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長澤  彰 和歌山・紀伊白浜でお会いしましょう
―二〇一四年五月集会・憲法討論集会へのお誘い―
由良 登信
(和歌山支部支部長)
南紀白浜の五月集会へのお誘い
小野原 聡史 東京近郊から白浜温泉への交通のご案内
本多 朱里 一泊旅行のご案内
小川 裕和 半日旅行のご案内
赤木 俊之 *和歌山支部特集*
街頭宣伝の自由を守る和歌山の会の活動
城塚 健之
(自治労連全国弁護団事務局長)
自治労連編「三・一一岩手自治体職員の証言と記録」を推薦します
後藤 富士子 裁判官の「万能感」はどこから来るのか?
― 民訴法への素朴な疑問
大久保 賢一 瀬木比呂志著「絶望の裁判所」を読む
村山  晃 二三期が集う
辰巳 創史 「竹富町教育委員会に対して、激励のメッセージを送りましょう」



和歌山・紀伊白浜でお会いしましょう
―二〇一四年五月集会・憲法討論集会へのお誘い―

幹事長  長 澤   彰

 今年の五月集会・憲法討論集会は、五月一七日(土)(プレ企画・憲法討論集会)〜五月一九日(月)、和歌山県南紀白浜の「白浜温泉むさし」で開催します。和歌山県での開催は、一九九三年一〇月団総会・那智勝浦、以来となります。
 南紀白浜は、紀伊半島の南側に位置し、自然が美しく、空気も澄んだよいところですので、是非、みなさまの参加を呼びかけます。
 安倍内閣は、昨年一一月に日本版NSC設置法、一二月に秘密保護法を強行採決し、さらに、国家安全保障戦略・新防衛大綱・新中期防の閣議決定を行ない、安保法制懇の報告書をまって集団的自衛権行使容認の解釈改憲につきすすもうとしています。沖縄の辺野古新基地建設、労働法制改悪、教育委員会改悪、TPPも強引に推し進めようとしています。
 今年は、五月集会の前日の五月一七日の午後から一八日の午前中にかけて、「憲法討論集会」を開催します。集団的自衛権行使をめぐる解釈改憲、国家安全保障基本法による立法改憲、日米ガイドライン改定の動きがあり、憲法九条をめぐる重大な状況が迫っています。「憲法討論集会」では、国際情勢を踏まえ、現在、日本のおかれた状況を把握し、改憲阻止のたたかいの方向性を明らかにするつもりです。五月集会の一八日の全体会の中で、日本共産党副委員長の緒方靖夫氏に「日本をめぐる国際情勢」(仮題)の講演を行い、その後の憲法分科会への討論に続けます。
 五月一七日のプレ企画として、(1)将来問題「若手団員の将来問題」、(2)事務局交流会を企画します。将来問題は、この間、「人づくり・基盤づくり」を連続的に行ってきましたが、今回は「若手団員の将来問題」を中心に行います。若手団員の悩みや不安などについて率直に討論します。若手団員の参加を呼び掛けます。
 分科会は、九つ企画しました。(1)憲法・選挙制度、(2)労働問題、(3)教育問題、(4)原発問題、(5)TPP、(6)構造改革、(7)貧困問題、(8)治安警察、(9)給費制です。自由法曹団が日常的に取り組んでいる課題を集めましたので、関心のある分科会に参加していただければ、必ず、今後の活動への活力を見いだしていただけると確信します。
半日旅行、一泊旅行も予定しています。
 盛りだくさんの企画を用意しました。紀伊白浜で是非お会いしましょう。


南紀白浜の五月集会へのお誘い

和歌山支部  由 良 登 信(和歌山支部支部長)

 二〇一四年の五月集会が、五月一七日(土)から一九日(月)まで、和歌山県の白浜温泉で開催されます。和歌山支部の一八名の団員全員で、全国の皆様のお越しを歓迎いたします。
 白浜温泉は、大化の改新の直後から斎明天皇が湯治に訪れていた一三〇〇年以上の歴史を誇る温泉です。目の前に暖流の黒潮が流れる青い海が広がり、まっ白な砂浜が続きます。白良浜では五月集会のころには海開きもされています。五月の山々は新緑に包まれ、爽やかな風を運んで来るとても良い季節です。また、白浜には、パンダがこれまでに何頭も産まれたアドベンチャーワールドという巨大な遊園地があり、家族連れで楽しめます。
 そして、空海が平安時代に山中に霊場を開いた高野山と熊野本宮大社、熊野速玉大社、那智大社の三大社とそこへ向かう参詣道の熊野古道が一体として世界遺産に登録されています。また、南紀勝浦はマグロの水揚げが全国有数の港であり、太地はクジラ漁が伝統的に続けられており、マグロ料理やクジラ料理も楽しめます。和歌山県は、みかん、梅、梨、桃、柿や花の栽培も盛んです。
 是非とも事務所旅行、家族旅行も兼ねておいでいただき、日頃の疲れを癒やし、これからの闘いに備えていただけたらと思います。
 和歌山では、これまでに障害者の選挙運動の自由を求めて公選法の選挙規制の違憲性を訴え続けた玉野公選法違反事件、国民の「交通権」を憲法上の権利と訴えて地方線の格差運賃制導入を違憲として争った国鉄和歌山線格差運賃違憲訴訟、「歴史的景観権」憲法上の権利として提起して、歴史的文化的地域である和歌の浦に県が車道橋を架けようとするのを差し止めるよう求めた和歌の浦景観住民訴訟など、新しい権利概念を打ち立てて裁判を闘うという取り組みもしてきました。また、和歌山県下の日置川、古座、那智勝浦と日高町の各原発設置計画を、ことごとく住民の反対運動で阻止し、一基の原発も作らせなかった住民運動も生きづいています。それが九条を守る運動や秘密保護法阻止の市民運動へと引きつがれています。
 五月集会で私たちも各地の闘いを学び、力を蓄えて、安倍政権の攻撃に立ち向かいたいと思います。
 南紀白浜でお会いしましょう。お待ちしております。


東京近郊から白浜温泉への交通のご案内

和歌山支部  小 野 原 聡 史

 今年の五月集会は五月一八、一九日に和歌山の白浜温泉で開催されます。
 五月の白浜は、天気が良ければ夏のような気候になり、すでに白良浜海水浴場は海開きをしていますので海水浴もできます。
 ぜひお越し下さい。
 さて、関東方面から白浜への交通の便ですが、羽田から南紀白浜空港に直通便があり、羽田一〇時二〇分発南紀白浜一一時四五分着の便が最適です。
 しかし、南紀白浜便は座席数が七六席しかなく、また旅行社が五月集会参加者用に団体で押さえるとのことですので、個人で申し込んでもとれない可能性もあります。
 その場合は、羽田七時二〇分発南紀白浜八時三五分着の便が考えられますが、これも座席数は同じですので、五月集会参加者が大量に申し込むと満席となる可能性があります。
 それ以外の方法となると、羽田七時一五分発と七時二〇分発で関西空港に八時三五分に着く二便があり、関西空港駅からJR関空快速で日根野駅に出て、日根野一〇時一六分発の白浜行き特急くろしおに乗れば白浜駅に一二時〇三分に着くことができます。
 ただいずれも朝早すぎるという方には、羽田八時発伊丹九時一〇分着という便がありますので、伊丹から新大阪までリムジンバスで行き、新大阪一〇時〇二分発の白浜行き特急くろしおに乗ると白浜駅に一二時二七分に着きます。
 この列車で行った場合、白浜駅バス乗り場(1)から一二時三五分発の三段壁行きバスに乗り、白浜バスセンターで降りれば会場のむさしはすぐ目の前ですので、何とか一三時には会場には入れると思います。
 その後のバスは同じ乗り場から一二時四〇分の三段壁行きがありますが、これは経路が違い、迂回しますので同じ白浜バスセンターに着きますが、一三時に会場入りするのが難しくなります。
 なお、新幹線で新大阪一〇時〇二分発のくろしおに乗るためには、東京駅を七時一〇分に出るのぞみに乗らなければなりません。
 東京七時二〇分発のぞみは休日運休で、五月一八日は運転していませんのでご注意下さい。
 いずれにしても朝早すぎるという方は、ぜひ前日から白浜に泊まるか、前日に東京駅一一時発ののぞみに乗り、名古屋一二時四〇分着、名古屋一二時五八分発紀伊勝浦行き特急南紀で紀伊勝浦一六時四二分着、勝浦温泉で泊まり、翌日紀伊勝浦一〇時四六分発の特急くろしおで白浜駅一二時一八分着という方法もあります。
 紀伊半島の海岸線を走る紀勢本線は名古屋からでも新大阪からでも海がきれいに見えるところが何カ所かありますので、その点でもおすすめです。
 初夏の白浜温泉でお待ちしています。


一泊旅行のご案内

和歌山支部  本 多 朱 里

 今年の一泊旅行は、熊野古道、龍神温泉、高野山に決定いたしました。
 以下、簡単に日程をご紹介いたします。
 まず、五月一九日(一日目)は、お昼頃会場を出発して、とれとれ市場で昼食です。
 とれとれ市場では、マグロやしらすの他、梅干し、みかん、地酒等も販売されていますので、お土産をご購入いただけます。その際、宅急便もご利用いただけます。
 昼食後は、世界遺産熊野古道の散策です。
 今回歩くコースは、熊野古道中辺路の一部で約一・五キロメートルの初心者向けコースです。スタート地点は、牛馬童子口バス停です。ここから牛馬童子へ向かい、その後近露王子を通って、古都歩きの里ちかつゆで到着です。牛馬童子は、高さ五〇cmの小さくてかわいらしい石仏です。語り部ガイドが付きますので、より深く熊野古道を知ることができます。短い時間ではありますが、熊野を目指した先人に、思いをめぐらせていただければと思います。なお、熊野古道を歩く際には、スニーカーの方が歩きやすく安全ですので、ぜひスニーカーをお持ちください。
 熊野古道散策の後は、龍神温泉で宿泊です。
 龍神温泉は、島根県の湯の川温泉、群馬県の川中温泉とならび、日本三美人の湯として有名です。江戸時代には歴代の紀州徳川藩主の別荘地として栄えたという歴史ある名湯でもあり、山や川の恵みも豊富な場所にあります。
 五月二〇日(二日目)は、世界遺産高野山を見学します。
高野山は、およそ一二〇〇年前に、弘法大師によって開かれた、真言密教の修行道場であり、全国に広がる高野山真言宗の総本山です。また、高野山は「一山境内地」と称し、高野山全体がお寺となっています。今回は、壇上伽藍、金剛峯寺、奥の院を見学していただきます。ここでも語り部ガイドが付きますので、高野山への理解が深まると思います。
 見学が済みましたら、南海電鉄高野山駅にて解散です。高野山駅から極楽橋駅まではケーブルカーですので、雄大な景色が望めます。お帰りの際も、景色をお楽しみください。
 皆様のご参加をお待ちしています。


半日旅行のご案内

和歌山支部  小 川 裕 和

 半日旅行は、南紀白浜の名勝地をご覧いただいたあと、和歌山が産んだ知の巨人・南方熊楠の足跡を辿っていただく旅です。
 会場を出発し、西日本最大級の海鮮マーケットであるとれとれ市場で腹ごしらえをしたあと、まずは三段壁に向かいます。
 三段壁は福井県の東尋坊と並び称される断崖絶壁の名勝で、高さは五〇メートルあり、展望台から眺めると、足がすくむほどの迫力です。
 また、崖上にある辯天宗本堂内からはエレベーターで崖の内部に降りることができ、三六メートル下には、熊の水軍が舟隠し場として利用したという伝承が残る海蝕洞、三段壁洞窟が広がっています。
 太平洋から洞窟内部まで押し寄せ、眼前で砕け散る波や、数千万年の年月を掛けて波が削り取った岩盤「漣痕岩」など、他で見られない自然の迫力を存分に味わってください。
 三段壁のあとは千畳敷です。
 千畳敷は、名前のとおり、畳を千枚敷ける広さがあることが名前の由来と言われる大岩盤で、非常に柔らかい砂岩は、打ち寄せる波の浸食を受け、複雑で壮大な景観を形成しています。
 ここでは、記念撮影を行う予定です。
 続いては、白浜のシンボルともいえる円月島です。
 正式には「高嶋」というこの島は、中央に円月形の海蝕洞がぽっかり開いていることから「円月島」と呼ばれ、親しまれています。
 今回はスケジュールの都合上難しいかと思われますが、この島に夕日が飲み込まれる様子は感動的です。
 最後にご案内するのは南方熊楠記念館です。
 和歌山出身の熊楠は、言わずと知れた博物学・民俗学の巨人で、神社合祀・森林伐採に反対した自然保護活動における先達としても知られていますが、生涯定職に就かず、収入がほとんどない中で研究に没頭する生活を送ったことからもわかるように、数々の名・珍エピソードを持った人でもあります。
 館内で、熊楠の高校の後輩だという館長の案内を聞けば、この人物に大きな興味を持っていただけることは間違いありません(今回の下見で訪れた私がそうで、白浜から帰宅したその足で熊楠の本を探すため図書館に向かいました)。
 友人宅にあった全一〇五巻の百科事典「和漢三才図会」を読んで暗記し、家に帰ってから書写し完成させたこと、自然科学雑誌「ネイチャー」に日本人最多の五〇編の論文が掲載されたこと、「ごく簡単な自己紹介をしてくれ」と言われて全長八メートル・五万八千字以上の履歴書を送りつけたこと、昭和天皇にキャラメル箱入りの粘菌標本を進献したことなど、その逸話は枚挙にいとまがありません。
 ここにはとても書けないようなエピソードも多数ありますので、ぜひこの機会に南方熊楠の足跡に触れてみてください。
 今回の半日旅行は、白浜の名所を一挙に回ることができ、短いながらも非常に充実したものになっていると思います。
 ぜひご参加ください。


*和歌山支部特集*

街頭宣伝の自由を守る和歌山の会の活動

和歌山支部  赤 木 俊 之

 近年の地方都市の例に漏れず、和歌山においても、従来の中心地であった商店街はどんどん寂しくなり、現在、和歌山市において人が集まる場所といえば、中心地からやや離れたJR和歌山駅前である。
 そこで、街宣車を用いて街頭宣伝をするときには、ほとんどの場合、JR和歌山駅前に街宣車を駐停車させて街頭宣伝をすることとなる。
 しかし、二〇〇九年ころから、JR和歌山駅前で街宣車を停車させて街頭宣伝を始めると、警察官が来て街宣車の移動を命じるという事態が続いた。
 街頭宣伝の自由を守る和歌山の会(以下、「守る会」という)は、このような規制を許してはならないという諸団体の声のもと、多くの団体が力を合わせて規制をはね返し、街頭宣伝の自由を守ろうという目的で、二〇一〇年一〇月二〇日に結成された団体である。
 和歌山県の各警察署は、従来、街宣車を用いた街頭宣伝に関する道路使用許可に「交通の頻繁な道路上に駐車し、又は駐停車禁止場所に駐停車して、放送・宣伝をしないこと」という許可条件を付けていた。ところが、守る会結成にあたって調査すると、二〇〇九年ころから、和歌山県の各警察署はこの許可条件を「道路において駐車又は停車をして放送宣伝しないこと。なお駐車街宣をする場合には、別途許可の申請をすること」と変更し、その結果、交通が頻繁であるか否かにかかわらず、道路に街宣車を停車させて行う街頭宣伝については、一律に別途許可が必要となってしまったことがわかった。しかも、この許可条件の変更については、市民に何らの広報もなされなかった。 
 守る会の結成総会では、国民救援会中央本部の伊賀カズミ副会長に「街頭宣伝の自由を守るために〜街宣カーに許可申請は必要か?」と題してご講演いただくとともに、代表に選出された市川純夫和歌山大学名誉教授が「我々が獲得してきた表現の自由が安易に規制されようとしている。このことは人権の思想の到達点から逆行している。みんなで一緒にこの問題に取り組んでいきたい」と力強く語った。
 結成後、守る会は早速行動を開始し、二〇一〇年一二月一五日には、和歌山東警察署と和歌山西警察署に公開質問状を提出し、県政記者室で記者説明を行った。両警察署長の回答は、芳しいものではなかったため、守る会は再度の質問状を提出した。
 その後、和歌山西警察署が、街宣車を使用・所有している団体に対し、街宣車で走行しながらの街宣と街宣車を停車させて行なう街宣を区別して道路使用の許可申請をするよう強要してきたため、守る会のメンバーが、同団体の道路使用許可申請に同行し、そのような許可申請を強いる根拠をただした。すると、二〇〇九年四月二八日付で和歌山県警察本部長が「道路使用許可等取扱要領の制定について(例規)」を発令し、街宣車による街頭宣伝について、走行街宣と停止街宣を区別し、どちらについても格別の道路使用許可の対象としていたことが明らかとなった。
 このような勝手な規制に対し、守る会のメンバーは燃えた。
 守る会は、和歌山県公安委員会に公開質問状を提出し、各団体の街頭宣伝に同行するとともに、和歌山弁護士会に人権救済の申立も行った。また毎月一回、JR和歌山駅前で街宣車を停車させて、街頭宣伝の自由を守る街宣も行なうなど、精力的な活動を続けている。
 その結果、警察官が来て街宣車の移動を命じるという事態はなくなってきている。街宣車を用いた街頭宣伝にあたって道路使用許可申請をしなくなった団体も出てくるようになった。
 いうまでもなく、街宣車による街頭宣伝は、走行しながらのものとともに駐停車をしながら行うものである。走行と停止を分離することは出来ず、一体不可分のものとして行われるものである。  そのような現状を無視し、規制を強化する取扱いを行うことは、街宣車による自由な表現活動を妨げ、憲法上もっとも手厚く保障されている表現の自由を侵害するものと言える。
 街宣車を用いての街頭宣伝に対し、一律に、しかも走行街宣と停止街宣を区別して格別に許可を要するとすることは出来ない。
 守る会はこれからも街宣に対する不当な規制と闘っていく決意である。


自治労連編「三・一一岩手自治体職員の証言と記録」を推薦します

大阪支部  城 塚 健 之(自治労連全国弁護団事務局長)

 原発事故で苦しむ福島県には、関東から多くの団員が駆けつけ、さまざまな活動に取り組んでおられます。しかしながら、同じ被災地でも、岩手県は遠いというのが実感だろうと思います(ましてや西日本からは)。
 でも、実は、岩手県の自治体労働組合は、自治労時代から革新統一派が県本部をとっており、被災した沿岸自治体の職員労働組合も、そのほとんどが自治労連です。岩手県は自治労連弁護団にとってゆかりの深い土地なのです。岩手の佐々木団員(自治労連弁護団)が現地の自治労連のみなさんとともに奮闘されているのは周知のとおりです。私たちも、震災からちょうど三か月後に、自治労連が陸前高田市にもうけたボランティア基地に泊めていただき、現地を案内していただいきました。
 私たちは、かねてより岩手県での自治労連の活動を記録化してほしいとお願いしていましたが、このたび、震災から三年目の節目に、それが実現することになりました。
 住民のために寝食を惜しんで活動される自治体職員の姿をみれば、心ない公務員バッシングの愚かさも明らかになるでしょう。公務員バッシングをまきちらす橋下維新にかき回された大阪から、ご購読をお願いするものです。

「三・一一岩手 自治体職員の証言と記録」の発行に寄せて
自治労連副中央執行委員長  松 繁 美 和

 「三・一一岩手 自治体職員の証言と記録」が、東日本大震災から三周年にあわせて出版の運びとなりました。
自治労連弁護団事務局会議で「自治体労働者が自らも被災しながら、あの時、何を考え何をしたのか、そんなことを集約したものが欲しい。何か形にできないか」との声が出されたのは、二〇一三年四月二五日のことでした。
 その後、五月一一日に、「自治と分権(二〇一三年夏号)」の企画として「岩手のいま復興最前線の自治体職員」というテーマで、座談会をおこないました。晴山一穂先生(行政学・専修大学教授)にコーディネーターをお願いし、佐藤一則岩手自治労連委員長、菅原正弘陸前高田市職労委員長、佐藤力也大船渡市職労委員長、小笠原純一大槌町職労委員長に登場していただき、「被災時の状況、今の実態、復興に向けての課題」などを語っていただきました。その際、紙面の都合で掲載できなかった話や、現地を案内して頂きながら伺った話も含め、保育や病院の職場の方のことなど、まとめておく必要があることを強く実感しました。
 大月書店の社長からも、「東日本大震災の様々な記録はあるが、自治体労働者の視点で書かれたものはない。ぜひ、出版を」との後押しがありました。七月に入って、打ち合わせがはじまり、岩手自治労連として、全県の会議を開催し、震災記録集の相談がおこなわれたのは、八月四日のことでした。
 八月四日の会議では、震災記録集を出すことは意義あることだと思うけれど、目の前で津波に流されていく仲間を助けられなかったことを思うと、まだまだ書けない。「そんな簡単なものじゃない」との声も出されました。皆さんの気持ちの整理ができない、その気持ちは分かる。しかし、こうした経験をしたものの使命として、後世に語り継ぐべきものを書いて欲しい。というお願いをしました。そして、三年の節目に出せなくても、皆さんの気持ちの整理がつくまで待とうと、岩手自治労連の書記長と話をしました。
 動きが出てきたのは、九月二一日に大槌町での打ち合わせ会からでした。この会では、二〇一四年三月までに発行するように、具体的な話が進み始めました。それまでに、岩手自治労連県本部の単組・組合員に寄り添う姿勢があったことが想像できます。また、なかなか進まない復興に対するじくじたる思いや、犠牲になった仲間の死を無駄にしたくない。そんな思いもあったのではないかと思います。三周年の三月一一日に出版できたことは、震災の復興に向けて奮闘する現地の仲間の力と、それを支える全国の仲間の力だったと思います。
 中味を紹介します。第一部は、岩手の方の証言に加え、全国から行政派遣で被災地復興にかかわった方の手記となっています。第二部では、自治労連として取り組んできた被災地支援センターの活動の概要を紹介。これからの課題について、岩手自治労連と自治労連本部が執筆をしました。そして、行政学・公務員法の専門である晴山専修大教授に、まとめ的な執筆をしていただいています。
 業務の命令をする人もいない。電気はない。燃料はない。何もない中で、今何をするべきか。その現状が目に浮かぶようなリアルな体験が語られています。それは単なる体験談にとどまらず「自治体労働者魂」が息づいたものです。すぐれた能力を持っていた職員がヒーロー的に活躍したということではなく、日頃から住民の生活と向き合ってきた自治体公務公共関係労働者の団結によるものだということを実感するものです。「職場を基礎に、住民のために、住民とともに」という岩手自治労連運動のスローガンが息づいています。


裁判官の「万能感」はどこから来るのか?
― 民訴法への素朴な疑問

東京支部  後 藤 富 士 子

一 戦後改革で取り残された「職権主義」と「官僚制」
 日本国憲法は、刑事手続について三三条から四〇条まで規定を設け、それにより刑事訴訟法は抜本的に改革された。改革の核心は、訴訟構造が糾問的職権主義から当事者弾劾主義になったことである。その前提として、司法権のあり方も変革された。司法省に附置されていた裁判所は分離独立し、また、判事・検事を総称する「司法官」も、裁判官と検察官は全く別個の位置付けとなった。当事者主義の訴訟構造の下では、裁判官が「公平な第三者」となり、検察官は、被告・弁護側と対等な「一方当事者」にすぎなくなったのである。ちなみに、憲法三三条にいう令状発付権限を有する「司法官憲」に検察官が含まれないことは、象徴的なことと思われる。
 これに対し、民事訴訟法は憲法と抵触することが少なかったこともあり、僅かな改正にとどまった。総じて、当事者主義の徹底を図ることが改正の基本方針とされ、昭和二四年四月一日から施行された改正法は、職権証拠調べを廃止し、あわせて英米法系の制度である変更判決や交互尋問制が取り入れられた。しかし、戦前の弁護士は、当事者尋問すら機会がなく、裁判官がオールマイティであったから、当事者主義訴訟を担う弁護士がその数と質において弱体なため、実体としては「職権主義」が殆どそっくりそのまま戦後も生き延びたと評価されている(A・オプラー『日本占領と法制改革』一九九〇年)。
 当事者主義訴訟を担う弁護士の弱体に起因して「職権主義」の様相を示す訴訟では、裁判官任用制度が裁判の質を決することにならざるを得ない。日本国憲法が裁判官の任期を一〇年とし、裁判官の独立と身分保障を明記していることからすれば、アメリカ型の法曹一元判事を想定していたことは疑いがない。しかるに、戦後改革に際し、司法官僚は、司法省からの分離独立によって検事との権勢の逆転に有頂天になったのか、キャリアシステム温存に固執した。国営統一修習終了者の中から「判事補」を任命し、一〇年後には判事に任命されるというキャリアシステムが維持された(裁判所法四二条、四三条)。しかし、判事補の職権は制限されており、他の法律に特別の定めがある場合を除いて「一人で裁判をすることができない」し、合議体の裁判長になれず、同時に二人以上合議体に加われないとされているから(裁判所法二七条)、憲法が規定する「独立して職権を行使する」裁判官ではあり得ない。また、現実問題として中央集権的官僚制であるから、三年程度での転勤や昇進制(昇格昇給)が不可避となり、しかも勤務評定基準が「事件処理能力」とされることとあいまって、裁判の質は劣化の一途を辿っているように思われる。
二 「訴訟法の目的」と「証拠裁判主義」― 真実解明について
 刑訴法一条は、刑事訴訟法の目的として「この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。」と定めている。すなわち、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現するには、事案の真相を明らかにすることは不可欠であることが前提とされている。
 これに対し、民訴法一条は、民事訴訟法の趣旨として、「民事訴訟に関する手続については、他の法令に定めるもののほか、この法律の定めるところによる。」とし、二条は、裁判所及び当事者の責務として、「裁判所は、民事訴訟が公正かつ迅速に行われるように努め、当事者は、信義に従い誠実に民事訴訟を追行しなければならない。」と定めるのみである。ここには積極的な目的は掲げられず、事案の真相を解明することなど埒外におかれている。
 このように訴訟における「事実認定」の位置付けが異なるのだから、当然、証拠法則も異なるはずである。
 まず、刑訴法では、三一七条で「事実の認定は、証拠による。」と証拠裁判主義を明示し、三一八条で「証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。」と自由心証主義を採用している。そして、この条文の位置は、第二編(第一審)の第三章(公判)の第四節証拠(三一七条〜三二八条)にあり、第五節が公判の裁判である。
 これに対し、民訴法は、第二編で第一審の訴訟手続を定め、その第四章で証拠について七節を設けているが、証拠裁判主義を明示する条文は存在しない。そして、第五章で判決についての規定がおかれ(二四三条〜二六〇条)、二四七条で「裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を真実と認めるべきか否かを判断する。」と自由心証主義を定めるのみである。ここで注目すべきことは、真実と認めるべきか否かの対象が、「事実についての主張」であり、自由心証主義の対象も証拠だけではなく「弁論の全趣旨」が含まれていることである。しかも、刑訴法の場合に検察官によって主張されるのは「公訴事実」であるのに比べ、民訴法の場合には、単に「事実についての主張」とされているし、現在の判決様式では「要件事実」の枠組がなく、要件事実に則した事実認定作業が措定されていない。ちなみに、かつて「事実の整理」とされたのも、現在の判決様式では「主張の整理」である。すなわち、極端に言えば、要件事実と離れて、「主張」が「主張」で立証されれば足りるのであり、そこには証拠裁判主義もない。
 こうなると、全くもって裁判官の独壇場・オールマイティが保障される。原告さえも、裁判の契機を与えるにすぎない存在で、訴状だけで結論の心証が形成される実情にあり、当事者主義すなわち対審構造の手続は形骸化している。そうして出された判決を振り返ると、当事者間で対審構造の訴訟を追行したというより、裁判官の糾問的手続において裁判官と闘っているような錯覚を覚える。
三 キャリアシステムの病弊
 これまで日弁連などで「裁判のひどさ」が問題となると、その原因として裁判官の手持事件数が多すぎる(忙しすぎる裁判官)とか、上級審ばかり気にしている(ヒラメ裁判官)などが指摘され、その対策として、裁判官の数を増やすこと(新任判事補採用の増員)、弁護士任官の推進などが語られてきた。しかし、そのような議論は、全く的外れだったように思われる。
 ところで、当事者の訴訟代理人をしていると、裁判官が何やら「万能感」をもっているらしいことに気付く。一定の日時に複数の事件の期日指定がされるから、自分の受任事件のついでに法廷で見学すると、実に楽しそうに、第一回口頭弁論期日など早い段階で既に心証形成しているらしく、判決によらない解決(和解?)を当事者に示唆している。事件当事者にとってみれば「一生の一大事」であろうに、裁判官のあの「軽さ」は何なのだろう。結局、裁判官の「万能感」は、事件は人が背負っているのに、人が登場する事実を捨象して、法律上の主張だけで判断できるという民訴法に由来するのではなかろうか。
 翻って、民訴法が当事者対審構造にならないのは、弁護士の弱体と裁判官のキャリアシステムのせいなのだと思う。そして、弁護士の力量アップと裁判官のキャリアシステム廃止のために、判事補採用を停止する一方、法科大学院を卒業して法曹資格を取得した優秀な者を「ロークラーク」=調査官として大量に裁判実務の現場に引き入れることが有効だと思われる。残念なことに、「弁護士任官」運動は、『法曹一元』の失われた二〇年であったのである。

(二〇一四年三月二二日)


瀬木比呂志著「絶望の裁判所」を読む

埼玉支部  大 久 保 賢 一

 「裁判所の門をくぐるものは一切の希望を捨てよ!」という本が出た。最高裁の局付や調査官をやった「元エリート裁判官」の衝撃の告発というのがキャッチコピーである。広田次男団員が同期の水戸修習だったことから団通信で感想を述べているし、井戸謙一弁護士が同期の裁判官だったことから、脱原発弁護団のメーリスで、彼の人となりを紹介している。かくいう私も三一期であるが、著者との直接的面識はない。
 この本は、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される。」(憲法七六条)を「輝かしい言葉」として引用し、日本の裁判官の実態が「すべて裁判官は、最高裁と事務総局に従属してその職務を行いもっぱら組織の掟とガイドラインによって拘束される。」ことになっており、憲法は愚弄され、踏みにじられている(一一四〜一一五頁)とか、「(下級裁判所が最高裁の判断に追随してしまう)傾向は、時代や社会の流れが悪い方向へ向かっていったときにその歯止めになって国民、市民の自由と権利を守ってくれるといった司法の基本的役割の一つについて、日本の裁判所、裁判官にはほとんど期待できないことを意味する。」(一四一頁)などと主張している。さらに、「特定秘密保護法の成立により国民、市民の基本的人権、各種の自由、ことに知る権利や表現の自由を制限する方向への政治の動きが明らかになり始めている今日、このことは特に強調しておきたい。」(一四一〜一四二頁)ともしている。私は、この主張に共感するし、著者の経歴からすれば、「衝撃の告発」なのかもしれないとも思う。
 また、第五章「心のゆがんだ人々」で展開される裁判官の不祥事とハラスメントの事例や、内面性の欠如、共感と想像力の欠如、慢心と虚栄、嫉妬、人格的未熟さ、表と裏の顔の使い分け、知的怠慢などを例にとった裁判官像の描写には、実際体験した著者らしい迫真性がある。そして、その分だけ著者の主張には説得力が増しているとも思う。
 けれども、私には、この本は「特にショッキングなものでも興味深いものでもなかった。」なぜなら、現在の司法の状況、とりわけ最高裁の状況など、「まともな法律家なら誰でもわかっていることだからである。」(「」中の表現は、著者の映画「それでもボクはやっていない」評価の借用である(一四六頁))。
 なぜそう思うのだろうか。著者が裁判官になるのは一九七九年(昭和五四年)である。当時の最高裁判所には、本書でもたびたび実名で登場する矢口洪一がいた(人事局長から事務総長を経て一九八四年に最高裁判事になり、その後最高裁長官)。当時、矢口は、裁判官懇話会(著者の同期にも何人かいたようである)については「あれは有志という形の一部の裁判官の集まりで、それ自体はどうというふうには特別考えていない。ただ、全国から集まるというから、公務に差し支えないかと心配だ。しかし、どうして一堂に集まろうとするのでしょう。戦後教育の影響でしょうかね。」と白眼視していたし、青法協については「すべての裁判官は良心に従って裁判をしている。一部の人たちが政治的色彩の強い団体に入っているので、それが国民の裁判に対する公正らしさを疑わせている。」と敵視していた。当時から、最高裁は「すべての政治的立場を離れて、…憲法を擁護する権利と義務と責任」(青法協設立趣意書)を自覚する裁判官など「獅子身中の虫」としていたのである(詳しくは、拙著「憲法ルネサンス」第二章司法の再生のためにを参照)。著者はそのことを知らなかったのだろうか。著者は、そういう最高裁に採用されたのである。かつて、裁判所の中で、ブルー・パージの嵐が吹き荒れていた。そのピークである宮本康昭判事補再任拒否は一九七一年である。青法協の後は裁判官懇話会もターゲットとされた。今、青法協裁判官部会も裁判官懇話会も存在しない。著者はブルー・パージについて得々と語る最高裁判事たちを唾棄している。けれども、著者は、青法協はもとより裁判官懇話会も主体的に選択することはなかったようである。著者のスタンスは、多くの著作を読み、あらゆる芸術に触れてきた自由主義者であり、いかなる政治的組織にも属さないで研究者でありたいというものであって、青法協などの左翼の政治集団や左派色の強い懇話会などとは一線を画していたのであろう。(総じて、著者の左翼や旧ソ連嫌いは素朴であるがゆえに根深いものになっている。左翼の著作は総合性や根源性に欠けていると思われているようだし、裁判所は旧ソ連の強制収容所と比較されている。)
 私は、戦前の「赤化判事」はもとより、「しぶしぶと支部から支部へと支部めぐり支部(四分)の虫にも五分の魂」などという戯れ歌を残しながら、最高裁の仕打ちに耐えた人がいることも、「犬になれなかった」裁判官がいたことも承知している。また、著者の同僚や後輩の中にも、「蟷螂の斧」をかざした人もいたのではないだろうか。冒頭紹介した井戸謙一元判事は、原発訴訟において、メルトダウンと広域放射能汚染を考慮した判決を書いている。ただし、その判例は「孤立したまま」(一四四頁)である。また、著者は、同期の裁判官にも懇話会のメンバーが居たということは記しているが、彼らについては何も触れていないし、左翼系の裁判官などの発言は歯牙にもかけていない。最高裁と戦った人たちの群像などは、著者の視野にはないのであろうか。
 私は、この本を読みながら、マーチン・ニーメラーの言葉を思い出していた。
 ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は共産主義者ではなかったから
 社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
 私は社会民主主義ではなかったから
 彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
 私は労働組合員ではなかったから
 そして、彼らが私を攻撃したとき
 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
 著者は現状打開策として、弁護士の中のすぐれた人々が裁判官になる「法曹一元制度」を提案している。すぐれた弁護士というのは、高収入という意味でもなければ、「雇われガンマン」でもなく、能力と識見の双方に優れ、広い視野を持ち、裁判官がなしうることについての認識において謙虚であり、人の心の痛みがわかる、という意味だとされている(二二三頁)。私は、こんな弁護士になりたいと思う。そして、この打開策は積極的な検討に値するのではないだろうかと思っている。

(二〇一四年三月二四日記)


二三期が集う

京都支部  村 山   晃

 先日の号に、二三期北海道の海川団員の訃報と紹介原稿が掲載された。昨秋は、団総会の直後、同じ岩手で活躍していた千田団員の訃報が届いた。少し前になるが、僕と同じ京都で修習していた滋賀の野村団員が急逝した。
 こうした訃報に接することは、本当に辛く悲しいことだが、同期の仲間は、そういう時期にさしかかりつつある。ただ、それにしても彼らは、あまりにも早かった。
 二三期は、一九六九年四月に研修所に入った。そして、私たちは、研修所に入ってすぐに、「東大七月入所問題」に出くわす。「東大生だけ優遇する」という公正を旨とする法曹界ではあってはならない事態が発生したのだ。この年、大学紛争のため、東大は、卒業を二ヵ月間延期した。入試も実施しなかった。普通の形で研修所に入ろうとすると、中退を余儀なくされた。その救済策が、「七月特別入所制度」である。四月に入所した普通の修習生は東大だけへの特権的な取り扱いに激しく怒り、何度も修習生大会が開かれ、抗議の渦が起こった。
 翌年、二二期で初めて青法協会員の任官拒否事件が起こった。任官拒否のピークは、二三期の七人の大量の任官拒否であり、宮本再任拒否が同時に起こった。憤った私たちに待ち受けていたのが阪口罷免だった。研修所の入口と出口で、恣意的な権力の横暴に遭遇し、私たちは、これと闘い抜くことを誓って、各地に散った。
 時代は流れていく。二三期のすべてが「前期」高齢者になり、リタイアする人も出てきた。裁判官でとどまっている者もいなくなった。若くして亡くなった方もおられる。小林和恵さんや清水恵一郎さんなどなど、名前をあげるときりがなくなるが、今でも顔がうかぶ。
 私たちは、四十数年ひたむきに闘ってきた。裁判所は、その後どうなったと評価できるのか。弁護士会はどうだ。政治や社会はどうなのか。いろんな問題は抱えながらも、それなりに前進している面のあることには確信を持ちたい。後退をさせてはならない。
 私たちには、何が出来たのか、何が出来なかったのか。
 幸い、私たちと一緒に闘おうとする若い弁護士が、次々団の中に飛び込んできてくれる。語り継いでいくことも私たちの重要な課題となっている。
 二三期の共に闘った仲間で一度集まりを持とうという話になった。
 きたる四月一三日日曜日午後三時半から八時半まで、京都駅前のホテルグランビアで、懇談会・懇親会を開催することとした。二〇名近い会合になる予定だ。もし、「未だ連絡が無い」とお怒りの方がおられたら、私まで連絡をいただきたい。 
 二三期は、何時までも経っても二三期だ。そして、まだ頑張れる。ともにこれからを展望したい。


「竹富町教育委員会に対して、激励のメッセージを送りましょう」

事務局次長  辰 巳 創 史

 本年三月一四日、下村博文文部科学大臣(文科大臣)は、沖縄県・八重山地区の中学校公民教科書の採択に関して、竹富町が石垣市及び与那国町と異なる教科書を採択したことについて、竹富町の採択が採択地区内で同一の教科書を採択すると定める教科書無償措置法一三条四項に違反しているとして、地方自治法二四五条の五第四項に基づいて竹富町に対して直接の是正要求を行いました。
 自由法曹団は、これまで文科省による竹富町への是正要求に対し、違憲・違法であるとして再三にわたり反対を表明してきました。
 また、本年三月一五日に開催された常任幹事会でも、かかる意見を無視して行われた違憲・違法な文科大臣の竹富町への是正要求に対し、強く抗議し、撤回を求める決議を行ったところです。
 全国の団員のみなさま、竹富町教育委員会に対して、激励のメッセージを送りましょう。送り先は、下記のとおりです。

〒九〇七―八五〇三 沖縄県石垣市美崎町一一―一
                竹富町教育委員会 慶田盛安三教育長 あて
TEL 〇九八〇―八二―六一九一
FAX 〇九八〇―八二―〇六四三
E-mail takekyouiku@town.taketomi.okinawa.jp