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田中  隆 閣議決定と「徹底解剖・集団的自衛権」
青龍 美和子 集団的自衛権行使容認の閣議決定の撤回を求める新宿区議会への陳情のご報告
向川 純平 山木屋原発自死事件の勝訴判決および確定のご報告
馬奈木 厳太郎 “オール福島”で過去最大原告での追加提訴
〜「生業を返せ、地域を返せ!」 福島原発訴訟追加提訴について
谷  真介 大阪市労組・組合事務所事件
―橋下市長の団結権侵害を断罪し労使関係条例を適用違憲とした全面勝訴判決
松井 繁明 *追 悼*
秋山信彦さんを偲ぶ
石川 元也 東中光雄団員の逝去とお別れ会のお知らせ、弁護士活動の紹介
松本 善明 東中さん安らかにお眠り下さい。



閣議決定と「徹底解剖・集団的自衛権」

東京支部  田 中   隆

一 安全保障戦略の全面再編
 一四年七月一日、第二次安倍晋三政権は、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」と題する閣議決定を行いました。
 「安全保障環境の変化」を理由に戦後の「平和国家」からの脱却をめざす安全保障戦略の全面再編であり、「我が国の平和と安全の維持」のために抑止力の向上をはかるとともに、「国際社会の平和と安定への貢献」「国際協調主義にもとづく積極的平和主義」を掲げて日米軍事同盟を強化しようとするものです。
 閣議決定は、そのために「平和国家」をかたちづくってきた制約を取り除こうとします。具体的な方策は、集団的自衛権の行使容認(a)、自衛隊海外派兵の拡大(b)、「グレーゾーン事態」での自衛隊の活用(c)の、三つのジャンルにわたっています。
a 集団的自衛権の行使容認
 政府の憲法解釈を変更し、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」に、「自衛のための措置」としての武力の行使が認められるとして、集団的自衛権の行使を容認する(「三要件」を「新三要件」に変更)。
 あわせて、「新三要件」をリンクさせることによって、集団安全保障での武力行使にも踏み出す(閣議決定には記述されなかったが、七月一四日、一五日の国会での集中審議でそのように答弁)。
b 自衛隊海外派兵の拡大
 「武力行使との一体化」論による活動制限(非戦闘地域に活動を限定、「自己保存」型と「武器等防護」に武器使用を限定)を事実上撤廃し、PKO法や周辺事態法での派兵で、「現に戦闘行為が行われている現場」でなければ活動が可能とし、「駆け付け警護」での武器使用、目的遂行のための武器使用を可能にする。
 あわせて、「領域国政府の同意に基づく邦人救出などの『警察的な活動』」での武器使用を認め、「領域国政府」の成立後の「安全確保活動」「警護活動」「船舶検査活動」など(自民党「国際平和協力法案」に掲記)での武器使用(事実上の武力行使)を容認する。
c 「グレーゾーン事態」での自衛隊の活用
 「グレーゾーン事態」(純然たる平時でも有事でもない事態)への「切れ目のない十分な対応」(シームレスな対応)が必要とし、「離島の周辺地域」等での武装集団による侵害に対して、自衛隊が治安出動・海上警備行動で迅速に対処できるようにする。
 あわせて、「我が国の防衛に資する活動に現に従事する米軍部隊」への攻撃が発生した場合に、自衛隊が「武器等防護」と同様の武器使用を行えるようにする。
 これらが、「専守防衛」を「国是」としてきた安全保障戦略・憲法解釈の本質的な改変であり(a)、国連平和協力法案(九〇年)以来の海外派兵反対のたたかいへの真っ向からの挑戦であり(b)、有事法制や海賊対処法などでも登場した「治安と軍事の液状化」の究極的形態(c)であることは、論を待ちません。
二 「ガイドライン」から「安全保障一括法」へ
 閣議決定を受けて、一四年一二月には、「日米防衛協力の指針」(新ガイドライン 七八年の旧ガイドラインを九七年に改定)の改定が行われることになっています。
 改定に向けて両国政府の間で折衝が続けられており、一〇月に「中間報告」の予定となっていますが(九月から延期)、新聞等の報道は乏しく、本稿起稿時点で確認できたのは、「周辺事態などの際などに米軍への武器・弾薬提供や戦闘機への空中給油を可能にする」との読売紙報道だけです(八月二〇日)。
 「ガイドライン」改定の焦点は、
(1) 日米安保体制を前提に「平素からの協力」「日本有事での協力」「周辺有事での協力」と組み上げてきた「ガイドライン」に、集団的自衛権の行使(米国有事)をどう組み込むか。
(2) 「尖閣列島等での異変」や「米艦をめぐる異変」を想定した「グレーゾーン事態」をどう組み込むか(とりわけ、「尖閣列島等」に論及するか)
にあると考えられますが、これらについてはいまのところまったく報道がありません。この核心部分では、政府間協議はまだまとまっていないのでしょう。このあたりが、「米国の要求」による七八年改定と「日本の突出」による今回の、位相の違いです。
 「ガイドライン」改定を経た一四年五月には、閣議決定を法制化した「安全保障一括法案」が国会に提出される予定です。「一括法」に含まれる主な法制は、以下のものと思われます。
a 集団的自衛権行使容認関連
 「我が国と・・明白な危険がある場合」(集団的自衛事態・仮称)を、武力攻撃事態法・自衛隊法などの有事法制に組み込む。
b 自衛隊海外派兵関連
 PKO法・周辺事態法を改正して、活動地域の拡大、武器使用の拡大を組み込み、「領域国政府の同意に基づく警察的な活動」と目的遂行のための武器使用を認める国際平和協力法(海外派兵恒久化法)を新設する。
c 「グレーゾーン事態」関連
 自衛隊法を改正して米軍部隊を防護する「武器等防護」の武器使用を認める。
 これらの「一括法」が強行されれば、憲法による「海外での戦争」への制約がほぼ完全に解き放たれ、禁止されるのは国連憲章違反の積極的な武力侵攻すなわち侵略戦争だけとなります。閣議決定と「一括法」によってもたらされるのは、平和憲法の事実上の死滅にほかなりません。既成事実がここまで先行すれば、「国防軍」や「海外での戦争」、「国を守る責務」や「軍事裁判所」を明記する明文改憲は、指呼の間となるでしょう。
三 「徹底解剖・集団的自衛権」のご活用を
 長々と「講釈」をさせていただきましたが、これが今秋出版する「徹底解剖!イチからわかる安倍内閣の集団的自衛権 閣議決定がしめす戦争できる国づくり、そのカラクリ」の「さわり」です。
 閣議決定を対象に論理・内容や法制・事態を検討・批判する。憲法論や安全保障論そのものには深く立ち入らず、自衛隊海外派兵や有事法制等とたたかい続けてきた自由法曹団の蓄積を生かす・・これが出版のコンセプト。この春「これが秘密保護法だ。全条文徹底批判」を出した合同出版社が、出版社です。
 主な内容は以下のとおりです。
◎Part1 集団的自衛権容認・閣議決定を読み解く
 閣議決定全文を六つに分けて掲載し、それぞれの部分にコンパクトな解題を付す。
◎Part2 集団的自衛権容認・閣議決定Q&A
 基礎知識、「グレーゾーン事態」への対応、自衛隊海外派兵の拡大、集団的自衛権行使容認、変更される関連法に区分。閣議決定に沿った四〇問のQ&Aで内容と問題点を解説する。コラム「ここが変だよ安倍首相」を付す。
◎資料
 安保法制懇と与党協議の類型・事例/戦後史と安倍政権(年表)/関連する法制/わたしたちにできること(運動情報)
 執筆・編集は以下の団員(敬称略 ○編集 ◎編集代表)。
 久保田明人(東京合同)、黒澤有紀子(東京南部)、齊藤園生(さいとう)、田中隆(都民中央◎)、松島暁(東京合同○)、森孝博(渋谷共同)、山口真美(三多摩)、山崎徹(川越)、吉田健一(三多摩)
 編集者・執筆者は、内容と分担を確定した七月二八日から四回の出版会議を重ね、九月一一日に再校を終えて自由法曹団側の工程を終了しました。夏季休暇を返上しての四〇日間の「夏の陣」でしたが、自由法曹団らしいものになったと自負しています。
 「憲法と集団的自衛権」タイプはすでに数指を屈しますが、閣議決定そのものを素材にした出版はいまのところ類例を見ません。一〇月二日には配本・普及を開始しますので、ご活用と普及へのご協力をお願いいたします。
 「秘密保護法・全条文徹底批判」と同じ要領で、「自由法曹団扱い」の割引を行います。
 A5判並製一三六頁定価一五〇〇円(+消費税 一六二〇円)ですが、二割強引きの一二九〇円(消費税を含む)で五冊以上は送料を出版社が負担します。専用のチラシ(すでに改憲MLに添付送信、改憲Faxニュースでも送信予定)を出版社にFax送信して注文すれば、自動的に「自由法曹団扱い」となります。チラシがない場合の申込み方法などは、団本部にお問い合わせください。

(二〇一四年 九月一六日脱稿)


集団的自衛権行使容認の閣議決定の撤回を求める新宿区議会への陳情のご報告

東京支部  青 龍 美 和 子

 七月一日の安倍内閣が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を出してから丸二か月。東京法律事務所の憲法委員会のメンバーでは、この閣議決定を止める、撤回させるために、地域で何かできないか検討を重ねてきました。新宿区は、昭和六一年に「平和都市宣言」をおこなっています。集団的自衛権の行使容認は、進んで戦争の道を開くものであり、新宿区の平和都市としての在り方に反するということになります。そこで、すでに各地でも取り組まれている地方議会での意見書提出を新宿区議会でも実行してもらおうと、区議会に「集団的自衛権行使容認の閣議決定の撤回を求める意見書に関する陳情」を提出することにしました。
 議員の助言の下、九月議会で取り上げてもらえるように、夏休みの明けた八月末以降に始動し、「集団的自衛権行使容認の閣議決定の撤回を求める新宿弁護士の会」を立ち上げ、区内の法律事務所に勤務する弁護士から署名を集めました。わずか一〜二週間足らずの間に、東京法律事務所、東京共同法律事務所、東京中央法律事務所、あかしあ法律事務所の弁護士総勢五〇名に陳情に賛同する署名をしていただきました。短期間にこれほどたくさんの署名が集まるとは驚きです。ご協力をいただいた弁護士のみなさま、ありがとうございました!
 九月八日、陳情書を署名簿とともに提出し、議員に陳情の採択に協力してもらうべく、各会派の控室に突撃。議員のいる会派には、直接議員に陳情の趣旨を説明し、協力を要請することができました。
 新宿区議会は、付託された委員会の議員全員一致でなければ陳情が採択されない取扱いがなされてきたので、今回の陳情を採択させるのは至難の業です。しかし、この陳情が実際に審議されるのは一〇月六日になるとのことで、それまでに賛同署名が増えれば追加提出して審議の時に口頭報告されます。そこで九月は、区内の団事務所をはじめさらに多くの弁護士から陳情書への賛同署名を募り、一〇月初旬に署名簿を追加提出します。また、九月議会で陳情が不採択になったとしても、一二月議会では弁護士だけではなく新宿区内の民主団体と一緒に再度陳情を行う予定です。
 新宿区内の事務所に勤務されている団員のみなさま、ぜひご協力をお願いします!
 今回の陳情運動はまだ始めたばかりですが、憲法を破壊する攻撃に対して、法律事務所や弁護士は率先して動きやすく、また賛同も得やすいものだと実感します。各地の議会でこうした動きが広がればと思います。続編を乞うご期待!


山木屋原発自死事件の勝訴判決および確定のご報告

神奈川支部  向 川 純 平

一 はじめに
 平成二六年八月二六日、福島地方裁判所は、東京電力株式会社に対し、福島第一原子力発電所における事故(以下「原発事故」)による自死被害者の遺族へ、損害賠償として約四九〇〇万円を支払うよう命じる判決(以下「本判決」)を言い渡した。そして、東京電力は控訴を断念し、同年九月九日の経過をもって判決は確定した。
 本判決は、原発事故における自死事案に関する初めての判決であり、また、避難者の苦痛の過酷さを詳細に浮き彫りにしたものであって、画期的な意義を有する。そして、今後の原発訴訟への影響は極めて大きい。
二 事案の概要
 Vさんは、自然豊かな福島県伊達郡川俣町山木屋地区にて、家族(夫のX1、子どものX2、X3)、地域の人々と幸せに暮らしていた。しかし、平成二三年三月一一日の原発事故とそれに伴う避難(四月二二日に計画的避難区域に指定)により、Vさんは、自宅や菜園、生業、家族との暮らしなど山木屋での豊かな生活すべてを一挙に奪われ情緒不安定となった。七月一日、Vさんは夫のX1さんと山木屋の自宅に一時帰宅中、自らにガソリンを付けて自死に至った。
 X1さんは、「妻であり母であった、Vの人生は何だったのか」との思いから、提訴を決意した。
 弁護団は東電に対し、平成二四年五月一八日、福島地方裁判所において、総額約九一〇〇万円の損害賠償請求訴訟を提起した。
 本件の請求は、民法七〇九条に基づく請求と原子力損害賠償法三条に基づく請求との選択併合とした。もっとも、迅速な被害救済の観点から、原賠法の無過失責任による請求が事実上の主位請求であり、損害論を中心とした主張を展開した。
三 判決の内容
 二年三ヶ月の審理を経て、平成二六年八月二六日、判決が言い渡された。本件の争点は、(1)原発事故と自死との因果関係(2)心因的要因を理由とする素因減額の可否と割合(3)損害額であり、以下に説明する。
(1)原発事故と自死との因果関係について
 因果関係については、(1)事故(原子炉の作用)→精神障がい(うつ状態)(2)精神障がい→自殺という二段階の因果関係を判断し、(1)について、労災の認定基準でも使用されている「ストレスー脆弱性理論」及び、上記労災におけるストレス強度の評価類型を用いて避難のストレスを判断した。
 そして、災害における避難は一般的にも避難住民に強いストレスを与えるものであることを前提にして、(1)Vにとっては、生活の場であるのみならず、家族を形成し、地域とのつながりを形成する山木屋地区を失ったということは「多額の財産を損失した又は突然大きな支出があった」という「強度III」(上記労災認定基準において「人生の中で希に経験するような強い心理社会的ストレス」と評価される類型)かそれ以上のストレスである(2)Vが夫X1とともに勤めていた農場が閉鎖されたことは「退職を強要された」という「強度III」かそれ以上の強いストレスである(3)山木屋地区がセシウム等の放射能に汚染され帰還の見通しが持てないことは「天災や火災などにあった又は犯罪に巻き込まれた」という「強度III」かそれ以上のストレスである(4)その他、住宅ローンの支払いが残っていることのストレス、避難先の住環境の違いによるストレスを認定した。
 そして、これらのストレス要因が、どれ一つをとっても、滅多に起きることのない一般人に強いストレスを生じさせるものであり、これらの出来事が短期間に次々に遭遇することを余儀無くされることは健康状態に異常のない通常人にとっても過酷な経験であるということが容易に推認できるとした。
 一方で、Vには、精神疾患の既往症が認められないとしながらも、長期の肩こり、不眠等による通院歴があることから、心身症の疾患を有すると認定した。
 そのうえで、本判決は、本件事故に基づいて生じた一般的に強いストレスを与える複数の出来事がVをうつ状態にしたのであり、Vのもつ心身症という脆弱性はそのストレスを増幅する効果をもたらしたにすぎないとして、原発事故とVの自死との因果関係を認定するに至った。
(2)心因的要因を理由とする素因減額の可否と割合
 本判決は、原発自死事案においても、民法七二二条二項の過失相殺規定を類推適用し、被害者の心因的要因が損害拡大に寄与している場合には損害額の減額が可能であるとした。
 そして、原発事故における避難者の多くがストレスを抱えながらも自死には至っていないことから、Vの自死は原発事故により生じる通常の結果を超えているが、Vが原発事故後に遭遇したストレスはどれ一つをとってみても一般人に対して強いストレスを生じさせるもので、これが予期せず短期間に次々に遭遇することは、健康な人であっても過酷な経験であると認定した。
 これらのことから、原発事故が自死の準備状態の形成に寄与した割合は八割(つまり、素因減額が二割にとどまる)であると認定した。
(3)損害額
 本判決は、Vが被った損害として、慰謝料、逸失利益、遺族のXらが被った損害として固有の慰謝料、葬儀費用、弁護士費用を認め、その八割を認容額とした。
 詳細は割愛するが、慰謝料額認定において「ふるさとでの生活」が法的利益であることを言及したといって良いであろう下記記載を紹介する。
 「Vは、本件事故発生までの約五八年にわたり、山木屋で生活をするという法的保護に値する利益を一年一年積み重ねてきた。Vの上記利益の核心は、ただ、子や孫、地域の友人、X1に囲まれた、Vが望む山木屋での静かな暮らしをそのまま続けたいというものにほかならない。そのようなVの望みは、本件事故が発生しなければおそらく実現しているはずであった。
 しかしながら、本件事故によってVのそのような望みは絶たれたといえる」
(4)判決の評価
 以上のとおり、本判決は、Vの避難前後の生活状況を詳細に見つめてこれを拾い上げ、原発事故における避難、ふるさと喪失が、いかに過酷な体験であり、自死という痛ましい被害結果をもたらしうるものであったことを示している。人ひとりの生活をまるごと奪う原発事故の深刻さ、罪深さを帰納的に浮き彫りにしており、その意義は極めて大きく、自死事案にとどまらず、全ての原発争訟に影響を与えるものであろう。
 一方で、判決には課題もあった。因果関係論(賠償の範囲論)は、従来の民法の因果関係論を踏襲するにとどまり、原発事故の特殊性については踏み込んでいない(本判決において、原発事故により自死に至る者がいることを東電は予見可能であったという記載もあるが、これはいわゆる民法四一六条二項の類推適用における予見可能性の判断にすぎない)。
 また、従来の「ストレス-脆弱性理論」による判断枠組みは、本件はともかく、全ての事案で原発事故の全面的被害を正しく捉えきれるかどうか疑問であり、事案によっては大幅な素因減額を生んでしまう可能性もある。
 さらに、本件では、Vは医師の診断もないままに心身症と一方的に認定されており、この部分に関しては疑問が残る。そもそも、強きも弱きも必然的に被害者となる原発事故において、「個体の脆弱性」を考慮すべきなのかどうかは、今後更に検討が深められるべきである。
四 判決確定と更なるたたかい
 判決の二日後である八月二八日、X1と弁護団は、東電本社に訪問し、控訴断念の申し入れを行い、その結果、協議を継続することとなった。そして、東電側代理人から控訴断念の申し入れがあった。被害に寄り添った本判決への反論が難しかったことや、控訴による社会的なデメリットを考慮してのことであろう。
 九月八日、東電原子力補償相談室長らが山木屋の自宅を訪れ、仏壇の前で焼香をあげ、Vさんに謝罪をした。さらに、自宅からほど近い自死の現場では花を手向け、Vさんの冥福を祈った。
 そして、九月九日の経過をもって本判決は確定することとなった。Vさんは帰ってこないが、X1さんは東電の謝罪を「誠意ある言葉と受け止めた」として、本件は落着を迎えた。
 ただ、これで自死事件はおしまい…というわけにはいかない。福島原発被害弁護団は、浪江町の住民が自死した案件につき、福島地裁で東電を被告として訴訟を係属中である。原発に関連する自死が五〇件以上あるという報道もあり、たたかいはしばらく続く。団員の皆様方(特に若手の方、本件の実働弁護士は、大半が六〇期台である)の、弁護団への参加と支援を広く呼びかける次第である。


“オール福島”で過去最大原告での追加提訴
〜「生業を返せ、地域を返せ!」 福島原発訴訟追加提訴について

東京支部  馬奈木 厳太郎

一 九・一〇提訴
 「『生業を返せ、地域を返せ!福島原発訴訟原告団が四〇〇〇人規模に』」、「新たに一二八五人が提訴」、「福島県全市町村から原告」――九月一一日付の各紙は、こうした見出しで追加提訴を報じました。
 「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の原状回復訴訟第四次原告団一二八五名と、ふるさと喪失訴訟第二次原告団一四名は、二〇一四年九月一〇日、国と東電を被告として、福島地方裁判所に提訴いたしました。原告団は、第一次提訴以来、総勢四〇〇〇名となりました。
 当日の九月一〇日には、強い陽射しが照りつけるなか、あぶくま法律事務所前に約二〇〇名の原告団・弁護団・支援者が集合し、中島孝原告団長の力強い挨拶のあと、「生業を返せ、地域を返せ!」の横断幕を先頭に、原告団支部ごとに野馬追や采女姫などのキャラクターをあしらった原告団支部の旗を高々と掲げ、福島地方裁判所に向けて行進しました。
二 四〇〇〇名の原告団・福島県内全市町村をカバーする原告団
 昨年三月の第一次提訴八〇〇名から、一年半を経て、原告団は五倍にまで拡大しました。ここまで拡がったのは、この訴訟が単純に賠償を求めるのではなく、原状回復を旗印に掲げ、国と東電の責任を明らかにすることを大きな目的として有していたことが、広範な被害者の方々の共感を集めたからに他なりません。
 原告団と弁護団は、各地で開催された説明会を通じて出会い、信頼関係を強めてきました。説明会は、週末はもちろん、平日も開催され、ときには同日に三カ所開催ということもあり、会場も三〇〇名規模の施設から各団体事務所や個人宅に至るまで大小さまざま。第一次提訴以降、第四次提訴までに実に約三五〇回開催されました。若手を中心とした弁護団員が積極的に参加してきましたが、説明会の開催にあたっては、原告団各支部や各団体の事務局の方々が、電話がけをしたり、地元紙にチラシを折り込んだりして参加を呼びかけるなど、大変な努力を続けてこられました。
 また、今回の提訴を経て、福島県内五九市町村の全ての自治体に原告団が存在することとなり、宮城県、山形県、茨城県、栃木県といった隣接する県の方々も加わり、文字通りの“オール福島”・“オール被害者”の原告団という形になっています。
 総勢四〇〇〇名にものぼる原告団の組織化は、こうした原告団と弁護団の一体となっての奮闘の賜物だといえます。
三 勝訴に向けて
 今回の提訴は、川内原発について、新規制基準適合判断がなされた後の、また川俣町の住民であった方が自死された件について、福島地裁の判決が出された直後の、さらには原発事故後初めてとなる一〇月の福島県知事選挙を睨んでの、そういった重要な局面での提訴という位置づけを有していました。その意味でも、過去最高の規模での提訴は、政府の原発再稼働に対する批判として、また福島には被害者に寄り添う司法が存在することへの期待の表れとして、さらには福島のあるべき今後を具体化するための主体的な行動として、大きな意味を有しています。
 裁判は、いよいよ後半戦を迎えました。今後、検証、本人尋問、専門家証人といった流れが予定されています。
 また、原告団においては、法廷外の取り組みをさらに強化すべく、様々な構想を準備しつつあります。
 原告団・弁護団一体となって、勝訴に向けて、引き続き全力で奮闘する決意です。


大阪市労組・組合事務所事件
―橋下市長の団結権侵害を断罪し労使関係条例を適用違憲とした全面勝訴判決

大阪支部  谷   真 介

一 はじめに
 一一年一二月に大阪市長に就任した橋下大阪市長は、「組合適正化」の御旗を掲げた第一弾として、一二年四月以降の大阪市役所労働組合(市労組)が使用してきた大阪市庁舎地下一階の組合事務所の使用を不許可とし、市庁舎から追い出そうとした。連合・市労連は早々に退去したが、市労組は一歩も引かず、不退転の決意で占有を継続したまま、一二年三月に大阪地裁に行政訴訟を提起(その後、大阪市から明渡し訴訟が提起された)、大阪府労委に不当労働行為救済申立てを行った。
 まずは一四年二月に大阪府労委で大阪市の不当労働行為を認める勝利命令を勝ち取り(現在中労委で再審査審理中)、今般、一四年九月一〇日、大阪地裁において、すばらしい全面勝訴判決を勝ち取ることができた。
二 裁判の争点
 大阪市の規則で市庁舎における地方自治法二三八条の四第七項の行政財産目的外使用許可は一年度毎に行わなければならないとされていることから、本件では一二〜一四年の各年度の使用不許可処分に関する行政訴訟(取り消し・義務付け・国賠)と、大阪市が提訴した明渡し訴訟の合計四件の裁判が併合され、審理がなされてきた。
 裁判での主な争点は、大阪市が使用不許可処分の理由として主張してきた(1)市庁舎の行政事務スペース不足、(2)市庁舎内での労働組合の政治活動を払拭するおそれ、(3)労使関係条例一二条(便宜供与の禁止)の存在、という三点との関係で、本件各使用不許可処分に裁量権の逸脱・濫用が存在するかどうかであった。(3)の点については、市労組側は、条例一二条が労働基本権を侵害するものであり違憲、また労組法・地公法に違反するものであり違法、さらに本件のように継続的に事務所を貸与してきた場合に同条例を適用すべきではない等との合憲限定解釈をすべき等の主張を行った。
三 大阪地裁判決の概要
 大阪地裁判決では、結論として、一四年度の不許可処分を裁量権の逸脱・濫用があり違法として取り消し、同年度の許可を市長に義務付け、また各年度の不許可処分ごとに、各組合に対する一一万円(総額六六万円)の国家賠償を命じた。さらに、大阪市が起こした明渡し訴訟については、権利濫用であるとして棄却した。
 判決は、まず違法判断の枠組みについて、使用許可・不許可は原則として施設管理権者の裁量に委ねられているとしつつ、自治体労働組合が組合活動の拠点として組合事務所を庁舎内に設置する必要性を重視し、施設管理者側の庁舎使用の必要性がどのように増大したか、職員の団結権等に及ぼす支障の有無、程度や施設管理者側の団結権を侵害する意図の有無等により、市長の裁量権に逸脱・濫用があるかどうかを判断すべきとした。
 その上で、橋下市長は、大阪市職員が加入している労働組合に対する便宜供与を一斉に廃止することにより、その活動に深刻な支障が生じ、職員の団結権等が侵害されることを認識していたことは明らかで、むしろこれを侵害する意図をも有していたとみざるをえないとし、その意図は一二〜一四年度まで継続していたとして、団結権侵害の認識・意図を明確に認定し、前記の理由(1)(2)を排斥した。そして、労使関係条例一二条については、「少なくとも同条例が適用されなければ違法とされる被告(大阪市)の行為を適用化するために適用される限りにおいて、明らかに職員の団結権を違法に侵害するものとして憲法二八条又は労組法七条に違反して無効というべきであり、上記各不許可処分の違法性を判断するに当たっては、独立した適法化事由とはならないというべきである」とし、便宜供与を一律に禁止した労使関係条例一二条を本件に適用する限りで違憲・違法であるという、適用違憲というべき判断を行った。
 そして、各不許可処分は、社会通念に照らし著しく妥当性を欠くものとして、市長の裁量権の逸脱・濫用を認め、違法と判断した。
四 判決の評価と今後について
 判決は、労働組合における組合事務所の必要性を明確に認め、一方で橋下市長の発言やそれに呼応した市当局の動きについて緻密に分析し、大阪市が裁判で主張し始めた「スペース不足」等の理由については単なる口実にすぎず、真の理由は橋下市長や大阪市の労働組合に対する団結権侵害の認識・意図に基づくものであったと明確に認定した。この点においては、先の府労委命令よりも一歩も二歩も進んだ、事実に即した妥当な判決であった。
 しかも、労使関係条例一二条について合憲性判断を避けることなく、これを不許可処分の適法化事由として用いると憲法二八条が職員・労働組合に保障した団結権侵害を侵害するとまで言い切った。判決の根底には、職員・労働組合に対する団結権保障を貫徹する意思があり、憲法に則した格調高い判決である。
 これに対し、すでに翌一一日には、橋下市長は「地裁ではなく最高裁で確定すべき事柄」などと記者団に述べ、早々に控訴の意向を表明した。しかし、例え控訴されようとも、大阪高裁、中労委において、このすばらしい大阪地裁判決を維持させるべく、引き続き奮闘する決意である。


*追 悼*
秋山信彦さんを偲ぶ

東京支部  松 井 繁 明

 秋山信彦さん(東京法律事務所)が六月に亡くなりました。とても悲しく、残念でなりません。
 七二年に私は、東京南部法律事務所から東京法律事務所に戻ってきました。秋山さんを知ったのもその時だったでしょう。四年間のブランクをもつ「出戻り弁護士」の私には戸惑うことが多かったのですが、当時の私の活動を評価し、支援してくれたのが秋山さんでした。うれしかった。
 彼は東京大学の卒業生でした。雑談のおりに日本大学出身の私が、日大の入試は三科目で良かったが、七科目の東大の入試に合格するなんて信じられない、と言ったことがあります。秋山さんは、いや、七科目を広く薄く勉強すればよいのだから簡単ですよ。と答えました。本当に頭のよい人はこんなふうに考えるのか、と私はすっかり感心してしまいました。でも私が秋山さんを尊敬していたのは、頭のよさ故ではありません。
 秋山さんはストレスからくる消化器系の病気をもっていました。この病気は、秋山さんのほんらいの才能の発揮を妨げました。秋山さん自身、なすべき活動や業務ができないもどかしさを覚えたのではないでしょうか。しかし秋山さんはこの制約を従容として受けいれ、できる限りの活動や業務を誠実に果たしてゆきました。不満や愚痴を漏らすことはありませんでした。私が秋山さんを心から尊敬したのは、このことでした。
 このような秋山さんを支えたもののひとつが、クラシック音楽だったでしょう。日本フィルハーモニー争議団の代理人であった私は、国際レベルの音楽家たちと知り合い、彼らのきびしさを肌に感じました。それでも、たとえばモーツァルトの一節を口ずさみながら秋山さんのように嬉しそうに笑う人は見たことがありません。ほんとうに音楽が好きだったのですね。
 坂本 修さんが九〇年代後半ごろから『格闘としての裁判』以下数冊の著書を連続して刊行しました。テーマは労働裁判、労働のルール、憲法改悪など多岐にわたりますが、いずれもその時どきの闘いを有益なだけでなく、問題の本質を解きあかすものとして私たちの共有財産となっています。そのさい私は坂本さんから文章のリライトを依頼され、お手伝いしたことがあります。リライトが成功したのかどうか、心許さないところもありますが、私なりには努力したつもりです。
 わりと最近になって秋山さんから、松井さんなどにリライトしてもらったほうがよいと勧めたのは私なんですよ、と言われました。そんなこともあったのか、という思いでした。
 私と秋山さんが同じ事務所に在席したのはわずか四年。仕事をいっしょにしたのはおそらく、東電差別事件ぐらいだと思います。それでも秋山さんが私にとって印象深い仲間であったのは確かです。霊の安らからんことを願うこと切といわなければなりません。
 一〇月九日午後六時から四谷のスクワール麹町で秋山さんの「偲ぶ会」がおこなわれます。詳しいことは東京法律事務所にお問合わせください。

(一四・九・一記)


東中光雄団員の逝去とお別れ会のお知らせ、弁護士活動の紹介

大阪支部  石 川 元 也

 大阪支部の最古参の団員である東中光雄さん(三期)が、去る八月七日なくなられた。九〇歳の誕生日を迎えられた一週間後である。お年に不足はないかもしれないが、私にとって、まことに痛恨の想いである。
 大阪の各界のゆかりの三七人の呼びかけによるお別れ会が、次の通り開かれる。実行委員長には不肖、石川がつとめさせていただく。
 
 日時 二〇一四年一〇月一一日(土)午後一時〜午後三時
 場所 大阪市立葬祭場「やすらぎ天空館」
     大阪市阿倍野区阿倍野筋四丁目一〇―一一五

 案内状には「東中光雄さんは、一九四五年に零戦特攻隊の隊長になり終戦を迎えました。戦後は人民の弁護士として活躍し、日本共産党の国会議員になりました。」「弁護士としては、占領下の米軍軍事裁判や吹田事件・枚方事件などの弾圧事件の弁護活動や労働者・市民の権利擁護のたたかいの先頭に立ち、関西における民主的法曹の伝統を継承し発展させるうえで大きな役割を果たしました。
 国会では、衆議院在職三一年、(以下略)」と紹介されている。
 近隣の団員のみなさんには、ご参加くださるようお願いします。
 ところで、まことに恐縮なお願いながら、このお別れ会の設営には簡素を心がけたが、思いがけない経費もかかり、東中さんゆかりの団員有志のかたでご寄付を願えたらありがたく、紙面を借りてお願いする次第である。石川宛にお送りいただいた方には、このあとの松本善明さんの追悼文にある自著「東中光雄という生き方」(二〇一〇年刊)をお送りしたい。
 ここで、上記の案内文にある、東中さんの弁護士としての活動を紹介したい。
 東中さんは、一九五一年(昭和二六年)、大阪弁護士会に登録、加藤充法律事務所に入った。当時、加藤充さんは、日本共産党の衆議院議員で、東中さんは、新人ながら、ひとりで事務所を背負ったわけである。
 当時の大阪の情勢は、占領下の米軍軍事裁判と、レッドパージと数十件もの弾圧事件が目白押しであった。これに対する弁護団はといえば、共産党員弁護士は加藤さんひとり、それも四九年国会議員となってからは留守勝ちであった。これら弾圧事件に対応したのは、戦後結成された「関西自由弁護士団」の有志の弁護士たちである。自由法曹団再建の動きは、関西にも伝えられたが、東京の下風に立つわけにはいかないと、独自に自由弁護士団をつくったわけである。戦前からの自由、リベラルの弁護士たちもいた。その中の有志毛利与一、佐伯千仞、澤克己さんらが、米軍事裁判や大阪地裁の弾圧事件を担当してくれていた。
 東中さんも、登録直後から、米軍軍事裁判に出かけた。米軍批判のビラ事件で、ポツダム宣言で言論の自由は保障されていると弁護して、出入り禁止となる。
 翌五二年六月二五日、朝鮮戦争勃発二周年の日、吹田事件(被告一一一人)、枚方事件(被告七三人)二つの大弾圧事件が発生。逮捕者は、その倍以上に達する。その接見などの活動は、東中さんと同期の三、四人の弁護士だけだった。しかし、公判となって、吹田事件では、実に二三人の関西自由弁護士団員のよる弁護団が結成される。枚方事件では、東中主任ほか五名の弁護団であった。
 これらのたたかいを通じて、東中さんは関西の法曹の脈々たる民主的伝統を身にしみて体感する。一九五三年ころからは、労働戦線も立ち上がりはじめる。民主商工会の税金闘争や借地借家人の組織化もすすむ。この新しい情勢に対応するため、大阪総評に近い北区に東中法律事務所を創設した。
 一方で、民主主義科学者会議(民科)法律部会の学者研究者たち(長谷川正安、宮内裕氏ら)との共同もすすめる。一九五五年、カルカッタでの第一回アジア法律家会議に毛利与一さんらと参加、帰途、新中国を訪問する。
 こうした中で、一九五六年、関西自由弁護士団は、「民主法律協会」に発展的解消する。民法協は、弁護士、法学者らだけでなく、労働組合、民主商工会、借地借家人組合など、大衆団体も団体会員とする、他に例を見ない権利擁護センターとして発足した。その事務所が、東中法律事務所内に置かれたのも、実績の反映である(三年後には、独自の事務所をもつようになる)。
 東中さんひとりの奮闘のさなか、団員配置の最優先事務所として、一九五七年、私石川がこの事務所に入所した。同期の橋本敦君も亀田徳治法律事務所に入る。翌年からは、東中事務所に小牧、宇賀神、荒木というメンバーが加わった。亀田事務所には、正森、山田、井関。加藤充事務所には、佐藤。田万清臣事務所には三木、小林が加わった。全員が民法協会員、殆どが団員である。
 五八年からは、日教組傘下の各県教組の勤評反対闘争、全逓労組・国労の実力行使に対する刑事弾圧(労働基本権奪還闘争と位置づけられる)、民間労組の権利闘争も前進する。これらのたたかいに、民法協に結集しての弁護活動が発揮される。重鎮の先生方を擁して、東中さんは、つねに第一線部隊長であった。
 民法協を中心として権利闘争は大きく発展したが、その後四、一七問題やビラ貼り弾圧などへの対応の中で、自由法曹団大阪支部が設立されたのは一九六六年のことであった。加藤支部長、石川幹事長で発足した団支部は、全国的なたたかいの一翼を担ってきている。
 東中法律事務所が、弁護士一〇数人に発展した一九六三年から、事務所研修会が始まった。東中さんからは、戦前からの関西の民主的伝統を受け継いでいこう。さらに、人民の権利と生活を守るために、その闘いの「歴史的、社会的、政治的正当性を確信し、それを法的正当性に高める」という論議に発展し、六六年事務所綱領も制定した。こうした論議は、他の法律事務所にも広げられたと思う。
 権利擁護のたたかいで重要な役割を果たすのが弁護士会である。東中さんの初期の時代には、荒れる法廷を理由に弁護活動を懲戒に掛けるなどの動きもあったが、それは弁護士会の民主化が進んでいなかったことの反映でもある。事務所の弁護士は、若いうちから弁護士会の諸活動に参加するようにした。
 東中さんは、一九六一年(三六歳)参院候補者となり半専従体制になった。苦節八年、衆議院議員初当選は、一九六九年のことである。その後、事務所創立二〇周年を記念して、関西合同法律事務所と改称した。
 最後に、この事務所出身者も四十数名に上るが、次の紹介にとどめる。
 国会議員三人、東中、荒木宏(衆院、故人)野間友一(衆院、故人)。大阪府議、田中清和、田中庸雄(故人)。
 日弁連副会長五人。林伸豪(徳島)大賀良一(島根)山田幸彦(愛知)野村裕(滋賀・故人) 峯田勝次(奈良)。
 そして、自由法曹団団長に石川、宇賀神直の両名。


東中さん安らかにお眠り下さい。

東京支部  松 本 善 明

 まず東中光雄さんが、輝かしい人生を終えられたことに心からの敬意を表し、追悼の言葉を申し上げます。
 東中さんと私は戦前、海軍兵学校に学んだこと衆議院議員になる前は弁護士だったこと、議員を辞めた後も弁護士として仕事をしていたことなど、共通点が多いのです。私も戦後、あの戦争が侵略戦争だったことを知り、今後どのような人生を歩むかについて、真剣に考えました。東中さんも同様だったということです。東中さんの著書「東中光雄という生き方」から探ってみましょう。東中さんは『開世録』と名づけたノートにその気持ちを赤裸々に語っておられ、著書にはそれが引用されています。
 「終戦の詔勅はポツダム宣言を受諾して発せられた。『とるべき道は』何か『大君』の終戦の詔勅は、ポツダム宣言を受諾して発せられた。『とるべき道は』詔勅によって受け容れたポツダム宣言の道ということになる。それならポツダム宣言とは何か。カイロ宣言とは何か。」悩まれた東中さんは、『開世録』に、「終戦の詔書」「内閣告諭」「カイロ宣言」「ポツダム宣言」「プレスコード」「日本占領共同政策 日本管理策」など順次発表された重要文書を、全文筆記されました。「プレスコード」は全文英語ですが、東中さんは来る日も来る日もこれらの文書を何度も読み返し、傍線を引き、そして考えられたということです。日本は何故戦争に負けたのか。何故このような戦争が起きたのか。今後の日本のあり方はどうあるべきか。自分はどう生きるべきか・・・・そして「敗戦の原因」(八月二七日付け)「何故我等は降伏せしや」(九月一一日付け)など、自分の考えを書き続けられ、一種のノイローゼ状態であったと、東中さん自身が当時を振り返っておられます。このような難行苦行のような思考の結果大学受験を決意して東中青年の再出発が始まったということです。私も同様の思考体験をしただけに、あらためて深い親近感を感じました。これらの思考経過についてご生前に意見を交わしたかったと今は思う次第です。 
 弁護士としての東中さんの活動は、東京と大阪ということで当時としてはかなり離れた環境でお互いに活動していたために、深く知ることはできませんでしたが、とにかく猛烈な忙しさでたくさんの依頼事件を処理していたため、第一回の期日は、都合がつかず東中さんの訴訟活動は、第二回から始まるということだったということは、東京でも評判でした。ですから、新しく自由法曹団の弁護士になった人は優先的に大阪に行ってもらうことにしたというのが当時の実情です。
 国会議員になったのは私のほうが一期早かったのですが、候補者活動を始めたのは東中さんのほうが早く、大阪の東中さんに呼応するような形で私の立候補は決まりました。だから東中さんとは議員になるまで面識はなかったのですが、深い親近感を感じていました。お互いに議員になってからは議運担当の東中さんの報告を聞いて、私は国対委員長として当日の各議員の活動について国会対策委員会体で討議したものです。だから毎日のように討議を交わしていた仲ですが、ほとんど仕事のことだけで、個人的な意見交換は全くなく、いまから思うと残念なことをしたと思います。
 付き合いが長かっただけに思い出は尽きることがありませんが、本当に大きな活動をされた同志を送る思いはまさに万感という感じです。東中さん安らかにお眠り下さい。