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宋  惠燕 特定秘密保護法フェス開催
〜ママたちの力によって実現〜
藤本  齊 「真理がわれらを自由にする」〈日本の図書館文化と弁護士・弁護士会の使命〉周辺雑感
鈴木  守 *追 悼*
石井正二さんとのお別れ(弔辞)
荒井 新二 弔 辞



特定秘密保護法フェス開催
〜ママたちの力によって実現〜

神奈川支部  宋   惠 燕

 一一月二〇日、文京区民センターで、若手弁護士ら(明日の自由を守る若手弁護士の会主催)が、ミュージシャンの三宅洋平さんと参議院議員の山本太郎さんを呼んで秘密保護法フェスを開催しました。
 この企画は、三宅洋平さんの力を借りて、特定秘密保護法案の危険性を世間一般、特に若い世代に訴えることができないか、というところからスタートしたものです。
 三宅洋平さんは、今年七月二〇日、山本太郎さんとともに、参議院議員に立候補し、その選挙運動の一環として、渋谷ハチ公前で「選挙フェス」を開催したところ、渋谷の交差点が多くの若者で埋め尽くされました。この選挙フェスでは、三宅洋平が、憲法九条を読み上げて、集まった人たちが拍手と声援と歓声をあげ、非常に感動的な盛り上がりを見せました。
 選挙の結果は、山本太郎さんは当選したものの、三宅洋平さんは、一七万票を獲得しながらも落選しました。しかし、三宅洋平さんが発信した言葉は、今の若者の心を打ったはず、と思い、「選挙フェス」ならぬ「憲法フェス」を開催したいという話が若手弁護士の中で持ち上がりました。 
 とはいえ、三宅洋平さんとのツテがなく日が流れていったのですが、とある憲法学習会の場で、三宅洋平さんとコラボして「憲法フェス」を開催できたらいいと話をしたところ、学習会に参加したママの一人から、三宅洋平さんとコラボをするのなら、本人に直接連絡をするよりも選挙フェスを企画した人に連絡を取るといいというアドバイスをもらいました。そして、翌日、同じ学習会に参加したママが、選挙フェスを企画した人と弁護士をつなげるために、一時間半粘って待機し、連絡先をきいてきたというすばらしい行動力を発揮しました。
 そしてすぐに企画者と会い、その翌々日の一〇月末には、三宅洋平さんと会うことができ、一〇分も話をしないうちに、一緒に特定秘密保護法反対の企画をしましょうという話になりました。
 とはいえ、準備をする時間が全く無く、会場が決まったのも、開催日の一週間前ということで、本当に今から人が集まるのかという不安を抱えつつも、突貫工事的に企画・準備しました。しかし、結果的に、五〇〇名が入る会場が満員となり立ち見が出るほどの盛況ぶりでした。
 構成は、前半は、弁護士による特定秘密保護法の講義、後半は山本太郎さんの国会情勢の解説をしました。また、危険を冒して福島第一原発の内部を調査したという前衆議院議員川内隆さんもお招きして、貴重な映像を公開していただきました。
 そして、メインイベントとして、三宅洋平さん、山本太郎さん、若手弁護士二名によるトークショーを開催しました。さすがに、俳優とミュージシャンというだけあって、深刻な議論であるにもかかわらず、ところどころ笑いがあり、あっという間にこのフェスには、二〇代から七〇代までの様々な年代の人が参加しましたが、平均年齢は約四〇歳前半ととにかく若い世代が多かったのが特徴的で、アンケートにも、若い世代が多くて驚いた、期待できる、安心した、という内容が多く見られました。
 そして、今回の参加者のうち、これまで、特定秘密保護法の勉強会やデモや集会など、一度もアクションを起こしたことがない人は、全体の一割を占めました。つまり、このフェスの参加が初めてのアクションという方が一割もいたということですから、普段のデモや集会とは違って、敷居が低く参加しやすかったのだと思います。
 特定秘密保護法案は、可決されてしまいましたが、これで、終わったわけではありません。アンケートを見ると、この法案に反対する弁護士の活動への期待をひしひしと感じました。
 特に、この法律に対して反対しているけれどもどうすればよいのか、具体的な指針や行動すべきことを弁護士が提言してほしいと要望が多くありました。
 特定秘密保護法が可決されても終わりではありません。今後は、この法律を廃案する運動を多くの一般の人たち、特にこれから社会を担っていく若い世代の人たちと盛り上げたいと思います。


「真理がわれらを自由にする」〈日本の図書館文化と弁護士・弁護士会の使命〉周辺雑感

東京支部  藤 本   齊

 (昨年一二月発行の「東大法曹会」会報二一号(年三回)の巻頭言です。公文書館問題に止まらず図書館は直接間接に秘密保護法問題とも関連していますが、図書館長就任の近況と意外と知られていない分野についてのご報告を兼ねて転載させてもらいます。)

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 いうまでもなく、弁護士法一条一項は、「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」です。ただ、今回改めて確認したいのは二条の方です。それはこうです。「弁護士は、常に、深い教養の保持と高い品性の陶やに努め、法令及び法律事務に精通しなければならない」。
 世に様々の職業・職責あり、且つ、それぞれにその職責法ありといえども、その冒頭に、「教養の保持」と「品性の陶冶」を、しかも「深く」「高い」のを義務と課した職業・職責法は、本邦においてはまず皆無だろうし、海外にだってまずないのではないでしょうか。かつて二弁の先輩の南木さんが、もう三〇年ほど前でしょうか、何かの紙上でこんな事を言ってました。記憶だけですので私流に脚色しますと、「だから、これらは明文によってまでの法律上の義務とされているものなのであって、従って我々は法令・法律事務への精通と並んで、否文脈的にもそれに『先立って』、深く広く教養を深耕し、品性の陶冶に繋げるべく不断の努力をせねばならぬ、それが法律上の義務でもあるのだ。ですからね、我々にとっては、オペラの観劇から映画や仕事帰りの寄席やら『日本の赤提灯文化の変遷に関する研究のためのフィールドワーク』などに至るまで、森羅万象あらゆることに関わり合うこと、即ち日常生活のほぼ全てのことが、法律上の義務の履行としてあるわけだ。ひとから見れば一見職責と無関係の遊びにしか見えなくても実は深く高く法律上の義務に根ざした使命の履行なのだ。よって、これら全ての経費は法律上義務づけられている最も重要必須の必要経費として全部全額控除されて当然なのだ・・・と主張して、誰か税務当局とたたかってくれないか。」と言うのです。
 私は、直ちにその論旨への満腔の賛意だけはお示ししたんですが・・・。
 以来、約三〇年。私、この七月から、東京弁護士会・第二東京弁護士会合同図書館の館長ということになっております。
 なってみれば本の匂いに囲まれた読書三昧の日々に、とは勿論予想通りならないのは、まあ根っからの朝寝坊と不精とでしょうがないのですが、それにしても、規則上の館長職務だけを大括りに数えても一五項目(細目でだと約五〇)と結構忙しい。でも、やはり、かの弁護士法第二条は、前段も後段もいずれもかつてなく気にしながらの毎日です。気にさえしてれば深まったり高まったりしてくれればいいのですけどねえ。
 東京という大都市に充分な書籍スペースをも備えた広い法律事務所を維持するということがますます困難になって行くであろうことをも見越した施策の中心に、今の弁護士ビルを新築する計画を持った二〇数年前の時代の東弁・二弁の両会による合同図書館建設がありました。今や、それに加えて、急速な弁護士人口増の時代となり、若手中堅の弁護士の活動やたたかいを支える上での弁護士会の図書館の果たす役割は飛躍的に深く大きくなっていくことを日々実感する毎日でもあります。現に合同図書館は眼に見えて混んで来つつもありますし、かなりのスリム化もしてますが、外部倉庫も含めもうすぐ満杯必至でもあります。

二 「真理がわれらを自由にする」。

 法文上の言葉でもあるのですが、一体何法上の言葉かお分かりになりましょうか。
 一九四八年制定の国立国会図書館法の前文です。もとはヨハネ福音書の「真理があなたがたを自由にする」だともいわれますが。前文の全文はこうです。「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」
 前文付きのユニークな法という点からも、ことの性格からしても議員立法だったのでしょうね。参院の図書館運営委員長だった羽仁五郎が提案し両院の賛同を得たと言われおり、同図書館の壁にも刻まれています。
 何とも、戦後直後の息吹を実に新鮮に感じませんか。現憲法下の最初の国会を形成した人々が、国会活動を支え、国民の知る自由を保障し、民主化と平和に寄与するのだとの強い思いを託した気分と気概が感じ取れるでしょう。ウソみたいだと言う気分になりかねないところに、昨今の歴史が下手したら歪みかねないという危うさを逆説的に感じるくらいです。
 この言葉は、国会図書館の設立理念であるに止まらず、全ての図書館世界と図書館人の共通の標語となっています。後で述べます図書館協会の宣言や姿勢などもみなこの標語につながっていて、図書館学や司書教育の分野でも、総ての図書館のそれとして現に扱われています。図書館の自由と自治をめぐるすべての価値を統括するものとして。
 私たちの合同図書館は、図書館法上の図書館即ち公共図書館ではなくて会員のための法律実務専門図書館です。しかし、それが図書館である以上当然に、また、その設置者が自治団体であることからも当然に、更には、利用者が直接人々の基本的人権に関わる専門家であることからも当然に、そして、利用者の多くが現に権力や大きな力とのたたかいの最中にある弁護士であることからも当然に、図書館の自由と自治に敏感な存在でなければならぬことは同じです。

 法上の図書館であろうがなかろうが、我図書館なりと思うところはまずみな参加している社団法人として「日本図書館協会」があります(毎年行う「全国図書館大会」は明治三九年以来今年で九九回目、今年の分科会は一四)。当館も勿論加盟してます。
 その「図書館の自由に関する宣言」の骨だけですが抜粋しますと、こうです。
「 第1 図書館は資料収集の自由を有する
  第2 図書館は資料提供の自由を有する
  第3 図書館は利用者の秘密を守る
  第4 図書館はすべての検閲に反対する
 図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。」
  一九五四年総会で採択され一九七九年に改訂。それまで三本だったが、第三の「利用者の秘密」が新設され、又それまで「不当な検閲に」だったのが「すべての検閲に」とされて四本になりました。世の中にこんなに重要で真にその名に値する改訂・改正なるものが昨今どれだけあるでしょう。
 この宣言にも格調高い前文があります。その第四項はこうです。曰く、「わが国においては、図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する『思想善導』の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たすことが必要である。」と。確かにそのとおりで、世界の公文書館や美術館博物館そして図書館、また、中国の史家達の歴史は、「焚書坑儒」への「協力」と「抵抗」との複雑な歴史でしたが、貫かれている歴史的価値が「抵抗」へのベクトルであること、少なくともあるべきであることは全図書館人が誇りとするところです(国立国会図書館法では条文上に「図書館人」という言葉が使われてもいます。そして、全国の図書館人に対する支援が同図書館の使命=「奉仕」の一つに数えられています。こうした点でも中々にユニークで味わい深い法律です。)。
 検閲問題等今時あるかと思われるかも知れませんが、記憶に新しい「はだしのゲン」問題や武雄市立図書館と「ツタヤ」の問題などのほか毎年の様に新たに抗議せねばならん図書館が簡単に捜査協力するかの如き誤解ドラマ問題等々、現代的にも問題は次々発生しており、それは実に意外なほどなのです。
 かくして、専門図書館としての特殊性と図書館としての一般性を共々に追求していったその先に、不思議にというか当然にというか、やはり弁護士法一条と二条の理念がまたそこに繋がっているのかなあと改めて思う昨今です。教養も品性も、そしてたたかう力も、もし培われるとしたならば、それは自由と自治への努力が一方にあってこそなのでしょう。かつて少年が大人にやっと脱皮し始めた頃、私にとっても「学問の自由と大学の自治」が一つのテーマでした。今どうやら人生の終盤に近づきつつ再び「真理と自由と自治」のテーマに回帰するようで、正直ある種感慨深いものがあります。


*追 悼*

石井正二さんとのお別れ(弔辞)

千葉支部  鈴 木   守

 石井正二団員(二二期)が去る一二月一九日、咽頭がんにより亡くなりました。
 享年六八才でした。
 一二月二二日にお通夜、二三日にご葬儀がとり行われました。
 私はお通夜でお別れの言葉をささげる機会を得ました。その時の弔辞をもって、追悼文とさせていただきます。

 千葉第一法律事務所の所員一同を代表して石井先生のご霊前に、つつしんでお別れの言葉を申し述べます。
 石井先生の余りにも早過ぎる訃報に接し、私達所員一同は言い知れぬ悲しみ、空洞感に包まれています。
 私にとって石井さんは長生高校の二年先輩で、石井さんは、その頃より秀才として名声を博していました。東大在学中に司法試験に合格し、昭和四五年から柴田睦夫法律事務所(現在の千葉第一法律事務所)で弁護士として活動を始めていました。
 私も、昭和四七年、石井さんのいる事務所ならということで何のためらいもなく、入所させていただきました。
 それから四〇年余、共にパートナーとして事務所運営に携わってまいりましたが、何といっても、石井さんは、事務所の柱石を担い、団結の要でした。
 それでも石井さんは、何も偉ぶるところもなく、私達後輩と対等、何へだてなく接してくれました。
 石井さんは優しく、ウィットに富んだ人柄で、博識ぶりにも定評がありました。それでいて、時に核心をつく鋭い人物批評に思わず納得ということが多々ありました。それで、私達は親しみを込めて、「トゲの正ちゃん」とあだ名していました。
 それだけに、石井さんの法廷での舌鋒鋭い反対尋問は一目も二目も置かれ、私達でさえ、絶対相手にはしたくないと思わせる程でした。
 石井さんの弁護士の原点は、あくまでも庶民、働く者の立場に立って、権力、大企業の横暴を許さず、国民の平和と人権、自由と民主主義を擁護し、いのちと暮しを守ることにありました。
 その立場から、東電思想差別事件や川鉄公害訴訟で中心的役割を果たし、弁護士会内でも千葉県弁護士会長、日本弁護士連合会理事など要職を歴任してきました。
 石井さんの活躍は、私達所員の誇りであり、支えでした。
 また石井さんは、弁護士の実績をかかげ、政治革新にいどんできました。
 消費税の導入をひかえた平成元年年三月、県民の希望を担って千葉県知事選に立候補し、自公民推薦の現職候補を相手に、七八万票をとり、実に一〇万票差に肉薄する大善戦し、その後も、衆院選、参院選でも奮闘されました。この間の石井さんの活躍は私達にとって、心躍る、わくわくした時代でもありました。改めて、ありがとうと言わせてください。
 石井さんは、自由法曹団、青年法律家協会の一員としても積極的な役割を果たすとともに、千葉県革新懇代表世話人として県内の平和と民主主義をまもる運動に広範に取り組まれてきました。
 石井さんは、まさに弁護士の正道を真すぐにつき進んでこられたと思います。心より敬意を表します。
 そして、石井さんは、病魔と闘いながら最後の最後まで、依頼された事件の処理に心をくだいていました。石井さんの責任感と精神力の強さにただただ敬服するばかりです。
 私達は、今、石井さんを失い、悲嘆と動揺の気持を隠せませんが、何よりも、残された所員一同が心一つに団結し、石井さんの遺志を引き継ぎ、国民、市民の立場に立った民主的法律事務所の発展に尽力していくことを誓います。
 石井さん、そう私達の「正ちゃん」、長い間、お疲れ様でした。
 ゆっくりとお休みください。


弔 辞

東京支部  荒 井 新 二

 石井 覚えているか。おまえとはじめて会ったのは、大学四年の秋だった。二言、三言かわしただけだったが、その場面は今でも鮮明に覚えている。青白い顔に痩せぎすな体躯。それが銀杏の黄金色に映えていた。そのときどんな話をしたか、今となってははっきりしない。そのことをおまえに確かめることもできないことが、いま限りなく悲しい。
 司法研修所にすすむと偶然、お前と同じクラス、席もとなりどおしだった。それからは、お前の下宿に何回も転がりこんで夜遅くまで、いろいろと語り合った。お互いの懐かしい青春の日々だ。ある時、おまえはいきなり伊藤左千夫の歌を知っているかと俺に訊いてきた。
 石井。覚えているだろう。

 牛飼いの 歌読むときに 世の中に 新しい歌 おおいに起こる

 届いているか。もう一度歌おうか。
 俺が、その歌、伊藤左千夫らしくない、長塚 節のような気がすると、あてずっぽで言うと、おまえは、例のあの調子で、「何言ってんだ、ばっか(馬鹿)だな、長塚は茨城の人、伊藤は千葉の人だろ」と突っ込んできた。今にして俺には、千葉の自然、農村をおまえがどんなに愛していたのかが、よく分かる。
 実務修習がはじまると、お前は俄然、全国司法修習生三〇〇人以上が集まった青年法律家協会二二期の活動家となった。選ばれて議長となり、修習生運動を引っ張っていった。いつも控えめなおまえは、そうとは言わなかったが、それは新しい、歴史的な意味をもったたたかいであった。世界を知らなかった俺も、お前に導かれて運動に身をおくことを決意したひとりだ。
 弁護士になってから、お前は千葉の第一法律事務所に入った。創立者である柴田睦夫先生は、俺の入った東京合同の先輩でもあった。お前は柴田先生を深く敬愛し、飲み会で先生と引き合わせてくれた。親戚同士みたいで、気風も似た法律事務所に入った俺とお前は、事務所の難しいことについても妙に話が合った。お前は、第一事務所が心の底から好きだったなあ。そこに在ることの誇り、幸福そして責任を熱心に、真剣に語ってくれた。
 千葉での石井の活躍については、身近にいなかった俺にはあれこれ言う資格がない。いくつもの難事件をこなしてきたこと、千葉県弁護士会への献身、日本共産党補者者として関東近県をくまなく歩いたこと、そして知事になり損ねたこと、これらのことは沢山の人がお前に信頼と期待を寄せていたことの証しであった。それをお前は、誠実に、武骨に、一見飄々としてやり遂げてくれた。
 なあ石井、そういうことは、お前の資質の持っていた宿命みたいなものかもしれない。
 そういう人生の大事なときにはいつも、あの牛飼いの歌がおまえの心のなかで響いていたことだろう。
 お前が食道ガンにおかされたと聞き、同期の佐伯 剛と一緒に病院に見舞いに行った。一体誰がお前に煮え湯を飲ましたのかと明るく軽口を叩いたが、ともかく奥さんの恵子さんのいうとおり養生しろよと言うのが精一杯だった。しかし恵子さんの自然療法の甲斐あっておまえは見事に立ち直ってくれた。俺たちを九十九里の旅や自然食レストランに招待してくれ、お前らしい友情をきちんと大事にしてくれるのが嬉しかった。発病から一一年、仕事と生活の質を落とさず、穏やかな環境で、おまえは充実した人生を十分に生きてくれた。

 石井よ。お前は俺たちからいなくなってしまう。
 でも石井、お前の大きさに、ずっと浸っていたかった俺たちを、これからも見守ってくれと助かる。世の中に新しい歌が巻き起こり、世に歌が満ちる、そのときが来るまで、お前と一緒であった道をすすんでいくことにしたい。
 ありがとう。 石井正二。
 さようなら。 

友人を代表して  荒 井 新 二
(一二月二三日 告別式で)