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芦葉  甫 生活保護廃止処分の職権取消を
勝ち取った取り組みについて
―四日市インスリン事件―
尾崎 彰俊 フレンテ未払い賃金判決(上)
〜三角形の秘密はね♪〜
田中  隆 選挙論から見た二〇一六年参院選(下)
玉木 昌美 市民に支えられた野党共闘(参院選)のかつてない取り組み
須藤 正樹 二〇一六年東京都知事選「敗戦」の雑感
山崎 博幸 小説家永尾廣久の誕生(二)
荒川 英幸 人それぞれに
岩坂 康佑 部落問題の学習会に参加して



生活保護廃止処分の職権取消を
勝ち取った取り組みについて
―四日市インスリン事件―

三重支部  芦 葉  甫

一 はじめに
 本件は、無職の男性に対し、「指導・指示に従わないため」として、生活保護廃止処分(以下、「本件処分」という。)がなされた事例である。実質的には、就労指導指示に違反したことが理由であった。
 本件処分は、二〇一六(平成二八)年三月一一日になされた。この日の午前中には、「弁明の機会」がされたばかりで、形式的に手続を行ったとの印象を持たざるを得ない。最終的には、同年四月一五日、四日市市が職権にて生活保護廃止処分を取り消した。
 わずか約一か月の闘争ではあるが、首の皮一枚の連続の日々であった。

二 本件事案の問題点
 本件事案は、担当ケースワーカーだけの問題でなく、四日市市生活保護課全体、ひいては生活保護制度全体に及ぶ問題点もある。紙幅の関係上、本件特有かつ強調すべき問題点として、次の三点を紹介するにとどめる。
 第一に、依頼者は、面接結果待ちの状態で、本件処分を受けたことである。依頼者は、同年三月九日、四日市市内の某企業の面接に行っていた。この面接結果は、同月一四日に出されることになっていた。本件処分は、まさに面接結果待ちの状態でされたのである。
 また、この就労活動について、担当ケースワーカーが全く把握していなかったこと点である。しかも、就労支援員に確認すれば、短時間で調査できる情報であり、担当ケースワーカーは調査を怠っていたと言わざるを得ない。
 第二に、あまりにも短期間で処分がなされたことである。
 まず、弁明の機会に向けた準備期間が、三日間しかなく、極端に短い。この期間は、保護課係長によれば、「ごく普通」との認識である。依頼者のように面接を控えている者にとっては、ほぼ準備時間は無いに等しい。これで、果たして適正な手続がなされたといえるのだろうか。
 次に、本件処分は、弁明の機会当日であった。このような即断は、許されるのだろうか。本件処分は、最も重い処分であるにもかかわらず、ケース診断会議の記録には、保護の変更、保護の停止などの処分の検討形跡がない。弁明の機会を行う前から、本件処分は既定路線だったのではなかろうか。
 第三に、本件処分の通知が遅いことである。
 依頼者に、本件処分の通知が届いたのは、処分から約一週間後であった。本件でも、通知の前に、簡易宿泊所から宿泊料の請求をされた。まさに、通知の前に、処分の効果にさらされていたのである。これでは、通知を義務づけた意義が半減する。

三 生活保護廃止処分の職権取消を勝ち取った取り組み
(1) 職権取消を促したものの…
 当職は、同月一八日、四日市市生活保護課へ行き、口頭にて職権取消を促した。直後に、内容証明郵便にて再度、職権取消を求めた。しかし、同月二三日、四日市市は、職権にて取消をしないとの回答であった。
(2) 法的手段をする前にやるべきこと
 ア そこで、当職は、法的手段を取ると決めた。
  ところが、直ちに法的手段の準備ができなかった。それは、依頼者は、簡易宿泊所から退去を余儀なくされ、「住」と「食」を失ったからである。依頼者に頼れる親族や友人は、いない。
  当職は、知りうる限りのNPOへ連絡し、シェルター探しに奔走した。ここからが首の皮一枚の連続の日々である。当時の三重は、三月にしては寒く、コートが必要な気温だった。しかも、雨が降っていた。
  シェルターを確保できていない中で、検査入院が認められたため、一息つくことができた。入院期間は三日間であったので、再度シェルターを探した。一か月間という条件ではあったが、名古屋にてシェルターを確保できた。
  なお、再度生活保護申請をすると、四日市市は、「適法な処分」と誤解し、以後も類似の処分を乱発することを恐れて、行わなかった。
 イ 食事は、フードバンクを利用した。担当者のご厚意により、シェルター入居日の夜に二週間分の食料を送っていただいた。
(3) 審査請求等
 同月三〇日に審査請求を行い、同年四月一日に取消訴訟及び執行停止の申立を行った。
 この提訴等から二週間後の同月一五日に、職権にて取り消された。当職が職権取消を求めた時点では取り消さず、この時期に職権にて取り消した理由は、明らかとなっていない。おそらく、三重県が、四日市市へ「助言ないし指導」があったのだろう。

四 結びに変えて
 本件は、当職だけでは太刀打ちできなかった。
 生存権がみえる会、生健会、寄り添いネット、医師、NPO法人など様々な支援者が連携したことにより、得た結果である。彼らの支援の輪がなければ、依頼者の生存権は、侵害されたまま、回復困難な状態に陥っていた可能性が高い。この状況に鑑み、先日、国家賠償請求訴訟を提起した。
 末尾になったが、依頼者は、職権取消から、約一か月後に某会社から内定を得た。日焼けした依頼者は、奔走した日々と異なり、希望に満ち溢れていた。

以上


フレンテ未払い賃金判決(上)
〜三角形の秘密はね♪〜

京都支部  尾 崎 彰 俊

一 はじめに
 二〇一六年五月二七日、京都地方裁判所において、「ブラックバイト」に関する判決があった。同判決は、「契約書の記載が労働基準法三七条を潜脱する」と判断し、未払い賃金二七万八四八〇円及び付加金二万一三〇三円の請求を認めた。
 近年「ブラック企業」だけでなく、「ブラックバイト」が社会問題となっているなかで、本判決は非常に意義のある判決である。
二 事案の概要
 本件の被告は、ポテトチップス、ポリンキーで有名な湖池屋を傘下に持つフレンテである。本件の原告は、被告京都工場において、スナック菓子の製造過程のうち、流れてくる生のじゃがいもを切る作業、油で揚げられたフライドポテトの選別作業等の業務を行っていた。
 本件は、被告と有期雇用契約を締結していた原告が、被告に対し、契約期間中の解雇の無効及びその後の契約期間満了時の雇い止めも無効であると主張して地位確認を求めるとともに、未払い賃金及び割増賃金の支払を求めた事案である。
三 争点
(1)本件の争点
 本件の争点は、解雇の言い渡しの有無・雇止めの有効性及び未払い賃金の請求である。特に未払い賃金については、複数の争点があった。以下では、主な争点を紹介する。
(2)原告の契約内容
 始業、終業の時刻 始業一七時一〇分から終業二二時一〇分まで
 休憩時間〇分
 教務の都合その他やむを得ない事情により始業及び終業を繰上げ、又は繰下げることがある。
 基本賃金     時給九八〇円
 割増賃金率    深夜(二五%)但し深夜割増部分は基本賃金に含む。
(3)着替え時間等についての請求
 原告は、まず、厚生塔内のタイムカードを押してから、ロッカールームに移動し、制服に着替え、「手洗い→靴底クリーナー→アルコール消毒→エアーシャワー→粘着ローラー」を行った上で、工場に入室していた。工場に入室後は、工場内の資材置き場において、ラジオ体操及び朝礼が行われており、朝礼では、当日の生産スケジュールでどの生産ラインにおいて何を作り、終了予定時刻はどのくらいなのかの指示が行われていた。ラジオ体操及び朝礼終了後、原告は一七時一〇分よりも二〜三分はやく製産ラインの前についていた。このため、原告のタイムカードの就業開始時刻は、一七時一〇分よりも二〇分から三〇分程度早く打刻されていたが、賃金は一七時一〇分を基準としてしか支払われていなかったため、一七時一〇分以前の賃金の支払いを求めた。
(4)繰上終業した分の未払い賃金の請求
 本件労働契約書では、始業時刻及び終業時刻が「始業一七時一〇分から終業二二時一〇分」とされるとともに「業務の都合その他やむを得ない事情により始業及び終業を繰上げ、又は繰下げることがある。」とされていた。
 原告は、生産の関係で、二二時一〇分よりも約一〜二時間程度、終業時刻が早められることがあったが、賃金は、早められた終業時刻分までしか支払われていなかったため、二二時一〇分を基準として未払い賃金の支払いを求めた。
(5)深夜割増賃金の未払いについて
 本件労働契約書では、「基本賃金は時給九八〇円」、「深夜労働の割増賃金率は二五%としつつ、深夜割増部分は基本賃金に含む」とされており、二二時一〇分まで勤務した場合及び二二時一〇分以降に残業を行った場合に深夜割増賃金が支払われていなかったため、深夜割増賃金の支払いを求めた。
 被告は、労働契約書の記載をもとに、基本賃金以外に深夜割増部分を支払う義務はないと主張した。
 また、原告が有給休暇を取得した際にも、二二時〇〇分から二二時一〇分までの一〇分間の割増賃金が支払われていなかったため、有給を取得した場合の割増賃金の支払いも求めた。

(以下次号)


選挙論から見た二〇一六年参院選(下)

東京支部  田 中  隆

二 投票動向(続)
b 民進党

 比例代表で一一七五万票を獲得し、惨敗の一三年選挙(七〇〇万票)より確かに回復した。選挙区得票計一四二〇万票が二五〇万票も多いのは、「統一の恩恵」である。だが、その到達点は、政権交代選挙(〇九年)の民主党比例票約三〇〇〇万に対比すれば、「ようやく三分の一を超えた水準」というところでしかない。
 このところ法律家六団体の戦争法制阻止の活動などで民進党(民主党)議員とかかわることが多く、真面目で懸命に努力している議員が多いことは理解している。だが、政党組織や基盤の力不足は否定しようがなく、それが敗北の深さと回復の遅さに反映している。
 この状況は、「二大政党制」をはぐくむ政治土壌や基盤がこの国に存在していないことを、雄弁に物語っていると言わざるを得ない。
c 公明党
 衆参を問わず、ここ数回で比例得票七五〇万票は動かない。選挙区での議席増はとりわけ議席増区に力を集中した結果だろう。
 注目すべきは、「出口調査」等で「選挙区では野党統一候補に投票」が一定数あると見られていること。改憲四党が約三〇〇万票、反改憲四党がが約二〇〇万票、それぞれ比例票の方が多く、選挙区には約五五〇万票の無所属票がある(有効投票総数は選挙区の方が多い)。その無所属票のうち四四〇万票近くは反改憲票(四一〇万票は統一候補票、二五万票は三宅票=東京)にはずだから、保守系無所属票は最大一一〇万票で、二〇〇万票ほどは「比例は改憲、選挙区は反改憲」の選択をしていることになる。その多くは比例で公明党に投じられた票だろう。
 この波紋も、改憲をめぐる動きに影響するに違いない。
d おおさか維新
 比例得票では「日本維新の会」にも「維新の党」にも及ばず、関東進出はならなかった。他方、大阪・兵庫では、自民・公明に匹敵する議席を獲得した。「与党は自公、野党は維新」という「改憲派枢軸」をどう打ち破るかは、全国レベルの課題でもある。
e 共産・社会・生活
 野党四党と市民の共同を推進し、選挙区では擁立を自制ないし辞退した。事実上、比例代表だけで当選をめざす選挙となったが、三党とも比例代表で得票を伸ばし、議席を拡大ないし獲得した。
 共産党の六〇〇万票は、野党共闘や市民との共同がなく沖縄を除く全小選挙区で候補者を擁立した一四年総選挙と変わらない。共闘によって「小選挙区効果」を打ち破ったことになる。
三 一二年のときを経て
 二〇〇三年からの一二年間に、総選挙と参院選がそれぞれ五回、それも交互に行われた。この一〇回の選挙とその結果は、議会政治をめぐるこの間の展開を映し出している。
 三段階に整理することができるだろう。
 第一段階の〇三年から〇九年、「二大政党制」が理想のように語られた。民主党からも政権選択と政権への白紙委任が叫ばれ、市民を観客にした「マニフェスト選挙」論が幅を利かせていた。民主党政権の崩壊は、「二大政党論」の破綻を意味している。
 第二段階の一〇年から一四年、亜流とでも言うべき「三極」が台頭し、一二年総選挙では「三極」の比例得票が二〇〇〇万票に及んだ。その「三極」はひとつとしてもとのままでは残らず、自民への回帰あるいは民主への合流の道をたどった。
 そして一五年から一六年、国会を包囲した戦争法制阻止闘争のなかから市民のイニシアチブによる野党共闘が成立し、改憲と反改憲を最大の対抗軸として対決を続ける時代になった。市民は能動的に政治に関与する主権者として登場し、選挙は「どちらを選んでも変わり映えのしないものの選択」では本質的になくなった。
 この一二年間、新自由主義的構造改革が強行されて格差が拡大し、戦争法制強行を経て明文改憲阻止が現実的な闘争課題となるところまできた。だが、そのときは無駄に流れたわけではない。
 最も危険な政治モデルは「改憲二大政党の対峙と観客としての市民」であり、それこそ支配層が構想した政治像だった。だが、その政治モデルは、矛盾の深化とたたかいによって破綻した。
 第三段階すなわち現在の対抗は、「二大政党制」や「三極」の虚構が打ち砕かれた末に現出した、本質的な対抗なのである。
 (七月一六日の常任幹事会での報告発言に補筆 二〇一六年七月一九日脱稿)


市民に支えられた野党共闘(参院選)のかつてない取り組み

滋賀支部  玉 木 昌 美

 二〇一六年二月、滋賀において、「安保法制の廃止と立憲主義の回復をめざす市民の会しが」が結成された。運動について路線の異なる労働組合や民主団体のメンバーが一緒になり、そこに大学人、法曹、ママさん、若者等が結集し、安倍の暴走をストップしようと団結して野党共闘を求めた。野党三党はこれに応え、参議院議員選挙において、統一候補の林久美子さんを擁立して闘うことになった。かつてない取り組みがなされ、頑張れば勝利できる基盤を作ることができた。
 「市民の会しが」では、四月に県民集会を、五月に二回の市民フォーラムを開催した。尾木直樹さんの講演会を開催し、教育の無償化の問題を提起し、SEALDsの奥田愛基さんの講演会を開催して、民主主義の担い手についてアピールしてもらった。六月には、弁護士会主催の九駅での一斉街頭宣伝にも協力した。各団体もそれぞれ取組みを行い、共同センターでは、街頭宣伝を継続し、かつ、六月二日に白井聡さんの講演会を開催し、対米従属の問題について学習した。自由法曹団滋賀支部も独自に街頭宣伝を行った。「市民の会しが」は、選挙に入ってからも、大学人の集会、宗教者の集会、若者の集会を次々と開催した。さらに、「選挙で変える。選挙で守る。」という黄色い横断幕やポスターを作り、何回も県内各地で街頭宣伝・スタンディングを行い、「選挙に行こうよ」というビラを配布した。街頭宣伝では、戦争法の廃止・立憲主義の回復を訴えて安倍政権を批判し、かつ、選挙に行こうよ、と訴えた。そして、選挙運動においても、三党の合同街頭宣伝等に加わり、また、個人演説会、街頭宣伝にも積極的に参加していった。中央の市民連合の山口二郎教授が二回、中野晃一教授が一回滋賀に来てフル回転で回ってもらったが、それだけに滋賀は絶対に勝つことが期待されていた。
 しかし、林候補は二九万一二九〇票を得たものの、結果は四万票余りの差で敗れた。野党共闘は三二県中一一県で勝利した(その意義は極めて大きい)が、滋賀がこれに加われなかったことは本当に悔しい。
 なぜ、初めて市民と野党が共闘し、かつてない先駆的な闘いをしながら、敗れたのか。それは、野党共闘の風を大きく吹かすまでには至らなかったからである。「市民の会しが」は実に幅広い人を結集したものの、主体的な力量がまだまだ十分ではなかったうえ、林久美子候補を応援する連合が「市民の会しが」との共同闘争に腰が引けていて、行動を共にすることを拒絶し、不協和音があったからである。民主党国会議員だった三日月大造知事が中立を宣言し、武村正義元知事は最終盤になって林候補の支持を表明して行動したものの、嘉田由紀子元知事は最後まで動かなかった。また、敗因として、候補者の夫問題、民主党政権時代への失望をあげる声もある。
 自公が憲法改正の問題に触れない争点隠しを徹底して行い、多くのマスコミがそれを批判せず、「争点がかみ合わない。」と白けた雰囲気を煽ったことも影響している。
 安保法制の廃止と立憲主義の回復に向けた闘いはこれからが本番になる。アベ政治への怒りを忘れず、諦めず、地道に「自分の頭で考え、行動する人を作る市民運動」を発展させていきたい。


二〇一六年東京都知事選「敗戦」の雑感

東京支部  須 藤 正 樹

一 七月三一日、東京都知事選の投開票が行われ、小池百合子元防衛相が二九一万票(得票率四四・四九%)で、同じ自民などが押す増田寛也元岩手県知事一七九万票(得票率二七・四〇%)、野党各党などが共同推薦するジャーナリスト鳥越俊太郎氏一三四万票(得票率二〇・五六%)を大差で破って当選した。投票率は五九・七三%で大雪の前回より大幅に高く、マスコミは「女性初の都知事」「政党推薦なし」などの見出しで報じた。さっそく小池氏は、「しがらみなく自由に発言」「所属や政党の帰属を超えて、新しい東京を求める」「これまでにない、見たこともない都政を進める」などと記者会見で述べている。
二 私は、三一日の当日、革新都政の会からの呼びかけで、開票時間午後八時の少し前に同会世話人らと一緒に、初めて鳥越候補選挙事務所(南青山)を訪問した。日曜日の夕方、梅雨明けで蒸し暑い中、自宅を出て同事務所を訪問するのは正直気が重かった。事前の種々の情報では敗色は濃厚であり、その見届けをする役になるからであった。他の世話人も同様で、口数は少なく、途中で、希望の町東京をつくる会(宇都宮氏)の選対会議に出席する予定の都政の会事務局に会ったが、元気がなかった。しかし、実際に鳥越事務所に行くと、普段着姿の若い人や中年の人がマスコミ以外にも相当数集まり、市民が自主的意思で応援に参加している印象で活気があった。開票直後、NHKが小池当確を報じたので、テレビで小池氏の共同インタビューを見た。「都民の声を生かす」「女性の立場で都政をする」「新しい東京をめざして改革する」など抽象的な言葉は並べたが、解散するはずの都議会とは協議連携する、オリンピックは積算根拠を出していただき都民の負担を明らかにする、知事の海外出張ではファーストクラスや高価宿泊施設ではなく合理的な範囲で調整するなど、内容が乏しく無難な言葉が並んだ。選挙戦では、鳥越氏は政策が明確ではないなどと批判攻撃されたが、小池氏も具体性は後退し何もないに等しく、一部で虚構までしているのにマスコミは黙認していた。また服装等のカラーが話題になりマスコミもこれを持ち上げていた。なお、翌日のテレビの小池氏出演の生放送などで見ても政策は、知事給与半減以外、抽象的な言葉が羅列されるだけであった。
三 開票後まもなく、鳥越氏の支援者への感謝と自らの力不足の挨拶が報道陣を前に行われ、推薦政党を代表して松原仁民進都連会長のお詫び挨拶があった。鳥越氏は、質問への対応を含め、参議院選挙の結果を見ての告示前二日の急な立候補表明のため「(政策など)準備不足であった」が徐々に勉強してそれなりに説明できるようになった、告示後の週刊誌報道は「事実無根で法的対処をしたが、選挙結果に影響与えた可能性は否定できないようだ」、「小池氏には雑誌対談で『核武装もあり得る』と発言したような重大な問題がある」、宇都宮氏とは告示前に会い協力をお願いし政策も多く一致している、選挙を終えても都政から離れるのではなく「待機児童対策等の公約を実行するかどうか新都知事を監視したい」、「野党四党などの共闘は都知事選後の衆院選挙でも続けて頂きたい」など、予想以上に力強く語った。松原氏の発言を含め、場の雰囲気としては、今後の共同のたたかいを発展させ得る希望を感じさせるものであり、参加者にとりわざわざ出かけた甲斐があった、と感じる内容であった。慣れない候補者活動で一番ほっとしているのは「私」です、という鳥越氏に対し、心からご苦労さんと言いたい気分で、これは共闘者への礼儀である。
四 得票を分析すると、参院比例では、野党四党で二四八万票、自公二八四万票におおさか維新・こころを加えても三三九万票であったものが、都知事選では、小池・増田で合計四七〇万票に伸び、鳥越は一三四万票にとどまった。得票率は、参院では、野党四党で四二%以上あったものが、都知事選では二二%くらい半分に落ち込んでしまった。小池の票には各党の支持者のうち、一九〜四九%が横流れし、無党派層でみると小池に五一%、増田に一七%、鳥越に一九%の投票割合であり、年代別の支持では、小池は年代と性別に万遍なく得票し、増田は三〇〜四〇代で振わず、鳥越は高齢層に支持が偏った、という(「朝日」)。これは、実際にビラ配りや支持拡大をしていたときの実感にもよく合う状況である。今後、予想される改憲国民投票で見るなら、どちらかと言えば、一つを選ぶ都知事選型の争いとなる可能性が高い。この点では、この「敗戦」から教訓を引き出すことが極めて重要である。
五 私個人の感想的な意見を述べると、次のように思える。
(1)野党四党と市民の共同の運動は、今回も成立したことで、在野の共同の力を参院選に引き続き発揮したことは疑いない。超短期戦(参院選の翌日から二一日間)で候補者の知名度が重要であるのは、自公も同じであり、あれだけのなりふり構わぬ組織戦をしたにもかかわらず、増田は、参院比例の「こころ」を含めた組織力二九五万が四割減になってしまい、この点で増田の知名度の低さが大きく影響を与えていることは疑いない。安倍首相自身が街頭での選挙応援には一度も入らなかったのも、このような情勢を見越して二股をかけたと推定される。実際の選挙の街頭演説で、鳥越応援で各党首らや著名な市民や各運動の担い手が並び訴えたことは影響力があった、と考える。仮に共闘ができずに、民進が抜けて共産・社民・生活などで宇都宮氏を推薦した場合、参院比例の合計で一〇一万にしかならず、前二回の都知事選の域(一〇〇万弱)を出ず、他の重要な要素もあるが、当選には遠く及ばないうえ、国政での今後の共闘の橋が立ち消えになる危険もあった。問題はむしろ、共闘を選んだことではなく、一足す一イコール三のはずの共闘が、なぜ一近くまで縮減されたのかの点であろう。
(2)候補者の人物像が、特に首長選で重要なことは言うまでもない。この点では、劇場型の小池氏に軍配が上がり、高齢で健康に疑問符が付き、老練な政治家のようなハッタリの効かない鳥越氏には、大きなギャップがあった。とりわけ、準備不足と論戦力の衰えが誰にも見える点を、健康問題とも結びつけて、「政策がない」「実行力があるのか」「任期途中で死んでしまうのではないか」などと攻撃され、本来、もっとも強いところで受身に回ったことは大きな痛手であった。そのうえに、一三年前の女性問題なる記事が繰り返し複数出回り、さももっともらしい悪罵がマスコミやネット上を駆け巡ったことは、重要な影響を与えたと推定される。私個人から見ると、名うての反共誌が一三年前に記事にもできず、女性の関係者と当時折衝があったにもかかわらず何事もなく終了していること自体が、事実の裏付けを欠く物語が独り歩きしていることを証明していると考える(仮に、そうでないなら当時、法的手段を含め、なぜ一定の社会的な解決がなかったのか、有名人相手にしているのに極めて不合理である。なお、文春と新潮の記事の内容には齟齬がある。)。いずれにせよ、これらの候補者人物像のため、鳥越氏の集票力に大きな陰りが生まれ、出馬当時の勢いが弱くなり、支持拡大では「宇都宮氏の方が良かった」などの声が少なくなかったのは間違いない。このような劇場型の選挙戦が、SNSの普及を含め、これからも多大の影響を与えることは多いと思われ、技術的な点でも候補者選びの点でも、教訓とすべき点であった。
(3)候補者個人の問題を離れて、これからの選挙戦の様相と言う点では、今回のように権力側が複数の候補者をたて多面的にマスコミを利用しながら集票力をフル動員し、総がかりで野党市民共闘に対し攻撃をかけてくる構図は、憲法改正の国民投票の前哨戦として見逃してはならないであろう。これは、命の奪い合いこそなく、古い形の弾圧事件ではないが、一種の権力が仕掛ける「戦争」であり、攻撃の弾は四方八方から飛んでくることになるであろう。それは共闘の気力と行動力を奪い、結果として運動側をばらばらにする危険をはらんでいる。この点では、様々な立場の人の共闘では、心を一つにするスローガンや重要な論点を一致させ、絶対にぶれないことが特に重要である。「安保法制は憲法違反で廃止」のスローガンは一例である。実際の選挙では、このようなスローガンが複数項目必要であろう。都知事選で一致する明確なスローガンが打ち出せたのか否か、疑問が残る。同時に一致点を深く掘り上げ、これを外部にわかりやすく発信し、支持を求める活動が肝要である。安保法制国会では、立憲主義・民主主義などの対案があった。劇場型の政治論戦では、相手方はマスコミを使い、攻撃点を数点に集中させ種々の形で発信させ、防戦一方に私たちを追いこむことを狙っている。そこでは「正確性」「論理性」「明確性」などの要件は不要であり、単純に攻撃で敵を叩くものであればよく、たとえば一方的に「政策が語れない野合だ」「ぼけ老人だ」「女性の人権無視だ」などの悪罵が飛び交うことになる。この種のネガティブキャンペーンにどのように反撃するのかも、これも新しい課題である。今回の都知事選で経験したのは、このような攻撃に対し、ごく一部と思うが、闘いの方向を見失い、バラバラにされた共闘側の姿である。今後、自由な議論で克服したいものである。
六 安倍首相は、都知事選の応援に出ない一方で投票日前日、おおさか維新の橋本徹氏らと会談し、憲法改正項目などを具体的に議論した。憲法九条改正を含め、すぐそこに、明文改憲の足音が聞こえている。今回の都知事選「敗戦」に学び、共闘の輪を正しく広げ、反撃の声を国民の間に大きく広げる運動で、逆襲しようではないか。


小説家永尾廣久の誕生(二)

岡山支部  山 崎 博 幸

ベストセラーの兆しあり
 先日、青年法律家協会岡山支部の会員約三〇名に「小説司法修習生」の購読をFAXで呼びかけたところ、たった二時間で一〇冊の注文が入った。花伝社から予め一五冊を取り寄せていたところ、現在では完売となった。この調子でいけばベストセラーになることは間違いない。
 倉敷民商事件の弁護団会議でもこの小説が話題となった。弁護団は全員この本を読んでいる。「小説のなかのラブ・ストーリーは永尾先生の実体験を書いたものだろうか?」とか、「教官宅の訪問は組織的にやられたものではないか。自分は一度も呼ばれなかった」「四〇期代でもおなじような青法協攻撃や教官の差別発言があった」など、様々な感想や意見が出た。こうした話題や議論を呼び起こすのは優れた作品の証しである。宣伝方法をもう一工夫すれば爆発的に売れるであろう。
激動下の司法修習生
 二六期の修習開始は一九七二年四月である。一九六九年から一九七二年にかけて猛烈な青法協攻撃が展開された。右翼雑誌の「全貌」が口火を切り、全国紙がこれに続き、最高裁事務総局、そして当時の佐藤内閣が総力を結集して青法協会員裁判官の攻撃に乗り出した。戦後司法の反民主主義的な転換をもたらす司法反動が吹き荒れた時代であった。この小説はこうした司法の激動期における司法修習生のリアルな姿を描いたものである。司法激動期の歴史については既に青法協の各種記念誌や鷲野忠雄元事務局長の「検証・司法の危機」(日本評論社)などの詳細な記録が残されていて、その全体像が明らかとなっている。しかし、この激動期の下で司法修習生は毎日何を学び、何を考え、どのような活動や運動をしていたのか、また教官の講義内容、教官による差別と選別の言動、教官宅の訪問等々、研修所の日常生活に至るまで細かく記録した資料はこの小説の他にはない。これは永尾さんだけがなしえた仕事であり、後にも先にも出ないだろうと思う。
 永尾さんは毎日書くことを日課とし、本を読んだり書いたりすることを生活の中心に置いている人であり、作家的資質と行動力を兼ね備えた世にも稀な人物である。しかし、会って話をするとまともで親しみやすい人であり、決して変人ではない。
それから四四年後の司法
 二六期の前期修習から四四年が過ぎた。四〇数年の歳月を経て、二六期約五〇〇名のなかから現在の最高裁判所長官(寺田逸郎)が選ばれた。検事総長はたしか二八期であり、その前の検事総長は二六期が二代続いた。つまり司法の激動期に官僚法曹となるべく選別育成され、その後実務に入って幾多の競争に勝ち抜いてきた人物がトップにいる。その下にエリート官僚がいるのであるが、裁判所、検察庁ともに現在の中枢にいるのは激動期以降の官僚ということになる。私の独断かも知れないが、激動期において構築された官僚法曹養成のシステムがその後も継続固定化し、その下で育成強化された分厚い官僚群が中心にいる、というのが現在の司法(検察も含めて)の状況だと思う。ということは、この小説は現在の司法の四四年前の原形を写し出していると見ることができる。私が特に永尾さんに肩入れをして推薦文を書いたりしているのはそのことを訴えたいためである。従ってこの小説は若い法律家はもとより、すべての司法関係者に読んでもらいたいと思うのである。同期の寺田最高裁長官に贈呈しようかとも考えている。国際的な批判にさらされている日本の人権状況などは、青法協裁判官の根絶政策をとった最高裁判所の責任である、という自覚を持ってもらう必要がある。日弁連も然り。通信傍受の拡大と司法取引に目をつぶって一部可視化を「一歩前進」などと評価するのは愚の最たるものである。国民の権利を犠牲にして「一歩前進」ということは断じてありえない。日弁連が対峙している相手方の勢力と力関係をあまりにも甘く見ているではないか。いまだに「一歩前進」などと言っている日弁連の先生方にはぜひこの本を読んでもらいたい。小説のなかの、検察教官の講義や発言部分を数頁読んだだけで重大な誤りに気づくはずである。少しでも反省したならば永尾先生に応分のカンパを送っていただいてもよかろう。
 最後に、青法協岡山支部では「小説司法修習生」の合評会を行う予定である。この内容は、迷惑でなければまた団通信に御報告いたします。
(注文先、花伝社、TEL〇三ー三二六三ー三八一三、FAX〇三ー三二三九ー八二七二)


人それぞれに

京都支部  荒 川 英 幸

 個人的な事情により、数年来、満足な活動が出来ておらず、申し訳なく思っている。団の五月集会や総会からも遠ざかって久しいが、二〇一四年の白浜五月集会の際は、和歌山の阪本康文団員が尽力してくれて、前日に同期の集いを持つことが出来た。入団した年の五月集会のことが思い起こされ、やはり団の活動が原点なのだと実感した。
 人生の旬
 京大文学部出身で前阪大総長・現京都市立芸大学長の哲学者鷲田清一氏は、「京都の平熱」(講談社学術文庫)一六七頁で、次のように書いておられる。
 「青年、壮年、熟年、老年・・。それぞれの季節(とき)にそれなりの旬があるはずなのに、旬は『盛り』に取って代わられた。元気の満ち溢れている季節、青年から壮年にかけてを人生のピークとし、そのあとは下り坂という、なんとも貧相な一直線のイメージで人生が描かれる。そしてそんな下り坂でも『元気』を(年齢不相応に)保っていることが、まるで理想のように語られる。『アンチエイジング』だとか、『サクセスフルエイジング』だとか。
 むかしのひとは、ほんとうの旬は、『盛り』のあとにくることを知っていた。消失の予感のなかでこそ旬がきわだってくることをよく知っていた。」
 若き日に連日のごとく活動をともにした友人が亡くなってから、自分は大きな喪失感の中にいる。世の中にこんな人間がいるのかと思うほど情勢分析と判断が鋭く、弁舌爽やかなるも、情に厚かった。被害者の切々とした訴えに、ともに泣いた日のことが忘れられず、彼がこの世にいること自体が心の支えの一つだった。当時の溌剌とした姿を思い描いて、病に冒されず、もっと生きられたならば、どれほどのことをなし得たであろうかという発想をしがちなのだが、まさに消失を覚悟する時期において彼なりに命を輝かせたであろう事実のあったことも知った。
 病身には旬がないとは言えないであろう。固有の条件下の個人史において節目となる年代や時期での、その人らしい心のあり方や振舞い、他者との関係性などが肯定的に集約された姿とでも言えようか。例えば、「孫パワー」で生きられる運に恵まれた人は、自己への執着から免れるとともに、捧げる対象が白紙の未来であるから、自ずと輝くのかもしれない。人それぞれに固有の旬があり、また、それに向かうプロセスがあると思う。
 鷲田氏が、芸術について「人びとの暮らしの根底で疼きつづけるということ」とし、京都市立芸大の使命を「芸術をつうじて、おなじ時代を生きる人びとの歓びや悲しみ、苦しみに深くかかわるということ、そしてどんな苦境のなかでも希望の光を絶やさないこと」と述べておられる(同芸大HP)ことにも感銘を受ける。団員も芸術家も心は同じである。
 打波川
 かってはマウンテンバイクまで使って北アルプスなどの沢を単独遡行し、イワナを釣っていた。単独遡行できることが自分のアイデンティティのように考えて、思い上がっていた。もっとも、北アルプス真川支流岩井谷では、流れの押しが強くて徒渉できず、早々と撤退を余儀なくされた上、下降中に転落して右手が血まみれになった。その岩井谷では、一昨年九月に京大山岳部の現役部員二名が徒渉中に流されて亡くなっている。
 その後、沢の荒廃への落胆、少欲知足の価値観への移行などから、遠征はもとより、釣る行為さえも減少したが、逆に釣果はアップした。
 ところが、二〇一三年五月、言葉を失う電話連絡を受けることになる。奥越の秘湯「鳩ケ湯」の若主人森嶋宏さんが打波川で亡くなったというのである。森嶋さん一家とは家族ぐるみの交流が続いていたが、宏さんは、宿での温和な態度とは裏腹に、打波川流域を知り尽くした山菜取り、魚捕り、山スキー等の達人であり、素手でマムシを捕獲する名人でもあった。事故は、山ウド採取の帰路に本流を徒渉中、雪解けによる突然の増水のためにバランスを崩し、巨岩がS字状に穿たれた中に流されて衝突・気絶したものと推測されているが、到底納得できるものでなく、「あの宏さんが打波で亡くなるのなら、もう沢や川には行けない」というのが実感だった。
 しかし、昨年、このまま釣り人をやめるのは忍びない気がして、宏さんの遭難現場に花と線香を捧げ、いつものように山の神様に祈ってから、打波川本流に入ると、ほどなく、魚体の張った尺(三〇cm)イワナがルアーに無造作にヒットした。打波川を忘れるなと宏さんが言っているようで、ありし日の宏さんと鳩ケ湯を偲び、山の神様に祈りながら打波川でキャストすることが、釣り人としての最後の立ち姿なのだと思った。
 身近な宇宙
 昨年引っ越した際、庭師に和風の庭を依頼したところ、庭木を中心にして杉苔(英語名ヘアキャップ モス)で楕円形に囲んだ島を前庭に四つ作ってくれた。
 杉苔は日本を代表する苔であるが、市中では、様々な環境が整ったお寺などの日本庭園において、巨大なコロニーを形成させ、庭師が管理すべき繊細な苔である。サイトでも「苔の中で一番難しい」「どうせ二年でダメになる」などと書かれており、知識のない素人には無理と言える。まして乾燥する前庭に杉苔を植えている民家など見たことがない。
 当然の結果として、たちまちのうちに雑草が繁茂し、半分ほどが枯死して壊滅した。頭にきた自分は、近隣住民から変人視されながら、日々、ピンセットで雑草や他の苔を駆除し続け、夜に水やりをした。遠近両用メガネまで新調した努力の末、枯死が阻止され、やがて新芽が出て、相当な部分で回復に転じた。少し自信を得た自分は、娘と手分けして、家の裏庭にも杉苔の苗を植え続けた。
 園芸など興味がなかったのに、庭師のおかげで杉苔オタクになってしまったが、細長い茎の先に魔法の国のとんがり帽子をつけた胞子体の出現、次々に発生する幼芽が身を寄せ合ったミニコロニー、杉苔を寝床とする様々な幼虫ー蟻ーハンミョウなどのハンターという食物連鎖など、日々、新たな発見と感動の連続であり、ミクロの世界で生命や宇宙を再認識する。フランス人の昆虫学者(彼は天竜川のザザ虫の佃煮を入れたタッパーを持ち歩き、それを肴に日本酒を飲む。現在はパリ在住)と双方の家族・友人ぐるみで付き合ってきたが、彼も固有の世界で発見と感動の中にいるのだと改めて理解できた。


部落問題の学習会に参加して

神奈川支部  岩 坂 康 佑

 平成二八年七月二八日、団本部にて、部落問題についての学習会が開催された。
 学習会では、今村幸次郎幹事長から、部落問題についてのこれまでの団の取り組みをご紹介いただいたのち、杉島幸生団員(大阪支部)より、部落問題の歴史、構造、同和行政、部落差別の解消の推進に関する法律案(以下、「法律案」という。)の問題点等につき、お話をいただいた。
 今村幹事長、杉島団員のお話のあとは、質疑応答が行われ、部落問題の現状や、地方自治体の同和行政、部落差別と他の差別問題との相違点、法律案の作成経緯、インターネットにおける差別的表現などにつき、活発な議論が交わされた。
 部落問題は、かつては社会的に大きな問題となっていたが、現在では部落出身者の混住が進み、部落出身者であるかどうかが社会的に問題にされにくくなってきている。
 それにもかかわらず、法律案は、「差別」や「部落」の定義も明示せずに、部落差別解消のための施策及び部落差別の実態にかかる調査を国が行うことを規定している。この法案が可決されれば、部落問題の存在する地域やその地域の出身者があぶりだされ、地部落問題が掘り起こされることとなりかねない。これは、部落問題の実情に逆行しているばかりか、かえって部落問題に悪影響を及ぼしうるものである。
 地域にもよるであろうが、若い世代の者は、部落問題にあまりなじみがなく、他者に対してその人の出身地域によって差別意識を持つという感覚がないと思われる。私も二十代であるが、部落問題を肌で感じることなく育ってきた。私の不勉強もあるが、今回の学習会に参加するまで、部落解放同盟や、同和行政など、部落問題に関する主要な事実・問題についてもよく知らなかった。法律案が成立すれば、私と同じような若い世代が、特定の地域とその地域の出身者に対し、「差別の対象になっているのだな。」という意識を持ちうることになる。これにより、新たな偏見や差別が生み出されかねないと感じる。
 学習会当日にも議論になったが、なぜ今、なぜ部落問題のための法律案を検討する必要があるのか、ということがはっきりしない。法律案の第一条(目的条項)には、「情報化の進展に伴って部落差別に関する状況の変化が生じていることを踏まえ」とあり、これはインターネットを利用した差別行為を指すものと思われるが、法律案はそうした新しい形態の差別行為に対応するための内容とはなっていない。立法事実に乏しいうえ、部落問題を掘り返すような法律を成立させることには、断固反対である。
 今回の学習会は、部落問題の歴史や実情を学ぶとともに、部落問題に限らない差別全般について、情報化社会における差別の問題についてなど、多岐にわたる事項につき考えることのできる貴重な機会となった。部落出身者の混住が進んでいるとはいえ、部落問題が依然として我が国に残存しているのも事実である。私の所属事務所のある川崎市内にも、部落地域が存在すると聞く。引続き、部落問題を学んでいく必要があると感じる。