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田村 陽平
藤盛 夏子
千葉県銚子市・県営住宅追い出し母子心中事件現地調査報告
市川 守弘 アイヌの遺骨はコタンへ返せ
坂本 修 姿を消していた者からの「近況報告」
笹本 潤 アジア太平洋法律家会議(COLAPVI)のお誘い



千葉県銚子市・県営住宅追い出し母子心中事件現地調査報告

千葉支部  田 村 陽 平
千葉支部  藤 盛 夏 子

一 はじめに
 二〇一五年一月一九日、千葉県銚子市の県営住宅で起きた母子心中事件について、千葉県と銚子市に対する事件の原因調査と再発防止への申し入れのため、全国生活と健康を守る会連合会、中央社会保障推進協議会、住まいの貧困に取り組むネットワークとともに、現地調査団を結成し、県と市に要請を行った。当日は、荒井新二団長を始めとして、貧困・社会保障問題委員会より東京支部の林治団員が千葉県庁へ、黒岩哲彦団員、岐阜支部の笹田参三団員が銚子市へ、それぞれ参加された。また、千葉支部の団員も複数参加し、他の団体参加者も含めると、総勢五〇名以上の参加があり活気のある要請行動となった。現地調査団の申し入れは、事件が起きた原因究明と再発の防止のためにどうすべきかを中心として、積極的建設的な議論が交わされた。私たちは弁護士登録をして一ヶ月もたたないうちに調査の活動に参加することができた。以下では調査の概要と私たちなりの感想を簡単に報告したい。
二 母子心中事件の概要
 二〇一四年九月二四日に千葉県銚子市の県営住宅で、母子家庭の母親が無理心中を図って長女を殺害するという事件が起きた。母親は、県営住宅の家賃を滞納しており、その日は、家賃滞納を理由とした明渡しの強制執行の日であった。母親は、明渡しが実行された場合、住む場所を失ってしまい生きてはいけないと考え、無理心中を実行するに至った。明渡断行で執行官が、母親の住宅内に入室した際、事件が発覚した。
三 県と市の対応への疑問
 事件後、次のような事実が徐々に明らかになった。まず、母親は、県営住宅の家賃減免制度を利用できる程度の収入しかなかったものの、減免制度を利用しておらず、仮に減免制度を利用していた場合、滞納状態が解消されていた可能性がある。また、母親は、事件の一年程前の二〇一三年四月、銚子市保険年金課に、保険証再発行の相談(月約四千円の保険料も滞納し、保険証を失効していたため)に訪れ、窓口の職員から生活保護の相談を勧められた。この時、市社会福祉課が生活保護について説明したものの、生活保護受給申請は母親からはなく、そのまま帰宅した。一方で、県は、家賃滞納を理由とし、入居許可を取消し、提訴し強制退去の手続きを粛々とすすめ、提訴後は母親と接触することはなかった(当然当時の生活状況を把握したり、減免制度をすすめたりすることもなかった)。
四 県と市への要望の要旨
 このような行政の対応の問題点を踏まえて、我々現地調査団は、次のような要望を県と市に申し入れることとした。
 まず、県に対しては、(1)県営住宅の入居者に対し、家賃の減免制度があることを、十分に周知させること、(2)家賃滞納者に対しては家賃減免制度や社会福祉制度を丁寧に説明し、できるだけ訪問することにより、手紙や文書だけではなく対面で説明を行うこと、(3)明渡訴訟は最後の手段とし、安易にこれを提訴しないことを要望案とした。
 また、市に対しては、生活困窮の様子が見られる市民に対し、利用できる社会福祉制度を丁寧に説明し、申請意思があるかどうかを確認し、仮に申請意思がない場合でも、職権保護が妥当と判断される場合には、生活保護を利用させることを要望案とした。
 そして、県と市の双方に対しては、(1)県営住宅の入居者が生活に困窮していることを認識した場合、互いに情報を伝え、市からも県営住宅の家賃の減免制度の説明をしたり、県からも利用できる社会福祉制度を説明すること、(2)今回の事件の事実経過を明らかにし、再発防止のためにいかなる措置を採るべきかを検討し、その防止策を県民、市民に公表することを要望案とした。
 これらの要望を伝えるべく、調査団は、銚子班と千葉県班に分かれ、行動をした。
五 銚子市調査団
 銚子市の調査団は、現場となった県営住宅の現地調査の後、銚子市庁舎において、市の保険年金課、社会福祉課及び住宅課の担当者と約二時間にわたって申し入れをした。そのなかで明らかになったのは、母親が生活保護について説明を受けた際の母親に対する説明を担当した者は記憶が曖昧であり、加えて当時の調査票も「未聴取」との記載が多く事後的なチェックが出来ない状態であることだった。さらに、住宅課も、県の強制執行に至る動きにはほとんど関与していなかった。もっとも、銚子市の各担当課は、今回の事件を重大視し、生活保護の面接において未聴取という事態をなくすこと等再発防止に向けての動きを始めていたことから、市の意識に変化が生じている事も見て取れる様子だった。
 このような調査・申し入れをして、市が再発防止へと動き始めていることを感じたと同時に、この市庁舎のどこかの担当課のだれかが母親の生活状態を把握し、生活保護や家賃減免制度の利用をすすめていた場合、悲しい事件は起きずにすんだのではという気持ちを抱かずにいられなかった。
六 千葉県調査団
 千葉県の調査団は、千葉県庁において県土整備部住宅課や健康福祉部健康福祉指導課の担当者と約二時間にわたって要望書案を示して申し入れをした。その中で、家賃の減額制度の周知が現在も十分になされていないことが明らかとなった。また、調査員から家賃滞納を原因とした明渡訴訟、強制執行手続をするにあたって、本件では県の職員が母親に直接会ってその生活状況を聞くという機会がなかったことについて厳しい追及があった。話は、今後の県営住宅政策にまで及び、県から県営住宅を今後微減させていく予定だという説明があった際には、多くの非難の声が調査団からあがった。
七 調査報告集会での議論
 千葉県弁護士会館において調査団が合流し調査報告集会が開かれ、意見交換がなされた。
 荒井団長からは母親の刑事訴訟が今後進展することになるが、その経過を観察しつつも今後も要請等の活動を続けていく必要があるとの指摘があった。丸山県議会議員からは県営住宅の家賃減額制度の対象世帯の約九分の一の世帯しか実際に家賃減額制度を利用していないことからも県や市の情報提供が不十分であることは明らかであるとの意見が出された。井上金沢大学名誉教授からは母親と明渡訴訟の前に連絡を取ろうとしたのは嘱託職員に過ぎず、県の職員が直接母親と連絡を取ろうとすらしなかったことなど県は最低限の手続的な義務を果たしていない可能性があり、県や市に対して厳しく責任を追及していく姿勢をとるべきだとの意見が出された。
八 調査を終えて
 今回、調査への参加によって事件の現場を見ること、現場の人々の声を聞くこと、現場の活動家と共同して動いていくことの重要性を痛感した。今回の事件では、県営住宅という貧困者が最後の砦とする場所で追い出しがなされたこと、生活保護の面接において十分な聴取がされずに生活保護受給の機会が提供されなかったことなど貧困問題が多面的に現れている。今後も千葉支部団員として本件に積極的に関わっていくとともに皆様のご協力をお願いしたい。


アイヌの遺骨はコタンへ返せ

北海道支部  市 川 守 弘

 アイヌの遺骨問題では、札幌で返還訴訟、日弁へ人権救済の申立を行っている。この問題を書けば到底一五〇〇字程度で収まるはずがない。にもかかわらず、事務局から書くようにとファックスが来た。本来であれば、団がシンポジウムを開くか、せめて五月集会の分科会でも開いてくれないと私の能力では説明しきれないのである。そこで、主要な論点を整理し、参考文献を紹介することでこの通信への原稿としてご容赦いただくほかはない。
一 遺骨の数
*全国一二の大学に個体ごとに特定された遺骨が一六三六体(これ以外にも博物館などがあるが数は不明)
*個体として特定できない遺骨は五一五箱(箱容量は不明)
*個体ごとに特定された遺骨のうち個人が特定できる可能性のある 遺骨は二三体
*遺骨の年代は江戸以前が二二五体、明治時代が一五八体、明治以降二〇四体他は不明
 これらの遺骨は、どこから発掘したかはほぼ明らかとなっている。それは遺骨研究で個人名はどうでもよいが、どこの遺骨かは重要だったからである。
 なぜ、これだけの遺骨が大学にあるのか。一言で言えば和人は優秀ゆえ「劣ったアイヌ」の遺骨を研究する、という優生学や形質学などの研究資料として、次々と墓を暴いていった。なお、江戸末期、英国函館領事館職員がアイヌ墓地を暴いて遺骨を持ち去ろうとした事件があったが、函館奉行はしらを切る英国人を白州に引出し、吟味の上、罪を認めさせた。結果、英国にアイヌへ一〇〇〇分金を賠償させた(四分で一両だから二五〇両。一両七万円ほどなので一七五〇万円)が、明治政府は墓を暴くことを認めていた。
 以上については、植木哲也「学問の暴力」春風社が詳しい。絶版のため図書館で見てください。英国人墳墓発掘事件は原文の復刻が北海道出版企画センターからアイヌ資料集の一つとして出ているが、この資料集を差別文書と糾弾する者がいたため入手は困難となっている。
二 閣議決定(インターネット参照)
 内閣府は二〇一四年九月、以上の遺骨について原則として祭祀承継者に返還するとし、これに基づいて作成されたガイドラインではアイヌ側が戸籍などを示して祭祀承継者であることを証明しなければならない。返還が困難な遺骨は北海道白老町に建設する「象徴空間」(アイヌと和人の共生を目指すとされる博物館、野外ミュージアム、アウトドア体験などだできる国立テーマパークのこと)に集約する、とした。
 この閣議決定は、アイヌ政策推進会議という内閣官房に設置された委員会の議論と報告を基にまとめられたものである。
 この推進会議では、遺骨返還に関して、第一に、諸外国では部族、民族へ返還されるのを原則としている、第二に、しかし日本ではコタンなど返還の受け皿となる組織がない、第三に、したがって祭祀承継者に返還するものとする、とされていた。閣議決定はこれを要約したものである。
三 問題点
(1)諸外国ではなぜ部族、民族へ返還するのが原則なのか

 ただ、ここでも「部族、民族」というあいまいな表現になっている。アメリカなどでは明確にトライブとされている。トライブというのは自主決定権(self-determination)を有する主権団体のことで、州と同じ権限を有する団体である。ナバホなど大きなトライブでは、議会、警察、裁判所などを有している。遺骨は、遺骨が発掘された当該場所を支配するトライブへ返還することになっている。
(2)日本では誰に返還すべきか
 日本ではトライブに該当する団体はコタンである。コタンは集落などと訳されるが、法的概念としては対内的主権を有する団体である。ここでは、主権を対外的主権と対内的主権と分け対外的主権は制約されるものの自主決定権という対内的主権は保持されているという考えである。実際、江戸時代まではアイヌは幕藩体制下で、交易の相手が松前藩に限定されたが、課税もされなければ人別帳も作成されていない。各地のコタンが二〇戸前後の団体としてまとまり、特定の支配領域を持ち、サケの捕獲や鹿の捕獲を決めていた。もちろん、裁判も行い民事法、刑事法、訴訟法も慣習法として存在していたのである。
 これらについては、榎森進「アイヌ民族の歴史」草風館、同「北海道近世史の研究」北海道出版企画センター。高倉新一郎他「アイヌ民族誌」第一法規、などが存在する。最近まとめたものとして拙著「アイヌ人骨返還を巡るアイヌ先住権について」法の科学四五号日本評論社がある。
 これらの研究からすれば、遺骨を管理していたのはコタンという集団になる。
(3)祭祀承継者という概念の強制
 そもそもアイヌには祭祀承継者という概念はない。遺骨が相続される財産とは観念されず、そもそも家制度がないからである。人が死んだらコタンの中の場所に墓穴を掘り埋葬するが、埋葬後は決して近づいてはならない。墓標を立てるが朽ちるに任せる。また別の人が死んだら、その隣に埋めていく。慰霊はコタン全員で死んだコタンの人たち全員を慰霊する。祭祀承継者というのは家制度を前提として、その家を先祖と共に守っていく、という考えであるから、家制度がなくコタンという集団での慰霊である以上祭祀承継者などはそもそもその概念がない。
 内閣が祭祀承継者であれば返還し、それ以外は返還しないとするのは、和人の家制度に基づく宗教観、道徳観の強制である。
 以上については、高倉新一郎他「アイヌ民族誌」第一法規があるが、今までのアイヌ研究ではあまり研究されていない分野である。
(4)信教の自由を侵害する
 遺骨がないまま慰霊をしなければならないのは、アイヌの人たちの自由な宗教行為を妨害することになる。
 白老では慰霊行為はできない。なぜなら国立施設であるから慰霊という宗教上の行為を行うことが政教分離原則から認められない。白老に集約されれば以後遺骨を前にしても慰霊行為ができなくなる。施設は一切の便宜を図れないから「勝手にやってきて勝手に慰霊している」という態度をとる以外にない。慰霊の最中も観光客が祭壇の前を通ることも阻止できない(阻止すると便宜を図っていることになる)。
(5)日本政府が返還したくない理由
 一つは、コタンに返還するとその後の先住権の問題が出てくる。土地返還、賠償問題に直結する。この点では日本政府は「世界先住民宣言にいうところの先住民族にアイヌは当たらない」ということと軌を一にする。
 二つに、ミトコンドリアDNA研究をしたいこと。人類の移動、東南アジアの人類の起源を解明したい。
 ただ、前者の理由が大きいと思う。札幌市議が「アイヌの人たちはいるがアイヌ民族はいない」という発言がヘイトスピーチとされているが、なんのことはない政府の考えそのものなのである。


姿を消していた者からの「近況報告」

東京支部  坂 本   修

 長い間、姿を消し、「音信不通」でご無沙汰していました。昨年一二月、たまたま路上でお会いしたことのある団員から、「坂本さん、脳梗塞で倒れて大変だと聞いていたけど、ちゃんと歩いてお元気そうじゃないですか」といわれて、一瞬、絶句しました。
 突然に姿を消して「音信途絶」状態にしていたのですから、「身から出た錆」というもの。団通信の貴重な紙面ではありますが、私が、今をどう生きているか、近況報告をさせてください。
 一昨年の一月一二日、私は坂本福子を失いました。発病後、彼女は志を貫いて生き切って、去って行きました。そのことに敬意と感謝の念はあっても、悲しみと喪失感に負けて、私はひきこもっていたのです。しかし、三月一五日、六〇〇余人のみなさんが参加してくださった偲ぶ会に励まされて、四月一日から私は学習会の「現場」に戻り、一〇月にはブックレットを出版しました。おぼつかない足取りですが私は歩き出していました。実は、当分はそのようにして生きられると私は思っていたのです。
 だがそうはいきませんでした。一〇月の団総会から帰った翌日、事務所で言葉がもつれるという脳梗塞の発作を起こし、救急車で搬送、入院しました。症状はすぐに消え約一〇日後退院しましたが、その二週間後、今度は「物が完全に二つにみえる」という状態になり、再入院。脳幹部の梗塞で前回より重い発作でした。幸いにして、この時も数日で症状は消えて十数日で後遺症もなく退院できました。
 しかし、入院での精密検査の結果、容易ではない病状なことが分かりました。(1)梗塞の原因の血栓は左側椎骨動脈の二カ所の狭窄によるもの、(2)血管手術が可能ならそうするが、糖尿病と加齢による動脈硬化、それだけではなく生まれつきの「形成不全」で右側椎骨動脈がほとんどないに等しいので、手術は選択出来ない(「手術死」が起きる危険がある)ということだったのです。気の弱い私は昨年三月半ばまでは、ひきこもりのベッド暮らしをしていました。
 四月からようやく「まともな本」を読み出しました。テーマは今日における民主主義の生命力をどうみるかでした。五月末までに十数冊の本を読んで、深刻な「劣化」がおきているが、それでも民主主義の価値はかけがえがなく、その生命力の維持、強化こそが希求されるべきだ、それは可能だということを、私は知ったのです。
 そのことをある知人に話したところ、「もっと重大な問題がある。この本を読みなさい」とすすめられて、スティーブン・エモットの「世界がもし一〇〇億人になったなら」を読みました。同書で彼は地球環境の破壊が限度を越えて進行していると指摘した上で、人類がその原因をつくってきたのであり、人類が解決しなければならない、しかし、「人類はそうはしないだろう」とし、「わたしたちはもうダメだと思います」という絶望の宣告をしています。内容は簡潔ですが、実証的であり、私にとっては大きな衝撃でした。
 しかし、絶望史観に立つわけにはいかない、別の答があるはずだ、それをつかみたいとつよく思いました。そこで、(1)危機の実態をどうみるか、(2)解決策が見いだされているか、それを実行する力を人類は持っているのか、(3)こうした人類の存続にかかわる問題について科学的社会主義の党、日本共産党はどう解明し、どう提起しているか、(4)いま、日本でこの課題にどう立ち向かうか、をテーマに、二〇冊前後の本を読んで、自分なりに答えの探求を始めたのです。こうして、考えた自分の思考の道筋と「ここまでいえるのでは」と思う結論をまとめるために、誰にも見せない自分自身のための(ノート)を、昨年九月頃から書き始めて、今日までに前記テーマの(1)(2)(3)について約六万字で一応まとめたところです(難問中の難問の(4)はこれからです)。
 病いについては最高血圧一二〇台後半、最低血圧六〇台後半、AIC七前後とまあまあであり、事務所には週五日、一日六時間位のペースで出勤、生活状況は「普通」―以上が私の近況です。
 悩みは、ではこれからどう生きるかです。私はまだ答えを見つけられず迷っています。そもそも今までまったく関心を持っていなかった地球環境問題を、人類史の中断(途絶)の危機ととらえて、誰にも見せない(ノート)の執筆に残り少ない時間を使っているというのは無理、無益である。それだけではなく、切迫している憲法をめぐる“せめぎ合い”から離脱したための“心の逃避”なのではないか、という「内心忸怩たる思い」がつよいのです。
 多くの人々が、私とは比べものにならない病気や障害、そして生活上の様々な困難を持ちながら、活動をしています。たとえば、私より少し年上の澤地久枝さんは、三年前、心臓発作で失神して階段で転倒、足を骨折、手術のため五一日間入院していますが、その後も、なお九条の会、脱原発の運動で貴重な活動をされています。身近な団員でも、同僚の秋山信彦さんは重度の肺がんにもかかわらず、亡くなる直前まで、依頼者のために誠実に弁護士活動を続け、阪田団員は膵臓の末期癌と分かってからも亡くなるまで、毅然として生きるための努力をつくされていたのです。
 こうした人々に比べて、私はなにもしていない。「それでいいのだ」といって、漫然と残りの時間を費やしていいのか。「そうはいかない。なにかを見出したい」という“未練の思い”にかられます。
 とはいえ落ち込んでいるのではありません。「いつまた発作が起きるのか」という不安にも慣れてきました。坂本福子が「人は生きている限りやれることはあるのよ」といって、緊急再入院する数日前の一二月二八日の夜まで、「婦人通信」の連載原稿を書いていたのを思い起こして、私のこれからの生き方の答えを探し続けます。
 年賀状で書いた「二人での初めての花見」はもうできませんが、今は亡き人と「同行二人」で今年の花を見るときまでには、その答えを見出すことができるという希望を抱いて春を待つことにします。
 末筆ながら、憲法討論集会の成功を願い、団員のみなさんの日頃のご活動に心から敬意を表して、「私信」の筆をおきます。
〈追伸〉救援情報と救援新聞に、ビラ配りの権利についての私のロングインタビューが掲載されています。直近のささやかな活動です。機会があったらお読み下さい。


アジア太平洋法律家会議(COLAPVI)のお誘い

東京支部  笹 本   潤

 アジア太平洋法律家会議(COLAP―The Conference of Lawyers in Asia and the Pacific)は主にアジアで平和・人権に取り組んでいる法律家が一同に集まる国際会議で約五年に一度開催されます。
 今年は六月にネパールのカトマンズで第六回COLAPが開かれます。今までは、ニューデリー一九八八年、東京一九九一年、ハノイ二〇〇一年、ソウル二〇〇五年、マニラ二〇一〇年と開かれ、毎回二〇〇〜三〇〇人のアジア太平洋地域の法律家が参加しています。
 主催は九〇ヶ国以上の法律家団体からなるIADL(国際民主法律家協会)で、現地の法律家団体が会議の実行委員会を担当します。アジア各国で取り組まれている人権や平和の課題の活動の交流をして、アジア地域で共通に取り組む課題を見いだしていく国際会議です。参加費用は交通費を入れると二〇〜三〇万円(会議、宿泊代込)かかりますが、このような会議は五年に一度の開催ですから、参加する機会は少ないです。日本語への通訳もいますので、英語が分からなくても会議に参加できます。
 各国の法律家の置かれている社会的条件はだいぶ違いますが、各国からのいろいろな見方を知ることができ、またアジアで共通して取り組める課題を見出すのが国際会議の魅力でもあります。
 たとえば、沖縄など米軍基地訴訟に取り組んでいる人は、フィリピン、韓国などの基地訴訟に取り組んでいる法律家と出会えますし、日本の集団的自衛権行使や憲法九条に対して、アジアの法律家がどのように見ているかなどの意見を交流すると、日本の置かれている状況を知ることができます。人権の問題でも、各国では労働者の権利がどうように侵害されていることを知ることができますし、多国籍企業の活動の問題点や新自由主義が事件の背景が見えることもあります。環境問題や開発、原発の問題では、経済大国である日本とアジアの途上国の置かれている状況の違いや、連携して取り組むべき課題が見つかるかもしれません。
 二〇一〇年にマニラで開かれた前回のCOLAPVでは、フィリピンとインドネシアの労働者から、日本や韓国に流出している移民の権利保護について、移民の送り手と受け手の法律家が連帯して取り組もうと提案がなされ、現在もフィリピンの法律家やNGOと継続した連帯活動をしています。
 このような新鮮な驚きや感動を生む場がCOLAPです。次頁が大まかな会議のテーマです。会議後には、ヒマラヤを見渡すトレッキングツアーや仏教・ヒンズー教の施設なども見学できるオプションツアーもあります。参加を希望する方は、次頁下の日本国際法律家協会までご連絡をください。申込書などの資料をお渡しします。