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岩佐 賢次 *三重・鳥羽総会に集まろう!・三重特集・その四*
プレ企画へのお誘い その二
「原発訴訟の現在―脱原発訴訟と被害者救済訴訟の現状とこれからの課題―」
芦葉 甫 三重支部における活動状況
玉木 昌美 野党共闘を求める「市民の会しが」の活動報告
金井 克仁 靖国神社は「賊軍」を合祀できるるか(一)
後藤 富士子 「最低生計費」と「生活保持義務」(一)
大久保 賢一 加憲論についての疑問



*三重・鳥羽総会に集まろう!・三重特集・その四*

プレ企画へのお誘い その二
「原発訴訟の現在―脱原発訴訟と被害者救済訴訟の現状とこれからの課題―」

事務局次長  岩 佐 賢 次

 今年の総会プレ企画(一〇月二一日(土)の午後)は、三重支部企画に引き続いて、本部企画「原発訴訟の現在」を行います。運転差止仮処分・裁判の現状、裁判所の傾向や克服すべき課題について、脱原発弁護団全国連絡会での議論も踏まえて北村栄団員(愛知)に報告していただきます。また、被害者訴訟の現状と今後に向けた課題については、南雲芳夫団員(埼玉)に報告していただきます。今期における脱原発訴訟(運転差止仮処分)に関しては、大阪高裁(高浜原発三、四号機)広島地裁、松山地裁(伊方原発三号機)、佐賀地裁(玄海原発三、四号機)による仮処分却下という不当決定が相次ぎました。他方、被害者救済訴訟では、三月一七日に全国約三〇か所、一万二〇〇〇人以上の原告がたたかっている被害者救済訴訟のトップを切った群馬訴訟で前橋地裁は東電と国の責任を認めました。これに引き続き、総会までには千葉訴訟、生業訴訟の判決がでています。この流れの中で、現状の分析と今後に向けた課題について、議論が深められればと思います。
 今年の総会プレ企画は、三重支部企画、本部企画の二本立てで、まさに「脱原発デー」といえる企画です。全国各地の脱原発、被害者救済訴訟の弁護団で活動している団員はもちろん、全国の団員へプレ企画からの参加を強く呼び掛けます。ぜひ奮ってのご参加をよろしくお願いいたします。


三重支部における活動状況

三重支部  芦 葉   甫

 三重県内の団体からの講演要請、集会でのゲストスピーカー、デモ行進の際の見守り弁護などの活動は、支部の会員が随時実施している。その中でも、特筆するべきは、憲法カフェの実施である。
 「明日の自由を守る若手弁護士の会」が始めた憲法学習会であるが、当支部の若手会員が中心となって、憲法カフェの講師を務めている。
 例えば、鈴鹿市においては、村田雄介会員が二か月に一回のペースで憲法カフェを実施し、本年は、既に三回(二〇一七年八月二一日時点)が実施された。同月二六日に四回目の憲法カフェが実施される予定である。
 当職も、四日市、伊勢、松阪等で活動する団体から、不定期ながら、憲法カフェを実施している。共謀罪法案が国会の審議に入ったため、昨年よりも、講演依頼が多い。当職は、三月から六月までの間に、共謀罪をテーマにした憲法カフェを六回実施した。
 当職が、実施した憲法カフェのうち、比較的珍しいと思われる取り組みについて、いくつか紹介したい。
(1)中高生向けの憲法カフェの実施
 講演を行うと、概ね、
 “講演をした際、参加者の顔ぶれが、概ね同じ”
 “年齢層は、五〇代以降”
 このような状況が大半である。講師に近い年齢は、珍しい。
 これでは、せっかく始まった活動が、広がらないし、下火になることは否定できない。そこで、主催者と協議をし、中高生が参加するイベントの開催を企画した。「料理をして食べつつ、憲法学習を実施したら、人は集まるのではないか」というアイディアが出て、実施した。すると、当日には、初参加の方が複数いたのである。
 今後も、集客の良いイベントと憲法カフェを組み、少しでも、若い世代が参加してもらえるように、今後も取り組む予定である。
(2)図書館での憲法カフェ
 これまで、カフェ、会議室等で憲法カフェを実施してきた。
 ところが、ある団体から、「寺で憲法カフェを実施して欲しい。」という要請があった。一二月に講師のみ暖房設備がなく、修行僧のごとく憲法カフェを実施したが、参加者は、満員であった。憲法カフェ後に、参加者に聞くと、「図書館に憲法カフェの実施が張り出されていた。」というのである。
 そこで、当職は、「今度は、その図書館で憲法カフェが実施できたらいいですね。」と調子に乗って答えたところ、主催者が図書館と交渉を開始し、実現するに至ったのである。後で聞くと、図書館側も、憲法学習会を実施したかったようである。テーマは、新聞にも連日取り上げられていた、共謀罪についてであった。
 図書館は、作ったばかりか、非常にきれいであった。また、子どもらも大人も来館しており、参加数も多かった。今後も、不定期ながら、この図書館で学習会を実施することになっている。
 今後も、若い世代が、憲法問題に興味と関心を持つように、工夫を凝らして、憲法カフェを実施していく予定である。


野党共闘を求める「市民の会しが」の活動報告

滋賀支部  玉 木 昌 美

 「市民の会しが」は安保法制の廃止、立憲主義の回復、個人の尊厳を大切にする政治の実現を目的に幅広い市民が結集して、市民と野党の共闘を追求する運動を展開してきた。新安保法制に反対する運動のときには弁護士会が接着剤となって街頭宣伝、集会を開催したが、参議院選挙のときはこの会が接着剤としてまさに市民と野党の共闘を求めて多彩な運動を展開した。野党の訪問、県民集会の開催に向けた野党と共同の準備の会議、そしていくつもの集会の開催を行う中で野党共闘に向けた基盤作りに貢献し、野党統一候補を擁立して参議院選挙を闘った。「滋賀は勝つ」ということで、中野晃一氏や山口二郎氏らに滋賀県においでいただき、精力的に動いていただいた。参院選は敗れたものの、大きな共同が前進し、参院選後は、憲法、原発、教育の課題で各野党の代表者を招いて三回の政策討論会を実施し、政策を作成していった。また、二〇一七年八月六日、米原で「高浜原発再稼働には同意できません県民集会」(「原発のない社会へ 私たちは何ができるか」井戸謙一弁護士の講演とシンポ)を一六五名の参加で成功させた。さらに、民進党の代表選挙にあたり、八月二一日、三つの目的を実現し、安倍政治を終わらせる野党共闘の継続を民進党県連に要請した。
 そして、団の憲法討論集会よりも前に「市民の会しが八・二七憲法講演会」を開催し、渡辺治教授に「安倍改憲の正体 阻む力は何か。」と題して講演していただいた。「市民の会しが」の世話人会では、たとえば、伊藤哲夫氏の文章がすぐに紹介されるなど、それなりの学習や情勢討議をしているが、私が団の常幹で購入して読んだ『日米安保と戦争法に代わる選択肢』を紹介したところ、事務局長がこれを読み、「是非、渡辺治氏の講演を聴きたい。」と提案し、実施することに決定した。
 私は会の副代表として開会の挨拶をしたが、九条改憲を主張する安倍首相の嘘つきをもっと国民に伝えていくことを訴え、特に、安倍首相が北朝鮮危機を煽る中、安全保障問題について憲法の立場で対応していくべきであると強調した。
 渡辺教授の講演は、戦後最も大きな岐路にあたり、安倍改憲を阻むという課題、そして、安倍政治を替えるという課題がある、徹底した議論を行い、市民と野党の共同を進めていくほかはないと強調された。
 この集会には、民進党、共産党、社民党、新社会党の代表者がそれぞれ発言した。これまで参議院選以降も「市民の会しが」主催で、戦争法廃止、共謀罪反対、廃止等で街頭宣伝、市民集会を重ねてきたが、四野党の代表が参加して挨拶することは恒例という形を作ってきた。民進党の江畑県連事務総長は、代表選にも触れながら、「市民の会しがとは、去年七月から信頼関係が十分できているので一緒に行動できると思う。」「皆さんの思いを裏切らないようにがんばりたい」と挨拶した。共産党の石黒委員長は「誰が代表になっても野党共闘を前進させたい。」と訴えた。
 この集会に約一三〇名が参加したが、「聞きたかった話を聞くことができてすっきりしました。」「ものすごく力になる集会でした。」など大きな反響があった。
 「市民の会しが」は集会のたびにその詳しい内容を報じるニュースを作成しているが、今回は六頁立てで内容を報じている。一頁開会挨拶、二頁〜五頁講演内容と反応等、六頁政党代表挨拶、閉会挨拶である。
 共謀罪法が通った時にもすぐに抗議集会を開催し、北朝鮮のミサイル避難を子どもたちや保護者に教育委員会が学校を通じて連絡したときは、女性を中心に多くの市民がすぐに声をあげ、二つの教職員組合(統一した活動をしてこなかった)と合同の集会等を開催した。闘いの教訓は「市民はおかしいと思ったら声をあげ続けることが大切」であり、そうした姿勢が野党を共闘させ、政治を変えることにつながるといえる。
 「市民の会しが」の活動を通じて、憲法カフェ等をしている女性団体やこれまで関係の薄かった労働組合や団体関係者、民進党関係者ともつながりができた。人脈の拡大で信頼関係ができると共同の拡大につながる。「市民の会しが」は各選挙区でその活動を展開しようとしており、一区では「市民と政治をつなぐ@大津・高島の会」の結成・記念集会(西郷南海子さんの講演)を九月二四日に予定している。
 団の憲法討論集会では、渡辺治先生から、地域の共同の重要性を触れる中で、滋賀の活動を先駆的であると評価していただいた。今後の活動の展望を示してくれた渡辺講演を踏まえ、さらに奮闘していきたい。


靖国神社は「賊軍」を合祀できるるか(一)

東京支部  金 井 克 仁

今年は静かな靖国神社
 毎年、終戦記念日は「靖国神社」が騒がしくなる。時には首相が靖国神社を参拝し、マスコミがこれを大々的に報道する。賛否が渦巻く。首相が参拝するかしないかでも騒ぎになる。また毎年閣僚の誰かしらが参拝する。そして誰が参拝したとマスコミが報道する。最後に近隣諸国が(時には欧米等も)こうした参拝を批判する声明を出し、マスコミがこれを大きく報道する。恒例の風景である。
 しかし今年は少し違う風景であった。安倍首相は5年連続で参拝しなかった。とくに現役の閣僚は誰一人として参拝をしなかった。近年にない現象であった。安倍一強が崩壊した結果、世論を気にして自粛したのだろうか。今年の靖国神社は政治的には静かであった。
靖国神社の変質を憂う意見
 しかし神社界とりわけ靖国神社内には波紋が広がった。原因は、今年六月末に靖国神社の禰宜(NO3の職) を退任した宮澤佳廣氏が、八月一六日に『靖国神社が消える日』(小学館)と題した本を出版したからである。靖国神社の元幹部が書いたということで注目を浴びた。また内容も刺激的であった。
 神社本庁の教化部長、渉外部長、神道政治連盟事務局長、神社新報社編輯長等の要職を歴任して靖国神社に入った経歴からして分かるように、筆者は神道理論に通じている。本は市民らによるこれまでの靖国訴訟を批判する。A級戦犯合祀については、その手続がまずかったとは言うが、合祀そのものは賛成する。本は他にも遊就館、映画『靖国YASUKUNI』、鎮霊社放火事件、みたままつりからの露店締出しなどについても言及している。また「戦没者追悼施設」の建設阻止を主張する。さらには最近保守派の一部から言われはじめた「賊軍合祀」についても記述し、これに敢然と反対している。
 筆者は靖国神社創立の歴史等からその本質を述べ、靖国神社の変質を憂いている。そして本の出版目的を、靖国神社の公共性(筆者は国家防衛を公共ととらえる)を強調し、靖国神社の国家護持 (靖国の英霊祭祀に国が責任を負う仕組み) を実現することにあると言う。
賊軍の合祀を求める運動
 本でその合祀を否定される「賊軍」とは聞き慣れない言葉である。亀井静香議員や石原慎太郎元東京都知事らが、最近、靖国神社に対し「賊軍合祀」を主張している。本によると平成二八年一〇月一二日に亀井議員等が靖国神社の徳川宮司に賊軍合祀を訴えたとある。その主張の論拠は、例えば『SAPIO』(今年の九月号)の亀井氏の記事によれば、「『賊軍』と言えども、国を思想い、民を想い、天皇陛下を想って戦った誇り高き人たちであり、勝者・敗者の区別なく認められるべきである」とある。
 ところで「賊軍」とは何か。分かりやすく言えば、幕末・戊辰戦争・明治維新時代に戦死した新撰組の隊士、白虎隊士など幕府軍兵士や、西南戦争の西郷隆盛等で、明治政府に刃向かった人々である。ちなみに、賊軍の戦死者が靖国神社に祀られていない理由は団通信(一四八一号)に書いたので省略する。
 亀井氏らが「賊軍合祀」 を主張しだした真の目的は不明である。一見《死者の差別》に反対しているからのように見える。しかし、賊軍合祀によりA級戦犯合祀を薄め、中断されたままの天皇の靖国神社参拝を復活すること(事実上の靖国神社の国家護持)ではないかと、私は思っている。
靖国神社に賊軍は合祀できない
 問題は靖国神社に「賊軍合祀」できるかである。答えは否である。この点について、宮澤氏の本は次のとおり否定している。論理は極めて明快である。
 「『靖国の神』として祀られる資格と条件は、それこそ亀井氏の言うような漠然とした『国事に関係して死没した者』(国を想って死没した者)ではなく、朝命を奉じて国事のために死没した者(天皇のもとに統合された国家体制によってこの難局を乗り越え日本の国体護持に尽くそうとして死没した者)なのです。」(一三五頁)
 靖国神社の前身の東京招魂社は「天皇を中心とする新しい国づくりを進めるなかで朝命を奉じて身命を賭した同志の死を悼み、その御霊を慰め、その尊い行為を顕彰し、その志を受け継いでゆくことを誓う場所でした。」(一九八〜一九九頁)
 すなわち、靖国神社は一般的なイメージとされる、太平洋戦争等の戦没者を慰霊する施設ではない。天皇のために戦死した者だけを祀り、その死を「顕彰」し、その志を受継ぐことを誓う神社である。よって天皇の敵であった「賊軍」の戦没者を祀ることはあり得ないのである。賊軍を祀った場合、靖国神社ではなくなるのである。
(続く)


「最低生計費」と「生活保持義務」(一)

東京支部  後 藤 富 士 子

一 結婚・離婚と扶養義務
 民法七三〇条は、「直系血族及び同居の親族は、互に扶け合わなければならない。」と訓示的に定めている。また、民法八七七条一項は、「直系血族及び兄弟姉妹は、互に扶養をする義務がある。」と定め、同条二項では、特別の事情があるときには家庭裁判所が三親等内の親族に扶養義務を負わせることができるとしている。そうすると、配偶者は、「同居の親族」である限りにおいて道義的な「扶け合い」義務があるものの、同居していても民法八七七条の具体的な扶養義務は生じないことになる。すなわち、民法八七七条は、夫婦間以外の扶養義務者の範囲を定めているのである。
 一方、民法七五二条は、「夫婦は同居し、互に協力し扶助しなければならない。」と規定し、夫婦間の扶助義務を定めている。また、民法七六〇条は、「夫婦は、その資産、収入その他一切の事情を考慮して、婚姻から生ずる費用を分担する。」と規定しており、これが「婚姻費用の分担」である。しかるに、これら夫婦間の規定は、婚姻生活が平穏なうちは意識されることがなく、「別居」状態になって初めて顕在化する。すなわち、離婚が成立すれば「夫婦」でなくなるが、別居しても離婚が成立するまでは「夫婦」だからである。
 ところで、扶養義務には講学上「生活保持義務」と「生活扶助義務」があるとされている。「生活保持義務」とは、夫婦間や親の未成熟子に対する扶養のごとく、扶養することがその身分関係の本質的不可欠的要素であり、一体的な生活共同がその基盤にあり、扶養義務者が扶養権利者に自己と同程度の生活をさせる必要がある扶養義務をいう。これに対し、「生活扶助義務」とは、扶養をすることが偶然的・例外的現象であり、その他の親族間の扶養のごとく、扶養がなくともその身分関係が成立し、扶養の程度は扶養権利者が生活に困窮したとき、扶養義務者が自己の地位相当な生活を犠牲にすることなく給与し得る生活必要費だけでよい扶養義務をいう。
 そこで問題になるのが、夫婦が別居した場合の婚姻費用分担や離婚後の別居している子の養育費である。これらの場合、「一体的な生活共同」がその基盤に存在しなくなっている。とりわけ、離婚後は単独親権が強制されるから(民法八一九条)、ある日突然に妻が幼子を拉致同然に連れ去って離婚請求してくる事例が多発しているが、このようなケースでも「婚姻費用分担」=「生活保持義務」の問題になるのだろうか?また、こういうケースでは、離婚後の親権者は母となるが、居所も秘匿し、面会交流もできないのに、父は、「生活保持義務」の養育費を母に支払わなければならないのだろうか?
二 「兵糧攻め」から「婚費地獄」へ
 現行家裁実務では、離婚前の婚姻費用分担について、双方の収入だけを基準にし、しかも単年度で消費することを前提にして、「生活保持義務」を数値化した「算定表」で処理されている。そこでは、住宅ローンの支払は、婚姻費用分担について考慮されず、離婚に伴う財産分与の問題とされる。また、児童手当や児童扶養手当は「収入」にカウントされない。すなわち、二世帯に分離された婚姻家族の実際の資産や収支を度外視した金額が決められることになる。そうすると、夫にとって、最初から支払不能な金額であったり、自らの生活レベルを下げなければ支払えないことになる。
 かつては、夫が無職の妻に離婚を強要する手段として「兵糧攻め」をしたのに対し、無責の妻を救済するために、「生活保持義務」=「婚姻費用分担」を夫に命じたのである。
 これに対し、昨今は、ある日突然に妻が幼子を拉致同然に連れ去って離婚請求し、同時に婚姻費用分担請求をする。この場合、妻には、婚姻共同生活を維持する意思がないし、客観的にも婚姻共同生活の継続を不可能にしている。それにもかかわらず、妻は「算定表」での婚姻費用を請求し、調停委員会は「審判になれば算定表の金額になる」として、夫に合意を迫る。夫は、自らの家計状況に照らし、算定表の金額は支払不能であることを明らかにし、調停委員もそれは認めるのに、合意できないと審判に移行するのである。一方、妻は、家計状況を明らかにしようとしないから、夫は、できる限りの金額を支払おうとする意欲を喪失する。収入がない妻でも、結婚前の貯金などの特有財産や、実家に住んで家賃がかからないなどの事情は勘案されるべきである。ちなみに、自己破産申立事件で用いられる書式「家計全体の状況」では、「収入」として、「生活保護」「児童手当」「他の援助」の項目があげられているし、支出も実態が計上される。
 こうして考えてみると、このような妻が夫から「生活保持義務」=「婚姻費用分担」を得るとしたら、まるで「当たり屋」ではないか。それは、婚姻のモラルハザードにほかならない。したがって、このような場合、夫が自己の地位相当な生活を犠牲にすることなく給与し得る生活必要費だけ払えば足りる「生活扶助義務」とすべきであろう。(続く)


加憲論についての疑問

埼玉支部  大 久 保 賢 一

 自民党は、九条一項・二項を残したまま、自衛隊の設置に係る条文を憲法に書き加える案(以下、加憲論という)を検討している。その理由は、自衛隊に憲法上の根拠を付与し、自衛隊違憲論を解消するためだとされている。具体的条文案は示されていないが、一切の戦力や交戦権を否定している九条二項と矛盾する条文になることは避けられないであろう。
 私は、この加憲論について、根本的な疑問を抱いている。九条二項をそのままにして、自衛隊の設置に係る条文を加えることなどできるのかということと、仮にそのような加憲が行われれば、九条二項と自衛隊の矛盾は解消するのかという疑問である。
 政府は、九条二項は「陸海空その他の戦力」の保持を禁止しているが、これは自衛のため必要最小限度を超える実力を保持することを禁止するものであり、自衛隊は必要最小限度の実力組織であるから同項の戦力ではないとしている(政府答弁書・内閣衆質一六五・一七二号・平成一八年)。他方、「ジュネーブ諸条約にいう軍隊とは、武力紛争に際して武力を行使することを任務とする組織一般をさすものと考えている。…自衛隊は戦力には当たらないと考えているが、…自衛権行使の要件が満たされる場合には、武力を行使する組織であるから、ジュネーブ諸条約上の軍隊に該当する。」としている(政府答弁書・内閣参第一五五・二号・平成一四年)。
 結局、政府は、自衛隊について、九条二項の戦力ではないが、国際法上は「軍隊」であるとしているのである。その根拠とするのは、自衛隊も軍隊と同様に「武力を行使する組織」だということである。自衛隊=「武力を行使する組織」であり、「武力を行使する組織」=軍隊であれば、自衛隊=軍隊である。これは論理則である。そして、「陸海空その他の戦力」と「武力行使をする組織」とは同義である。
 政府は、自衛隊と「戦力」とを使い分けているが、自衛隊は「武力を行使する組織」であり「軍隊」であることを認めているのである。そして、「陸海空その他の戦力」とは「武力行使をする組織」であるから、自衛隊は、憲法九条二項と整合しないことになる。政府の答弁書の論理を詰めていけば、このような結論になる。
 なお、付言しておけば、国際法上は軍隊であるが、憲法上は軍隊ではないなどという論理はそもそも「二枚舌」・「ダブルスタンダード」的な無理筋である。
 そうすると、九条二項で一切の戦力を放棄しながら、「武力を行使する組織」すなわち軍隊を持つという憲法規範に改めることは、論理的に成り立たないことを明文化することになる。すなわち、日本国憲法に、九条二項では「武力を行使する組織」を否定し、新たな条文ではそれを肯定するという両立しない規範が前後して規定されることになるのである。論理的に成り立たない規範を制定することは、憲法改正権の限界以前の問題であろう。規範としての体裁をなさなくなるからである。
 衆参両院は、このような改憲発議はすべきではないし、憲法改正権者である国民は、絶対にこのような選択してはならないであろう。私たちは、そのような発議が行われないようにしなければならない。
 そして、このような改憲発議が行われ、国民投票で可決され、公布されたとすれば、そんな憲法規範を持つ日本という国家を、諸外国はどのように受け止めるであろうか。また、アジアの民衆は、どのように見るのであろうか。想像するだけでも恐ろしくなる。
 諸外国は、なぜ、日本人は論理的に矛盾する憲法規範を持つことができるのだろうか、という疑念をもつであろう。結局、日本は「軍隊」を持つのか持たないのかどっちなの、という疑念である。そして、アジアの民衆は、アジア太平洋戦争での加害の反省はどこに行ったのだろうかと不信の念を抱くであろう。日本はまたいつか来た道に戻ろうとしているのではないかという不信である。
 元々、自衛隊はその発足の時から憲法との矛盾が指摘されてきた。その矛盾を解消したいと考えるのは、無理もない発想だとは思う。だから、このような提案が行われているのであろう。しかしながら、このような加憲が行われれば、九条二項と自衛隊の矛盾は解消されるのであろうか。私は、その矛盾は解消されるどころか、むしろ顕在化させることになると考えている。なぜなら、これまで、九条二項の解釈で処理してきたものを、二項をそのままにして、新たな条文を設けるということは、九条二項の解釈ではなく、条文間の衝突を招くことになるからである。換言すれば、自衛隊の合・違憲は、解釈のレベルで、したがって、政策選択や判例や学説のレベルで処理されてきたけれど、明文化されれば、相互に背理する他の条文との整合性を説明しなければならなくなるのである。これは、解釈の域を超え、無理を通して道理を引っ込ませることになるであろう。現在以上の詭弁の世界が展開されることになるであろう。
 「武力を行使する組織」を憲法上の存在にしたいのであれば、このような「加憲」という手法ではなく、九条二項を廃止したうえで、「国防軍」の設置を求めるべきであろう。私は、そのような改憲にも反対するものではあるが、それは措いておこう。当面、問題は、「加憲」という手法だからである。
 私は、「加憲」という手法は、単に姑息というだけではなく、政府答弁書からしても没論理的で、国際法との整合性も欠き、日本国憲法制定の背景事情を無視することになると考える。この様な手法は、決して採ってはならないものであろう。憲法の規範としての意義を根底から否定することになるし、没論理というのは政治の手法としても禁じ手だからである。自衛隊すなわち「武力を行使する組織」の合憲化を希望する勢力は、正々堂々とその主張を展開すべきであろう。

(二〇一七年九月一四日記)