過去のページ―自由法曹団通信:1627号      

<<目次へ 団通信1627号(3月21日)


川岸 卓哉 過労死対策を求める司法の宣言過労運転を原因とする通勤災害に安全配慮義務を認める
河村 学 労働契約法二〇条を活用した運動を!
〜日本郵便西日本事件大阪地裁判決〜
松島 暁 *改憲阻止・特集*
専守防衛論とどう向き合うか
―護憲的改憲論批判・再論
鶴見 祐策 「消費税を上げずに社会保障財源三八兆円を生む税制」(大月書店)の購読を勧める。
大久保 賢一 南北首脳会談はあってはならないことなのか
―毎日新聞社説に対する批判―



過労死対策を求める司法の宣言過労運転を原因とする通勤災害に安全配慮義務を認める

神奈川支部  川 岸 卓 哉

一 過労運転を原因とする通勤災害に安全配慮義務を認める
 二〇一四年四月二四日、株式会社グリーディスプレイで就労していた渡辺航太さん(死亡当時二四歳)が、長時間不規則労働の末に帰宅途中に単独バイク事故を起こし死亡したことは安全配慮義務違反であったとして、横浜地方裁判所川崎支部に損害賠償請求を提訴した事件で、本年二月八日、横浜地方裁判所川崎支部は、勤途上の過労運転事故を防ぐ安全配慮義務を認定したうえで、約七六〇〇万円の賠償、謝罪及び再発防止を約束させる和解決定をし、これを受託し解決に至ったので報告します。
 裁判所は、被害者が長時間労働、深夜早朝の不規則勤務による過重な業務によって、疲労が過度に蓄積し顕著な睡眠不足の状態に陥っていたことが原因で、居眠り状態に陥って、事故死するに至ったことと、会社が原付バイクによる出勤を指示・容認していたことを認定しました。その上で、裁判所は、「使用者は、その雇用する労働者に従事させる業務やそのための通勤の方法等の業務内容及び態様を定めてこれを指揮監督するに際し、業務の遂行に伴う疲労や心理的負荷等が過度に蓄積したり、極度の睡眠不足に陥るなどして、労働者の心身の健康を損ない、あるいは労働者の生命・身体を害する事故が生じることのないよう注意する義務(安全配慮義務)を負うものと解するのが相当である」と判断しました。これまで、通勤帰宅途上の交通事故は、事業者の業務指揮命令外で労働者の自己責任の範囲とされ、事業者の安全配慮義務違反が問われることはほとんどありませんでした。労災認定上も、「通勤災害」は通勤経路であれば労災認定されますが、事故の背景にある過労実態について調査されることはなく、事業者も対策を怠ってきました。本件は、通勤の方法についても、事業者の安全配慮義務の範囲を明確に拡張した点で意義があります。
 加えて、和解では、会社は再発防止策として、一一時間の勤務間インターバルを就業規則に明記すること、男女別仮眠室の設置・深夜タクシーチケットの導入など模範となる内容を約束しました。
二 「働き方改革」のなかで過労死対策を裁判所が宣言
 本件は、裁判長が公開法廷で三〇分以上にわたり、和解勧告を読み上げるという異例の対応がされました。以下一部引用します。
 「現在、あらためて「過労死」に関する社会の関心が高まっており、「過労死」の撲滅は、我が国において喫緊に解決すべき重要な課題であり、「過労死のない社会」は、企業の指揮命令に服する立場の従業員や、その家族、ひいては社会全体の悲願であるといえよう。これを達成するためには、「過労死」の防止の法的及び社会的責任を担うそれぞれの企業において、「働く人の立場・視点に立った『働き方改革』を推進して、長時間労働の削減と労働環境の誠意に努めることが求められていると思われ、そのような社会的機運の高まりがあると認められる」「本件の悲惨さと、大学卒業後に未来を絶たれた被害者の亡航太の無念さ、その遺族である原告らの悲痛な心情と極度の落胆と喪失感に思いを致すとき、社会的な意義をも有する民事訴訟を担当することのある裁判所においても、無視することは許されないと思われるのであり、当裁判所は、本件事故に係る本件訴訟の解決の在りようについて、真摯に、深甚に、熟慮すべきであると考えるところである」「亡航太の地球より重い生命を代償とする貴重な教訓として」「被告が、むしろ、本件を契機に、多数の従業員を擁する企業として、「過労死」を撲滅することを約し、二度と「過労事故」を生じさせないことを宣言して、社会的責任を果たしていく、在るべき企業の範たるものとなり、その先駆けとして、今後も、被告における長時間労働を削減し、労働環境の整備を実行し、これらを継続していくことが望まれるのであり、期待される」「亡航太の遺志に沿うもように思われるところであり、慰霊のための何よりの策となると考えられるのである。」
 裁判所の読み上げたこの和解勧告は「働き方改革」のなかで司法として過労死対策を宣言したといえるものです。この間の過労死の社会問題化や、遺族原告の訴え、多くの支援者の運動がなければここまで司法が良心を覚醒させることはなかったといえ、大衆的裁判闘争の重要性を感じました。
三 厚生労働省へ過労運転事故対策を求める申し入れ
 今回の和解を踏まえて、三月一日、原告・弁護団と支援者は、厚生労働省へ過労運転事故対策を求め、@通院災害が過労運転が原因となっていないかの実態調査A勤務間インターバル規制の法制化B事業者に対して過労運転防止策の指導徹底を申し入れました。
 今後、過労死、過労自殺に加えて、潜在する過労事故についても、過労死の一類型として対策が進むことが求められます。


労働契約法二〇条を活用した運動を!

〜日本郵便西日本事件大阪地裁判決〜

大阪支部  河 村   学

一 はじめに
 労働契約法二〇条をめぐっては、二〇一三年四月一日の法施行後、いくつかの下級審判決が出されてきたが、うち二つの事件(長澤運輸事件、ハマキョウレックス事件)について、最高裁は、本年四月二〇日と二三日に弁論を開くと決めている。
 早晩、最高裁が本条に関し初判断を行うことになるが、この条項を労働者の運動に役立つものにできるか否かは、むしろ現在及び最高裁判決後の取り組みにかかっているといえる。
 本稿で紹介する、日本郵便西日本事件判決(大阪地判平三〇・二・二一)は、裁判所を利用する運動の一つの到達である。
二 事案と判決の内容
 本件で問題としたのは、日本郵便の外勤業務に従事する労働者(各戸に郵便配達をしている労働者等)が、正社員か、期間雇用社員かによって、業務内容は全く同じであるにも関わらず、著しい労働条件の格差があるという点である。
 問題とした労働条件は多岐にわたるが、大きく分けると、@勤務をしたことに伴う手当(外務業務手当、郵便外務業務精通手当、年末年始勤務手当、早出勤務等手当、祝日給、A夏期・年末手当(賞与)、B福利厚生的手当(住宅手当、扶養手当)、C休暇(夏期・冬期休暇、病気休暇)の各相違である。
 この主張に対し、大阪地裁は、@のうち年末年始勤務手当とBの手当の相違を不合理と認めた。最初のものは、年末年始に勤務した正社員には、一日四〇〇〇円又は五〇〇〇円の手当が出るが、期間雇用社員には全く出ないというものである。Cについては確認の利益がない(損害賠償できる)という理由で却下した。
 この点、ほぼ同一事案の先行した判断である日本郵政東日本事件判決(東京地判平二九・九・一四)は、年末年始手当について正社員であれば支給された手当の八割相当額を、住宅手当については六割相当額を損害と認定しており、扶養手当も含め全額を損害と認定した本判決は一歩前進と評価できる。なお、東京地裁判決は、Cについても期間雇用社員に全く付与しないというのは不合理であると認定している(賠償請求していないとして結論は棄却)。
三 判決の問題点と今後の取り組み
 本判決には、ここには到底書き切れない事実認定上、法解釈上のさまざまな問題があり、はっきり言って、時代に遅れた裁判所の、さらに遅れた判断ではある。
 ただ、それでも判決が、結論として、業務関連手当の一つや住宅手当・扶養手当の相違を不合理と認めたこと、その相違の全てを損害と認めたことの意義とその影響は極めて大きい。「非正規」とされる多くの労働者が、何の合理性もない格差に苦しみ、あたかも社会的身分であるかのように格差を当然視されてきたのだから。
 最高裁においていかなる判決が出ようとも、均等待遇への道をさらに広げなければならないし、そうした社会に変革しなければならない。

 かである。Aは、両者の間で支給率が大幅に異なり、BCは期間雇用社員には全く認められていない労働条件である。
 なお、本件では手当等に絞った請求となっており、基本給や他にも存在する労働条件の格差をすべて争っているわけではない。


*改憲阻止・特集*

専守防衛論とどう向き合うか

―護憲的改憲論批判・再論

東京支部  松 島   暁

国民の多数意見は「専守防衛論」
 松竹伸幸『改憲的護憲論』(集英社新書)によれば、「九条と専守防衛の自衛隊の共存」が国民世論であり、護憲派の多くも「九条と専守防衛の共存」を受け入れているのだという。
 そこで護憲派の多くが受け入れているという「専守防衛」というのはどのようなものなのか、その歩んできた歴史と経緯を確認したうえで、「専守防衛」が受け入れられている要素、「専守防衛」論を積極的に主張する人々の覚悟と「専守防衛」論の将来、そして「専守防衛論」に対する私たちの向き合い方、これは国民世論に対する向き合い方でもあるが、それらについて検討してみたい。
専守防衛とはどのような考え方か
 「専守防衛」というのは、相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢をいうと定義され(防衛白書)、安全保障法制=戦争法が成立した現時点においても、わが国の防衛政策の基本に位置付けられている。
 「専守防衛」という言葉が登場するのは、昭和三〇年(一九五五年)七月の杉原荒太防衛庁長官の国会答弁においてである。前年に発足した自衛隊には、陸自や海自に加え、米軍からのF86Fセイバー戦闘機の提供を受けた空自が新たに創設されたが、この航空戦力を有する部隊が九条のもと許されるかが問題となった。この疑問について、杉原長官が、「決して外国に対し攻撃的・侵略的空軍を持つわけではない。もっぱら日本の国を守る。もっぱらの専守防衛という考え方でいくわけです」と答弁したことに始まる。
 その後、しばらくは「専守防衛」は登場せず、昭和四五年(一九七〇年)に長官に就任した中曽根康弘防衛庁長官が、国会答弁で「専守防衛」を頻発(任期中三三回も答弁で使用)、また、中曽根長官の肝いりで発行されたわが国初の防衛白書に「専守防衛」の記載が登場し、現在に引き継がれている(以上は、等雄一郎「専守防衛論議の現段階」(レファレンス平成一八年五月号)による)。
 この経緯で明らかなように、「専守防衛」は、憲法九条のもとにおける自衛隊、とりわけ空自を容認し、これを正当化する必要から生まれた概念=「弁明の具」であった。少なくとも敗戦後の約一〇年間は「専守防衛」など存在せず、「無防備」国家だったのであり、「戦後七〇年間ずっと専守防衛だった」というのは不正確である。
なぜ「専守防衛」が支持されるのか
 その出自が「弁明の具」であったとしても、『改憲的護憲論』がいうように、国民世論の多数派は「専守防衛」論であろう。ではなぜ「専守防衛」が国民の多数から支持されるのか、その理由は人により一律ではないが、以下の要素があるのではないか。
 @(自己・自国防衛意識)他国から武力攻撃された場合に無防備では心許ない。防衛力を持つことで不安を解消できるという、ある種の漠然とした安心感。
 A(愛国主義・ナショナリズムの心情)他国がわが国を侵略した場合、これを武力により排除するのは当然であり、座して侵略を受け入れるわけにはいかない。
 B(正義感・道徳的優越性)攻撃的ではなく、あくまでも防衛的で抑制的である点で、正義にもかない倫理的にも正当化できる。
 C(横並び意識)世界のほとんどの国は防衛力・軍事部門を持っており、防衛力保持は世界標準にも合致。
 D(他国への配慮)攻撃的ではなく防御に徹する点で、他国への脅威を減殺されるし、近隣諸国へ安心感与えられる。
 E(立憲意識)憲法は守らなければならず、九条のもとでは、自国防衛に限定されてはじめて合憲といえる。
 前記の等雄一郎論文は、専守防衛について、「憲法第九条を根拠としつつ、それに基づく諸政策に従って演繹的に導かれた概念という側面と、その時々の我が国の安全保障環境に適応しようとして実践の積み重ねの中から経験的に総合されてきた政策概念という側面の二面性を有している」という。私流に理解すれば、専守防衛には「専守」と「防衛」という二つの側面があり、論者によって「専守」に力点を置くか「防衛」を重視するか、異なる二つの傾向が併存している。「防衛」を重視するのが@AC、他方、BDEは「専守」に力点を置いていると思われる。つまり「専守防衛」論は、防衛(武力装置保有)と専守(倫理的道徳的)の「良いとこ取り」の枠組みであるがゆえに、様々な色合い傾向の人々から幅広く支持されているともいえるのである。
国民世論は変動し、分解もする
 しかし今現在、「専守防衛」が多数派だとしても、今の国民世論を固定的に考えて護憲戦略を構築することがはたして適切なのか。世論は固定的ではないし変動する。現時点において多数派である「専守防衛」の世論も変化する。北朝鮮の核とミサイル、中国の軍事的膨張・拡大を前に変わらざるをえない。問題は、いかなる方向に変わるのか、その方向性であるが、「専守防衛」論は、「専守」と「防衛」をめぐって二方向に分解、二極化せざるをえないと私は考える。
 『改憲的護憲論』の最大の誤りは、「専守防衛の自衛隊を国民世論が支持している」との命題を不動の前提とし、その前提からすべての立論を組み立てている点にある。しかし、国民世論は、この国を取り巻く環境の変化と私たちの運動によって変わらざるをえないし、変わりうるのである。
改憲派・国防派からの「専守」防衛論者への問いかけ
 国防論者(九条二項を削除し、自衛隊を国軍として認知、普通の国家たらんとする立場を、仮にこう呼ぶ)は、「専守防衛」という概念は、軍事用語としては存在しないし、相手方からの攻撃を待ったうえで、最小限の抵抗しかしないなどという戦略は、軍事的には非合理きわまりなく、軍事戦略としてはありえないと主張する。
 政府がいうような敵国領土への攻撃も含める専守「防衛」ではなく、敵の攻撃に対し自国の国境線・領土内での軍事行動に限定する護憲派(?)の「専守」防衛論においては、当然ながら、日本国内が戦場となることを想定せざるをえない。この国の歴史上、広島・長崎の原爆、東京大空襲をはじめとする本土空襲はあっても、自らの国土で地上戦を戦った経験を、沖縄を除いてもっていない。沖縄戦では、住民の四人に一人が、場所によっては二人に一人が亡くなっている。専守防衛であるがゆえに、戦争になればこのことを覚悟せざるをえない。国防論者は、専守防衛論者に対する批判としてこの点を強調し、この指摘は正しいと私は考える。
究極の専守防衛戦争=ベトナム戦争
 ある意味、究極の「専守防衛戦」を戦ったのは、ベトナム戦争である。フランスやアメリカからの武力攻撃(武力介入)に対し、「独立と自由ほど尊いものはない(ホー・チ・ミン)」として、自国の領土内で武力を持って戦い抜いたのがベトナム戦争である。このホー・チ・ミンの言葉について、『改憲的護憲論』は、「独立」や「自由」という言葉はあっても「平和」が使われていないことに注意せよ、としたうえで、「平和が一番尊いなら、独立戦争をしないという選択肢もあった。(しかし、それは)アメリカの支配を受け入れる平和、いわゆる『奴隷の平和』という選択肢」だという。
 反面、ホー・チ・ミンらの選択は、日高六郎のいう「ベトナム民族玉砕の悲劇」につながりかねなかった決断でもある(もちろん日高は「私はベトナム民族の指導者達が、戦争継続よりも、民族玉砕の危険を回避する道をさぐるべきだったと考えるのではない。私が強く言いたいのは、このようにも残虐な戦争をベトナム民族に強要したアメリカ国家の責任を問いたいということである」と続けているのであるが)。
問題は専守防衛論者の覚悟
 『改憲的護憲論』がベトナム戦争を評価するのは、先述のA愛国心ないしナショナリズムの心情によるものであろう。しかし、そこには日高のいう民族玉砕の危険やベトナム民衆が戦争中に受けた人的犠牲(三〇〇万人の戦死傷者)や物的被害、今も残る枯れ葉剤の後遺症などへの目配りはない。
 しかし、ここで私が問題にしたいのは、ベトナムの指導者達の選択が正しかったか否かではない。私が問いたいのは、沖縄戦や本土空襲同様の犠牲が想定されても、相手方が攻撃した場合にはじめて、領土内で戦うことを国民に強いる覚悟が、専守防衛論を主張する人々においてあるかである。
 領土・領海・領空での被害が発生するくらいなら、先制的に敵基地を攻撃し敵の武力を無力化する、敵地で武力行使することで国土内での被害発生を最小限にするという誘惑、国民的要望があってもこれを断ち切り、専守防衛に徹するという覚悟をもって、自らの主張を展開しているのかである。
「だれの 子どもも ころさせない」ただし
 「安保関連法に反対するママの会」の合い言葉は、「だれの 子どもも ころさせない」であるが、専守防衛論者からすると、この言葉については「だれの 子どもも ころさせない。ただし、領土内での防衛戦争の場合は除く」と言わなければならない。
 また、専守防衛論が正しいと主張する人々は、その防衛戦争のために、自分の子や孫が自衛部隊の一員となることも覚悟をしたうえで主張しているのだろうか。自分や自分の親しい身内は安全地帯に身を置き、それ以外の誰かが代わって、専守防衛戦争を担ってくれるはずだなどという無責任な主張が許されるわけはない。
 さらには、専守防衛戦争を遂行する部隊=自衛隊を肯定する以上、当然に、交戦規定や規律維持のための制度(『改憲的護憲論』はこれの必要性、軍法会議に変わる特殊な裁判を主張する)が必要となるし、その部隊を志願者によってのみでは充足できなければ強制的充足=徴兵制も視野に入れざるをえない。(国防論者からは、専守防衛に徹しようとすれば、現在の自衛隊二五万人体制ではとうてい足りないと主張されている。)
 自国領土が戦場となり、それに伴う多大な犠牲が生まれようとも、場合によっては民族玉砕の危険があろうとも、独立と自由のためには専守防衛戦争を戦い抜くのだ、そのためには自分自身、あるいは自らの子や孫を差し出すことをも厭わず、徴兵制の受け入れも含め自衛の部隊を組織するのだということを覚悟したうえで、それでも専守防衛を堅持するのだというのであれば、それは一つの傾聴すべき見解として、私は敬意を表する。しかし、そこまでの覚悟をもって専守防衛論を唱えたり護憲的改憲論を主張する論者に出会ったことがない。
誘惑にさらされる専守防衛論
 団通信一六二一号で、大阪の小林団員は、矢崎団員の提起を受けて、「『本気』が、『殺すくらいなら殺される、という凄まじい覚悟』というなら、僕にはそんな覚悟は全くない」と応じた。しかし、「覚悟」という点からは、専守防衛の立場において求められる覚悟も、非戦平和を唱える場合のそれも、さほど大きな違いはない。人的犠牲が確実に想定される分、前者の覚悟の方がより厳しいものであるかもしれない。
 「専守」防衛などと格好をつけず、普通の国の軍隊を容認し、軍事は自衛隊という他人に委ね、出来るだけ国土に被害が及ばないよう、先制的だろうが他国の領土だろうが、軍事合理性にしたがって適切な対処、有効な軍事行動を許すというのが、最も覚悟を要しないのかもしれない。その意味では、専守防衛論は、純粋国防論へ移行する誘惑(二極化の危険)に常にさらされている。
専守防衛の世論とどう向き合うか
 国民の大多数が、覚悟の要らない道を選択するというのであれば諦めるしかないのだが、この国の人々の平和意識は、まだ捨てたものではないと思う。そこで多数派=専守防衛論といかに向き合うかである。
 @の漠然とした不安感、Aのナショナリズムの心情、Cの横並び意識等に対しては、国家間の紛争を武力によって解決しようとすれば、仮に防衛戦であったとしても、双方に癒やしがたい戦禍を生むこと、逆に、防衛の必要性を第一義的に優先すれば、安心感を求めて先制攻撃や他国への侵略(かつての防衛圏構想)に踏み出す危険を訴え、防衛意識の自己増殖増大の危険を批判し極力その抑制を求めることになる。他方で、Bの正義感や道徳観、Dの戦後築き上げてきた他国からの信頼、Eの立憲主義こそが正しく堅持する価値であり政策であると激励しなければならない。
 そうだからこそ、私たちは、専守防衛という多数派の世論にこの身を埋没させてはならず、また、『改憲的護憲論』をはじめとする亜流改憲論者の発する耳触りの良い言説に惑わされることなく、非戦平和を堅持し、その立場から、専守防衛の国民世論に対し、「防衛論」への傾斜を戒め、その膨張の抑止を求めるとともに、「専守」の心情を励まし、非戦平和の陣営に加わることを求めていくべきである。

(二〇一八年三月一一日記)


「消費税を上げずに社会保障財源三八兆円を生む税制」(大月書店)の購読を勧める。

東京支部  鶴 見 祐 策

一 増税は要らない
 今の政治は誰のためか。「税金」の集め方(歳入)と使い方(歳出)を知るのが最も近道と思う。
 安倍政権は消費税の負担拡大を目指す。国の厖大な借金を減らし社会福祉を維持し次世代の育成にはこれしかないという。庶民の不満をそらし諦めさせる宣伝に懸命なのだ。
 しかし嘘だ。増税なしで福祉財源の確保が十分に可能なことを表記の本は教えてくれる。その根拠と数値で具体的に示されている。
 申告期を迎えて国税庁に抗議のデモが集中している。学習会では税金の無駄遣いと「モリ・カケ」に象徴される行政の私物化が話題となる。団員の多くがそれを経験していると思う。
二 怒りを呼ぶ不公正な税制
 「バカバカしい」「税金など払えるか」との怒りの声を聞く機会も多くなった。
 昨年の春に安倍政権は「煽動罪」を税法に編入した(通則法一二六条)が、今日の事態を予想した故の異形の立法と見るのは穿ちすぎだろうか。
 この本は、日本の名だたる大企業がいかに巨額の税金を免れて内部留保を貯めこみ、そのツケを消費者、労働者、中小零細業者など勤労市民層に負担のしわ寄せを強いているかを論証している。その特長は、公開された政府関係の資料等を駆使して克明に裏付けている点にある。
三 大企業向けの減免税
 例えば所得金額と法人税額の負担割合の比較がある。中小企業(資本金一億円未満)は二〇・六%、中堅企業(一億円超一〇億円未満)は二二・七%、大企業(一〇億円超+連結法人)は一一・三%だ。カラクリは特別措置法だ。財界による政治献金の見返り「政策減税」の累積と恒久化である。「隠れた補助金」と呼ばれる。加えて「受取配当益金不算入」がある。今や大企業はホールディングスの花盛り。無数の子会社や関連会社を抱えて配当の旨味を満喫している。
 トヨタ自動車が二〇一二年までの五年間に九三七八億円の利益をあげて株主に一兆五四三億円を配当しながら、この間の法人税を一円も納めてなかった。
 社長自身が「私が就任して以来払ったことがない」と語って有名になった。
四 金持ち優遇の税制
 高額所得者や資産家の税制上の優遇も見過ごせない。金融資産・株取引の儲けが分離課税で一律の低率なのだ。二〇一三年に財務省が示した説明資料が衝撃的だった。所得金額が一億円を超えると税の負担率は下落の一途をたどり所得一〇〇億円を超えても一一・一%に抑えた。殆どが株取引(九三・七%)のためだ。厳しい批判を浴びて政府は負担率を二〇%(国税一五・地方五)に改めたものの不労所得の優遇は変わらない。その他いろいろ。格差の拡大に拍車がかかり、税金の再分配機能は失われて既に久しい。
五 不公正の是正で財源が得られる
 これらの不公正税制を根本から改めれば、消費税は要らない。増税しなくとも社会保障財源三八兆円が得られる。これが名前の通りこの本の中身である。
 書出しにこうある。「『高い』『取られるばかり』『タックス・ヘイブンとか、大金持ちばかりが得している』―税金とその仕組みに、不満や疑問をもっている人は多いと思います。でもどこがおかしいのか、何が不公平なのか、詳しいことがわからない、という人が大半ではないでしょうか」「しかし、日本の税制がどのようなものかについて基礎的な知識をもつことは、大人の教養として必須だといえます」「日本国憲法にもとづく税のあり方とはどのようなものか、また、公平な税制を実現するためのポイントについて、大枠をつかんでおきましょう」と。
六 税金を学ぼう
 読んで私も蒙を啓かれる思いがした。勤労市民層に接する団員には、様々な相談や学習に役立つ手近な文献としてこの本を推奨したいと思う。
(問合せ先・「不公正な税制をただす会」あるいは「株式会社大月書店」電話〇三―三八一三―四六五一・定価一三〇〇円+税)


南北首脳会談はあってはならないことなのか

―毎日新聞社説に対する批判―

埼玉支部  大 久 保 賢 一

 毎日新聞二月一一日付社説は「平和攻勢に惑わされるな」と題されている。そこでは、金与正北朝鮮特使の南北首脳会談の提案は、「筋の悪いくせ球だ。独裁者のエゴを貫くために計算され尽くした甘い言葉に、惑わされてはいけない」、「南北の首脳会談を必要としているのは北朝鮮である。そこを見誤ると、核を温存したまま国際包囲網を突破しようとする北朝鮮に手を貸すことになってしまう」という主張が展開されている。要するに、韓国の文在寅大統領に、北朝鮮の金委員長と会談してはならないと釘を刺しているのである。
 この社説を読んだとき、毎日新聞は正気でこんな主張をするのかと目を疑ったしまった。
 分断国家の一方当事国が他方の当事国に首脳会談を呼び掛けていることに対して、口を極めて反対しているからである。この社説を素直に読めば、毎日新聞は、朝鮮半島の分断状態が平和的に解決されることに反対しているかのようである。南北朝鮮の対立が解消されることは、朝鮮半島に平和をもたらすことになるし、ひいては、北東アジアの平和と安定に寄与することになる。それは、単に北朝鮮にとってだけではなく、韓国や日本にとっても望ましいことであろう。そのために、南北朝鮮の首脳会談は必要不可欠なプロセスである。それに反対することは朝鮮半島の平和を望まないということであろう。「平和攻勢に惑わされるな」という主張は、「非平和的に振舞え」と扇動していることと同義である。結局、毎日新聞は、文大統領に首脳会談を拒否して、軍事的解決をしなさいと勧めているのである。なんともおぞましい社説である。
 今、私たちが絶対に避けなければならないのは、朝鮮戦争の再燃である。仮に、北朝鮮と米韓(プラス日本)の軍事衝突が発生すれば、北朝鮮は、アフガニスタンのタリバン政権やイラクのフセイン政権のように消滅するかもしれないけれど、韓国や日本にも深い傷跡を残すことになるであろう。加えて、核兵器が使用されれば、その影響は全地球的なものになるであろうし、将来世代にも負の遺産を継承させることになるであろう。社説にはこの視点が全く欠けているのである。
 社説は、北朝鮮がこのような呼びかけをしたのは、経済制裁の苦境を打開するためであり、米国による軍事的圧迫も負担になっており、軍に不満がたまれば、権力基盤にも影響が出かねない、このような閉塞状態を突破するために対話に前向きな文政権に狙いをつけたのだとしている。合わせて、北朝鮮は大規模な軍事パレードを行ったし、その中でICBMも登場させた。北朝鮮には、核の放棄などする意思はない、とも指摘している。
 北朝鮮が、国際社会による経済制裁や米韓日による軍事的圧迫によって、国力を疲弊させ貧困や社会不安を増大させていることは容易に推察できるところではある。そして、その打開策を講ずることは、独裁者が支配しているかどうかにかかわらず政府としては当然のことであろう。それを異常な行動と責める理由はない。北朝鮮にも人民大衆がいるからである。また、対話に積極的な文大統領の姿勢が責められなければならない理由もない。
 社説はその対話を優先する姿勢も気に食わないようである。ついでに言っておけば、軍事パレードなど自衛隊もやっているし、ICBMを持ってはいけないという国際法規範はない。
 ところで、社説は、朝鮮半島の非核化につながらない対話は意味がないなどともいうが、米国の核や日韓がその核の傘の下にあることについては何も触れていない。日米韓の核依存(核抑止・拡大核抑止)を放置したまま、北朝鮮に核の放棄を迫ったとしても説得力はない。休戦状態にある当事国の一方が他方に対して核武装制限を迫っているだけだからである。毎日新聞の万能川柳欄に「俺は持つきみは捨てろよ核兵器」という句が掲載されたことがある。その伝でいえば、社説は「俺は持つおまえは持つな核兵器」という論理が北朝鮮に通用すると考えているかのようである。
 毎日新聞が、本気で朝鮮半島の非核化を望むのであれば、米国の核による北朝鮮に対する威嚇を解消することも合わせて主張しなければ、核超大国米国寄りの不公正かつ不公平な議論にしかならないであろう。北朝鮮に核武装を強いているのは、米国の核であることを無視することは半可通な議論でしかない。しかもその米国は、核兵器禁止条約を敵視しているだけではなく、核使用の敷居を下げようとしているのである。そして、日本政府はその姿勢に何ら異議を唱えないどころか、高く評価するとしているのである。
 北朝鮮提案を「独裁者のエゴを貫くために計算され尽くした甘い言葉」などと切り捨て、その提案に誠意をもって応えようとする文大統領の姿勢を「成果を急ごうとする危うい態度」などと冷ややかに見ることは、朝鮮半島の非核化を遠ざけるだけではなく、日本も巻き込む核戦争への悲劇を誘導する役回りを果たすことになるであろう。
 毎日新聞のこの社説はいたずらに感情的で、好戦的なものであって、到底賛同することはできない。一読者として猛省を促す次第である。(二〇一八年二月一二日記)