもらうため、あえて仮処分の対象を五号機のみにしたのである。

 公募の結果、仮処分の申立人は七七七名になった。何ら人数調整をしなかったが、たまたま縁起のいいぞろ目になった幸先のいいスタートだった。

 その後、進行協議を経て、本訴と平行して手続きを進めることになり、主張や資料も本訴と揃えることになった。

三 風船プロジェクト静岡

 浜岡原発廃炉等訴訟の原告団と弁護団は、平成二四年一二月二日、浜岡原発から約八キロメートルにある公園から風船一一〇〇個を飛ばして風向きによる放射能飛散状況予測調査実験を行った。この実験は風船プロジェクト静岡と銘打たれて、原告や地元の人、県外からの協力者とともに実施された実験実施の様子は新聞にも掲載された。

 実験の準備から実施、結果までは原告がブログを作って発信し、ツイッターなどで情報を発信した。

 実験の結果、県の内外から二九個の風船の発見報告があった。原告の方が風船の発見報告をマップにしてくれた。

 なお、発見者へのお礼は、「復興ぞうきん」にした。復興雑巾とは、震災後の避難所が閉鎖するときに余ったタオルを再利用して雑巾にして売り、売り上げの一部が雑巾を縫った人にバックされるというプロジェクトである。一枚一枚が手縫いで、オリジナルなデザインになっている。

 浜岡原発の静岡本庁の訴訟の経過はホームページで、風船プロジェクト静岡の経過はブログで見られる。

浜岡原発廃炉等請求訴訟弁護団のHP

   http://www.hamaokaplant-sbengodan.net/

風船プロジェクト静岡のブログ

   http://www.hamaokaplant-sbengodan.net/

復興ぞうきんプロジェクト

   http://fukkozoukin.blog.fc2.com/


イラク派兵で重傷を負った元自衛隊員の国賠訴訟

愛知支部  川 口   創

 二〇一二年九月二六日、元自衛官の池田頼将さん(四〇歳)は、二〇〇六年七月に、イラク派兵の派兵先であるクウェートで重傷を負い、適切な治療を受けられなかったことなどを理由に、国を相手とする国家賠償請求訴訟を名古屋地方裁判所に提訴し、現在継属中である。

一 事故の発生

 二〇〇三年に始まったイラク戦争で、日本政府は自衛隊のイラク派兵を進め、航空自衛隊は空輸を担った。

 池田さんは、小牧基地所属の航空自衛隊小牧通信隊として二〇〇六年(平成一八年)四月に小牧基地からイラクの隣国クウェートへ派遣された。

 二〇〇六(平成一八年)七月四日、アリ・アル・サレム基地において、米軍主催のマラソン大会が開催され、池田さんも参加した。 

 池田さんがトップを走る米兵二名を追い抜き、単独トップに躍り出た直後、事件は起こった。

 米軍の民間軍事会社KBRの大型バスが、突如池田さんの左肩から左半身付近に衝突し、池田さんをはじき飛ばしたのである。

 池田さんの記憶の中では、「ドスン」という鈍い音を聞くと同時に記憶を失った。池田さんは体ごと数メートル先の砂漠まではじき飛ばされたようである。

 その後、池田さんは、救急車で米軍の衛生隊に搬送された。

 池田さんは、米軍の衛生隊に搬送される救急車の中で一旦は意識を取り戻したが、米軍の衛生隊から錠剤四錠を投与されていた影響で、はっきりと意識を取り戻したのは、本件事故から約二三時間が経過した自室のベッドの上であった。

二 自衛隊は池田さんへの治療を行わず放置

 本件事故から約二三時間後、池田さんの意識が戻ったが頭、首及び肩に強い痛みを感じベッドの上から全く動けない状態であった。

 また、口を開けようとすると真っ直ぐに開かず横にずれて口が開き、同時に首筋などにも強い痛みが走り、身動きできない状態になった。

 池田さんは身体の痛みに耐えかねて、航空自衛隊の衛生隊に対して病院へ搬送するよう要求した。しかし、空自衛生隊は、当初、本件事故が米軍によって引き起こされたことを理由に、「米軍のところで診てもらうように」と言うのみで、病院への搬送を拒否した。

 身体を動かすことすらできない池田さんは、航空自衛隊のもとで治療を受けるほか手段はなかった。

 しかし、航空自衛隊の部隊にはレントゲン設備すらもなく、最低限の検査・治療設備も整っていなかった。池田さんが受けた「治療」と言えば、一度だけ衛生隊幹部の触診を受け、その際に「デパス」という精神安定剤一錠を処方されただけである。

 池田さんの受傷状況からすれば、このような処置は、「治療」などと言えるものではない。

 池田さんは、クウェートにいる間、支給されたコルセットを首にはめていただけで、部隊から治療は一切受けさせてもらえなかった。

 池田さんは日常の通信業務の任務に就いても、痛みのためにソファーに横になる他なかった。池田さんは、本件事故から四日が経過した同月八日、地元の民間病院へ連れて行かれたが、病院の外科医が使用する言語がアラビア語であったため、言葉が全く通じず、池田さんの症状を医師へ正確に伝えることができなかったため、適切な治療を受けることは出来なかった。

三 平成一八年八月末まで、池田さんは帰国が許されなかった

 池田さんは、職務時間中も、ソファーに横にならざるを得ず、通信員としての職務を果たすことがほとんど出来ない状況だった。

 池田さんは、症状が一向に改善せず、治療も全く受けることができない状態病に不安を感じた池田さんは、上司に対して日本へ帰国を再三求めた。

 しかし、池田さんの帰国の要望は聞き入れられなかった。

 結局池田さんは、派遣期間満了である同年八月末まで現地に留め置かれ、他の自衛官らとともに帰国することを余儀なくされ、その間、池田さんに対する治療も行われなかった。

 その結果、現在池田さんは口が一ミリ程度しか開かない、右手に神経症の震えが生ずるなどの重篤な後遺障害を被り、現在に至っている。池田さんは、口が開かないために、ものを食べるということが出来ず、全て流動食であり、また歯を磨くということも出来ない。

 右手が震えるため、通信員としてモールス信号を打つことが出来なくなり、字を書くことも困難となり、日常生活に著しい不利益を生じている。

四 なぜ、池田さんは「放置」されたのか

 池田さんが重傷を負った二〇〇六年(平成一八年)七月は、陸上自衛隊がサマワから撤退する一方で、米軍からその引き替えとして、航空自衛隊がバグダッドへ武装兵士を送り込む輸送活動を密かに開始した時期でもある。

 それまでバグダッドは、イラク特措法上で自衛隊の活動が禁止された「戦闘地域」にあたるとして自衛隊の活動対象から外されており、実際に米軍による大規模な「掃討作戦」が展開されていた、まさに戦争の最前線であった。

 その最前線であるバグダッドに武装した米兵ら多国籍軍兵士を輸送するという活動は、憲法九条が禁止する「武力行使」にあたることは当初から明らかであった。それゆえ、バグダッドへの輸送活動開始後、政府は輸送内容は徹底的に非公開を貫いた。

 これに対し、二〇〇八年(平成二〇年)四月一七日、名古屋高裁が、このバグダッドへの武装した米兵等の輸送活動を、憲法九条一項に違反すると、厳しく断罪したのは周知のとおりである。

 二〇〇六年(平成一八年)七月は、違憲の疑いが強い輸送活動をまさに開始する時期であった。政府は、国民からの批判を回避し、密かに空輸活動を開始していこうとしていた時期である。

 同時に、政府は米軍との関係でも摩擦が生じないように細心の注意を払っていた時期である。

 その時期に、イラク特措法による派遣中の自衛隊員が、米軍によって大怪我を負ったなどということが明るみに出れば、国民の航空自衛隊の活動に関心が集まり、武装米兵輸送の事実が明るみに出た可能性がある。そうなれば、「対米支援」は失敗に終わった可能性すらある。

 そこで、部隊は、「対米支援」を進めるために、池田さんの事故を隠蔽した可能性は否定できない。そうだとすれば、池田さんは、こうした軍事的な意図の下に生じた犠牲者に他ならない。

 池田さんは帰国後、職場での退職強要のために退職を余儀なくされた。それまで自衛官として通信員として誇りを持って仕事に従事してきたその誇りを根こそぎ踏みにじられ、部隊から放り出された。

 本件裁判は、池田さんが被った多大な損失に対する、国の責任を正面から問う裁判であると同時に、「一人の犠牲者も出さずに無事に終わった」かのように宣伝されているイラク派兵の実態を検証し、同じような犠牲者を再び出さないための裁判でもある。


水俣病特措法の救済「非該当」処分に対する異議申立ての闘い

新潟支部  中 村 周 而

一 はじめに

 水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する被害者特措法(以下「特措法」という)に基づいて県に一時金等の給付申請をしても、その対象者に該当しない、つまり「非該当」と判定されて救済を拒否されるケースが少なくない。給付申請の受付が締め切られた二〇一二年七月末までに新潟県に申請をした被害者は二〇一八人。熊本、鹿児島を含めた全国の申請者数は六万五一五一人に及んでいる。そのうちの一割以上が「非該当」と判定されているのではないかと言われているが、これまで「非該当者」の人数は公にされていない。

 本稿では、「非該当」の判定に対する異議申立てが、二〇一三年三月六日、初めて新潟県で受理されるまでの経緯について報告し、併せて今後の審理等に向けての課題について付言する。

二 毅然として異議申立てを受理した新潟県

(1)非該当と判定された人が、判定は不当であるとして県に異議申立てができるのか。特措法には異議申立てができるという規定はない。

 環境省は、熊本県環境生活部長の照会に対して、「判定については、法令の規定に基づくものではなく当事者の合意に基づく行為であって、行政庁の『処分』と解することはできない」という回答を出している(二〇一二年七月二八日)。

 しかし、わが国の著名な行政法学者からは、「環境省の見解は誤っている。関係者の同意は『救済措置の方針』をつくる段階で求められたのであり、救済策の判定は県が一方的に行っている」「異議申立ては受け付けるべきだ」「訴訟もできる」といった異論が相次いでいる(二〇一二年一一月三〇日朝日新聞朝刊)。

(2)ノーモア・ミナマタ新潟訴訟を闘った新潟水俣病阿賀野患者会、新潟水俣病弁護団、新潟水俣病共闘会議は、二〇一一年八月一〇日、新潟県知事に対し、非該当と判定された三人の被害者について、何故、非該当になったのか、その理由を文書で明らかにするよう求めた。これについて、二〇一二年二月二日、新潟県から、「総合的に判定した結果、・・・阿賀野川流域地域での居住時期における、通常起こり得る程度を超えるメチル水銀のばく露を受けた可能性が確定できない」ため、一時金等の対象者には該当しないと判定したという回答があった。

 三人の被害者はこの回答に納得できなかったので、二〇一二年七月二七日、新潟県に対して異議申立てをし、同年一一月三〇日付上申書で、非該当の判定は行政処分ではないとする環境省の見解に反論を行った。その際、西埜章教授(明治大学法科大学院)の意見書も併せて提出した。西埜教授は意見書のなかで、労災就学援護費訴訟の最高裁平成一五年九月四日判決を踏まえて特措法の全体的な法的仕組みを分析し「現在の判例の動向からすれば、本件申請却下(非該当の判定)には処分性が肯定され、処分性の拡大化を図る通説的見解もまた、同様の結論に至るものと考えられる」と論じている。

(3)これに対し環境省は、「判定は、法律が、行政機関に対し、その行為によって一方的に、直接相手方の権利義務を形成し又はその範囲を確定するような効力を付与することによって相手方に対する優越的地位を認めているものとは言えず、行政処分に当たらない」という補足意見を示した(二〇一三年二月一九日)。同日、熊本県知事は、「法解釈については、法を所管する環境省が権限を有する」から、却下の決定をするというコメントを発表し、鹿児島県知事も同様のコメントを発表した。

(4)このような中で、三月六日、新潟県は、三人の被害者が行った異議申立てに対し、毅然として申立てを受理し、「県の判定結果により、特措法第五条に定める金銭の給付を受けるか否かという申請者の法的地位に変動をもたらす以上、県の判定には処分性が認められるとの考え方から、このたびの決定に至った次第です。今後、異議申立てについて審理を進めてまいります」という知事コメントを発表した。

 その後、阿賀野患者会に所属する八人の患者が新たに異議申立てを行っているので、新潟県は今後、一一人の異議申立てについての審理を進めることになる。一方、熊本県は、三月一五付で一二〇人の異議申立てを却下。鹿児島県も、三月一八日付で二人を却下した。

三 新潟県の判定検討会が持ち出した不当な線引き

(1)熊本や鹿児島では、「地域外居住者」と判断されて特措法の救済対象者から外されたことが問題となった。 

 新潟では、居住時期によって水俣病と判定されない扱いをしている形跡があることが大きな問題になっている。最初に異議申立てをした三人は、主治医の提出診断書では、水俣病特有の四肢末梢優位の感覚障害を有しており、阿賀野川流域に長年生活していたが、一九六〇(昭和三五)年以前に仕事等の関係で新潟県外で生活するようになった。

 それでは、何故、判定検討会で「非該当」と判定されたのか。三団体の照会に対する県からの回答によれば、「昭和四〇年一二月三一日以前の居住状況や魚介類摂取状況等を総合的に判定したが、阿賀野川流域地域での居住時期における、通常起こ得る程度を超えるメチル水銀のばく露を受けた可能性を確認できない」という回答があったものの、それ以上の説明はなかった。

(2)特措法の「救済措置の方針」(平成二二年四月一六日閣議決定)によれば、「通常起こり得る程度を超えるメチル水銀のばく露を受けた可能性がある」というのは、「昭和四〇年一二月三一日以前に阿賀野川流域に一年以上継続して居住し、阿賀野川の魚介類を多食していた」という条件を満たしていれば、救済を受けられることになっている。異議申立てを行った三人は、いずれもこの要件を満たしている。

 しかし、これまで環境省は、ノーモア・ミナマタ新潟訴訟の基本合意で設置された第三者委員会の場で、「救済措置の方針」に明確に反する「昭和三五年一月一日から昭和四〇年一二月三一日まで一年以上連続して居住」というルール違反の条件を持ち出して、全原告を救済することに執拗に抵抗した経緯があった。異議申立てをした三人についても、判定検討会がこのルール違反の条件を持ち出し、非該当と判定した可能性がある。

(3)昭和電工のアセトアルデヒドの生産は、前身の昭和合成化学工業鹿瀬工場ですでに昭和一一年から行われていた。新潟水俣病認定患者のなかには、昭和三二年に発症した被害者もおり、人体に影響を及ぼす阿賀野川のメチル水銀による汚染は、遅くとも昭和三〇年初めには起きていたといってよい。

 このような点からしても、かつて環境省が主張したルール違反の条件を持ち出し、「昭和三五年一月一日以降は阿賀野川流域に居住していない」ことを理由に、判定検討会が三人を「非該当」と判定したとすれば、極めて理不尽な判定を行ったことになる。

(4)その後に異議申立てをした八人が非該当と判定された理由は必ずしも明確ではないが、昭和三五年以前に県外に移転し、昭和三五年以降は阿賀野川流域に居住していないこと、昭和四一年一月以降に生まれたこと、主治医が作成した提出診断書では水俣病の所見があるが、検査所見書では水俣病の所見が認められないこと等が非該当の理由と考えられる。

四 今後の課題

 弁護団では、新潟県に対して、異議申立てに係る審理を行うにあたっては、行政不服審査法第四八条、同二五条に基づき、申立人等に口頭で意見陳述をする機会が与えられるよう申立て、併せて、公平かつ充実した審理が計画的に行われるようにするため、審理の進め方について、事前に県の担当課と意見交換をする機会を設けるよう要望した。

 現在、新潟では、異議申立てをした一一人以外にも多くの被害者が非該当と判定されているが、非該当と判定された人々は、異議申立てができることを知らされていない。今後、新潟県に対して、非該当と判定されたすべての人々に異議申立てができることを教示していただくよう申し入れたい。


福井県支部の現状―設立一年を受けて

福井県支部  海 道 宏 実

 福井県支部設立に向けての活動は、既に昨年の五月集会特別報告集で吉川団員が報告済みですので、私は、個人的な意見も含めて、主に設立後の現状について述べたいと思います。

一 支部づくりの経緯

 私が名古屋法律事務所を独立して福井弁護士会に登録替えし事務所を開設したのが二〇〇四年四月でした。当時、団員は八名おり、うち他弁護士会に所属した団員から登録替えした団員が四名いました。その後、団員の事務所に入所した新人弁護士が二名入団しました。福井弁護士会に所属する団員は、多くの先輩団員も含めて、これまでも地域の重要な事件や弁護士会・労働弁護団・青法協活動等で中心的な役割を担ってきていました。しかし、とりわけ団本部からの全国的な提起を受けて福井としてもこれに応えるという点では弱さがあり、福井県独自の課題に対する対応にも組織的な弱さがあり、北陸支部という点では、石川頼み?の面も率直に言ってあったと思います。そのような中、数年前に支部独立の話を県内団員で議論したことがありましたが、まずは情報交換や経験交流から始めようということになり、設立は見送られました。

 その後団本部からの各県支部作りの提起を受けて、福井からの提案で北陸三県幹事等で議論し、三県同時に独立へ向けて意思統一が図られ昨年三月に富山・石川と同じく福井県支部も設立されました。

二 支部のこれまでの活動

 二〇一二年三月二七日の設立総会では、規約承認、役員選任(支部長ー坪田、常幹ー海道、事務局長ー吉川)、会計ー年一万円)が承認されました。活動方針としては、年一回程度の総会合宿ないし会議、声明を適宜出す、MLを通じた情報交換(全国常任幹事会報告をMLに転送等)等とされました。

 この一年間の活動としては、五月二三日に大飯原発再稼働不同意要請書を知事宛に面談にて提出し、新聞記事として掲載されました。また、役員の打ち合わせを三か月に一回程度行ってきました。

 そして、一年目の総会が二〇一三年三月九日に開催され、(1)講演「大阪における橋下市長、維新の会とのたたかい」を愛須弁護士を招いて(2)討論「憲法改正の動きをどうとらえ、どうたたかうか」(3)人事、会計等承認後、参加者で懇親会兼新人歓迎会を実施しました。現在の団員は一二名で、弁護士会会員数九六名の中で一二、五%の占有率です。

三 これからの課題

 他の支部の取り組みからみれば、まだまだ「ひよっこ」の段階です。ただ、福井県支部の実態からすれば、他団体や弁護士会活動等地方特有の多重会務・金太郎飴状態の中でもようやく地元で自立した活動がスタートをきれたという意味では大きな一歩だと認識しています。現在も、ほとんどの団員が九条の会の中心的役割を担ったり原発訴訟・派遣切り訴訟等重要事件を担う等今日的課題にも取り組んでいるところです。

 これまで団独自の活動がなかったことから、活動を模索している段階ですが、従来からのメーデー参加や県労連等との共同強化にとどまらず、昨年のような原発問題への取り組み等に加えて全国的な課題にも取り組んでいければと考えています。

 また、福井では、弁護士会活動も若手がどんどん参加して勢いがあると評価されており、福井労働弁護団、北陸生活保護支援ネット福井を中心に、幅広く「活動家」ではない若手が活動に参加できる努力と成果は生まれつつあります。また、昨年、弁護団・団体紹介として、新人三年目までの全弁護士に呼びかけて説明会を実施し、若手の活動参加にもつながっており、このようなつながりから団員を増やすことも課題です。

 今後は、福井県支部にふさわしい団活動のあり方を模索し、先進的な他県の活動も学びながら、一歩ずつ前進していきたいと支部団員一同考えているところです。


愛知支部の若手会の取り組み

愛知支部     明 玉

一 若手会の結成

 愛知支部では、二〇一一年度支部総会の決議を経て、同年一二月に登録後一〇年以下の団員(以下、若手団員)で若手会を結成しました。支部ではこれ以前からも、支部の後継者養成のため、若手団員の常任幹事への登用や、先輩団員の連続講演会などの企画を開催してきました。二〇一一年支部総会では、若手団員が支部の約半数に迫りつつあるという団員の構成比の変化に応えてこれらの活動をさらに発展させる必要がある、若手特有のニーズ(登録以前の運動経験が乏しく、運動への取り組み方がわからない、公益活動と法律業務の両立の困難さ、問題意識や悩みを分かち合える仲間づくりなど)に応える独立の受け皿が必要であるとの意見で一致し、若手会を結成する運びとなりました。

二 若手会活動

(一)若手幹事による運営

 若手会は、若手団員から選任された幹事による幹事会により運営されています。MLなどで若手団員の意見を積極的に取り入れながら、各種企画等を行っています。

(二)定例勉強会

 活動の中心は、三ヶ月毎の定例勉強会と懇親会です。これまでの開催状況は以下のとおりで、平均して一五名程度の参加があります。

(1)二〇一一年一二月 弁護士から見たドラッカー名言集

(2)二〇一二年二月 元損害保険会社社員弁護士が語る交通事故保険の基礎知識

(3)六月 沖縄学習会

(4)九月 外国人事件をめぐる実務

(5)一二月 インターネット上の諸問題

(6)二〇一三年三月 整理解雇四要件と近時の裁判の動向

(三)メーリングリスト(ML)

 関心分野に関する情報の発信・共有、業務内外の質問、法律相談の交替等のため、若手会員のみのMLを開設しました。有志による「風営法の危険性体験クラブ訪問ツアー&学習会」の開催、「エネルギー問題を考える若手法曹の会」や古典読書会の呼び掛けなどに活用されています。

(四)沖縄学習ツアー

 二〇一二年六月には、憲法九条をめぐる現状への理解を深めるため、青法協あいち支部との共催で、若手会沖縄学習ツアーを開催、先輩団員の援助により一三名が参加しました。普天間・嘉手納基地と辺野古、糸数アブラチガマ・旧海軍司令部跡・旧三二軍司令部壕等の沖縄戦跡の見学、基地爆音訴訟の原告や現地新聞記者、沖縄支部団員弁護士との交流等、盛りだくさんの内容で、参加者全員によるレポート発表も好評でした。

三 若手会活動の意義と魅力

 若手会ができるまで、若手団員にとっての自由法曹団は、学生支援中心の青法協あいち支部と比べると実態が伝わりづらい、帰属意識を持ちにくいという面がありました。

 それが、若手会ができたことで、自由法曹団は、問題意識を共有する仲間が集いともに学べる場所、また若手からの積極的な発信により、団結して新しい取り組みができる場所というように、若手団員の中での受け止め方が変わってきたのではないかと思います。また、団活動への関心の高まりを通じて、団支部が、愛知の連続憲法講座や憲法問題の講師活動、人権弾圧に対する意見表明や救援などの様々な社会運動の中で果たしている役割が見えるようになり、先輩団員の取り組みから学ぶことにもつながっていると感じます。

 若手会が結成されて一年半が過ぎ、事務所を超えた若手団員の交流も深まってきています。今後、若手団員同士の信頼関係の中で、それぞれが自分自身の問題意識を発信し、学び合い、支え合いながら、様々な人権擁護活動において力を尽くしていけるように、より良い会づくりをしていきたいと思います。